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    追伸。 立て付けの悪い雨戸をどうにかして開けると、縁側に面した部屋の奥の方まで光が差し込み、古びた畳の上できらきらと埃が舞うのが見えた。
     開け放った窓の外の空気が妙に美味く感じられるのは、この家が長い間閉じられていた証だろう。更に言うなら、大通りから奥に入った場所にある立地と、この辺りでも珍しくなった、木と草が生い茂る広い庭も味をよくしている。
     まず、この庭は間違いなく業者に手入れしてもらわないといけない、と霧島は窓にもたれながら思った。木を剪定して草を刈り、元の姿に戻ったらなかなか風情がある姿になるに違いない。そうすれば、ひとつの目玉になる。
     庭もそれなりなら室内もそれなりのものだ。
    窓を開けるまでは判らなかったが、質素ながら味わいのある欄間に床の間、縁側に設けられた雪見障子、部屋と廊下を仕切るのは色褪せてはいるが立派な襖だ。畳は変える必要があるだろうが、あとは徹底的に掃除をすれば、人の観賞に十分耐えれるものになるだろう。
     正に絵に描いたような、いまや死滅寸前の典型的な日本家屋だ。だからこそ、自分たちが骨を折ることになるわけだが。
    「どう、こっちの雨戸開いた?」
     と、何気なしに見ていた襖の向こうから声を掛けられた途端、音もなくそれが開いて仲田がひょっこりと顔を出した。
    「ごらんの通り。ただ、立て付けが悪いから、見てもらったほうがいいかも」
    「こっちも? まあいいか、どうせ全部総点検になるだろうし。瓦も取り替えるか見てもらったほうがいいだろうしね」
    「瓦業者、って本当にまだいるのか、この二十一世紀も中頃に」
    「いなかったら誰が名古屋城のメンテナンスするのよ」
     なにか微妙にずれている気がする。
     霧島は内心でつっこんで、代わりに大きくため息をついた。
    「にしても、絶滅危惧種とはいえ、一軒家を資料館として、それも有料で公開とはよく思いつくよな、区長は」
    「ま、区の財産をみなさまと分け合いたい、選挙前によく思いつくタイプの話じゃない」
    「なら次屋邸の方が相応しいだろ、やっぱり」
    「その次屋邸はもうすぐ駐車場、あと一軒も間もなく鉄筋三階建てに生まれ変わるんだから、そもそも交渉に失敗した以上話にならないでしょ。よって、ここ成城に残る古きよき日本家屋はここ一軒。それにこの家、改めて見るとつくりはちゃんとしてるし庭もあるし、文句なく昭和遺産だわ」
    「昭和遺産、ね」
     霧島は小声で繰り返した。
     いま日本は昭和ブームの真っ盛りだ。二十一世紀も半ば過ぎ、古いものはよいものとばかりに、全国的に昭和的文化の見直しと保護の動きがさかんになっている。しかし、外から守れというだけの立場と、実際に守る立場は当然ながら苦労が違う。例えば日本家屋にしても、木と紙の家は維持に労力が掛かるものだ。よその人がなんと言おうと、現代の生活に合うより快適な住環境を手に入れたい、住民がそう思うことに罪はない。
     だが、幸いにもこの家はそんな住人の思惑とは無縁だった。この家の主はすでに亡く、家を含め一切を相続した姪は区の申し出を受け入れ、管理その他一切を委託したからだ。
     大事にしてもらえるならそれが一番です。伯父夫婦の大切な場所ですから、荒らすには忍びなくて。契約を結ぶとき、壮年の女性はそう微笑んだものだ。聞けば、この家は夫ではなく妻の持ち家で、結婚当初こそ新居を構えたものの、何年も経たないうちに妻の母と同居するべくここに越したのだという。昔の時代劇ではないが、そのような立場では、旦那も時に肩身が狭い思いをしたものだろう。
     やがて姑が去り、夫が逝き、そして妻も旅立ったあと、家が残されたというわけだ。
     姪にとっては思い出の場所だろうが、霧島には関わりのない話だ。しかし、売れば一財産になるこの場所を、あえて残す道を選んだことは印象深い。だからだろうか、他の世田谷区昭和遺産候補地――旧式のブランコだけが残る公園だとか、懐かしいと言い換えることで、建て替え予算を削りたいだけとしか思えない図書館――に比べれば、わずかとはいえ愛着を感じた。
     そんな感慨にふける霧島とは対照的に、仲田は時々なにやら感嘆の声を小さくあげながら、家の中を見聞していっている。それは美術的価値などを見出しているのではなく、家の状態が思った以上に手が掛からないとか、そういう理由からだろう。会計学科を出た仲田は、恋人はそろばんと酒の席で言い切ったこともある才女だ。その仲田が唐突に思い出したように、「そうそう」とにこやかに告げてきた。
    「二階は私室に使ってたらしくて、特になにもなかったけど、柱に傷が残ってたのよ。まさに昭和よね、あれは是非生かしましょう」
    「それって、まさか日付とか入っててたり」
    「そうそうちゃんとS何年って彫ってあって、しかも、本数は少ないけどちゃんと子供の日に計ってるのよ。これはポイント高いわ」
     確かに、昭和を求める人には堪らないものかもしれない。
     一階は勝手口と土間がある台所に掘りごたつがある居間、と、また懐かしい設備が整っている。家としては立派な次屋邸も土間はさすがになかったはずだ。
    「えっと、居間に客間、水周りに台所……、で、ここが最後」
     チェックするようにそらんじながら、仲田が廊下の突き当たりにあるドアを開ける。
     四畳半ほどの部屋は北側に面しているのか、外の光が細い窓から薄く差し込み、どこかどんよりとした空気が部屋を満たしていた。長い間閉じられていたのか、かすかなカビと大量の埃が鼻につき、無防備に息を吸い込んだ瞬間に思わずくしゃみが出てしまう。部屋の右側に目をやったとき、この部屋が特に埃っぽい理由がわかった。
     壁一面に備え付けられた本棚は、全段きっちりと埋まっている。仲田が、思わず感嘆の声を上げた。
    「これって、うちで処理していいのかな」
    「いいんじゃないか。契約によると、この家に残っているもの一切合財の権利、だったから」
     霧島は言いながら埋め尽くされた本を一冊手に取って見る。背表紙の埃を払うと松本清張全集の五巻目、と読めた。夫の方か妻の方か、それとも夫婦そろってかは判らないが、書斎を作って、本棚を埋め尽くすほどには活字が好きだったらしい。
    「これはリスト作らないと」仲田が目をキラキラとさせながら背表紙を読み上げ始める。「こっちは阿部公房に吉行淳之介、松本清張……宝石推理全集に黒死館、虚無、ドグラマグラ、いいね。こっちはサルトル、サガン、ドストエフスキーにボルヘス、アシモフ……、競馬必勝の法則に馬はこう見ろ?」
    「馬好きだったんだな、勝ってなさそうな本ばかりだけど」
    「それにしてもすごいわ」と本棚を見上げる仲田同様、霧島もまた内心舌を巻いていた。活字中毒とまではいかないが、日本家屋よりも貴重になってきた、紙媒体の書籍をいまだ揃えている街の本屋に行くと妙に嬉しくなるほどには本好きだ。コレクター気質と言われるのだろうが、電子書籍ではなく紙の本が詰まった、小さいながらも立派な書斎は彼にとって憧れのひとつであった。
     見たこともないこの部屋の主が、思うままに本を貪っている姿が脳裏に浮かんだ。日が差し込む中、椅子に深く背もたれて時間が経つのも忘れて。この小さな活字の王国で心の底から活字を楽しんだはずだ。
     例えばこの本。
     机の傍、少しだけせり出していた背表紙を何気なく手前へと引いてみた霧島は、すぐ違和感に襲われた。見かけの立派さと裏腹に思いのほか軽いのだ。不思議に思いながらそれを出してみると、それは本を模した箱になっており、開けば中にひとつ、また懐かしいものが入っていた。
     手のひらに乗るほどの記録媒体。確か、八ミリテープというやつだ。タイトルなどはない。
     霧島は、それを摘み上げて少しの間凝視した。
     テープはいかにも秘密があります、とばかりにそこにあった。



     公的機関のスローな体質は、ときに意外なところでその力を発揮する。いまだマイクロフィルムやフロッピーディスクを扱うことが出来るのだから、という霧島の読みは見事当たった。
     借り出してきた再生装置をいそいそとモニタに接続する霧島の姿を見て、仲田はこれ見よがしにため息をついて見せる。
    「なにがそんなに嬉しいんだか」
    「嬉しくはないさ、でも、この中にあっと驚く新発見があったりしたら大変じゃないか。時に重大な発見は、家の物置に仕舞われていることがある」
    「それを屁理屈っていうのよ。ただ単に見たいだけでしょ」
    「認める」
     話している間にも準備はちゃくちゃくと進み、霧島は最後の仕上げとばかりに八ミリテープをぽん、と装置に差し込んだ。巻き戻しボタンを押すと、テープが勢いよく回りだす。
    「検証作業、ってやつだよ。昭和遺産にまつわるね」
    「はいはい」
     仲田は呆れたようにそう返事をすると、椅子に腰掛けなおした。
     狭い会議室には仲田と霧島の二人しか居ない。課内に設けられた、昭和遺産プロジェクト内選定準備チームのメンバーは、これで全員だ。
    「結局見るんじゃん」
    「さっさと再生しなさいって」
     バツが悪いのを隠すようにつっけんどんに言った仲田を小さく笑って、霧島は再生ボタンを押した。
     すぐにテープが回るアナログな音がして、モニタに映像が映し出される。
     はずが、画面は暗転したままだ。
    「これ、埃でだめになってるんじゃ……」
     思わず仲田が呟いた瞬間に、先に音声が聞こえてきた。
    『ねえ、これ映ってないんじゃないかな』
    『どれ、貸して見ろ』
     若い男女の声だ。
    『って、ここ押さないと映像は出ないの。お前本っ当にレイバー乗りか?』
    『レイバーとこれとは別なの。……お、映った映った』
     同時に、画面全体に女性の顔が大写しになる。くりくりとした猫目とショートカットが印象的だ。と、カメラが急に動いた。誰かが取り上げたらしい。
    『やっぱシゲさんに任せておこうぜ。少なくとも俺たちよりかはマシだろうし。……というわけで、よろしく』
    『ましかどうかはわからないけどさ、ま、喜んで引き受けましょ。編集とかしやすいし』
     そういうと同時に、新しいカメラマンはぐるりとカメラをパンしてみせた。
     狭くもないが広くもない会場はささやかに飾られ、二十人ほどの男女が談笑している様子が映る。それぞれがいわゆる「ちょっとしたパーティーなどにも使えますよ」と言われるままにうっかり買ってしまった類のワンピースやスーツでドレスアップしているのを見ると、待ちに待ったちょっとしたパーティーが到来したらしい。雰囲気から察するに祝い事、例えばなにか大きなプロジェクトの打ち上げあたりだろうか。ほどなく画面外から慌てたような声がした。
    『みなさん、お二人来られましたよ、いま、ボーイの方が』
    『進士本当か、おい、まだ二十分も前だぞ』
    『まあ、南雲課長……、あ、もう後藤なのか、も一緒なら五分以上前行動は当たり前だろうし』と初めにカメラをいじっていた女性の声。
    『まあいい、山崎、電気消せ、電気』
     と、先ほどの妙に高圧的な声がそう指示を出したと思ったら、次の瞬間また画面は暗転した。見事なほどに遮光してあるのかはたまた夜なのか、画面にはなにも映らない。
     やがてお客様こちらです、という声と共に、暗転しているうちに画面中央に収めてらしい扉がゆっくりと開いた。
     それとほぼ同時、部屋に明かりが溢れ、一斉にクラッカーの陽気な音が響く。
    『お二人ともおめでとうございますー!』
     異口同音にそう唱和された先、中年の男女二人がまさに豆鉄砲を食らった顔をして立ち尽くしていた。つかさずレンズがぐっとよって、その顔がアップになった。二人とも文字通り、目が点になっている。
    『……泉、これ、お前らの発案?』
     たっぷり十五秒ほど絶句した後、ようやく男の方が口を開いた。問われたほうはへへへ、となにか照れたように笑った後、
    『えっと、ささやかながらお祝いです、隊長たち式を挙げなかったっていうから。でも、発案は私たちだけじゃなくて』
     そういって指差した先の誠実そうな人間を見て、今度は女性の方が絶句した。
    『……五味丘君、あなたが?』
    『いや、自分だけが言い出したわけじゃないです。ただ、泉巡査に相談されて、それならばと』
    『五味丘隊長、今回色々と骨を折ってくれたんですよ』と泉巡査とやらが褒め称える声がする。
    『――まさか、牛山が言ってた、抽選でご招待とやらも、ひょっとして』
    『いや、お二人とも素直にハイと言われない気がしまして、それで失礼ながら後藤警部にその、策を。牛山さんとは研修以来の仲なんです』
     五味丘と呼ばれた男は、なぜか誇らしげな顔をした。
    『そんなわけでどうぞ、課長』
     今度は見るからに才気あふれるショートカットの女性が主賓の女性に小さな花束をそっと握らせた。白い花で飾られたかわいらしいブーゲだ。
    『……あ、あの、ありがとう、熊耳隊長』
     手渡されたブーゲを見て、女性の頬がほんのり赤くなる。
    『香貫花、お前もわざわざこのために来たの? 有給とか取っちゃって?』
     ブーゲを渡した女性に向かって、男が驚いたような呆れたように言った。すると彼女ではなくひとつとなりに立っていたロングヘアの女性が妙に楽しそうに、
    『なによりも後藤隊長が不意を付かれて驚く姿が見られるんですよ。太平洋を越える価値はあります』
    『あのね、俺、珍獣じゃないんだからさ』
     そうぼやく男に『まあまあ』と泉巡査がフォローするように声を掛ける。が、
    『でも隊長の驚く顔、って確かに新鮮ですよね』
    『まあ、確かにな』
     と外野から追い討ちを掛けられ、男はなんとも複雑な顔になった。『お前たちさあ』
    『でも、本当に、五味丘君たちまで』
    『後藤警部、そして後藤課長。これは第一期特車二課一同の総意です。たまには部下の策に乗るのも、いいと思いますよ』
     ブーゲを手渡した女性にそういわれて、男と女は一瞬だけ顔を見合わせると、かすかに照れたような表情を浮かべて一言言った。『ま、いいか』

    「特車二課! 特車二課、ってあの、警視庁のエリート部隊」
    「まあ、そうだろうな。年代的にいうと、創設メンバーかそれくらいか、ってところか。第一期っていってるし」
     あの家の持ち主は、職場結婚した警察官夫婦だったようだ。新郎は照れ隠しか、時折意地の悪い笑みを浮かべながらも冷静に、新婦は終始照れた様子で会話をしているのが映っている。カメラマンはテンポよく会場を泳ぎまわり、どうにかしてリピートに耐える形でハレの日を残そうと努力しているようだった。
     ここまで部下に思われるとは、上司冥利に尽きるだろう。少なくとも自分の部署では考えられない。あの前時代的なことしか言わない、ミツカンのロゴのような頭の課長を祝えるかといえば、霧島には無理だ。
    「エリート部隊もこうしてみると、なんか親しみがわくわねー。で、そろそろ切る?」
     仲田がうっすらとうらやましそうな顔をしながら確認してくる。おそらく同じことを考えたに違いない。
    「そうだな」
     霧島は画面を見ながら同意した。あるいはどこかの大学で警察史を専攻する未来の学生にとっては垂涎物の資料かもしれないが、霧島たちにとっては、故人とはいえ極めてプライベートな映像であることは間違いない。これ以上踏み込む必要はないだろう。
     幸せそうな夫婦の後の人生を勝手に想像しながらリモコンに手を伸ばしたとき、不意に画面が切り替わった。その唐突さに、思わず仲田と顔を見合わせる。パーティーは終わる気配が見えず、テープの残量などの関係でもなさそうだ。
     今映っているのは、見覚えのある狭い部屋だった。明るく清潔だが、恐らくはあの書斎だ。
     二人とも好奇心を掻きたてられ、画面をじっと見入る。と、程なくカメラの前に一人男が座った。
     部下たちによる結婚披露宴から何年経ったのかは判らないが、数十秒前までやや年がいった新郎だった男は、白髪が増え、痩せていた頬はますますくぼみ、顔色も冴えてないように見えた。十年は過ぎたのだろうか。
    『さて……』と躊躇するように呟いた後、男はカメラを見た。
    『これ見てる、ってことはさ、つまりはもう俺はいないってことだよね。医者の説明だと半々だって言ってたし。……正直怖くない、っていったらウソになるけど、でも、手術を受けたことは後悔しないよ。しのぶさんもそうでしょ。
     で、しのぶさんだったらこのテープを見てくれると思うから、ひとつお願い。同じところに入ってた書類。あれを間違いなく十条に渡して欲しい。いいか、他の誰にも渡しちゃいけない。あと見るのもだめ。見るとややこしいことに巻き込まれるだろうし、――俺、しのぶさんのこと守れないからさ。だから、ただ十条に渡して、あとは忘れて欲しい。ほかの事は松井さんに伝えてあるから。松井さんには最期まで迷惑掛けちゃって申し訳ないな、って思うけど。俺が定年になるまでに取り立てるって言ってたけど定年前にいなくなっちゃってごめんね、って、重ねてお礼、言っておいて。
     あのさ。よく考えたら、あんまり、こういうこと話したことないからさ、こんな形で遺すのって多分卑怯だと思うんだけど……。でも、伝えておかないとだめだと思うんだ』
     男はそう言って、少しはにかむようなしぐさを見せた。
    『正直言うとさ。一番初めに会った時は、なんか堅苦しい感じの人だな、って思ったんだ。ほら、あの頃のしのぶさんってこう、独りで生きて、そしてここで戦い抜くんだっていう意気込みが強くて、肩で風を切って歩くっていうか、なんか疲れる人だな、って思ったりして。……でも、しのぶさんも俺について真逆のこと、思ってたんじゃないかな。合ってる、でしょ?』思わず出た苦笑いを引っ込めて、『でも。初対面の印象が悪かったら、それ以下にはならない、ってよく言うじゃない。それに、多分しのぶさんを苦手だ、って思った部分はしのぶさんの長所でもあるわけだし。俺の方はいまいち自信がないんだけどね。
     で、……いつかははっきりしないんだけど、ふと思ったんだよね。たぶんイングラムが納入される前辺りだと思うんだけど、ああ、この人は背中から抱きついて守りたい、と伝えるような人じゃないんだ、って。だからといって一歩後ろからフォローしていくだけでいいわけでもなくて、多分、背中を預けあっても大丈夫、って。……ずっと前聞いてきたじゃない、いつからなの、って。そのときはごまかしたけど、そう思ったときにはもう夢中だったのかもしれないなあ。……ああ、隅田川でレイバーが暴れて、アスカとパイソンで苦労して逮捕したことがあったじゃない。確か春の上野だったっけ。全部終わったあと、桜の下でしのぶさんが一息ついてて、その姿が見えたときだな。そう思ったの。ああ、なんか凛々しいな、って俺らしくもないけど。多分、見惚れてたと思う。
     覚えてる? ほらあのイタリア車で東京に帰ったとき。あの夜軽井沢で本当は、全部打ち明けちゃおうか、って思ったりもしたんだけどさ、でも、俺はどこか臆病なんだろうね。横でしのぶさんの吐息を聞きながら、一晩中真面目に考え込んでてね。多分、自分で感じていた以上に大切だって、あのとき改めて気付いたんだろうな。だから、あのあと踏ん切りというか勇気というか、最後に一歩踏み出せたんだと思う。
     しのぶさんになにをあげられたかいまいち自信がないんだけどね。俺は今日までしのぶさんと同じものを見れて本当に幸せだよ。……ありがとう、愛してるよ』

     最後、照れながら小さく真剣な声でそうささやかれた後、男が席を立つのが映った。そこで、霧島はテープを止めた。
    「……これは返却、ね」
     仲田がそう口を開いたのは、少し時間が過ぎてからだ。
    「そうだな」
     霧島は賛成の意をこめて右手を上げた。このテープには相応しい場所がある。ひとつの思いを閉じ込めて眠り続けるに相応しい場所が。
     気まずさと気恥ずかしさと、ほんのりとした暖かさを感じながら霧島はテープを取り出して、しかしそれをすぐには仕舞わず、しばし見つめた。
    「どうしたの?」
    「いや」霧島は考え込みながら答えた。「さっきより巻取りが短い気がする」





     本当、読みは確かよね。デッキを操作しながらしのぶは思わず笑ってしまった。四十九日も無事終わり、形だけは日常に戻りつつある辺りで、後藤が考えたとおり、しのぶはあの思い出のテープを見た。正確に言えばちゃんと編集したものは別にあり、これは斯波がオマケですよ、と渡してくれたマスターだ。だからこそ、後半を潰して遺言を残す、なんて暴行に後藤も出られたのだろうが。
     生まれてから、新婚夫婦としてマンションで夫と二人暮らしていた一時期を除き、しのぶはここでずっと誰かと暮らしてきた。初めは両親と、父が亡くなった後は母と二人、そして結婚後は姑との同居を歓迎してくれた彼女の夫も加わって。ここの家にただ一人だけ、というのは六十年以上生きてこれがはじめてことだ。馴れているはずの家なのにどこか寂しさを感じるのもまた、初めてのことだった。だからこそなにかを埋めるように、昔のビデオなどを探し出してきたのだが、そこに十五年越しのラブレターが入っていようとは思わなかった。
     二課に飛ばされてから五年経たないうちにまた公安に呼び戻されたあと、後藤は肺ガンによる入院期間を除いて、なにやら言いながらも定年まで公安の仕事を勤め上げた。十条と組んで取り組んだ事案がなになのかはしのぶにはわからないが、恐らく復職後、無事にけりをつけたのだろう、少なくとも書類はそこに入っていなかったのだから。
     結局なにも返してくれなかったよ。そう寂しそうに松井が呟いたのは焼き場でのことだ。ビデオで詫びる後藤の姿を思い出して、あなた、思ったよりも愛されてたわよ、としのぶはそう心の中で呟いた。
     そして不意に思い立つと、書斎へと足を運ぶ。あそこは亡くなる直前まで、後藤が自分の城としてくつろいでいた場所だ。このテープが入っていた箱も、書斎の引き出しの奥にしまってあった。確かその隣あたりに、目的のものはあったはずだ。
     程なくして、しのぶは旧式のビデオカメラを見つけることができた。斯波からテープと共に贈られたこれは、少ないながらも旅の記録などを残した愛用の品だ。それを手にして居間に戻ると、記憶を呼び起こしながら先ほどのテープをセットした。
     少女趣味だと我ながら思う。
     しかし、悪い考えだとは思わなかった。
     レンズを自分の方に向け、しのぶはそっと深呼吸をした。
     後藤がビデオの中で指摘したとおり、後藤への第一印象はかなり悪かった。かつては公安一の切れ者だったが今は昼行灯。そう聞いていた前評判以上に、男はやる気がないように見受けられ、そのくせ策士と来た日には。ビデオで言っていた隅田川の件でも、後藤の働きでなんとかその場は押さえられたが、第一小隊はいいように使われたようなものだ。
     そういえば給料日前だからと飲み代を貸した事もあった(その金は全部泉たちに飲まれたらいしが)。なぜか、そのお返しと食事に連れて行かれたのも、思えば策略だったのかもしれない。
     そのときには、もう彼は自分のことが好きだったのだという。
     恨めしいことも腹立たしいことも山のように思い起こされるが、それも思い出という優しいもののひとつだ。
     いつしか、しのぶの口には微笑みが浮かんでいた。
     だまし討ちのように何度か連れ出された以外にデートを重ねたわけではない。どこまでも同僚として、信頼できる仲間として二人は向き合っていた。なのに、前触れもなく結婚しない? と問われたとき、うまくかわそうと考えたはずなのに、自然にしのぶは頷いた。あれは忘れもしない後藤の転属が決まった日のことだ。穏やかに笑う後藤が差し伸べてきた手を取ったとき、自分は果たしてどんな顔をしていたのだろうか。隊長室に差し込む柔らかい夕日の中、二人の関係は同僚から伴侶へと変わった。
     ひょっとしたら、後藤が自分を思うよりも前から、自分もまた後藤に強く惹かれていたのかもしれない。軽井沢で寝たふりをする後藤を見下ろしたときに抱いた感情はあなたと同じだった。そう伝えたら、後藤ははたしてどんな顔をしたのだろう。
     しのぶはそっと、ビデオの録画ボタンを押した。赤いランプが点灯するのを確認して、そろりと画面を覗き込む。
     小さなモニタに映る、亡き母によく似た風貌を見て、しのぶは静かに笑った。後藤とあの埋立地で出会ってから波乱万丈と言ってもいいほど色々なことがあった。苛立ちを抱き、悔しさを押し殺して、まれに報われたと感じて互いに微笑みあうこともあった。しかし、なにより積み重ねられていく時間と風景と、そして沢山の平凡を分かち合えた、その幸福をきっと彼も感じていたはずだ。

    「あなた。後藤さん。――私、とても幸せよ」

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/30 17:03:37

    追伸。

    #パトレイバー #ごとしの
    変則な構成になっております。 時は21世紀も半ば。

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