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    しおり
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    しおり
    早春賦師走冬凪東雲みづとりさねかずら追儺幽襟早春賦鰆東風師走

    窓から眺める街は黄昏に沈んで、何の表情も見出せない。ただ、忙しなく行き過ぎる車のライトとビルに灯る蛍光灯の白い明かりだけが、世界に人工的な彩りを与えている。
     あと幾日かで冬至ということもあり、まだ午後三時を回ったばかりなのに、もう太陽は西に去っていた。銀座方向に見える電光掲示板が示す明日の天気は雨。寒く、そして忙しい一日となるだろう。スリップによる交通事故を始めとして、例えば雨でぬかるんだ足場は、ちょっとした不注意から様々な事故を引き起こす。その危険性はこちら側にも言えることだ。明日出動する各小隊は、さぞ神経を使うことになるだろう。そういえば、明日は誰の隊が出るのだろう――。
     つれづれとした物思いは、エレベーターの到着を告げるベルの音で中断された。
     しのぶは、頭を軽く振って、思考をリセットする。ここ、本庁に戻ってもうすぐ三か月だというのに、まだ自分の脳はあの埋立地に所属しているままのようだ。
     ドアが開くのを待って、体を滑り込ませる。すぐに向き直り、目的階のボタンを押す。すべては日常の動作、つまり無意識の産物であり、脳はまた、つれづれと続く考えを勝手に再開した。
     ――しかし、今日の会議はいつもにも増して無意味だった。書類上で明らかになっている事項を確認し、許可を出すだけのことなのに、なぜあそこまでだらだらと話し続ける、そう、討論ですらない話し合いをすることが必要なのか。しかも二時間以上を費やした挙句、次回まで保留というのが、本日出た結論なのだから。
     思わずため息が出る。
     誰も、こちらの言わんとすることを汲み取ろうとしない。このことは、しのぶにとって目下のところ最大のストレス要因であった。今は一刻も早く自分の席に戻り、気分転換にコーヒーでも飲みたい。はやる心のままに、「閉」ボタンを無意味に二度,三度と押す。と、
    「あ、待ってください、乗ります」
     閉まりかけたドアに向かって、一人叫んでくるものがいる。慌てて「開」ボタンを押すと、相手は「いやあ、どうも」と言いながらボタンを押そうとして、そこで初めてしのぶの顔を確認し、
    「あ、南雲さんでしたか」
     と人懐こい笑みを浮かべた。
    「あら、宮本さん。あなたも会議だったのかしら」
    「そうなんですよ。いやあどうも疲れちゃって」
     いいながら、こきこきと首を回す。宮本は二課に行く前に同僚だった男で、現在は警備部から、以前から希望していた刑事部へと異動している。彼の方は捜査会議だったのだろう。資料を小脇に抱えなおすと、
    「南雲警部もお疲れのようで」
    「ここのところ連日のようにだから、どうも、ね」
    「でも、前に比べたら楽なんじゃないですか?」
    「前と比べて?」
    「そう、だってあそこって、連日連夜の出動でしょ、よくやりましたよね、感心するなあ」
    「それほどハードなものでもないわよ、それに、連日連夜なのはそちらも同じじゃないかしら」
     言いながら、宮本の足元を見る。他の刑事達と同様、彼も底が磨り減りくたびれた靴を履いていた。戦後最悪の検挙率を返上するために、足を文字通り棒にして歩き回っているのだろう。
     宮本はそういわれて、「いやあ、でも仕事ですから」と笑う。そして、それに、と言葉を付け加えた。
    「それに?」
    「それに、うちは一課だから聞こえがいいけど、南雲さんはあの二課だったでしょ? しかも同僚はあの後藤喜一だったと来たら」
     あの、の部分に特に力が入っていた。
     警視庁一の場末とまで言われる特車二課。悪評はもう散々聞き慣れているが、それでも気持ちのいいものではない。
    「宮本さん、私は二課について」
    「いやいや、あんな僻地にいる人じゃないですよ、帰ってきて当たり前ですって。あの人と違って。じゃ、僕はこれで」
     宮本がしのぶに、軽く手を上げて挨拶するのと、エレベーターの扉が開くのはほぼ同時だった。しのぶが何かを言おうとしていることにも気付かず、彼はそのまま降りて、人懐こい笑みを浮かべたまま手を振った。
     多分彼には想像出来ないのだ。しのぶが本当にあの職場と元同僚を、悪く思っていないことなど。
     いや、正しくはここの建物にいる人間のほぼ全員がだ、としのぶは考えを訂正した。
    苦々しい気持ちが胸に溜まる。あのようなことを言われたのは、別に今日が初めではなかった。彼らに害意はなく、しのぶの本庁復帰を心底喜んでくれていることはよくわかる。
     だからこそたちが悪い。
     しのぶはまた、大きくため息をついた。
     
    「南雲警部」
     部署に戻ろうとドアに手をかけた瞬間、向こうから来た部下に声を掛けられる。あまり良い傾向とはいえないだろう。そんな内面のつぶやきなどおくびにも出さず、しのぶは返事をした。
    「なにかしら」
    「大沢課長がお呼びです」
     しのぶは心の中で大きくため息をついた。コーヒーは当分お預けのようだ。
    「ありがとう。では連絡などがあったらよろしく」
    「了解しました。……しかし」
    「しかし?」
    「大沢警視もなんだかんだと細かい方ですよね。今週に入って何度目ですか?」
    「そうね、私も数えてないから判らないわ」
     そういって曖昧に笑う。部下もそれにつられて、やはり曖昧に笑った。
     その場で部下と別れて、しのぶは来た方向へと向きを変えた。そしてまたエレベーターホールに戻って、登りボタンを押す。そして目指す部屋に行くまでの間、しのぶは努めて何も考えないようにした。
     目的の部屋のドアの前で、一旦止まる。
     一度、控えめに深呼吸をする。
     そうして気持ちを改めてから、二度、軽くノックをした。
    「南雲です」
     入って告げると、年若い秘書が一度わざとらしく顔を確認して、「警視が中でお待ちです」とそっけなく告げる。声にとげがあったり、視線が妙に険しく感じるのは、自意識過剰だけではないだろう。
     しかし、それには気付かない振りをして、しのぶは「わかりました」と返す。慣れたやり取りだった。
    「南雲です、入ります」
     そういって次のドアを開ける。奥の部屋には今の上司である大沢が、薄く笑みを浮かべて待っていた。
    「お、待っていたよ南雲警部」
    「ご用件は」
     失礼にならないぎりぎりのそっけなさで応じる。大沢は特に気を害するでもなく、
    「君の提出した、特車二課の、第三小隊創設の件についてだ」
    「そのことについては、常々申し上げているとおりです。今特に付け足すことはありません。つい先日も、同じことを申し上げたはずですが」
    「いや、私もこのことで、何度も呼び出して悪いと思ってはいるんだ」
     声だけ聞けば、部下のことを本当に労っているようにも見えるだろう。だが、しのぶはそれを醒めた目で見ていた。
     今週に入って四度、このことで呼び出されている。二課のことを考えているわけでも、この問題について、本気で話し合う気などないことは良くわかっていた。まだ二課の人間だったころから、第三小隊設立についての動きはあったが、その度に邪魔立てをしたのが大沢だということを、しのぶは知っていた。最後の最後で横やりを入れて、一度は二課棟に導入された第三小隊用のレイバーを、千葉県警に売り渡したのもまたこの男だ。二課にまわす予算などもう一銭もないし、これ以上人員をあの墓場に送りこめない、というのが理由だということも。
     これから行われるのは、いわば即興の茶番劇なのだ。
    「では、本日のお話というのは」
    「うん、この件についての争点を、もう一度確かめておきたくてね。来週にまた、このことが議題に上がるから」
    「……何度も申し上げましたとおり、都内のレイバー稼動数は年々増加し、それに比例して得車二課の出動回数も上がってきております。第一、第二小隊でカバーできる犯罪件数は限られており、その限界値に限りなく近づいている、ということもまた、何度も申し上げました」
    「いや、判ってるよ南雲君。本当にくどいことをさせて悪いと思ってるさ。でも、万全を期したい、という私の気持ちも判ってくれるだろう。第三小隊創設については、私と君はチームなのだからね」
     チームと言ったとき、大沢はしのぶの目をまっすぐに見つめた。そこに浮かぶ光を見て、しのぶはますます心が落ち着き、そしてどんどん冷静になる。
     大沢は、客観的に見れば背が高く痩せていて、年齢の割には軽薄なだけあり若く見え、そして顔の造詣も並以上だろう。昔の、まだ若かった自分ならば、今の目を見て、あるいは逆の感情を抱いたかもしれない。
     そう、昔の自分ならば。
     そんなしのぶの内心など知らず、大沢はさらに言葉を重ねた。
    「いまのところ第三小隊創設の可能性は五分五分といったところだ。君が作成してくれた書類でその数字も創設のほうに傾くと思うが、いかんせん佳山部長らが二の足を踏んでいる状況でね。……どうだろう、今度、作戦会議でもやったほうがいいかもな」
    「会議とおっしゃいますと」
    「部長達を説得するためには戦術をもう少し練る必要があるかもしれない」
    「……それは、まず来週の会議の結果を受けた上でのことでしょうか」
    「来週、そうだね、確かにそうだ。まずは来週が終わってからだ」
     大沢は何度も頷きながら、もう一度しのぶの目を見た。「そういうこともあるだろうから、よろしく」
    「……覚えておきます」
    「では、下がって宜しい」
     失礼します、と頭を下げながら、しのぶはもう一度思う。
     以前の自分ならば、いまの誘いも、甘美に聞こえたのだろうか。
     まだ、目の前の男に夢中だった、物を知らない若い自分ならば。
    「南雲君」
     出る直前に、再び声を掛けられる。
    「……なんでしょう」
    「いや、クリスマスも近いことだ、その内飲みにでもいこう」
    「……ありがとうございます。課長もご家族と良いクリスマスを」
     再び頭を下げ、今度こそ足早に部屋をでる。そのままエレベーターホールに向かい、来たものに乗ったところで、しのぶははっと息を吐いた。
     胃のあたりが重い。
     何故昔の自分が大沢に惹かれ、焦がれていたのか、今、しのぶには全く理解出来なかった。
     彼がなにを考えているのかは知らないが――正確には知りたくもないが、第三小隊設立の最大の障害を挙げろと言うなら、今も昔も間違いなく大沢警視その人だ。問題点を特に検討することもなく、上に掛け合うこともなく、戦略すらない状況でなにが戦術だというのだ。
     まず、戦術というのは大沢が思い描いているであろうものと根本的に違うものだということを、しのぶは良く知っている。
     ――――――。
     そう、よく知っている。
    同僚として、大体は頭を抱えて、ごくたまに頼もしい気持ちで、彼が戦術を練り、人や事象を巧みに操っていくのを、しのぶは何度となく見てきたのだから。
     あの男ならば。
     戦術というものを良く知っているあの男ならば、こんなときいったいどう動くのだろう。
     
     不意にメランコリックな気持ちに襲われそうになって、しのぶは慌てて思考を切り替えようとした。
     しかし、ギアは上手く動いてはくれない。

    ――ねえ、しのぶさん、少し難しく考えすぎなんじゃない。だってさ、……。

    「……全く、私も弱気になってるものだわ」
     わざと声に出してつぶやいた。
     異動から三ヶ月、そして後藤と最後に会ってから、同じく三月近くが過ぎている。しかし思い出した声の輪郭は、とても鮮明なものだった。


    冬凪

    「……したがって、同地区の犯罪発生率を前年度と比較してみますと、全体で二十五パーセント増、内レイバーに関わります犯罪は、そのなかの二割に達しており、これに伴う形で特車二課の出動件数も比率にしますと……」
     大沢の間延びした、緊迫感の無い声が会議室に響いている。声と同じように話している内容も間延びして、まとまりなく、焦点がぼやけすぎていて、聞いている方が欠伸を噛み殺すようなものだ。
     スライドの明かりに照らされた出席者の顔は、どれも退屈を絵に描いたようなものだった。真剣に聞いている素振りをしているものの、目や纏う雰囲気で、誰も今の議題に興味を持ってないことは明らかだった。
     しのぶは内心で嘆息する。資料を揃え、書類を作成し、概略を作るだけでは足りなかった。やはり最後まで自分でやるべきだったのだ。少なくとも、大沢に任せるべきではなかった。
     実際、しのぶは大沢にそう掛け合ったのだ。この件は内部事情を良く知っている自分が適任であると。しかし相手は一枚上手だった。戦略などではなく、性格のいやらしさと陰険さが。
    『いや、ご苦労だった。あとは僕に任せておきたまえ』
     今までの話などなにも聞いていませんでした、といわんばかりのあのときの大沢のにたりと笑った顔を思い出し、陰鬱たる心地になる。
    「……では、次のグラフをご覧下さい」
     ガシャ、という機械音と共に、正面のスクリーンに新たな円グラフが投影される。
     そのカラフルな画面の色彩が、急にぼんやりと薄れた。
    「失礼、出動が掛かったため遅れました」
     入ってきた男は自分に視線が集中していることを気にするでもなく、「あ、続けてください」と先を促す。
     その言葉に従ったわけではないだろうが、会議室の面々は再び前方のスクリーンに目を移す。「早く座りたまえ」という注意のあと、再び始まった報告の中、「いや、ごめんごめん」と小声で誰かに――先に来ていた五味丘第一小隊長であろう――に謝る男の声が聞こえた。
     しのぶはそっと下座を窺う。
     久しぶりに見た後藤は、相変わらずの表情で会議資料に目を通している。なにを考えているかわからない、ではなく、なにも考えてなさそうな様子だ。
    「……このグラフからも読み取れますように、現在の体制では、遅かれ早かれ対応しきれなくなる、ということです。さらに続けますと……」
     大沢は資料を朗読し続ける。
     しのぶは再び会議に集中しようと、意識して視線をスクリーンのある前方に向けた。
     背後から、紙をめくる乾いた音がする。しばらくたってまた一枚。
     そのスピードからして、流し読みではなく、内容を検討しながら資料を読んでいることが窺えた。そして、
    「……で……ってこと?」
    「…………です」
     小声の会話は、大沢の声にかき消されながらも、しのぶの耳にまで届く。内容までは解らないが、後藤が頭から会議に参加している五味丘に、何かしらを問いただしていることは、容易に窺い知れた。
     この部屋の中で、この問題に真剣に向き合っている人がいることが、しのぶには嬉しく感じられた。それが現状を良く知る二課の人間だけで、実際に裁量権があるものではない、としてもだ。一人でなにかを成し得ようと努力することを苦痛と感じる性格ではないが、それでも、いまこうして前向きな感情が自分の中に沸き起こる。ということは、やはりそれなりに参っていたということだろう。闇雲に足掻いていたつもりはなかったが、自覚がないだけで、実際には足掻いていたわけだ。
     しかし、それで事態が変わるわけではない。これは現場の人間の意見が一致している、ということだけを表し、現状は改善どころかしのぶにとって好ましくない状況へと進もうとしている。ならばどうにか――。
    「と、いうわけで、結論を申しますと、特車二課パトロールレイバー中隊に、新たなる部隊を創設するは必然の成り行き、ということです」
     提案を締めくくる声でしのぶは物思いの渦から現実に引き戻された。
     会議に集中しなくてはいけないときに、自分はいったいなにを考えていたのか。いや、考えていたこと自体は、会議とは相反しない。しかし、会議の行方に注目していなくてはいけない状況下にありながら、意識して自分の心理をコントロールしなくてはうまく集中出来ず、しかも時にその手綱も流されがちになっていることを、他ならぬ自分自身に証明されてしまったようで、しのぶはなんとも居たたまれない気持ちを味わった。
     ――ほら、今も、としのぶは自身を律した。考えている側から、思考が感情に流されている。先程までは、思考回路と会議は両立出来ていた。なのに今はどうだ。
     胸の中で嘆息し、今度こそと、心を会議に向ける。意識を強く持てば、それは大して難しいことではないはずだ。
    「……なるほど。問題点は確かに山積みではあるな」
     徐に佳山警備部長が口を開いた。それを契機に、出席者から次々と意見が出される。
    「しかし、二課の配置人員の変更前後を見ると、今はかなりスムーズに事件の解決がはかられていると思うのだが、どうだね?」
    「それに、犯罪比率のみを単純に引っ張り出してくれば、そのようなデータが生まれるかもしれないが、他のデータも検討してみないことには、第三小隊創設が有効な手段であるとはいえない、と私は思うね」
    「確かにそうですな。事態収拾の時間は、一回の出動に対して……、ここには平均五一分十七秒とある。以前の三分の二に縮まった、ということは、予算との兼ね合いもありますし、ここは効率から考えて」
    「いやいや、効率といわれますが、福利厚生の面も考えなくてはいけないと」
    「ですが、福利面は特に違反は見られませんな。刑事部の方がそれならもっと問題があるでしょう」
    「確かに、警視のおっしゃられる通りですな。一つの部署の贔屓は組織全体に悪影響を与えるものですから、ならば」
    「ならば、なにといわれますか?」
     大きくもないその声の響きに、会議室は急に静まり返った。
     一見、身の入ったように聞こえる議論であるが、その実話している内容といえば提案の表面のみをなぞったものであり、しのぶが資料で明らかにした数々の問題点、例えば今後五年間におけるレイバー犯罪の発生予測とその質、そしてそれに対する警察の無策ぶりといった、より本質に近づいたものには誰も触れようとしていない。そこに敢えて踏み込まないようにしていた大沢の話だけで、すべて判断されようとしているのは明らかであった。第三小隊の設立は一つの到達点に過ぎず、そこから警備部全体にも及ぶであろう、新たなる体制を確立すべく、今から行動すべき。それが本来の主張なのである。
     解っている。それは決してテーブルには登らないのだ。今日の会議でも、これまでもこれからも。
     これが茶番であると解っていても、理性が感情を上手くセーブ出来ていない、と感じながらも、なお言い立てずにはいられなかった。
    「効率が上がっているのは、ひとえに二課に配備された人員が、身を粉にして職務に勤しんでいるからに他ならず、そして、それは現場で培った経験から導かれた結果であり、こちら側の対応が万全だったからではありません。このままでは、近い将来に来るであろう破綻が、目に見えています」
     そこまで一気に話し、しのぶは会議室を軽く見渡した。
     広くもない部屋には、沈黙が満ちている。嫌な種類のものだ。しのぶを見る目は驚愕であったり、陰険であったり、あるいは邪険であったりしている。
     真剣にしのぶの目を見ているのは、ただ二人きりだった。
     そのうちの一人と、目が合う。
     かつては毎日のように見ていたその眼差しとしのぶのそれとが刹那、交差した。
     ほんの一瞬だけ。
    「あの、いいですかね」
     しんとした議場で、そろそろと手を上げたのは、後藤だった。
    「……なんだね」
     大沢が渋々といった様子で先を促す。出来れば口を開いて欲しくなかった、そんな彼の気持ちが顔にあからさまに表れている。しかし後藤がそんなことを気にするわけもなく、
    「現場の声、っていうわけでもないんですが。我が第二小隊と、こちらにいる五味丘警部補率いる第一小隊の、下半期の出動回数を数えますと、同時に出動している割合が三割を越えております。これは第三の出動要請には、すぐには応えられない、ということです」
     そこで後藤は言葉を切った。つられるように大沢が続ける。
    「うむ、誠にゆゆしき事態だ。君の言う通り現場からの報告というのは生々しいものがあるな。だからだ……」
    「と、いうことがこちらの資料、現場をご存知である南雲警部が作成したものの七ページ目に記載されていたわけですが」
     さらりという。
     大沢が思わず黙りこむのを傍目に、後藤は佳山警備部長へと視線を移した。
    「部長もお読みになられました通り、犯罪増加予想が最低ラインを辿ったとしても、もう二隊だけじゃ埒があきません。これは後々、警察組織全体への信用問題などへも発展する可能性が高い、と考えます。……ここにいるみなさんにも降りかかってくる問題ですし、まずはこの資料を基に、さらなる検討を重ねたいところだと思うのですが、如何でしょう?」
     ごく短い時間、佳山と後藤の視線が絡み合う。咳払いをして、先に視線を資料に落としたのは佳山のほうだった。
    「そうだな。君の言う通り、今の大沢警視からの報告に加え、レポートの内容もよく審議しなければいかんようだ。南雲警部、とりあえず簡単に内容をまとめてもらえないだろうか」
    「――はい」
     資料を手に立ち上がると、横から大沢の視線が投げられてくるのが解る。しかししのぶは全く気にならなかった。
     しのぶは一ページ目から要領よく、必要な部分だけを抽出して報告をした。これ以上ないというぐらい簡潔に、しかし大事な部分はことさらに強調しながら。その問題は意識すらしてなかった、ともう誰も言えないように。

     会議が終わってすぐ、しのぶは部屋から出て、すぐにかつての同僚と部下の姿を探した。広くないエレベーターホールの中、オレンジと紺の制服はすぐに見つかった。
    「五味丘警部補。……あら、後藤さんは?」
    「待機中だから、と先のエレベーターで降りていきましたよ。よろしく、とのことです。……お久しぶりです、警部」
    「お久しぶりね、隊長」
     五味丘は、昔から変わらぬ誠実そのもの、という笑顔で挨拶をしてくる。しのぶが二課を離れると決まったとき、同時に五味丘が二課に復帰し自分の跡を継いで第一小隊を率いることも決まっていた。
    五味丘なら大丈夫だ、課長からそれらのことが伝えられたとき最初に思ったのは、そのような気持ちだった。
    第三小隊の隊長候補として警部補に昇進し、その後すぐに千葉に去って行ったレイバーと共に、千葉県警警備部レイバー隊創設準備室顧問として出向していた五味丘が、自ら手を上げて戻ってきてくれると聞いた時、しのぶは管理職として二課で働いた五年ほどが報われた、と強く感じたのだ。後藤はよく「自慢の部下」というフレーズを口にしていたが、それはしのぶも同じだ。自分が去った後を安心して預けられる部下を持てたとことは、しのぶにとってこの上ない幸福の一つである。
     しのぶが最上級の信頼を寄せる元部下は、しのぶに隊長と呼ばれたことに対して、なにか気まずそうに微笑んで、「南雲警部に隊長、と呼んでもらうとなにか不思議な感じがしますね」と正直な心境を述べた。
    「最近はどう? 年末だから工事も多いし、猫も杓子も、という感じかしら」
    「全くですよ。南雲警部のお言葉に乗るなら、猫の手も借りたい、というところです」
     二人は思わず小さく微笑みあった。二課棟にいたころは、このようなやり取りをすることがあるとは想像もしなかったからだ。しのぶにしても五味丘にしても、その真面目な性格が生活の端々までを支配している気がある。
    「で、後藤隊長に御用でしたか?」
    「いえ、用というか……。先程進行を助けてくれたから、そのお礼をと思ってたのだけど」
    「ああ」
     五味丘はなるほど、という風に頷いた。
    「後藤隊長のことだから、きっと……ああ」
     五味丘が発言を途中で止めたのは、エレベーターの到来を告げる電子音がフロアに響いたからだ。例え第一小隊が準待機であるにせよ、彼は出来るだけ早く埋立地に引き返す必要があったし、彼自身もそう考えているはずだ。
     かつての自分がそうだったように。
    「また今度、ゆっくりと話せるといいわね」
    「そうですね、そのときは前任者として、任務のことや同僚との付き合い方についてご伝授ください。では、また」
     やはり後藤隊長はくせが強い方ですよね、と五味丘はそれを全く苦にしていないと笑顔で言う。
    「……後藤さんによろしく」
     最後に付け足すように告げると、「わかりました」と、答えてエレベーターの中に消えていった。
     彼を見送って、しのぶは人波が引いたエレベーターホールで人知れず息を吐いた。
     とりあえず、新第一小隊長と初代第二小隊長は、それなり以上の人間関係を保ちながら仕事をこなしているらしい。良いことだと、しのぶは素直に思う。あの場所では、人間関係の良し悪しがそのまま仕事へと跳ね返る。狭い世界だから、それはしょうがない。だから、例え水と油と互いに思っても、それぞれが歩み寄る努力をしなければいけないのだ。
     かつて、自分と後藤がそうだったように。
     後藤は待機中だから、と一足先に駐車場へと向かったと、五味丘は言っていた。自分と彼が同僚だったころには余り考えられない勤務態度である。真面目に仕事をこなすことが、五味丘への歩み寄りの一環なのかもしれない。
     そう考えながら、一方でしのぶは後藤が早く降りていったのは別の理由だろうと、無意識の部分で確信していた。
     しかし、そのことについて、自分はなにも出来ない、ということも。
     ――純粋に礼をしたかったのに。
     しのぶはそっと、ため息をついた。
     大沢が資料を使用していないことを逆手に取り、しのぶに発言の機会が廻ってくるよう場の空気を動かしたのは、自分もまた当事者だという意識が働いたからかもしれない。
     そして、あの一瞬で、しのぶの中にあるのが怒りよりも焦燥だったことを後藤が読み取ったことも、また、確かなように思われた。
     全く、なんて自分に都合の良い解釈なのだろうと、思わず苦笑する。
     しかし、先程のように一瞬で意思を読み取り、それに沿って互いの行動を組み立てるというパターンは、主に本庁での会議のとき、後藤としのぶの間でよく見られたことだった。大抵はしのぶが切り込み隊長の役をいつのまにか背負い、最後のところで後藤が駄目押しをする。たまにイレギュラーなことが起こった場合は、そうやって二人で窮地を切り抜けてきたのだ。
     後藤は何に対しても一歩引いていて、ひねくれた性格の持ち主ではあるが、仕事のパートナーとしてはかなり頼りになる、と気付いたのは共に働き始めて一年近く経ったころだったか。なんだかんだいってしのぶは後藤を同僚として信頼していた。
     久しぶりに、その感覚を思い出した気がする。
     だからだろうか、しのぶは後藤と話したかった。少しだけで良いから、言葉を交わしたかった。
     そして。
     なにも変わっていない、と確かめたかったのだ。自分がそう、望んだように。
     しのぶは不意に笑った。今の考えが余りにも勝手で、自分本位すぎたからだ。
    これは私ではない。仕事がうまく進んでくれないからと出てきた、他の自分だ。
     窓の外には、年末に浮かれた街の姿が見える。あと何日かすれば全く新しい年が始まるのだ。この国には、古来から、年が明けたらすべては新しく、真更になるという考えが古くからある。だから、かつて自分に誓った通り、ここで一人戦っていく、という決意もまた新しく出来るだろう。
     まるで言い聞かせるように、しのぶはそう、心でつぶやいた。


    東雲

     三箇日はつつがなく過ぎていった。

     しのぶは丸みを帯びた湯飲みを手で包み込みながら、冬枯れの庭をただ眺めていた。去年の今ごろは、暖房もろくに効かない隊長室で、すぐに醒めるコーヒーを静かに飲んでいたはずだ。
     長くローテーション勤務に慣れていた体には、この状況はむず痒い。箱根の山を登る学生を見ながら、炬燵の中で蜜柑を剥くなんてことは、去年までしのぶの人生には組み込まれていなかったのだ。代わりにあったのは、巡回や待機、寒空の下で、御疎とを飲んでいい気になって、酔っ払い運転をしたレイバーの取り締まりといったものだった。
     自分を取り巻く世界がすべて変わったことを、しみじみと実感する。
     テレビの画面には、大手町の街を駆け抜けた大学生達が、ゴールへと飛び込んでいく姿が映し出されていた。箱根の山を下りはじめて大体五時間。駅伝とはいえ脚力だけであれだけの距離を走破するのだから、心底頭が下がる。最後の大学がゴールしたのを見届けて、しのぶはテレビを消した。
     別に箱根駅伝のファン、というわけではないが、今年は何故かチャンネルを合わせていた。多分、去年まで待機しながら見るともなしに見ていたから、身に染み込んだ習慣になっているのだろう。
     外は良く晴れていて、少しだけくすんだ空色と枝の媚茶が切り絵のようなコントラストを描いていた。
     湿度機が蒸気を吐き出す軽やかな音と柱に掛かった時計の秒針が時を刻む音が、部屋を満たしている。少し耳を澄ませば、台所のほうからタタタ……、と包丁の小気味よい調子が聞こえてくる。後は、ただただ静寂のみ。
     元々交通量が少ない町ではあるが、今日はごく偶に通る自動車のエンジン音がやけに耳についた。
     正月とは、こんなに静かなものだっただろうか。
     その行事から遠ざかって久しかったしのぶには、まるで知らない町に迷い込んだかのような錯覚すら抱いてしまう。
     この町の静けさは、彼女を酷く落ち着かなくさせた。
     何かを持て余している。いや、この空間が、自分を持て余しているのか。
     剥き終わった蜜柑を一房、口に運んだ。小ぶりのそれは、予想していたよりもややすっぱい味だった。
    「しのぶ、お雑煮食べる?」
     お勝手の方から母の声がする。時刻は午後一時半を回ったところだ。正月特有のまどろむ空気はここ成城にもしっかり浸透しており、朝食は信じられぬほど遅い時間に頂いている。しのぶは少しの間だけ、胃袋があるであろうあたりを軽く眺めてから、
    「食べるわ」
    「お餅は二つ? 一つ?」
    「一つ」
     微笑しながら答えると、「すぐ出来るから」と返事が来た。
     正月休みの間、しのぶはあまり台所に立っていない。母が『正月に家にいる娘』に慣れず、事あるごとに「いいから休んでなさい」と彼女を炬燵へと追い返すからだ。母には去年までの、寒空の下昼夜の区別なく働き続ける娘のイメージが強く残り、人並みの暮らしをしている姿が、まるで降って湧いた僥倖のように感じているらしいのだ。尤も、来年は明治神宮の警備班に編入されている可能性もあるので、母のその思いも的外れとはいえないのだが。
     鼻にだしと醤油のかもし出す柔らかい香りが届いた。
     しのぶも料理は一通り出来るが、まだ母の味には程遠い。
     ほどなくいつものように着物に白い割烹着姿の母親が、娘の前とその向かいにお椀を置くと、「じゃあ頂きましょうか」と温かい笑みを浮かべた。
     本当に久しぶりの、絵にかいた正月の風景だ。
     先程は自分の生活から母の態度を考察したしのぶだが、一方で彼女が、こういう正月を迎えたかったのではないか。そんな考えが、ちらりと頭を掠める。
     今は親不孝な生き方はしていない、といえるが、孝行娘、ともいえないと思う。選んだ職業にしても、そのあと辿った道にしても、心労を掛ける方が多いのだろう。
     しかし、母はそんなしのぶを見守り、なにも言わず、振り向けば微笑みながら、常に側に立ってくれている。
     父に対してもそうだった。思慮に富んだしなやかな強さを彼女は持っている。
     母として、人生の先輩として、そして人間として、頭が上がらない。
     この普通の正月が、仮に母のささやかな望みであったなら。今の瞬間に、素直に感謝すべきだろう。
    「そうそう、お年賀のお返事はあるの?」
    「特に無いわ。どうして?」
    「今日出しに行こうと思って。それで、ついでに、と思ったのよ」
     ほんの二、三通だけだったのだけどね、と母は笑う。昔、父がいた頃と比べて、南雲家に届く年賀状は格段に減っていた。そうやって、少しずつ人のいた痕跡は風化していく。それは寂しくもあり、相反するところで救われることでもあった。
     しのぶには同僚や友人たちの他、かつて二課にいた面々から年頭の挨拶状が届いた。字や文にはその人が表れるというが、葉書、という小さなスペースの中であっても、一人一人のもつ個性が見事発揮されている。
     例えば榊からのそれは大きく堂々と「迎春」と書かれ、五味丘は几帳面な字で「新年のお喜びを申し上げます」。他にも外国へ移った友からのグリーディングカードや写真とコンピューターを駆使した妙に凝っているものなど、見ているだけで温かい気持ちになるものが多い。
     そして。
     しのぶは先程郵便受けから取ってきた年賀状の束の中にあったそれを思い出した。
     後藤からの挨拶は、店で売っているプリントされた「謹賀新年」の文字の下、達筆とはとてもいえないが読みやすい字でただ「今年一年の息災を祈ります 後藤」とだけ書かれていた。元旦に届かなかったのだから、クリスマスイブまでに投函出来るような余裕はやはりなかったのだろう。
     そういえば、去年まではどんなものが届いていたのだろう。
     いかんせん、年賀状に目を通すその前に本人に会うのだから、余り気にも留めていなかったが、やはり似たような言葉が書かれていた気がする。後藤という男はあれでいて変なところで律儀に出来ていて、節目節目の挨拶は欠かさずに送ってくるのだ。案外にマメなのね、と皮肉交じりに揶揄したのはいつの話だろう。
    「――ごちそうさま。美味しかったわ」
     そういって椀の蓋を戻すと、母が「お粗末様でした」と笑顔で答える。と、廊下から聞きなれた電話のベルの音が鳴り響いた。

     辛うじて幕の内に掛かる日の六時に、銀座で。
     落ち着いたベージュのコートを着込んだ環生が待ち合わせ場所に現れたのは、毎時ごとに曲を奏でる仕掛け時計の人形達が仕事を終えて、奥へと消えていくときだった。
     挨拶もそこそこに、以前から環生が目をつけていたという串焼きの店へと向かう。吐く息は濃く、白く、冬がまだまだ続くことを視覚で教えてくれた。
     気取らず、構えずに付き合える友人はなによりも貴重だと、この年にしてしみじみと思う。気配りが出来、相手を心から思い遣れても、愛想や世辞を振りまけないしのぶの周りには、数は多くなくとも深く誠実な付き合いが出来る人間が自然と集まった。その中でも、環生は臆面もなく親友だと言い切れる、大切な存在である。まだ学生だった頃から、互いの愚痴を、惚気を、喜びを、悲しみを話してきた間柄だ。
     今日もまず乾杯をしたあと、すぐにそれぞれ持ち寄りたかった話に映る。会話の中身こそ講義や教授の印象、小耳に挟んだ噂話といったものから、伝え聞いた旧友の近況や職場、家庭の愚痴、あるいは惚気へと変わったが、スタンスだけは昔のままである。
     その心地よさに、しのぶは酔った。気が緩んでいる、と意識できたのはどれくらいぶりだろうか。
    「で、新年早々その上司と喧喧諤諤としたわけ」
     ねぎま、ハツ、カシラ、レバー、チーズと立て続けに味わい、さらにつくねとししとうを追加したあと、環生はそう水を向けてきた。
     吟醸の上燗は舌の上で薫り高く蒸発していき、喉を柔らかく降りていく。酒には強くも弱くもないが、日本酒には酔いやすい。まだ少ししか飲んでいないのに、酔い始めていることをしのぶは自覚していた。目の前の友人は自分よりも多い量を飲んでいるはずなのに、素面と大して変わっていない。
     鳶色の壁に柔らかな照明が当たる店内は、大体八割ほどの入りだ。程よい喧騒と美味しい酒。ちょっとした開放感すら感じながら、しのぶはさらりと返した。
    「喧喧諤諤、ってほどでもないわよ」
    「そうなの? 去年聞いた話だと、相当にやりあってるような印象だったけど」
    「やりあってはいるわよ。でも、一発触発とかどっちが先に刺すか、とかそんなピリピリした空気じゃないわね」
    「なるほど。それじゃますます辛いんじゃない?」
    「全くよ」
     苦笑いを浮かべて、しのぶはお猪口を傾けた。
     人間関係がここまで絡み纏わりつくものであると、近年忘れていた気がする。それでなくても二課の、現場の代表という立場である自分と、本庁の人間が上手く折り合える訳も無いというのに。さらに、自分と大沢の間には、消したりたくても切り捨てられない昔の緊密な関係の名残が錆のように付随している。その錆は日々浸蝕を進め、やがて全体を崩落させるだろう。その影響が自分にだけ向けば、それに越したことはないのだが。
    「なに、難しそうな顔をしてるのよ」
    「え? そんな顔してた?」
    「してた。……しのぶ、あなたけっこう参ってる?」
     気遣わしげなその声に、しのぶは胸を熱くした。
    「大丈夫よ。本当にダメになったら、そのときは遠慮なく泣きつかせてもらうわ」
    「ダメになる前にいらっしゃいよ、どうせなら」
    「そうね、でも本当に大丈夫よ。……ありがとう」
     心を込めて告げると、環生は「なーにいってるの」とカラリと返してくる。照れてるのだ。
     こういうとき、自分は幸せだと思う。この生き方を理解し、時には手助けをしてくれて、見守ってくれる。そんな人が周りにいる。これ以上の財産が他にあるだろうか。
     意固地なところがあり不器用だと自覚しているから、余計にそう感じるのかもしれない。
    「ああ、それにしのぶには心強い味方がいるものね」
    「味方?」
    「そう。……で、例の同僚さん、元気?」
    「え?」
     環生の目が楽しそうにきらめいた。そこにいるのは、自衛隊きっての才媛ではなく、友人の色恋に興味を示す普通の女性だ。しかし、環生がそのような態度を取るのは珍しい。いや、最近はある人物の名前と共に、よく見る表情でもあるのだが。
     しのぶがそのことを指摘する前に、環生が口を開いた。
    「そう、後藤さん」
    「さあ……、元気だったわよ、年末に見たときは」
     しのぶは出来る限りさり気なく答えた。
    「なに、他人事みたいに」
    「他人事なの」
    「あら、軽井沢の君、でしょ」
    「――っ! だから、あのね、環生。私と彼は同僚だったのよ。分かる? 同僚よ、同僚」
    「の割には、顔が赤いわよ」
    「環生が君、とか言うからでしょ!」
     アルコールが必要以上に回っている。少しの高揚感と浮揚感がしのぶの脳を覆っているようだ。酩酊の初期段階は口に出ると、昔聞いたことがある。つまり、二人とも酔っているというわけか。
    「でも、元同僚として、時々は会うんでしょ?」
    「会わないわよ。大体職場が違いすぎるわ。それでなくても、後藤さんは本庁嫌いだし。それにね――」
    「それに?」
    「環生だって、そう、普通は異動になった同僚にいちいち会いに行かないでしょ? 普通」
    「ま、それはそうだけど」
    「そういうことよ。同僚は同僚。それ以上でも以下でもないわ」
     同僚の部分を強調するように、しのぶは指のアクションまでつけた。「それだけの関係よ」。
    「ふーん」
     環生は眼鏡越しに、何か探るような視線を投げてくる。探偵が容疑者を前に、並べられた条件を吟味しながらそ知らぬ振りをしてるような、そんな印象を受ける。
     胸の奥、自分でも滅多に覗き込まないヴェールの向こう側まで見られている心地がして、しのぶはごまかすようにお猪口の中身を一気に煽った。ツ、と食道を熱い感触が通り過ぎる。日本酒と一緒に別の何かも無理無理に飲み込んだような、そんな胸苦しさがほんのりと感じられた。
     即席探偵たる友人はしのぶのそんな様子を興味深めに見た後、
    「そんな急に飲むと回るの早いわよ」
     といいながら、空になったお猪口に酒を足す。陶器を通して伝わってくる熱は少し温くなっていて、指の先が心地よい。しかし、その味わいはやや落ちていることだろう。
    「平気よ。元々悪酔いはしない性質だし」
    「ほら、少し酔ってきてる」
     そんなちゃらんぽらんな返答をして、と環生は笑った。そして、
    「にしても……。そう、同僚、か」
    まだこの話題は続くらしい。しのぶは漣立つ内心を抑えながら、努めて明るく言った。
    「そう、同僚。まああんなアクシデントがあったから、傍からじゃ分かりにくいんだろうけど。他にオプションはなし」
     そう、同僚。声には出さずに、もう一度だけ繰り返した。
    付随オプションは全く無い、シンプルな関係。
     友人ですらないのだ、あの男とは。
    異性として意識していなかったのかと言われたら否と言わざるを得ない。友情を感じなかったといえば嘘になる。だが、友人にはならず、情を交わすことも自制して、互いに暗黙の了解のようにどこまでも同僚としてしか接していなかった。二人きりで顔を突き合わせつづけた時間は、友人よりも、恐らく世間一般の夫婦よりも多いだろう。だから、あの謎と疑惑で彩られた男の大抵のことは推し量れるようになった。会話も山のように交わした。仕事のことから雑談まで、話題は多岐にわたる。
     でも、すべては同僚の枠に収まるのだ。こう振り返ってみれば、なんとも奇妙な関係だった。そして、それはしのぶにとってとても心地の良いものであった。考えられる限りベストな距離だった、と思う。

     ――しのぶさん、あのさ。

     急に後藤の声が思い起こされて、しのぶはほんの一瞬背筋に震えが走った。
     いったいどうしたのだろう、今日は。環生が言った通り、かなり酔ってきているのかもしれない。
     気を逸らそうとして、意味もなく軟骨を一本手に取る。硬いくせに弾力性があるそれは、噛むとこりこりと音がした。
    「どうしたの? 急に黙っちゃって」
    「環生が言ったとおりよ、やっぱ回っちゃったみたい」
     曖昧に笑いながら返すと、
    「ほら、そうでしょ。……こうなったらとことん酔っちゃいなさいよ」
    「とことん、ってそんな」
    「まあまあ。そういうのも悪くはないんだから。たまにはね」
     環生はそう言って口の端を上げた。「そして、吐き出しちゃいなさい」

     時間は過ぎる。杯は進む。
     環生は、夫と晩秋に行った旅行の話を披露した。
     車で長野の山奥へ出かけたはいいが、事故渋滞に巻き込まれ山道を登り始めた時には既に日が暮れかかっていた。電灯も疎らな暗い道を、手探りで進むようにそろりそろりと登っていく。それでなくても暗いのにさらに霧まで立ち込めてきて、乳白色の闇の中を、大袈裟でなく命の危険すら感じながら道を進むこと小一時間、ふと窓の向こうに見えた看板に書いてあった地名に環生は思わず声をあげた。
     道、間違ってるみたい、と。
    「冗談みたいな話なんだけど、慌ててUターンして引き返し始めた途端、すーっと霧が晴れたのよ。迷っている間は文字通り五里霧中で、道筋を認識した途端視界がクリアになったなんて、本当に出来過ぎ」
    「なんか、小説か映画か、って話ね」
    「そうそう、うちの人も言ってたわよ、映画のロケにでも出てるみたいだ、って」
     目の前の串入れには、二人分としても多い本数の串が入っている。ここ名物だというチーズと、レバーに椎茸が美味だった。和風温野菜の盛り付けとやらもさっぱりとしていて満足のいくものだ。
     友人とおいしい食事と和やかな空気。ふと、心が緩むのを感じた。普段は締めてある部分から、音も立てずに零れていく。
    「……環生、本当に旦那さまのこと、好きよね」
    「なによ突然、そんな当たり前のことを」
    「ううん、さっきの環生の顔が、なんか良かったから。柔らかい、っていうか温かいっていうか」
    「あら、顔に出さないようにしてたのに」
    「出てた。それもばっちりと」
    「それはそれは」
     そうおちゃらけながらも笑う彼女の顔はやはり満ち足りていて、そこに温かさと、少し、本当に少しだけの寂しさをしのぶは感じた。
     ああ、やはり酔っているのだ、私は。
     なにか可笑しくなって、しのぶは少しだけ微笑んだ。久しぶりに感じたこの感情を持て余しながら。
    「……しのぶも」
    「なに?」
    「しのぶも、いい顔してたわよ。凛としてるくせに、妙に気さくな、そんな顔。今はなんだかんだ言いながらも疲れてるみたいだけど」
    「いつごろ」
    「ここ最近までは。なんだけど。……そうか、同僚、か」
     ほうじ茶を飲みながら、環生はしみじみと言った。それはしのぶに向かって、というより呟いているに近い感じだった。
     顔に表れるほどに疲れてる、と何年も前にやはり指摘されたことがある。所轄から本庁に異動したばかりの頃だ。
     あの頃はまだ、恋のような感情に溺れている最中だった。
     なのに、どうしたの、疲れてる? と環生に問われ、しのぶはそのとき自分が困憊していることを認めたのである。
     恋は盲目、とはよく言うものだ。しのぶの場合、見えなくなったのは自分自身だった。
    所轄にいたしのぶを、自分の下に置くに相応しい技量を持つと言って引き抜いたのは大沢その人であり、だからこそ警視庁に異動した若いしのぶにとって、大沢は恩人であり憧れとなった。認められることを素直に嬉しいと感じるその心に、異性として見られ、値踏みされているという意識が入り込んだ時、回路が狂ったのだ。
     苦しいという気持ちを好きだという感情で覆い隠し、少しでも手綱を緩めれば滅茶苦茶なことをしそうな心を辛うじて理性で押さえつける。気が付けば手段と目的が混合してしまい、恋愛をしている自分と日常の自分が完全に乖離していて、そのくせ、その状況から進んで抜け出そうとは全く考えなかった。機嫌を取ることがなにより肝要で、望みを正確に汲み取り、自らを差し出すことが尊いと思い込み、そうして相手の愛玩として扱われることを受け入れることが愛情だと言い聞かせ、そうして自分の価値を削っていくだけの毎日。
     ただ、なにも知らず、どうするべきかの見当もつかないほどに若かったのだ。
     関係を持つようになってから数か月。仕事終わりに呼び出されたホテルへと向かう途中、突然もう無理だと悟った。
    そもそもなにからなにまでうつけで、初めからまともではなかった。恋と思い込むことで蓋をして、ずっと目を背けていたことすべてを、ようやく直視出来た。
     酷い吐き気を自覚しながらふらふらと歩き、目に付いた公衆電話からホテルの内線を繋いでもらい、一言「終わりにしてください」とだけ告げ、そして受話器を置いてから数分ほど、一人電話ボックスの中で座り込んでいた。誇り高く、ということを根本的に勘違いしていた。ただみっともなく、そしてみじめだった。
     ひとりで立てるよう強くなり、仕事に打ち込み、警官として相応しい人間になって、そして、正しいことをするためにも警部補の昇進試験を受けようと決めたのは地下鉄のトイレで何度も嘔吐して、胃液も全部吐き出したそのあとのことだ。
     環生にはあの数か月の話はしていない。話をしようとして、だが出来なかった時点で、恐らく結末は決まっていたのだろう。
     そして目の前の友人は、偶に会う度に、何も聞かず、只、いつもどおりのおしゃべりと温かさでしのぶを迎えてくれていた。
     思えば、環生は具体的に、ではないにせよ、何かしらについて薄々勘付いていたのかもしれない。その上で踏み込むこともなく、ただ自分を見ていてくれたのだ。
     そう、今のように。
    「幸せものよね、私って」
    「今度はなに、しのぶ、相当に酔ってるわね」
    「そうかも」
     しのぶはほんのりと微笑んだ。
    「でも、本当にそう思うわ。――今の上司はあれだけど、仕事と、友人に恵まれて」
     自分を憐れんだことはない。それは、自分と周りの人への裏切り行為だ。でも時々、こんな基本的なことを忘れて、勝手に心がささくれることがある。
     そういうところは、歳と経験を重ねてもまだ若い、ということだろう。
    「しのぶ」
     環生が、そっと名を呼んだ。
    「なに?」
    「あのね。人間、もうちょっと欲張ってもいいんだと思うな」
    「なによ、そっちも突然。欲張るもなにも……」
    「そう? じゃあ言い方を変えると、自分に嘘をついたらダメよ。自分だけは騙せないんだから」
    「――環生」
     その穏やかな口調に、しのぶは言葉に詰まる。環生は静かに微笑んで、しのぶのほうを見た。
    「しのぶ。あなたのことだから、いろいろとややこしく考えてるんだろうけど、単純に考えた方がいい場合もあるの。その先のことまで見通そうとしないで、そんなことはそのときに考えればいいのよ。そんな感じの歌、山頭火にあったわね、確か。ともかく、単純になりなさい。今のあなたには、多分それが必要みたいね」
    「環生、なにか勘違いを」
    「しようとしてるのは多分あなた」。すっぱりと言い切られた。「違うというなら、寂しそうな気配は、一切出さないことね」。
     友人からのアドバイス、と環生は笑った。
     しのぶは急に喉が渇いたように感じ、醒めかけたほうじ茶を、少しだけ口に含む。
     寂しい? 寂しいのだろうか、自分は。
     分からない。あの頃と違う意味で、また自分を見失おうとしているのかもしれない。
     出来れば、一番避けたい事態だ。制御しきれない、ということはしのぶにとって好ましくないものであった。
    「でも、本当にこれで十分なのよ」
     思わず、口からこぼれ出る。
    「そう思ってても、持ってみると、案外いいものかもしれないわよ」
    「……そうね」
     呟くように返した。自分でも、弱々しい声だと思った。
     店の中はだいぶ静まって来ている。いつのまにか、隣の席にいたサラリーマン達も帰っていった。もういい時間なのだろう。環生もさりげなく腕時計を見て、時間を確認した。
    「ああ、時間って経つのが早いわ。――私もなんだかんだ言って酔ってるわね。からみ酒になっちゃったかしら。ごめん」
    「そうね、いつもよりは、絡んでるかも」
     そう微笑んだあと、しのぶはそっと告げた。
    「でも……、ありがとう」
    「なに言ってるのよ。ああ、今になってなんか恥ずかしくなってきたわ、年甲斐も無い、って感じで」
    「自分で言っちゃったら、それ、事実になるわよ」
    「それは大変、貫禄はつけても老け込み過ぎないようにしないとね」
     休日も終りが近づいてきている。席を立ち、伝票を持ってレジに向かう途中、環生が思い出したように言う。
    「そういえば、結局噂の同僚氏には仕事でしか会えないままだったわね、一回じっくり飲んでみたかったなあ。職務について話してる分には普通の人に思えたけど」
    「普通かどうかはともかく、仕事以外で会ったところで印象と大して変わらない人よ。クセも強いし」
    「それは話を聞いてればなんとなく判るわ。でも、しのぶから聞いてた限りでは、本気を出したらちょっと精悍そうにも感じたかな」
    「だったら、そのまま会わないほうがいいわよ。それは太鼓判を押すわ」
     精悍とは間違いなく正反対にいるから、としのぶは笑った。

    みづとり
     小正月も過ぎ、日付がただの冬の日々に戻った辺りから、警視庁に、いや全国に咳の嵐が吹き荒れはじめた。「今年の風邪は酷い」と言われない年はないが、それでも今年の風邪は社会人にとって酷な病状を運んできた。
     熱が出る、関節が痛い、呼吸器が辛い、といった諸症状はいわば風邪の基本装備だが、今年は加えて喉の機能を著しく低下させるものが流行ったのだ。まず咳が出て、熱が出て、それが下がって職場に復帰した頃には声が完全に枯れてしまい、その状態がしばらく続く。今朝のニュースによると、学級閉鎖を行う小中学校も多く、学校閉鎖も十校あるという。そういえば、医学的にいくら進歩したといっても、人類は未だ風邪を克服できていないではないか、と言っていたのは一体誰だったろうか。大きさで言えば僅か、ナノ単位でしか計れない自然からの脅威に人は今日でも尚翻弄され続けているわけだ。
     しのぶは会議室をぐるりと見渡した。定例会議だというのに、人が常時より二割、いや三割は減っている。出席している人も、大体が喉をさすったり、小さく咳をしては周囲に謝っている様子が窺えた。この会議室を電子顕微鏡で覗いたならば、さぞかし鳥肌が立つ状況になっているに違いない。空気中を蹂躙している、場を埋め尽くす勢いのウィルス達の姿を一瞬だけ想像してしまい、無意識のうちに浅く息をしていることに気付いたしのぶは、そんな自分に思わず苦笑する。幸いなことに、しのぶの免疫システムは、ウィルス相手に立派な働きをしてくれていて、部署の人間が一人、二人と減っていくなかでも特に体調を崩すことなく健康に過ごしていた。
    「今年は特に暖房の効きが弱い気がしますよ」
     会議のあとに話し掛けてきた警備部の男がそういって曖昧に笑う。
     エレベーターホールの窓から見る東京は寒々しく、雲一つない空の下、希薄な幻のように心もとなく映っていた。天気予報によれば今日の湿度も低いという。
     風邪の猛威はしばらく収まらないだろう、と考えながら、しのぶは失礼にならない程度の相槌を打った。
    「今年は久しぶりに平年並みの気温といいますから、そのせいもあるかもしれませんわね」
    「そう、これで暖冬、って言われたら俺なんか参っちゃいますね。これ以上寒くなるなら定年後は南に越すことも考えないと」
     なんたっててっぺんから冷え始めますから、と八割方禿げ上がった頭を撫でながら言われると、しのぶも控えめながら笑わざるを得ない。自分と大して年は違わないはずだが、ずんぐりむっくりとした体型と薄く張り付くような髪型のせいで年配にも見える。昔は違う班ながら同じ部署にいたこともあったが、今はいる部署が全く違うため、業務上必要最低限以上の言葉は滅多に交わさない。しかし、男は今日に限って饒舌だった。
    「刑事部の方も相当やられてる、って言ってましたけど、ほら、あそこは簡単に倒れるわけにはいかないでしょ。部下が部屋の方に行ったときね、『誰も彼も明らかに力ない歩き方をしながら、でも目だけは異常にぎらぎらしていて、正直言って怖かったですね』、と素直な感想を述べてくれましたわ。ただ、最近は凶悪なヤマも鳴りを潜めてるから、つまりは皆平等にウィルスにやられてる、ってところなんでしょうな」
    「そうかもしれませんね」
     そういえば、最近一週間の統計によるとレイバー事件の発生件数も落ちている。聖人だろうが極悪人だろうが、日本に住んでいるものならば誰も彼もが風邪にやられているのだ。
    「まあ、こんだけ空気が乾いていれば風邪も引き放題ってところでしょうな。週末にはまた雪が降る、とか朝言ってましたが最近は当たらないですからねえ」
    「私としては、天気予報が外れて首都圏が安定した天気であるとありがたいんですけどね。レイバーにとって足場の状態は死活問題にも繋がりますし。それでなくてもこの冬は雪が多いですから」
    「ああ、確かに。南雲警部のポジションならそうでしょうな」
    ポン、と重みのない電子音がホールに響く。まず、上り方面のエレベーターが来たことを電光板は告げていた。
     ではお先に、と頭を下げた男は、いかにもふと思い出したようにしのぶの方を見る。目にかすかにだが、光が宿っていた。人を不愉快にさせる部類の光が。
    「そうそう、南雲警部、大沢警視はお元気ですか?」
    「え、大沢、ですか?」
    「ええ、大沢警視。彼も倒れたとかで大変なんじゃないです? それも秘書官も同時に、となるとあの部屋には余り居たくないもんですわ。確実にノックアウトされる」
     男はしのぶの顔を見ると品のない微笑を浮かべ、改めてお先に、と満足そうにエレベーターに乗り込む。そして、しのぶが反応を返す間もなく扉は閉じられた。
     しのぶはただ困惑した。男の意図が全くもって計りかねたからだ。当時、他のいくつかの醜聞とともに自分と大沢の関係が、噂として一時警視庁内部に流れていたことは知っている。しかし、人の噂も、とはよく言ったもので、二課で忙しく働いている間にそういった類の話は風化したものと思っていたし、実際にもそのようだった。治安を預かる公務員とはいえ人の集団である以上、スキャンダルの種は常に供給されているのだから。そして、現に今まで表立ってそのような話を振ってくる人はいなかったのである。
     それゆえ藪から棒に、正にそんな感じを受けた。後ろ指を指されるのは仕方がない。それがどれほど侮蔑的に感じようが、過ちは背負い続けることでしか償えない。しかし、本当になんで今更。
     ポン、とまたエレベーターの到着を告げる音が聞こえた。そのとき不意に記憶が蘇る。
     そういえば昔、先程の男とはある仕事で競合したことがあり、そのときは最終的にしのぶがその仕事の指揮をとったのだ。もう何年も昔のこと、遠い過去の出来事だ。
     そんなことを、しのぶは何の感慨もなく、ただぼんやりと思い出だした。
     理由はなんであれ、大沢がこの二日間有給を取っていることは確かだ。そして確かに風邪をこじらせていることも。正月明けからまた週に何度かのペースで再開した大沢との会談も今週は鳴りを潜め、しのぶは心身ともにすこぶる快調に過ごしている。それが嫌なことを先延ばしにしている結果であるとしても、胃痛を気にせずコーヒーを心から味わえることは喜ばしいことだろう。
     次に作成する資料の段取りを考えながら見る東京の街並みは平穏そのものに映る。この乾燥しきった青空から、今週末に降るという雪景色を想像することは難しい。ましてや空調が完全に効いた暖かな部屋にいれば尚更だ。
     前の職場においては全く逆で、今時どこに言ってもお目にかかれないような石油ストーブで暖をとり、それでもかじかむ手の平をさすりながら見た窓の外は、移ろいゆく自然の気配を直に教えてくれていた。いわゆる勘というものも鋭かったのだろうが。
     一線に立つということは、意識を磨いていくということだ。自分の判断一つが人の生き死にも関わってくる。瞬時に選択をし、即座に決定を下す。
     第一小隊長として初めて現場に立ったときの緊張は今でも鮮やかに思い出せるものだ。
     記念すべき最初の事件は、汐留で起きた環生境テロの後始末だった。完成間近のビルで起こった爆破事件は既に解決を見ていたものの、地球防衛軍が派手に暴れてくれたお陰で現場は混乱しており、二次災害の危険性も高かった。中に取り残された人数は大雑把にしかわからず、全ての爆弾が除去された、という断定もない。そのような状況下、すみやかなる事態収拾のため、しのぶは各隊員に的確に指示を出していった。まずは人命第一、手っ取り早い方法ではなく、まどろこしくみえても確実な方法で。
     二課棟に帰還した後、五味丘から告げられた言葉は忘れられない。
    「――正直に白状します。現場経験も浅い女性にどこまで出来るのか、と思っている部分もありました。しかし、今は、貴方の指揮下に配属されたことを心から誇りに思います。若輩ではありますが、よろしくお願いします、隊長」
     本当は倒れそうだった。
     ここで失敗したら自分の、二課の将来はない。一挙一動すべてが試されている。
     自分は出来る。今まで警備畑でやってきた実績と自分の実力がそれを証明している。ノンキャリアでありながらここまで来れたのだから、今回も適切にこなせる筈だ。
     頭の中で何度もそう繰り返しながら冷静に状況を分析している自分がいる一方で、気を抜けば小刻みに震える手を何度も押さえつける自分もいた。
     そして、結果を出した。上に立つ、何人もの命を預かる立場のものとしての職務を果たし、第一小隊隊長の地位を名実共に確固たるものとしたのだ。その瞬間心に満ちたのは誇りと、安心感だった。思った以上に余裕もあったのではないか、振り返ってそう分析することすら出来た。
     しかし、そうではなかった。隊長室に戻り、扉を閉めた瞬間に彼女は崩れ落ちたのだ。頭の中は空っぽで、ただ吐く息の音だけが鼓膜に響く。夕焼けが差す部屋の中、しのぶは一人、ただ、呆然としていた。
     本当は怖かった。しのぶの中の弱い部分がそう呟くのが聞こえた。
     最初に出た任務が大きい事件だったのが良いほうに作用したのだろう。それから第一小隊の活躍は順風満帆そのものだった。しのぶも思い描く隊長職目指して、日々邁進していた。第二小隊が出来るまでの、ある意味初々しいころのことである。
     向こうでの歴史に区切りを付けていくとしたら、最初の区切りは第二小隊隊長が飛ばされてきたときだ。

     あの、肩で息してて疲れません?

     あんな失礼なことを突然言ったものだから、後藤に対する印象は最悪の一言に尽きた訳だが。

    「――で、指輪してたんだって。左手の薬指に」
    「へぇ。加賀嬢もついに人のもの、ってことなのかね」
     耳に入ってきた会話で、しのぶは我に返った。手元のコーヒーは大分温くなっている。窓の外の景色は色素が抜け落ち、密度の薄いセピア色に包まれていた。一日が静かに終わろうとしている。今日という日の最後の名残が目の前に広がっているようだった。
     声の主を探して視線をさまよわせれば、しのぶの席の傍にいたその職員は、仕事中に私語を交わしていたこと注意されると思ったのか、ばつが悪そうに顔を逸らした。もう一人も小さく頭を下げると、そそくさと仕事に戻る。本人達は小さな声で話しているつもりだったのだろうが、声というのは案外響くものなのだ。
     特に咎める気にもならなかったしのぶは、ただ視線だけで注意を促す。それで済んだと悟った彼は、あからさまにほっとした様子で仕事を再開した。
     ――加賀嬢も人のもの。
     先程の会話が耳に残る。
     この課に関係ある部署の加賀嬢だとしたら、恐らく彼女だろう。
     しのぶは、大沢の秘書が自分を見つめる剣呑とした視線を思い出す。昔の自分もそんな顔をしていたのだろうか。
     大沢はマメな男だ。独身であるなら紳士表現しても差し支えないぐらい。こまやかな心遣いは相手を確実に喜ばせる。ただ、それはあくまでも彼の手に収まる範囲内に関係が落ち着いているときで、そこから一歩でもはみだそうものなら、途端に彼はいくらでも冷淡になれる。経験者は語る、ではないが、その変わり身は鮮やかの一言だった。
     冷静に考えれば、家族がありながらさらにつまみ食いを求めるその我侭は許してはいけないものだし、さらに自分の行動の理由と責任をすべて女性に押し付ける身勝手さは、軽蔑に値する。
     そして、理解していてもなお、簡単に割り切れないのが人間の心というものだ。
     加賀もかつての自分と同じような迷路に嵌り、そして自分なりのゴールを見つけた、ということなのだろうか。
     普段はその手のゴジップには興味がないのだが、しのぶは珍しく他人の移ろい事に思いを寄せた。
     彼女が自分の道を見つけられたのなら、それでいい。自分のように深く棘として残らないうちに。
     ふと、今朝の会議で告げられた言葉を思い出す。先程の噂話が本当ならば、大沢と彼女が休んだのは、それこそあの部屋のウィルスが凶暴だということだ。
     多分そうなのだろう。しのぶはそう結論付けた。
     ぐーっ、と小さく息を吐きながら伸びをして思考を切り替える。
     今週も折り返しを過ぎた。このペースで進めて行けば金曜はほぼ定時で帰れるかもしれない。そうしたらのんびりと買い物にでもいこうか。欲しい本が溜まっているから、八重洲ブックセンターにでも。
     その楽しい計画のためにも、としのぶは目の前の書類に集中した。
     しのぶが抱えている懸案は特車二課に新たな小隊を作ることだけではない。元の職場ということでどうしても思案する割合は多くなるが、他のことにも充分に心を砕き、それぞれ真摯に検討していかなければならない。
     もちろん、二課の代弁者としての役割も大事だが、それだけに集中するわけにはいかない。それが今のしのぶの立場である。
     今目の前のことに全力を注ぐこと。それが彼女に唯一出来ることだった。
     その道を選んだのは他ならぬ自分なのだから。

     玄関から外に出ると、冷気が体中を包んできた。
     吐く息は白い。あっという間に空気に溶けていくそれを見るともなしに見ながら、帰路を急ぐ。
     夜も更けてきた霞ヶ関はしんとして、通り過ぎていく車のエンジン音がやけに耳に響く。地下鉄への階段を下りようと足をかけたとき、鞄の中で携帯が振動するのを感じた。
     母からだろうか。例えば、コンビニで何か買ってきて欲しい、とか。
     しかし、ディスプレイに表示された名前は家族のものではなかった。
     一瞬、出ることを躊躇する。が、無視が出来る性格でないことは、自分が一番良くわかっていた。
    「――はい、南雲です」
     耳に届いた声は滑稽なまでに表情がない。そして、顔からもそれは消えているだろう。
     ああ、私だよ、とやや枯れた声で大沢は名乗った。


    さねかずら

    「……ご用件はなんでしょう」
     自分でも驚くほどすんなりと言葉が出た。温度のない、無味乾燥な響きだ。
     少し風が吹き始めたのか、冷たい空気が肌を差していく。月凍る空の下、話す息が白く色づくのが、しのぶには何故か滑稽に感じられた。
     風邪を引いて家に閉じこもっているという大沢の背後は随分と静かなようで、物音一つ聞こえない。
    『いや、今週は風邪で休みがちだったから、例のことを一回、ちゃんと詰めて話さないといけない、と思ってね。善は急げと行きたいところだが、君にも当然都合があるだろう?』
    「ええ、お察しの通りです」
    『だからね、明日、どうだろう』
    「でしたら、明日は朝すぐに――」
    『いや、明日は会議が入っているから』大沢はそこで一度息継ぎをした。『出来れば定時後、時間を取ってくれないかね』。
    「……」
     耳に入ってきた声色に、その底の方に張り付いているものに、不意に背筋に悪寒が走る。
     気が付けば無意識のうちに、声に出さず嗤っていた。しかし、そのようなことはおくびにも出さず、
    「では、何時にお伺いすればよろしいでしょうか」
    「そうだね……、六時なら確かだ。六時に部屋で」
    「かしこまりました、六時ですね。では失礼します」
     携帯を切ると同時に深く息を吐いた。肩の力が抜けるのがはっきりと判って、一体何に緊張していたのかと、思わず自問してしまう。
     あの頃の自分と今の自分。時間が過ぎた分だけ確実に変わったと思っていたが、だからといって過去の自分は、それを構成していた要素は消え去りはしない。先程の遣り取りはそのことを目前に突きつけてきた。
     遠い昔のことがありありと思い出された。
     初めて任された大きな案件をこなし、達成感に満たされたまま、祝いだと声をかけられ、チームではなくしのぶだけがバーに連れ出された。アルコールは得意ではありませんと断ると、飲みやすいものだからとスリュードライバーを勧められた。一杯で帰ろうとすると上司の祝いは素直に受け入れろとロングアイランドアイスティーを、そして目上の人の好意を無下にするのは社会人としてよろしくないとルシアンを。すべて知っている、だからすべて君のせいだよ、とささやかれたときのカクテルはもう記憶にも残っていない。
     わかっている、なにもかも間違っている。
     地下鉄の入り口でただ佇んでるしのぶの傍を、足早に人々が通り過ぎていく。
     車のヘッドライトが目に入ってきたとき、しのぶは唐突に孤独だと思った。
     そんな風に感じる自分の身勝手さがいやになってくる。
     昔は、ついこの前まではそんな思考回路は持ち合わせていなかった。なのに今は、全てをただ一人で受け止める、そんな当たり前のことがどうしてか酷く辛いことに感じられた。
     まるで、私ではないようだ。
     自分を制御しきれないことは、しのぶにとって最も苦手とする状況である。
     なお考え続けようとする心をなんとか押さえつけ、意図して深く息をする。何度かそれを繰り返しているうちに、暴走気味だった脳が落ち着いてきたのが判った。先程の自分が忽ちに遠ざかっていく。
     ああ、本当にらしくない。自分で決めたことにすら振り回されようとしているだなんて。
     週末は出掛けるのではなく、やはり家でのんびりと過ごそう。疲労は全ての原因となる。しっかりと休養すればここのところの調子の悪さも払拭されるに違いない。
     手の先は冷え切り、血の気が引いて白く沈んでいた。時間にすれば五分と経っていないはずだが、それでも体温を奪うには十分な時間だったらしい。
     幾度も手をこすりながら、しのぶは地下鉄へと降りていった。頭の中で、明日大沢に話す内容を吟味しながら。

     朝、辛うじて薄日が差していた空は、いまや重苦しい雲に覆われ、影のない街は曖昧な表情を覗かせていた。乳白色の雲からは今にも白いものがちらちらと舞い降りてきそうだ。雪の予感は胸を切なくする。東京テレポートでの軍用レイバーとの死闘も今日のような空の下のことだった。あの時抱いたのは果たしてどんな感情だっただろうか。
     耳を澄ませば、レイバーの動作音と甲高い電子音が鮮やかに蘇ってくる気がする。あの事件は、やがて二課を巻き込んだ最大の事件へと繋がっていったのだった。 
     定時を過ぎた週末のオフィスは、瞬く間に閑散としていく。もとより、忙しくなる前のエアポケット的な時期であるために仕事量も少ない。これから来る嵐のような年度末に備えて、職員達は休めるうちにとばかりに足早に家路についていく。そんな、浮付いた空気の中しのぶはゆっくりと大沢の所へと向かっていた。
     キリキリと胃が痛む。エレベーターの中で何度か腹をさすってみると、幾分かはマシになった。
     全く、こんな脆弱じゃ先が思いやられる。
     つい自嘲的なことを思ったが、今はそんな感情に溺れている暇はない。
     昨日の電話の際、耳に入り込んできだタール状のもの。ある予感が、しのぶにはあった。
     それを回避するために、全神経を使って相手と遣り合わなくてはならないだろう。
     そして、結果をものにする。
     深く息を吸い、ゆっくりと吐いていくと、す、と気持ちが落ち着いた。凪の湖面のように静かに、敏感に。
     やがて見えてきたドアの前で一旦立ち止まり、そしてふと気が付いた。
     厚いドアの向こうからかすかに漏れてくる会話。何を言っているかはわからないが、来客がいるのだろうか。
     ほんの少しだけ戸惑ったが、すぐに気を取り直し、改めてドアをノックしようとして、そのとき、
    「――それでは失礼します」
     やや感情的な声と共に勢いよく扉が開き、中から人が飛び出してきた。
     しのぶがそこで一瞬止まったのはその開いたタイミングが計ったようだったからではなく、出てきた加賀の顔がやや紅潮し、声が震えていたことに気を奪われたからだ。
     加賀はしのぶのことを一瞥するとただ無言で頭を下げ、足早に去っていく。一刻も早く立ち去りたいとばかりに。
     彼女の左手にシンプルな指輪が自然に嵌っていたのが、何故か鮮やかに目に焼きついた。
     足音はすぐに消え、また、静けさがフロア全体を支配した。
     しんとする空間の中、しのぶは加賀が去っていった方をしばらく見ていた。去っていった姿に過去の亡霊が重なって、目が離せない。過去の名残が消えるまで、ほんの数秒のことだったが、しかししのぶにはとても長い時間に感じられた。
     機械的に秘書室に入りながら、しのぶはそっと自分に言い聞かせる。
     中でなにがあったのかについては考えないことだ。どんなことであれ、それは今の自分には全く関係がないことなのだから、と。
     気持ちを切り替え、扉を叩き、「南雲です」と来訪を告げると、間髪入れず、
    「おお、ちょっと待ってくれ」
     と、くぐもった声がした。
     そして、間もなく奥の部屋から大沢がのっそりと姿を現す。肩にひっかけた、くたびれた黒いコートに使い古されたこげ茶の鞄は昔見慣れたものだ。大沢はしのぶが制服姿であることを確認すると口の端を上げ飄々と言った。
    「定時を過ぎたというのにお疲れなことだね」
    「失礼ですが、職務のけじめの問題です」
     なにとんちんかんなことを言っているのだ。心の中でそう付け加える。しかし、大沢はしのぶの必要以上に事務的な態度を歯牙にもかけず、
    「いや、そうだな、けじめ、けじめ……。南雲君らしい言い分だ。しかし、だね。南雲君。これは提案なのだが」、コートのボタンを留めながら、こう続ける。「とりあえず着替えて下の玄関で待ち合わせをしないか?」。
     あっさりと言われた内容に、しのぶはさすがに肝を抜かれた。同時に、ここまでこの男は馬鹿であったろうかと自問する。
     さりげなく様子を窺って見れば、大沢は心なしか憔悴しているようにも見えた。ただ、目だけが光っている。病み上がりだという白い顔に、その光は不釣合いなまでに目立っている。生気がないような、それでいてギラギラとしたような光り。
     生理的な心地悪さを感じながら、しのぶは、ゆっくりと聞き返した。
    「いま、なんとおっしゃりましたでしょうか」
    「いや、こんな遅い時刻にならないと時間を取れなかったし、それに今日は週末だ。よければ外で話さないか。ヒルトンの上にあるレストランが行きつけでね、そこででも腰を据えて、ゆっくりと。労いの意味もこめて勘定は私が持とう。どうだい?」
    「私としましては、――わざわざ場所を移る必要もないと思います」
     出た声は随分と固いものだ。肩越しに見える大沢の部屋は、電気を落としているため暗い。その闇が蛍光灯で照らされているはずのこの部屋にまで忍び込んで、空気をどろりとしたものに替えていっているように思える。
     しのぶは不意に息苦しさを覚えた。
     深く呼吸をしても、まだ足りない。
     まるで深海のようだ。光が射さない真の闇の中、水圧に囲まれた空間は、ここのように重い感覚に満たされているのだろうか。
     惑いに彩られたしのぶを、大沢はただ眺めた。控えめに、それでも下から上まで。そのうえで、
    「相変わらずだね。でもたまにはソフトな対応も必要だろ。なによりも私と君は――」
     大沢はここで一旦言葉を切り、しのぶの目を真っ直ぐと見据えて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
    「私と君は、チームなんだから」
     そうだろう……? そう囁くように言われて、しのぶは強い悪寒を覚えた。
    「……ですが、警視も病み上がりでありますし、無理にお時間を取るよりも、さっさと終わらせた方が良いと思いますが」
    「ほう、気遣ってくれるのはありがたいね。でも、ほら大丈夫。ここのところ休養をしっかり取ったこともあって体調は万全だよ、だから……」
     そう言って、こちらを伺うように見る。
     一瞬だけ視線が合った時、ついに心が悲鳴をあげた。
     もう耐えられそうもない。
     理性がその感情に停止信号を出そうとしていたが、もう間に合わない。
    「――正直申し上げまして、全く気が進みません。お断りいたします」
    「南雲君?」
    「仕事の話です。職場で十分ではありませんか? それとも――」
     他にも理由がおありでしょうか。表情を全て消して問い掛ける。大沢が答える言葉を持たないことを承知で、だ。
    「……他意はないが」
    「ならば、移動する必要性はない、ということです。ただ、今日はお帰りになられるようですから、週明けにでも改めましょうか?」
     口調を変えることなく淡々と言えば、大沢は言葉に詰まったように固まり、視線を足元に落とした。
     俯く顔に蛍光灯が影を落とし、今、目の前にいるのは、只の初老の男でしかない。
     しのぶは妙に落ち着いた心持で大沢の返事を待った。
     部屋に沈黙が満ちる。ただ、時計の音だけが甲高く耳を突く。そうして秒針が刻む音が何十回も重なった頃、不意に大沢がゆっくりと顔を上げた。その浮かべている笑みに、しのぶは思わず息が詰まる。そうしている間にも空気はどんどんと薄くなっていくようだ。何かが渦を巻いて、全てを吸い込んでいるかのように。
     南雲君――、と大沢は言った。
    「南雲君、――自惚れるのも、いい加減にしないかね」
    「……は?」
     思わず、聞き返していた。
     大沢は先程となんら変わりなく立っている。しかし、目の光はいよいよギラギラとしてきて、全体から立ち上るのは殺気にも似たオーラだった。
    「だから、自分を何と思っているかは知らないが、自惚れて勝手な期待をされたところで、こっちが迷惑だといっているんだ」
    「警視、何を根拠に言われているかは存じませんが、お言葉が過ぎるのではないでしょうか?」
    「過ぎる? なにが過ぎると言うんだ」
     はん、と大沢は心底馬鹿にしたように嗤う。
    「なら言うがね、今更君を誘うとでも思っているのか⁈ ホテルと聞いてなにを考えたかは知らないが、全く持って過剰だね。それを自惚れを言わずになんと言うんだ、え、どうだね?」
    「いい加減にしてください! 正直言って、聞くに堪えません」
     カッ、と頬に血が差す。世界が急にぐらんぐらんと回り始めた。荒れた語調も全く気にならないほどに、しのぶは激昂していた。
     脳は沸騰しそうなほどに滾っているのに、意識は逆にすうと醒めていくのが判る。
     まるで張り詰めた糸のように。
     たった一押しで、それはあっけなく切れることだろう。
    「それはどちらかというと私の台詞だろう! 南雲君、なあ、昔というのは決して今にはなりえない、違うか? それとも、今にする努力でもするかね? 君が本心ではそう望んでいる――」
    「――私を愚弄するのもいい加減に……っ!」
     その言葉はしかし、最後までは発せられなかった。
     その台詞を遮るかのように、急に賑やかな電子音が鳴り響いたからだ。
     プルルルルルル……、と鳴るものは、大沢の鞄の奥に仕舞われているようだ。
     冷水の洪水が押し寄せたかのように、部屋は静まりかえり、波が去ったあとの荒涼とした空気だけが、ただ残った。
     大沢はのろのろとした動作で鞄を探る。そして、携帯電話の発信者の名前を確かめると「ああ……」とだけ、小さく呟いた。
     それが誰からの発信だったのか、しのぶにはおぼろげに推測出来た。その答えが正しいかはともかくとして、それが現実からの使者であることだけは確かだった。
     しばしの気まずい沈黙のあと、口を開いたのは大沢のほうだった。
    「……南雲君、すまなかった。明らかに言葉が過ぎたようだ」
    「いえ、私の方こそ考えなしだったと思います」
    「いや……、そんなことはない」
     だから、今回は勘弁してくれたまえ、と言う声はひどく力無くしのぶの耳に響く。わかりました、とだけ答えると大沢はどこか引き攣った笑いを浮かべた。
    「とりあえず、先程君が言ったように、週明けに改めて席を設けようと思うのだが、都合は如何かね」
    「週明けでしたら、構いません」
    「そうか、今日はわざわざ悪かったな。ではまた月曜に」
    「判りました。……では、失礼致します」
     身を返して部屋を出ようとするしのぶに、「今は――」と呟く声が届いた。小さな声はしのぶに対しても、恐らくは誰に対して発せられたものでもないのだろう。
     大沢は自分に対してでもない言葉を、ぽつりと吐いた。
    「今は……。昔よりも背中が逞しくなったようだね。後姿を見るのも久しぶりだが……、そうだな、私も年を取ったはずだ」
     意味を成す事を放棄した言葉の羅列を聞き流すことも可能だったろう。大沢も、それを期待していたかもしれない。
     だが、しのぶは一度立ち止まり、振り向くことなくやはり小さな声で返した。
    「ただ……、時が流れただけです。私にも、警視にも」

     そのままオフィスに戻ることが何故かとてもおっくうなことに感じられ、エレベーターに乗り込んだあと、しのぶは休憩所がある階のボタンを自然と押していた。
     どこかで、あの場で纏わりついた空気を叩き落としたい。全てを入れ替えないと、現実には戻れても日常には戻れない。そんな気がしてならなかったのだ。
     何かしら、気分を一新して、それから帰り支度をはじめよう。
     しのぶが降りたフロアは照明も粗方落とされて、しんとしていた。その中で自販機のモーターが唸る音だけが低く響いている。ちょっとした商品名を照らす蛍光灯の白さがいつもより眩しく感じられる。
     とりあえず無糖の缶コーヒーを買って、傍のソファに腰を下ろした。タブを引き上げてまず二、三口一気に流し込むと、ようやっと深く息を吸うことが出来た。
     どっと襲ってくる疲労感を、ため息一つで振り払う。
     ついでに首を何度か傾けると、骨が入る小気味よい音がした。近々マッサージにでも行こうか、なんてぼんやりと考える。
     ポン、とエレベーターが到着する音が響いた。続いてドアが開く音。誰か知らないが、同じく帰る前にここで一息いれよう、と思った職員がいるらしい。薄暗いフロアに台形の光が射し、人を一人降ろすとたちまちにまたもとの暗さに戻る。
     降りたスーツ姿の男はそそくさと自販機の前に行き、迷うことなくボタンを押すと、すぐにがらがらん、と硬い音が響く。男は体を屈めて缶を取り出しながら、しのぶの方は見ないで、「お疲れー」と声を掛けてきた。
     しのぶも「お疲れ様」と返そうとして、ふと声が止まる。
     相手もこちらの気配を察したのだろう、缶を開けることなくこちらの方を見た。
    「――南雲さん?」
     その響きで名を呼ばれるのは、本当に久しぶりだった。そして、この名を唇に乗せるのもまた。
    「――後藤さん」

    追儺


     パシッ……、と軽い音が響いて、タブが倒される。
     ソファに腰を下ろした後藤は缶コーヒーを軽く呷ると、深く息をついた。
     鼻腔をクセのある煙のにおいが絶えず掠める。毎日毎日煙草により燻されたスーツは立派な燻製となって、着ている者が喫煙者であることを声高に告げていた。
     警視庁内は昨今の世間の流れを受け、ほぼ全面禁煙だ(二課もしのぶによってそうなったはずなのだが、多々にして形骸化していたものだ)。久しく嗅いでいなかった独特の葉の薫りに、しのぶは無意識に顔を顰める。
    「……あ、ごめん。しかし、そんなに臭いかなあ」
    「自分で嗅ぎなれているものの匂いなんて、そんな風にしても気付かないんじゃないの?」
     袖を顔に持ってきてくんくんとする後藤の様子に、しのぶは思わず破願した。
     自分では一切煙草を嗜まないしのぶにとって、煙草の香りはあまり好ましいものではない。しかし、今、それほど不快に感じていないどころか、どこか懐かしさすら伴った感情を呼び起こしていることはあえて黙っておくことにした。
     その手の感情は、全て仕舞い込むのが、しのぶの癖となっていた。
     しのぶの内心を知る由もない後藤は、「まあ、そうなんだけどさ」とそれから何秒かスーツのにおいを確かめながら返してくる。
     そんな世間話はあっという間に尽き、すぐに二人は押し黙った。
     
     ヴィン……。
     
     ヴィン……。
     
     自販機のモーター音の響きがいやに耳に付く。
     そんな味気ないものをBGMにしながら、二人は並んで、ただ缶コーヒーを飲んでいた。缶に残った温もりを確かめるように時折それを手で包み込みながら、ただ黙して座っている。
     それほど遅い時間でもないが、誰もここにやってくることもない。
     薄暗いフロアの中、どこまでもふたりぼっちだ。
    「……元気そうだね」
     やがて、沈黙に催促されるように口を開いたのは後藤からだった。
    「そういう後藤さんも。五味丘君からも聞いたけど真面目にやってるって」
    「真面目って五味丘には負けるよ。なんか色々とやってくれちゃってさ。お陰で俺の不真面目さが目立っちゃって」
    「なにを今更。貴方の勤務態度を知らない人がいるとは思えないけど」
    「相変わらずきついなあ、南雲さんは」
     そう言って小さく苦笑する後藤の横顔を、しのぶはそっと眺めた。
     少し前まで、飽きるほど眺めた顔だ。やや面長、適当に撫で付けられたオールバック、考えが読めにくい目にこけた頬。そういえば少し痩せただろうか、全体的な印象として、前よりもすっきりとしたようにしのぶには思えた。
     変わったように感じるのはそれだけだ。あとはなにも、変わってない。
     自分はどうなのだろう。後藤から見た自分はどんな感じだろう。そんなことがちらりと頭を掠める。が、すぐに何を思っているのか、としのぶは自分を戒めた。変わったに決まっているではないか。
     最後の日、互いに交わした言葉。
     私はあのとき、なんと答えた?
     今、自分の中にあるものが手触りのいい郷愁であったとしても、相手にもまた同じものを感じていて欲しい、というのは余りにも虫が良い話だ。
     なにもかも変わって欲しくない。
     なにも変わってはいないと確かめたい。
     そう心から願った自分がいた。
     だがどうだ、今こうして座っていて互いに軽口を叩いて、どうしようもなく変わったものがあるとじわじわと実感していく。
     それは居心地の悪さを引き起こすものではなく、ただ、どうしようもなく寂しい感情を引き起こすものだった。
     さらさらと、仄かな寂しさが満ちてくる。
    「そういう南雲さんも、頑張ってるみたいだね。風の噂だけど」
    「当たり前のことをただ真面目にやってるだけです。ここまで骨が折れるとは思ってなかったけど」
    「ま、そんな肩肘張ってると、あっというまにカチコチになっちゃうよ」
    「言われなくてももうカチカチよ。デスクワークが案外向いてないのかもしれないけど」
    「そうなの? じゃあ、揉んで上げようか」
    「結構です」
     ピシャリと言い放つ。後藤がそれを聞いて「やだなあ、冗談ですよ、冗談」ととぼけて返すのを聞いて、しのぶは一瞬目の奥がツンと熱くなった。
     幸いにもそれは表面には現れない。
    「ともかく、元気そうでなによりだわ。第二小隊の問題行動も最近はあまり目立たないようだし」
    「なかなかに優秀でしょ」
    「優秀じゃなくて、それが当然なんです! ったく」
     しのぶは一瞬だけ微笑んだ。が、すぐに表情を叱咤するそれに変えて、
    「これからもその調子でお願いね。五味丘君を余りこき使わないようにして」
    「失礼だなあ、こき使ってなんかいないって」
    「そうならいいけど。私という前例があるから疑わしいものだけど」
     しのぶは言いながら席を立つ。そして、まだ座ったままの後藤の顔を見た。
    「……久しぶりに会えて、嬉しかったわ。それに元気そうで」
    「……そうだね」
    「それじゃ、私はそろそろ帰るわ。後藤さんは直帰?」
    「うん、用は終わったし。ただ、十万キロ乗ったからと点検に出したら修理箇所が出てくること出てくること。代車頼まなかったから電車通勤なんだけど、それだけが面倒でね」
     そうぼやく後藤は確かに微かな疲れを纏っているようにも見える。
     しのぶはそこから視線を剥がすと、淡々とした口調で、
    「そうなの、それはお疲れさま。……それじゃあ、気を付けて」
     お先に失礼するわ。そう言ってしのぶは普通を装ってエレベーターの方に向かう。これ以上、この場にいることが怖かった。
     前のように接してくれる後藤に。
     肌に慣れた空気に。
     そのタイミングに。
     なにもかもぶちまけて、声を上げて泣いてしまいそうで怖かった。
     独りで。そう決めたのは自分なのに、勝手にもそれを平気で破りそうな自分が怖かった。
     ああ、私はこれほどまでに甘ったれで臆病だ。
     一方でこの偶然の再会を都合よく喜びながら、他方でそれを恐れている。心の一番奥底は混乱しているように揺れている。
     さらさらと寄せる寂しさの波に。
    「――南雲さん」
     ボタンを押し、佇むしのぶに、そっと、後藤が声をかけてきた。
     決して美声ではない。時には酷く冷徹に響く。しかし、手触りの良い温かみがあるその声で。大きく出してないはずなのに、そのフロア全体に静かに響くような、そんな呼び方だった。
    「……なあに?」
     少しだけ振り向いて、訊ねる。
    「いや……、元気で」
    「ありがとう。……後藤さんもね」
     ポン、と音がして、ホールに灯りが射す。しのぶは素早く乗り込むと、『閉』ボタンを押しながら「さよなら」とだけ告げた。
     顔は見ないままで。
     だから、そのとき後藤が浮かべていた表情に。
     彼女は気付かなかった。

     週末の間中降っては止み、止んでは降っていた雪は、火曜日には歩道のあちこちに小さな名残を残すだけとなった。
     溶けかかった雪は埃を被り、どこか薄汚い。降っている時のあの幻想的な美しさはもうどこにも残ってなく、一度溶解したあとまた再結晶化した、じゃりじゃりと固そうな表面が輝いているだけである。
     しかし、この雪山が溶けきる前に、また東京には雪が降る予想となっていた。
     今年は例年にも増して雪が多い。スリップ事故も多発しているし、凍死者も出ている。
     特に警視庁に入ってから、しのぶは雪に対して良い感情を持てなくなっていた。昔からロマンティックな雰囲気に酔いにくい性格ではあったが、今は表面の幽玄さよりも付随するものの方が多く目に付くのだ。
     今も、しのぶの手元にある資料には、今週に入ってからのレイバー事故要因堂々一位に、雪と路面凍結による転倒が入っていた。
    「こればかりはどうしようもないですからねえ。車ならチェーンやスタッドレスタイヤの推奨にスピード規制が出来ますが、それでもそれ以外に手の打ち様がありません。ましてや多足型レイバーにはチェーンもタイヤもないですし」
     小さな会議室で、部下がそうごちるのも無理は無い。
     レイバー事故防止会議と銘打っているが、標語を出したところで効き目は薄いし、その殆どが土木作業に用いられている以上、雨雪にならない限りレイバーは動かなければならない、そうしたら車より安定性が悪い分事故も増える。しかも、今年は雪が多い天候ゆえか、例年に比べて事故が特に多い。だからこそ対策会議を、ということになったのかも知れないが。
     この会議も、いわば心休めみたいなものだ。
    「あー、そういえば、二課のはそれ程事故起こしてませんでしたね。餅は餅屋、ってやつでしょうか。特にイングラムなんかは、いくらオートが働くといったって、バランス取るの難しそうなんですがね」
     いまだ篠原のオートバランスが他社と比べて特段に優れている、って訳でもなさそうなんですが。発言主は資料にある『メーカー別事故発生表』の項目を見ながら、無意識にであろう、ペンで頭をごりごりと掻いた。
    「あなたが言っているのが一号機のことなら参考にはならないわね。フォワードの泉巡査は天性の技術としか言いようがない腕の持ち主だから」
    「天性ですか。とはいえ太田巡査が操作している二号機も、一世代前のものにしては相当少ないですよ。例えば、イングラムのデータなんかから、なんか打開策とか見出せませんかねえ。あれだけの経験値があるんだから、最初に入れちゃえばそれだけで事故発生率は下がりそう、とか」
    「おまえ、そりゃ無理だろう」
    「ですよね。言ってみたかっただけです」。まだ若い職員が肩をすくめた。そして「でも他に具体的で有効的で確実で即効性がある対策といわれましても……」と、ため息まじりにつぶやく。
    「でも、二課だって創立時は小さな事故が多かったと記憶しているからね、結局は熟練ということなんだろうな」
    「それでは会議の結論になりません」
    「全くだな」
     同僚や部下達の会話を聞きながら、しのぶはこの先いかに議論を纏めていくかを考えていた。先程言っていたように、『有効で確実で即効性がある対策』なんて素晴らしいものが、今日の会議だけで決まる可能性は余り高くなさそうだ。会議に出席している面々――警備部に交通課、そして交通技術職員――とは来週中にでもまた顔を合わせることになるだろう。とりあえず、最低でも道筋はつけておかないといけない。すぐに会議室を押さえて、それから……。目の前で繰り広げられる論議を聞きながら、頭の片隅でそんな風に思考を走らせていると、そっと目の前にメモが置かれた。持ってきた職員が音もなく頭を下げ、部屋から出て行くのを端で見ながら、しのぶはそれに目を落とした。会議中、電話があったとき、このように知らせてくることは決して珍しくない。
     しかし、そこに書いてあった名前に、しのぶは思わず眉毛を上げた。

     会議はなにかしら道筋をつける、という目的よりかはいくらか前進した結論を採択し、来週にそれを踏まえた協議をすることにして解散した。
     窓から見える東京は暗く黄昏れている。
     夕日差す今の時刻はまだ四時を少し過ぎたばかりだ。
     光り射す方を見れば、重く厚い雲がじわじわと空を浸蝕してきていた。今年は毎週末ごとに雪が降る。あの雲は明日金曜の今ごろには肌差すような小雨を降らし、夜半前にはそれが雪になるという。明日はあの雲に覆われ、憂鬱な空気がここ首都に満ちるはずだ。
     先週末以来になるドアの前に来て、しのぶは一旦息を吐いた。
     大沢とは結局、今日に至るまで会っていない。週明けに急な出張が入り、大沢が東京を離れていたからだ。
     それがよかったのか悪かったのかはわからないが、一瞬だけ気が楽になったこともまた、事実であった。
     逃げている。自分の中の自分が呟く。
    判っている。と心の中で付け加える。
     そんな状態を潔しとする性格ではないから、一層今の状況は胸に堪える。悪循環だ、としのぶは時々自嘲気味に考えたりもした。
     強く生きよ、と望むことはたまに疲れるが、それが苦痛と感じるのは久しぶりだった。そして、今はその姿から離れてしまっている自分がいる。ならば、少しでも修正できるよう、努力するのみだ。
     気持ちを入れ替えて、しのぶはやや強めに扉をノックし、「南雲警部、参りました」と声を掛ける。
     間髪いれずドアは開き、中から加賀に、
    「大沢警視達がお待ちになっております。どうぞ」
     と招き入れられた。
     加賀に一礼し、彼女が奥にいる上司に待ち人の到達を告げるのを何気なく聞いていたしのぶは、ふと先程の言葉を思い出した。
     ――大沢警視「達」?
     しかし、その疑問はすぐに解けた。
    「南雲警部、どうぞ」
     と改めて通された大沢の部屋の応接セットには、大沢のほかにもう一人、見慣れた顔がいたからだ。
    「矢口総務部長、お久しぶりです」
    「ああ南雲くん、待っていたよ」
     大黒天に良く似た風貌の矢口は姿に合わぬ高めの声で軟らかく笑った。
     一見話を通しやすそうな雰囲気を醸し出すが、裏腹にかなりの狸だと警視庁では専らの評判だ。さらに言うなら豪腕で、一言で言えば有能な男であった。総務に矢口あり、良くも悪くも使われるフレーズである。
     その矢口がこの場にいることを訝るしのぶに大沢はまず座るように促し、続いて、
    「本当は今日の前にもう一度詰めておきたかったんだが、しかしその機会がもてなかったものでね。だから急ですまないが、とりあえずこの資料に目を通してくれないか」
     手渡されたA4サイズの書類には、いくつかの表と概要が書いてあった。通年よく見る、おなじみの書類だ。
     それを見て、しのぶは全ての合点がいった。このような折衝は、会議前に時々開かれる慣れたものだ。
     自分が身構えすぎていたのだと少しだけ呆れて、すぐに書類に目を通し始める。
     横では前もって書類に目を通していたらしい大沢と矢口が、早速言葉を交わし始めていた。
    「実際の会議はもうちょっと先なんだが、準備は早い方がいいから。この課は大沢くんと君が担当だからね。で、こんな感じになるから。どうだい、大沢くん」
    「私としてはこんな感じでいいと思いますよ。そうですね、強いて言うならここの辺りなんですが……」
    「そこはね、どうもあちらさんも譲れないというんだ。私としてはそれでいいと思うんだが。なんなら警視の意見を伝えておくかい?」
    「そうですね、その方がいいかもしれませんな」
     会話をバックに、要点を纏めながらそれを読み進めていたしのぶは、最後のページで思わず目を止めた。
    「読み終わったかね? 南雲警部としては、納得がいってもらえたかな」
    「……いえ」
    「どうした?」
    「いや、今年は方針が早く決まったのだと思いまして。見る限りでは十一月にはアウトラインが出来上がったようですし」
    「ああ、そうなんだよ、南雲くん」
     矢口は優しく微笑みながら、
    「知事の方針もあっていろいろややこしくてね、大まかなことは年末前には決めておいたんだ」
     ねえ、大沢君、と話を振ると、彼はしのぶから少しだけ視線を逸らせて「そうでしたね」とだけ返した。
     それを見た瞬間、頭の中でホイッスルが鳴り響いた。ノーサイド、審判の腕は上げられたのだ。
    「改めて……、質問などはあるかい、南雲警部」
    「……いえ、私からは、特にありません」

     よくよく自制の効く性格だと思う。
     定時過ぎまで普通に業務をこなし、こうして家路に帰る今まで、良くぞここまで落ち着いてられる、と。
     しかし、冷静でない証拠に、警視庁からすぐの地下鉄入り口には入らず、一駅分だけと先程からゆっくりと歩いている。横を通り抜けていく車の喧騒が、なぜか全く耳に入ってこない。
     だから、世界は静寂だ。
     自分がどんなだろうが、あるいは何をしようが、世界は全く変わらない。どこかピントが外れたフレーズが頭に浮かんだ。
     いや、全くそのとおりだ。ただ、知っていたそのことを忘れていただけで。初めて経験したわけでも、立ち上がれないほどまで打ち倒されたわけではないのだから、この不安定な気持ちは間もなく去っていくだろう。
     それまで頭を冷やすためにも、しのぶは淡々と歩きつづけた。夜の帳の下を。
     空気に混ざる匂いは排気ガスと、雪の予感だ。
     冬はまだ続く。これからも、しばらくは。
    「通行規制中です、皆さん下がって!」
     急に聞こえてきた声に、しのぶは我を取り戻した。
     風景は移り変わり、一駅どころか、お堀沿いにそれなりの距離を歩いていたようだ。近くの電柱には『麹町』と表記がある。距離どころか方向もでたらめだ。
     それほど広くもない道路には人が溢れている。その前には見慣れた黄色い規制線。唸るサイレンにちょっとした喧騒。それらが気になっているようで、視線が落ち着かない若い制服警官は、配属されたばかりなのだろうか。
     皆が白い息を吐きながら、明るく照らし出された現場を見ようと躍起になっている。
     典型的な事件現場の風景だ。
     久しぶりに感じる現場の空気にくらりとしながらも、しのぶはきびすを返そうとした。普段からこれを仕事としているのだから、なにも好き好んで見ることもない。
     しかし、耳が捉えた音が、しのぶをその場に留まらせた。
     振り向くと、巨体がにゅ、と姿を現す。菱井インダストリーのタイラント、街中でよく見るスタンダードな機体だ。普通に歩いている分には安定しているが、それは運転手が普通の状態であるときの話だ。
     タイラントは明らかに酔っていた。狭い道をふらり、ふらりと歩いているから危なっかしいことこのうえない。
    「運転手、その十字路で一旦停止!」
    「わーってるよ、わーって。おまわりってえいうのはなんだってそううえからものをいうのか、おれにはわからねーよ」
    「それについては地上でゆっくり聞くから。はい、ストップ!」
     タイラントの跡を追って現れた機体は、ただ懐かしいものだった。ついこの前まで、自分はあの現場にいた。
     第一小隊所属のピースメイカーはしなやかな動きでタイラントに近づき、そのまま静かに停止させる。
     無駄のない、スムーズな指揮だった。第一小隊らしい活躍ぶりといえる。
     ただ、自分がそれを客観的に見ている、この状況がとても不思議に思えた。
     まるで夢の中にいるようで。
     そうして呆けるようにしていたのは、多分何十秒にもならない間だろう。妙に間延びして感じられた時間は、思わぬ形で断ち切られた。
    「――どうしたの? 一体こんなところで」
     突然掛けられた声に、反射神経的に反応してしまう。
    「――後藤さんこそ、どうして」
     現場にいるくせにスーツにコート姿の男は、心底吃驚したように目をそれなりに大きく開けている。
     そして、しのぶもまた、同じような顔で立ち尽くしていた。

    幽襟

     先週のリプレイみたいだと、しのぶはぼんやりと思った。
     いや、どちらかといえば螺旋上の偶然だろうか。
     目の前の男は先週と同じく、丁子茶のくたびれたスーツに寒さが防げるのかが微妙な厚さのコートを羽織っている。一見すれば現場にいる野次馬の一人としか見えない出で立ちだ。
     だからこその不自然さである。
     大体の予測は付いている。そして、それが正しい確率が高いことも判っている。それでも、しのぶは敢えて尋ねた。
    「――私は、帰宅途中よ。あなたこそなんで現場に、しかも私服でいるの」
    「いや、それは、だから、……便乗して」
    「便乗⁈」
     自然と語気が荒くなるにつれ、後藤がまあまあ、ととりなすように話を続ける。
    「まあ便乗と、あとバックアップ、かな。五味丘のところ、指揮が一人インフルエンザにやられちゃってさ。やあっと出てこれたんだけど、まだちょっとだけ危なっかしい感じで、しかも本人が大丈夫です、なんて胸張っちゃうもんだから下手になんもいえないわけよこれが。だからさりげなく黒子に徹するべくここにいるわけで」
     しのぶに話す隙を与えず一気に状況を説明した後、後藤は「……そゆこと」と言葉を切った。
    「……で、本心は?」
    「いやだなあ、本心だってば」
    「どうだか。後付けはいくらでも出来ることよ。……で、首尾は?」
    「見てのとおり」
     そんな会話を交わしている間にも、酔っ払いレイバーはトレーラーへと運ばれるべく準備され、運転手はパトカーの背にうな垂れ(反省しているのではない、酔っているのだ)、ピースメイカーはキャリアーへと戻っていく。
    「いやはや、第一小隊は大したものだよ。そして、五味丘も」
    「随分と手放しね」
    「そりゃ、同僚だから」
     にやりと笑う後藤に、しのぶは不意に心の底から安堵している自分を発見した。
     単純なのだ、人の心は。麹町まで足が延びたのもまた、螺旋状の偶然なのかもしれない。
     だとしたら、それに感謝すべきだろう。こうして浮上のきっかけを掴んで、明日から、来週からまた、ひとりで歩いていける。
    「――どうやらそちらも撤収みたいね」
    「ん、ああ、そうだね」
    「まあ、五味丘君達はもちろん、後藤さんもある程度は勤勉にやっているようだし、安心したわ」
    「ひどいなあ」
    「なら、態度で表してみなさいな。……それじゃ、また」
     しのぶは後藤の返答を待たずに体を反転させた。ゆらゆらと繋がっていた、細い糸を断ち切るように。
     先週と同じく、振り返らないで去るつもりだった。
     先週と今週の偶然は、来週に続くかもしれないし、続かないかもしれない。――多分、それでいいのだ。
     そして歩き出そうとして、

    「……ちょい待ち」
    「――!」
     
     急につかまれた腕に驚きながらも、反射的にきっと顔を見上げた。
     後藤は性格に色々と難はあるが少なくとも紳士的ではあった。それこそ、紳士的にふるまう理由がない状況で、二人きりいるときであっても。
     だからこそ、こんなことをするような男ではないのだ。
     そんな認識と、突然自分を掴んできたギャップに戸惑いながらも、抗議の声をあげようとして、しのぶは息を飲んだ。
     後藤はそんな強引な行動とは裏腹に、複雑な顔をしてしのぶを見詰めていた。寂しげで、苦しげで、切なげで、困惑を含みそれでいて笑っている、そんな顔を。
     ここまで直接的に感情をあらわにしている彼を見るのは、付き合いが長いしのぶであっても初めてだ。
     思わず言葉を忘れて、見詰め返してしまう。
     目と目が合っていたのはほんの二、三秒。それはとても長い時間にも、あるいは驚くほどに短くも感じられる。そんな濃密な空気の中で、後藤はふっ、と力が抜けるように小さく笑った。
    「――レッド・バトラーにはなれない、か」
    「な、なによ突然」
     後藤は無言で右手を上げ、しのぶの顔をつ、となぞった。そっと、花にでも触れるような、似合わない仕草で。
     優しい指の感触を無意識に集中して追って、そしてようやくしのぶは自分が今涙を流していたことを知った。ほんの一筋だけ、気付かぬうちに。
     一瞬その温もりと空気に酔い、次の瞬間羞恥で顔が赤くなる。文字通りカーっ、という感触が音を立てながら顔全体を覆うのを感じた。
     ――この私が、人前で涙を⁉
     しかも拭ったのは元同僚で、しかもあの後藤だ。
     あまりのことにパニックに陥るしのぶをよそに、後藤は「ちょっと待ってて」と言い置いてまた現場へと戻っていく。その混乱は僅か後に後藤が戻ってきてからも続いていた。そんな内面を知ってか知らずか後藤は、
    「お待たせ、それじゃ、いこうか」
    「は? って、後藤さん、突然なに、行くってどこに⁈」
    「手、かなり冷えてると思うよ。こんな気温だもの、芯から冷えたんなら、どこかであったまっていった方がいいって」
    「べ、別に冷えてなんか」
    「南雲さん」。後藤は穏やか声でしのぶに告げた。「……これから、お付き合い願えない?」。

     片付いてがらりと空いた机の上を、夕日の朱の幕が広がっている。
     ほんの少し感慨にふけっていたしのぶに、後藤はそっと声をかけてきた。「しのぶさん、よければ今日、付き合わない?」

     しのぶは後藤の顔を見る。そのどこか伺うような、それでいてとぼけているような表情に、しのぶは後藤が全て承知した上で先ほどの言葉を発したことを知った。
     だから、しのぶも答えた。
    「そうね……、お酒の一杯ぐらいなら」
     
     とはいっても麹町は詳しくないから……、と呟きながら後藤が選んだのは、ビルの地下にある小さなバーだった。下る階段は目立たなく、看板も仄かな明かりに照らされた小さなブロンズのプレートが、控えめに飾ってあっただけである。
     それでも店内は八割ほどの入りとなっていた。本日が木曜日であることを考えると、これはかなりの人気であるといえるだろう。
     二人は店の奥の小さなテーブルに腰を下ろした。柔らかい印象の薄暗い間接照明と、ガラスの器に入った蝋燭の揺らめく光が店の部分部分を照らし、テーブルとテーブルの間に見えない膜を降ろしているようにも感じる。麹町という場所柄からか店内に満ちる声はさざめき以上には聞こえず、それぞれが密やかにこの夜を楽しんでいるように感じられた。
     席に落ち着いて少し経ってから、ウェイターが注文を取りにくる。後藤は初めから決めていたようにウイスキーカクテルを、しのぶは少し迷った末ディスカバリーを注文した。さらにつまみと軽食を兼ねて後藤が二、三適当に注文する。
     店に入ってから会話はない。まだ互いにどこか、手探りで距離を測っている、そんな気がする。気まずいような生温いような空気は、つきだしのピクルスをウェイターが持ってときも場に纏わりついていた。客に対し無干渉でいるべき彼らも、この雰囲気を不思議に見ているかもしれない。
     恋人でも同僚でもない、そして、恐らくは友人でも。
     当人ですら図れない関係だ、傍からなら尚更だろう。
     ならば一番近いものはなにか、しのぶは思案する。ただ誠実な信頼だけを交わしあうこの関わりは。
     ――そうたぶん、同志。
     その響きが思いの外上手くはまる気がして、少しだけ高揚した気分でピクルスをかじると、突然目の前にいた後藤がクッと鼻から抜けるように笑う声が聞こえた。
    「なによ突然」
    「あ、ごめん。いやあさ、静か過ぎるのもあれだな、って思って」
    「あれって?」
    「ほら」
     後藤もきゅうりのピクルスをつまんで口に持っていく。
     シャリッ、シャリッ。
     それを咀嚼する音は思いがけず大きい。
     後藤は何度か噛んでからごくりと飲み込むと、「なんかさ、コマーシャルの一場面みたいだって思ったらちょっと可笑しくなってね」。
    「それだけ?」
    「当たり前じゃない」
    「どうだか」
     しのぶも思わずフッと笑って力を抜いた。
     緊張がほぐれた、文字通りそんな感じだ。しかし一方でいまだ強張っている部分もある。そのアンバランスさを、しかししのぶは意識していない。ただ、そこからくる足場のもろさだけを、おぼろげに感じ取っていた。
     だからなのだろう、後藤に言われるままにここに入ったのも。
    「お待たせいたしました、ウイスキーカクテルとディスカバリーでございます」
     店の込み具合からみればそれなりの速さでカクテルが運ばれてきた。バレエのような身のこなしで、まだ若いウェイターが二人の前にカクテルを置いて行く。しのぶの前には八オンスタンブラーが、後藤の前にはカクテルグラスが置かれた。細身の足を器用に持つ姿が思った以上に似合わず、しのぶはつい破願する。その意図を正確に読み取った後藤が「南雲さん、酷いなあ」と苦笑した。
     そして自分は寸胴のグラスを手にもち、とりあえず日本人の習性にしたがい、なにを祝うわけでもなく、ただグラスを軽く合わせた。
     ディスカバリーはオランダのエッグブランデーを使ったカクテルで、口当たりが良い。ジンジャーエールによるほのかな刺激を楽しみながら飲み込めば、甘めの味が舌に少しの間だけ漂う。
     初めてこれを飲んだのは大学のゼミの飲み会だった。
    今ほど酒を嗜まなかった学生の自分に、司法浪人二年目の先輩が薦めてくれたものだった。「ナイトキャップにいいのよ、つまりは飲んだら寝る時間」と微笑んだ彼女は、帰るタイミングを計っていた自分をそっと出口へと押してくれたものだ。彼女は結局三度目の試験に失敗した後、同棲していた男性と結婚し、法学の世界から退いた。その後一度だけ会った彼女は子供を抱きながら幸せそうに「弁護士にはなれなかったけど、同じぐらい良い選択をしたと思うの。どちらかがファーストで片方がセカンド、ではなくどちらもファーストになる可能性を孕んでいるってことよね」と笑ったものだ。すべては自分が思い描いたようには行かない。そして、それは決して不幸なだけではないだろう。
     しのぶはぼんやりとタンブラーのなかを見る。エッグブランデー独特の濁りを孕んだ薄いオレンジの液体は、温かい記憶を体現したようにカップの中でまどろんでいた。
     一方の後藤は、かなり強いカクテルであるそれを、一口で四分の一ほど味わった後、やはりぼんやりとあちらの方を向いている。それはしのぶと同じように思い出を引っ張り出しているというより、これから取り掛かる宿題について段取りを考えているような、そんな表情だった。
     所在なさげに顔に置かれ、時々トン……と頬を叩く仕草をするその指の、やや関節ばったその造詣を眺めながら、これに似た表情はよく見たことがあるな、としのぶはぼんやりと思い出した。
     例えば隊長室で、喫煙所で、時々は屋上で。後藤は大体煙草をお供にして思案にくれていたものだ。大抵煙草の大部分は灰になっており、その灰色の脳細胞をフルに回転させていることをしのぶに教えてくれていた。考えていることは第二小隊や二課に関わる事から競馬の予想までそれこそ様々だったが。
     後藤という男は相当におちゃらけているように見えて、根はどこまでも真面目な性分なのだと、そんな場面に出くわす度に思ったものだった。
     カラン……。
     しのぶのグラスの中で、氷が静かに音を立てる。気が付けばグラスの中身は半分以下に減っていて、自分でも意識しないうちに酒を飲みつづけていたようだった。
    「二杯目、頼む?」
    「まだ結構よ」
     そ、と返す後藤のグラスは先ほどから中身が減っていない。そのグラスを二、三度軽く揺らしてから、後藤は息を吐いた。
    「で、仕事は相変わらず?」
    「……先週の今週よ、なんで?」
    「そりゃ、気になるから」
    「あら、最近いつになく真面目ね」
    「俺はいつだって真面目だよ。でも、そうじゃなくてさ」
     後藤はここで一旦言葉を切った。いつになく慎重に言葉を選んでいるように見える。詭弁ともとれるような内容のことを長々と吐くこともある男にしては珍しいことだ。
     その様子にしのぶも引きずられつつあった。
     ――巻き込まれてはいけない。
     無意識にそう思う。以前がそうであったように。
     普段の饒舌が嘘のように言葉を探す後藤の様子に、しのぶはある種の予感を感じながらも一方でそれを否定していた。
     この雰囲気に飲まれてはいけない。なぜかそう思った。巻き込まれたら駄目だ、あのときと同じように、一人で立つのだと、自分へのその誓いを破ってはならない。そうだ、あのときと同じように――
     
    「しのぶさん」
     後藤が低く、名を呼ぶ。曖昧さと少しの不安を孕んだ声で。それとほぼ同時に――

    「そうじゃなくてさ」
     しのぶの回想を断ち切るように、後藤は言葉を発した。曖昧さを一切排除したその思わぬ力強さに、しのぶは意識を奪われる。
     遠い潮騒のようなざわめきが、ふっと耳から消えた。
    「……南雲さん、無理してるでしょ? そりゃ心配だよ、俺は」
    「そんな、無理なん」
    「南雲さん」
     有無を言わせぬその調子に、しのぶは思わず言葉を失う。後藤はそんなしのぶを見て、さわやかとは程遠い、曖昧な微笑みを浮かべた。
    「あれから何度か会ったけど、その度に今みたいな顔で、さ。――俺ね、自分でも意外なんだけど、けっこう一途だったみたい。だから……、心配、してるわけ」
    「……今みたいな顔、ってどんな感じなの」
    「いまにも泣きそう」
     きっぱりと言い切られ、しのぶは絶句した。
    「そんな訳―― 」
    「ねえ南雲さん」、後藤はそっとしのぶの目を見た。「意固地なのはいつものことだけど。――でも、たまには泣いても、いいと思うよ」。
    「な、なにをいうの」
     後藤はしのぶの目を見たまま、口を開いた。あくまでも淡々と、しかし真摯な口調で。
    「第三小隊設置、初めから見送りだったんでしょ?」
    「!」
    「相変わらず情報が早い、って言いたいんでしょ」
     後藤は苦笑いを浮かべて、グラスを傾けた。琥珀色の液体がそっと揺れる。
    「いやあさ、自然と耳に入ってくるもんで。……正式に通達が来たらみんながっかりするんだろうけど」
     これで激務も少しは減るだろう、って期待してたからね、と後藤は続ける。
     話を聞きながらしのぶは自然と俯いていた。
     決して透き通らないエッグブランデーの黄色。
    「……十月には基本方針は決定してたって、言われたわ」
     暫くして出た声は、自分でも驚くほどに弱々しいものだった。
     後藤は何も言わない。また氷が小さく音を立てる。
    「内示が出たのが八月末、向こうで協議に入ったのは十一月。……ねえ、そうすると、一体なんだったのかしら」
     こんなこと日常茶飯事だと判っている。警視庁だけではなく、各地各企業で良くあることだ。
     判ってはいても。
    「資料を集め、データを揃えて、何度も大沢と話しあって……」
     そう、本当は問いただしたかったのだ。

    「結果として反映されなくても、次への礎になれば、来年度の主要課題になれば、ってそう思って」

     私が、してきたことは。

    「……でも、初めからすべて決まっていたというなら」

     私の歩いてきた道は、この先も続いていくものなのか、と。
     
    「――無駄じゃないよ」

     後藤の声に、しのぶはそっと顔を上げた。
    「後藤さん……」
    「でしょ、南雲さん」
     優しくそう問い掛けられたとき、不意に胸に感情が溢れた。
     なにかは判らないが。とても温かいものが。
     それが満ちたとき、しのぶは初めて、ああ泣きたいんだ、と思った。
     多分、ずっと前から、泣きたかったのだ。
    「――そうね、それはこれからのことだわ。弱気になってたのね、私」
     そう言って微笑んで後藤の方を見れば、後藤もそっと笑って、
    「素直じゃないんだから」
    「なんですって?」
    「いや、こっちの話」
    「でも、そうよね――」
     ディスカバリーを口に含めば、先程よりも濃厚に味が広がる。曖昧に光るカクテルをそっと揺らしながら、
    「なにか慌ててたんだわ、きっと。……別に功を焦ったわけでも、使命感に追われてたのでも。――使命感は多少あるかもしれない。でも、それらはそんなに背負ってはなかったと思うの。でも実際は自分を追い立ててたのよね、いつのまにかに」 
     恐らくは、過去を乗り越えようとして、実際は逃げようとしたのだろう。
     あるいは自分は飾りではないと、これだけ強くなったと。一人で立てるほどになったと、人々に、大沢に、――いや自分に証明したかったのかもしれない。
     過去の自分はもういないと言い聞かせるように無意識に心を追い立て、やがて、疲弊していった。
    「無理が出る、って判ってたはずなのにね……」
     いつのまにかカクテルは空になっていた。解けて小さくなった氷が、それでも透けて光っている。
     しのぶはグラスをクルクルと回した。ガラスに氷が当たる微かな音が耳に心地よい。
     ただ静かにしのぶの話を聞いている後藤に、しのぶは困ったような笑みを浮かべた。
    「なにか喋り過ぎてる気もするわ、今夜は」
    「カクテルのせいにすれば?」
    「カクテルの?」
    「そう。ディスカバリーのベースに使われてるエッグウィスキー、アドヴォカートっていうんだけどさ。オランダ語で弁護士、っていう意味なんだって。飲むと気持ちよく酔えて弁舌爽やか立石に水とばかりに話せるから、らしいよ」
    「随分と詳しいのね」
    「たった今仕入れた知識だから」
     後藤はそう言って、テーブルに置いてあったカクテルレシピの本を上げた。
    「種明かしをすれば、なんだって簡単だよ」
    「でも、そこで明かしちゃうのが、後藤さんらしいわ」
    「そう?」
    「そう、多分」
     アルコールが回ってきたのだろうか、いつもより気分が軽くなっているように感じる。
     ふと心に浮かんだことを、常ならないことだが、しのぶは素直に口に乗せた。
    「――色々と怖かったんだけど、……いや、今も怖いのだけど」
    「なにが?」
    「見えないもの、かしら」
    「それは俺だって怖いさ」
     後藤はグラスを一気に煽る。そして通りかかった店員にまた注文をする。
    「明日に差し支えないの」
    「これくらいなら平気だよ。それに、酒の勢いっていうのも時には借りたいしね」
     にやり、と見慣れた笑みを浮かべ、
    「俺もそれなりに怖がりだから」
     だから、まず、潤滑油をね。そう何食わぬふりで続ける。
     その様子は以前から知っている後藤喜一そのもののようだ。一方では後藤なりの配慮であり、もう一つはきっと、彼なりの防御姿勢のようにも思えた。
    「……後藤さんも怖いの?」
    「そりゃ、怖いよ。……この年になるとさ、余計なものを得ることのリスクも骨身に染みて分かってるわけだし。無理につつかなきゃ少なくとも現状は維持出来る、ってね。思うわけじゃない」
     その言葉にしのぶは頷く。
     若いときは滑稽に見えた慎重さが、実は己を守るための鎧であると理解したのはいつのことだったろうか。
     しなやかに傷を気にせずに生きていると思えたほんの十年ほど前が、ふと、とても遠く感じられた。
    「でも」
     頬杖をついて、後藤がそっと呟いた。
    「それでも……、子供みたいだけどさ。欲しいものは欲しいときも、あるんだよね。そこに会得した怖さがブレーキをかけるわけだけど。
    ――どこかではアクセルを踏み抜く無謀さこそを選ぶことも大事だとも、解ってる自分もいたりして。そして……」
     後藤はそこで言葉を切って、静かにしのぶの目を覗き込んだ。
     その目の穏やかなのに力強い輝きに、思わずしのぶは引き込まれる。息をするのを忘れるほどの緊張がそっと周りに満ちる。
    「……見えてもいない終りに遠慮する必要はない、って」
     そこまで話したときに、ウェイターが二杯目をテーブルに運んできた。
     後藤に琥珀色のカクテルと、そしてもう一杯。
    「スカーレット・オハラでございます」
     しのぶの前に、ルビーを溶かしたような鮮やかなカクテルがす、と差し出される。名前に相応しい、生命に溢れた緋色。
    「後藤さん、これ」
    「おごり。今日、付き合ってもらってるしね。それにいい名前じゃない」
     さらりと言われて、しのぶはつい言葉に詰まった。
    「それとも……、やっぱりもうきつい?」
    「え、いいえ、大丈夫よ。そんなことないわ」
    「ならどうぞ、遠慮なく」
     そっと口にすると、クランベリーの甘味とライムらしき酸味がそっと広がった。
     昔、かの本を読んだ記憶を辿ってみる。まだ未来は輝かしいだけだと思っていたころのことだ。
    「『そうよ、私にはタラがあるわ……』」
     なんとも単純なことを忘れていたのかもしれないと、しのぶはぼんやりと思った。
     きっと単純すぎるから、忘れてしまうのだろう。
     後藤も静かに二杯目のウィスキーカクテルを飲んでいたが、やがて徐に、「飲み終わったら出ようか」と告げた。
     
     外に出れば風がやや強く、文字通り身を切るように肌に触れてくる。
     アルコールであったまったとはいえ、さすがにこの寒さは厳しく、しのぶはコートの襟を思わず立てる。
     立ち止まっている間にも、冷気が体を浸蝕していくようで、 白く大きく広がる息を供に、二人で地下鉄の入り口へと急いだ。
    「予報、当たるかしら」
    「これだけ寒かったらさすがに雪だろうね」
    「外れてくれたら嬉しいんだけど」
    「まあ、空見る限りでは、期待するだけ損かもなあ」
     足早に階段を下りた先の地下鉄構内は、外よりかはやはり暖かく、思わずため息が漏れてしまう。
     切符を買い、改札をくぐったときが、この時間の終りだった。
    「――今日はありがとう。お陰で少しは楽になったわ」
    「ほんと? なら良かったよ」
     普通に会話を交わしながら自動改札を通る。そのとき胸に去来したのは、惑いようもなく、名残そのものだった。
     しのぶは次の永田町で乗り換え、後藤は有楽町までこの線のままだ。
     次に会えるとしても、それがいつなのかは解らない。
     大した待ち時間もなく滑り込んできた電車に乗り、やはり大した間も空けずに永田町到着のアナウンスが響く。
     別れの言葉をかけようと、改めて後藤の方を向き直ったとき、さりげなく後藤がしのぶの右手を取った。
    「なに、どうしたって……」
     手に握らされたものがなにか判って、しのぶは頭が真っ白になった。
     後藤はそんなしのぶの様子にそっと微笑んで、
    「南雲さん、お疲れ様」
     そして、とん、と背中を押した。それにより人の進む勢いに乗ったしのぶは、ホームへと流されていく。
    「後藤さん……!」
    「じゃあ、また」
     発車のベルがけたたましく鳴り響き、定刻通りドアは閉まり、そして微笑んだままの後藤を乗せた電車は次の駅へと走り去っていった。
     ホームにしばらく立ち尽くしていたしのぶは、そっと右手を開く。
     あれで家事はこまめにやるのだろう。握らされた白いハンカチはアイロンが掛けられ、折り目正しく畳まれている。
    「――全く、あの人は……」
     どこまでも人のことを見透かして。
    「本当に……もう……」
     頬をそっと、涙が伝った。
     一筋、また一筋と流れるそれを、白いハンカチでやや乱暴に拭う。
     涙は後少しだけ、止まりそうになかった。
    早春賦

     恨めしいことに天気予報は当たりそうだ。
     厚く垂れこめた雲をみて、後藤はつい低い声を上げてしまった。
     今週は第一小隊が夜のシフトにあたり、しかも明日は非番だ。しかしそれも何事もなければ、という前提つきの話であり、雪でこけるレイバーが多数出たら、自分も当然ここに詰めることになるだろう。
     仕事に(大声では言わないまでも)誇りを持っているが、だからといって休みを返上するほど熱血でもない後藤としては、明日は家でのんびりと過ごしたかった。
     ふと、これが去年だったらいそいそと出勤しただろうな、と思い苦笑する。自分でも笑ってしまうほどに純情な男は、顔さえ見られたら苦労も報われる、とかなり真面目に思っていたのだから。
     ――だいぶ、落ち着いたかなあ。
     後藤は霞ヶ関の空の下にいる、元同僚のことを思い浮かべた。
     先日会ったときの彼女は、明らかに情緒不安定でつつけば倒れてしまいそうな雰囲気だった。傍から見れば普段通りの、凛とした彼女だったろう。が、職場柄と個人的な事情から他の人よりも少しだけ深く彼女を見詰めていた後藤には、はっきりとわかるほど、それらは彼女を覆っていたのだ。
     滅多に会わない間柄になったとはいえ、南雲には健やかでいて欲しいと思う。
     なにも出来ないようになったとはいえども、だ。

     ――友情、といっていいのかしら。そんな関係を築けたことは本当に、良かったと思うの……。

     南雲が二課から去っていったあの日、彼女からさりげなく引かれた境界線は、南雲なりの折り合いの最後の妥協点であり、後藤もまたそれに同意を示したはずだった。
     臆病なのはお互い様だ。それぞれが胸のうちに隠していた感情は、台風をやりすごしたあの一夜を経て、もはやあやふやながら相手に伝わってしまっている。そこでさらに一歩踏み込むことも出来たはずなのに、結局、後藤も身を引いたのだから。
     しかし二度の偶然はさりげなく彼の背を押し、歓迎されないかもと危惧しながらも、後藤は不器用なりに南雲に手を差し伸べた。
     また都合の良い偶然が起こるかは判らないけど、しかしそのときにはもうちょっと、勇気を奮ってもいいのかもしれない。自分で言った通り、見えないものに遠慮する必要は本来ないのだから。
     実現する気も機会もないであろうことをうっそりと考えながらそっと腕時計を見た後藤は、少し歩調を速めた。二課棟があるこの最果ての埋立地には、滅多にバスは来てくれない。東京二十三区とは思えない時刻表が示した時間まであと少し。乗り逃したら寒空の下二十分以上立ちっぱなしだ。バスは遅れるものとはいえ、早めに待っていることに越したことはないのだから。
     暮れかかり、水底のような暗い道を急ぐうちに、後藤はふとバス停に先客がいることに気がついた。
     正確にはバス停から少し離れた場所に一人、佇む影が見える。
     その人影が目に入った途端、自然と後藤の足が早くなった。
     顔はもちろん髪型や服も良く見えない。街灯もろくにないこの場所では、かろうじてその背格好がぼんやりと浮かび上がるだけだ。
     ――まさか。
     最後は小走りに近くなりながら、後藤はバス停へと急ぐ。
     ちょっとだけ弾んだ息のままその人影の前に出ると、彼女は後藤の姿を認めて、ゆっくりと微笑んだ。
    「……お疲れさま」
     向こうからバスのディーゼルエンジンの音が聞こえる。定刻通りに停留所に来たバスは、しかしドアを開けることなく走り去っていった。運転手はバス停には並ばず、しかし近くにいるその二人の姿をさぞ訝しく思ったことだろう。
     通り過ぎるバスの蛍光灯の灯りに照らされた南雲の顔は、この前の夜よりもはるかに血色良く見えた。そのことに単純に安心する自分と、今の状況にらしくなく慌てている自分が、同時に口を開いた。
    「しのぶさん……?」
     思わず以前のように呼んでしまったことに、後藤ははっとする。しかし、南雲はそんなことは気にも留めぬ様子で、
    「なによ、幽霊でも見たような顔してるの」
    「いや、実際に見ちゃったときはこんなもんじゃ……、って、どうしたの、一体」
    「これ、ありがとう」
     差し出された白いハンカチはきれいにアイロンが掛けられ、折り目正しく畳まれていた。そっと受け取るとしっかり糊まで付いている。その辺はやっぱり女性だなあ、いや御母堂もしっかりなさってるし、と考えながらも口はしっかりと動いていた。
    「わざわざありがとう。そんな、気を使わなくてもよかったのに。それこそ郵送とかさ」
    「そんな失礼なこと、出来るわけないでしょ。それに」
     南雲はなぜかそこで言葉を切った。何かを勢いで言いかけて、だがやっぱり戸惑い、言い澱むようにしばらく沈黙したあと、今度は全然違う内容を問うてくる。
    「……これから帰りでしょ? 良かったら駅まで送るけど」
    「……いいの?」
    「駄目なら初めから誘わないわよ」
     そこに車を置いてあるから、と南雲はさっさと歩き出す。後藤はかなり混乱しながらも、その後についていった。
    「で、本当に今日はどうしたの?」
     言われるままに助手席に収まり、シートベルトを掛けながら聞く。南雲と車に乗るのは、あの軽井沢への出張以来だ。
    「どうしたってなにがよ」
    「いや、仕事」
    「出たに決まってるじゃない。会議の後、定時で上がったのよ。電話してみたら五味丘君が出て、今日はあなたも早番で残業などもないはずですから、っていうから、ならタイミングがいい、と思ったのよ」
     そういえば五味丘は、随分と愛想良く送り出してくれたのだ、今日はことの更。
    「……五味丘も狸だね」
    「どうしたの?」
    「いや、なんでも」
     南雲はエンジンを回して、まず暖房のスイッチを入れる。生温い風が勢い良く噴出す中アクセルを踏み込むと思ったが、なぜかそのままハンドルにもたれかかった。
    「……今日は」
    「会議だったんでしょ」
    「そう、それで……。出来る限りの準備をして、それでやれることはやったわ。明日から、来年度に向かってまた仕切り直しよ。でも多分、道筋は付けられるはず」
    「良かった、じゃない」
    「ええ、そう思う。だから……。そうよ、ハンカチのことは口実で、あなたにお礼がしたかったの」
    「礼だなんて、そんな」
    「ねえ、後藤さん」
     そう言って後藤の方を見てくる南雲の表情はよく窺えない。しかし、口調は穏やかなものだった。
    「私ね、怖かったのよ、色々と。……特に、変化することが」
    「……うん」
    「でも多分、それ以上に何かへの不信感があったのかもしれない。それが周りへなのか。それとも自分へなのか、その両方なのかはまだつかめないんだけど……」
     暖房が少しずつ、車の中を温めていく。
     後藤は静かに、次の言葉を待った。南雲の言葉を遮ることが、どうしても出来なかったのだ。
    「……だからとりあえず、自分から信じることにしたわ。何が変わっても受け止められる、って」
    「自分を、か」
    「そう。……それでね、後藤さん」
    「はい?」
    「私……、ずっとあなたに会いたかったんだと、思う」
    「!」
    「……だから私も、見えてもいないものに遠慮するのは、とりあえず止めてみようと、そう思ったのよ」
     南雲はそう言って勢いよくアクセルを吹かした。
     力強く発進した車は、たちまちに何もない埋立地を走り抜け、風のスピードで先へと進み始める。まるで静かに澱み、眠るようにうずくまっていたこの世界のすべてが、加速度を付けていきなり未来へと動き出したようだった。
    迷いなくハンドルを切る南雲はミラーを確認しながら横目で後藤のほうを見てから、あのからかうような口調で、
    「どうしたの、顔が赤いわよ」
    「……当たり前じゃない」
     実際、後藤は戸惑っていた。急に仕切りなおされた境界線に戸惑っていた。
     まだ何も始まっていない。しかし、始まりの予感を孕んだ車内で、身の置場にも視線の置場にも困っているのだ。
     だって余りにも突然だから。そう言おうと南雲の顔を見た後藤は、そこで初めて彼女も顔を赤くしているのに気が付いた。
     南雲は南雲で、相当に勇気を振り絞って。
     なにかきっかけを掴んで、そして今日こうして車で出向いてきたのだろう。
     ――かなわないな、やっぱ。
     心の底から、そう思う。
     これで何かが劇的に変わるわけではない。後藤も南雲も経験と年齢がしがらみとなって、まだどこか見えないものに、なにより変わることに怯えている部分がある。
    でも。後藤の顔に、穏やかな色が微かに乗った。
    そうだ、迷ったならば今日からは、一人でなく二人で漕ぎ出していけばいい。
     元々交通量も少ない道路だけあって車は順調に進んでいく。南雲の愛車は海を背に二車線の道を馴れたハンドルさばきで進み、そして次の信号を曲がれば環状七号線に出るあたりで、後藤は心からこぼれた疑問を、無意識のうちに口に乗せだ。
    「でも本当に……」
     なんでだろうね。独り言のつもりだったが、狭い車内では当然耳に入ったのだろう。赤信号で止まったとき、南雲が静かに答えた。
    「……冬も必ず終わることを、うっかり忘れていただけよ」
     外には、ちらちらと小雪が舞い始めている。
     しかし、よく見れば街路樹の先には、新芽が少しずつ膨らんできている。
    「それにね」、信号が変わったのを確認して、ハンドルを切りながら南雲が続ける。「スカーレット・オハラじゃないのよ、私も」。
     あなたがバトラーになれないのと同じようにね、もっとも柄じゃないけど。そう南雲が小さく笑った。朗らかで心温まる声だ。
     環状七号線に入れば、倉庫街から出てきたトラックで、道は瞬く間に込んでいく。
    進みが遅くなった中、後藤は南雲にそっと声を掛けた。
    「――ねえ、しのぶさん」
    「なあに?」

     前が詰まり、車がゆっくりと止まる。それを機に顔を向けてきた南雲と、静かに視線が絡み合う。
     空からは雪が、そっと降りつづけていた。

    鰆東風

     今年の桜は気も早く卒業式の頃には関西を彩っていて、年度が切り替わった今は関東も花盛りを過ぎ吹雪の頃である。霞ヶ関から見おろせば、皇居や日比谷公園を彩る薄紅色も一層鮮やかになり、そこに他の花の黄色、薄桜、紅紫に藍紫が混ざり合い、柔らかで惜しみなく注ぐ陽光に照らされて、極彩色の敷物のように輝いていた。
    春である。
     新年度、どこの職場でもそうであるように、警視庁も異動してきたものと新しくここに配属されたものが溢れてさざめいているが、しのぶが係長を任される部署は人員の変更もなく穏やかなものである。
    二課でも今の部署でも、外面を保つため、女性のキャリアモデルという名の元にお飾りで置いておくつもりだったのだろうから、人員の補充も変更もないのは別に驚きもなかった。それに、二課というちょうどよい物置が出来たとばかりに後藤を異動させたら、結果しのぶと二人、一見大人しいそぶりを見せながら本庁と丁々発止にやり合う部署になってしまったのだから、都合のいい人事異動など存在しないのだと、上層部が今更ながら実感したのかもしれない。
     後藤のことに思考が及んで、しのぶはほんの少し照れのような気持ちを抱いてしまい、誤魔化すようにコーヒーを口にした。
     先日、福島の名義で二課から届いたレポートが後押しとなって、第三小隊発足がいよいよ現実味をもって議論されるようになった。名目はともかく、誰が分析をし、作成をしたのか、調べるまでもなくしのぶにはわかっている。五味丘と後藤が、それぞれの隊に指示を出して、現場からしのぶを助けるべく動いてくれたのだろう。
     それにしても小隊長を狙っている熊耳はともかくとして、分析官として優れた才能を発揮する進士を、バックアップとして二課に留めておくのはもったいない気もする。そこまで考えたところで、自分がわずか半年で再び本庁の思考に馴れ始めていることに気付かされ、しのぶは小さくため息をついた。むしろ進士のような警察官が現場で生のデータに触れて分析をしているからこそ、二課、そして特科車両全体に良いフィードバックがあるというのに。昔育まれたエリート然とした思考回路は、二課で揉まれているうちに修正されたと思ったが、今のようにひょっこりと顔を出してくることがある。その思考自体は決して悪いだけではないのだが、それを価値基準としたら、ただのめくらましになってしまう。
     過去の自分を見返しこの男社会で実力を認められようと、がむしゃらに働くうちに強まった上昇志向と選良であろうと強く意識する性格が和らいだのは、現場で泥にまみれ、起こるすべてのことを一身に背負う経験を積んだことが大きい。しかしそれ以上に、同僚として赴任してきた後藤の、適度に力が抜けた態度に影響されたことも大きかった。
     後藤は不真面目そうなポーズをとりながら、部下の技量を見抜き、任せるところを任せ、その責任を負うということをしっかりと自覚している。自分の隊の出来る範囲を把握し、だからといってなあなあに済ますことを良しともしない。のらりくらりとした言動とつかみどころのない態度に無性に腹が立っていたのは初めのうちだけで、かつて言われていた通り、警視庁で知らぬものはいないという辣腕と、それを制御するだけの達観が備わっていると認識を改めたのは第二小隊がなんとか発足したあたりのころだ。それでなくても第一小隊のおさがりのおんぼろレイバーに人員は五人だけという、間に合わせにもほどがある編成で、後藤は半年間、大きな失態もなく隊を指揮し、出動をこなし続けたのだ。
     あのころ、しのぶは何度も自問した、自分と後藤の立場が逆だったとして、機体も編成も不完全な隊を、どのように、そしてどこまで動かしていけるだろうか、と。
     その思考訓練は自然としのぶの力になったと同時に、同僚への敬意を導くものになった。決して本人には言わないが、後藤からいつの間にか教わったことはまだまだある。例えば交番勤務についたばかりの泉を引っこ抜くと聞いた時、しのぶはまだ子供ともいえる女性をレイバー隊に加えるという判断に驚き、その人事はまだ早いのではないかと思わず批判を加えたが、それが自分の中の偏見でしかなかったことを、その後泉自身に証明されることとなった。泉も他の隊員も揃って未熟者だったが、それをまだ何にも染まらず成長する余地があると捉え、徹底的に自分の主義で育てた後藤の手腕を証明するのが第二小隊だ。後藤は一貫して現場の人間だが、初めて持たされた部下によって、人を育てる才能があることも証明してみせた。確かに癖がある隊ではあるが――。
     つらつらとそこまで考えて、しのぶは、不意に我に返った。
     これじゃまるで、ただの惚気ではないか。
     部屋にいる部下たちはそれぞれ書類やパソコンに集中していて、誰も他の人に気を向けていない。それを幸いにしのぶは素早く書類で顔を覆い、少し赤らんでいるであろう頬を隠した。
     初めて恋をした女子学生じゃあるまいし、浮かれているなんてものじゃない。
     壁にかかった時計は午後四時を回ったあたり、金曜日の東京は週末に向けてどこか浮足立っている。
     定時まであと二時間。待ち合わせた時間までは、あと二時間と三十分。

     後藤に会うために二課へと車を走らせたのは三月。東京に最後の粉雪が舞った日のことだ。
     それから三度、二人きりで食事に行った。いずれも有楽町の果物屋の側で待ち合わせ、銀座までゆっくりと歩き、そして後藤が探してきたそば割烹だったり、環生が勧めてくれた焼き鳥だったり、たまたま目に入った日本酒ビストロだったりしたが、とにかく暖簾をくぐってまず互いを労わったあと、昔のように談笑が始まる。後藤は饒舌に二課の近況や出動時の出来事を伝え、黙ってしのぶの声に耳を傾け、真摯な言葉をさりげなくしのぶに送ってくる。一方しのぶは遠慮なく笑い、五味丘や部下に苦労を掛けるなと苦言を呈し、控えめに弱音を吐露した。いつも二軒目には後藤の行きつけだという日比谷のバーで互いの喉を潤して、終電前になると紳士然とした態度で駅までエスコートされて、そして別れる。
     三十代と四十代の付き合いとしては、驚くべき清廉さだ。今時、高校生だってもう少し男女の駆け引きに富んだデートを楽しむのではないか。
     恐らく、二人とも高揚しているのだ。それはこの関係についに名前が付いたからという以上に、また、遠慮せずに胸のうちを忌憚なく話し、そして経験を分かち合える距離に戻ったこと自体に、抑えきれないほどに喜びを感じているのだ。
     しかしその高揚は戸惑いと表裏一体で、二人きりでいるときの空気も、あ・うんで会話をすることも、余りにも肌になじみ、当たり前すぎるもので、なにかが特別に変わったと意識するのが難しい。つまりは、二人して照れているということなのかもしれない。
     それでも間違いなく関係は変化をしていて、先日、ビストロで鴨と真鱈に合わせて美味しく日本酒を味わった帰り、ついに二人はかわいいキスをした。
     あの日は酒に強いはずの後藤も、そこそこ楽しめるしのぶも、揃って陽気に酔っていて、ふわふわとした心地で歩けば、春先の空気はどこか緩み、そして木々に生る白木蓮は零れ落ちそうに花びらを揺らしている。
    思わず足を止めて見惚れたときに、隣の男の屈む気配に目を閉じる。そっと唇が重なったあとは、なるほどこれが夢見心地というのか、とぼんやりと納得した。目の前の後藤はただ顔を赤く染めて黙ってしのぶを見つめていて、ああ、この人も勢いを借りたいほどに緊張しているのかと思うと、陶酔が一層深まる気分だった。
     丁度非番が重なるから、次の週末を一緒に過ごしたいというメールが届いたのが五日前。
     それからというもの、不意におままごとのようなキスを思い出しては、一人微かに頬を赤らめ、そしてそんな自分に惑う。
     こんなはずではなかった、ここまで感情を持っていかれるとは思ってなかった。
     心が急き立つことも、背中や指先を思い出しては鼓動が少し早くなることも、うさん臭い笑い顔や博打に出るときの不敵な顔が瞼に浮かぶことも、人をそっと放っておいてくれたときに決まって黙って置かれた、近所のカフェのものだというハウスブレンドコーヒーの酸味が不意にリフレインされることも、そのすべてにコントロールが効かないことも。
     そして今も、化粧直しをしながら、アイシャドウを普段のブラウン系ではなく、一目惚れして買ったシャイニースティームグレイにしたり、いつもより少しだけ華やかな下着を身に着けていたり、通勤するには少しだけ高級なブラウスを身にまとったり。そうしてささやかに着飾ることに胸が躍ることも、もうずっと長い間忘れていた感覚だった。
     そういえば、たまに服が似合うとか口紅の色がいいとか、あるいは態度の凛々しさや勇ましさを褒めることはあるが、容姿そのものを称えることはしない男だ。女性相手に世辞の一つも言えないのではなく、世辞の裏にあるものを心底失礼で無駄だと判断しているのだろう。人に見せようとしている姿とは裏腹に、どこまでも倫理で己を律し理性で生きている男だ。
     呆れるほど計算高く臨機応変に相手を翻弄するわりには、全てに対して慎み深く臆病なまでに善人なのよね。つれづれといままでの様々なことを思い出しながら警視庁を足早に出ると、横断歩道の向こう、待ち合わせた桜田門側の地下鉄出口に、見慣れた影が見えた。時刻は待ち合わせから三分ほと過ぎている。歩行者信号が変わるまでの数十秒すらもどかしいがその時間と使って出来るだけ普段通りの顔を作り、しのぶはやや早足で待ち人のもとへと向かった。
    「待たせたかしら」
    「そうでもないよ、俺もついさっき終わったばっかりで」
     後藤は仕立ての良い着心地がよさそうなスーツに、普段から愛用しているコートを羽織って、相変わらずの心地良さがない笑顔でそう返してきた。
    「ならよかったけど」、例え十分以上待っていたとしてもそのことをおくびにも出さない性格だ。なのでしのぶはあえて流した。「今日会議があるとは聞いてなかったけど、二課でなにかあった?」
    「いや、二課のことじゃなくて、俺個人の話で」
    「そうなの。なにをやらかしたか知らないけど、それはお疲れ様」
     本庁嫌いの後藤のことだ、個人で呼び出しを受けるのはさぞ面倒に違いない。しかし二課に関わることでなければ、出向かなくてもすむよう小細工を弄するのが常だというのに珍しいこともあるものだ。
    「で、今日のプランは?」
    「ここから千鳥ヶ淵まで花見としゃれこんで、神楽坂で夕飯にして、アドレス送ったあの店よさそうでしょ? で、そのあと……新宿で一杯」
     そろそろと出されたコースにしのぶはいいわねと頷いた。
    「丁度花吹雪の頃かしら。神楽坂のお店、確かワインビストロでしたっけ」
    「蕎麦と迷ったんだけどさ、ちょっとはゆっくりしたいなと思って」
    「後藤さんにしてはしゃれたお店よね、誰から聞いたの」
    「やだなあ、俺だって隠し玉の三つや四つ、持ってるんだって」
     ただ使いどころがなかっただけで、と、ぼやく後藤にしのぶは小さく笑った。
    「だったら、新宿では驕るわよ。明日は互いに非番だし」
     そう言ってささやかに微笑んでみせれば、後藤も不器用に微笑み返して、「じゃあいこうか。風が全部散らす前に」と気障なことを言う。
     皇居は一周約五キロ、千鳥ヶ淵まで歩けば三十分と少しの距離だ。憲政記念館のあたりでさりげなく出された手を優しく握り返して、そして二人同時になんともこそばゆいとばかりにまた笑う。
     確かになにもかも変わっている。
     冬、麹町まで独りただ歩いていたときには、人の体温の手触りなど、すっかり忘れていた。

     さすがは東京有数の花見の名所とだけあって、半蔵門を過ぎて千鳥ヶ淵緑道に差し掛かるあたりからは、人も徐々に増え始めた。老若男女、みな一様に顔を上に挙げて、口々に花の盛りを過ぎ、最後一層鮮やかに降る花にため息を付き、そして見事だと褒め称えていた。それはしのぶと後藤も同じで、しばらく足を止めて、濃く深い枝の葡萄茶と雪のように風に乗る薄桜のコントラストに無言で感じ入る。
     二課にいたころは 四季の折々、過ぎる日々に目を細める余裕はあまりなく、日々東奔西走してどうにか現場を収めるのに精一杯だった。半分は東京湾の埋立地という寒い暑い雑草が枯れた生えた以外の季節感にとぼしい職場環境ゆえだが、半分は現場の献身なんていう美辞麗句のもと、ぎりぎりの人数でなんとか職務を遂行していたからに他ならない。
     この状態に今度こそケリをつけてみせる。これ以上現場が疲弊しないよう、その一心で今の地位を欲したのだ。
     降る桜の下でまた決意を新たにして、いまだ現場で奮闘している横の男を見ると、後藤はしのぶの視線に気付いて見つめ返し、そして手を伸ばした。髪についていたらしい花びらを繊細な手つきでそっと払う。
    「いい顔してるね」
    「え」
    「……好きだよ、そういう強くあろうとする目が、さ」
     言った傍から照れるように明後日の方を見るのだから世話がない。普段ひねくれものの皮を着て斜に構えることに慣れ過ぎてるものだから、素直に好意を伝える方法を忘れているのだろう。
     もっともしのぶも、肩の力を抜いて人の行為を受け取ることに慣れていないのだから、揃って難儀なことだ。
    帰するところ、似合いということかもしれない。
     そう結論付けて笑みをこぼすと、後藤がそれをどう受け取ったのか、さらに照れたように頭を掻いた。
     私はあなたの、そういうところが素敵と思うわよ。
     そんな風に告げてみたくもなったが、代わりに、そっと後藤の右手を取って、小さく「ありがとう」というに止めた。そして望めば触れられる距離に彼がいる意味を改めて思う。それも、互いが欲すればどこまでも深く。
     後藤は手を柔らかに握り返して、そのままで左腕の時計を見た。「そろそろ行こうか」。言いながら手の甲を親指で撫でてくる。その感触がセクシャルに感じられて、背筋から上がってくる予感に、しのぶはかすかに震えた。そのとき風が吹いて、後藤のまなざしもしのぶの緊張も、乱れる髪によって隠された。

     後藤の隠し玉だという神楽坂のビストロは、こじんまりした行き届いた店で、岩手の赤ワインも仔羊のソテーもゴーダチーズも、口にするたび頬が落ちそうになる。こんな素敵な店を知っているのなら、ほかの隠し玉も期待してしまうと称賛したら、後藤はついに、姉とその娘に知恵を借りたのだと白状した。
     母が早くに離婚したため、以後彼がたまに父親代わりをしているという姪っ子は、叔父のロマンスに殊の外張り切って、気取らず気さくな赤ちょうちんを選ぼうとした後藤に「おじさんはときめきということをわかっていない」ときっぱり言い切った。「デートっていうのはね、いつでもいくつでもとっておきで特別なのよ、わかる?」。少なくとも、とっておきの時には特別なことをするべき、という意見には後藤も同意だったので、かくして、姉がパート先の奥さんから聞いてきたという複数の候補から、あの店を選んだというわけだ。
    「お姉さまと姪御さんにお礼言っておいてね、とても美味しかったです、って」
     少しだけ酔いが回った口調でそう告げたのはホテルの部屋のダブルベッドに腰かけたときで、薄暗い灯りの下、入り口のクローゼットにジャケットを掛ける後藤のシルエットが苦笑するように動いた。
    新宿まで電車で移動して、チェックインのあと四十一階にあるバーで夜景をつまみに、しのぶはケリー・ブルーを、後藤はブラック・ホークをそれぞれ楽しんだあとのことだ。振り返れば窓の向こう、眼下に広がる新宿から六本木、そして湾岸まで連なる光があふれ、確かにとっておきで特別だと納得する。
    「次は自前で探してくるから期待しててよ」
    「赤ちょうちんで構わないわよ。なによりあなたらしいじゃない」
    「確かにそうだけどさあ。見栄が張りたいときもあるじゃない。……やっぱ、恰好、つけ過ぎてる?」
    「もっと、手慣れたように振舞うのだと思ってた。……あの時までは」
     そう素直に答えると、後藤はネクタイを緩めていた手を止めて、しのぶの方へと顔を向けた。
    「本当の俺は、あんたの思っているように狡猾だよ」
    「でしょうね」
    「それに、優しくもない」
    「今更でしょ」
    「思ったような男にもなれないし」
    「知ってる」
    「そうだったね」
     勢いよくネクタイを外し、後藤はしのぶの側へと歩いてきた。小心な言葉を吐いていたわりには、優しい目をしていた。
     そっと痩せた頬に手を伸ばして、鋭い輪郭をなぞると、くすぐったそうに表情を崩す。そして瞳に欲情が乗ったと思ったら、そのままついばむようなキスが降ってきた。頭を抱かれ、肩を抱き、挨拶程度のものからだんだんと深く夢中になっていく。あまりたばこ臭くないのが不思議だったが、そういえば今日は落ち合ってから一回も吸っていない。やればできるじゃない。場違いな感想を抱きながらフレンチキスを繰り返して、やがて顔を離して互いの目を覗き込むと、後藤の目に、官能に酔う自分の顔が映っていた。
    「シャワー、先に浴びてくるわね」
     名残惜しさを隠さずに頬を手の甲で撫でてから、しのぶはバスルームに向かい、そこで一気に脱力した。
     大丈夫だと思ったのに、緊張しているなんてもんじゃない。
     これから、彼と。先を考えるとさらに燃えるような緊張が襲ってきた。これじゃまるで初めてのようじゃない。
     幹部研修のあとにラブホテルで一泊する羽目になって、シャワーを浴びていたときのほうが、まだここまで気を張っていなかった気がする。もっとも、普段の態度通りだったら風呂を覗く、様式美を重んじるかのように、あの男は絶対に覗きに来る、という確信のもと、罠を張って仁王立ちをしていたりすることで、緊張をごまかしていただけかもしれないが。
     あるいはいまこの瞬間も、覗こうとしているかもしれない。
     そう思い至ったら確かめずにいられなくなり、しのぶはシャワーの蛇口をひねり、それからそっとバスルームのドアを開け、部屋の方へと視線を向ける。
     果たして後藤はベッドに座って、なにかの書類を眺めていた。さすがに疑いすぎたか。そう安堵してドアを閉めた後、不意にまた違うことが気になり始めた。
     温かいシャワーで身体の隅々まで洗い流しながら、確かあれは、としのぶは自身の記憶をたどった。
     間違いでなければ、手に持っていたあの封筒は、昇任試験の願書のそれだ。

     髪を雑に乾かし、備え付けの浴衣を纏って部屋に戻ると、待ったとばかりに後藤がバスルームへと消えて行った。ほどなくして聞こえてきた水音に顔を赤らめながらも、しのぶの目は椅子に置かれた後藤の鞄へと何度もいってしまう。
     カミソリとあだ名された男。昔は腕を買われ、そして彼自身もより自由に動くための権力を欲して、三十のころにはもう警部補まで昇進していたはずだ。警視庁で知らぬものはなく、外事にあの冷血あり、と誰もが噂した辣腕と野望を持ち、四十になるころには警視としてどこかの部署を仕切っていてもおかしくない。誰もがそう予想していたのに、いざ四十路になった現実の後藤は、ぐうたらな昼行燈だ。
     しのぶが出会ったころには、後藤はもう今の態度を身に着けていて、それはなにかを諦めたゆえにも、なにかを悟ったゆえにも見える。いずれにしても、聞いたことはないが、間違いなく醒めた振りをしたまま、定年まで場末の現場をたらい回しにされるがままに生きていく心づもりだったはずだ。
     後藤がまた力を欲するようになったとして、それは悪いわけではない。ただ、冷え冷えとする野心や持て余すほどの雄志から距離を置いているのは相変わらずのはずだった。あの男は、嵐のような闘争心ではなく、仙境に至るような達観を良しとする傾向が強いのだから。
     時間にして十五分も立たないうちに、後藤が髪を拭きながらバスローブ姿を現した。あの夏に見たときと同様に、適度に鍛えられた筋肉が襟元から覗き、そして濡れて乱れた髪が顔をあどけなくみせている。中年として振舞うことでしまい込んでいた、気力が満ちたしなやかさが顔を出しているようだった、そして同じように冷蔵庫を開けると、今日はミネラルウォーターを取り出し、しのぶの隣に腰かけながら蓋を開け、四分の一ほどを一気に呷った。喉仏が、艶めかしく上下する。目が、釘付けになった。
    「あ、のど、渇いてる? 飲む?」
    「……ありがとう」
     受け取ったペットボトルを同じく一気に呷る。アルコールの取りすぎか、緊張ゆえかは厳密には分からないが、確かに喉が渇いていたようだ。一息ついたところで、後藤がペットボトルを手元に戻して、もう一度一気に水を飲んだ。勢いに任せて口からかすかに垂れたものを雑にぬぐってから、茫洋としたいつもの顔で、
    「気になった?」
     何が、とは言わなかったが、しのぶはとたんに極まりが悪い心地になって、
    「やっぱり気付いてたのね」
    「たまたまだよ。信頼ないなあとは思ったけど」
    「そこは胸に手を当てて考えてほしい台詞だわ」
    「だから、あの時は悪かったって」
     後藤はバツが悪いとばかりにそう謝ると、徐に後ろに倒れて、天井を仰いだ。
    「泉がね、昇任試験を受けたいって。……この前、そんな相談されて」
    「泉さんが?」
     しのぶは目をぱちくりとさせた。
    「篠原や太田にも相談してみたらしいけど、そりゃあ驚かれたらしいよ。大体、出世に貪欲なタイプじゃないじゃない。俺は、そのうち受けるだろうなあとは思ってたけど、でももっと先だろうと勝手に思ってて。それがさ」、後藤は振り向くしのぶの顔を目だけで見上げて、「熊耳と、あと、しのぶさんを見ているうちに、もっともっと仕事が出来るようになりたいって、そう思ったんだって」
    「私?」
     思ってもみなかった言葉にしのぶは言葉を呑んだ。後藤は、その顔が見たかったとばかりに頬を緩める。
    「ただレイバーを好きなだけじゃなくて、ちゃんと使いこなして、使い方を人に教えて、そうやってもっとレイバー隊の誇りをもって、仕事をこなせる警官になりたい、だから、出来ることが増えるのならば巡査部長になりたい、って」
     また天井に視線を戻した後藤は、意を強くするとばかりに目じりを下げた。
    「初め、うちの隊に引っ張り込んだときは、しのぶさんの言うようにまだまだ子供だったけど、気が付いたら、俺が考えていた以上のいい警官になったよ、泉は」。そして最後に、ほら、世紀も跨いたしね、と思い出したように付け加えた
     第一小隊はエリート部隊として創設され、上層部の願い通りにしのぶがお飾りのままでも問題なく職務をこなせるよう、それぞれがプロフェッショナルとして腕を磨いてきたものばかりが配属された。それでも、しのぶも五味丘以下隊員たちも、ともに成長し、実力で真のエリートという地位を確立した。
     一方第二小隊は経験も浅く、文字通り有象無象としか言えない人員が集まったが、様々な経験を経て、今や警察官として堂々たる活躍を見せている。後藤がいわば教員と生徒のようだと冗談で例えていたことがあったが、生徒は成長し、そして手を離れていく。いくばくかのほろ苦さをにじませながらその予感を後藤が口にしたのは、冬の夕方だっただろうか。
     あの時、後藤はこの場に、そしてこの時に、強く愛着を持っているのだと感じた。居つくということを知らないまま育ったような人間が、初めて居たいと欲したものがいま、ここなのかもしれない、と。
     自分はどう感じたろうか。メランコリーを共有すると同時に、後藤が抱く失われるものへのその執着を、ひっそりと心寂しく感じてはいなかったか。
     今、後藤は穏やかに微笑み、満ち足りた目をしている。しのぶは後藤を、静かに見つめた。
    「しのぶさんが異動して、もう半年になるじゃない」
    「もうそんなに経つのよね」
    「つまり五味丘と組んでもうそれだけになるんだけど。……あいつ、いい隊長でさ、冷静で的確で、合理的だ。二人連続で、いい同僚に恵まれたよ」
    「いつもずいぶんと手放しよね」
    「そりゃ、才気あふれる大事な同僚だからね。それで思った、しのぶさんはこんないい部下を育てたんだって。でもね」
     後藤はそろりと起き上がって、
    「熊耳も、間違いなく負けず劣らずいい隊長になる。なんたって俺の部下だもん」
     世間話の振りをして、プライドを隠さない物言いにしのぶも釣られるように顔を綻ばせた。昔から、ここだけは譲り合ったことがないのだ。
    「熊耳さんもきっといい隊長になるわよ、五味丘くんと同じぐらい。だってあなたの部下ですもの」
    だから、敢えてしのぶがそう太鼓判を押してやると、後藤は一瞬だけきょとんとした顔をしてから、照れをごまかすようにかすかに笑った。素朴で、心地良い笑顔だった。
    「ねえ、俺たち、よくやったよ」
     後藤が本心から自分を褒めるのを、しのぶは滅多に聞いたことがないと思った。もしかしたら、初めてではないか。
     感嘆した、というのはさすがに大袈裟かもしれない。それでもしのぶは後藤の言葉を声に出さず繰り返した。
     ――私たちは、よくやった。
     ふっと後藤が力を抜くように、長く息を吐いた。
    「あそこにいたらきっと居心地はいいんだろうけど」
     そしてしのぶのほうに向きなおって、そっと手を重ねてくる。目には強い意志がきらめき、厚めの皮膚に覆われた手のひらはほんの少し湿っていて、それが小さく震えた。
    「でもさ、そのうちに郷愁を抱えていくよりも、次の景色を見たい。……しのぶさん、あなたと」
     覚悟を決めた声でしのぶの名を呼んで、後藤の手にぎゅっと手に力が入った。と思ったらそれが緩んで、
    「って言ってもさあ、受かるかっていったら受からせてくれるわけないし、万が一受かったところで、結局あそこで隊長やってるんだと思うんだけどね。その内一小隊増えるわけだしさあ」
     たはーといつも通り情けなく笑った後藤へと、しのぶはガラス細工に触るようにそっと、手を伸ばした。
     その顔を自分へと向けさせて、乾き始めた髪をそっと梳く。やわらかい前髪を上にあげると、よく見慣れた姿になった。聡明で、飄然として、欲深い振りをして無常を抱えている男。腹立たしく、うさんくさく、そして深く想いやり、この世界で心から信頼できるただ一人の男。
    「大丈夫。受かるわよ」
     しのぶはしっかりと後藤の目を見た。
    「こちらの方針としては、もうちょっと二課に居てほしいけど。でも次がどこであろうとやっていける」
    「しのぶさんからそんな風に太鼓判もらえると嬉しいなあ」
    「当たり前でしょ。だって、あなたはあの後藤喜一で」、しのぶは一度言葉を切って、あえていつも通りの顔を作った。「私の恋人だもの」
     言った途端にゆっくりと後藤の顔が火照りほころんでいくのと同じスピードで、恥じらいが沸き上がってくる。 顔が一気に赤くなるのが自分でもわかる。しまった。
    「……あ、あ、ちょっと、さすがに気障だったわよね、あの」
    「ん。大丈夫、わかってるから、黙って」
     唇で口をふさがれて、その勢いのまま視界が変わり、のしかかる身体を抱きしめ返せば、降る吐息と熱に浮かされ始めて、そうして自分のすべてが開かれ、変わっていく。

     地球上で、今は二人だけだ。


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    2022/07/02 16:35:19

    早春賦

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    #パトレイバー #ごとしの
    元々は2003年から2004年にかけて香月堂というサイトで連載していた中編で、それを加筆修正のうえ発行したのが2017年、本作はそちらの再録です。正確には再再録。
    警部に昇進し本庁に勤めているしのぶの、ある冬から春にかけての出来事。「師走」から「早春賦」は2003~2004年に執筆、最後「鰆東風」のみ2017年の書き下ろしです。

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