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    かわいいひと。のおまけ四月一日「本日はお日柄も良く」夜間飛行四月一日
     二人のこれからについて、四月一日に互いの隊と上司に報告しようと提案したのは後藤で、丁度年度始めだし悪くないと返したのはしのぶだ。
     二人とも二十一世紀がまだユートピアだった時代に少年期を送り、社会人として世に出てから、四捨五入すれば二十年に届く月日が経ってるもので、四月一日が何の日か、なんて知ってはいても気にしたことはなかった。本当に全くもって。
     だから、「隊長ー、気持ちはわかりますがもうちょっとばれない嘘付きましょうよー」とか「嘘って付くと叶わないって知ってました? なあ野明」とか「隊長、自分そういう嘘はちょっと」とか「いやぁ意外と純情ですよね、よければうちが仲人しましょうか? 多美子さんとやってみたいんですよねー」とか「でも、こういう前向きで明るい嘘っていいですよね、胸がこう、ぱってあったかくなって、なんとも幸せになります」と矢継ぎ早に言われたとき、後藤は素直に自分の人徳について反省せざるを得なかった。
     裏でも表でも悪党だ不良中年だ血も涙もないと評されているような性格だから、いくら信頼が厚い部下たちであっても、目を輝かせておめでとうございます! と言ってもらえるとは思ってなかった、しかし、いくらうだつの上がらない寂しき独身中年男性と皆が知ってるとはいえ、エイプリルフールにそんな空しい嘘をつくほど寂しい人だと見られているとは思いたくなかった。しかもだ、太田以外はみんな口をそろえて、大切な願いをそんな風に嘘にしたら駄目ですよと言うばかりで、つまり去年までは一人胸の奥に秘めていたささやかな思慕について、実はなにもかも周りに駄々洩れだったことを知ってしまったら、めでたさも気疲れによって吹き飛んでしまう。
     さらにだ。秋も終わりかけ年末の音も聞こえるころ、一瞬の隙から信じられない奇跡が起こり、気持ちが通じ手を取り合い、そうして満願が叶ってからすでに四半期が過ぎているのだ。
     静かに年が明け、警備だなんだと駆り出される正月が過ぎて、ようやく取れた年始の休みに箱根で二人睦まじく過ごしてからは、しばらく自分も――そして意地っ張りだから認めることはないだろうが間違いなくしのぶも、予想もしなかった幸福によってどこか浮かれた状態だった。ただ、二人ともこの仕事に誇りを持ち、地位や職務についての責任を自覚する大人なのだからと、これからの人生について互いに大きな決断をして合意に至り、そのことを公に開示するその時まで、つまり今日この日までは、公私をしっかり分けてこの地に個人的な関係を持ち込まず、ただの同僚として接しようと最大限努力してきた。
     ただ、ここまで完璧に隠し通しているとは、さすがに思わなかった。
     いや、ちょっとも漏れていなかったってことはないだろう。確かに隊長室でいちゃいちゃとしたことはなかったが、うっかりキスとかしたいなと二人同時に意識しちゃって妙な雰囲気になってたことも、多いとは言わないが少ないとも言えないし、昨日のスーツとワンピースのまま、身繕いもそこそこに互いに品川のホテルから慌てて出勤してきたこともあるし、月に何回か、しのぶがあえてバスで通勤してきて、帰りは自分が送っていったこともあったじゃないか。そのたびにちょっと油断しているかと反省していたが、そもそも可能性は極めて薄いと思い込んでいた隊員や職員たちは、それらを全部たまたまだと流して、気にも留めていなかったわけだ。そうなると自分たちの自制心が見事だったと言うべきか、それとも自意識過剰気味の空しい努力だったのかすらわからない。
     上司のかわいらしい嘘を見事受け止めて見せました、という無邪気な笑顔を浮かべる部下たちを前に、後藤はいったんはあのね、と口を開いてみたものの、じゃあどう言えば信じてもらえるのか、ほとほと情けないことだが皆目見当がつかなかった。
     刑事部時代に恋人と別れてから早十三年。所轄の刑事課も前の部署も、浮気と離婚の話は盛んだが晴れて結婚するなんて慶事からは縁遠いところだった。そんなわけで「部下に真面目に結婚の報告をする方法」なんてノウハウを学ぶ機会なんてついぞなかった。だいたい二課に飛ばされてきたときに、これでめでたく一生お一人様コースだとぼんやり覚悟を決めていたものだから、そもそもプロポーズをした後のことのすべてが、想定していなかったことばかりなのだが。
     あまりにほのぼのとした空気に包まれた部屋に、ま、明日か明後日にでも言い直せばいっか、と後藤の気力がすっかりなよったところで、ただ一人、最後まで黙っていた熊耳が徐に口を開いた。
    「隊長。……おめでとうございます」
    「熊耳……」
     さすがだ熊耳、うっかり悪い男にひっかちゃったけど、しかし才色兼備で前途洋々な警察官、まさに俺が見込んだだけはある。ようやくもらえた祝福に思わず涙ぐみそうになった後藤を、次にいつも通りの強気の笑みで上司の様子を見守る熊耳を見て、さすがの泉ら他の隊員たちも顔を見合わせた。
    「え」
     まさにその時、向かいの方向――つまり第一小隊のオフィスの方向だ――から、どよめきと、やがて拍手と明るいざわめきが聞こえてきた。
     報告をした今、しのぶの顔はさぞ赤いだろうなあ、いつも通りに粛々に、と全力で装ってはいるもののさぞかわいいに違いない。後藤はそんな姿を想像して、口の端だけでにやけてしまう。
     そんなすっかり気の緩んだ上司を無視して、泉は篠原と、そして二人は他の面子と、もう一度顔を見渡した。
    「隊長、式の日程などはお決めになりましたか?」
     混乱する巡査たちをよそに、一人澄ました顔をして、熊耳が続けて聞くのを見て、ついに熊耳と後藤以外の全員が同時に呆けた声を上げた。
    「え?」
    「本日はお日柄も良く」
     世の中上手くできてるもので、一週間も経てば大抵の出来事について落ち着くことが出来る。それが惨事であっても、慶事であっても。
     四月の初めの一週間、二課を覆っていた二つの大変化への戸惑いも、半月もすれば日常に溶け込む。その一つが発足したばかりの第三小隊とその隊長、隊員たちで、初のキャリア出身で(しのぶはお客さんだと言っていたが、後藤は首輪の鈴だとみていた)、意気込みよろしく着任したばかりの相澤隊長のもと、今日もおっかなびっくり任務にあたっている。泉は彼ら彼女らを見て、「私もあれくらい危なかったしかったんだろうな」と先輩らしい感想を述べていて、結城は「不思議ですね、イングラムが配置されたあとの第二小隊の方がしっかりしていたように感じます」と率直な所見を述べていた。もっとも第三小隊は発足から少し不幸なところがあって、一例を上げれば整備用の部品に不備があって一機がしばらく動かせない状態だったとか、送別会で食べた生牡蠣からノロウィルスを貰ってしまい、相澤隊長が一週間出勤して来れなかったとか、建物の構造上他の小隊とオフィスが離れているから、経験が長い他の隊員たちとどうも交流が薄くなりがちだとか。そんなわけで、隊長も隊員もまだまだ借りてきた猫の群れのようだが、そのうちどうにかなるだろう、というか、ならなければ困る。
     もう一つ、こっちは正真正銘の慶事であるところの同僚同士の婚姻については、周りはすっかり落ち着いたものの当人同士が落ち着かない。というのも、それぞれが自分こそが異動すると考えているからで、去ったそのあとを任せるためいつ部下に昇進試験を受けさせるべきかを慎重に探っているところだからだ。
     本来なら第三小隊隊長職に意欲を見せていた五味丘がどちらかの跡を継ぐのが自然なのだろうが、
    「正直なところ、五味丘君じゃあなたの隊は無理だと思うのよね……」
     しのぶがそう言ってため息をついたのが、つい昨日の夜のこと。
     それについては後藤も同意見で、自分らしく自由奔放に育て、個性を伸ばして成長した部下たちを率いるには、まだ五味丘には経験と柔軟さが足りない。外からはただ生真面目で規範を強く重んじると思われがちなしのぶだが、その彼女にしても、自分ならいざというとき第二小隊も指揮できるが、五味丘は自分ほど臨機応変に動けないから厳しいだろうと踏んでいた。勇ましく的確な指揮に加え、いつのまにか身に付いた柔軟性こそ、しのぶが一番強く後藤から影響を受け、そして育まれたものなのだが、しのぶは無意識のうちにその可能性を無視していた。認めたら間違いなく後藤が調子に乗りそうでしゃくにさわるのだ。影響を受けること自体は別に悪いことでもないし、嫌なわけでもないのだが、ただなんとなく、影響を受けてばかりと思うのは面白くない。ただ後藤に言わせれば、大学時代を覗いて、しのぶほど自分の根幹に入り込み大きく変えた人間はいないわけだが。
     ともかく、一体どちらの異動届けが受理されるのか、後藤もしのぶもできるだけ早く知りたくて仕方がない。来月には、いやさらに先になるか。ゴールデンウイークの編成について話しているうちにまたその話になり、隊長室で二人ため息が出たとき、しのぶのデスクの電話がなった。
    「はい、特車二課分署隊長室……私がその南雲ですが……」
     訝しい顔で電話に出たしのぶに何事かと思ったところで、今度は隊長室のドアが叩かれて、珍しいことに福島が「後藤君、ちょっといいかね」と手招きをしてきた。
     話すしのぶに手で合図して課長室に向かうと、席に戻りわざとらしく椅子を窓へと回した福島が、「後藤君……」と改まった声を出してくる。
     そうか、自分が異動になるのか。
     後藤は瞬時にそう理解した。
     次は備品係か資料編纂室か、はたまた遠くの所轄に栄転という名で追い払われるのか。
     どっちにしても、設立準備段階から駆けずりまわって、創設から今日まで、この部署に深く関わり文字通り心血を注いできたしのぶこそが残るべきだ思っていた後藤にとっては、この決定はありがたいことだ。
     ありがたいことだが、ずいぶんと早く人事が調整を掛けたものだな。ふとそう思った時、不自然なほど間を開けていた福島が「つかぬ事を聞くが」とついに口を開く。
    「なんでしょう」
    「正直、聞きにくいんだが」
    「異動なら覚悟してましたし」
    「そんなことはどうでもよくて、もっと大事な話があってだな」
    「は?」
     どうでもよくてもっと大事だ? 後藤が思わず素っ頓狂な声を出すと、福島がついに思い切ったように椅子を後藤の方に向け、
    「海法部長がだな、私も、式に呼ばれるのかと」
    「はぃい?」
     どんなことでも驚かない、驚かなかった振りが出来る後藤ではあったが、これはさすがに意表を突かれた。
     海法が、わざわざ福島を介して、なんだって?
    「いや、私は覚悟しているというか、部下と部下の慶事であるし、責任もって仲人でも職場代表のスピーチでもするつもりだ。さっそく心に残るスピーチ辞典も購入したし、あれだ、先日松井選手が結婚したときの長嶋のスピーチは実に素晴らしかった」
    「課長、巨人ファンだったんですか……」
    「しかしだ、海法部長がだな、どうしてもというなら行かざるを得ないが、しかし、私も果たして顔を出すべきなのかと思案なさっててだな」
    「……課長、実は、まだ式の詳細とか、全く決めていませんもので」
     福島と同じぐらい間をおいて、わざとらしく咳ばらいをしてから後藤がおずおずと告げると、福島が前のめりになって目を見開いた。
    「そうなのか?」
    「そもそも私事で恐縮ですが、婚約が成立したのも本当につい最近でして、だからまだ検討を始めたばかりですし、例えばいま流行りの、披露宴は行わない身内だけのささやかなものとかもありますし」
    「披露宴はあえてしないこともあると?」
    「ですから、海法部長には、お忙しいなら別に出席を無理に考えないでもいいと、お伝えいただければ……」
    「そうなのか、いや、部長には私からそう伝えておく。そうか、身内だけの、そうかそうか。そこに部長が出てもきっと周りが困るだけだしな」
    「まあ、そうですね」
     大方、呼ぶつもりならそれを挫けと言われたんだろうなあ。後藤はのんびりと思った。幸いなことに海法と後藤達の望みは一致していたわけだが。
     憎しみあってまではいないし、利用し利用されという関係であれど、呼ぶわけないでしょ、しのぶさん冷遇してる張本人をさ。
     後藤の内心の悪態などどうでもいいであろう福島は、上機嫌でそうかそうかと言っていたが、急に真顔になって、もう一度後藤君、と言ってきた。
    「なんでしょう」
    「その身内、っていうのは、職場の人間も入るのかね……?」
    「課長、本気でスピーチやりたいんですね……」

     結局異動の話はまったく出ず、なんとも疲れて隊長室に戻ると、もっと疲れた様子のしのぶが眉間にそれはそれは深いしわを寄せてお茶などをすすっている。
    「電話、終わったんだ」
    「……杉浦警視正の秘書からよ」
     しのぶがここに飛ばされる前の最後の直属の上司だったか。
    「都市防災のドンがなんだって?」
    「あの男がドンだなんて、東京の防災計画はまったくもって悲惨なものね。それはともかく」
     しのぶは困ったとも呆れたとも、憤っているともいえる表情になって、心底うんざりしたように言った。
    「式を挙げるそうだが、私も呼ばれるのかって」
    「え、杉浦警視正も」
    「も?」
     しのぶは後藤の顔を見て、ああと納得した声を出した。
    「お偉いさんたちの定例会議、そういえば今日だったわね……」
     恐らく、人事の金沢あたりが話題に出したのだろう。金沢はまるでタイの寺に鎮座している仏像のような顔をしながら、なにか面白いネタを手に入れたら、一番場が混乱するタイミングでそれを披露するというあまりよろしくない癖がある。そうして起こった混沌から上手く情報を引きだして、自分の地位をさらに固めていくのだ。金沢がまるでスコールが止むのを待っているようなのんびりとした口調で自分たちのことを報告し、海法をはじめ、幹部連中がどんな顔をして、そして場がどんな風にざわついたのかをうっかり想像した後藤は、またまた辟易とした気持ちになった。これだから本庁は嫌いだ。
    「で、断ったの?」
    「当たり前じゃない、……で、そっちはひょっとして」
    「そういうこと。海法部長には、丁寧にお断り入れておいたから」
     二人は苦笑する気力すらなく深くため息をついた。
     そりゃ好かれてはいないだろう。後藤にしてもしのぶにしても、いまや好きでここにいるとはいえ、もともとは本庁の強い意向でここに閉じ込められているわけで。
     しかし、一応日本のトップエリートを自認しているであろう、もう引退も近い大の大人たちがいったい何をしているのか。
    「私たちって……」
    「あんまり考えないほうがいいよ。どうせこっちだって同じこと考えてるわけだし」
     もう一度特大のため息を付いて、しのぶがぼそっとつぶやいた。
    「披露宴って、別に必要なものじゃないわよね」
    「賛成」
     後藤は力なく手を上げて、心からの賛意を示した。
    夜間飛行
    「子供のころさ、行きたい場所とかあった?」
     それとなくテレビの画面を見ていたら、後藤がそう問いかけてきた。
     子供のころに親のしつけとしてテレビから遠ざけられて以来、しのぶにとってテレビとは仕事の必要上ニュースと、たまにドキュメンタリーを見るぐらいで、そもそもあまり縁がない人生だった。だから、正しくテレビっ子として育った後藤の、帰宅したらまずなんとなくテレビを点けるという習慣が不思議なものに感じられたものだ。思えば隊長室のテレビがフル活用されるようになったのも後藤が赴任してきてからだ。そうして同僚と関係を築き二人三脚で仕事を勧めるようになり、そして第二小隊が発足して一年ほどたったころには、環生に「最近仙境から降りてきた感じ」と妙な評をもらい、さらに次にお好み焼きを食べたときには「あなた変わった」とはっきり言われ、年末におでん屋で忘年会という名目で飲んだときには「想像より遅かったぐらいだわ」としみじみと感想を述べられたのだった。
     環生がその影響を事あるごとに指摘した後藤その人曰く、春から秋は贔屓の野球チームの順位が気になるからとか、いつニュース速報や災害情報が入るかわからないから、とか彼なりにいろいろと理由があるらしい。が、つまりは一人暮らしだと音がなかったからちょっとね、と恥ずかしげに小声で言われたとき、しのぶは突然気が付いた。つまりこの人を食った態度で他人を翻弄する男の根は、無関心の殻をかぶせて誤魔化しているが、さみしがりなのだ。だから、自分が家にいるときは、ニュースぐらいしかテレビをつけないのだろうと結論を出し、最後にそれが意味するところまで行きついてしのぶは一人顔を赤くしたものだ。
     秋の終わりに口づけを交わして、それから三月と経ってないというのに、師走の中頃に初めて彼の家に招かれて、年が明け小正月も過ぎたころには、しのぶはすっかり入谷の街に溶け込んでいた。
     俺はタフだけが取り柄だから、としのぶの非番や遅番の時にだけデートをセットする後藤の紳士ぶった態度に対抗するわけではないが、逆に後藤の非番に合わせてしのぶが入谷を訪れることもある。今日もそんな風に、早番で先に上がった後藤を見送ったあと、しっかり自分の仕事を終えたのちに、コンビニで家から持ってき損ねたストッキングを買って、しのぶは一路北へと進路を取ったのだった。
    「そうね」
     しのぶはテレビへとちらりと視線をやる。後藤がそんなことを言ったのは、いま流れているのが、電車で世界を回るミニ番組だからだろう。ドキュメンタリーと紀行番組を好むと前に話してくれたことがあるが、こんな三分ほどの番組であっても、男の旅情を誘うのだろう。聞いたことはないが、青年時代『深夜急行』を片手にマレーシアからインドあたりで夜行列車に揺られてたと言われても不思議ではない男だ。不思議ではないが、ただ、想像してみたところで、あまり似合う風情ではなかった。
     後藤はくだけた笑みを浮かべて、幸せそうにしのぶの答えを待っている。こうやって互いに互いを分け合って進んでいる関係だ、しのぶもまた優しい笑みを浮かべると、改めて指を口にあて吟味する風な顔をした。
    「子供のころは、オックスフォードに憧れたものね」
    「『不思議の国のアリス』、好きだったの?」
    「あなたは鏡の国がお好みでしょうね」
     まあね、と後藤はくすくすと笑って、すぐに「それから?」と続きを促した。「秘密の花園に、プリンスエドワード島?」
    「いいえ、メトロポリタン美術館ね。あとは……真夜中の庭」
     口にするだけで懐かしさがこみあげてくる。教育に良くないとテレビは制限されていたが、代わりに望めばいくらでも本が与えられる家だったため、しのぶは児童文学で育ったようなものだった。ピーターパン、ドロシー、クリストファー・ロビンにメアリー・ポピンズ。フロドとサムの旅に同行する馳夫さんは子供のころの憧れのヒーローだったっけ。そして大人になって恋人になったのは、馳夫というよりはサウロンすら手玉にとるガンダルフのような難解な男だが。
    「真夜中の庭?」
     はて知らないな、という口調で繰り返されて、しのぶは薬さじ一杯ほどの優越感を抱いて口の端で笑った。互いの好きなものを分け合うにしても、自分だけが持っている些細なものがあるというのは、やはり大事なことだし、なにより後藤と言えどすべてを知っているわけではないというのはなにか安心するものだ。
     だからしのぶは真夜中の庭は再び心にしまい込んで、「だったらあなたは?」と聞き返した、
    「俺?」
    「そう、ノーチラス号に乗りたかったり宝島を目指したかったりとか、そんな時代もあったんでしょ」
    「そりゃあったよ、ネモもシルバーも会いたかなかったけどさ」
     子供時代へ思いを馳せるというのは、誰にとってもノスタルジーを伴うものだ。後藤もまた、遠い目をしてちゃぶ台に頬杖をついた。
    「そうだな……砂漠に行きかったかな、夜間飛行と、サハラ砂漠」
     そして目を閉じて、どこか陶酔したように口を開けた。
    「サハラの夜、前テレビで見たけど、確かに星が降ってくるって言いたくもなるほどでさ。空は紺碧で、空気は冷えていて」
    「文字通り降るほどの星の下、飛行機を背に空を見上げたかった?」
    「そう。本当になにもなくて、風でも吹かない限り音すらしないって、どんなだろうなって」
    「わかるわ……それ」
     しのぶも釣られるように、深く手を伸ばしたら吸い込まれそうな藍色と、鈴なりのように連なる星明りを思い浮かべた。
     それにしても『星の王子様』に憧れた少年時代だったとは。後藤も少年時代は孤独を慰めるほどの純粋さがあったということだろう。当たり前のことではあるが、なぜか世界が驚く大発見をしたような新鮮な気持ちになった。
     そして同時に、後藤が抱く砂漠への憧れを、しのぶは少しだけ寂しく感じる。この男は生き汚いようで場所への執着が薄く、人間は好きでも、人とのつながりや人が集まったときに生じるしがらみを心底煩わしいと思ってる節がある。二課に飛ばされたことを一番喜んでいるのは本庁の人間ではなく、後藤喜一その人なのだろう。そんな男がいつしか部下と部署のため全身全霊を捧げるようになり、二課を盛り立て同僚として最良の関係を築き、そして最後、ついに自分に向かってそっと手を伸ばしてきたことは、しのぶのみならず後藤本人にとっても想定外のことなのではないか。今は部下も部署も、そしてしのぶもまだ彼の中にある。しかし、いつか重しを総て捨ててふいとここから姿を消して、砂漠で一人、星空の下眠りについていても不思議ではない。そして、その姿は、アジアを旅する後藤青年よりも、はるかに鮮明に思い描けた。
    「行ってみたいわね……」
     その時はきっと自分は置いて行かれる。それくらい孤独に馴れきった男だ。だとしても、いつか男が見たのであろう風景を、自分もまた見たいという願望くらい抱いてもいいだろう。癪だから言わないが、自分でも笑ってしまうほど、後藤に惹かれているのだから。
    「じゃあ、行く?」
     少しの間、星以外なにもないサハラの空を夢想していたもので、後藤の声に対して反応が遅れた。
    「どこに?」、素でそう聞きかえすと、後藤はくつろいだ声で、だからさ、と続けた。
    「サハラ砂漠」
    「そりゃ、行きたいけど」
    「だから行かない? ラクダに乗って、ジェラバを着て。きっと似合うと思うなあ」
    しのぶさんならどんな民族衣装でも似合いそうだけど、という戯言は無視して、しのぶはあどけない誘いに同意した。「いいわね」、月の砂漠をさばさばといくラクダを想像して、少しだけ気分が高揚する。
    「いつか行けるといいけど」
    「いつかじゃなくて、行こうよ」
     後藤がもう一度、粘り強く繰り返すものだから、しのぶはついに後藤の方に向き直った。
     当の後藤はしのぶの関心が想像上の砂漠からようやく自分に移ったことに満足したとばかり目がささやかに輝いた。しかし、態度は相変わらずゆったりとくつろいだまま、穏やかに続ける。
    「第三小隊の人員もようやっと正式に決定したし、彼らがまともに動けるようになって、俺が異動したらさ、そうだな……秋も過ぎるころには休みの十日間ぐらいならどうにかなるでしょ。互いに有休溜まってるわけだし」
    「有休は確かに溜まってるけど……。ちょっと待って、異動って、あなた」
    「しのぶさんが出すより、俺が出した方がいいでしょ」
    「なんで、突然」
    「突然ってわけじゃなくて、去年からずっと考えてた」
     後藤は極めて穏やかなまま、しかし覚悟を目に湛えて、しのぶの瞳をしかと見た。
    「ね、二人で行こうよ、サハラ砂漠でも、オックスフォードでも、どこでもいいから」、話しながら、皮膚が堅くごつごつとした大きな手を、しのぶの手の上にそっと重ねる。「そして、一緒に暮らそう?」
    「……!」
     しのぶはしばらく呆けたように後藤の顔をみていたが、やがてのろのろと口を開いた。
    「ちょっと待って、……だめ、そんなのはだめ」
    「え」
     余りに直球なセリフを言われ、後藤は手を握ったまま凍り付く。しかし心中に絶望渦巻く後藤の顔色なんか知ったことじゃないとばかりに、しのぶは手を除けることもなく、いつも隊長室で後藤に小言をいう時と同じ眉に力を入れたあの顔になり、そして後藤さんとあのトーンで呼びかけた。
    「……なに?」
    「なにじゃなくて、話し合わないうちにすべて決めないでちょうだい」
    「話し合うもなにも、プロポーズっていうのはさあ」
    「プロポーズのことじゃなくて、なによ、勝手に異動届を出すの出さないのって」
    「え、そっち?」
     地獄から帰ってきたとばかりに、拍子抜けした声で目を丸くした後藤にしのぶはその言い方はなに、とばかりに語尾を強めた。
    「そっちじゃないわ、とても大事なことじゃない」
    「まあ、人事っていうのは人生設計において大事なことだけどさ」
    「人生設計もそうだけど、でも、後藤さん。あなた」。
     しのぶは後藤の目をしっかり見据えていった。
    「あなただって、二課の仕事に誇りを抱いて、いまの仕事を天職だって思ってるんでしょ。それを簡単に手放すなんて言わないで」
     しのぶの物言いがあまりにも真摯なもので、後藤もおのずから同じく真摯な面持ちでしのぶに視線を返した。
    「でもさ、二課はしのぶさん、あんたが作って、ここまで育ててきたものじゃない。本庁であれだけ冷たい視線送られて見下されてる中、瀬戸内さんと二人で走り回って、そしてようやく形にしたんだからさ」
     後藤に指摘され、しのぶの脳裏にあの日々が蘇る。女風情が調子に乗って、ロボットに興味があるとまたなんとも幼いことだ。影で日向で、あからさまに浴びせられた侮蔑と挫折の日々。
    「……あのとき、外事にまでなにかしらの話が広がってたのね」
     過去の自分が深くため息を付かせると、後藤は優しく労わるように、しのぶの腕をそっと撫でた。
    「部署柄ね、中でなにが起こってるかも知っておかないといけなかったから。瀬戸内さん、定年でなかったら二課長だったろうになあ」
    「本当、祖父江警視じゃなくて瀬戸内室長が課長だったら、もっと動きやすかったでしょうね。第二小隊だってもっとスムーズに発足して、人を踏み台にするような同僚も来なかったでしょうし」
    「酷いなあ」
    「でも、今は心から満足してるのよ、いい部署になったって」
     しのぶはふと懐かしむ目をした。「今の姿が、瀬戸内さんへのお礼になってるといいのだけど」
    「なってるでしょ、特に第一小隊はさ、ピースメーカーも自在に使いこなして、いまや名実ともに警視庁の花形だよ」
    「あら、ストレートな褒め言葉嬉しいわ」
    「やだなあ、第一小隊とその隊長にはいつも敬意を払ってるじゃない」
    「どうだか」
     わざと訝しむ態度を取った後、しのぶは息を一つ吐いて、きりりとした顔を後藤に向けた。
    「でも、二課を作ったのは私でも、育てたのは一人じゃない、榊さんら整備員の人に篠原の技術者。そして、あなたと、あなたがかわいくて仕方がない部下たち」。話しながら、自然と微笑みが浮かんでくるのがわかる。
     あの大地震のあと、急激なテクノロジーの発展と目まぐるしく変わる状況を目にして、これから先の事態を考え、当時の上司と二人、アニメの見すぎかと陰で笑われながら準備に奔走し、懸念が現実となったときすぐに二課が立ち上がるよう走っていた。ここに来た時はたった一人。そして短くはない年月が過ぎて、気が付けばもう一人ではなかった。どこか規格外で危なっかしいが、頼もしく成長したもう一つの小隊、その隊長で悪評が先立つうさん臭い同僚。だれよりも信頼が出来、この仕事の意義を理解し、そうは見えなくても最善を尽くしてくれる相棒が得られると、あのときの自分に言って信じてもらえるのだろうか。
    「二課がいまあるのは両小隊の力。そして二課を育てたのは、私とあなた。違う?」
     そう優しく問いかけると、後藤はしばらくしのぶの顔を見た後、少し照れたように目を少しだけ逸らせた。
    「……参ったな」。少し長い間が空いたあと、奥の奥の方からそっと出てくるような声だった。「最高の褒め言葉だよ」。
     後藤が褒められるのに慣れていないのはどこかでわかっていたが、目の前でストレートに喜びを表して照れる男を、しのぶは改めてかわいいと思う。そして、この男と公私ともに同じ場所に立って、背中を預け合いながら仕事が出来る幸いを改めて思う。
    「だから、あなたが私のために異動するなんて、そんな一方的なヒロイズムで勝手に決められても困るのよ。大事なことなのだから話していかないと。そもそもプロポーズするにして……」
     そこまで朗々と後藤に語ったところで、初めてしのぶの脳に、先ほどからのシチュエーションと後藤の言葉が正しく認識された。ずっと互いに握りっぱなしの手、彼が異動を考えていたのは、警視庁の慣習がしのぶに不利益になることを後藤が気にしたから、そしてその慣習というのは。そして。
    「ねえ、……さっき言ったこと、って、つまり」
    「しのぶさん、さっきから自分で言ってなかった? そういうところ本当にかわいいと思うけどさ」
     後藤は力が抜けたとばかりにはぁ、と脱力し、やっとしのぶから手を離した。そしてしのぶへと向き直り、正座をして、改めて今度は両手でしのぶの手を握り、
    「だから、このまま二人で、いつまでも暮らさない?」
    「なっ……」
     極めて普通の口調で、ただまっすぐ真摯にそう告げられて、しのぶはついに頭が真っ白になった。びっくりしたとかまさかと思ったとか、そんなことではない。口には出さないまま、ぼんやりとだが互いに覚悟は決めていた、ただ、それが今日だとは思わなかったからだ。
     しばらく口を小さく開けたまま凍ったようなしのぶを、後藤はただ辛抱強く待った。
     時間にすれば大したことがないであろう、しかし二人にとっては長い長い間をおいてから、しのぶは顔を徐々に紅潮させて、そしてようやっと強情を張ったように眉を上げて、顔をぷいと横に逸らせると、まず「異動届のこと、ちゃんと話し合いしますからね」。
    「うん、しないとね」
    「それから、服にタバコのにおいが付きすぎるのはいや」
    「善処します」
    「そこは禁煙するって言うところじゃないの」
    「いきなり高い目標掲げても、ウソになったら意味ないでしょ。……いや、努力しますから」
    「どうだか」
     しのぶはいただけないとばかりに肩をすくめた。そしてまた口を噤み、表情の強張りがそろりそろりとほどけていき、やがて揺らぐ子供のような目になって、最後、小さな声で告げた。
    「長く、生きて」
     後藤は果たしてどんな顔をしたのかはわからない。ただ同じく小さな声で「うん」とだけ頷くと、そのまま優しく抱きしめられたからだ。流れのまますべての身を任せて目をつむれば、男の身体が小さく震えているのがわかり、ああ、また平気なふりをしていただけなのか、と思う。とぼけた風体で人を煙に巻くことでしか、世間で生きていく術を知らない不器用な男。それが自分の前だけでこうしてなにかをさらけ出してくれるののなら、これからも色々を分け合っていけるはずだ。
    「覚悟してなさいよ」
     そう呟いてやると、後藤の身体から少しだけ力が抜けて、「そっちこそ、もう引き返せないよ」と少し浮かれた声で返される。そこでようやく二人は身を離して、そうして静かに笑い合った。もし、心地良い今の関係からその先に行くとどちらかが決めたなら、あるいはお互いの決断によって世界が一転するのかもしれないと、二人ともどこかで構えていたのに、いざその時が来たらなにも変わりはしないことを知ったからだ。
     結局自分たちは、なにより最初にかけがえのない相棒で、尊敬できる同僚であり、信頼できる友人でもあり、それはなにも変わることはないのだ。そうして互いへ肩書を重ねて行って、秋からは心から大事な人だと人に紹介するようになり、ついにたった今からは、人生を共に歩んでいくのだ。今隣り合った二つの道が、また一つになるその日まで。
     もう一度向き合って、後藤は静かにしのぶに告げた。
    「明日、指輪を一緒に買いにいってもらえますか」
    「喜んで」


     汗ばんだ背中に爪を立てながら、ついに果てる瞬間にかすれた声で名前を呼び合って、そして意識が瞬間白くなる。息も粗いうちに微笑みを交わして静かに唇をよせあうと、どこかで猫の鳴く声が聞こえた。
     体温と吐息を分け合ってただ穏やかに溶けていくような交わりのあと、胸にもたれかかって静かに汗がひく様を味わえば、後藤の手がそっと髪を撫でて、そのまま肩を抱いた。
    「挨拶、次の非番の前の日でいいかな……」
     まるで独り言のように、後藤が今後の段取りのことを口にする。目はうつらうつらとしているようで、実際、独り言なのかもしれなかった。
    「私の? あなたの?」
    「しのぶさんの……。そのあとうちに来てもいいし、そしたら今度は狂うほど気持ちよくなろうよ……」
    「非番を布団で過ごすようなサービスは結構よ」
    「えー、素直になりなよ」
    「嘘ついたことないでしょ。年度末なんだから、それが落ち着いたら、ね」
    「ああそうか年度末か」
     言いながら大あくびをする。そういえば一昨日、昨日、そして今日の夕方まで、年度末の工事ラッシュのあおりを受けて、第二小隊は東奔西走の大活躍だった。明日こそ日曜だが、明後日から、今度は第一小隊が同じように、忙しくないように見えて実は目が回るほど忙しい一週間を送ることになる。
    「明日は一日寝てなさいよ」
    「うん……クリームシチューでも作っておこうか……」
     いよいよ眠くなってきたのか、語尾が少し弱くなってきた。
    「明日はさすがに帰るわよ、当直の準備もあるし。でも今度来たらシチューは食べたいな」
    「ほんと、栗でもいれておくよ」
     そしてまたあくび。栗をいれたシチューは美味しそうだが、基本保守的な料理しかしない男がなにを言い出すのか。自分が来る前のニュースか料理番組で見たのかもしれない、と思ったところで、しのぶは不意に気にかかっていたことを、何気なく聞いてみた。
    「ところで、なんで今日だったの? どこへ行きたいか、なんて……」
    「ん?」、寝落ちする寸前の意識をなんとかこちらに戻したような声だ。多分しのぶの声も夢との区別がつかないだろう。
     しかし、後藤は寝息を交えながら、「ニュースでハワイの天文台の夜空っていうのが映っ……、部屋に一人きりだなって思って、昔は独りで行きたかったんだけど、しのぶさんと、一晩中、砂漠で星を、見ていたいな、って、思っ……」
     そこから先の言葉はなく、後藤はすっかりと眠りに落ちたようだった。おそらくはとんちんかんな会話なのかもしれない。しかし、しのぶは言葉に出来ないほどの幸福が体中に満ちていくのを感じた。
     これだけ疲れているのだ。きっといまの会話も、ほぼ眠っていた後藤の記憶には残るまい。
     だから、いまの会話と彼の言葉は、すべて自分だけのものだ。
     しのぶは心の底からくつろいで後藤の肩に頬を預け、そうして同じく眠りについた。
     その日、しのぶは、夜の砂漠で一人寝ていたら、ライオンの後藤がやってきて、自分の側で気持ちよさそうに伸びをして、そうして二人より添って、一緒に眠る夢を見た。
    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/26 18:42:49

    かわいいひと。のおまけ

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    『かわいいひと。』のおまけです。以下の三本が入ってます。 ・四月一日 ・「本日はお日柄もよく」 ・夜間飛行

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