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    しおり
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    しおり
    テラリウム「ねえ、一緒に暮らそうよ」
     秋雨前線のもたらす濃い墨色の雲が空に蓋をして、大きめの雨粒が喫茶店の昭和風情を残すガラス窓をたたいている。午後二時前にしては暗い街は影も雨に溶けていて、息を吐くだけで寂しい気持ちになる日だ。しのぶの家から一番近い、という理由だけで選ばれた、私鉄の駅前からも離れた、名物もない小さな喫茶店がこんな天気の日ににぎわうはずがなく、客は足首と肩をぬらしながら外回りをしている最中に一息入れているサラリーマンと、あとしのぶと後藤だけだ。離れたテーブルにいるサラリーマンが温そうなコーヒーをおざなりに飲んではおいしそうにたばこを吸う様子を横目で眺め、自身を鼓舞するように深く息を吐いてから、しのぶは最後に目の前にいる男の眠そうな目を見た。
    「いまさら」
    「そうだよ」
     後藤はすっかり肉がそげて皮だらけになった手で頬を支えて、妙に楽しそうに笑った。昔、そうやってしのぶを見ては小さく笑っていたときの様に。ただ違うのは手元が空なことで、あの頃あれほど手放せなかったたばこを五年ほど前ついにやめたのだと、先日会ったときに言っていた。
    「なんで今なの」
    「今だからだよ」
     後退こそしていないものの、すっかり薄くなり白髪が目立ち始めた髪を昔のように後ろになでつけて、くぼんだ眼の端にはしわが目立つようになっていて、なにより全体が葉を落とした椎の木のように乾いている。本枯れ節を思い起こされる風体になっていたと、ばったり再会した後、しのぶは思ったものだ。
     十年という年月は、短い一年一年を過ごすうちにいつのまにか経つものだが、しかし懐かしさを伴うほどには長い。十年もあれば風景も風俗もすべて変わるし、そしてなにより人を変えていく。風貌も、立場も、そして関係も。
     後藤は十年という年月を正しく重ねた枯れ方をしていた、さらにいうならますます人を必要としない目をしていた。それなのに先ほどのようなことをいう。戯れなのか本気なのかわからない様子で。
     ――自分はどうなのだろう。
     アンティークガラスで彩られた窓も、しっとりと汗をかき始めた水入りのグラスも、いまのしのぶの姿を映しはしない。毎朝鏡に映る顔は自分にとっては常に見慣れたものでしかなく、時の流れはあまりにも自然に意識と寄り添うものだから、外から見たときの自分が果たしてどのような姿に見えるのかを推し量ることは誰にとっても難しい。
     私は果たして、目の前の男と同じように十年という年月を重ねた顔になっているのだろうか。いまもこの足で大地に立ち、この手に風を束ねていると、そう思ってくれているだろうか。
     答えを持たない問いがしのぶの中で繰り返される。かつて潮風が吹き抜けるあの土地で、しのぶは警官として、後藤と二人、戦うものとしてそこにあった。しのぶが炎なら後藤は水であり、あるいはしのぶが風として動くときには後藤は地のようにそこにいる。後藤という男は一筋縄ではいかないし、状況を把握して、最善手とあらば人をまるで使い捨ての歩のように使ってでも事件を解決に導かんとする才能は、賢さというよりも悪癖に近いものではあったが、それでもしのぶは後藤を信頼していたし、信頼出来る者に背中を預けられることは幸いであった。
     そして同時にしのぶも後藤から信頼出来る人間とみなされていた、自惚れではなく事実として。そうして二人で、隊を率いて、共にあの場で日々戦っていた。
     まだ、現役の警察官だったころの話だ。
     そして今。在野で後藤が燻された金属のようになっていったのなら、私はどのように燻され、あるいは流されて、いまここにいるのだろう。
     私はいま、何者としてここにいるのだろう。
     そして後藤はいま、しのぶの前に何者として座っているのだろう。
    「ブレンドとアイスコーヒーでございます」
     髪を愛らしく結い上げた店員が、堅い音を立てながらしのぶの前にグラスを、後藤にはソーサーを置いていく。この後昔のように自然と話が弾み、互いが喉を潤すため飲むとしても、気まずい沈黙を飲み込むため口を付けるとしても、このコーヒー一杯分だけの時間が、そのまま後藤と過ごす時間となる。再会してからは、後藤もしのぶも、無言のうちにそのように決めていた。
     ごゆっくりどうぞ、と店員が礼儀正しく下がったのを横目で追いながら、しのぶはまず一口だけアイスコーヒーを口にした。口に広がる甘めの薫りと酸味が強めの味はどこか古風で、しのぶの好みに合うものだ。口から鼻腔に香りが満ちひとときだけ平安が訪れ、そしてコーヒーを嚥下するとまたとめどない疑問がしのぶの中で湧き上がり、渦を巻き、そして霧散していく。この人はどうして私に連絡をくれたのだろうか。どうして私はその声に誘われてこの喫茶店に足を運んだのだろうか。どうして、まるでかつて友達だったかのように、二人して振る舞っているのだろうか。
     まだ二課で共に働いていたころから今日まで、あの後藤とどのような関係なのかと赤の他人に聞かれたとき、しのぶは常に「面倒な同僚」と正確に答えてきた。しかし、果たして十年前、この元同僚とどのような距離で接していたのか、しのぶはもはや思い出すことが出来ない。
     かつて隊長室で互いを補佐し合っていたときと、いまの元同僚同士という関係でしかない状態はあまりにも違いすぎて、まるで現実感がない。例えば、自分たちは同僚でありそして友人だったと互いに認識しているのなら、褪せはじめた写真の輪郭をなぞるように、どちらともなく連絡を頻繁に取り合うものなのかもしれない。ノスタルジーは雨の日の軒先のようなものだ。いくら後藤といえども、暖かく傷つくことがないどこかへの渇望は持ち合わせいるに違いない。
     しかし。しのぶはカップを手にした後藤の、乾き痩せた頬を見る。
     しのぶの認識が正しければ、後藤とは友人という関係ではなかった。全く違う価値観を持ち合わせていながらそのことを苦とせず、多くの事件や愚痴や喜びを分かち合い、時に反発し、時に苦々しく思い、時に賛同し、時に同情し、そしていつしか常に尊敬しあう間柄になっていっても、二人は職場の同僚でしかなかった。男女の間に友情は生まれない、なんて陳腐なことを言うつもりは毛頭ない。ただ、後藤との間に存在していたのは、友情というには濁り、恋慕というには澄み、同僚というには持て余す、ただ大きく形容しがたい感情であり、ゆえに名前を付けることが出来ないものだった。
     名前を付けられないそれは、しかし名前を付けられないからこそ心地よくかけがえのないものであり、なにより完全なものだ。何も変えたくない、名前を付けて帰る必要もない。立場、年齢、性別、そういった物差しでこの関係を決めつけないでほしい。そうして午後のまどろみのような時間をいつまでも過ごしていければそれで良い。古い建物の二階の一室でのみ共有される関係。二人は確かめ合うことなく、しかし無意識のうちに理解し合い、そして互いを侵犯しあわないと決めたのだ。
     外からみたら臆病なしがらみであったり、惰性のすえぐずぐずに溶けて消える関係のように見えたとしても、しのぶと後藤にとってあの隊長室はまるでスノーボールのようなものだった。満ち足りていて、美しく、そしてなにも変わらないままに閉じた小さな世界。
     
     しのぶが結婚を決めたのは、特車二課から都市災害警備の課長補佐職に異動して一年と半年ほど経ったころだ。
     そもそもしのぶが二課へと異動となったのは、男からみたら目障りなほどの才覚と颯爽とした風貌と誰のものにもならない意志が一部の男たちに疎まれたからであり、生意気ででしゃばりな女を追いやってせいせいした者たちがいる一方、しのぶを優秀と認め人材を埋め立て地で腐らせたくない人間もいた。そしてさらにあと一派、一番多かったのが、これ以上後藤と二人息の合った活躍をしてもらっては困る人間たちだ。厄介払いだったのかお荷物だったのか、ともかく出来るだけ遠くにいってほしいとばかりに後藤が移動してきたのが二課創設から一年ほど後。そして数年経ったころにはもはや特車二課は場末でも墓場でもないと認識され、一目置かれ、警備部の後藤と南雲のコンビを敵に回すなと噂され。そしてこれからもずっとこうして二人でやっていくのだと、しのぶが自然と考えていた矢先、二課でも結果を出したことへの評価、という建前で、南雲だけが、後藤とのコンビを解消させるため本庁へ復帰、となったわけだ。
     とはいえ、あのときの人事異動にそのような背景があったと知ったのはもうずっとあとになってのことだ。当時ははまだまだ発展途上の二課から離されることばかりに意識が向き、評価してやったという建前へ憤りで心が千々に乱れていた。
     周りからは上昇志向のあるキャリアウーマンと目されていて、本人も常に仕事に全力で打ち込み、そして結果を出したいと望むタイプと自認しているが、ただ、しのぶは肩書きや場所にそれほどのこだわりはない。自分のやりたいことを望めばある程度の地位は必要だから警部補まで昇進はしたが、派閥に属して同期を出し抜き駆け引きや政治をしてまで出世をしたいわけではなく、公安一課だろうがSATだろうが所轄や交番だろうが、そして特車二課だろうが、現場での仕事に大小はないしましてや貴賤があるはずがない。ただ、二課はしのぶが一から立ち上げ、そして育ててきた誇りある部署であり思い入れはどうしても強い。墓場と勝手に呼ばれてい二課からしのぶが離れたことをめでたいと祝ってくれた警視庁の知人たちの善意が、しのぶにはやるせなく感じられた。もちろん後を任せた五味丘の手腕は高く買っているし、二課のことは異動で人員が変わっても壊れない組織にしたつもりだ。だが、二課に対するこの感情は、二課を嗤っていた本庁や所轄の人間には決してわかるまい。
     おそらく、しのぶと唯一この感情を分かち合っていたのは後藤ぐらいだ。ただ彼はひねくれているので、しのぶの異動についても「良かったじゃない」とたった一言祝ったあとは、事務手続きを進めるとき以外一切そのことに触れようとはしなかった。
     本当は寂しいんでしょ。あなたが私以外の人間と上手くやっていけるとは思えないけど。半年間の間、そんなこしゃくな言葉が喉元に上がっては泡となって消えていく。後藤は表情が見えず、見せようともせず、ただふぬけたカエルのような態度でいつも通りに過ごして、それで終わり。最後に互いの感情が溢れて手を延ばすとか、思わず手を握り合うこともなく。ただ、運ばれてきた桜の花びらが気まぐれに踊る駐車場で自分を呼び止め、とても美しい敬礼をしたあと、「元気でね」とだけ付け加えた。
     それが男の強がり方だったのだろう。なにも変えない、なにも付け加えない。あるいはしのぶが望むままの”信頼出来る”異性のまま振る舞って、こんな関係もともと特別じゃなかったんだ、あんただって分かってただろと笑って見送る。そうしてしのぶが後から振り返るたび、最後まで自分たちは相棒だったのだと言い切るための餞別でもあったのだろう。自分の奥底の気持ちは終始隠し通した振りをして、後藤はしのぶの前から消えた。
     
     後藤さんやめちまうんだってな。
     松井がわざわざフロアを移動してきてまでしのぶにそう耳打ちしたのは異動から半年後。ようやく残暑が去ってお堀の柳も枯れ始めた頃だ。しのぶが埋め立て地で汗をかいているあいだに警視庁は禁煙が徹底されていて、この半年間清浄な空気の中で働いていたので、松井の背広からあがる煙草の煙にくらくらし、同時に知っているものと違う匂いだと混乱する。
    「辞める?」
    「ああ。ま、今日まで警察機構に残ってたのが不思議な人だからびっくりはしないが」
     刑事の癖なのか、しのぶの表情や仕草から、後藤からなにも聞いていないことを汲み取ったのだろう。松井は廊下の壁にもたれかかると、
    「この前、組織犯罪課と二課で大規模な捕り物があったんだが、そこでヘマがあって、押さえる筈だったブツは全部貨物船に乗って海に出ちまったとかで。ただの密輸だったら大問題でもなかったんだがこれが米ソ絡みの話だったらしくてさあ。なら、作戦を立てた管理官殿なり誰かが腹切りゃいいのに、これ幸いと全部二課に押しつけた。って俺もさっき聞いたんだけどな」
    「それで後藤が……」
    「あの人のことだ、じゃあ課長と私で責任を取って、とでも芝居を打つと思ってたが。人間ってのはわかんねえもんだ」
     どうだろう。確かに後藤は福島を利用するための盾としか見ていない節があったが、一方で立てるときは立て、時に警備計画を共に練る上司として、後藤なりに尊敬している節もあった。なによりポーズとしてはともかく、まだ成人してない子供たちがいる働き盛りを平然と犠牲にすることはしない性格だ。最後の最後、自分も二課も、ついでに課長も守るすべがあるならそれを選ぶが、どれかひとつ、という局面に立たされたなら。
     しのぶは大きくため息をついた。鉛を飲み込んだように重くなった体が、そのままずるずると沈みそうになる。
     自分がまだ二課にいたならこんんな事にはならなかったのではないか。作戦が上手くいったという話ではなく、もししのぶが隣にいたなら、後藤はさっさと解決策を選ぶことをせず逆に出来る限りあがいてみせ、生き汚いところを存分に発揮してでも警察に定年までしがみつく道を選んだのではないか。
     後藤についてはしのぶはどこかで自惚れがあって、自分があの男の羅針盤、には遠いとしても、錨、あるいはもやい杭ぐらいの存在で、それぞれが背中で戦っていると知っている限り、互いにどこにもいかず、迷い思い詰めることはあっても間違えることはない。そして鏡映しでしのぶにとって後藤は、自分とそして二課という船を走らせるときの帆であったり六分儀であったりした。ただ。羅針盤ではなかった以上、縄がほどけた船を追いかけるすべはない。
    「――良い警官がいなくなるのは、辛いな」
     松井が色あせた声で独りごちた。
     
     十一月あの後藤喜一がついに辞めたと上層部が影ながら歓喜に沸き、二課はそれでも立派に任務をこなし、ひと一人いなくなったところで世界はなにも変わらないことを静かに証明して見せ、そしてしのぶは友人の結婚式で知り合った、明るくて気が利き、生きていくのに丁度よい鈍感さを持ち合わせ、善人であると自認している男と穏やかな恋に落ちた。平凡で裏表なく、企みもなければ戦いもない毎日を提供しあえる。それが、日常を分かち合うための最低限の条件ではないだろうか。
     
     今、しのぶは雨の音を背景にアイスコーヒーを飲みながら、後藤との再会がもし半年早かったなら、と想像をしてみる。平凡で優しい時間はすれ違いを埋めてはくれない。別居してから一年半の間の離婚調停は骨の折れるもので、年老いた母は心が枯れ果てて実家に帰ってきた娘にただ「今日は肉じゃがでいいでしょ」と笑ってくれたものだ。この世には確執しか築けない母娘関係もあるというが、自分はこの人の娘でよかったと思う。
     薬指にはもうなんの跡もなく、輝きも忘れた。あのしち面倒くさい名字を変える作業を一つ一つこなしていった程度には結婚することに高揚もあったし、悪い思い出だけではない。それでも最後また一人に帰ったのは、彼に恋はしていたが、結局愛してはいなかったからなのだろう。そしてしのぶはどこかではじめから、愛とはこういうものじゃないということも知っていた。そうだ、愛とはあのようなものではなかった。
     後藤との再会がもしもう少し早かったら、あの日後藤が見事な敬礼をして見送ってくれたのと同じ桜が葉桜に変わる前の新緑のころなら、おそらく男はしのぶと二言三言挨拶をしたあと、しのぶの指をそっと確認して、そそくさとその場を離れてそれきりだったろう。別居して離婚調停中とはいえ、民法上は婚姻関係であるからと、しのぶは薬指からリングを外すことが出来なかった。せめて未練であれば良かったのにと思いながら。
     しかし、後藤がしのぶを見つけたのは、離婚が成立しまた名字をひとつひとつ南雲に戻して、そして指輪を外して引き出しの奥へとしまった梅雨の頃だ。
     あの日も今日と同じ雨模様で、しのぶは宮益坂の近くから渋谷駅に向かって急いで下っていた。滅多に利用しない見知らぬ街は、たいした移動距離ではなくても目的地までが妙に遠く感じる。大学のころ、なぜか渋谷が苦手だった。しのぶも普通の女性だからファッションにも流行にも興味はある、が、流行をセンスと言い換えて競い合うような街のエネルギーはしのぶには全く合わないものだった。今の渋谷は再開発が進んでガラスに包まれたいくつもの高層ビルが雨に濡れて鈍く光り、あの頃のエネルギーはもうないように感じる、それとも街のエネルギーは若い時にのみ感じられるものなのかもしれないが。
     ザーザーと車の音をかき消すほどの雨で目の前がかすむ中、急ぎながらも足をアスファルトに取られないように気をつけてしのぶは坂道を降りる。鞄には先ほど引き取ってきた、母から譲り受けて直しに出していたブローチが入っている。繊細な彫りにスワロフスキーのビーズが飾られたそれは母の持ち物の中でもひときわエレガントなもので、結婚するときに母親が幸せを願ってしのぶにお守り代わりに託したのだ。それの一部が、結婚して一年も経ったころ欠けたのも、思えば後の結末を示唆しているものだった。その後いつか修理しようと箱に入れ引き出しにしまい幾年も過ぎ、先日指輪をしまい込むときにようやく、引き出しから出されたのだった。
     防水加工がしてある合皮のローファーであっても靴の中がぐちゅぐちゅと鳴っている、帰ったら速攻で新聞紙をねじ込まなくては。今日しか取りに行ける日がなかったとはいえ、あまりの運の悪さに舌打ちしたくなる。このブローチが壊れたときも舌打ちしたくなったし、警視まで昇進したにもかかわらず自分は課長補佐のままで、男たちは男というだけで次々と出世していく本庁の風景にも舌打ちをしたし、シフトの仕事からは異動してほしい、そして女性として当たり前程度に家事をしてほしいと暗に要求してくるようになった当時の夫の態度にも影で舌打ちしたし、ついに女というだけで仕事のミスをすべて押しつけられた警視庁に愛想も尽きたとき、大学の同期だったヤメ検から、開設する弁護士事務所を手伝ってくれないか、と誘われ乗ることにした、というしのぶの決断に「せっかくの地位を棄てるのか」と反対した元夫の言葉と態度を、離婚調停中に思い出しては何度も舌打ちしたくなった。不幸だとか運が悪いとかいうつもりは毛頭無いが、それでもこんな土砂降りの夕方に靴下がびしょ濡れになっているときは、少しだけ自分を哀れみたくなる。
     あと少しで宮益坂のJRの入り口が見える。そこから階段を昇って長い廊下を歩いてそして京王線の入り口を通って……。
    「しのぶさん……?」
     雨音に溶けるほどの低温な声だというのに、しのぶは反射的に振り向いた。坂を上ろうとしていたらしい黒い傘、自分と同じぐらい悲惨な革靴と靴下。こけた頬、枯れ果てた風貌、白髪が目立つ髪。そのくせ気配だけはあのときのどこか生々しいままで。
     自分から呼びかけたくせに、しのぶに声が届き、さらに振り向かれたことがよほどびっくりしたのか、後藤は目を見開いたあとごにょごにょとした調子で、いや、赤い傘がとかなんとか言った。

     後藤が自失していたのはほんのわずかなことで、すぐにしのぶの状況を上から下まで見ると自分に付いてくるように言った。なんでも宮益坂そばの駐車場に止めた車を取りに行くところだったという。 
    「乗せてくれるっていうの? 悪いわよ」
    「俺だって濡れ鼠なんだから、大して変わらないよ」
     そしてしのぶの答えをまたず、こっちと促しながらさっさと坂を上っていく。優しさや不器用ゆえなのかもしれないが、人を思い通りに操るのが相変わらず得意とも言える。現にしのぶはこの靴の状態であの長い京王井の頭線渋谷駅の改札まで歩く苦労を思い出し、どこかむすっとしているようにも見える顔で後藤のあとをついて行った。
     当たり前ながら後藤の車は昔と変わっていて、しかしこの男に似合うセダンだ。言われるままに助手席に収まって一息ついた後、なにか強い違和感があるなと無意識に眉を顰めてしまう。そんなしのぶに運転席に座った後藤がはにかんだ。
    「たばこの匂いがしないから?」
     その一言だけで、十年という年月の長さを知ってくらくらする。だって後藤の隣に収まって車のエンジンが掛かったこの瞬間は、まるで昔のように感じられるというのに。
    「もう五年は吸ってないよ」
    「五年も? あなたが禁煙だなんて」
    「俺だってまだびっくりしてると。……でいまの住まいはどのへん?」
    「実家よ。……戻ったの」
     後藤はたった一言でしのぶの十年を簡単ながら推測したらしく「それはお疲れ様だったね」と雑に労ってくる。
    「過ぎた話よ」
    「そうだろうね」246号線に出る大通りでウィンカーを出して、タイミングを伺いながら後藤は続けた。「それに離婚ってさ、一回でもう一生分のエネルギーを吸い取られちまった感じがするから、もうやりたくないし、思い出したくもないな」
     しのぶは目を丸くしてまじまじと後藤の痩せた横顔を見た。はじめは無表情に淡々と言っていたが、信号が変わり、無事大通りの流れに合流したところで苦笑いに崩れた。「十年経ってるんだよ、しのぶさん」
     しばらくはワイパーのリズミカルな音と、車体を叩く雨音だけが社内に響いた。
     十年。自分も結婚して離婚しているのだし、後藤の人生にも三六五〇日分の経験が積み重なっていて、そこの一部分に結婚生活があっても不思議ではない。いや、不思議ではないが驚きはある。この後藤もまた、自分と同じように恋に落ちて人生も共にしたいと思う人と一度は出会ったのだ。たとえ不幸な結末を迎えたとしてもそのことは良かったと理性が祝福し納得する一方で、もやのような気持ちが心の底の方に貯まる。しのぶはなにを言って良いのかが分からず、最後は身体を背もたれに預けた。
     間もなく夏至が近いというのに雨雲に覆われた街は薄暗く明度も彩度も低い。濡れて多様な灰色に光る街道を車はまず西に進む。二人とも押し黙ってはいるが、居心地が悪いわけではなかった。そもそも後藤と二人きりでいたとき居心地が悪かったことはあまりない。こんな酷い雨の日に軽井沢に閉じ込められたときもそうだ、いたたまれなかったし戸惑いもあったが、いやな感情は湧かなかったことを憶えている。あの日は白昼夢のようだが、そのくせ些細な記憶が鮮明で、なにより誰にも言えない二人だけの秘密が生まれたと自覚したとき、なぜか酔うような気持ちを抱いたこともはっきりと憶えているが、そしてそれは、しのぶだけの秘密だ。
     いまは互いに、言わなければ知らないことと、言う必要もないことばかりがある。
    「……いい父親になれるつもりだったんだけどね」
     後藤がそう切り出したのはあと一〇分ほどでしのぶにとって見慣れた街角に出るところまで来たところでだった。沈黙に耐えかねて、というよりは、長く長く思案した末に別にいいか、と切り出したような様子だ。
    「意外でしょ?」
    「そうね、あなた、父親も向いてそうに見えたのに」
    「そうなの?」
    「自分で意外かと聞いてきておいて、その反応はなによ」
    「いや……うん、こうさ、義理っていうのは難しいもんだったし、で、前の奥さんは俺にはもったいないぐらい賢くて良い母親だったから、自分から目を背けてる人には無理よって」
     最後は無意識にかその元妻の声真似になったようで、ハキハキと話す人だったことがうかがえた。
    「素敵な人だったのね」
    「いい女だったよ」
    「……たぶん、そういうところよ」
    「だよね、たぶん、こういうところだ」
     相変わらず厳しいな、と決まり悪く笑う後藤はしわが増えた他はなにも変わっていないように見えて、しのぶは一瞬だけ目が離せなくなる。そのとき、車が止まった。
    「着いたよ」
     横を見れば見慣れた門構えがすぐそこに見える。雨は小降りになってきていて、いよいよ街は夜に落ちていくところだった。
    「ありがとう。……って、やだ私ったらうっかりしてた、思えばあなた、いまどこに住んでるかも知らないのに」
    「そこは気にしないでいいから」
    「でも……」
    「じゃあさ、今度コーヒーでもおごってよ」
     それでチャラでと軽く口にするが、今度、なんて思ってもないに決まっている。
    「あんみつも付けてあげるわよ」
     だからわかりやすく嫌みを込めてに返すと「しのぶさんもコーヒーにあんこ派? あれ合うよね」と返してくるからまた憎たらしい。
     そしてほんの五秒ぐらい二人して雨音を聞いたあと、意を決してしのぶがドアノブに手を掛けたときに、後藤が「あ」と引き留めた。ちょっと待って、と後ろの席に手を伸ばしてセカンドバッグを掴むとなにかを取り出してこれ、と差し出してくる。
    「名刺……?」
    「一応ね、お決まりだし」
    「お決まり、ね……」
     平凡な用紙に定番の書体のよくある名刺だ。しかし後藤喜一という名と携帯番号しか記していないのがなにかうさんくさく感じるし、逆に必要最低限の情報しか記載していないのが後藤らしいと言える。本庁から誰が来ようが最低限の礼儀しか示さなかった男が、さも常識人のように差し出してきたお決まりとやらをしのぶは黙って受け取ると、自分も鞄から財布を取り出して、後藤の名刺をとりあえず収めながら、代わりに予備に入れている少し曲がった名刺を一枚男に渡した。ありがとうと受け取った後藤はピントを合わせるように紙を動かして、口の中でなにかを呟く。しのぶの今の肩書きを読み上げたのかもしれない。しかしそれ以上はなにも触れず、名刺を無造作に胸ポケットにしまった。
    「それじゃね。お母様によろしく」
    「ええ。……また」
    「うん、また」
     また、なんてからきし信じていないことを隠さないで後藤はおざなりに手を振る。なのに車を降りて一度振り向いたときこちらを見ていた目は昔時折覗いた色が滲んでいて、しのぶは今度こそ何も言えずにただ手だけ振りかえして門をくぐった。
     その視線を思い出したくはなかった、どうにか解体して仕舞ったものがまた構成されてしまいそうになる。このまま一度の偶然で終わらせれば思い出はそのまま揺らがない。しかし、今は名刺が一枚、鞄のなかにある。ゆるやかに伸びる糸のように。
     
     後藤と会うのは再会も含めて三度目だ。二回目はしのぶがSMSを使って呼び出した。散々考えたが、やはりどうしてもあの日のお礼をしたかったのだ。
     文章のやりとりだから後藤が実際どんなリアクションをしたかはわからないが、「それじゃあごちそうになろうかな」という一が返ってきたとき、しのぶはまずほっとして、次に自分がけっこう緊張していたことを自覚した。「じゃあ、あなたの職場のそばの喫茶店にしましょう」と提案したのに、「だったら俺がそっちに行くよ」と本末転倒なことを言い、押し問答の末男は実際にまた成城まで来たのだった。
     そこまで今の地元や職場を知られたくないのかと訝しんだが、後藤曰く警察を辞めた後はしばらくタクシーの運転手をしていたが離婚後は探偵の免許を取ったうえで、一人顧問探偵のまねごとをして毎日東京を走り回っているから、出向く方がスケジュールなどを決められる分動きやすい、ということらしい。案外依頼は途絶えないもんだよ、とちょっと得意げだったが、しのぶはそこよりも驚いたことがあった。
    「あなたがタクシーの運転手ですって?」
    「そんなに意外かなぁ」
     最近のタクシーは基本禁煙でさ。なんてそんな話を小一時間したのが今から一月前。
     
     からん、とアイスコーヒーの氷が鳴った。コップは汗を掻きコースターに一筋、また一筋と水滴が吸い込まれていく。まだ冷たいそれを一口飲んでから、もう湯気も消えたコーヒーをちびちびと飲む後藤に向けてしのぶは慎重に口を開いた。
    「……今だから、だけじゃ納得出来ないわね」
     そしてまっすぐ後藤の方を見る。ガラスのドームの中にきれいなまま閉じ込めたあのころをあえて壊すというなら、逃げることもごまかすことも許したくない。呼び出しに応じて、こうし向き合ったのなら、私が私であるためにもすべてを受け止めなければ。そうして強い覚悟がしのぶの中に蒼い炎のように生まれる。
     雨に包まれた喫茶店が潜水艦のようになる。出口がない中、後藤は右の指で何度もリズムを取って、あさってを見ながらしばらく思案していたが、やがてカップを手に取り中身をいっぺんに煽ると、あのさ、と少しうわずった声を出した。
    「……五十過ぎた男が、って自分でも思うけど、俺ってさ、あのころから、いや、もっと前からか、愛って言葉があんまり得意じゃなくてね……なにが愛なのかよくわからないんだ、それを愛と言って良いのかって」言いながら徐々に背中らが丸まり、猫背に誘われるように視線も下へと向いていく。「でも」とまた姿勢を正して、大きくつばを飲んだのが喉仏の動きでわかった。
    「もう、言わない狡(かしこ)さを、恥じたくはないんだ」
    「……それが愛かが、わからなくても?」
     どこかから、ひびが入る音が聞こえる。
    「あれが愛でなかったんなら、多分俺の人生の中に愛ってやつはなかったんだよ。……ただ、名前を付けると陳腐になっちまいそうで、それが怖かったんだろうな」
     ガラスの中で止まっていた時間が、解き放されようとしている。おそらく、あと一言で。
    「……陳腐になるのは変わらないじゃない」
    「そうかもね」後藤は清々しい様子であっさり認めてから、ねぇ、と見上げるように頬杖をついて「でもさ、俺たち、たぶん呼び方で変わるような関係じゃないんじゃないかな、足されるものがあるだけで。……きっとあのときから、ずっと」
     言葉だけ聞くとなにか確信している風なくせに、実際は何かを障りながら確かめるようにどこか弱く笑う後藤の頬にしのぶは手を伸ばしたくなる。そして、頬の代わりにそっと後藤の指を自分の指でなぞった。
     一月前にお礼と言い訳をしてお茶をしたとき、いや、あの日偶然車で送って貰ったとき、寂しいと感じてしまった時点で、とっくにあの世界を包むガラスは割れてしまっていたのだ。あの満ち足りていて、美しく、そしてなにも変わらないままに閉じた小さな世界から外へ、ついに二人で出ていく。あの場所には二度と戻れないし、先になにが待っているのかは、まだわからないけれど。
    「……十年分遠回りした甲斐はある、ってあなたは言い切れるの?」
    「それはこれから分かることだよ。……でも、しのぶさんはいまが一番きれいだ」
     いつでも今が一番きれいだよと、後藤はもう一度、大真面目に言った。
     
     いつも通りコーヒー一杯ずつで会計を済ませ外に出ると、雲は潤色から白花色に変わり雨はかなり弱くなっていた。これから秋が深まるにつれて街が枯れ葉の暖色に染まっていく様子がしのぶは好きだった。新緑が芽吹き花が咲き、盛りを過ぎて枯れていって、そして澄む空に枝のみを広げるまでの移ろいはすべて美しい。
     今日はもう帰るよと後藤は言った。なんでも用意していた言葉を全部伝えたことでエネルギーを使い果たしたからとのことだが、本当のところはいったん一人になりたいのだろう。それはしのぶもお互い様で、二人で生きていこうと手を取り合ったからこそ、どんな顔をしていいかわからないのだ、あるいはどんな風に話をすればいいのかも。ただ、これからぼんやりとした温かいものが胸の中に生まれて、苦しいことも平凡も悲しさもすべてそこに収まっていく予感だけがあった。
     二人黙って駅に向けて歩いているうちに雨はついに止み、道行く人が次々と傘を畳んでいく。しのぶも自分の赤い傘を畳むと、同じタイミングで傘を仕舞った後藤が無言のままそっと手の甲をしのぶの手の甲に合わせてきた。かさかさと骨張った甲をなぞるように手を滑らせてそのまま手のひらを合わせて、緩く手を繋ぐと、後藤の手の大きさを初めて知って、途端にのぼせるようになった。
     いまこの住宅街を歩いている人たちから見たら、二人はほんの少し疲れた平凡な夫婦に見えるのだろう。実際はいい大人同士でも手を繋ぐまで十年もかかった、面倒な二人なのだと思うとおかしみも感じる。さっさとキスでもしていれば良かったのかもしれないが、これだけの遠回りをしないと、きっとこれから育つこともなかったのだ、きっと。
    「……近々さ、夕飯食べようよ。代々木上原に美味い店があるんだ」少しだけ握る手を強めて、後藤が前を向いたまま言う。「あそこのがんもどきは絶品だよ」
    「構わないけど、その前に、いつも小田急の駅でなくてもいいのよ。私がそっちに行っても」
    「いやいいよ、今は西日暮里だから一本だし、俺は定時がないようなもんだから、しのぶさんが楽なほうが俺も気が楽だし。それに」
     スクランブル交差点を渡って、駅の高架についたところで二人の手が離れる。手のひらからまた寂しいという感情がやわらかく湧いたところで、後藤はしのぶの斜め前に立ってさわやかに笑った。さわやかなところを見たのは初めてだが、この見上げる角度はとてもよく知ったものだった。ああそうだ、この角度だ。
    「代々木上原ならしのぶさんも長くいられるでしょ。……ゆっくり話そうよ、これからのことを」
     駅前の街路樹の横で、多くの人が足早に自分たちを追い越していく。もう少しで電車が来るのだろう。だからしのぶもここで「そうね、じゃああとでメールするわ」と見送ればいい。しかし、しのぶはスクランブル交差点を背に脚を止めて昔と同じ角度で後藤を見上げた。
    「いっそ明日は?」
    「明日か……、そうだね、ちょっと予約取れるか聞いてみるわ」
     鞄から電話を出して早速、あ、どうも後藤ですと話し始める男の横で、しのぶは明日は仕事を早く上がる算段をしないとと計算し始める。これからどんな風に話せばいいかはわからないし、話さなければいけないことは山とあるが、まず、もう少し大切なことからこの人と話をしたい。例えば、あなたとなら多分、生きていけるとか。

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:46:46

    テラリウム

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    軌道が離れていって手を振り月日が経って、雨の日にまた軌道が近づく話です。五十代×四十代。 あれから、そしてこのさき。

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