イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    ねこになりたい 同僚について、不満がないかと問われれば山のようにある。例えば勤務態度が褒められたものじゃないとか、日常業務全般についてやる気がないように見えるとか、閑散期となるやさぼる口実を探しはじめるとか。
     不満はあったが、少なくとも信頼はしている。本分をわきまえて仕事はきっちりとこなすし、責任についてよく知っている。なんだかんだいって職業倫理が高く、警察官であることに誇りを持つ男だ。
     だから、無断欠勤など絶対にしない。
     定時になっても主が座る気配がない机を見て、しのぶはどうしたものかと思案した。しっかりしているとはいえ独り暮らしだ、なにかあったときに対応できないこともあるだろう。例えばぎっくり腰になって電話までたどり着かないとか。
     いくらでも浮かんでくる想像を払うかのようにふぅ、と一息ついてしのぶは立ち上がった。この場合、同僚としてやることはただ一つ。

     きっかり一時間と十五分後、熊耳に隊長代行を命じ、五味丘に留守を預けて、降り立ったのは入谷のはずれ。一度、書類を届けに訪れた後藤の家は、最上階の角から二番目だ。そのときに何かあったら助けてよ、と冗談めかして置き鍵の場所を口にしていた。郵便受けの上に張り付けた箱の中、そのあとに気まぐれを起こしていない限りまだそこに鍵はあるはずだ。二課を出る前に念のため電話を入れて、ベルをきっかり十回鳴らしてから、しのぶは自ら様子をうかがうべく愛車のエンジンを吹かした。
     後藤は一人で生活のすべてをまかなえる立派な大人であるし、家族だって存命だ、あるいは余計なお世話なのかもしれない。しかし、連絡が取れないことがしのぶの心にさざ波を立てる。組織に属する立派な大人だからこそ、連絡がないままなんてありえないことなのだ。
     二課に来る前、後藤がどこの部員だったか、そしてどんな人間だったか。恐らくあの場所で唯一知っている立場からこそ、万が一がいくつも脳裏に浮かんでは消える。まず今やるべきことは、この目で事態を確かめて、それらの不安を払拭して、そして一体何をしているのかと、しっかり叱咤しなければ。
     恐らくは風邪かなにかで動けないに違いない。しのぶは自分にそう言い聞かせた。見つけたら即病院に連れて行って、そしていつものように小言を口にするのだ。電話を常に傍に置いておいてとか、携帯の短縮に私の番号を入れておけばこういうときに助かるでしょ、とか。
     無数の人の靴によってすり減って磨かれた階段を上り、目的の部屋に到着し、こほんと小さく咳をして気合いを入れてから、一度ベルを鳴らす。もう一度。そして中から音がしないことを確かめてから、しのぶは今度は鉄のドアを軽く叩いた。
    「後藤さん、いる? 南雲です」
     そしてドアノブを手にすると、意外なことに、――そして恐ろしいことに、それは簡単に開いた。
     どっと冷たい汗が、背中を伝う。
     意識して深く呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから、しのぶはそっとドアを開けた。刑事部に所属したことはないが、それでも動作は身についている。いつ襲われても反応できるよう精神を研ぎ澄ませて、そっと玄関をくぐり、後ろ手でドアを閉めながらすばやく目を走らせた。2DKのこぢんまりとまとまった部屋は、ふすまが開いているのもあってすべてが見通せる。誰か、後藤だろうが全く知らない誰かだろうが、とにかく生きている人影を求めてかすかに顔を動かしたとき、奥の部屋からなにかの気配がした。知っているものに似ているが、まったく違うもの。しのぶは身構えようと深く呼吸をして。
    「あら、まあ」
     我ながら間抜けな声が出たと思った。あらまあ、なんてもんじゃない。
     とことこと歩いてきたのは一匹の猫だった。痩せていて、少し面長気味。茶虎の毛並みは短く、アビシニアンにも見える。猫を認めた瞬間、しのぶの口は勝手に動いた。
    「後藤さん?」
     猫はなぁ、と一声鳴いた。
     声を聴いたら、とたんにしのぶは納得した。この猫は後藤なのだ。
     ここは後藤の家で、公団ではペットは飼えず、さらに言うならここには彼しか住んでいない。よって、ここに居る存在は後藤であることから、この猫は後藤である。QED。
     それによく見ると、後藤らしき猫は目付きも眠そうなくせに人を食ったようだし、猫にしても猫背だし、いまだって人を舐めたような佇まいで、しのぶの前に静かに座ってみせる。しのぶは腰をかがめて、後藤らしき猫に目を合わせた。
    「ちょっとあなたなにやってるの。猫になってる暇なんてないでしょ」
     猫は、わかってるけど俺だってびっくりしているんだよ、というように、もう一度なぁと鳴いた。
    「こっちの言葉はわかる?」
     後藤猫はきょとんとしたと思ったら、脈絡なく後ろ脚で耳の辺りをカッカと掻きはじめる。心底猫になっているのか、分かった上で人をからかっているのか、いつもの態度のせいで皆目見当がつかない。
    「後藤さん、猫になったところ悪いけど。今すぐ戻れない?」
     いや、自分の意思で人になったり戻れたりするのなら、今日だってさっさと出勤しているに違いない。恐らく、いま一番困っているのは後藤本人だろう。人の意識があれば、の話だが。
    「まったくあなたって人は」
     はぁ、と息を吐いてから、しのぶは小さな声でおじゃましますとつぶやきながら家へと上がった。整頓された台所に、殺風景ながら掃除が行き届いた居間。どちらも人が活動していた形跡はない。居間の右手には拳一つ分開いた襖がある。しのぶは後をついて歩いてくる猫に「お邪魔するわよ、ごめんなさいね」と断って、そっと戸を引いた。カーテンが引かれ薄暗い部屋は、タンスと天井まで届く大型の本棚がある。本と棚の隙間まで本がみっしりと詰め込まれ、さらに畳にまであふれ、いくつもの柱としてそそり立っている書籍の群れはいかにも後藤らしいと言えた。部屋の中央には万年床が敷かれ、半端に捲れた掛け布団の中央が丸くくぼんでいる。どうやら、猫はここでうたた寝をしていたらしい。そして枕や布団の崩れ具合から、少なくとも夕べ寝たときには人間の形を保っていたようだった。
    「まるでカフカの『変身』ね」
     足元にまとわりつく猫に素直な感想を述べる。とはいえグレゴール・ザムサだって醜い虫でなく猫になっていたら、天寿を全うするその日まで穏やかに寝て過ごすことが出来たに違いない。
     さて、としのぶは覚悟を決めた。後藤はいないし、起こったことを推測するに足りる証拠になりそうなものもここにはない。ついでにいうなら猫を置いておくには、設備も食料も人手も足りない。
    「……来る?」
     一応、本人の意向を確認すると、猫は返事をする代わりにしなやかに玄関の方へと向かって行った。悲しき社会人の性といえるが、出勤はしたいのだろう、たぶん。しのぶが靴を履いて、念のため後藤の靴を持ち、置き鍵を手に部屋を出ると、猫もすらりと外に出て、しのぶが鍵を閉めるのをしっかりと見届ける。そして勝手に動くわけでもなく、しのぶの歩調に合わせて、ともだって歩き出したところで、しのぶはやっぱり猫は後藤だし、こっちのいう事をわかっているし、意思もあるのだろうと判断した。階段を下りて来客用駐車スペースのしのぶの車へとさっさと向かって行く姿は、猫なのにやはり人間臭い。
    「今日明日はごまかせると思うから、さっさと戻ってきなさいね」
     開いた運転席側から軽やかに乗り込み、迷わず助手席に座り込む猫に一応厳しい顔で言うと、猫はわかってるし、どりょくするからさあ、と目をしばたたかせた。
    「ったく」
     エンジンをふかすと、愛車はスムーズに加速を始める。骨の折れる一日になりそうだった。

     埋め立て地に戻ると猫はひらりとドアから降りて、駐車スペースからすたすたと二課棟へと歩いて行く。
     後藤さん、あなたそんなに職場が好きなの。だったら普段からその職務愛を態度に見せてちょうだい。
     心の中で文句を言いながら猫の後から玄関をくぐれば、ちょうど熊耳が二階から下りてきたところだった。
    「南雲隊長お疲れ様です。で、うちの隊長は……?」
     言っているそばから、猫は音もなく熊耳の足下をくぐり抜けて二階へと上がっていく。たった今あなたの横を通っていたわよ言えるわけもなく、
    「ぎっぐり腰で電話にも手が届かなかったんですって。とりあえず病院に放り込んで来たわ。今日一日、よろしく頼むわね」
    「わかりました。全力であたります」。熊耳は美しく敬礼をしたあと、ふと顔があきれたと心配しているをうまく混ぜ込んだようになって、「あの、後藤隊長はいつ頃……?」
    「病院から電話をよこすって言ってたけど、長引いてもせいぜい二、三日でしょうね、きっと明日にはよたよたと出てくるんじゃないのかしら」
     本当に困った人よね、と続けながら、自分に言い聞かせているような言葉だと、しのぶは思った。
     世の中よくできているのか、なにかがひと一人を猫に変えてみた、なんていう酔狂のバランスをとろうとしたのか、その日の東京は牧歌的に過ぎていった。大きな事件も事故もなく、ほどよく気持ちが緩められる凪の日だ。
     猫は二階の隊長室に入った後、迷いもせずに後藤の机に向かっていって、その後は椅子の上でのんびりと寝てばかりだ。あまりにのんびりとした姿に、なにいつもと変わらないじゃない、と嫌みを浴びせてみようかと思ったが、結局は飲み込んだ。置物だ頼りにならないと散々思っていたし直に言ったこともあったが、それは実際に存在して働いているからこそ口に出来る言葉であって、いるといないでは全く違うのだ。
     差し込んでくる日に照らされてほかほかと寝ている猫の姿にため息をつくと、しのぶはキーボードから手を離し、猫をみたまま頬杖をついた。
     先ほど熊耳に向かって口に出した通り、こうして待てるのはせいぜい二日か三日だ。
     それを過ぎても後藤が現れないときは、彼の家族に連絡を取って、いよいよ捜索願と失踪届を出さなければなるまい。そのとき、猫はどうしようか。姪っ子をかわいがっているというのだから少なくとも兄弟とはそれなりに親密だろう。ならば後藤が飼っていたらしい猫ですとでも適当なことを言って、家族に預けるべきなのだろうか。もしこれが後藤なら、いつか人間に戻るときには肉親のそばにいるべきだし、すべてはしのぶの思い込みで、やはり後藤ではないならば、形見として家族のそばに置くべきだろう。そう思う一方で、猫とはいえ成人した大人なのだから、あるとしたらだが、後藤本人の意思を聞くべきではないかとも考える。
     端から見たら滑稽なスラップスティックコメディかもしれないが、しのぶにとっては真面目で深刻な悩みだ。そしてそんなしのぶの悩みは知らないとばかり、猫は大きなあくびをすると体の向きを変えてまたうとうとと眠り始める。あなたのことなのにのんきなものね、とまた嫌みの一つも言いたくなったが、猫なのだと思うととげとげとした気持ちも萎える。
    「ねえ、なんで猫なのよ」
     もちろん返事があるはずもない。そしてあまりにも無防備に寝ている姿になぜか安心してしまって、しのぶはまた仕事へと意識を向けた。
     いつもの気を抜いている振りではなくて、本当にくつろげるというのなら、せいぜい猫のうちにくつろぐといい。
     後藤はいつも無駄に丈夫だと人に見せているが、ときどき胃をさすっているし、彼の部下ほどではないが数種類の胃薬をストックしていることも、しのぶは知っている。年を取ったら胃への負担がね、と言っていたが、実際は諸々を黙ってため込んで、内臓にいろいろと押しつけていっているのだろう。
    「出来れば、休みの日に起こってほしかったけど」
     そんなふうに、どうにもならないことを独りごちる。後藤の机に積まれた書類がいつ片付くのかを考えると頭が痛くなるが、猫をみればそれすらもばからしくなる。なのですべては明日悩むことにして、とりあえず今日を乗り切ることだ。このファンシーで馬鹿げた夢だって、きっと明日には覚めるに違いない。自分にそう言い聞かせるよう、小さくつぶやくと、聞いていたのかたまたまか、猫がぐぅと大きく鼻を鳴らした。自分の机でうたた寝をしているときの後藤もたまに鼻を鳴らしていたな、と思うとしのぶはなんともなにかおかしくなって、フフ、と小さく笑った。
     今日はとりあえず、猫は家に連れて行こう。心を読んだわけではないだろうが、さも安心したとばかりに、猫が大あくびをするのが見えた。

     奇妙な一日は穏やかに、ざわざわとして、そしてなんとも物足りないまま暮れていった。一応小さなボールに水を張り、お昼にエビチャーハンを頼んで具のエビを皿に盛ってみたものの、猫は水を飲むでもなにかを口にするでもなくただひたすら寝たり伸びたりしている。あまりにもおとなしいものだから、部屋に来た誰も「この猫なんです?」と気づくこともなく、しまいには自分以外この猫が見えていないのではないかとすら考えてしまうほどだった。
     実際そうなのかもしれないが、触ると少し固めの毛に覆われた、痩せた感触がしっかりと伝わってくるので、少なくともしのぶにとって、猫は実在するものだ。シュレディンガーの後藤喜一なんて馬鹿なフレーズが一瞬浮かぶ。観測者たるしのぶにとって猫は実在するし、さらには猫は後藤に違いないのだから、だったらそれでいいか。そんなことつらつら考えているうちに終業である。
     しのぶが着替えて片付けるまで椅子に気配なく丸まっていた猫は、鞄を持つのを見るやいなやすたりと床へと降りて、しのぶの先導を気取っているかのようにさっさと廊下を降りていき、戸惑いも迷いもなくしのぶの車まで歩いてきた。この図々しさを見ると後藤らしいと思い、同時にどこか臆病な風だったのにこんな堂々とした振る舞いが出来るあたりやっぱり猫だとも思う。
    「一応言っておくわね。今日は泊めてあげるけど、明日からはわからないわよ」
     助手席に向けてすごみをきかせてみたが、猫はきょとんとしてどこ吹く風だ。そういうところはやはり後藤らしさが残っている。うんともすんともない様子がなにか小憎たらしくなって軽く耳をつまんでみたら、気持ちよさそうに目を閉じて首を伸ばすものだから、思わずそのまま頭を荒く撫でてしまうと、さも当然と言わんばかりに猫があくびをした。全くもって小憎たらしい。
     と思ったら、車が環八に入ったあたりから、香箱のまましきりに首を伸ばしてきょろきょろとしはじめ、どことなく落ち着きがない感じになり、ついに車が駐車場についたときには、目を丸くしたまま固まってしまった。どうやら口でなんと言おうが入谷の家に放り込まれると考えていたらしい。
     なんとなく胸がすいた。人の好意をあえて無視しているから不意打ちされるのだ、ざまあみなさい。
    「ほら、降りて」
     猫をなだめる声を出しながら、助手席を空けて促しても、猫はそのままぴくりともしない。
     ああ全く、あなたはどんな姿でもそういうところが変わらないのよね。
     ため息をついてひょいと抱き上げると、ネコは抱っこが苦手とばかり固まってひたすら小さく丸くなる。
    「だから、今日だけよ」
     片手でうまく抱え込みながら引き戸を開けると、母親が顔を出し、「どうしたの、その猫ちゃん」と聞いてきた。
    「友人から一日だけと預かったの。部屋で面倒を見るわ」
    「なにか必要なものはある?」
    「一式揃ってるわ、ありがとう」
     どうやら自分以外にも猫は見えるらしい。よかった。
     まだ固まったままの猫を連れて部屋へと向かいそこで下ろすと、かの猫はきょろきょろと周りを見渡した後、見て回るでもなく部屋の隅で警戒を隠さないまま小さく丸まった。遠慮しているようにも慣れない場所でいじけているようにも、緊張のあまり固まっている見える。しのぶはベッドに座りももをポンポンとたたいて、
    「ほら、……特別に猫扱いしてあげるから」
     適切かどうかはわからないが、そう言いながら猫をみると、猫しばらくじっとしのぶを見つめてから、ぽつぽつと歩いてベッドに不器用に飛び乗ったあと、控えめにしのぶのそばにスフィンクスのように座った。呼ばれたから来てみたものの、くつろいではいなさそうだ。しのぶは指の先でせまい額をくるくると撫でて、もう何度目かはわからないが、大きくため息をついた。
     はじめは、やる気をなくして必要最低限のことしかやらない男にいらだっていた。
     次第に自分とは違うやり方だが、必要最低限のことはきっちりとこなすことと、あの経験が浅く一般人に毛が生えた程度だった部下たちをどうにかまとめていることは認めるようになっていった。
     やがて、うさんくささの奥の生真面目さを好ましく思うようになったときには季節は一回りしていて、これまでのど同僚たちより思いのほか頼りになると認め、そして厚い信頼を置いている自分に気がついた。
     過去と噂しか知らない本庁の友人たちは、あの男と一年組めた人はほぼいないらしい、偉いものを押しつけられて、と同情と好奇心だけを山のように寄せてくれたが、しのぶに言わせればこれ以上働きやすい相手はいない。確かに自分の能力をよく理解しているが故にやや秘密主義のきらいはあるが、後藤もしのぶを警察官として重んじてくれて、仕事については信頼しあい速やかに情報を共有してくれる。仕事の合間には軽口もたたくし雑談も交わすが、しかし余計なことは言わないし無駄口も叩かない。話していても黙っていても心地よい同僚というのはなかなか得がたいものだ。
     だからだろうか。今日一日黙って仕事をしていることがしのぶにはなにか不思議に感じられた。元々は一人で回していた部署だし、互いの出張や非番で顔を合わせないことなんてしょっちゅうだというのに、なぜか今日は言葉が交わせないということが重かったのだ。姿は猫だが後藤がそこにいるのに、あるいはいることにしているからこそ、意思の疎通が出来ないことが思いのほか堪えたのかもしれなかった。
     そういえば。おざなりに猫の頭を撫でながらしのぶはふとときどき抱いていた空ろさを思い出した。
     後藤への見方が腹が読めない男からなんだかんだいって頼もしい同僚へと変わっていくうちに気づいたことだが、どうやら後藤は弱音や愚痴をとことんため込む癖がある。つまり、しのぶのように喜怒哀楽を出すべき時に出して、その場で感情をある程度処理して次のことを考えるのではなく、さも自分は人としての感情が欠落していると言わんばかりに、とりあえず心をどこかに置いておいて、自分のことすら他人事として分析し、解決や処理をはかろうとする。
     しのぶには肩の力が入ってるとかいってきながら、そういう自分もまた、男という性や自分らしさという仮面に強く縛られすぎているのだ。
     ごくまれに、「いやぁ参ったね」とか「まあ、大丈夫でしょ」と小さくこぼしてため息をつき、あとはひたすら長考に入って、あるいは一人心の奥にこもって、自分の中の嵐が過ぎるのを待つ姿を、しのぶは何度か目にした。たまに、無意識だろうが胃のあたりをさするように手を置いたり、たばこを吸いに立つ回数が増えたり、水虫の薬を熱心に塗る振りをしたり。そういう素振りのときの後藤は、世界のすべてから距離を置き、そして誰も必要としないとその背中で語っているものだ。
     そのときに感じた、意思の疎通すらノイズとして拒む様子は、人の好意すらうるさいとのける野良猫にも似てはいなかったか。そうやってずっと黙って、誰かになにかをこぼすことも頼ることも潔しとせず。それは社会的に見たら強さであるかもしれないが、ひたすらに切ないものでもある。
    「……どうするのよ後藤さん」知らず知らずのうちに、言葉がぽろりとこぼれた。「そうやって黙ってるから、猫なんかになっちゃったのよ」
     猫は目をくりくりとさせてしのぶを見上げた。そういうことなのかな? とでも言ってるようにも見えるし、ただ猫らしい仕草であるようにも見えた。とたんに一人相撲のような気がしてきて、しのぶははぁと息を吐いた。
     こういうときはいったん気分を変えるに限る。立ち上がって寝間着を手にした瞬間、猫もまたすっと立ち上がった。
    「……お風呂に行くだけだから」
     寝てなさいよと言ったのを聞いていないのか、猫はそのまますたっとラグへと下りる。しのぶはふと不審を抱いた。
    「まさか、ついてくるつもりじゃないでしょうね」
     猫は床でぴたっと止まった。そしてさもかわいいでしょ、と瞳孔をまん丸にして見上げてくる。
    「あなたね、猫の姿ならなにしても許されると思ったら大間違いよ」
     せいぜい冷たい目でにらみつけると、びくっと体が固まった。
    「まったくあなたって男は」
     ちょっと同情しかけた自分が間違っていた。なおそろりと動こうとする猫にしのぶはきびすを返して、ドアをぴしゃりと閉めてやった。

     四十五分ほどリラックスすれば体も心もほぐれていくというものだ。
     心地よい温かさとともに部屋に戻ると、床でいじけるように丸まっていた猫が勢いよく身を起こして、澄ましている風に座って迎えてくれた。猫一人で退屈していたのかもしれない。
     またベッドに座ると、今度は遠慮もなく、しかもスムーズにそこに飛び乗ってくる。その様になりようになにか胸が騒ぎながらも、しのぶはつられるようにまた親指で額を撫でてやった。猫は気持ちよさそうに目を閉じる。すっかり順応しているかのようだ。耳のあたりの温かさが気持ちよくてさらに指でちょいちょいと撫でると、猫もつられるように体を伸ばし、ついにしのぶの太ももに手を乗せてのんびりと顎も乗せた。まさに猫だ。
    「こうしないと甘えられないんだとしたら、あなた相当に問題があるわよ」
     あきれたように言っても暖簾に腕押しというやつだ。これは猫だからというよりは、すべてを流してなかったことにしようとする仕草なのかもしれない。
     ――そもそも後藤は誰かに甘えることをしない。
     しのぶはまた、先ほどの空ろうものを思い出す。
     実際は誰か、例えば地元の親しい友に弱音を吐き、甘えるのかもしれない。たまに松井と話しているのを見る限り、男同士なら遠慮なく懐を開くのかと思うこともある。
     しかし一方で、後藤という人間は誰に対しても線を引き、相手に応じて仮面を変えながら飄々と振る舞うことを自分に課しているようにも、しのぶには思えた。
     軽妙であることは後藤の自然な仕草であると同時に、そうしようと決めた姿でもあるのではないか。そうして内に秘めたままのものがまれに昇華するまで、大抵は深く沈むまで、ただ黙ってやりすごす。言い換えれば、人のために叱り、気を配り、労ることはあっても、自分のために吠え、嘆き、慰めを求めることはとことんおざなりにするのだ。すべての悲しみも苦しみも、自分のものと言わんばかりに。
     そうして素知らぬ顔をして黙っているのなら、言葉を持たないものになっても後藤は困らないのかもしれない。いつだって、肝心なことはなかなか口に出さないのだから。
     臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の間で揺れて虎になるなら、猫になるのはどういうことなのだろう。
    「そうやってため込んだ愚痴に、飲み込まれたんなら世話がないわよ……」
     できるだけいつも通りのあきれた口調でいうと、猫はきょとんとしてから体をちょっと起こして、さらにしのぶの上へと乗ってきた。手を伸ばして、乳の下の方まで触れてきて、遠慮なく何度か揉んでから、そのままあくびをする。しなやかな身体の動きは成猫ならではものだ。
     瞬間、しのぶはぞっとした。
     それは、朝はそれなりに人間くさい動きをしていたものがいつのまにかけものそのものの動きになっていたことに気付いたからで、同時に、はじめから自分は猫を後藤と思い込むことで現実から目を背けようとしているのではないかという、あえて無視していた一番まっとうな説が急に脳に響き始めたからだ。
     驚愕するしのぶを心配したように猫がまた手を伸ばして、胸のあたりを触れてきた。あどけない仕草で。
    「ちょっと、あなたなに猫に順応してるのよ」
     しのぶは混乱のままに猫を抱き上げた。
    「キスでもすればいいの、それとも真実の告白? お願いだからしっかりしなさいよ後藤喜一」
     しのぶの声ににゃあ、と返答する姿についに勝手に恐怖を覚えて、やや乱暴に抱き上げた。
     顔を見る。
     面長ながらあどけなく、そして自分が猫あるという自覚すらない無邪気な目がそこにあった。
     これは猫だ、違う、これは何だ。あの男はどこにいったのだ。あの男は。
     混乱と恐怖から、手にしている猫すら異形に感じ、性急な仕草で、投げ下ろすかのように乱暴に床へと落とし――

    「あれ?」

    「……え?」

    「……あの、まだ夢? なんでしのぶさんの部屋なの?」

     見つめ合うこときっかり十五秒。ラフなジャージ姿のまま、後藤は居心地悪そうにしながら目を丸くして、ついに間抜けな声で「やあ」と片手をあげた。そして心底申し訳なさそうな顔と心底情けない声で、「こんなよくわからない状態で悪いんだけど、お手洗い、貸してくんない?」
     夢の中とはいえずっと我慢してたからさあ、という後藤にしのぶは「下、階段のすぐ脇」と呆然と返して、そのままさらに言葉がこぼれた。
     変身だ山月記だと思っていたが、これは。
    「カエルの王さまだわ……」

     長くいつまでも覚めない夢を見ていたつもりだったと、後藤はしみじみとした口調で話した。
     いそいそと手洗いに行き、居心地悪そうに帰ってきたと思ったらぐぅと腹を鳴らした同僚のためにしのぶは優しさを発揮して、トーストにバターとママレードをつけて、ミルクたっぷりのカフェオレとともに差し出してあげた。自分には砂糖を落としたホットミルク。奇妙なパジャマパーティのようだが、なぜかとてもほっとしていた。ホットミルクの効能ということでいいだろう。
    「なんだろうね、夢だって思って過ごしてるのに、人間として皿からご飯食べたりこのままトイレに行くのだけは絶対いやで」
    「後藤さんらしいわね」
    「そうなのかな」
     もそもそと食パンを口にしながら、後藤は自分ではわからないなあと続ける。
    「夕べうとうとしたあと、目が覚めたら猫になってる夢を見ててさあ。猫なら出勤しなくていいかって思ってたら、なんでかわからないけどしのぶさんにあちこち連れて行ってもらって、脈絡があるんだかないんだかわからないうちに本当に眠くなってきてさ、ない? 夢のなかで眠くなるの」
    「夢はあまり見ない方だから」
    「そっか。ともかく、ああこのまま眠るのもいいなあって思ったら、急に衝撃で起こされて」
     つまり、あそこでやや乱暴に猫を投げた結果、後藤はようやく夢から覚めたというわけか。おとぎ話にすがってキスなど試す前で良かった。
    「そんなわけで、って俺が一番なんだかわかってないんだけど。でも、今日きっと山のように迷惑かけたみたいで。……ありがとうね」
    「今度まとめて返してもらうから、しっかり覚えててね」
    「誠心誠意努力します」
     最後の一口を食べ終わり、ややぬるくなったカフェオレを口にして、後藤はようやく一息ついた。
    「で、どうだったの」
    「なにが?」
    「猫になってみて」
    「どうってねえ……」
     あぐらのまま顎を上に向けて、後藤は天井の向こう側を見つめた。
    「夢だと思ってたからだろうけど、なんも考えなくていいし、自分っていう自覚も曖昧で、だから特になにもないんだよねえ。シンプルっていったらシンプルだったけど」後藤はふっと口元を緩めた。手で雑に整えただけの髪と合わさって、見知らぬ青年のようにも見える。しかしそれは一瞬で、すぐに見知った年相応の男の顔になって、「でもパンに乗ったバターがうまいし、やっぱ人間っていいもんだわ」
    「パンとバターで?」
    「そう、あとたまの、牛乳たっぷりのコーヒーと、それから……。ありがとう、本当」
    「いいのよ」
     後藤が言葉をごまかしたのと同じように自分もなにかをごまかしたくて、だいぶ冷めてきたホットミルクを口にしながら、しのぶはできるだけ素っ気なく告げた。
    「明日からまた真面目に仕事に取り組んでもらえれば結構です」
    「頑張ります。……って、だって猫になるとか、普通そんなこと起きないでしょ、なのになんだかなあ」
     ぼやく後藤にしのぶはまあねと同情した。世の中、神様か意識も出来ないなにかが気まぐれを起こしたとして、そこに巻き込まれたら、ただお気の毒としか言いようがない。
    「でも少しはいいことでもあったんじゃないの」
    「いいこと? そうねえ」
     おそらくは無意識に、後藤の視線が手の方へと落ちる。なにかと怪訝に思ったのはほんのひととき、しのぶはすぐに地を這うような声を出した。
    「後藤さん、ところで、いつ頃までその夢のなかにいるようだったのかしら……?」
    「いつ頃って、ついさっきっていうかベッド……、あ、いや、違うの! 別に胸に触りたいっって思ったんじゃなくて、自然にさ、だって目の前にあったかそうなものがあって! ほら、だいぶぼんやりしてたしでも」
    「問答無用!」
     投げられたティッシュの箱は、見事すこーんと音を立てるように後藤の額にスマッシュした。

     深夜の成城は音もなく、ぽつぽつと街灯が生け垣にレンガ、ブロックの壁にスポットライトを当てているようだった。
     ジャージ姿だし家まで送ると申し出たしのぶに対し、後藤はさすがにそこまではしてもらえないと丁重に辞退してから、また情けない顔になって「でもなにか丈の長いコートとタクシー代、貸してくれない?」と頼んできた。セーターを中に着るためにと選んだ、大きめの黒いチェスターコートは、男女兼用のものとはいえ、後藤には窮屈そうだ。しかし形のよいコートは後藤のシルエットをシャープで洗練したものに整えていた。
     もう日付も替わり、二人にとって奇妙な一日はなんとか過去へと運ばれていって、ここはもう平凡な日常だ。
     母親が寝たのを見計らって外へと出て、呼んだタクシーが来るのを待つ間、しのぶはそっと隣の後藤に声をかけた。「ねえ」
    「なに」
    「今度またなにも考えたくなくなったときは、一人で抱え込む前に相談でもしてちょうだい」
    「また猫になられたら困るって?」
    「当たり前でしょ」
    「だよね。……ごめん」
     しのぶは答えず、タクシーが来るはずの道の向こうへと視線を向けた。
    「……猫になられるぐらいなら、添い寝ぐらいなら、してあげるから」
     口の中で転がすように、早口でささやいた声は果たして正確に伝わったのかどうか。目だけ後藤の方に向けると、男は顔をほのかに染めて虚を突かれたかのように目を見開いていたが、やがて和らいだ顔になって、同じくらい小さな声で答えた。
    「じゃ、そうしようかな」
     そして二人の視線が合ってどちらともなく笑ったとき、向こうから、タクシーであろうヘッドライトが近づいてくるのが見えた。

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 14:58:48

    ねこになりたい

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/04)

    #パトレイバー #ごとしの
    2018年5月、スーパーコミックシティで発行した『ねこになりたい』に収録した一編です。後藤さんがねこです。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    OK
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品