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    強い気持ち、強い愛「あら、そろそろ誕生日よね」
    「あ、そうだったっけ。すっかり忘れてたわ」
    「本当に忘れてたっぽいのがあなたらしいわね。優しい同僚がなにかプレゼントでもあげましょうか」
    「だったら、しのぶさんがほしい」
    「はい?」
    「しのぶさん」
     そうして少しだけ笑うものだから、しのぶは思わず固まったあと、やれやれという風に眉間にしわを寄せた。
    「セクハラはご法度」
    「セクハラじゃなくて……イデデ」
     加減しつつもほっぺをつねりあげてやると、男はやや大げさに痛い痛いと言いながら涙目になる。
    「冗談抜きに、なにがいいの」
    「だから、しのぶさん」。後藤は私をしのぶの目を見た。柔らかいが本気の目だ。「定時のあと、付き合ってよ」。
    「どこに」
    「そうだな…、銀座かな」
     どう? と改めて問われて、しのぶはいいわよと頷いた。そもそも断る関係ではないし、どこかの店で二人、手の込んだ美味しいもので祝うのは素晴らしいことに感じた。
    「じゃあ、その日は二人でバスね」
    「いっそ高速艇で晴海まで送ってくれないかな」
    「後藤さん」
    「すみません」

     四十代になるとこれから一年でなくここまで一年になるよ、と後藤がぼやいた誕生日当日は、珍しく後藤が先に隊長室にいた。
     嬉しいけどめでたいではないなあとか言いながらも、その実そこそこ嬉しいらしい。一日中しのぶの顔を横目で見ては、どこか照れるように目をそらす。
     夏の終わり、蹂躙されぼろぼろになってもなお日常が続くなかで気持ちが通じ合って、思えば互いの肌を知ってからはじめての何らかの記念日になるのか。そう意識すると後藤の照れが伝染して、結果どこかぎこちない空気が部屋に充満してしまう。
     どこかぎこちない二人はともかく、本日の東京は平和そのもの、めてたいことに事故も強盗もないまま夕方となった。定時になり、後藤が隊に指示を出しに行く間、しのぶが先に更衣室を使う。思えば男女で同じ部屋を使うことに揃ってなんの不満も違和感もないまま始まった関係だ。しのぶはただ無関心だっただけだが、後藤はどうだったのだろう。いまは互いの下着を見ることも日常の一部だ。いつもより肌触りのよいシャツに身を通しながら、はじめから自分たちはどこか外れた関係だったのだと、しのぶはつらつら考えた。後藤が大抵の男性のように、男女には性の関係しか結べないと決めつける古い人間でなくてよかった。だから抱く抱かれるという関係になったいまも、しのぶはそこに縛られることなくただの個人として萎縮も抑圧もなく働けている。
     ドアを開け部屋に戻ると、すべての業務を終えた後藤がロッカーの順番待ちをしていて、しのぶの洗練されたラインのニットシャツに体の線を美しく描くタイトスカート姿を見ると、たちまちに相貌を崩した。
    「今日もまたべっぴんさんだね」
    「お世辞をどうも。大事な人の誕生日ならきちんとしていたいでしょ」
     後藤が微かに頬を染めたのをみたしのぶは、本当に直球に弱い男だと内心で微笑んだ。ふだん飄々としてなにを考えているかを決して見せない男が、たまに見せる素の部分がたまらない。
    「それに銀座に行くんだから、普段通りとはいかないでしょ。どこに連れていくつもりなの?」
     しのぶの問いに後藤は悠然と答えた。
    「さて、どこでしょう」

    「……ここ?」
    「そう、ここ」
     全面ガラス張りの、スタイリッシュなビルは、イタリアでも老舗のファッションブランドの旗艦店のものだ。
     六時過ぎに二人で二課を出て、すぐに食事に行くと思いきや最初に連れていきたいと案内されたのがここだ。友人らと素敵よねと前を通り過ぎることはあってもくぐったことはない扉を、後藤はなんの気負いもなくくぐっていく。確かに普段からさりげなく三つ揃えだし、休みの日に私服でなぜか二課にいるときも、襟付きのポロシャツなどできちんとした服を着ている男だが、そして今日のスーツも確かに品のよいウールのものだが、しかしギャップがありすぎる。くらくらとしていると、後藤がこちらを振り向いて入店を促してくるものだから、しのぶは慌てて後を追った。
     自分だって管理職だ。男性である後藤ほどではないがそこそこの給料をもらっているし、高級ブランドといえども既製品ならば無理をしないでも充分買える。しかし、縁がないと思っていた、洗練されたプレタポルテのスーツやスカートのしなやかなラインと触らずとも手触りがわかる布地は、しのぶの目に馴れず、ゆえに心の中で無駄に身構えてしまう。あるいは着飾るということと、自分のためであっても、男性によって勝手に陳列され、そして「女性」としてしか扱われなくなるという消沈がどこかで結びついているのかもしれなかった。
     そんなしのぶの複雑な心境が尻込みさせてるのを見てとったのか、後藤がふっと優しい目になった。
    「一回やってみたかったんだよね」
    「こういう店に入るところ?」
    「いや、どっちかというと」
     後藤はそこで一瞬だけ言葉を切って、次にいきなり話を変えた。
    「スーツってさ、いいものを着ると気持ちいいじゃない。普段はなんでもいいんだけど。着道楽とまではいかなくても、機能美と装飾美のせめぎ合いの結果が、例えばこのシャツでさ」
     後藤はその辺にあったシャツを指した。一枚で六桁するそれは、自分で買えないわけではないが、しかし欲しいかといえばいらないと即答するものだ。後藤は店の回りを見渡して、最後に改めてしのぶを見た。
    「夏にここの店の前を通ったときに、淡い青のドレスが飾ってあってね、そのとき、しのぶさんに似合うだろうなって思ってたんだ。だから」
    「だからその青いドレスをって?」
    「いや、自分の好みの高いものを人に与えて悦に入るなんて、人を囲いたいだけの男みたいでかっこ悪いじゃん。だからさ。プレゼントさせてよ、しのぶさんの好きなものを」
    「なあに、それじゃあべこべじゃない」
    「いいから、例えばこれなんてどうよ」
     しのぶの呆れを無視して、後藤は浮かれているかのような身軽さで、バレエの振りのように一つのスーツドレスを指さした。クラシカルな形にすらりと伸びるスカート。触れたらうっとりとしそうな光沢の布。しかし、
    「だったら、こっちのほうが好みかしら」
     そう釣られるように、二つ隣にある、もう少しサバンナのようなデザインのものを指す。その時、二人の様子を見ていたマヌカンが、冷やかしではないと判断したのかついに音もなく横に立った。
    「お客様、本日は」
    「彼女に、とっておきのものをプレゼントしたくって」
     後藤が練習した台詞のように滑らかに答えると、マヌカンはかしこまりました、と上品に返す。そうなればもうすべてはマヌカンの思うがままだ。しのぶはいまだ混乱していたものの、マヌカンの勧めるまま服を合わせるたびに後藤が嬉しそうに笑うものだから、ついには迷いを心に仕舞うことにした。
     さきほど自分で言っていたように、立場と力を誇示するべく高級なものを女に贈って満足するような古くさい男のようなことをしたいのではなく、本当にしのぶになにか特別な贈り物をしたいだけなのだ。ところがしのぶの誕生日は相当先だから、だったらと今日にしたのだろう。恐らく、ややこしいことに。
     時に後藤の感想を交えながら三十分ほど吟味して、結局海に近い淡い緑の、強く美しいデザインのワンピースと、濃い青のスタイリッシュなテーラードがしのぶの手元に残された。普段白やベージュといった淡いものばかりなのだが、着てみると強い色がアクセントとなりなかなか似合っていて、普段のマニッシュともフェミニンとも違う装いは、いかにも特別な一着という雰囲気を醸し出している。
    「お支払いは」
    「一回で」
     後藤がそういって自分と同じ色のカードを切っているあいだ、しのぶは改めて店を飾る色とりどりの服を見た。
     どれも、今日の夕方まで縁がなかったものだ。ファビュラスで、グラマラスで、そしてオーナメントなもの。
     女性としての価値を求めないわけも否定することもないが、ただ社会から女性としてのみ値踏みされ、要求されるのはもうこりごりだった。だからというわけではないが、やはり必要以上に着飾るという行為は、どこかもぞもぞとしてしまう。そしてなにより、正直なところ、プレゼントされることそのものが、とてつもなく気恥ずかしいのだ。いまも後藤が手にした、上質なデザインが施された紙袋はしのぶを面映ゆくさせる。そうして二人はまた、銀座の雑踏へと戻っていった。灰かぶりが舞踏会から帰ったときほどではないが、それでも、ひとときだけの非日常は文字通りの幻のように感じる。手にはガラスの靴のような、服が一そろい。
    「ねえ、後藤さん」
     幻の手触りに何とも言えぬ居心地の悪さを感じて思わず呼びかけてみたものの、この戸惑いをどう伝えるべきか、一瞬だけ言いよどむ。拒否をしたいわけでもないし、嬉しくないわけでもない。ただ、持て余してしまうのだ。
     するとしのぶの顔をちらりと見た後藤がささやかに微笑んだ。飾り気のない、少しだけ寂しそうな笑顔だ。
    「……大学の時に付き合ってたのはさ、ブレヒト演劇に真剣に取り組んでたような子だったんだ、だから、警視庁受けたっていったらそや怒ったこと怒ったこと」。ふと、遠くを見るような目になって、「付き合い始めたころは新聞社受けるって言ってたから、権力として監視される側に回るとはなにごとなのって」。
    「同級生だったの?」
    「同じゼミでね、大学卒業したら結婚しようって言ってたんだけど、結局卒業式も出ずに、ソ連の演劇を研究するって国出て、それっきりだな」
     後藤が過去について話すのは珍しいことだったので、しのぶは黙って続きを促した。
    「そう……しのぶさんみたいな、目が強い子でね。旧友のところで適当にさぼってると、ゼミなんだから出て来いって怒鳴り込んできて」
    「なあにいまと変わらないのね」
    「やだなあいまは真面目じゃない」
    「どうだか」
     こたつではんてんを着て、髭もそらずぼさぼさの頭のまま、自堕落に本を読んでいる若い後藤があまりにも容易に想像出来て、しのぶは小さく笑った。
    「その友人は今も元気なの?」
     無邪気な問いだったが、後藤は一瞬だけすべての表情を失った。「さあ、元気なんじゃないの?」。彼が心の奥に持つ冷たい壁が露わになり、そしてまた覆い隠される。
    「バブル直前に公務員になるやつなんて変わり者扱いでさ、大学のやつらとはそれっきり」
     またいつもの調子に戻って軽い調子でいう後藤に、しのぶもあえて乗った。
    「あらそうだったの。とはいえ、私も環生に桂子にって、高校からの付き合いばかりだわ」
    「長く付き合える親友がいるっていうのはさ、人徳があるからだよ」
    「ありがとう、でもあなただってご近所にあれだけ友達がいたら充分でしょ」
    「あ、三徳の大将がさあ、今度いつあの別嬪さんが来るんだってうるさいんだよね」
     美味しい馬肉仕入れておくって、って笑顔で話す後藤はもうよく知った顔で、しのぶはどこかで竦んでいた身体をこっそりと緩めた。
    「じゃあ大将に、また近々お邪魔しますってお伝えして。歳末特別警戒になる前なら時間も取れるから」
     後藤の行きつけだという入谷の居酒屋は、もつ煮とやや厚めに切られたハムカツが美味しいのだ。遅番でも注文が間に合う時間までやってるからという理由で贔屓にしてるというが、入谷に泊まるときは、そこで二人で遅い夕飯を食べてから帰るのが常となっていた。
    「それにしても、大将良い方よね。初めて行ったときもとてもよくして頂いたし、あなたの連れってそんな珍しいの?」
    「珍しいっていうか、考えすらしなかったんじゃないかな。あの人、俺が真っ当に人と付き合えないって知ってるから」
     赤信号に当たり、二人は足を止めた。
     後藤が銀座の雑踏へとぼんやりと目をやるから、しのぶも釣られて、きらびやかに飾られた通りを見る。街には仕事帰りの会社員や、観劇帰りなのか着物の集団が溢れていて、みな疲れていたり楽しそうにしながら、日常を行き来している。ショウウィンドウはどれも絢爛に飾られていて、その光に包まれた自分達も、今は普通のカップルに見えるのだろうとしのぶは思った。あるいは、共働きの夫婦か。
     ただ、いつもより背筋を伸ばし、質のよい黒のコートに身を包んだ後藤は、やはりどこかここに溶け込め切れてないように見える。ただそれは、しのぶが警視庁における後藤の過去を知っているからであり、さらに先ほど、彼が一瞬だけ見せたものが、しのぶの心にセロハンを掛けたからかもしれなかった。だからか後藤の自分を茶化したふりをした、その実卑下た言いまわしも、抱えてきた本音の吐露なのだろうと感じてしまう。
     しかししのぶはその憶測を胸の奥にしまい、彼への複雑なセロハンをおくびにも出さずに後藤の横で信号を待った。
    「そうしたら、珍客が常連になるまでは通いたいわね。突き出しで出してくれたたこの煮物も絶品だったもの」
    「しのぶさんなら、今日行っても常連扱いだよ」
     歩行者信号が青に変わり、人波と共に二人も道を渡る。並木通りの真中にある小さな懐石が今日の元々の目的地だ。誕生日に付き合ってほしい、と言われたあとに、昔本庁の何某のおともで暖簾をくぐり、先付けの柿の白和えを食べたその時から、とっておきの日に再訪するのを心待ちにしていたのだと、後藤は熱心に説明してくれたものだ。彼が積極的に忘れたがっている、まだ権力ゲームに興じるお偉いさんたちの懐刀として重んじられていたころの思い出だというのだから、嫌な記憶を翳ませるほどの逸品ぞろいに違いない。器もいいものだったはずだからしのぶさんの目にも適うよ。そう言って小さく無邪気に笑った後藤に、しのぶは素直に楽しみだわ、とだけ返した。後藤が望む通りに、その店を思い出すときには自分の顔だけが思い浮かぶようになればいい、と心の中で付け加えながら。
     二人はそのあとは会話も特になく、淡々と銀座を日本橋の方へと歩いていく。自分が持つからと後藤の肩に背負われたままの紙袋が目に入る度、そこに詰まっている非日常がしのぶの首筋をなでるようだった。
     時折吹く十一月の風はカラカラに冷たくて、街路樹が渇いた葉を鳴らす度、行きかう人々も、しのぶも、そして後藤も無意識のうちに身をすくめる。と、後藤が突然ぴたりと止まって、そっとしのぶの方へと向いた。
    「どうしたの、突然」
     店の看板が見えているからここだよ、とでもいうのかと思ったが、後藤はなぜかなにかを迷うようなそぶりを見せる。そして、
    「……俺さ、大学のときの友人とも連絡取ってなくて、だからあまり人と付き合うこともなくて。疑うことが仕事だからね、部署の先輩の妹とか友人とかを紹介されたこともあるけど、みんな普通なもんだから、結局今日まで寂しい独り身だったわけよ」
    「なにさりげなく自分を普通から除けてるの」
     しのぶの突っ込みに後藤はかざりけなく笑った。
    「ま、なにを言っても言葉遊びで、つまりは好きでずっと一人でいた。って、思ってたんだよね」
     表通りから三本ほど入った細い道は、時折車が通るものの人通りは少なく、静穏で浪漫的である。凍えるほどではないが体温を奪う晩秋の夜に、ビルの窓から落ちるほのかな光に照らされてる後藤は、傍から見たら独りでこそ絵になる男だ。夜に属する男は、しかし、いま、目の前の女性に向けて、他の人が見たら自分の目を疑うような、それはそれは好い笑顔を見せた。
    「だから、人にプレゼントをしたい、プレゼントをしてもいいんだってなったとき、幸せってこういう気持ちだったんだって。大人の言うべきことじゃないんだけど……いいもんだね、人といるっていうのもさ」
     こんな風にあなだだけを待っていたと、そうストレートに告げられて、心を打たれない人間が果たしてどれだけいるというのだろう。あまりのことに言葉が出ないしのぶに、後藤は照れたように目を明後日へと向けた。自分でもまっすぐものを言いすぎたとやっと気づいたのかもしれない。しかし、そこは開き直ったかのように、
    「だからさ、見栄、張らせてもらっちゃった。今更なんだけど……、今日だけでいいから、俺のためだけに付き合ってくれない?」
     誕生日に欲しいものは、って言われたとき、あなたしか思い浮かばなかったから。そう告げられて、しのぶはようやく、ブティックでの推測が当たっていたことを確信した。
     例えば大事な人に、相手のことを想ってとびきりのものを選んで。そんな他愛ないことからは最も縁遠いと自ら認めるこの男は、望む望まざるにかかわらず、トレンチコートに身を包んだ探偵のようにふるまうことを期待されそして強要される、そんなストイックな場所に長く居すぎたのだろう。
     しのぶは寸秒だけ、どう後藤に言葉を返すべきかを迷った。が、あえていつも通りの口調を作った。
    「答えはもう知ってるくせに。それに、今言う事?」
    「いや、言いそびれちゃってて、でもやっぱり、食事する前に言わないとって」
    「言いそびれたんじゃなくて、口に出すことをためらってたんじゃなくて」
    「厳しいねえ」
    「当たり前じゃない」
     しのぶは一歩だけ近づいて、手の甲で後藤の骨ばった頬を、そっと撫でた。
    「明日からもずっと、呆れるほどの平凡をあげる。だから、あなたも退屈をちょうだい」
     そう言って鼻をつまんでやると、後藤は虚を突かれたように目を丸くしてから、穏やかに「うん」とだけ頷いた。
     その様子があまりにも朴訥なものだから、しのぶは一瞬だけ、かすめるように唇を奪ってやりたくなる。しかしその欲望を上手く収めて、かわりに左腕へと目を落とした。そろそろ店の扉を開けてもいい頃合いだ。後藤もその太い左手首に目を落として、「そろそろいこうか」とまた歩き始める。すぐ目の前にある小さなビルの六階が今日のそもそもの目的地だ。丁寧に作られた八寸や椀もまた、ハレに属するもので、後藤が自分の誕生日をハレと思えるというのなら、それに越した幸せはなかなか見つからないものではないか。
    「それにしても」
    「なに」
     エレベーターホールで上を押した後藤の隣で、しのぶは改めて紙袋を見る。
    「……なんでもない。ほらエレベーター来たわよ」
     そうやって言葉を流して二人でゴンドラに乗りながら、しのぶは内心で改めて思いを巡らせた。
     クリーニングに出すのも躊躇するような、まさに非日常のための服だ、綺麗な形で着られるのはせいぜい二、三回といったところか。その数回の特別を慎重に選んで、そうして自分のために着飾って相手と歩くような、そんな普通の幸せを、私も最近忘れていたと伝えたら、後藤は果たしてどう返すだろうか。
     後藤は自分で揶揄するほどひねくれているわけではなく、しのぶに言わせれば、慣れるまで付き合いにくく癖は強いが十分真っ当な男だ。一方しのぶはしのぶで、気質こそ荒いが、ウーマンリブに生きる女性ゆえだと納得しているし、生来の生真面目さは社会の規範から見たら充分規格外だというのも理解出来る年になった。昔はそこにどうしても息苦しさやもどかしさを感じたものだが、この男と働くようになってから、ようやくいわゆる普通から解放されたのだ。だからいま、こうして二人で平凡な恋を分け合っているのである。
     ポン、と高い音がなって、後藤のエスコートに従いながら、しのぶはいま、あたたかな気持ちで満たされていることに気が付いた。
     先程、しのぶが口にした言葉の意味に、果たして後藤はいつ気が付くのだろう。私人としての自分をどこか信頼していないから、恐らくは当分気付かないことだろう。だとしても、こちらの気持ちはもう決まっているのだから、あとは静かに後藤が腹を決めるのを待つだけだ。
     二人のルールが変わるその瞬間にはきっと、灰かぶりがガラスの靴を手にしたように、自分もこの服を着ているに違いない。なぜかそれだけははっきりと分かって、しのぶはひとり微笑んだ。その前に、まずはなにかお礼をしなくては。非日常のお返しに相応しい、日常から離れたなにかを。
    「ところで後藤さん、年末のシフトだけど」
    「調整の話?」
    「そうね、調整といえば調整かしら」





     年末も近づくと街はイルミネーションにあふれて、あたたかな電球色に雪のように涼やかな青白い白色が木や壁を飾るようになる。吐く息が白いほどに、光の明るさが増すようで、冬にあって確かに夜はメルヘンの世界だと、後藤は街路樹の下でしみじみと感じ入る。
     人というのは基本身勝手なもので、去年までの後藤ときたら、イルミネーションなんて商業主義丸出しだしただの電気の無駄だとか、木にストレスになるんだよねとか、配線が機体に引っかからないように動くのが面倒だとか、そんな合理的なふりをした、斜に構えるふりをした素直じゃないことしか言えなかった。まず自分から最も縁遠いものの一つだし、次に笑ってしまうほどに似合わない。下町生まれの下町育ちなものだから、同じ参道であっても自分がいるべきは昼間からキンミヤ焼酎を片手に外からの参拝客を眺めるような場所であって、東京のイルミネーションスポットとしてまず名が上がる表参道なんて私生活ではまず足を運ばない。あえて言うなら、季節を問わず要請を受けて出動するたび、集まってきた野次馬の歓声と罵倒が混ざる、おしゃれな装いの下に隠したぎらぎらとした若さばかりが溢れる、騒がしく縁遠いだけの場所だった。
     なのに今年はどうだ。
     午後十時を過ぎた表参道はみな仕事も食事も終わり、家路を急いでいるか、または長い夜を明かすため近隣にあるクラブに移動したあとだからか、あの喧騒と打っ変わってすっかり人込みも減っていて、車もそれほど行きかうことなく、心地良い寂しさに満たされている。車線にも歩道にも等しく静けさがしんしんと重なる中で、どこまでも続くけやき並木から降るささやかな白い光が、夢うつつのように街を、そして人を飾ることに心が躍って仕方がない。
     嵐のような二十代とぎらぎらとした三十路を過ぎ、四十路に手が届きそうになったとき、ようやく昔、息苦しいだけのティーンエイジのころに願った通りの、何にも左右されない、何にも引き寄せられない泰然とした立派なおじさんになれたと思ったのに、流された先に待っていたのは後藤を一目で引き寄せた、文字通りの麗人だった。思わぬところから芽生えたささやかで淡い片思いは、まず日常に小さな張りと波を与えてくれて、人を思うやさしい気持ちは、人の嫌なところばかり見て、すっかり疲れて壊れた心をいつしかなだめてくれ、やがては恋に心を弾ませ愛に気持ちを振り回される、まっすぐな青年だったころの自分までもついには呼び起こすこととなったのだった。それにしても根が臆病で悲観屋であるのに、よくあの夏の終わりに「好きだ」の一言が言えたものだ。
     理由は分かっている。金と行動力だけ持ち合わせたお子様が、職場を、一心不乱に職務に邁進していた部下を散々翻弄して、そして勝手に死んでいった。久しぶりに触れた純粋で透き通った悪意と狂気は、後藤が「おじさん」という石で蓋をして隠していた、ひどく冷酷で暴力的な若い自分まで引きずり出したのだ。自分の、そして相手の人生を変えるなにかについて、ただまっすぐなだけではいまの人生を負った背中を簡単には押せはしない。相手の人生を滅茶苦茶にすることになろうとも、その手を取りたいという傲慢さも持ち合わせていなくては。
     かくして気持ちが通じ合い、孤独は埋められ、若い自分がまた岩の裏に隠れたあとも、隣には麗しき人がいる。青年の無謀とはかくも眩しく、恐ろしい。
    「それにしてもよく冷える夜ね」
     そう言って、はーっと手袋に息を吹きかけるしのぶは、寒さから頬を赤らめて、マフラーの薄い水色とローズの爪先まで、美しいコントラストを醸し出していた。コートの下には、先日後藤が誕生日にかこつけて、謀って送ったグラマラスな一着の服。毎年クリスマス前から年末までの間にはクラシックを聴きに行くのだという、お嬢様育ちに相応しいイベントに、今年は彼女の母の代わりとして、名誉にも後藤が同行することとなったわけだ。
    「クラシック?」
     服を買った後、銀座で和食に舌鼓を打っているとき、しのぶがそんな誘いをかけてきたとき後藤は目をぱちくりとさせた。
    「興味とかある?」
    「いや、教養程度には知ってるけど、聞いたことはないなあ」
    「でしょうね、どちらかというと寄席や囃しが身近そう」
    「大学の帰りにはよく行ってたけどね。そういや最近行ってないなあ」
     しのぶが想像する通り、確かにクラシックという横文字自体が馴染みがない。しかしそれは入谷や浅草といった土地柄ではなく、後藤がそういったものに縁がなかったからだ。ジャズにしてもそうだが、横文字の洒落た世界への扉は、興味はあれど自分にはちょっと敷居が高い。
    「父の友人の息子さんがトロンボーン奏者で、その縁があって毎年母と二人で聴きに行ってるの」
     つくづく自分とは違う人だ。育ちも、文化も、見ている世界と感じ入る心も。
     本当になぜ、こうして恋人同士として向き合っているのか、後藤はときどき不可思議な気持ちになる。相手を信じていないわけではなく、ただ、驚いているだけなのだ。しのぶは後藤に対していつも辛辣で、冷静で、いつだって素直だ。生真面目ゆえに口うるさいが同僚として申し分なく、自分にはない高潔さは、息苦しさを感じながらも、一方強く惹きつけられてやまない。しかしそれはすべて自分の一方的な感情であって、通じ合うことも叶うこともない思慕だと思っていたのだ。
     それがどうだ。
    「後藤さん聞いてる?」
    「はい? あ、聞いてます、毎年十二月の中頃にNHKホールがお決まりなんでしょ?」
    「考え事しながら人の話を聞けるの、本当に器用よね」
     しのぶは本当に大したものだわと呆れてるとも感心しているともとれるしみじみとした口調で言う。彼女はいつの間にか、後藤についてのあれこれを正しく推し量れるようになった。それは感情や状況だけでなく、思考についてまでもだ。
     ところが後藤は、しのぶの感情や判断に至るまでの思考回路といったものは手に取るようにわかるのだが、一方で彼女のことは皆目見当もつかない。その矛盾した状況については、もうずっと長いこと普通の人間関係から遠ざかっていたからと考えてもみた。が、どうやらそうではなく、仕事以外の場所において、ただ単純に、しのぶのことだけは正確に読み取り、推察が出来ないのだ。だから、
    「どうかしら、もし二人で定時に上がれそうなら行ってみない?」
     と言われたときはさすがに二の句が継げなかったのだ。
    「それってお母さまにご挨拶の機会とか、そういうこと?」
    「確かに母も後藤さんに会いたがってるのよ、いつも電話でしかやり取りしたことないからって。でも今年の日程だと母の予定がきつそうなの。だから、どうかしら」
     いつもの涼し気な笑みも意味ありげに見えてしまい、後藤は内心どきまきした。
    「もし興味ないなら無理しなくても」
    「行きます」
     と勢いよく返事をした結果が今日だ。
     いつもよりあつらえの良い三つ揃いに彼女からの初めての贈り物のネクタイを締め、二人並んで教養として知ってはいたが聴き慣れないクラシックを堪能して、そしてNHKホールから代々木体育館の脇を抜け、しのぶがこの日のために友人に紹介して貰ったのだというダイニングバーに向かうまでの道のりは2キロ近く。服のお礼だと言ってチケットはしのぶ持ちとなったが、そこそこいい席でコンダクターがすべてを束ね、そして表現をするさまを見るのは新鮮な経験であり、だからこの礼のお礼になにをしようかと考えてしまう。それこそ寄席がいいかもしれない。
     そんなことを考えながら、街灯も少ない都会の道で、二人はそれぞれ普段人前では見せられないようなささやかないちゃつきを楽しんだ。例えば気まぐれに寒いよと言っては腰を抱いて身を寄せたりとか。去年の年末に制服を着て乗り込んだときと違い、私服で二人歩く表参道には、確かにレイバーは無粋なものだと感じる。なんだっけ、古いラブソングにあった、恋人たちのペイヴメントそのままのロマンティックさだ。
    「ごめんなさい、地図だとあとちょっとのはずなんだけど……。やっぱりタクシー拾えばよかったわね」
    「いいよ別に、たまに歩かないと体も鈍るし、……寒空の下ならこうやって手もさ、繋げるし」
    「あら、寒くないと手も繋げないとは意気地なしなこと」
    「だって、しのぶさんが照れるから」
    「それはお互い様でしょ」
     強気にそう言ってわざと拗ねたふりをするその姿がかわいくて、後藤は思わず口元をほころばせる。
     去年の今頃は、一人はんてんを着て、コンビニの鍋焼きに鬼殺しを飲んで、こたつでうつらうつらしていたものだ。それが今年は三十路と四十路で浮かれながら、これから美味しいワインと丁寧に作られたタパスを分け合うのだという。仕事に疲れ果てて諦めを抱いていたときもあったが、人生が惨めだとか空しいと思ったことはない。ただ、今は間違いなく、幸せの頂点だ。昔、ブレヒト好きなあの子と二人で、うかれたバカ騒ぎに背を向けて布団で抱き合っていたときも確かに幸せだったけれど、いい年の大人になった今、同じ歩調で歩ける人と素晴らしい時間を分け合って、穏やかに日常について胸躍らせる中年になれるとは思ってもみなかった。これ以上願うのは欲張りかも知れないけど、出来るなら、「これからもずっと、二人で歩きたいなあ」。

    「そうね」

    「え?」
    「え?」

     浮かれている自覚はあった。それは彼女だって同じだし、お互いに緩み切ってるのはわかっている。
     しかし、いろいろと緩んでいるとはいえ、まさかうたたかに浮かんでは消えるモノローグを口に出すほど浮かれているとは思わなかった。後藤の驚きにきょとんとしたしのぶに、
    「……えっと、どこから、口に出してた?」
    「どこからって、後藤さん、幸せの絶頂だ、って、突然つぶやいて…」
    「わぁ、俺、そこから口に出してたの…」
    「いや口に出すっていうかつぶやくったって、本当に小声だったのよ。でも、ほら、ここ、静かだし、それに…」
     あなたの声なら大抵拾えるのよ、なんて、顔を逸らせながら言った方も聞いた方も、耳まで真っ赤になることをしのぶが口にしたものだから、後藤はますます顔を赤らめて、なにか誤魔化すように頭を掻いて。そしてほんの少しの間をおいてから、もう一度「え?」と繰り返した。
    「なに?」
    「ねえ、あのさ……。さっき、はい、って、言った?」
    「え」
     そろそろ表参道ヒルズが見えてくる坂道の真ん中で、後藤はしのぶに向き直り、しっかりと腕を抱いてから、思わぬ展開に固まって、真ん丸になってるしのぶの目をしっかり覗き込んだ。
    「ごめんね、しのぶさん、もう一回ちゃんと言って」
    「な、なにをよ」
    「俺もちゃんと聞くから」
    「だからなにを」
    「俺は」
    「あなたは?」
     シチュエーションのあまりの似合わなさと、年を重ねた臆病が、一瞬後藤の時間を止めようとする。しかしその時、胸の奥に帰ったはずのあの無謀な青年がもう一度、力強く背中を叩く音が聞こえた。
     この世はセッション、人生はアドリブ。
     後藤は一度息を大きく吐き出した。
    「……ぼくは、あなたと、これからもずっと、歩いていきたいです」
    「……はい」
     しのぶが目を見開いたまま、しかし確かにそう言った瞬間、後藤はついに、彼女を抱きかかえて大きく道の真ん中でスイングのようにくるくると回ってしまった。
     響くのは、トランペットのファンファーレ。
    「ちょ、ちょっと、後藤さん」
    「ねえ、今なら空も飛べそうだよ!」
     もう一周タンゴのように二人回ってから、ぎゅっとしのぶを抱きしめると、しのぶが同じく抱きしめ返してくれる感触があった。
     青い光が降り注ぐ道端をたまたま通りかかっただけの数人が、踊る二人に足を止め幸せそうに笑いながら、小さく祝福の拍手をしてくれるのが聞こえた。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/27 1:50:15

    強い気持ち、強い愛

    #パトレイバー #ごとしの
    特別な日には、特別なものを

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