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    しおり
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    しおり
    ドッヂボールの様にさ 大人の分別というのは、他人の領域に立ち入らないことだと、いつの間にか学んでいた。家族でも友人でも、誰もが必ず白線を引いている。見える見えないにかかわらず、踏み越えてはいけないし、重んじらなければならない。立場と距離が、社会を整理している。他人はもちろん、ましてや仕事の同僚や、そして上司に至っては。
     初めの顔合わせで挨拶されたときの上司の印象はどうだったろうか。五味丘はたまにその瞬間のことを思い出す。例えば夜勤明けのまだ人のいない街を一人帰っているときや、南雲に現場を任される程度の小さな事故の処理が終わった後などに。
     急増する犯罪に追われるように立ち上げられた部署への異動を志願したのは、誰かがやらないと行けない仕事だと理解し、またまっさらな部署なら思う存分仕事が出来、評価も得られるという野心からだ。実際揃った顔ぶれは機動隊などで揉まれた覇気溢れるものばかりで、新進気鋭のエリート部隊と呼ぶに相応しいものだった。そんなホープを率いることになる警部補は、背筋を伸ばし、眉間に力を入れ、気の強さを隠そうともせず、涼しげな声で鋭く檄を飛ばしてきた。いわく、日本初、いや、世界初のこの部署において、我々の働きがこれからの社会とレイバーのあり方すら変えるのだ、我々の部隊は選び抜かれた先鋭として、この重責を担い、そして見事期待に応えられる力を持つ、と。そして着任の挨拶のあと、「あなたが五味丘巡査部長ですね」と言われたときの声はいまも鮮明に耳に残っている。この穏やかな声のなかに、先ほどまでの熾烈さを収めているのかと。彼女もまた、戦って勝ち抜いてきた、一流の戦士なのだ。
     肩で風を切り、決して弱音を吐かず、部下のために体を張り、無駄口はたたかない。ましてや部下相手に私生活のことなどなにも語らない。女性で警備部の前線である隊長職に任命されるだけあり優秀で冷静で、恐ろしく頭の切れる人だ。考えを明瞭に語り、経験を重んじ、外からの評価の意味をよく理解し、またそれを重く見る姿勢は五味丘ら隊員たちとよく似ていた。選良という意味をよくわきまえているのだ。
     階級ゆえとはいえ一番近い部下として自然と南雲の片腕のような位置につき、パイソンをどうにか運用しながら共に働くうちに、上司に向ける尊敬と、人間に向ける情愛と、女性へ向ける愛情の境目がすべてあやふやになる予感を抱えていた。――はじめの半年のころの話だ。

    「なに、南雲さんならさっき本庁に出向いたけど、俺の判子でも大丈夫なやつ? 確か直帰のはずだから、呼び戻すのも悪いんだよね」
     夕日を背にのらりくらりと言ってくるもう一人の上司に、五味丘は「いえ、急ぎではないので明日出直します」と礼儀的に頭を下げた。
    「あっそう。それじゃ、お疲れ様」
     後藤は五味丘の用事にも五味丘本人にも興味なさそうに気の抜けた労りの声を掛けて、また目の前の書類に目を落とした。影になり、読みにくい表情はいっそう理解しがたい。礼儀で頭を下げたとき、机の上で頬杖をつく男の時計が夕日を受けてきらりと光り、脳裏に先程の風景がありありと浮かんでくる。
     なにかの反射光に気付いて目をやった先、半開きのドアの向こうで交わされていた小さなラブシーン。
     差し込む光を背にシルエットが強調された光景は古い欧州の映画のように現実感がない。相手の肩を抱いてスマートにキスをする男も、夕日に照らされたような頬で困ったように相手を小突く女の顔も、どちらも知らない人のようだった。キスをしているとき、彼と一瞬目が合ったように感じたのは、獣の縄張りに踏み込みそうになったものが感じる本能的な怯えだったのかもしれない。その証拠なのか、足跡を立てぬようにその場から去って、最初に感じたのはなにかから逃れられたという安堵感だった。
     いまだってそうだ、南雲がいないことは承知の上で、さもそれを知らなかった振りで部屋へと向かい、熊に勝負に挑むかのような心持ちで相手の前に立ったのに、実際はどうだ。「失礼します」とドアを閉めてため息をつく。なにをしているんだか、と、どこかの世界にいる自分から呆れたように突っ込まれる声がした。
     いまでこそ昼行灯と影で呆れられているが、もともとは警視庁一の食わせ者と評判だった人だ。自分に秘密を知られたところでなにも動じず、これからもなにも変わってない振りをし続けるだろう。そもそも相手にするつもりすらない。
     はじめはともに頭を抱えていたはずだ。部下をもったこともない元公安に何が出来るのか、といらいらと呟いてから「すまない、会議の疲れだな」と弱く笑う南雲に、「いえ、お手並み拝見と行きましょう、アスカは癖の強い機体ですから、新人相手では思ったように運用が出来ないと早々と泣きつくかもしれませんよ」と爽やかに答えたのはいつのことだったか。そもそもそのとき、操作系が全く違う九八式の運用のため、第一小隊に向けて再訓練期間が示されていないことを疑問に思うべきだったのだ。異動してきた男は南雲に対しても自分たち隊員に対しても冷たい目を隠さず、パイロット候補一人を八王子に送り込んだから当分四人で回します、と異動の挨拶のあと開口一番に伝えてきたのだ。
    「新型機は全く新しい設計で作られており、その実験的な性格により、既存の隊ではなく新設の第二小隊に運用させデータをとる、つまり私の隊は寄せ集めのモルモットってわけですな。南雲警部補、祖父江課長からお聞きになってない?」
     すっとぼけたとはまさにあのことを言うのだろう。黙って聞いていた南雲は唇を少しだけ噛んだあと、努めて冷静で色のない声で「いえ、残念ながら伝達の行き違いがあったようですね、しかし上層部の意向は理解しました。……宜しくお願いします、後藤警部補」と真っ直ぐ男の目を見て返したものだった。
     あのときは間違いなく、五味丘と南雲は同じ場所にいた。公安で冷血と言われたままの腕を振るい、第一小隊どころか二課全体を駒として使い、同じ苦労を強いられている同僚のことも気にも留めない。部下への指導も適当にみえ責任感に乏しいのではないかと疑うが、だがしかしアスカを使って最低限の方法で事態を収拾させてくる程度には腕が立つ軍師。あれはいつの頃だっただろう。八王子から五人目の第二小隊隊員が正式に赴任してきたあたりだったか、それとも祖父江前課長が辞職をする直前だったか。本庁への会議の後、いらいらと机を叩きながらため息をつく南雲に労りの気持ちを込めて缶コーヒーを差し出したら、ありがとう、と微笑まれてから、ふと弱い顔を少しだけ覗かせて、「いろいろさらけ出しすぎとは、情けないものだな」と自嘲するように笑う。「本庁の警備部に行った同期から後藤警部補の評判は聞いていましたが……」と思わず相づちを打つと、南雲はふと意外だという目を向けてから、今度はなにか納得するような顔で「でも、上手くやっていけそうよ」とだけ言った。そういえばあの頃だ、隊長室へと後藤がコーヒーメーカーを持ち込んだのは。たまに上司と缶コーヒーひとつ分だけ分け合っていた時間はそうして静かに消えていった。
     新型機と新人が赴任してきて、二隊体制が本格的に稼働し始めて、二課全体が全く違うリズムで動き始めたころから、例えばコーヒーメーカーのような小さな変化が起こり始め、いつしか職場で一番近い位置にいる人間は部下から同僚に移り、上司は同僚にだけ色々な面を見せていく。強く当たるのも笑うのも弱音を吐くように微笑むのも、いまはすべて同僚の前でだけだ。
     初めから気付かれることもなく、あの人にとって名前がついたわき役でしかなかったのだとはっきり示されて、いっそ清々しいほどだ。
     ただ、引かれた白線の中に入って一人すべてを知ることを許された男の目を思い出すと、とほうもなく羨ましくなってしまった。
     この路傍の石のような感情も、明日にはきっと、もう消え失せているはずだろう。



     家を訪ねてきたしのぶはどこかしらむっとしていて、礼儀と実用を兼ねて軽くまとめた髪をほどく姿もどこかとげとげしている。心の中で悪態をつきながらずっとそれを押し殺しているのだろう。
    「この前の資料、役に立たなかった?」
    「資料はおかげさまで役に立ったわよ、ただあの黒いレイバーに好き放題やられて一番悔しいのは現場だっていうのに、あの狸どもときたら」
     イライラとした気持ちを隠さずに早口で気持ちを吐露しながら、しのぶは遠慮もなくブラウスを脱ぎ、引き出しを開けて、そこから出した柔らかい肌触りのシャツに着替えていく。この家に近所の量販店の部屋着や寝間着が増えるたび、後藤はこのタンスの引き出しが一杯になったらついに一緒に住んでくれるかな、なんて甘い想像をしてしまう。一応向こうの母親も承知した付き合いなのだしもういい大人同士なのだから、このまま同棲してもよさそうなものだが、真面目な恋人はけじめというものを大事にしてそれを良しとしないし、後藤は後藤で、結局そういうところに惚れてるのだった。
    「先にお風呂入れば? その間にうどんでも用意しておくよ」
    「悪いわね」
     少し弱っていることを隠さないまま笑みを浮かべて礼を述べたあと、しのぶは忘れていたとばかりに腕時計を外す。フェイスが蛍光灯でキラリと光ったとき、後藤は不意に今日の夕方のことを思い出した。
     お偉いさんたちが後藤ではなくしのぶばかりを本庁に呼び出すのは、勤勉だからとか彼女の顔を立てるとか創立から関わっているからとか、そんな真っ当な理由より先に、人としてまともなぶん、まだ後藤よりはやりこめやすいからなのだろう。実際二課に飛ばされたばかりのころは、細かいことを理由にして嫌がらせのように本庁に呼ばれることを逆手にとり、後藤から海法警備部長をはじめとした政治しかしない上司たちに攻撃をしかけて、ときには自分たちの都合のよいように物事をもっていったりしたものだから、気がつけば後藤の希望通りに向こうが後藤を避けてくれてるというわけだ。
     しのぶもそれをわかっているからか嫌みを言いつつ職務を果たしに桜田門に出向き、そのたびにやっかいないらだちや扱いにくい憤りがたまっていっているのが端からも手に取るようにわかる。さらにいうならここ数回の会議は、定例会議と違って上の都合と力学が如実に表れるタイプのものだからなのか、表面では普段どおりに仕事は仕事だという割り切った顔をしながらも、それでもどろどろとたまっていくやけくそがちらちらと目の端に浮かんできていて、それでいてしのぶ自身それをごまかすことも出来ないようだった。
     夕焼けが空気を染める隊長室で、二課に降りかかったここしばらくの出来事も相まって、ストレスがたまっている彼女に少しでも息抜きや気晴らしを、という言い訳で向こうが私服に着替えた瞬間抱きしめる。たわいないふれあいを装うことで彼女の気持ちが少しでも晴れるといい。いや、なによりも後藤自身が、もう見守るだけではいられないのだ。優しくするが甘やかさないが人付き合いのモットーだったはずなのに、しのぶにだけはどうしてもそれが出来ない。そして隙だらけのしのぶの耳に口を寄せて、恋人曰く「普段のだらしなさとは打って変わった甘い声」で家に誘ったとき、ドアの向こう側に間違いなく誰かの気配があった。
     恐らくは。
     そうひらめいたと同時に無意識に、そしてスマートに唇を奪う。しのぶにはわかるまいが、蝶を捕らえていることを知らしめたいどす黒い欲望と、決してこの美しいものを離さないという醜い独占欲ぐらいは、後藤にだってある。期待も希望もほどよく手放した中年のおじさんという風体であっても、願い、焦がれて、そうしてついに手に入れた喜びに執着するなというほうが無理な話だろう。
     彼女は、自分の時計が一瞬夕日を反射して廊下の奥にいる誰かを指し示したことも、そしてそれが誰かも知らないままだ。恐らくはとても疲れていて、アンテナがすっかりさびてしまっているのだろう。その証拠にいつもなら抱きしめようとしただけで手を突っぱねて拒絶され、ここは職場だとか仕事中だとか互いの立場をわきまえろと怒るというのに、今日は唇に触れるささやかなキスのあとでさえも、少しだけ困った顔で軽く胸を小突いてきただけだった。
     思えば異動してきたときは、感情が素直に出るが、それでもつっけんどんとした仏頂面だと思っていたものだ。警備部一の跳ね馬で、面子よりも道理を優先する高潔な彼女の横には、自らの才覚を自覚しているゆえ高慢さを隠しきれない部下が付いていて、事務的な親切さでまだ部下もいない後藤に最低限のことを教えてくれた。もうすでに懐かしい日々だ。

     それじゃお言葉に甘えて、と風呂へと向かったお疲れのしのぶのために、月見うどんの用意をしながら、五味丘くんもまさか季節が回っていくうちに人間関係がこうなっていくなんて思いもしなかったろうなあと、後藤は少しだけ労わりの気持ちを持つ。五味丘はしのぶにとって文句なく理想の部下だろう、忠義もので、彼の上司より少しだけエリート意識が強く、少しだけ強く地位に縛られて、少しだけ融通か利かない男。誠実さという美点が自制という美学へと続き、そして学級委員は学級委員のままだった。
     まあ真面目な奴だしそれでいいんだろうなあと思っていたが、今日、書類を持って出直してきた時の、持て余す感情をどうにかにして噛み潰すような目を見て、やはり「男」であったのか、と後藤は内心でへぇと感じ入ったものだ。だからといって特になにをするわけでもなく、ただ、欲を自覚している男に対して、同じ男として、目の前で翻って舞っていく外套の残像のような感傷を、一瞬だけ共有したくなっただけだ。
     昇進を望めば間違いなく警部補になれるだけの才覚を持っていて、いつか後藤の地位を食って替わってやるという野望を隠しきれないのだから、そのあっぱれな姿勢に相応しいお嬢さんとその内幸せになるだろう。その時には元上司の夫として祝いの祝電を打ってもよい、あまり歓迎はされないだろうが。
      元上司の夫。そんな想像をするたびに後藤の胸はほのかに暖まる。あのころの自分に、いま家にいる女性の名前を教えたら目を丸くして、次にありえないと冷たく笑うことだろう。後藤にとってしのぶは勝手の分からない異動先で多少は世話になる頭の固い女性警官でしかなく、彼女が異動するか結婚でもして退職するか、あるいはこのままなにも起こらないままに自分が年金を貰うその日まで、ただ、初対面、異動前に本庁顔合わせをしたときのように、まるでいらない土産物を見るような目で放っておいてくれればそれでよかったのだから。
     もともと人間に興味はあっても人に情を持ちにくい性格であったが、さらに警察官になって冷淡さと無関心を身につけてからは、いっそう孤独になじんでいた。
     いちいち人の悲しみや怒りを汲み取っていたら取り組むべき問題に迫れない、人々の事情は動機を探るのに必要となるが、世間に溢れるミステリー小説には悪いが動機は人の行動やその結果への説明でしかない。捜査に必要なのは客観視であり、どこまでも第三者でいることだ。元々が冷血漢である後藤にとって警察、特に前の部署は天職のようにも感じたものだった。もっとも、後藤の存在は警視庁一酷薄な組織であっても持て余されたし、後藤もまた自分が推し量っていたよりは遙かにマシな人間であると知った果てに、警備部へと島流しになったわけだが。
     結果として警視庁という組織にとっても後藤喜一という人間にとっても適切な人事異動だったと、数年経ったいまは心から思う。が、異動したときはさすがにさばさばとした心を隠さず、醒めた態度で着任の挨拶をしたものだ。初めまして警部補、この度異動になります後藤です。相手の名前にすら興味がないことを隠さない態度だったのだから、つっけんどんで当たり前だろう。

     慣れた手でネギを切りながら後藤はそういえばと斜め上、遠くへと目をやる。そもそも俺は、いつからあの人を名前で呼び始めたんだっけ。
     いつの間にか、自然に名前を口に乗せるようになっていたから、さすがの後藤も明確には憶えていない。いつしか後藤が名前で呼ぶ人は親戚を除けばただ一人になり、そして彼女が名前で呼ぶことを許すただ一人の男になっていたことが大事で、細かいことはあまり思い出せないのだ。
     ただ、しのぶに興味を持ったときのことはよく憶えている。
     正式に異動辞令がくだされ、埋め立て地で今はもう着慣れた派手な制服に袖を通し、互いに挨拶をしたあと。しのぶと五味丘から簡単なレクチャーを受けた後藤は後藤なりに礼儀をつくそうと、本庁の命によりしばらく四人での運用になるので、散々頼ることになるが申し訳ない、と頭を下げた。そのとき、しのぶの目が見開いたので、変だとは思ったのだ。
    「新型機は全く新しい設計で作られた実験機であり、優秀な第一小隊をその実験に提供することは躊躇する、とか上がいうので、なら新人をモルモットにしますか? と提案して通っているわけですが。……ひょっとして、南雲警部補、祖父江課長からお聞きになって、ません、か……」
     後藤はしゃべりながら、しのぶの目の光が驚きから怒りへと移っていく様子を見て、自分が祖父江や海法らに良いように使われたことを悟った。しのぶが本庁でいくつもの警備計画を仕切り、その実績を盾にして上層部に対しても容赦がなかったことは有名な話だ。女性が優秀で男の意に染まらないことがそんなに腹立たしいのだろうか。いま彼女は、自分にもたらされた屈辱をはっきりと自覚し、怒りが全身からゆらりと立ち上るようだ。身に付いた癖で、はたしてどう新しい同僚が反応するかと、後藤はどこか醒めた目でしのぶのことを眺めた。
     果たして彼女はただ唇を噛んだ後、「いえ、初耳です……。しかしそういうことなら承知いたしました」上げた顔にはゆらぎなど一つもなく、ただ瞳の黒茶に熾烈な色が重なり、炎のように恐ろしく跳ねる。美しい、とだけ思った瞬間、「宜しくお願いします、後藤警部補」と目にも負けぬ美しい声で、極めて冷静に挨拶をしてきた。昔は上にも逆らったというが、女性らしく社会が求める抑制を受け入れることで出世し、地位を固めた婦人警官。なるほど、昔のことは知らないが、これは働きやすい同僚らしい。
     と思ったのはそのときだけで、五味丘がバンカーへと向かい隊長室に二人になった瞬間、しのぶは後藤の目を真っ直ぐ見て、一言聞いた。
    「後藤隊長、その決定はいつのことです?」
    「いつ? えーっと異動が決まってすぐだから……半年ほど前、ですかね」
    「半年……」
     しのぶはまたゆらりと先ほど目に収めた熾烈さを前進にまとい、思案するように目を伏せる。上層部の意向を受け入れるからといってなにも感じないわけではない、良い子だからといって人形ではないないうように。新しい同僚が無意識に指を甘噛みしている様子に、後藤は珍しく、しなくてもいいはずの言い訳を口にした。
    「あの、俺も」
    「分かってます」すべてを言わせず、しのぶは再び後藤の目を鋭く見つめる、その冴え冴えとした光にすべての言葉が奥へと引っ込み、そしてすべての意識がその目に向く。しのぶは目の前の男の些細な揺らぎを気にすることもなく、鮮烈な声でぴしゃりと言い切った。「どうせ古狸どもがこざかしい小細工をしたのでしょ、やらせておけばいい。ならば両隊の装備が揃うまでそちらにはせいぜい役に立って頂きます、たとえあなたが、カミソリと言われてようが昼行灯と言われてようが」
     目前に現れた姿に、ひやりとする。
     研がれた刀のような鋭さを理性で制御して、刃こぼれをしようが相手に切り込むことに躊躇がない。美しい弧を描いたむき出しの細身の日本刀が不意に脳裏に浮かんだ、鞘はあるが使われることがない。大人たちは外でも内でも敵と味方とに囲まれ、心を折られ、大人になれとわかった風体でたしなめられながら、男も、女ならなおさら、鬱屈を嗜みと言い換えて生きている。
     しのぶもそういう風に男社会の大人の女性になったのだと、つい先ほどまで後藤は勝手にそう見ていた、慎みを第一とした普通の女性であり、後藤にとって一番扱いやすい相手だと。しかし実際はこうして一人、ここに流されてもなお、強くあれという規範のもと生きているのか。敵と味方を見極めて、怒りを手放すことなく、ただそれを向けるべき時を推し量るしたたかさを身につけながら。
     と、しのぶはその目を少し緩め、やや尊大にも見える微笑みを乗せた。「もっとも、素人なわけですからいつでも頼ってもらって結構です。私の隊は優秀ですので」
     さっさと一人前になってくださいね、隊長、としのぶは最後わざとらしく「たいちょう」と強調して、そして定時ミーティングなので、しばらく運用マニュアルに目を通しておいてください、と言いつけながら颯爽と部屋を出て行った。後藤は目の前の分厚いマニュアルと、まだまっさらなままの自分の机と、そして奥のしのぶの机へと順繰りに目をやって、そして最後に小さく吹き出してしまった。
    「仲良くやっていけそうじゃないの」
     なによりも、自分をただの新参者と扱うところが気に入った。そうだ、どんなあだ名で呼ばれようが、後湯自身は取り替えがきくただの警察官なのだ。ならばせいぜい楽しく働いていこうじゃないの、同僚が辟易しない程度には。観察と分類を雑に扱って、自信と倨傲を取り違えている自分の姿を鏡で突きつけられたようで、久しぶりに鼻っ柱を折られて、爽快な気分だった。どいつもこいつもバカばっかと思っているとき、大抵は自分もバカなのだ。
     相手が自分を置物と扱うように、そして自分も相手を置物程度に扱うぐらいで。そんな意気込みは、そのようなわけでわずか一日かそこらでそれなりの敬意を払うように、とあっけなく変更された。人事や職場を出世の道具としてしか使わないような上司はいらないからと追い出したころにはうっすらと信頼らしきものが生まれ、自分を荷物と呼びながらも敬遠も軽蔑もしない同僚への興味と敬意は、いつしか後藤に人間らしい暖かでやっかいな執着も呼び起こし、そして心の置けない同志のようになり、そして数少ない栄誉である、彼女の名を呼ぶことを許される距離へと至ったわけだ。

     そのとき風呂上りの声が聞こえ、つらつらとした物思いはそこで中断された。
    「ねえ、卵は半熟がいい? 固めがいい?」
     大声で聞きながら後藤は冷蔵庫を開ける。卵と一緒に、作り置きのきんぴらを取り出しながら、さてふたりでビールを開けるかそれともアルコールは控えようかと考えているうちに、後藤は小さく鼻歌など歌いだす。何時の日常を愛せよ、すなわち愛すほどに平凡な日常が、ついに後藤にもたらされたのだ
     しのぶのほうがいつ後藤に興味を持ち、そして名を呼ぶ権利を与えようと思ったのかは後藤にはいまだにわからない。ただ、今は単純な事実こそがすべてで、つまりこの家には風呂上りのしのぶがいて、二人で月見うどんを食べた後、いたわり合い愛をささやき合って、最後はくったりと疲れるまでむつみ合う。弱音を吐いて恥じる顔も、不意打ちのキスに丸くする目も、快楽に流されて出すあられのない声も、おだやかな沈黙を分かち合うときの静かな笑みも、いまはすべて後藤としのぶだけのものだ。
     

     
     夜中に目を覚ましたとき、見える天井に知った木目がないことに、たまに混乱をすることがある。次に横にある体温が伝わってきて、そしてやや湿ってくたびれた布団の肌触りと、いくぶん薄れたがまだ濃い煙草に燻された部屋の匂い。
     真面目な男女の付き合いとなった人はこれで三人目だが、誰であっても人の部屋に泊まるのが苦手だった。知らない部屋、自分のテリトリーではない部屋で眠り、朝を迎えるのはなにげにストレスが多い。警察官になって夜勤や出張が増えたことで、枕が変わったら眠れないということはなくなったが、それでもプライベートな場所で一人すべてを投げ出して休むという行為は、しのぶには欠かせないものだ。そして表裏一体ではないが、相手の家にお邪魔して、相手のプライベートに一時的でも飲み込まれるのもまた苦手だった。
     人と付き合いたくないわけではない、友人も多い。ただ、恋という状態にあるだけで、プライベートも心もふいに覗き覗かれる関係が築かれることに、どうも抵抗があるというだけだ。
     ころりと転がって横を見れば、後藤の背中が一定のリズムで盛り上がりへこみを繰り返していた。自分と後藤は全く違うが、ささいなところが似ていたりする。
     例えば、後藤もある程度一人の時間と空間がなければまず平穏にはいられない男だ。たまに仕事上がりに酒を交わしながら、しのぶは後藤の見たとおりの孤独に勝手なシンパシーを感じていた。気になる女性にアプローチを掛けて、親しくなり、そして外で恋人のように酒を酌み交わすまではスムーズであるのに、決めた一線から先へと踏み込むことには恐ろしく慎重になる。
     それは大人だからであり、臆病と慎重とがそっと袖を引くからであり、そして自分の城に人を招くことが可能かというのを執拗なまでに検討するからだ。人を深く愛し愛を受け入れることと、空間や時間つまりは日常を分け合いその境界線を曖昧にすることはまったくもって違うことで、どちらもとても難しい。そのことを理解している後藤は、女という性別への幻想と、恋愛という物語への幻影と、その二つを理解したうえでしのぶに戯れのように視線をよこしてくる。一人でいたい同士として、気兼ねなく付き合うには文句のない男といえた。
     その均衡が壊れたのは夏の幹部研修だ。あの一夜は格外の出来事であり、本来なら起こりえない特異点のようなものであり、無視してもいい出来事であった。後藤も同じように考えていたのだろう、東京に帰ってからは、まるでなにもなかったように二人して振る舞い、またたまに飲みに行くだけの距離に落ち着いたと安心していたのだ、しばらくの間は。
     後藤ほど見かけと裏がずれている人間は珍しい。それはあちこちでささやかれた通りに誰のことも人と思わず仕事のためならなんでもしてのける冷血さの話ではない。それは部下のためなら身体を張る生真面目さであり、法を信頼することで社会を守る警察官としての誇り高さであり、傷つくことを「慣れた」ことにして飲み込む癖についてであり、ふてぶてしい生き方をなぞって孤独になることでしか自分を守れない繊細さについてのことだ。あれだけ露悪的な人間だと自分を演出して、お荷物の昼行灯と揶揄されることに安堵すら感じているくせに、手を抜くことはもちろん力を抜くことも案外得意ではない、自分ではうまい案配に出来ていると根拠なく思っているようだが。
     前から薄々と感じていたそんな内面の柔らかくもろそうなところが、幹部研修のあとはいっそう目に入るようになった。そもそも、一つの目的のために外部からわざとらしく隔離された空間に閉じこもり、否が応でも男と女であると互いが認識させられたのだから
     ただ、そのときはあえて二人は同僚であるとの暗黙の了解で自分を律した。だが、その了解をもたらしたものが理性だけなのか恐れの言い訳なのか、それを問い始めたらおしまいなのもわかっていた。
     互いに無関心でいたかったのに、他の人を自分の中にゆるく再現して、そして片隅に住まわせるようになったときには、もう気持ちはその人に向いている。後藤は無関心でいてほしい人で、自分は一人で生きていきたい人で、それでこそ二人は上手くいっていたはずだったのに。
     だからだろうか、ついに全てがあふれ出してどちらからともなく抱き合ったそのときに後藤としのぶがそろって口にしたのは「なんてこと」の一言だった。
     あれは二人二課総出で対応し、各部署が出来る限りのことをして、それでもかろうじて最小限の被害で済んだと慰めるしかないような事故現場での出動のあとだ。背中に頬を預け、やわらかくもたれながらしのぶはそっと記憶をなぞっていく。
     後藤の肌を知ったばかりのころは、互いにどこまで相手を浸食していいかが図りきれず、なによりも自室の天井が恋しく、真夜中に帰宅することも珍しくなかった。いまはもう後藤がうっすらと寝覚めていても構わない。徐々にそれぞれの体温と呼吸になれていき、たまに後藤の家に泊まるたび上野や浅草の量販店で買った気取らない服や下着が徐々に増えていって、そのうちあの箪笥の引き出しに一杯になったときには、ついにこの古い天井も自分の部屋と思うのだろうか。そのときにはもう帰る部屋はただ一つ、男の隣になっているのかもしれない。これは想像というよりも予見のようにしのぶは感じた。少なくとも、一年前、二年前に比べて、この他人の部屋で二人でいることが肌に馴染んできている。それとも、しのぶも後藤も、一人の時間と一人の空間を手放すことは出来ないのかもしれない、そういうところで似たもの同士なのだから。
    「……眠れないの?」
     背中を向けたまま、ささやくように男が声を掛ける。しのぶも動くことなく、ただうつらうつらしているだけよと答えた。言葉にすれば本当にただそれだけのことだ。ふと今日一日のことを思い出して、ここまでの分かれ道を指を折るように確認したくなっただけなのだ。
     たとえば、後藤のことを、本庁から厄介払いされてきた冷血漢ではなく、名前と感情を持った人間だと認識を改めたときのこととか。

     着任が決まったのち、事前レクチャーのため、本庁で何度かミーティングを重ねていたころは、死んだような目で人と距離をとり、すべてのものについて利用はしても信用はしないという姿勢を隠さず、は虫類のようなひやりとした男だと、そうしのぶは分析していた。元公安のエースとしてのあだ名は、警備部のしのぶでさえも知っていたから、噂は人を大げさに膨らませるが、元の形は保つものなのだろうかとすら思ったものだ。しかし噂は噂で、無邪気な悪意のまま、人を雑に扱うことで生み出される憑き物でしかないとすぐに認識は改められ、そしてしのぶは内心で噂なんてものを尺度にした自分を恥じた。あれは後藤が正式に二課の人間になってすぐのことだったか。
    「通達のままなんですが、えっと……なんでも新型機は全く新しい設計で、かつ実験的なものだから、既存の隊ではなく新設の小隊に運用させデータをとる、と。俺の隊は寄せ集めのモルモットってことみたいですよ、おかげでそれでなくてもおぼつかない新人ばっかなのにさらに人数が足りないってねえ……。あの、ひょっとして、南雲警部補、祖父江課長から一切、なにもお聞きになってないんです……?」
     確認のつもりで話していたはずが、第一小隊の二人の反応を見てどんどん語調が弱くなっていくさまをしのぶはどこか冷静に見ていた。おそらく後藤も、しのぶと、ひいては二課そのものの扱いがここまでだとは思わず、さらには自分がその駒として使われることも想定外だったのだろう。左遷させられたとはいえ、後藤はこれまでずっと、男性社会の警視庁でなんの制約も受けないまま地位を掴んできたエリートなのだから。
     ただ、そのあとの後藤の態度は、思っていたのと違った。交番からすぐに六本木署の捜査一課へと抜擢され、そして巡査部長になるやいなや外事に異動するような花形なのだから、あのは虫類のような空気そのままにプライドも高いだろうし、ゆえにさぞ気分を害するに違いない。そんな見立ては半分ほど間違っていた。
     隊長室に二人になるやいなや、後藤が最初に口にしたのは自分をないがしろにされた自嘲でも憤りでもなく、「風邪薬には風邪薬の、駒には駒のプライドがあるって、ね」という一言だったのだ。その言葉に、そして吐き捨てるというよりも腹を決めるような響きに、しのぶが思わず後藤の顔をみたとき、彼もまたしのぶのほうを見た。ブラインドを開けた窓から射す午前の強い日差しが、彫りの深い後藤の顔に濃く影を落としていて表情はよくわからない。しかし、しのぶはなぜかこの知らない男の表情がはっきり見えるように思えた。
    「……後藤さんは、いつその決定をお聞きになってたんです?」
    「内示が出てすぐだから、半年前、ですね」
    「半年前」
    「そ、半年前」後藤の声にひやりとしたものが混じる。「あいつららしい話ですよ。……俺も、偉そうなことは言えないな」
     後藤の言うようにまったく上層部らしい話だ。無意識に指をかみしめて、しのぶは深く息をした。
     後藤が、自分もまたただの駒だと自嘲しながらも、しのぶに向けてくる感情が腹の中で花火のように弾けて、いま、奥底のほうに灯るものがある。私たちはおまえたちの駒かもしれない、ならばいくらでも勝手に自分たちのゲームに興じるがいい、私は、いや、私と五味丘ら隊員たちは、ここで仕事をして毎日を成し遂げてみせる。警察官の矜持をもって、生まれたての部署である、ここ特車二課のものとして。
     少なくとも、私はこの部署で、ただ一人ではないのだから。顔を上げたしのぶのまなざしになにを見て取ったのか、後藤が無意識に口の端をあげた。
    「ねえ南雲警部補、駒には駒の戦い方があるって、そう思いません?」
    「もちろん」しのぶの口も自然と上がる。駒の戦いかたがある、か。気に入った。「どうせ古狸どもがこざかしい小細工をしたのでしょ、やらせておけばいい。だから両隊の装備が揃うまで、後藤警部補、そちらにもせいぜい役に立って頂きますから覚悟してくださいね。たとえあなたが、カミソリだろうが昼行灯だろうが」
     後藤はしのぶの言葉に少しだけ目を楽しそうに丸くして、「まあ適度にやってみますから、見ててくださいよ」と笑った。ここ数ヶ月打ち合わせで顔を合わせてきたが、いま初めて、かすかではあるが砕けた態度を見せたように思う。そして男の抜き身の声に、しのぶは後藤がなぜカミソリの二つ名を得たのかを知った気がした。柔らかいくせに氷のようなものがふくまれていたと感じたからだ。と、後藤は突然少しだけ情けないトーンをにじませてでもね、と続けた。「とはいえ、あの、部下とか指揮するの初めてだから、しばらくはお手柔らかにお願い、ね」
     後藤の奥二重の目が声と同じくらい情けない形になったものだから、しのぶはつい小さく笑ってしまい、慌ててそれを得意げな顔として取り繕って胸を張った。なるほど、ただの同僚というにはやっかいな経歴の新人だが、どうやら普通の人間らしい、ならば、うまくやっていけるかもしれない。
    「もちろん、いつでも頼ってもらって結構です。私の隊は優秀ですので」
     実際は頼るどころか散々利用されたものだから、初日の好印象はしばらく撤回されてしまっていたのだが。

     それから長い時間が流れて、ささやきと駆け引きの果てに、いまはくたびれた公安の、くたびれた部屋にひかれた、くたびれた布団に二人横たわっている。雑に掃除されたサッシのガラスも、そこから見えるでこぼことした町並みも、そして後藤という男にもすっかり馴染んでしまった、そんな自分を押しつけるようにさらに身体を寄せて鼻先を肩甲骨に埋めたら、後藤が小さく笑うように背中を揺すった。
    「……寝ないの?」
    「しのぶさんがねたらね」
     半分寝ぼけたような柔らかい発音でそんなことを言う様子から、あと一〇分も経たないうちにまた眠ってしまうに違いない。少なくとも制服を脱いでしのぶといるときの後藤は、とても無防備になる。肝が冷えるような底知れなさも、この青年のようにくつろぐ姿も、どちらも後藤の素顔であり、しのぶの愛するところだった。もっとも後藤は物事がどう転がるか分かっていてあえて黙っていたり、ときどき仕事がしやすいようにちょっとのテコ入れをするだけで、悪知恵を使って人をモノのように扱うことはそれほど多くない。そのたまに発揮される謀りによってしのぶも第一小隊も数度煮え湯を飲まされたが。
     そういえば、後藤を本庁の職員がいうように悪辣だと感じて、同時に後藤のことを仕事の上で信頼するようになったのも、彼が飛ばされてきて三ヶ月も経たないころだったか。
     ヘラクレスが三台暴れるという第一小隊の九七式改では到底無傷で収めることが出来ないような暴動を、それでも五味丘や結城らの働きで最小限の被害で収めたあとの監査のときの話だ。事件現場には応援としてようやくよたよたとアスカで出動を始めた第二小隊も出動しており、正直にいえば野次馬の整理ぐらいしか出来ることがないし実際それくらいしか働いてなかったが、それでも現場にいたというその事実を切り札につかった後藤の弁舌の怖さときたら。会議室で横に座り、淡々と畳みかけていく後藤の話を聞きながら、しのぶは徐々に後藤の目的が分かってきた。この男は、自分を害獣のように、そして二課をただの便利なゴミ箱のように扱った上層部の者たちに、この正統な手続きの場を利用してその責任を取らせようとしているのだ。そしてこの男の、直近の目標は。
    「あなた、まさか」
    「そりゃ、もっとまともで、責任の意味をわきまえてる課長のほうが全然いいじゃない」
     会議室の外で、後藤は表情も変えずに飄々と言ったものだ。「なにより俺と同僚を見下してる人間の元でなんか働きたくないよ」
     部屋の中は、後藤によって巧みに導かれた「本来整備すべきことをすべて怠った結果、市民の資産である集合住宅数棟がヘラクレスによって破壊された警察の責任」を誰に押しつけるかで紛糾しているはずだ。そしていつだって、上の論理では一番立場が弱い人の首をすげ替えることになっている。三〇分にも満たないあいだ、会議室で行われていたのは警察庁でも指折りの悪党として有名な海法警備部長と人の口からは悪評しか出てこない後藤によるチェスであり、クイーンを取らせることでチェックメイトに持ち込んだのは、しのぶから見た限り後藤のほうだった。
     はたからみれば、具体的には恐らく今回の責任を取って左遷されるであろう祖父江課長からしたら、後藤が自らのプライドから、駒として使おうとした自分への復讐を果たしたと判断するであろう。しかししのぶは、後藤が見せつけたかったのは駒のプライドであり、二課の誇りであり、そして本心から、両隊が今より仕事をしやすくなる課長を望んだのだと感じたのだ。結果として異動してきた福島はノンキャリアのたたき上げであり、祖父江に比べれば遙かに課長職の重みを知っている警視なのだから、後藤の目論見は上手くいったわけだ。
     あのときに、この恐ろしい男は信頼出来るのかもしれない、と思った予感は間違いではなく、実際男女の関係になる前から、しのぶと後藤はうまくやっていける同僚、さらには良き相棒となっていった。
     と、目の前の背中が向こう側に少し倒れたと思ったらそのままごろりと反転して、しのぶのほうに向き直る。前髪の降りた柔らかい顔が眠そうに笑うと、そのまま熊のようにしのぶをふわりと抱きしめた。
    「ほら。これでさむくないでしょ」
     毛深いすねがしのぶの足にからみ、男性の堅い筋肉が抱き枕のようにそっと身体に沿う。男性の割には体温がやや低めの後藤はやはりは虫類だなとしのぶはふわふわとしたことを考える。こうして優しく抱きしめられて後藤のやや乾いた素肌の香りに包まれると、海の中にいるような心地になる。シーツの海なんて古い言葉がふと浮かんだ。
     柔らかく手を延ばして抱きしめ返すと、後藤もまんざらでもないと小さく息を吐くように笑った。もう眠りはすぐそこまで来ている。ほぼ寝息のような後藤の呼吸を聞きながら、しのぶの思考もどんどんどばらけて浅くなっていった。
     ああそうだ、今日の夕方もこうして男の呼吸を聞いて安心したっけ。後藤はやはり男だからか、似合わないままで格好付けたがるし、私生活では隙を見ては不器用に愛したがるし、今日みたいに疲れているときにはさりげないしぐさでしのぶの力を抜こうとする。しのぶもしのぶで、それがくすぐったかったり重みに感じたりかちんときたりしてはすれ違い、あるいはありがたさを不器用に伝えてはそっと手を握り返して、甘えたり甘えさせたりして、そうして二人でふたりぼっちに慣れていっているのだが、それは私服を着ているときのことだ。どちらかが制服を着ているときは職務への忠実さと公私という区切りを重んじることで自分を律するために、過度の接触はしっかり突っぱねることにしている。していたのだ、昨日までは。でも今日の夕方はタガは外れていた。
     しのぶさん、と優しい声とともに手が伸ばされたときに時計の光が夕日を捉え、鋭く光る。その光の射す方に一瞬だけ意識が飛んで、身体は自然に後藤の方へと流れていった。光の先、外にあるのは人の気配だ。どちらかの部下か、通りかかった事務員か。なのにそれでも構わないと頭の片隅で思う。今日は、このまま甘えて、甘えさせても構わないと思ったのだ。ほら疲れてるでしょ、と後藤が小さく笑うのに曖昧に返しながら、そういうことにしておこうとしのぶは決めた。疲れている、ぴったりな言い訳だ。だから、この、外の名も知らない誰かに、この男は誰のものかを教えたいという暗い欲望もきっと疲れた身体から生まれたのだ。
     しのぶも乳房を後藤の胸部に優しく押しつけながら、ねえ、と密やかに呼びかける。
    「あした」
    「ん?」
     もう寝ぼけて夢に落ちる寸前だというのに後藤は律儀に返事をした。かわいい男だ。
    「あしたもきていい?」
    「あたりまえじゃない」
     自分は遅番だということを忘れて。おいしいものたべにいこうね、と寝言のように話す後藤の胸に身体を寄せながら、この家の門をくぐる前に、また下着と靴下を買い足してこようとしのぶは決めた。
     靴下も下着もいつもより少しだけ多い点数を買って、あとブラジャーも買ってしまおうか。そして、さりげなく引き出しに詰めるのだ。そうして一人でいたいと互いが言えないぐらいまで生活が混ざり始めて、箪笥が埋まる日が、ほんの少しだけ早まっていけばいい。そんなまじないの言葉は、眠りとともに夜へとそっと溶けていき、二人はそろって夢の底へと落ちていった。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:33:51

    ドッヂボールの様にさ

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    #パトレイバー #ごとしの
    それぞれの中の思い出と想いと思いなしと。基本的に二人がいちゃついてるだけの話です。また、当て馬要素があります。

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