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    Hello, my friends 最期はあっけなかったって警察の方が、ほらあの子、あこぎな職業だしそれでなくてもあの性格だから、畳の上じゃ死ねないよ、って軽口をよく叩いちゃってね……せめて苦しまなくてよかったですよ。
     そんな風に泣くこともなくつぶやく彼の姉の横顔を、しのぶは無表情で聞いていた、
     同僚であったのは五年と少し。自分が人より物事に対して敏感で極めて優秀であることを誰よりも疎んでいた男は、結局その能力ゆえにまた厳しい戦いの世界に呼び戻されて世界を飛び回り、そして最期の勤務地はロンドンだったという。スコットランドヤードに向かった帰り、たまたま降りたチューブの駅で起こった一度目の爆発テロの際、倒れてきた瓦礫に挟まっていた褐色の肌の少女を助けている最中、時間差で起こった二度目の爆発で、その少女や多くの逃げ惑っていた駅の利用者――職員、住民、そして多くの観光客と共に、男は逝った。お前なにやってるんだ、と咄嗟に制止しようとした同僚に叫んだ最後の一言は「放っておけないでしょ、見てみるふりなんてしたら、俺、帰国してあの人に顔向けできないじゃない!」だったという。
     次はイギリスだって、もういっそ早期退職しちゃおうかなあ、と面倒そうに焼酎を煽ってぼやいていたのは、明後日からまた長期出張だからという理由で呼びされた東京駅そばの居酒屋でだったか。しのぶも春の異動で二課の隊長から特車隊全体の係長へと昇進し、今はまた本庁通いだったから、気安い友人同士の体で東京駅で待ち合わせては二人で飲むことも珍しくなかった。
     あの日は八月の終わり。重く黒い雲が垂れ込めた夏の夜は暑く、ビル街である八重洲は風も抜けずにただむしむしと不快だが、店のクーラーはそのすべてを遮断してくれている。大型台風が近づいてきているおかげで、防災の仕事で明日から本庁に詰めっぱなしになるとぼやいたしのぶを後藤は労い、自分は台風で飛行機が止まって、そのまま出張もお流れになればいいのに、とため息をついていたものだ。
     台風と言えば、二課にいたときの幹部研修のとき、喧嘩売って、台風の真中無理無理帰ったっけ。夏になると、後藤は酔うたび必ず軽井沢研修の話をしたものだ。予定より半日以上早く本州に接近した台風の中、うっかり足首を挫いたしのぶに代わり、昼過ぎだというのに暗く激しい風雨の中、彼女の愛車を運転して成城まで送ってくれた。あの後入谷に帰れたのは奇跡だよ、と笑う顔はいつも嬉しそうで、彼に言わせると小さな英雄譚らしい。そうして、いつも最後は埋立地での思い出を繰り返しなぞっては、二人で小さく笑い合っていた。これからもそうやって話していくはずだった。
    「帰ってきたら、また飲んでくれる?」
    「お土産は紅茶がいいわね」
    「紅茶ね、テディベアもつけるよ」
     いたずらに笑う後藤に、しのぶは澄まして返した。
    「あら、じゃあくまの場所をあけておかなきゃ」
     その買ってあったテディベアは棺の中に収めてもらった。
     爆心地から遠くなかったこともあり、遺体の一部は破損してして、棺は開けられないんです、ましてやあなたには、あの、人をからかってるような顔だけ覚えておいて欲しいから。後藤と似た面影がある彼の姉はそう言って、少しだけ涙をぬぐった。
     自分と後藤はただの同僚なんです、と情報をより正確な方向へと訂正しようかと思ったが、しのぶはすぐにそれを思い留まった。自分たちの間に流れていた曖昧な関係は、ただの同僚というには交わした心が濃すぎ、自分の抱いていた感情には生々しいものが混じりすぎている。ただ、同僚として、人間として、黙って優しく横に立っていてくれる後藤との距離はあまりにも理想的すぎた。それを大事にするあまり時間だけが積み重なって、気が付けば男女の仲をそこに加えることに恐れを感じるようになっていた。それほど男のこと失いたくなくて、そしてこれ以上そばには寄りがたく、あるいは近づきたくなかった。
     彼が家族に自分のことをどう話していたかは知る由もない。ただ。彼から見た自分との関係のほうを世界に残しておきたかった。だからしのぶは黙って、遺影のどこか影の差す笑顔に、ただ視線を向けた。
     あまりにも突然の死は、すべての感情を置いてけぼりにして、光のスピードでまず時を、先へ先へと運んでしまう。自分も後藤の姉や姪も、彼が心血を注いで育てた元部下たちも、全員がなにが起こっているのかよくわからないまま焼香を済ませて、茫然と遺影を眺めている。全体の犠牲者は三十四人、うち留学生や観光客など日本人の犠牲者は四人。そのうちの一人、さらには職務中の公務員の殉職ということで、各社の報道記者たちが斎場入り口に陣取っていて、後藤の面影が強い母親と、思っていた以上にひょろりとした優男風の父親が、気丈にも息子のことを語っているのが見て取れる。なにもかもが映画のシーンか舞台劇のようで、しのぶは自分がそこに参列者Aとして立っていることに奇妙さしか感じなかった。
     葬儀の日はそうやって過ぎていった。もう冬になろうかという神無月の終わりのことだ。

     その年の東京はからからに乾いて結局雪は降らず、あっという間に季節は次の年度へと近づいた。
     ロンドン同時多発テロのあと、あれほど盛り上がった”犠牲者を出した今、国際貢献できる日本とはなにか”議論は、与党によって論点がずらされたぼやけた法案にまとまって野党との採決するしないの攻防となり、そうして年明けのころにはすっかり過去の話となった。
     しのぶも元第二小隊の面々も、ただ一人がいないだけの世界にすっかり慣れたようだった、少なくとも表面では。第一小隊も含め大半の隊員が異動していくなか、結城と共にいまだ二課に在籍し、フォワードとして現場の最前線にいる泉は、四十九日の法要のとき、出動のあと一息いれることもなくあの派手な制服で駆け付けて、そして、すべて終わったあとにしのぶに言ったものだ。
     冷たいとか子供っぽいと言われると思うんですが、でも、隊長のことだから、シチリアあたりでのんびり美女のお尻でも見てて、鼻の下伸ばしながら、さていつごろ帰ろうかなあって言ってそうな気がするんですよ。そのファンタジーはとても優しいものだったので、しのぶも久しぶりに微笑んで、あの人の天国はまさに海岸と水着の美女であふれてそうね、と返したものだ。
     そんなしのぶを見て泉がなにかを言おうとして、そして寸でのところで飲み込んでくれたことは、とてもありがたいものだった。これで「南雲さん、大丈夫ですか」なんて言われた日には、しのぶは自分がどうなるかわからなかった。
     そして三月。
     南雲家の女二人は、命日と盆と彼岸のうち二回は、毎年父親の墓参りをしているのだが、今年は母が盆に行くと言ってきた。「だからあなたは、後藤さんに挨拶をしてきなさい」。すっとぼけて底が知れなかった同僚のことを母に向かって話したことはそれほどなかったはずだが、それでも母親はいつか自分が後藤を連れてきて、彼が娘さんを私にくださいと挨拶をする日がくると、どこかで信じていたようだった。
     もしかしたらそうだったのかもしれない。
     高名な物理学者が提唱した幸せなファンタジーである、無数にあるという並行世界のどこかでは、ここまでぬるま湯のような時間に浸りきらず、さっさと関係を発展させ、幸せに二人で年を取っている世界もあれば、互いに信頼を築けぬままに相手を一方的に裏切って終わる世界もあったかもしれない。だとしたら知り合ってともに信頼のもと戦えた自分は、後藤を傷付けて、一人悲劇のヒロインの振りをして勝手に生きているどこかの自分よりは幸せなのだろう。そんな無意味なことを考えながら、しのぶは母に頭を下げ、一人、千葉の墓地へと向かった。
     隊長室でのいつもの世間話の延長で、後藤が退屈そうな目をして、どうせお一人様人生だからとさっさと墓を買っちゃった、と言ってきたとき、しのぶは目を丸くしたものだ。その墓地、南雲家の墓の近くじゃない。すると今度は後藤が目を丸くして、「なんで成城の人が千葉に墓を買ってるのさ」と突っ込んできたものだ。結局二人とも本家の菩提寺が成田山で、信仰深いわけでもないのに先祖の信仰を受け継く形になっているから、というところで落ち着いて、なんともいえぬおかしみをわけあったものだった。
     ともかく、東関道をひたすらに走り、飛行機の姿がよく見えるあたりで一般道に降り、都会と田舎の間のような道は走り慣れたもので、抜けていくどこにでもある風景はよく知っているものだ。霊園に行く途中にある和菓子屋で、供え物と一緒に買うみたらし団子が美味しいのだと教えたら、だったら俺の墓にはそれを供えてもらおうかな、と冗談めかしていったのは、墓の話をした日と同じときだったか。
     縁起でもないこと言わないで、と、あのときたしなめておけばよかったのだ。みたらしを買いながら、しのぶは空しく自分を責めた。
     いつも父のときにそうしているように、まずは入り口にある霊園事務所近くの店で墓参りの用具一式を借り、区画の側の駐車場で車を停め、片方の手に桶を、もう片方に花をもち、一人温かくなってきた小道を歩く。花は散々迷った結果、仏花ではなく白の薔薇とカーネーションで作った小さな花束にした。まだ第二小隊にだけ新型機が配置されていたころ、しのぶの誕生日が近いようだと、彼女と不破との電話で察したらしい後藤が、俺の好きな花だけど、と言って贈ってくれた小さなブーゲが赤の薔薇とカーネーションだったからだ。自分の好きな花を贈るの? と照れを隠すために眉を寄せるしのぶに、プレゼントといえば薔薇でしょ、と後藤はうそぶいてみせ、そしてすべてがあまりに気障なものだから二人で笑ったものだった。
     そろそろ桜もつぼみを膨らませるころで、四月にはしのぶの下にまた新しい部下が来る。しのぶの強い要望で、後藤の部下の中でも、特にロジカルな事柄に関して優秀であった進士を呼び寄せることが出来たのは、最近起こったことで一番心を強くしたものだ。
     あなたの部下、預かったわよ。そう報告もしなければならないとつらつら思いながら、誰の姿も見えない早春の霊園を、しのぶはひとり、後藤の家族に聞いた区画へと進んでいく。

     ゆらゆらと揺らめく春の日である。

     暑くもないのに、逃げ水がみえるように空気が揺れ、強い風にあおられ、腐って葉脈ばかりになったりカラカラになって地面にも帰れない落ち葉が、くるくると舞う。
     ゆらゆらとしながらひとつ、ふたつと角を曲がると、卒塔婆も倒れ朽ち果てたような墓と真新しい墓石が混ざった小さな区画に出て、そして、向こうから黒ずくめの男がひとり、ゆらゆらと歩いてくるのが見えた。手には白の薔薇とカーネーション。もう片方に手桶を持ち、まるで春の蜃気楼のようだった。
     ゆらりゆらりと、二人は歩く。
     近づくにつれ、あれはよく知っている影だと思ったが、不思議なことにしのぶは、別に驚きもしなかった。
     ふたりは揺れながら同じ歩幅で歩き、男としのぶは同じ墓の前で、ついに立ち止まった。
     真新しい墓に掘られた「後藤家」の文字を目に入れて、しのぶは昔と同じ角度で、目の前の男の顔を見上げる。すると男も同じ角度で、やはり当たり前だと言わんばかりの顔で、あののんびりとした声を出した。
    「あなたも、墓参りですか」
    「ええ、偶然ね」
    「全くだよ。気が合うんだよね、俺たち」
     後藤はそう言って、まいったね、と言わんばかりに苦笑した。彼が手に持っているのは白い薔薇とカーネーションのブーゲ、そしてずんだときなこのおはぎ。じゃあ私にはずんだときなこのおはぎでも供えてよ、もちろんあんこも好きだけど、変わり種を頂くのが好きなのよね、と、みたらしを求めた男に合わせるよう答えたことを思い出す。
     ああそうか。無数に世界があるのなら、私が後藤を置いていった世界もあるのか。しのぶはなぜか何の疑問も持たず、一人そう納得した。それは隣の男も同じなようで、黙って納得した顔をしている。とりあえず二人で花と和菓子を備えて、静かに合掌をする。後藤の目には、雨ざらしになった「南雲家」の墓が見えていることだろう。
     そしてふたつの白い薔薇とカーネーションの花束が捧げられた墓を見て、その浮いた感じに眉を少しだけ動かすと、後藤があの頃のように、小さく顔をほころばせる気配がした。
    「なに」
    「いや、花がね」
    「だって、プレゼントといえば薔薇なんでしょ?」
     後藤は、そうだよ、と言いながら、覚えていたんだとばかりに目を少し見開いた。なんて顔をするのだ、忘れるわけがないというのに。しのぶの表情をどうとったのか、後藤はいつもしのぶに何かを説明する時の、あの穏やかなトーンで言った。
    「一人だとそうやってすぐに眉間に皺が寄るから、また笑わせたくってね」
    「本当そういうのが似合わないわよって?」
    「そうそう」
     しのぶが意識して眉間によった皺をやわらげると、後藤は「効果てきめんだね」と自分を慰めるようにつぶやいた。
     そうして風が吹く。季節のわりには優しいものだ。
    「……あなたの知っている人は、一人で逝ったの?」
     後藤がそう聞いてきたのは、二人とも無言のまま、しばらく墓石を見つめたあとだった。あまりのシュールさにしのぶは小さく笑って、
    「警官として当然の行動をとって、そして殉職したのよ。女の子を助けようとしてね。……最終的に階級は警視」
    「そりゃあ出世したなあ」
     後藤は他人の後藤について、大したもんだと言わんばかりに感想を述べた。
    「あなたの知人は、どうだったの?」
    「同じだよ、無茶しないでってあれほど言ってたのにさ、現場で巻き込まれた女の子をとっさに庇ってね」ふと目に悲しみが宿った。「そうなるなら、さっさと抱きしめておけばよかった」
     しのぶは黙って隣の後藤の顔を見た。
     後藤であって後藤でない存在。彼にとって自分は「南雲しのぶ」ではないからこそ、そんな顔を見せるのだろうか。
    「……手を伸ばしたら、取ってくれた?」
     後藤がそう、おずおずと聞いてくる。しのぶはどう答えようが迷ったが、結局素直になることにした。
    「たぶん、ね」
     そしてしのぶはそっと目を伏せて、後藤の手の、ごつごつとした節を見ながら、穏やかに言った。
    「私こそ、手を伸ばすべきだった」
     さぁぁぁぁ……と風が吹く。もう一時間が過ぎたようにも、まだ三分しか経ってないようにも感じられる。後藤はしのぶの顔を見れなくなったとばかりにわずかに顔を逸らせて、独り言ちた。
    「しかし参ったなあ……。これから、本当に独りじゃない」
    「そうね……」しのぶは墓地の横に添えられた石板の、後藤の没年をぼんやりと眺めた。「とっくにいないってわかってたけど、これからは独りだわ」
     そして言葉が転げ落ちる。
    「これほど大事だったのに」
     ひとつぶ、涙がこぼれるように感じた。実際は泣いていないのに。後藤はもう一度しのぶの顔を見ると、そっと笑った。道端の花が咲くような、静かにほころぶ笑みだった。
    「あんたに愛されてたなんて、彼は幸せものだったんだね」
    「そうかしら、あなたみたいに、一人でいる癖がついた人だったわよ」
     ついいつものように辛く評価すると、だよね、と後藤はいつものニヒルな顔を作った。
    「奇遇だね、俺の大事な人は、あなたのように潔癖で意地っ張りな人だった」
     二人は自然と墓から後ろに下がった。一歩、二歩、三歩。
    「ねえ、また会える?」
     しのぶはそう問いかけると、後藤はそうだなあと首を傾げた。
    「わからないけど、でも」
    「でも?」
    「次はほしい? なんて聞く前に抱きしめるよ」
    「そうね、私もあげないと言われたら嘘つきって言ってやるわ」
    「隠し事はしても嘘なんてついたことないじゃない」
    「あらそうだったかしら」
     ゆらりゆらりと風が吹く。しのぶはようやく心から小さく笑って、そして後藤の顔をみた。あなたの元同僚はもう手を伸ばせないけど、代わりに私には出来ることがある。
    「大丈夫よ」
    「え」
     しのぶはしっかりと後藤の目を見て、もう一度繰り返した。
    「私たちは、大丈夫」
     後藤の口が一瞬、自分の名の形に動いた。彼はそれを声に出そうとして、しかし、口を閉じ、代わりに後藤は出来るだけしのぶが見慣れた顔を作るようにして、ゆっくりと優しく言った。
    「だったら、幸せになって」
     その声があまりにも真摯なものだったから、しのぶは即答した。
    「ええ」
    「本当に?」
    「本当よ、だってあなたも、幸せになるんでしょ」
     そういってやると、後藤は意表を突かれたという顔をして、
    「……ああそうだね」
     まったくかなわないなあ、と言わんばかりに、頭を掻きながら苦笑する。
    「あんたが幸せになると言うんなら、俺も幸せだわ」
    「私は、あなたが幸せになれるのなら、安心して明日を迎えられるわ」
    「そりゃまたお優しいこと」
    「いつも優しかったでしょ」
    「そうだね、いつも優しかった」
     どこかで風に木が唸る音が聞こえた。次に強い風が吹いたら、きっとすべては吹き飛んで、かき消されてしまうだろう。
    「ねえ、次会えたらさ、お茶しよう、ね、約束だよ」
     後藤の声を押し流すように風が吹き始める。春の強い風が。
    「次っていつなの?」
    「さあね、きっとずっと先か、ここじゃないどこかだよ」
    「そうね、じゃあ、ずっと先の、ここじゃないどこかで。いいこと、絶対よ」
    「俺、絶対っていう言葉は苦手なんだよね」
    「知ってるわよこの弱虫」
    「そっちだって強がりじゃない」
     少しずつ風が強くなる。
     横に見える墓に備えてある花はひとつ。ずっと一人、ここにいたのだ。お互いが、それぞれの場所で。
     でも弱くなったら、あるいは生き急いだら、そっとたしなめてくれるんでしょ。そう聞き返したかったが、もう互いが揺らめいていて、ひもはほどける寸前だ。神様はサイコロを振らない、だから二人、手を伸ばすこともなく、互いの目を見据えて、そうして同じことをつぶやいた。

     さようなら、あなたが好きでした。

     その時強い風が吹いて、案の定、すべてはほどけて、そしてかすんで、消えた。


     明日から年度が替わるという日に、後藤はようやく、成城の旧家を訪ねた。
     葬式の日、焼き場で上がる煙を言葉もなく眺めているときに、線香に燻された黒い着物に身を包んだしのぶの母親がそっと後藤に言ってきたのだ。もしよければ、ぜひ我が家のほうにも来てください。あの子も喜ぶと思うんです。
     しかし、その場では私でよろしければ、と答えたものの、それを社交辞令ということにして、後藤はただ仕事に没頭した。香港、ジャカルタ、そしてロサンゼルス。生活安全課と協力して暴力団の資金洗浄を調べ上げる仕事は今までとは全く関係ない分野で、おかげで年が明けるまでの間、後藤は安心して自分の周りの変化のすべてから目を逸らすことが出来た。松井にはそんな顔色であちこち出歩くくらいなら、ちょっとでも有休をとって泣きわめいてこいと言われ、庁内でばったりあった熊耳からは、ただ、重い視線で、そのうちで良いので二課にも顔を出してください、泉さんも喜びますよ、とだけ言われ、そっとしておかれた。そうして自分で想像していた以上に周りから慕われたり心配されたりしているうちに、もう春である。
     成城の南雲宅を訪れるのは、昔、しのぶの友人の車だというイタリア車で彼女を送って以来である。研修中だというのに常日頃からの鼻っ柱の強さで上層部とやり合い、挙句研修所を飛び出して勢いで足を挫いたしのぶに向かって、後藤は自分が送っていくと提案したのだ。しのぶはただ研修をさぼりたいだけでしょ、と言いながらもキーを投げてくれたものだ。
     あの夏の日は、去年の八月、最期にしのぶと会ったときと同じように台風が近づいていた。だから、後藤ははじめこそ馴れない左ハンドルを慎重に扱っていたものの、すぐに持ち前の運転テクニックで一路東京に急いだ。ラジオからは大型で強い台風が関東甲信を直撃するとのニュースが定期的に流れてくる。電気系統に信頼のおけないイタリア車で台風の中突っ切る愚を犯してしのぶを困らせないように、出来れば夕方までに東京には出ておきたい。
     本音を言えば、降って湧いたこの機会に、しのぶとちょっとした冒険を楽しみたい。川ぞいのバイパスをドライブしてもいいし、どこかに美味しいものを食べにいってもいい。下仁田のこんにゃく刺しはきっと彼女の口にも合うことだろう。そんなことを夢想しながら、車は一路関越を走る。それでなくても上とやりあって、思わぬ怪我までしたのだ、これ以上なにかイレギュラーなことを付け足してしのぶを困らせることは、後藤には出来なかった。正確には、そこまでの勇気がなかった。
     夏の長い日が落ちかけたころ環八から成城へと入ったときについに雨が降り始め、しのぶは「あなたの悪運の強さったら本物だわ」と率直な感想を口にしながら、後藤に繰り返し感謝を伝えた。
    「……よかったら上がっていく?」
    「いや、そうしたら泊めてもらうことになっちゃいそうだし。また次の機会に、お茶でもご馳走してよ」
    「そうね、今日のお礼もしたいし」
     そういって微笑んで、今度美味しいものでも食べに行きましょうと、ワンピースをひらりとなびかせて、脚をかばいつつ家に入っていく彼女の背中を見送りながら、健全、安全、好青年を気取って、自分からここを訪ねることはもうないだろうな、と後藤はぼんやりと考えた。
     しのぶが好きだ。
     しかし、それは後藤だけが知っていればいい事実で、彼女にはなんの関係も影響もないものだった。ただ勝手に焦がれ、そして密やかに大事に思っていればそれで充分だったのだ。恐ろしく我儘な恋だった。
     大人のふりをしたエゴに酔わずに、真正面から向き合えばよかったのだ。結局お礼をされることもなく、心地良い惰性に流されるまま埋立地での時は過ぎ、そして道は違えていって、唐突に途切れた。
     次はシカゴだって、もういっそ早期退職しちゃおうかなあ、と面倒そうに焼酎を煽ってぼやいたら、「辞めるんなら、無理してでもこっちに帰っていらっしゃいよ。課長になったときに補佐役がいると助かるから」と伝えてきたのが最後の思い出で、あのとき「そりゃ上が許してくれるならさあ」などと言わずに、たとえ「いやね、冗談に決まってるでしょ」と返されたとしても、「無理してでも帰るから、待ってて」と言い切るべきだったのだ。台風の雲がかかり始めた東京駅で、このまま二課に詰めるから、と雨で濡れて張り付いたスーツのスカートを器用にさばきながら品川方面へと京浜東北線に乗り込む後ろ姿が、いつまでも後藤の網膜に張り付いて離れないままだ。せいぜい頑張って真面目にお仕事してきなさいな、帰ってきたらまた飲みましょうね。そういったのはそっちだったというのに。
     そのようなわけで、この桜三月、成城のこの家の門をくぐり玄関を上がるのは初めてのことで、玄関わきの電話台を見ては、自分がしのぶを呼び出すとき、この家のものはここで話をしていたのかと妙な感慨がわいてきたりする。一階の奥にある仏間には、しのぶと同じ眉をした年若い父親と、父と同じ年頃で父と同じ場所へと逝ったしのぶの写真が並んでいた。一つに束ねた髪に、オレンジと紺の制服。見覚えのある姿に向かって長く手を合わせながら、しのぶに言うべき言葉が出てこないことに、後藤は気付いた。なにも言えないのではない。なにから伝えていいかわからないからだ。いつだってそうだ、書いた手紙はたまるばかりで、相手に渡ったことがない。あなたって饒舌なくせに、肝心なことには口が重いのよね。そんな風に指摘されたのはピースメーカーか第一小隊に配属されたころだったか。でも、今日来た理由は、しのぶは分かってくれているはずだ。今日までは甘えさせてよ。そう心の中で言い訳をした。
     春の庭は柔らかな色にあふれ、縁側から見える緑は温かなものだ。仏前に挨拶をしたあと、居間に通されて丁寧に入れられた緑茶を頂きながら、後藤は改めてしのぶの母に頭を下げた。
    「本日はお時間をありがとうございました。……そして、こんな時期になってしまったことも」
    「いいんですよ」。彼女は穏やかに笑って答えた。「こうしていらしてくれたのだからそれで充分です。それに」
    「それに?」
    「しのぶがよく言ってました、本人は露悪ぶっているけど、慎重な性格が過ぎて、ただ仕事以外のことには腰が重い人なだけだからって」
    「はあ」
     なかなかな言い様である。
    「あの子、あまり職場の話をしないんですよ。そりゃそうですよね。治安を預かるんですから、一層機密が多くなるでしょうし、家では出来るだけ私人でいようとしたんでしょうね。父親がワーカホリックだったんですが、そういうところはよく似ていて」
    「お嬢さんは、確かにそういうところがありましたね。持つもの持てるものすべてを仕事に向けていましたから。私なんかは足元も及ばないぐらいの、立派な警察官でした」
     ふと隊長室で何度も言われた小言が脳裏に響く。少しはしゃっきりしたら、で、その書類はいつこちらの印が押せるのかしら、第二小隊の怠慢が移ったら困るのよ。……まったくそれだけの力があるんだから、呪いと思わず才能と思いなさいな。初めのうちは、本当に後藤とその隊に苛立ちを感じていたのだろう。いい噂の一つでも聞いていたら、部下が揃ったあたりのころは何度そう言われたことか。しかし、いつしかしのぶの言葉は微妙に変化して、根底に後藤への期待や敬意が含まれるようになっていた。この疎ましいまでの観察眼と酷なまでの判断力を才能だと言われるのは初めてではない。しかしかつて他の人から向けられたときは、後藤のことを道具としか思ってなさそうな勝手な思い込みとしか捉えられず、ただうざったいだけだったのに、なぜだろう、しのぶのそれは、信頼を勝ち得た証だと感じられて誇らしいとすら感じたのは。そのときには恋に落ちていたからなのか、だからこそ彼女に思いを寄せるようになったのか、後藤にはわからない。
    「――後藤さまの話だけは、よくしていたんです」
     しばし、脳裏にこだました懐かしい声にのみ耳を奪われていたから、反応が一呼吸遅れた。
    「……私の?」
    「ええ。世間話だったりちょっとした小言だったり疑問だったり、手放しで感心していたり。夕飯を囲んでいるときには本当によく聞いていたから、あの電話口での真面目なお声とのギャップがすごいのね、って返したら、声だけはいいのよ、って」
     彼女はそう言って、ふいに視線をどこかへとさ迷わせ、耳を澄ますように口を閉ざした。夕餉の声が不意に響いたのかもしれない。それもわずかなことですぐに穏やかながら気丈な顔に戻り、
    「でも、通夜と、そして今日お話して、あの子ったら後藤さまのことをよく見ていたのだと……。時に感情に走りがちな自分をよく支えて、理解してくれていると、そして母さんの言うように、本当は真面目な人だ、って」
     うちの娘のこと、ありがとうございますね。そう頭を下げられて、後藤は言葉を失ったまま同じように頭を下げた。ほんの少し前までこの家にしのぶがいたということが、そしてもう居ないということが、改めて目の前に突き付けられたかのようだった。ふたりともなにしてるのよ、そんな風に言う声がもうないというところから、始めなければいけないのだ。また。
    「私のほうこそ、お嬢さん、しのぶさんには救われました。彼女は……彼女と働けたことは、私にとって人生最大の誇りです」
     底の方から慎重に選んで、ようやくそう口にしたのは、庭を抜ける風がどこからか連れてきた桜の花びらを地に散らすまでの少しの間を挟んでからで、この言葉すら果たして然るべきものか自信がない。あまりにも脆く繊細なものを抱えて、これから生きていくのだ。
     後藤の言葉をどう捉えたのか、ほんの少しだけ母の目に涙がにじんだように見えた。しかしそれは静かに蒸発していき、彼女は再び、ありがとうございます、と頭を下げた。静けさは優しく、部屋のなかに吹いてきた風が二人を撫でるようだった。
     しのぶが生まれるまえから動いていそうな柱時計がボン、と音を鳴らしたところで、後藤はそろそろ、と腰を浮かした。仏間に顔を向けると写真のしのぶが、あまり長居して母を煩わせないでね、と頼んでいるようだ。後藤の様子に「もうこんな時間ですものね」と母が腰を上げる。そのまま玄関に案内されると思いきや、
    「よろしければ最後に、形見を持って行っていただけないでしょうか」
    「形見分け、ですか」
    「ええ、不破さんたちしのぶのお友達にはもう終わっているのですが、後藤さまだけはなにをお渡ししていいかわからなかったもので……。もしお嫌でなければ、部屋で一つ、選んでいただけませんでしょうか」
    「あの、私が選んでいいんです? 直に? 本当に?」
    「あの子は嫌がるかもしれませんが、好みや思い出を十分に伝えてくれなかったからよ、と後で言っておきます」
     母はそう言って柔らかい目で笑った。
    「部屋は二階なんで、どうぞこちらへ」
     そういって落ち着いた所作で後藤を招く。しずしずと廊下を歩きながら、「実は」と秘密を明かす声で彼女は言った。
    「実は、焼き場でお誘いしたとはいえ、後藤さまがいらしてくださるとは思っていなかったんです。だからあの子もきっと喜んでいると……。お仕事が、落ち着かれたのですか?」
     実は、しのぶさんじゃないのですがしのぶさんに先日叱咤されてしまいまして。一瞬そうすべてを話してしまおうかと後藤は迷う。彼女は母親だ、きっと理解してくれるに違いない。しかし、逡巡した末に後藤は「娘さんにしっかりなさいと、背中を叩かれたようなんです」と、本当のことだけを告げた。母はまるで言外のことも察しましたと言わんばかりに小さくはにかんで、あの子らしい、と返した。
     通された部屋は六畳の畳の部屋に気持ちの良いラグが引かれた、学生時代の名残もそのままの質素なもので、後藤が見立てていた通りの南雲しのぶという女性を表しているようだった。あまり見渡すのも申し訳ないと思ったところで黒電話の音がして、「すみません、失礼いたします」と母親が出ていくと、いよいよ後藤はしのぶそのものと一人向き合う心地になり、途端に居心地が悪くなる。何気なく壁へと顔を向ければ、古く重厚な木の本棚が置かれ、三分の一に小説が、真ん中の棚一つに小物類が、残りにはぎっしりと司法や工学、行政学に学会誌と仕事の書籍が詰め込まれている。小説の棚を見ればドストエフスキーにサガン、サリンジャーに交じって、赤毛のアンやナルニア国物語が全巻几帳面に並んでいて、そのすべて、一冊一冊にしのぶの生きた時間と面影が立ち上っていくかのようだ。その背表紙を目にするだけで後藤は身に応える心地になって最後真ん中の棚に目をやり、そして息を飲んだ。
     ――隊長、あと南雲隊長もすみません、あと6枚撮らないと現像に出せなくって、あと、上司の姿も親に見せたいんです。
     そう言い訳をしながら隊長室で泉が使い捨てカメラのシャッターを切ったのは、熊耳が来たばかりのころだったか。のちにお二人の分です、と言って、二枚ずつ置いて行った。しのぶは表情なく自分と後藤、それぞれのスナップを手に取って、あなたもよく写ってるじゃない、うさん臭いところが、とあの嫌味を隠さない声で言いながら机の引き出しに適当に投げ入れていたはずだ。
     その後藤のスナップが、フレームに入った家族の写真や第一小隊の集合写真、友人たちのとのスナップに交じって、さも適当に置きましたという風体で。
     後藤は呆けたようになって、本棚の前でただ立ち尽くした。
     やがて、ふっと小さく息を吐くと、そっと独り言ちた。あるいは、しのぶが聞いていると信じたかったのかもしれない。
    「そうだよね、俺はいつだって意気地なしで、あんたは本当にいつだって優しかったよ」
     でも、私たちは大丈夫、でしょ。どこかのしのぶがしたりという口調で、笑った。

    「本日はお時間をありがとうございました」
     玄関で改めて深々と礼をすると、母親は「こちらこそ、しのぶのためにわざわざありがとうございました」と同じく礼を返す。訪問を告げるベルを鳴らしたときはまだ日も高かったのに、玄関の引き戸を開けた先の空は、夕方近い皆練の光に満ちていて、遠くに家へと帰る子供たちの声が聞こえてくる。振り向いてそれでは、という前に、後藤はあの……、と慎重に切り出した。
    「よろしければまた時効の折に、こちらに訊ねてきてもよろしいでしょうか。その、……お嬢さんに、色々を報告したいんです」
     その申し入れに母親はとたんに相貌を崩し、優しい笑みを浮かべた。
    「もちろん、時折と言わず、いつでも尋ねてきてください。しのぶに会ってやって、そして、よろしければ話してください。私の知らないあの子のことを」
     その言葉に後藤もまた穏やかな笑みで答えた。
    「もちろん私の知っていることでよければ、なんでも。それではお言葉に甘えて、またお邪魔させていただきます」
     後藤はしのぶの部屋からなにも持ち出さず、代わりに、財布の中に忍ばせていた、泉が撮った、すこしだけ丸まったしのぶのスナップを隣にそっと置いてきた。たぶんそれでよかったはずだ。
     後藤が鳴り物入りで新設させた特車隊全体の係長に他部署に異動していた五味丘を抜擢し、そして自ら第三代課長として特科車両二課へと帰るのは、それから三年後のことだ。

     
    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/30 16:58:23

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    #パトレイバー #ごとしの #死にネタ
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