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    レプリーゼ カタカタ……、と調子よく鳴っていたキーボードの音が不意に崩れたと思ったら、次の瞬間唸り声ともなんともいえない音が、低く部屋に響いた。 耳障りのよいものとは到底言えない種類の声だ。その調子から声の主の体調を正確に推し量ったらしい男が、
    「少し休んだらどうです?」
     と、モニタの向こうにいるであろう上司に声を掛けた。
    「ああ……うん……」
     相当疲れているのだろうか、返って来る返答も先程の搾り出すような声と大した違いはない。不明瞭な言葉を受けてどう思ったのか、男は一区切りするように小さく息を吐いて席を立った。
     二年前の春 、大学から警察学校を出て交番勤務を経て、まだ総てが手探りだった折り目正しい新人だった頃にこの部署に配属され、それ以来、目の前の男と東京はもちろん日本の津々浦々からロンドン、香港、ワシントンD.C.からベルリンまで、場所がどこであろうと仕事中は常に二人で行動してきた。仕事の濃さに付き合いの長さも手伝って、一見飄々としていて得体が知れないと称されているこの男の様子は、外の人間と違って大抵正確に推し量れるつもりなのだ。
     それに、彼は自分のはるか先輩に当たる男を(生意気で不遜な言い方だが)かなり気に入っていた。昔は癖がありすぎて付き合いにくいと評判だったらしいが、少なくとも自分と組んでからは、 幸いなことにその癖の強いあたりはなりを潜めてくれているらしい。時に飄々としながら、あるいは突き放した厳しさで、日々この仕事についての心身の構え方を教えてもらっている。尤も、他の人達からいわせると、先輩の以前の部署でもそうであったように、彼の相棒として関係を築き、そして普通に付き合っていけるのは常人の神経を持ちえていない変人だろうから、 自分も相当の変人だ、ということになってしまうらしい。なにかひどい言い草な気がするが、逆に言えば、周りからも息が合っていると見られているということだろう。なんとなくではあるが、それはきっと、誇り高いことではないかと彼は思っている。
     そんなわけで、先輩にして相棒の体調は彼にとっても大きな心配事なのだ。
     それに、だ。
     男は最近度がずれてきた眼鏡を軽く指で持ち上げながら、顔を動かさずに部屋を見渡した。彼の気遣いには、実はもうひとつ理由があったりする。
     定時もとうに過ぎた部屋には、自分たちの他に六人の人間が、それぞれの仕事と格闘している。みな、髪はてかてかと光っているし、あごひげもそろそろ青々としてきているし、目のしたのくまに至っては見た人間が眠気を誘われること間違いなし、という見事なものばかりだ。間もなく この部署の扱う案件の中でもとびきり大きな山が来る、かもしれない、との情報が入ってしまっているとはいえ、人間の体力と集中力、そして精神力にはどうしても限界がある。
     それでもみなが文句も言わずに黙々と働き続けるのには、仕事柄とかみなワーカーホリックの気があるとか、そういう理由以外に、社会人としての悲しい性のせいでもある。
     課長と主任と平しかいないこの部署の、主任であるナンバー2――つまり男の相棒だ――が、ここ数日一番ひどい顔をして、一番熱心にここに居座っているのだ。 勤め人の心理として毎日残業三昧の上司を置いて、「今日の分は終わりました、それじゃあお先に」とは とても言いにくい状況なのだ。しかもそれが、この警視庁一の切れ者との声も高く、表面的には軽口をたたきながらも、実際のところ部署の人間が一様に尊敬している男だときては。恐らくは言葉で言い訳をせずただ身を粉にし、公の秩序、国民の安全のために総てを捧げる、そういう姿がまた人を引っ張るに相応しいと判断されていく要素なのだろう。実際、男もこの短い間に、相棒の態度に深い感銘と影響を受けてきたから、誰よりもよくわかる。
     だがしかし、繰り返しになるが、人間にはもろもろの限界値がある。さらにいうなら、それは基本的に、若い人ほど遠くに設けられているのだ。
     必然的に、この部署で最初にその限界が来てしまうのは。
    「ほら、後藤さん、そろそろ一息いれたらどうです」
     そう心配顔で進言された後藤は、横に来ていた男の顔を見ると、疲れたことを繕おうとせずに苦笑いした。これは素直になったわけではなくて、いよいよその辺りの余裕も消えてきた、ということだ。男はそんな後藤の顔を見て、さらに畳み掛けて、
    「ねえ、後藤さん、もう三日も帰ってないじゃないですか」
     指摘どおり、髪はテカっているだけではなくてフケも浮いてきているし、もともと痩せている顔のラインも心なしか一層シャープになっている。毎朝おざなりにカミソリをあてているらしいが、無精ひげがまだらに生えている今の状態は、正真正銘の疲れ果てたおじさん以外のなにものでもない。これでカップ酒と赤鉛筆に競馬新聞があったら、くたびれたおっさんのオブジェとしても完璧である。
     社会人のたしなみとして一応毎朝下着とシャツは替えているようだが、それでも服は相当にヘタっていて、襟周りはなかなか悲惨なことになっているようだ。しがない男の一人暮らしなことは部署の人間全員の知るところだから、この襟汚れが落ちることは恐らくないだろう。
    「たまに息抜かないと、続くものも続かない、って後藤さんの持ちネタだったでしょ」
     普段の口癖まで出されて部下からやんわりと諌められて、さらに優しく労わられてしまった後藤は、ちょっとだけすねたような目をして、顔を自分の相棒の方に向けた。これが妙齢の女性ならときめくような仕草なのだが、如何せん、相手はくたびれきった中年だ。
    「まあ、そうなんだけどな、でも、ねえ」
    「でもねえ、じゃないですよ」
     懐柔されるような同情心が欠片も沸いてこなかったことに勢いづいた男は、ここだとばかりに攻勢を掛けた。後藤が手塩に掛けて二年間育てた人間だけあって、そのあたりの判断が甘くなることはない。
    「確かにインドネシアの『ジャンナ戦線』の動向次第で、これから死ぬほど忙しくなりますが、ええ、それは俺もみんなも覚悟決めてますけど、でもそのとき後藤さんがぶっ倒れてたら俺たちどうすればいいんです? 課長もそりゃ頼りにならない人じゃないですが、でも宰相役が欠けるっていうのはチームとして非情にまずいわけです。しかも、今はベルリンと公安からの返事待ちで、それも来週頭目安なんですし。もちろん、緊急事態は突然降って沸いてくるものですが、そのときは遠慮なく呼びつけますから、ですから」
    「……俺、そんな疲れた顔してる?」
    「一回、鏡見ることをお勧めします」
     男の言葉に、いつの間にか二人のやり取りを注視していた同僚たちも、みな一斉に首をこくこくと振った。確かに分析する情報もまだ出揃ってなく、もたらされた情報も今のところ精度はかなり低いと判断せざるを得ない。男をはじめ部署の人間は知らないし見えないことだが、いま後藤を走らせているのは警察官としての自負と持ち前の勘、ただそれだけだ。準備不足で負け戦を強いられることになって、いつぞやの黒いレイバーのようにまた好き勝手にやられたらと思うと、自然と神経が高ぶってくるのだ。最初の犠牲者をせめて最後の犠牲者にするための仕事とはいえ、避けられる負け戦ならばもちろん避けたい。そうして、感謝されることのない平和が少しでも長く続くよう日々働く。後藤の矜持は口には出されないが背中からにじみ出る誇りとなって、部署の規範となっている。
     とはいえ。
     後藤がどれほど邁進しようが、すべてはまだ決定されないことでしかない。近いうちに先方から新しい何かがもたらされたら忙殺されるような日々がやってくる可能性は高いのだが、しかし、今はそうではない。 ここにいる人間は決して不真面目なわけではなく、後藤同様にこの仕事に誇りも意地も持っている。が、一方で薄々とながら、今はまだ辛うじて数少ないナギだと感じているのだ。
     そんなときにまで身を粉にして働いてしまう後藤のワーカホリックぶりは、ここ二年ですっかり判らされたとはいえ、それでも時々あからさまに行き過ぎていると男は感じているのだ。
     そして、それを指摘することこそ、相棒の役目だとも。
     暗に今は行き過ぎだと言われ、居心地悪そうにひげが生えたあごをじょりじょりと撫で回す後藤に、男は一息入れてから、さらに念を押すように続けた。
    「大体、後藤さんこのままじゃ泊まりこむつもりだったでしょ」
    「まあ、この時間なら、そうなった、かもねえ」
    「覚えてるか知りませんが、明日、というか今日の午後七時もって後藤さん非番ですよ」
    「……そうだったっけ」
     すっとぼけたように答えた後藤に男はああ、とわざとらしいため息をついた。昔は不真面目の代名詞とも呼ばれていたらしいが、その噂は到底信じられない。
    「今日の分はまだ終わってない、ってどうしても言い張るんでしたら、とりあえず、一息入れたらどうです? コーヒー、入れますから」
     後藤はそういわれて、じゃあ頼むと頷こうとしてふと部屋をぐるりと見渡した。ゆっくりと自分たちのやりとりを見守っていたらしい部下一人ひとりの顔を見てから、最後に相棒の顔を見て、
    「……いや、煙草、吸ってくるわ。コーヒーも缶の甘いヤツがなんか恋しいし」
     のっそりと立ち上がると、わざと厳しい顔を作ってるらしい相棒の背中を軽く一回叩く。
    「じゃ、ちょっと行ってくるから。みんなも、まあ、コーヒーとか、ね」
     ひらひらと手を上げながら部屋の外に後藤が出るや否や、まるで計ったかのように、部屋の人間全員が気が抜けたような、そんな大きなため息をついたのだった。
     
     年中無休、二十四時間勤務が基本の警視庁とはいえ、午後十時近くともなると人の気配もまばらになる。電気が落とされた廊下を重い体を引きずるように進み、喫煙コーナーで煙草に火をつけると、後藤は深く息を吐いた。
    「……やっちゃたなあ」
     小声でそう反省しながら、肺にニコチンを入れていく。喫煙者は立派な病人だそうだが、ニコチン中毒になってもう久しい後藤にとって、たとえ病根といわれようが煙草は欠かすことの出来ないカンフル剤のようなものだ。もっとも、最近は前に比べて吸う量は格段に減っているのだが。カートンで煙草を買わなくなった後藤に対して、行きつけの煙草やの親父は「あんたも時流に乗っちゃうんか。こりゃあますます商売上がったりだ」と嘆いたものだ。
     非常口を示す緑のランプに照らされた紫煙を眺めながら、後藤はただぼおっと座っていた。頭の奥がジンと痛んでいるのを感じる。そういえば、夕飯代わりにとコンビニのおにぎりを二つほどかぶりついている間も、紙やらモニタやらをにらんでいるままだった。視力がいいことが自慢の一つなのだが、この調子で酷使を続けていれば、忽ちに眼鏡族の仲間入りとなってしまいそうだ。
     もっともこの鈍い頭痛は目の疲労だけではなく、脳自体の疲労も原因なのだろう。今も、とりとめないことをつらつらと考えているのだが、そのすべてが明確な意味をなす前に、弾け、曖昧に崩れて消えて行ってしまう。脳の疲弊は思考だけでなく、 神経や感覚、情緒の面も大きく損なっていくのだと、判っていたつもりなのだが。
     まだまだだねえ、俺も。そう思ったとき、胸ポケットに入れていた携帯が突然小さく震えた。
     瞬時後藤は見まがえる、が、同じ階の大して遠くもない喫煙コーナーにいる自分をわざわざ携帯で呼び出すはずもないな、とすぐに結論を出し、そんな一連の流れをなにか滑稽に感じながら、後藤は受話ボタンを押した。
    「はい」
    『――もしもし?』
     こちらの様子を窺うような、耳障りのよいアルトの声に、後藤は一瞬聞きほれた。
    『ひょっとして忙しい?』
     すぐに返事をしなかったからだろうか、だったら切るわよ、と言外に匂わせた声に後藤は慌てて「いや、休憩中だから、少しは」と伝えた。
    『休憩中ってことは、まだ仕事中?』
    「うん。――でも、今日はもう上がると思う」
    『一区切りついた、ってあたり、ってこと』
    「うん、まあ」
     先程のやり取りと、部屋にいた人間の疲れた顔を思い出して、後藤は思わず苦笑いした。一区切りつけさせられた、の方が正確な表現だろう。半分ほど残っている煙草を消し、後藤は改めて 携帯を持ち直した。
    「で、急にどうしたの、一体」
     問いかけてみると、相手は『用、って訳じゃないんだけど……』と少し間を置いてから、『そこ、窓ある? 南の方を向いているもの』と聞いてきた。
    「窓?」
     後藤は聞き返しながら首をめぐらせる。 方角はわからないが、すく傍に道路に面した窓があった。昼は見下ろした先に日比谷公園を望めるそこからは、視界を塞ぐものはなく、ビル群の上にただ何かで塗ったように単純な色をした夜空だけが広がっている。
    「あるけど、なんで」
     そう答えながら窓の向こうを軽く見渡したとき、不意にそれが目に飛び込んできた。
     夜も更け、だいぶネオンも落ちているとはいえ、それでも明るい東京の空の上に、赤い点がひとつだけ、強く輝いている。ふと、後藤は今日の朝刊の一面に、珍しく天体関係の記事が載っていたことを思い出した。
    「ああ……、そういえば今日だったっけ」
     そう言って、後藤は火星を見つめる。
    『ふと見たら見えたから……。そう、こんな日だったわね』
     耳に届く声が柔らかく響くようで、後藤はその穏やかな感覚に浸った。
     電話の向こうで、しのぶはどんな顔をしてあの星を見つめているのだろうか。
     二年前、柄にもなく新宿でつい見入った風景を後藤は思い出す。膨らんだ檸檬のような月と、負けずに輝く南天のような星。六万年ぶりの接近のあとは、二年後にまた近づいてくるらしいよ、と仕入れたばかりの豆知識を披露したのは、ちょうど火星があんな風に輝いている下だった。人々が行きかう新宿駅新南口側のコンコースの端に二人座り、近くのコーヒースタンドでアメリカンを二つ買って、それをちびちびと味わいながら話したことのひとつだ。
    「そうか、もう二年、経ってたんだ」
     思わず口に出した後、なんとも間抜けな台詞だなあ、と後藤は自分に突っ込んでしまう。
     しかし、その感慨は紛れもない後藤の本音だ。
     二年後また、同じ星を二人見ることが出来ている。そのこと自体がささやかな奇跡のように後藤には感じられるのだ。
    「あら、もう年月が数えられなくなったの?」
     その突っ込みに笑ってしまう前に、後藤は驚いたように振り向いた。
     珍しくも、いたずらが成功して嬉しくて堪らない子供のような笑みを浮かべて、しのぶは持っていた携帯をパチンと閉めた。
    「今日、内幸町の方で親睦会を兼ねたミーティングがあって、ついでに本庁にも寄ってみたんだけど。まさかまだいるとは思わなかったから」
    「あ、そうだったの。そっちは終わったの?」
    「おかげさまで。後藤さんの方はまだみたいだけど」
     お邪魔してごめんなさいね、と謝った後、ふとしのぶの顔が曇った。
    「にしてもひどい顔してるわよ」
    「……そんなに?」
    「ええ。鏡見てみたら?」
     その指摘に後藤は思わず力なく笑ってしまう。その様子に今度は訝しむような声で、
    「どうしたのよ、急に」
    「いや、さ。二回目だから、言われたの。あー、昔はそんなことなかったんだけどねえ」
     勢いなく椅子に座り込むと、突然どっと疲れが押し寄せてきたような感じを覚えた。足も重く、腰は張り、肩も首も痛い。気が張っていたときにごまかされていた諸々のものが、急に具現化したかのようだった。
     ふと、また部屋の様子を思い出す。二十代、三十代の連中が主だったが、みな一様に目以外の生気が抜けた顔をしていた。もちろん全力を尽くすことを求められる部署だからこその風景なのだろうが。
     ――来週頭目安なんですし。
     相棒が言ったその一言がぐるぐると頭を回る。そう、山場は来週からやってくる。緩急を使い分け、貯められるときに英気は貯めておけ、と、相棒を初めとした年若い部下たちに言っていたのは 、いったいどの口だというのだろう。
     つい口から出たため息を聞いたのか、そっと肩に乗せられる手がある。その優しい勢いのまま引き寄せられるに任せて、後藤は静かにしのぶの腹の辺りに頭を持たれかけた。上品なワンピースの向こうにある体温が感じられる気がして、さらにほんの少しだけ相手の方へと身体が寄る。
    「……少しは息抜かないと、本当に倒れちゃうわよ」
    「うん。……でもそしたらさ、看病、してくれるんでしょ」
    「非番のときだったらね」
     いつも通りの物言いに、後藤は意味もなく安心した。どこか崩れていたバランスが、また整えられていくのも感じる。
     力を抜いて、深く息をする。肺は正しく酸素を取り込んで、隅々まで行き渡る心地がした。
    「なんか、さ。慌てちゃってたみたいで」
    「……みたいね」
    「ダメだよね、先頭に立たなきゃいけない人間がそうなるのが一番良くない、って二課で散々学んだはずなのにさ。……まったく、なにやってんだか、俺」
     後藤のぼやきを聞いて、しのぶが小さく笑った。
    「そうね……。いまのあなたを見たら、篠原君なんか目を瞠って固まっちゃうかもしれないわね」
     ――隊長、失礼な言い方なんですが、あの……、昼、なに食べました?
     篠原がそう言って心底困惑した顔を見せている様をありありと想像してしまった後藤は、「だとしたら隠れておかないとなあ」とやはり小さく笑う。グリフォンと渉りあってるときすら辛うじて持ち合わせていた、いわば「後藤喜一らしさ」というものの仕舞い場所を、ぼんやりと思い出した気がした。あの頃は、四十路を前にいい加減達観出来たと思っていたが、一皮向けばまだまだ俗物並みの熱意も欲もあったということなのかもしれない。それは決して悪いことではないのだが、御せられなければ持て余すだけだ。
     額から伝わる感触はどこまでも暖かい。それに酔うように後藤は目を閉じる。鈍く響いていた頭痛が少しだけ薄れていくのが判った。
      いい加減だったことはない。傍からどう見えようが、力は抜いていても手を抜いたことは一度もなかった。それは、ついにあの二課に飛ばされたと暗に指を指され、遠慮なく誰彼からも昼行灯なんて揶揄された頃だってそうだ。ただ、力いっぱい、ということに疲れ果てて、意味を見出せなくなっていただけだ。
     ひょっとしたらいつのまにか、そうやって遠くにやっていたどこまでも必死な自分が、今、わずかながらも帰って来ているのは、明日を大事に思えるようになったからだろうか。
     例えば、こうして抱き寄せられて、抱き寄せることも出来る人が、また身近に感じられるようになったから、とか。
    「さて……」
     なにかを区切るようにしのぶがそう呟くと、抱き寄せられたときと同じように、そっと彼女の手が離れた。
    「私はそろそろ帰るけど、あなたも、いいところで切り上げなさいよ」
     後藤が顔を上げると、しのぶは後藤の目を見てにっこりと微笑んだ。初めて会った頃に比べると、目尻や口元の皺が目立つようになってきている。記憶に留めているまだ若い顔を打ち消すかのように、目の前に時間を重ねた、くるくると変わる顔がある。それは紛れもない僥倖だ。 突然ぽっかりと、後藤はそう強く思った。なんという奇跡なんだろう、と。
    「あのさ、ちょっとだけ、待っててもらえる?」
     そう引き止めるように言うと、しのぶは後藤の目を軽く覗き込んだ。
    「なに?」
    「よかったらちょっと付き合ってよ。今日車じゃないんでしょ? おにぎり詰め込んだだけだからちょっとおなかすいちゃってさ、どこかでラーメンでも、って思ったんだけど」
    「いいけど、大丈夫なの?」
    「実はさ、さっき暗に無理をするなもう帰れ、って怒られちゃったところで。本当は今、もう非番らしいんだよね、これがまた」
     ばつ悪く笑うように告げると、しのぶはやれやれといった風にため息をついて、
    「そうね……、どうしても外で食べたい?」
    「いや、ってどうして?」
    「専門店の味には負けると思うけど、生ラーメンでよかったら作ってあげるわよ」
     思わぬ提案に、後藤は目を丸くした。
    「いいの?」
    「偶然だけど、私も明日非番なのよ。それとも、お邪魔ならいいけど」
    「いやいや、まさか、お邪魔だなんてそんな」
     慌てて返すと、しのぶは可笑しいといった口調で「それに、そんな頭じゃ飲食店に入るのも失礼よ」と茶化すように付け加える。
    「……そんなに汚い?」
    「実を言うと、……ちょっとだけ、匂うかも」
    「あ、ごめん」
    「だから、思いやりと洞察力に溢れた同僚の言葉に甘えて、帰ったらとりあえず髪だけでも洗ったほうがいいわよ。その後でも、時間はあるんだから。……じゃあ、通用口の辺りで待ってればいいかしら」
    「うん、そんな待たせないから」
     そういって二、三歩ほど動いたしのぶに釣られるように、後藤も椅子から立ち上がった。時計を見ると、部屋を出てから十分ほど経っている。帰って、簡単な指示をして、みんなを労わって、それから……。ざっと時間を見積もるに、十時半過ぎには首都高に乗っているはずである。ラーメンやその他諸々のものは途中のコンビニで買えばいいだろう、あと明日の朝ごはんを二人分。しのぶの下着や服は確か洗濯してアイロンをかけてあるけど、もっとマメに帰って布団をマメに干しておけばよかった。
     急にそわそわしたように見えたのだろう、しのぶはいたずらっ子を見守るような目で軽やかに口を開いた。
    「別に慌てなくてもいいわよ」
    「慌てはしないけど、手際よく手抜きなくやってくるよ」
     にやりと笑っていうと、しのぶも釣られたように笑う。昔は見惚れていた、次に惹きつけられた、そして今はもう見慣れた、清楚でなにより目が優しい笑顔だ。
    「……ありがとう」
     その笑みに引き出されるように、奥の奥からするりと言葉が出た。
    「なあに突然、素直すぎるのもらしくないわよ」
    「ひどいなあ、俺、いつでも素直じゃない」
    「時と場合によるわね」
     照れ隠しのように言われた辛辣な評に思わず乾いた笑いをあげてしまう。が、気を取り直して、
    「でも、さ。本当に。……ほら、明日非番なのに」
     悪いと思って、と続く言葉は、しのぶによって遮られた。
    「それはさっき言ったでしょ」
    「さっき?」
    「非番の日に当たったら、ちゃんと看病してあげる、って。……じゃ、後でまた」
     くるりと身を翻してエレベーターホールに向かうしのぶの姿を、後藤は一瞬だけ呆けて、あとは少しだけ照れて見送った。
     窓の外には、先程よりも高度を上げた火星が、まだ眩しく輝いている。
     惑星の光を目に収め、後藤もまた、仕事場に戻るため薄暗い廊下を歩き始めた。その足取りは軽い。
     そういえば、次、火星が近づくのは何年、と記事に書いてあっただろうか。確か十年以上の間が空いていたはずだ。
     でも恐らく、と後藤は思う。
     その光をまた二人で見上げる確率は、きっと高いものだろう。確実、といえるほどには。
    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/27 1:48:20

    レプリーゼ

    #パトレイバー #ごとしの
    「ランデブー」の続きです。 2005年の火星接近の際に書いたものです。 システムと確率、こことそこ、そして僕と君。

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