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    ジグソーパズル昭和50年 浅草2016年 新宿 戸山夜間衛生管理課の調書(男性)昭和11年 浅草2016年 新宿 戸山昭和50年 浅草 風が枯草を鳴らすほかは、声も気配もない夜である。
     川の向こう側にある工場の煙がもくもくと月を黄土色に曇らせ、川は澱み水面は濁り、どこもかしこも風流からは程遠い。一等星すら翳む空の下では、銀座のテイラーで仕立てた上質な三つ揃えに艶やかに磨かれたキャップトゥの革靴に身を包んでも、どこか酔狂な佇まいにしかならない。もはや戦後ではない、と高らかに謳ってから二十年、工場の排気が空を曇らせるほど、この国は富み潤う時期のようだ。
     午前中を中心に降った雨も上がり、浅草から少し歩いた隅田川の川岸には、手入れをされていない枯れススキが群生し、たまの風に揺れる以外は時間が止まったかのようにすべてをセピアに染めている。
     あの紬に羽織で来るべきだったか。竹之内は一瞬だけそんな戯言を思う。遠い昔、月しか世界を照らしていないころ、ススキの下で清酒を飲むのが唯一の慰めだった頃もあった。こんなススキの傍に立つには和装の方がふさわしい。それは正しく感傷であったが、感傷に流されるには竹之内は長く生き過ぎた。
    それから時は瞬く間に過ぎ、人と出会い、人は死に、驚異が自然を飲み込んでいった。そうしてすべてが変わっていくなかで、変わらない自分たちは果たして自然なのか、人工的ななにかなのかと、時々竹之内は考える。
    しかし、今日ここに来たのは遥か昔に置いてきたなにかに触れるためではなく、拾い損ねたものをようやく見つけたからである。
     高架を東武鉄道の電車が、動物公園へと向けてゆっくりと通り過ぎるなか、川べりのベンチに腰を掛けて、竹之内は静かに息を吐いた。あとは釣りの要領だ、浮きを見ながらただ、時を待てばいい。
    十一月の祝日の夜、それぞれの理由で疲れ果てた人を乗せた電車が何本も通り過ぎたころ、向こうから人が歩いてくる音がした。午後十時もとうに過ぎ、繁華街から遠いこともあり、冷え切った夜空の下、水たまりの残った川べりを散歩する影はまれだ。足音は竹之内の方へと寄ってきて、三メートルほど前で止まった。
    振り向けば、既製品のスーツにくたびれたトレンチに身を包んだ中年の男が、特に表情なく竹之内の姿を伺っている。手には、想像していた通りの仏花。
    「散歩ですか」
     しばらくの間を置いて、そう声をかけたのは男の方だった。美声とは言えないが、テノールのつやのいい響きだ。
    「雨上がりの月が見事ですからね」
     そう答えると、男が無意識に口の端を上げる。
     この男は、なぜ今ここに、自分がいるか知っているのだ。囲碁方を相手に打つときのような高揚感を覚え、竹之内もまた微笑んで見せた。
    「そうだな、俺たちみたいなものには心地良い夜だ。……ですよね」
    どこかとぼけた風貌の中に凄みを潜ませて、竹之内を見る。「噂は伺ってますよ、竹之内、厚生省のどこかの部長さんでしたっけ」
    2016年 新宿 戸山「今日は新宿です」
     いつもそうであるように、今日も久保園は歩きながらあかりに行先を告げる。その禿げあがった頭とほのぼのとした外見から受ける柔らかい印象とは裏腹に、久保薗は驚くほど合理的な男だ。無駄なことはさせないし、無茶な指示はしないし無理はさせない。今日のように松波が休みのときは、自らがあかりに同行して外回りをこなすフットワークの軽さもある。夜間衛生管理課に配属されたころ、久保園はあかりのこの職場――正確に言うなら雪村魁との相性の良さだ――への適性と神経の強さを褒めてくれたが、その久保園本人こそ恐ろしくメンタルが強い人間だと、あかりはしみじみと思う。
     どんな相手であろうと物怖じせずに、嫌味になるぎりぎりのところで正しいことを口にする強さと、夜間衛生管理課なんていう偏見と排除に直面する部署にもう相当長いこといるというのに、現実に挫け折衝に精神を削られやがて仕事そのものに疲れる、という様子を一切見せず、なお福利厚生をオキナガを含むすべての国民に行き渡らせるべきという信条を強くもつ姿勢。そして言葉の端や態度に見える、しっかりとした足場に立ったうえでの楽観主義。
     付け加えるならば、自分をなぜか一本釣りした偉い人、という以外はいまだどんな人かを詳しく知っているわけではないが、しかし、あの正体不明だが間違いなく辣腕で計り知れない力を持つのであろう竹之内参事官と、もう二十五年間も上司、部下として付き合っているという事実だけで、あかりは頭が下がる思いになる。個人同士の信頼も厚く仕事帰りに杯を交える仲だと係内で聞いてからは、あれが言わゆる”韜晦した人間”というものかと納得したものだ。いわば久保園と竹之内は、昔、テレビで見た時代劇にいた、うだつの上がらない凄腕の剣士と、その剣士が一目を置き仕える統領だ。
     竹之内まで思考が及んだ時、あかりは自然と巻上の家で見た旧日本軍の制服をまとった彼の写真を思い出した。今と一寸も変わらない堂々たる風貌と軍隊そして戦場というものに慣れた雰囲気。これまで断片的に聞いた話から推察するに少なくとも幕末生まれということはなさそうだ。江戸時代なのか、いや、それよりも前なのか。医学が未熟で衛生状態も悪く何度も疫病と飢饉が国を荒らし、そして天下取りという名目のもと断続的に二百年ほど続いた戦乱の世。死がすぐそこにあり個人の命に個人としての価値がない世、彼は果たしてどれほどの地獄を見てきたのか。
     そして二〇世紀になり、沖縄戦という地獄において、雪村魁と出会った。
     ときどき死んだもののように暗い目をする魁の顔が頭に浮かぶと、あかりはいつも言葉が凍り付いたようになり、勝手な重さを心に抱く。そして、まだそれほどの数のオキナガと会ったわけでもなくオキナガのことを知っているわけでもないのに、あの、自分の中の闇に引っ張られている危うい男には、特に真っ当さと危うさをを同時に抱く。恋に落ちる予感だとかそんな映画のプロットのような話ではなく、幸村魁はあかりにとって正しく「なんとなる気になる」人間なのだ。
    「伏木さん、足元」
    「あ、はい! すみません、ぼーっとしてました!」
     上司に続いて霞が関の駅へとコンクリートの階段を下り、丸の内線へ通路を歩けば、地下通路がもっと地方都市に広がったらオキナガも昼間に行動しやすくなるのだろうかなどと考える。オキナガは東京や大阪といった大都市に集中して居住しているが、それは地方によっては根深い偏見に晒されるからとか、同じオキナガが多い方がなにかと暮らしやすいといった理由のほか、オキナガに暮らしやすいインフラが地方都市で整っていないことも大きな理由だ。彼らはここにずっと存在していたのに地方行政も国もいないものとして扱っていたのだ、夜間衛生管理課がこのように稼働するまでは。
     赴任してから大した時間が経ったわけではないが、すでに思考はオキナガのため、行政はどうしたら健康で文化的な生活に寄与できるか、インフラは整っているかという方向に向かうようになっている。そのときふいに魁の顔が浮かんで、「さすがは国家公務員さまだな」とにやにや言ってくるものだから、あかりは手でその想像を払ってから、気を取り直して久保園に聞いた。
    「今日は市ヶ谷の斎藤さんに戸山の……。戸山の都営ってなんでこんなに固まって住んでるんです?」
    「一時期町内会長がオキナガの人で、その時に頼ってきた人がずっと住んでるとか。全国的に空室が目立つ公営住宅に、オキナガの方が引っ越してきてオキナガ団地になるところも出てきてます」
    「へぇ」
    「周りからはゴーストタウンと呼ばれてるそうです」
     果たしていまのはブラックジョークなのか本当の事例なのか。あかりにはまだ区別がつけられず、とりあえず曖昧に笑って流しながら気を取り直すようにして手帳を覗き込む。「最後も戸山、だけど団地ではないんですね。ってお医者さん? オキナガにも医師免許って出るんですか?」
    「そりゃ出ますよ、国民には職業選択の自由が保障されてるんですから。とはいえ、免許を取得したあとにオキナガになった人がほとんどですし、患者さんが寄り付かなくなるから廃業する方が大体です。あと外科の方は転科するとか。手術の最中にうっかり血分けする可能性もありますからね」
    「ああ、確かに」
    「あと」改札を通りホームの乗車位置に立ったところで久保園はあかりを見上げた。「そこは一筋縄ではいかないと思うので、覚悟しておいてください」
    「いかないって、医者なのに自分は健康診断を受けないとか、医者の不養生そのものじゃないですか」
    「医者の方じゃなくて同居人のほうが」
    「同居人……って、ああこの男性の方、ということは夫婦でオキナガなんですか。確か極めて稀だと言ってましたよね」
    「その稀な例なんですよ」久保園は時計と電光掲示板を見比べた。「もっとも、傍から見たら事実婚状態とはいえ、籍を入れてないのだからパートナーと言ってました」
    「どちらかは知りませんが、厳密な方なんですね」
    「二人とも厳密と言うより頑固なんでしょうな」
     そのとき、丸の内線荻窪行きの接近を告げるアナウンスが流れた。トンネルから押し出された空気があかりと久保園の髪をかき乱していく。
    「今日は頑張りましょう。戸山団地は広いので地味に骨が折れるので」
    「はい。……ところで、どう面倒なんですか?」
    「そうですね、一言で言うなら鵺ですね」
    「ぬえ」
     久保園が鵺と言うからには、相当のやっかいものなのだろうか、と思いきや「もっとも会ったことはないんですが」
    「会ったことないのにわかるんですか?」
     車両の網棚につかまりながら思わず突っ込むあかりに、久保園は「わかります」といけしゃあしゃあと言う。夜間衛生管理課に四半世紀も務めると、あるいはわかるようになるのかもしれない。めがねの奥の目は、いつも通り機嫌のよい穏やかなそれで、なにを考えているのかが見えず、やはり一筋縄ではいかない人だと思う。これもまた、四半世紀の勤務の賜物なのだろう。


     戸山団地は確かに骨の折れる場所であった。
     久保園と二人、昼過ぎには到着していたのに、回り切ったときに梅雨時だというのにもう日も西に傾きはじめ、気の早い家は灯りを付け始めるころだ。三千を超える戸数のうち、オキナガが住んでいるのはわずか三十六戸。全体の百分の一とはいえ、人間の住民にとっては十分多いと感じる人数なのだろう、オキナガ側のとりまとめ役をしている矢向という男は、久保園とあかりにゴミ出しのことで一部住人から苦情を寄せられて苦慮しているとこぼしてきた。
    「そりゃわかりますよ、生ごみを夜に出したらカラスが来るっていうのも。でも、夏であろうが午前七時からしかゴミを出せないというのは私らには辛いものですよ。しかもゴミ出しの時間がルーズなのは私らだけの話じゃないのに、なにが起こってもまず疑われる」
     深いため息と共に打ち明けられる悩みを聞きながら、あかりはまたオキナガにとっての健康で文化的な生活について考える。こうして福利厚生の名のもと彼らを管理し、大多数の普通の国民感情に配慮する方向に行政は動いているが、本当にそれでいいのだろうか。
     考え事をしながらも足は動き、二つの影が長く伸びる坂道を下って、さらに五百メートルほど新宿方面に歩く。そうしてたどりついた古く細い五階建てのビルの最上階、臙脂色に塗られた鉄の扉に「戸山診療所」と書かれた黄ばんだプラスチックの表札が掲げられた一室があり、ここが最後の訪問地だ。と、ガチャリと扉があいて、中から一人若い女性が出てきた。深めに被ったパーカーのフードからもこぼれる白い髪、そして白い皮膚。女性はすれ違いざまに入っていく二人に表情のない瞳を向けて足早に去っていく。その後ろ姿をなんとなく見送りながらも室内に足を運ぶと、小さいながらも清潔で消毒の匂いが満ちる部屋には、一人妙齢の女性が怠そうに診療を待っていた。久保園は受付のおばちゃんに声をかけてから、あかり引き連れさらに奥へと入っていく。
    「次の……、あら久保園さん。あなた自ら来るとは珍しいわね」
     そう言いながら回転椅子ごと振り向いた女医は、茶色がかった美しい髪を一つに束ね、意志の強そうな切れ長の目をした賢明そうな人だった。鮮やかな髪の色は染めているのだろうか。そしてなにより、声が美しい。
    「若い人を寄越しても、まず話にならないじゃないですか」
    「残念ね、今日あの人いないのよ」
    「今日も、でしょう。で、今回はどこに行ってるんです」
    「ここ二か月は調査を請け負って四国のほうに」
    「診断の予定日に思い切り掛かってるじゃないですか!」
     思わず突っ込みを入れてしまったあかりに、そういえば、と久保園と女医が顔を向けた。
    「ああ。そうでした南雲先生。先日配属された新人の伏木です」
    「はじめまして」
     ああってなんだ、ああって。内心さらに突っ込みながらも深々と頭を下げると、南雲は「よろしく」と返してきた。そこで久保園に肘で軽く小突かれて、あかりはそうでしたと本題に入る。
    「えっと、それで、まず健康診断の件ですが……」
     手帳をみながら話し始めたとき、久保園のポケットで電話のベルが鳴った。名前を確認すると、そのまま続けていてくださいとジェスチャーで知らせて、足早に診療室を出ていく。あかりは了承とばかりにちょこんと頭を下げて、また女医に向き直る。すると彼女は貫録ある笑顔を浮かべて、
    「あの人、自分も公務員だったのに管理嫌いにもほどがあるのよ」
    「そうなんですか、で、お帰りはいつです」
    「予定だと一昨日なんだけど一昨日にあと二、三日延びそうって連絡があったから今週中には。とにかく帰ってきたらすぐ行かせます」
    「本当ですか?」
    「ええ、本当に」
    「わかりました」
     言い切ったからには尻を叩いてくれるだろう。素直に頷いたあかりに南雲は小さく笑った。「久保園さんの部下なのに素直なのね」
     そうして通常業務が終わってしまうと、当然のように手持ち無沙汰になる。久保園はまだ帰ってこない。挨拶をして一人待合室に行くべきかとも思ったが、結局あかりは世間話を振ることにした。この仕事は、まず知ることが第一だ。
    「あの、ところで先生の専門は?」
    「内科だけど、気になるところでもあるのかしら」
    「いや、単純に好奇心といいますか、実は私も医学部を出たもので」
    「まあ、じゃあ専門は? 耳鼻咽喉? 泌尿器? それとも形成?」
    「あの、それがですね、免許取らなかったんです」
     いつも通りに答えると、南雲はあからさまに落胆したという顔になった。
    「それは勿体ないことを」
    「やっぱそうですかね」
    「持っていたら手伝ってもらおうと思ったのに」
    「いやいや、公務員の副業は禁止ですから」
    「そこはボランティアとか」
    「無理に決まってるじゃないですかあ」
    「そうよね、ああ、やっと人手が増えると思ったのに」
     どこまで本気かわからないリアクションをする南雲に、あかりは確かに最初からこの調子でやり取りをされたなら、一筋縄ではいかないなと思った。一見お堅くて真面目そうなのに、裏腹にどこか海千山千の雰囲気が見え隠れする。
    「そんなに忙しいんですか?」
    「まあね。さっき開けたばかりだからいまは静かだけど、夜になると忙しくなって。風俗嬢ならまだ他の病院もあるけど、さらにオキナガとまでなると、他所には行きにくいから」
    「オキナガの人でも、診察を受けに来るんですか?」
    「意外でしょ。ソープとかデリヘルとかで働いてるオキナガの子って多いの。基本夜しか働けないし、就職差別もあるし。放っておけば治るって病院へ行かない人が多いけど、でも切られた部位は縫ったほうが早く傷も塞がるし、痛み止めは多少の気休めになる」
    「切られたら、ってなんです……?」
     あかりの質問に南雲は肘をついて深く息を吐いた。「オキナガってわかると無茶なプレイを要求する客もいるのよ。それこそ首絞めや刺撃といった極端なSMを強要するとか、HIVポジティブなのにわざとゴムを付けないとか」
    「え、それってひどくないですか」
    「確かに今のところ全員陰性だけど、感染しなければいいということじゃないわ。それに、仮にオキナガ側かウィルス側かの突然変異があってHIVポジティブのオキナガの患者が出たら下手な病院には任せられないし」ふと、女医の目に深い影が差した。「それに搬送先が何をするかわからないでしょ」
    「いや、そういうのは医師法で禁止されてますし、大丈夫だと思いますが……」
     言いながら、来間医師の記録と魁の顔があかりの脳裏に浮かんだ。
     医学部を出たからこそよく理解している。『死なない生体』の価値を一番理解し、そして研究対象として渇望するのは、間違いなく医学だ。
     最後語尾が弱くなったあかりに気を遣うように女医がきっと考えすぎなのね、と苦笑して、とにかく、と話を変えてくれる。
    「自分は死なないし放っておけば治ると知っているとしても、でもここみたいな診療所があると心強いでしょ。つまり場末には場末の必要性っていうのがある」
    「先生、それ、わかります」
     心の底から同意すると彼女は理解を得られて嬉しいと笑った。
    「だから、信頼できる提携機関や医者をどんどん紹介して欲しいのよね。普通のお水の子たちも患者だから忙しくてね」
     それはうちの仕事なのだろうか。あかりはただ新人らしく「久保園に伝えておきますね」とだけ返事をした。その久保園はまだ帰ってこない。なので、あかりはもう一つ質問をする。
    「あと、その、どんな方なんです、パートナーの方って」
    「でったらめな人」
    「でたらめ」
    「いい加減というか、真面目なところがあまりないというか、本人は酒々楽々のつもりらしいけど、韜晦しているというかというか」
    「ぬえ、みたいな?」
    「鵺とはうまい例えね、とにかく、飄然としているのよ」
     とりあえずすっとぼけて捉えどころがないことだけは分かった。南雲は敵わないのよね、という風に笑って、「寛容も度を過ぎると不気味になるでしょ」と説明を加えた。
    「ああ。優しすぎる人って、なに考えてるかわからないんですよね」
    「そうそう。でも一世紀の四分の三も一緒にいると、さすがになれるけど」
     七十五年ほど、つまり戦前からということか。
    「百年近く一緒にってすごいじゃないですか」
    「だから数か月出掛けても、全く気にならなくなって。……どこかで土に還ったのかもしれないって思う時もあるけど」
     ふと遠くを見るように目を細めた南雲を見て、あかりは知った光が目にあると感じた。ときにオキナガが湛える、なにより魁がよく覗かせる、慚愧とも諦念ともいえる目だ。
    「先生と患者で、出会われたんですか?」
    「いいえ、昔、事件に巻き込まれたことがあって、その時に助けてくれた警察官が彼」。南雲はどこかを見たままで笑う。寂しい笑顔だった。「浅はかだった私を全力で守ってくれてね。だから、最後見送るのではなくて、手にすがってしまったの」

    「新宿のオキナガの女医? また珍しいのに会ったな」
    「雪村さん知ってるんですか?」
    「知らねえよ。ただ、オキナガなんて社会と関わろうとか張り切ってもだんだん面倒になっていって、結局誰とも関わりたくなくなるのが普通だからな。ましてや医者なんて相当レアだぞ。変わり者だ、変わり者」
    「しかも事実婚してる相手もオキナガと言ってたから、レアもレア、スーパーレア、SSRですよ」
    「なんだよそのエスエスアールやスーパーレアっていうのは」
     魁は軽い言い方だなと言わんばかりにあかりを見た。夜の等々力は相変わらず落ち着いていて、初夏の気配と窓の外の蛙の声によって時間の流れが緩やかになっていくように感じられる。
    「なにが気になってるか知らねえが、オキナガっていうのは人より長く生きてるんだから、お前らが考えている以上に繊細なんだぞ」
    「特に魁くんはねー」
    「薫さんは黙っててよ!」
     今日は按察使文庫の目録作成の進み具合やら頼まれた調べものやらで、通常勤務のあとに等々力によって直帰というスケジュールである。先日、新宿で稀なオキナガとの面談をしてから五日。あれからもまた色々なオキナガと面談したが、魁が言うように多くのオキナガが社会と線を引き、世捨て人として暮らしていた。たまにウェイターなどの職についている人もいるものの、やはり積極的に人と関わり続けようという人は稀だ。
    「なんだ、珍しいから知りたいだけか?」
    「そういうわけじゃなくて……」
     あの日、帰り際に久保園がぼそっと口にしたことを思い出す。新宿に戻り丸ノ内線を丸間、久保園はいつもの飄々とした調子で、南雲からあっけなく約束を引きだしたあかりを褒めた。
    「私だとのらりくらりとかわされるんですよね」
    「私が新人だから、情けを掛けてくれたんだんじゃないですかね」
    「かもしれないですが、あるいは私の後ろにいる竹之内さんの影がそうさせるんでしょうなあ」
    「あの女医さん、竹之内さんとお知り合いなんですか?」
    「いえ。私が入庁したあたりですからまだ昭和ですが、夜間衛生管理課に配属されるまえ、そのパートナーの方と竹之内さんの間にちょっと縁があったとのことで」
    「縁ですか」
    「まだ夜間衛生管理課がただのお飾りで、外回りして名簿を作っていただけのころのことですから、人手が欲しかったころでしょう」
    「そういえば警察官だったって。調べものとか頼んでたのかな」
    「そういったところでしょうな」眼鏡の位置を直しながら久保園が続ける。「昔、言われたことがあるんですよ」
    「何をです?」
    「こんな風に飄々としている人は私とその人ぐらいだと。果たして褒められているのかどうかはわからないんですがね」
    「久保園さんぐらい飄々としてる……」
     うっかり心の声を口に出してしまうと、久保園は、
    「伏木さんも相当飄々としていると思いますよ」
    「え、どこがですか?」
    「飄々っていうのは外からの評価ですからね、意識して振舞おうとしてもできることじゃないです」
    「ひょっとして褒めてます?」
    「褒めてるように聞こえます?」
    「なるほど」
     確かに褒められたのかなんだかわからない。
    「ただ」
    「ただ?」
    「私と違って根暗だったそうで」
    「根暗」
    「竹之内さんとはそこが合わなかったんでしょう。悩みと髪には執着しないのが私の信条ですから」
     それを渾身の自虐ギャグと取っていいのかわからないが、久保園の強さはそこなのだなと思う。この仕事をするなら、楽観主義でなければならない。そうでなければ彼ら自身が抱える世捨て人のような諦めに、強く引きずられていくからだ。
     と、納得しながらも。

    「それはそれとして、飄々としていて根暗、ってつまりどんな感じなのかなって」
     あかりの話に魁はだーっと呆れて見せた。
    「なんだよただの好奇心じゃねえか」
    「まあ、そうなんですが」
    「だいたいなにがわからないんだ、普通だろ? 大体飄々っていうのはな、もともと世俗に関心がないってことだぞ。お前の中で高田純次とかの印象が強すぎるだけだ」
    「確かにそうかもしれないけど、それより雪村さんよく高田純次知ってますね」
    「ところで伏木様が話されてたのは、『成城の毒婦』事件ですね」
     不意に聞こえた実藤の声に、あかりは思わず一瞬身をすくめた。
    「成城、っていうと砧……、ああ、そんなのもあったっけ」
    「雪村様はてっきり記憶なさってるとばかり」
    「遺体がざっくり斬られてるし、ひょっとして羊殺しに関係しているかと思ったから目は通したが、全く関係なかったからな。いちいち覚えてたら脳が疲れちまうだろ」
    「どくふ、って女性が犯人だったと?」
     あかりの質問に、実藤はいつも通り表情が全く見えないまま、落ち着き払ってコーヒーを振舞いつつ。
    「興味があるなら目を通されてはどうでしょうか。記憶の通りなら、オキナガと行政の事を考えるのに、多少の理解が得られるかもしれませんよ」
    「実藤さんも、なにかの興味があって読んだんですか?」
     コーヒーを頂きながらあかりがさりげなく聞くと、やはり実藤は淡々と答えた。
    「資料の整理を手伝いました時、たまたま目にしただけですよ」

     と、いうわけで実藤の管理能力と好意のおかげで、いま、あかりの目の前には一つの事件ファイルが置かれている。役所でよく使われる、紐閉じの黒い表紙のものだ。すすけたシールにはただ、「昭和五十年 記録」とだけ書かれていた。最初に概要と資料、そして次に調書という順番だった。
     事件のあらましはこうだ。
     昭和十年五月に、浅草区で遊女の死体が見つかった。
     首をはじめ体中を切り裂かれ、口には血を垂らされた跡がある。犯人は見つからず、不安が広がる中。昭和十一年の秋、今度は観音堂浦でまた同じような死体が見つかった。新聞は倫敦の切り裂き魔、浅草に現ると大騒ぎになり、二人は揃って長く美しい黒髪を持つきつめの美人ということで、似た容姿の人たちは大混乱だったようだ。
     そのころ、浅草署の人間が二つの事件を洗ううちに、手口と被害者の特徴が共通する事件が長期間、広範囲に渡っていることに気付く。場所は浅草、新吉原あたりを中心に赤坂区や荏原郡におよび、時期は関東大震災のあとから十年以上。いずれも遺体は無残にも路地裏や川岸に捨ててあったが、唯一、昭和十一年二月に成城で襲われた母娘のうち、医者であった娘の遺体だけが未発見だった。
     そして、その犠牲者と言われた成城の女医がオキナガということが発覚し、途端に犯人に仕立てられる。
    『砧の毒婦、浅草で跋扈 遊女ら十人の生き血を啜る 警官と謀り逃亡か』という新聞記事には、いかにこのオキナガが極悪非道かということが、憶測と偏見によって過剰なまでの調子で書き綴られていた。曰くその医学の腕を使って玉野井の娼婦を鮮やかに切り分けたとか、あるいは不妊であるゆえに女性器に対して憎しみがあると帝大の某博士が分析したとか、貞淑であるべき女性もオキナガになればかよう鬼になり、ふしだらに墜ちていくとか。挙げ句の果てにいくつかの新聞は他の未解決の殺人事件もまたオキナガの仕業であり、彼らを成敗することは帝国日本の栄光に寄与すると結んでいる。
     あかりは一度ページから目を離し、深くため息をついた。悪意と好奇心と恐怖とが事実を脚色し雪だるまのように膨らんでいくことは珍しくない、が、ウジ虫が湧く壺を覗いてしまったようなムカムカとする不快感がしばらく胃の底の方で湧いていた。
     あえてさて、と声に出して気持ちを切り替えてから、次のページをめくる。
     仕切りの厚紙の次にまとめられた調書は、多少黄ばんではいるが、厳重に保管されていただけあってきちんとしていて、しっかりした記録という印象を与える。それは自分が行政の人間だからかもしれない。達筆と言っていいほどに几帳面な字で記された長い文章の冒頭には、「記録 竹之内唯一」とあった。見た通りの字を書く人だ。
     あかりは一つ息を吐いて、もう一枚、ページをめくった。
    夜間衛生管理課の調書(男性)証言者 男性:生年 1900(明治三十三)年 転化 1936(昭和十二)年 記録 1975(昭和五十)年十一月××日

     私があなた方が池之端と呼ぶ憲兵の事件に気付いたのは昭和十一年の秋のことです。先ほど渡した覚書を読んでもらえばわかりますが、事件自体は大正のころからぽつぽつと続いていたもので、最初に見た死体は昭和十年に、劇場の通用門の側で倒れていた女でした。劇場のレビュウの端役をやりながら、陰で娼婦としてどうにか生計を立てていたということです。当時浅草署で巡査部長として勤めていた私が検分をしたのです。その時、ざっくりと斬られた首の付け根に小さな傷があって、口に余計な血が付いているのが妙に気になりました。というのも、前に雑用から逃れる口実で資料の整理などをたまにしていたのですが、そのときに読んだ、前年に材木町で見つかった娼婦の死体の状況とよく似ていることが気になったからです。首のあたりをざっくりと斬って、口には妙に血が多い、今は特捜班なんてものを組むのでしょうが、当時はみんな田舎から売られてきた娘ばかりで、私以外気に留めるような人はいなかった。だから、半分は仕事をさぼる口実で、そのあとは昔の事件を掘り返したりしてました。基本一人です、初めはその方が楽だったからですが、途中から決して誰かに悟られないようにと気を使っていました。でも人のやることですから、最後にはばれて、憲兵に捕まる前に逃げる羽目になったわけですが、ともかくそれはあとの話です。
     私の調べたところでは、女性たちは大抵似た容姿をしておりました。よく手入れされた黒髪が自慢で、少しきつめで涼やかな目をした美人です。殺人現場は大抵浅草から新吉原の周辺で、たまに赤坂区でもありました。皆首をぱっくり斬られている。昭和十年までは年に二、三人はやられているけど、そのあとはしばらく落ち着き、しかし辛抱きかなくなったのかまた半年に一人ほど殺している。そして一件、昭和十一年の年明けあたり、荏原のほうで強盗に入られ、母が死亡し一人娘が行方不明になった事件もまた手口が同じだと、新聞を読んで気が付きました。その一件だけ強盗を装い、遺体が一つない。特異点です。だから、その家のなにかが鍵だと思ったんです。知り合いのつてをたどって、証拠品だけ見ることが出来ました。行方不明の娘はまさに黒髪できつめの美人で、被害者像と一致します。ただ、他の被害者よりも年がいっていて、帝国女子医学専門学校を出た才女だったとか。いい年になっても嫁ぐことなく千駄木にあった陸軍の防疫関係の研究所にいたから、近所では相当の変わり者扱いでした。ともかく、なぜ一件だけ死体がないと考えているうちに、ついに浅草区で三人目の死体が出てしまった。最後の犠牲者です、ええ、あなたと会ったまさにあそこで見つかったんです。最後のあの娘は救えたかもしれなかったと思うと、遺体を見ているうちに憤りとも絶望とも言えない気持ちになりました。ところで、何故後悔が深いかというと、特高から逃げるために乞食として暮らしてる男がいまして、それが私の情報屋でした。私が憲兵から男とその仲間を庇ってやって、奴が代わりに見て聞いてくる。そいつが千駄木出張所の一団が新吉原や浅草で定期的に遊んでて、という話をしてくれてね。そこから辿り着いたのが谷中ですよ、そう、池之端じゃなくて谷中。憲兵の曹長が研究所に出入りしているというだけでなく、いつ会っても印象が変わらないという女将の言葉が気になった。死体の特徴と老けないと言われる男、偏見と言われたらそこまでだが、どうしても無関係とは思えないし、また千駄木だ。そして情報屋が千駄木の研究所から逃げた女の話をしてくれた。看護婦か誰か知らないが、その女にどうにか話を聞けないかと考えていたそのときですよ、砧の毒婦の記事が出たのは。読むと私が犯人に情報を流している張本人に仕立てられていてすぐに逃亡しましたよ。そして、勝手に犯人とされた医者を必死に探しましたね。行方不明の女医かもしれないと都合よく考えて。そうしたら一週間たたずに谷保村のはずれに本当にいた。自分の悪運に感謝したもんです。
     一日二日ぐらいかけて、私と彼女の情報をすり合わせて、そして近くの町から信頼できる男に電信を送りました。一発逆転を狙わないと獄中死ですからね。ただ、彼女は母親が殺されていたことは知らなかったらしく、私がそのことを告げたときは泣いていました。自分は千駄木で暴漢に襲われ、オキナガに成り上がったのはその時だと。研究所に出入りしていた柘植という男に助けられ、おかげでしばらくは研究員として勤めていたが、最終的には研究データをある程度持って逃げていたたわけです。協力者から返事が来るまで半月ほど彼女を保護して、そうしてどこか安全な場所に彼女を逃がす見通しだったのだけど、電信の返信が来たのは十日ほど経ってからです。施設が閉鎖されるまでの経緯は省いていいでしょう、そちらの方がよく知っていると思うので。そんなわけですぐに逃げる算段を始めました。さっそく明日の夜行で中央線を使って信越のほうに抜けようという夜に、谷中が憲兵を率いてきまして、まさに危機一髪です。逃げる時間を稼ぐために持参した南部式を何発か相手に撃って命中し、その隙に逃げました。師走の、雪が舞っていた夜のことです。ただその時に撃たれ、南雲は医師としてどうしても見逃せず血分けをしました、私が成りあがったのはその時です。
    昭和11年 浅草 街灯に火が灯るころになると、芝居小屋から吐き出された着飾った人たちが一斉に街を埋め、参拝帰りの人と混ざって、レンガ模様の壁に様々な影が映し出されるようになる。
     すると、それを目当てにしたルンペンたちもまた一日の施しを授かろうとさらに必死に物乞いをする。観音様の御心に触れ心豊かになった金持ちたちは気前よく書生風の男に十銭、二十銭と与えていくが、一方朝からほろ酔いの男が明日は我が身とばかりに冷たい視線を投げかけ、威嚇して去っていく。冬の夕焼けはたちまちに終わり、あっという間に空気が冷え冷えとして凍え死ぬ前に寝床に戻るまでの短い間が、その日暮らしの者たちの最後の稼ぎ時だった。
     愛想よくにこにこと穏やかに笑いながら、いつも大変だねえと使い古したブリキ缶に小銭を入れてもらうたびにありがとうございますありがとうございますと礼を述べる書生風の乞食の横で、後藤は紫煙を吸い込み、そして吐き出した。この無害そうな青年の持つ目と耳と知識は、日々憲兵にこき使われているこの身にあって、数少ない武器というやつだ。
    「あのカフェの給仕が死んじまったのは、後藤さんのせいじゃあないですよ」
     顔はにこやかに施しを貰おうとしたまま、声にだけ同情を乗せて、青年は後藤をそう慰めた。青年がいうカフェの給仕とは世話になった知り合いの元警官の妹で、兄が大陸に渡ったあとは、よしみでたまに顔を見せては互いに元気なことを確認しあっていたものだ。命が消え、傷口からばっさりとさらけ出た肉を犬たちが食べていたとかで、彼女の遺体はただただ無残なものだった。兄がその姿を見ないままなのがたった一つの幸いだが、しかし大陸で男がどれほど慟哭しているかと思うと、どこまでも心が沈む。
    「とはいっても、陸軍のお偉いさんらがあの遊郭に遊びに来るたびに、っていうところまで掴んでたんだ、少しは警戒するとか、出来たんじゃないかな」
     そう自嘲して煙草を落とし、力任せに踏みにじると、そりゃ無理さあ、と青年の突っ込みが入る。
    「これだけの女がいる街を旦那一人で? 自惚れちゃあいけないよ。人っていうのは結局観音様の手のうちに居て、死ぬときは死ぬし、死ねなくなったらそれはそれでそこまでってことでしょう。そして出会う人とも縁ってやつがある」
    「俺とあんたもか?」
    「そりゃそうでしょ」青年は口の端だけで笑った。と思うと、「憲兵っていうとね」
    「憲兵がどうした?」
    「この前引っ張られたアカ、ほら、中野さん、帰ってきましたぜ。明日荼毘に付すそうですわ。内臓がぐちゃぐちゃになるまで蹴られてたとかで見た女たちは気絶したっていうけど、遺体すら帰ってこない人に比べたら、土に還れるだけ運がいいってことですかね」
     後藤は返事をせず、ただ皮肉げに笑って煙草を地面に落とした。
    「俺だって明日には引っ張られるかもなあ。こうやって、危険因子と話してるんだから」
    「またまた、旦那ほどの危険な男はいませんわ。しかも調査不要って言われているのに、ついに何某曹長まではたどり着いたんでしょ」
    「その憲兵の谷中の動向を教えてくれたのはあんたじゃないか。それに本当はそもそもこういう仕事なんだよ」
    「そうそう、中野さんで思い出したけど」男はそこで後藤に煙草をねだるように指でジェスチャーをした。ここから先は有料ということか。いわれるまま一本恵んでマッチも渡してやると、青年は火を付けて上手そうに煙を吸った。
    「ほら後藤さん、千駄木に陸軍の研究所あるじゃないですか。あそこらへんから流れてきた野郎がね、アカらしいんだけど、なんでも仲間のなかでも運悪く目を付けられて憲兵が引っ張った人は、いまは憲兵から軍に渡されて千駄木に連れて行かれて、そうしたら出てこないっていうんです。あそこ防疫班のものだし実験でもしてるんだろうってことで近所じゃ誰も近寄らない。なのに」
    「なのに?」
    「五日前になりますか、その開かずの建物から真夜中に女が一人、宵闇に紛れて武蔵野の方へ去って行ったのを見て、へぇあそこから出る人もおるんか、ってびっくりしたって」
    「谷中も千駄木に出入りしてるっぽいんだよな。全くまた千駄木か」
    「また?」
    「いや、こっちの話。で、女がどうしたって?」
    「大方、実験に付き合わされてた看護婦が嫌気がさして逃げたんだろうが、あの手の施設からは逃れられないってぇのが道理なわけでさ、って後藤さんどうしたの」
    「いや、ちょっとね。偶然が三つ重なるのが、気持ち悪い質で」
    「あんたはそうでしょうな」
     後藤はしばし考え込んだ。
     成城の事件で遺体が見つかってない女医が勤めていたのも、その陸軍の千駄木出張所だ。
     あの大震災のころからずっと目撃されている、恐らくは浅草の切り裂きジャックであろう時が止まったような男。千駄木から来る憲兵。遺体の口の血、千駄木にある防疫班の帰らずの施設。成城の母の遺体と消えた女医、すべてにちらちらと千駄木出張所が出てくるのが気にくわない。どうにかして、その逃げた女とやらから話を聞けないだろうか。
     一瞬、その逃げた女が遺体が出なかった女医で、実は生きてはいないだろうかと、そんな夢想が頭をよぎった。生きていればいいのに。近所の人は二十歳どころか三十路を過ぎても結婚しないのだから、酔狂か石女なのだろうと軽口をたたいていたが、一枚だけ見た写真は知性的な目と凛々しい口元が印象的な、強い女だった。変わり者かもしれないが昔風にいえばモダンガールというやつだ。そして、その黒髪が美しい外見が今まで見つかった女たちと似た外見なのに思い至り、見てもいない彼女の死体を容易に思い浮かべてしまい、自分も業が深いと嫌になる。
     黙った後藤の横で、男はふぅっと白く息を吐いて、そして次に全然違う話を始めた。
    「そうそう、そろそろ哈爾濱に帰ろうと思うんですよ」
     人込みが二人の前を通り過ぎていくのを優しそうに眺めながら、青年は暗い心を隠すことなく口を開いた。
    「なんだい、ついに儲けがなくなった?」
    「そうじゃなくてね、もうどっちにしても駄目だって思うんですよ、わかるでしょ」
    「まあ、ねえ」
     マッチでまた煙草に火を点け、ふーっと煙を上に吐く。白いそれはあっという間に強めの風に乱され、そして消えた。
     すべてはこの煙のようなものだ。街の賑わいも、人の営みも、国の栄枯も。英米もわが帝国も、あと百年経てば消える。それが早いか、遅いか。それだけの話だ。
    「どうせ駄目なら、親の骨の側で朽ち果てたいと思ったんですわ」
    「そりゃ寂しくなるなあ」
     心からそう伝えると、青年はやっと後藤の顔を見上げ、「ありがたいことで」と告げた。
    「旦那はいつまで?」
    「俺? 俺はここの生まれだ、どこにも行けないよ。行くとしたら南洋か大陸か……どっちにしても前線だろうさ。そもそもこれから毎年、兵に取られるまでの間は兄さんの代わりにあの子に花を供えてやりたいし」
    「そうですか、せいぜい善く生きてってくださいさいよ」
     そう言ってよっと立ち上がった男を見送った。もう、半世紀近くも前の話だ。

     そして今、ここで、面倒な男に会うとは思わなかった。
    「あなたが調べていた砧の毒婦事件の最後の犠牲者はここで見つかりました。数年前から、年に一度、夜のうちに花を供えていく人がいると聞いたので、ようやく会えると思ったわけですよ」
     恐ろしく仕立てのいいスーツを来た眼鏡の美丈夫は、落ち着いた口調でそう話し掛けてくる。維新のころにはもうオキナガの身でありながら明治政府の中に入り込んでいたという男だ。つまり、権力をどう行使するかを知っている。確かにそれほどの男なら、軍部、そして公安が伏せていたさまざまな資料にも容易に触れることが出来るだろう。それにしても、ここ五年ほど油断していた。逃げている状況にあまりにも慣れ過ぎたのかもしれなかった
    「親父からの遺言だ、って言ったら、信じてもらえます?」
    「親子そろって瓜二つというのは確かにあるかもしれませんね。でも、あなたがオキナガに成りあがったと考える方が、より合理的ではないですか」
    「そりゃ確かにそうだ」
     後藤は意識せず、半歩身を引いた
    「で、俺がオキナガだったとして、こんなおじさんに、誰が血分けをするというのさ」
    「千駄木出張所の南雲でしたか。初めは死体を持ち去られたとされたのに、気が付いたらオキナガと晒され犯人に仕立て上げられていた女性がいるはずです。彼女の保護に動いたあなたは、その日からずっと彼女と行動を共にしている」
    「ロマンチックな話だ。で、そうだとして、俺にその砧の毒婦を渡せとでも? 確かにいまだに指名手配されているようだから、検察の手柄になるかもしれませんなあ」
    「あなたが息子だという与太話に乗るとして、まだ手配されていると、なぜご存じで」
    「逮捕されそうになったら、誰だって現状を悟るでしょ。戦争で全部終わったと思ったんだけど、千駄木の資料を持ってるっていうのはやっぱり忘れてはもらえないようで」
     自分と南雲の持っている資料が未だ価値があると改めて知ったのもその時だ。B29から落とされた大量の焼夷弾をもってしても、実験データをもって逃げた研究員とその逃亡を手助けし続ける元警官への手配書は消えはしなかった。これからいくら長い時を生きていくにしても、忘れられそうにもない。後藤が強く覚えていることと言えば、ここで死体を検分したときと、オリンピックがやってくると街が浮かれているなかで追われ、二人でまた上野へと走ったとき、そして、血分けされたあの日のことだけだ。
    「まあ気持ちはわかりますよ。兵士を人工的にオキナガに出来れば、旧日本軍は兵力において圧倒的に有利に立つ。そんな妄執を本気で信じる人が居てもおかしくはない。現地人の血液で兵糧不足もある程度解消だ。だからって、特高が拷問して死にかけてる人間を、最期まで有効利用して効率的な血分けの研究をしていたなんて、国が認めるはずがない。……ほかに方法がなかったとはいえ、オキナガの部隊自体はその後実現したと、戦後に聞きましたがね」
     竹之内はあえて答えず、代わりに全く違う話を口にした。
    「オキナガについての旧軍から公安部に管理が移行した資料の精査がようやく出来るようになりまして。おかげでようやくわかったことも増えてきました。例えば、砧の毒婦というまやかしを作り上げた、憲兵曹長の池之端という男だとか」
    「……池之端?」
    「どうしました?」
    「いや、別にね」後藤は自然に酷薄な笑みを浮かべた。「それにしてもだ、社会にはまやかしっていうやつが必要なのも知っているはずですよ。お互いにね」
    「いかにも」
     男は冷静なまま、川岸の家の灯りの方へ眼をやった。
    「我々はこの世界に置いて常によそ者で、よそ者というのは常に邪魔で都合のいい存在です。だからこそ、まやかしものに甘んじず国民として生存するためには力をつけ、故郷がない限り人は生きられないのだから、我らはここに故郷を作らなくてはならないのです」
     後藤はただ黙って頷いた。ついこの前、革命だと叫んで自滅した若者たちはそこを勘違いしていたが、アナーキズムを気取ったところで、二十世紀もあと四半世紀で終わる今、もはや国と個人と生命は切り離せず、故郷から追われた者は流浪の民としてすべてから切り離され、己の誇り以外何も持つことは出来ない。そしてもはや生存というのは、必ず帰属と直結するのだ。
     ひょうと風が吹き、枯れ葉が流される乾いた音と、風に乗ってきた電車の到着を告げる微かなアナウンスが聞こえてきた。日常の音だ。遠い昔に奪われ、二度と手元に置けなくなったもの。
     って、もしなにもなかったら寿命かどこかの戦地かでとっくにお陀仏してたから、どっちにしても関係ないものなんだけどさ。
     心のなかでついいつもの調子で独り言ちた時、竹之内が徐に口を開いた。
    「言った通り、私が知りたいのは事実です。千駄木出張所での実験、砧の毒婦事件の真相、そして、谷保八幡宮の死体について」
    「事実を渡して、こちらに得があるとは思えないし、面倒なことをうやむやにしていたいのはお互いに同じのはずだ。だから、彼女のことは、放っておいてもらえませんかね」
    「厚生省の役人として言えば、戦後も三十年が過ぎた今、オキナガが野良の状態でふらふらとしているという状況を良しとしたくないんです。職務ですよ。それに、互いに得になることなら、説得もされてくれるのでは?」
    「得ねえ。へぇ、例えば」
    「日常をお返し出来ます。具体的には、戸籍です」
    「……へぇ」
     後藤が興味を引かれたことを隠せずに声を出すと、竹之内は少しだけ笑うように口元をゆがめた。
    「オキナガが犯人とされた凶悪犯罪については、戦前からの手配をそのまま維持するという決定がなされているのはご存じでしょう。寿命を考慮しなくてもいいわけですし、その決定はオキナガの側からも支持されるべきことだ。しかし同様に、冤罪となれば、当然手配は撤回されなければならない。それが法治国家というものです」
    「冤罪なら、ね」。後藤は鼻で笑ってみせた。「そういうところは、戦前からなにも変わっちゃいないよ、この国は」
    「悲観的な方ですね」
    「そりゃ、仕事が仕事だったからね」
     無意識に顔が歪んだ。竹之内は黙って対岸を見たまま、一言「もう、三十年が経ったんですな」とつぶやいた。
     地獄を肌身に知っているのは互いに同じということか。橋を渡る電車を追うように対岸へと目をやれば、向島に、また日常が築かれていることに、さらにはビルが建ち並びますます街が広がり続けていることに、そして本来は見ることもできなかったその風景を今見ていることに、それらすべてに感銘を覚えている自分を発見した。
    「……私を信頼して、事件についての事実を記録したうえで、いま手元に持っている千駄木の研究所の資料を渡してはいただけませんか。南雲さんにはなんら不利益はありません」
     白地に青の車体がさらに一本川を渡ってから、おもむろに竹之内が告げた。
    「決して後退はさせません。そのためにも、協力をお願いしたい」
    しばし沈黙ののち、後藤はようやく決心がついたという振りをして口を開いた。
    「ま、どのみち勝負にはならないんだから、だったらあなたに乗ってみるのが、一番の策なんでしょうな。ただ」
    「ただ?」
     ようやく後藤のほうを見た男に、後藤は出来るだけうさん臭い笑みを浮かべてみせた。南雲に言わせると一流の詐欺師のそれだというとっておきのやつだ。
    「手配の撤回、二人分の戸籍、あともう一つお願いしたい」
    「もう一つとは」
    「大学医学部の受験資格。医師法変わっちゃったから、戦前の免状じゃ、たぶん無理でしょ? あの人はホオムズの小説を読んで、刑事に憧れたけど女が警官になれるものかと罵られて、それで助手のワトソンになろうと思ったんですと」
    そう聞くと竹之内は一瞬だけ虚を突かれたという顔をしたので、後藤はかすかながら胸がすく思いになる。「それともう一つ」
    「まだあるんですか」
    「これからすぐに聞きたいっていうんなら、公衆電話によっていいかな。日付を超えて戻らなかったら逃げろって言ってあるもので」
    「やはり、あえて今日、ここに来たんですね」
     納得したような竹之内の言葉に後藤はにっと笑った。
    「こう見えても職務には熱心でね。証人は全力で守らないと。……と、その前に最初の用事を済まさせてもらうよ」
     後藤はその場でしゃがみ、手に持った仏花をそっと供え、静かに手を合わせた。




     師走の雨も五日目に入るとひたすらに寒さが身に染みる。新築された合同庁舎の群れの一角、殺風景な会議室に通されてもうすでに十分ほど経っている。遠慮なく煙草を吸いながら、後藤はせいぜい大きな態度を取ってあの厚生省の役人と対面すべきかと考えて、すぐに意味がないなと結論を出した。
     川辺で待ち構えていた竹之内と取引をしてから、もう二十日ほど経っている。その間に自分と南雲は別々に聴取を受けて、別々にこの後のことについて説明を受けて、そうして今日それぞれがいくつもの書類に署名、捺印すれば、ついにこの長い逃亡劇も終わりを迎える手はずとなっていた。つまり、戦争もこの奇妙な縁も、もうすぐ終わりというわけだ。
     きっちり煙草を吸い終わったころに、ようやくドアが開いた。
    「お待たせしました、仕事が立て込んでいましてね」
    「十分ちょっとなんて、待ったことになりませんよ」
    竹之内が小脇に抱えている書類はそれなりの厚みになる。書類嫌いなもので後藤は少しげんなりした。女性職員が形式に沿って二人分のお茶を置いて行ってから、竹之内がこう聞いてきた。
    「さっそく手続きに入りたいところですが、その前に二、三お聞きしたいことがあります」
    「聞きたい、とは」
     竹之内は眼鏡を指で上げてから、書類を一枚取り出し、そして姿勢よく後藤のことを見た。
    「この南雲女史の証言によると、医学専科を卒業後、臨床に進むつもりが声をかけられ、陸軍の千駄ヶ谷出張所に助手として勤めることになった。研究内容はオキナガの生態と人間への再転化、ようはオキナガを症状と捉えたうえで治癒可能かと説明されていた。が、帰宅途中何者かに襲われ、その際に研究所職員の柘植という男に助けられる。自身もオキナガで、この研究に志願し国に尽くしている身だと説明した男は、南雲を助けようと血を分けたと素直に告白し、その時に転化を自覚する。そして彼女を殺した暴漢が野放しであること、さらに研究所から脱走したオキナガが容疑者であり動機は出張所への復讐だろうと告げられ、その後数か月ほどは保護という名目で千駄木に住み込み、柘植に厚く保護され研究に勤しんでいたが、ある日被験者と思われる死体の焼却を目にしたことをきっかけに事態を悟り、オキナガへの転化のための人体実験が行われているという結論に達し、告発のため複数の研究ノートをもって遁走。潜伏先で思案に暮れているところに後藤と言う警察官をと出会い、以後証人として保護されることになる。
     ここまではいいのですが」
    「はあ」
    「ここからです。千駄ヶ谷に出入りしている谷中という男が自分や母親を含む女性を殺して回っていることと、恐らくは成り上がりを試みて血分けを繰り返していると聞かされ、だとしたら柘植が話していた自分を襲った男はその谷中であろうと考え、後藤に資料を託すことにしたところ、千駄ヶ谷の施設は閉鎖され、自分と後藤が殺人の犯人とされた。慌てて逃げようとしたところで追ってきた憲兵に見つかり、逃げたが最後あなたともみ合いになった男を、自分が南部式で撃ったと。あなたが成り上がったのもその時だ」
    「……ありゃ」
    「嘘をつけない性格の人に、嘘をつかせようとしたあなたの判断ミスでしょう」
    「嘘じゃなくて方便だって納得してくれたと思ったんだけどなあ」
     わざとらしく嘆息すると、
    「谷保八幡宮の死体について、誰かが起訴されることはありません。そもそも時効ですから。……なのにあなたは何を隠して、彼女のなにを守りたいのですか」
     後藤は小さく息を吐いた。
    「それ、言わないと駄目ですかね」
    「出来れば」
     ドアの横にある時計がカチカチと秒を刻み、二回ほど回り切ったところで、後藤は重い口を開いた。わかっている、どのみち、すべては終わっている。
    「ただ、この国に記録されるならおとぎ話のほうがいい、と思っただけですよ」
     不意にまた記憶はまた四十年前へと飛んだ。少し気を抜けば、いつだって四十年前に引き戻される。

     憲兵に追われ浅草を逃遁してから、後藤は事件の真相を探ることにしがみついた。恐らくは最後の事件として冥土の土産にしたかったのだ。恐らく自分は最後捕まって、アナーキストに仕立て上げられて拷問死でもするのだろう。ならば、最後にすべてをみてやりたい。
     事件の概要をざっと振り返って気になるのは一人死体が上がってない南雲という女医のことだ。彼女が学生時代に世話になった恩師ならば、少しは彼女の話を聞けるのではないか。あるいは――彼女が生きているのならば、頼るのはその恩師なのではないか。
     そう踏んで恩師の家に足を運んでみたところ、恩人が満州に渡ったあとの無人の家に隠れていた南雲がいたときの爆発するような高揚は、七十五年の生の中で一番のものだった。
     被害者が一人減った、夢想ではなく本当に生きていたという喜びは、彼女が血分けされたという事実によりすぐ打ちのめされるものの、少なくとも人生を無残に断たれた女性は一人減ったのだ。もっとも南雲の方から見れば、陸軍から逃げていたら、突然うだつの上がらない中年が突然現れて、「生きてた……!」と泣き叫ばんばかりに抱きしめてきたのだから、恐怖とか困惑の方が強かったに違いないのだが。
    「あれは本当にうれしかったなあ……。警察なんて、基本後始末で報われる仕事じゃないから」
    「わかります」
     竹ノ内に許可を取ってから、もう一本煙草に火をつける。
    「浅草から逃げるとき憲兵ともみ合って、ちょっとあばらのあたりの傷が膿んでたもので、そのあとすぐ倒れたもので、その時から彼女にとって、俺は患者なんですよ」
     紫煙を吹き出しながら、自然と笑みがこぼれた。
     よかった、本当によかった、と抱きしめたところで気が緩んだのか、痛みで倒れこんだ後藤を南雲は慌てて介抱し、そのあと手当をして寝かせながら、彼女はずっと小言を言っていた。
     曰く、なんでこんな傷で動き回っているのかとか、包帯の巻き方がよろしくないとか、痛み止めの代わりにウヰスキーを飲む阿呆がどこにいるのかとか。後藤は後藤で、言われるままに服を脱いだり横になったりしている間、セピアの写真ではわからなかった、透けるような肌に映える黒髪の美しさときつい物言いしかしない聞きほれるような声と、そして人とは思えない低い体温にばかり意識が行って、強いようで幽玄の世界にいるような女性だと、ずっと見惚れていた。
    「幽玄というのは言い様ね、確かに生きてないのだから、幽玄の住人なんだわ」
    「なんでも西洋の偉い学者さんによると、人と言うのは脳やら意識により司られてるらしいよ。だとしたら、オキナガだろうが人間だろうが、結局は生きていることに変わりはないんじゃないですかね。心臓とかはその人の機能でしかなくて、機械にとっては動けば機能の違いなんぞ関係ないでしょ」
    「ずいぶんと適当な人ね」
    「俺にとっちゃ、犠牲者が一人減って、証言が取れればその人の心臓にまで気なんか回りませんわ。ましてや患者にとっては大事なのは医者の腕だ」巻かれた包帯は、資料から推し量っていたとおりの、几帳面でしっかりとしたものだった。「過去巻かれたなかで一番だよ」
    「包帯巻いただけでそこまで褒められることがあるなんて思ってもなかったわね」
     南雲は面食らったようにそう言って、やがて「なんでかしら、ほっとしたわね」と小さく笑った。
     後藤は商科大学から霞ヶ関にいる縁故の刑事に千駄木の施設を探れないかと電信を打ち、成り行きから二人でしばらく過ごすことになった。
     初めの二日、三日こそ互いに緊張があった。後藤の方はオキナガなんて会ったことがなかったし、南雲からみれば見知らぬ男と屋根を共にするのだ。しかし後藤の存在に馴れるに従い、彼女も徐々に表情が豊かになっていった。夜になると南雲が後藤の包帯を替え、後藤が寝るまでの数時間だけぽつぽつと会話をして、そうして明け方に起きると南雲は押し入れで一人寝入っている。確かに難儀な体質だなあ、と、後藤は一人朝餉を食べながら思ったものだ。
     南雲は賢く、勝気で、生真面目で、自分が関わっていた研究が人の命を弄ぶものだったことのみならず、自分が家族の死まで引き寄せたのかと打ちのめされていた。それらは彼女の責任ではなかったが、しかし慰めの言葉を持たない後藤は、ただ気晴らしになるような下町の話をしたり、調子外れの浅草オペラを口ずさんで、あとはただ奇妙な距離感で傍にいる。そうして半月ほどが過ぎて行った。
     それは今も同様だな。ふー、と煙を吐き出すと、ガラス製の重そうな灰皿で短くなった煙草を消す。
     竹之内は長く生きているだけあって、辛抱を知る聞き上手な男だ。今も取り留めなくなってしまう話を、黙って聞いている。
    「そして、新聞で、濡れ衣を知ったと」
    「毎日電信の返事を待っていたが、もうどこもかしこもとっくに身内同士で監視しあってて、いくら仁義に厚い人でも秘密を隠し切れる状態じゃあない。下和田の売店で新聞の見出しを見た瞬間に、今日の夜には出ないといけないと悟った。相手も無事逃げてくれることを祈りながら慌てて家に戻ったよ」
    「その知り合いの男性は」
    「国に忠誠を示すことで生き延びようと思ったんだろうなあ。すぐに軍に転属して、最後は硫黄島にいたそうだ」 後藤は行儀悪く両手で頬杖をついた。
    「背負わなくてもいい命を背負わされたのはあの時代ならよくある話だ。ただ、死ぬときにチャラになるなんてことが俺たちにはないだけで」
     竹之内はその言葉を受けるように静かに目を閉じた。後藤はその目の奥にある意味をよく知っている。だからあえて、「で、あなたが聞きたいのはこれからの話の方でしょう」そう後藤が話を続けると、竹之内は黙って先を促した。
     さて、と口を開こうとして、しかし後藤は言いよどんだ。ここからはいまだ喉に刺さった棘を見せるようなものだ。だが、すべてを終わりにして、互いを自由にすると決断したのも自分だ。
    「……ところで、愛していたり、自分を大事にしてくれた人がなにかとてつもない罪を犯していたとしたら、人はその人をすぐに切り捨てられると思いますか? 幻滅して、手を離せると」
     どう話そうかと思案したすえの言葉だったが、竹之内はかすかに揺さぶられたような表情をみせた。しかしそれもすぐに消える。無言を相槌として、後藤は続けた。
    「情っていうのは厄介なものですよ。スイッチのように簡単に切り替えられるわけじゃない。脳みそでこいつは悪人だとわかってても、心が追いつかないのが人ってもんです。だから、南雲が研究所の色々を目撃して、柘植こそがこの研究の核の一人だとわかっても、そこにあった情は切り捨てられるわけじゃない」
    「つまり、そういう関係だったと……?」
    「年若い女を囲うっていうのはそういうことでしょう」ああ、嫌な声になってるなと後藤は思った。「南雲だって、もともと腕を買われて助手になったという自負があるわけで、柘植に仕事を振られ力になったと言われるほどに存在を依存する。とはいえ、実際に夜伽まで行ったかは正直知らないんです、聞くのも野暮ってやつですしね。でも戦前の頃なら男女としての年齢もちょうどよいし、それなりに幸せだったんでしょうなあ」
     出来るだけ淡々と話してるつもりだったが、竹之内の眼鏡に映った顔が目に入って、後藤は改めて顔を作り直した。
    「南雲は逃げるとき、女学校時代の友人にのみ電信を打ったんです。恩人の家に身を寄せるから心配するなと母に伝えてほしい、と。その情報と私の打った電信で見事居場所が割れた。簡単なミスですよ」 
     そこでしばらく沈黙したのち、竹之内はそもそも、と口を開いた。
    「……ずっと気になっていましたが、そもそもオキナガ自体それほど数がいるわけじゃなく、ましてや同じ場所に二人のオキナガが出入りしているなんて偶然が記録されてないはずがない。つまり」
     谷中は柘植か、と言われた後藤は目を伏せ、もう一本煙草を取り出した。
    「そういうことです。彼が南雲を探し出したら、連れ戻しにくるのは火を見るよりも明らかです」
     恐らく、自分の犯行を暴いた後藤のことなど本当にどうでもよかったはずだ。所轄の警官が一人、事の真相を掴んだとしても、オキナガの人体実験を餌に軍部に食い込めた男にとっては葬り去ることは造作もないことだ。しかし、一方で殺した女性をオキナガにすることにあれほど固執していたのだから、唯一の成功例は手元に置きたいに違いない。
     あの日は津々と寒さが地面から、空からと迫ってくる夜で、雲のせいで漆黒の中、立川の町の灯りがぽつぽつと目に入った。新聞を手に慌てて帰って、まだ夕方前だが押し入れの中の南雲を叩き起こす、新聞にわざわざ話したのは、これを目にした南雲への、君を見つけたという伝言に違いない。だから、犯人は必ず彼女を回収しにくる。収集家というのはえてしてそういうものだからだ。
    「中央線でひとまず甲斐の方に抜けよう。長野までいけば、幾つかつてがあるんだ」
    「今日の夜行で?」
     南雲は新聞を握りしめそれでなくて血の気のない顔をさらに青くしながら聞いた。
     母親を皮切りに五人ほどの女性を殺し、生きるために生き血を啜ったことになった毒婦は、よく見れば手も震え、困惑と怒りと、そして悲しみが混ざっているのがよく分かった。
     後藤が証言をとっているとき、南雲は柘植は知っているが谷中という男は知らない、とだけ告げていた。後藤は偶然が嫌いだし、彼女だって本当はわかっているだろう。ただ、彼女にとっては、後藤が追う容疑者の可能性が高く、そして人体実験を行う冷酷な男であると知ったところで、なお自分を助け、評価してくれ、そして惹かれた男の姿も事実であるのだ。理性ではわかっているものを感情が拒否をし、理性が働いている証拠に、南雲は後藤に言われるまま、鞄一つに手早く荷物をまとめ出立の用意を終えているが、感情が強い証拠に何度も新聞の見出しに目をやる。活字の向こうにいるものの意図を必死に汲み取ろうとするように。
     だからこそ、いざとなれば南雲だけでも逃がさなくてはいけない。彼女は後藤の推理を裏付ける大事な証人である前に、生き延びた被害者であり、自由に生きる権利を有する人間なのだから。
    「出来れば今日の夜行で」
    「本当に急ね……」
     言いながらふと窓の向こうに目をやった南雲は、そこで固まった。時刻は闇に包まれた、夜の八時。
    「後藤さん、あれ、遠くの灯り」
     後藤は無言で立ち上がると、南雲にも顎で決断を促した。一瞬の間を置いて、彼女も立ち上がった。できれば国立か立川に行きたかったが、行ける方角は天満宮の方しかない。恐らくは追い込むための罠かもしれない、だとしても今はそれに乗るしかない。
     ろうそくの火を消して、そっと家を出る。向かってきてるのは憲兵かそれとも。とはいえあの距離ならあと十分以上は時間があるはずだ。促して歩き出そうとして、しかし後藤は一旦立ち止まり、肌身離さず身に着けていた愛用の南部式を南雲に手渡した。
    「いいか、万が一のときは誰であろうが撃て、追手とあなたの間に俺がいても、だ。そして俺になにがあろうが振り向かずに逃げろ。松本に引退した榊っていう技師がいるから、それを訪ねるんだ」
    「遺言みたいなこと言わないでよ」
     南部式は受け取りながら、南雲は小さな声で抗議した。
    「万が一ってやつだよ。南武鉄道で川崎、東海道線で名古屋まで行って、中央本線。谷保から川崎なら、まだ最終に間に合うはずだ」
     急ごう、と後藤は南雲を急かした。


    「焦っててそこしか進みようがないと判断するときは、大抵誘いこまれてるわけで。谷中自ら、八幡宮のあたりで待っていたんですよ」
     後藤に釣られるように煙草に火をつけ、竹之内は静かに言った。
    「そして彼女は撃てなかった。あなたが隠したかったのは、そのことですね」
     先ほど火をつけた煙草は、大して吸うこともなく灰になっている。後藤は笑った。
    「……当たり前じゃないですか、撃てないに決まってる」
     目の前の影に走り出しながら走れ、と捨て置いて、傷をかばいもせずにもみ合ってるその最中に、「柘植さん……」と絶句する声が聞こえたとき、後藤は一瞬、やはりと思ったのだ。それが、加勢をしなくてはならないという、無謀だが勇気に満ちた行動とったことに対してか、男が誰か確認をせざるを得ない心の機敏に関してか、あるいは、名を呼ぶ声に肌の温度を知る同士に向けた情の色があったことかはわからなかった。
     いずれにしても、南雲が拳銃を構えたまま放心しているのを認めた、その瞬時の油断がすべてを決した。
    ざっくりと肉を斬られる冷たい感触があり、左腕の力が抜ける。
     熱いと錯覚しそうな痛みと血が流れる感触が一気に押し寄せ、後藤はそのまま地面へと崩れていく。
     咄嗟に右手で斬られた腕を抑えるが、その手がたちまちに濡れていき、そのまま倒れた目の前に血まみれになった帯刀が転がるのをみて、ああこれが獲物だったのか、と、場にそぐわないことを思う。
     不思議なことに痛みを感じなかった、恐らく痛覚の限度を超えたのだ。どくどくと流れる血を感じて、翳む視線の先に軽く手を広げるように女の方へと向かう足が見える。南雲の顔が見えないのは救いかもしれない。が、次の瞬間、聞こえたのは怒号のような慟哭と何発もの銃声。
     崩れるように前に倒れる男の身体、その向こうから軽く匂う火薬の匂い。
     後藤はなぜか安心した。あんたはためらってなんかない、恥じることはない、戦って、あとは逃げるだけだ、すべて忘れろ、そして走れ、夜の中へ。
     しかし、次に聞こえたのは南雲が後藤のところへと走り寄る足音で、彼女はためらいなく着ていた上着を脱いでそれで止血を試みながら、後藤さん、後藤さんと何度も呼びかけてきた。その向こう側には今のところ倒れている男の姿。なんでこっちにいるのかと不思議さからなんとか目を開けると、泣きださんばかりの顔で南雲が後藤に話し掛けてくる。
    「意識を飛ばしちゃあだめよ、とりあえず止血して、それから縫うからそれまでは起きていて。ねえ必ず治るから」
    「無理だよ、わかってるでしょ」
    「無理なわけないでしょ、主治医の前で死ぬ患者がどこにいるのよ!」
     無茶苦茶なことを言いながら涙をぽろぽろとこぼす南雲に、後藤は報われたような安堵感を覚えた。
    「よかった」
    「なにがよ」
    「守ろうとした女に看取られながらお陀仏なんて、まさに男の本懐だよ、だから……」
     幸せに、という声は音にならなかった。どうやらしゃべりすぎたようだ。せめて最期は笑顔でいようと顔を動かしたが、果たしてどんな顔をしているのかわからない。
     視界はあっという間に奪われていき、身体がどんどんと冷たくなっていくのがわかる。死ぬとはこういうことなんだなと薄れゆく意識の中で後藤は納得し、そして死ぬことに奇妙な安堵感を覚えた。人生はこうして終わる。南雲には少しでも長く、月の下で生き延びて欲しい。
     げんきで。最後にそれだけ伝えたかったという思考すら霧散したとき、耳に小さな声がはっきりと聞こえた。
    「でも、信頼できる人はこの世であなただけなの、一人にしないで」

     話せば十分ほどでまとまる、長くもない出来事なのに、こうして口にするとやはり鈍い疲労を感じずにいられなかった。
    「あの時、谷中は武器を持っていなかった。一度は躊躇したこと、それで俺が致命傷を負ったこと、無抵抗のものを撃つことで自分の手を直接汚してしまったことと、治したい一心とはいえ相手の遺志を無視して血分けをしたこと、そうして結局谷中と同じことをなぞったことが、千駄木での生活と結びついて、それが彼女の罪というわけなんでしょう。結局、同じところに堕ちてしまったのではないかと。その後、逃げてる間は一人にしないことが贖罪となった」
     いつだって、後藤の意識は四十年前のあの夜、神社の社で目が覚めたあの時に戻される。覗き込む南雲の顔は泣きだしそうで、慰めてあげたくてそろそろと手の甲で頬を撫でると、南雲は断罪を受け入れるような顔で目を閉じた。その感触が、表情が、忘れられない、
    「あとはお話した通りです」
     後藤がそう終了を宣言すると、竹之内は表情を表さないまま、後藤に軽く一礼した。
    「……長い聴取になりましたが、ご協力感謝します。ところで」
    「まだなにか?」
    「いえ。ただ、池之端として勤務して谷中として人を殺し、柘植として人を弄んだ男は、結局誰だったのでしょうね」
    「……千駄木にいて、池之端と谷中と柘植って名乗ったんだから、だったら間を取って、根津、ってことでどうしょうかね」
     つまらない冗談のつもりだったが、その時初めて、竹之内は微かに笑った顔を見せた。

     来たのは午後五時ごろだったが、うんざりするほど書類に署名と捺印をして、結局すべて終わったのは午後八時前。役所というのは効率的、合理的を目指してどんどん煩雑になっているなと後藤は首を回しながら思った。廊下のベンチには南雲が所在投げに座っていたが、後藤の姿を見るとほっとした顔を見せた。
    「戦後へようこそ」
     そうおどけて見せると、南雲は目を丸くしてから、「輝かしい二十世紀ね」とだけ言った。それはつまり、自分と南雲の間に、ついになにの関係もなくなったことを意味していた。
    今、二人は自由だ。
    「これから、どうする」
    後藤の問いかけの意味を、南雲は恐らく正確に読み取った。その上で。
    「……牛レバー」
    「え?」
    「牛レバーと、あとロース。疲れちゃったからどこかの焼肉やで思い切り食べていきましょう。ちょっと炙る振りでもすればきっと誰も気にしないわそして、明日のことは明日に、それ以降の事はそれ以降に考えることにして。……まず今日は、帰りましょう」
    そうしておずおずと差し出された手を後藤はまじまじと見つめた。
    2016年 新宿 戸山 あかりが戸山のクリニックを訪ねたのは、前回、久保園と通常業務で訪問してから十日ほど経ったときだった。夏が近づき、ほぼ同じ時刻に到着したというのにまだ日は暮れていない。
    「先生、確か二、三日で、って言いましたよね」
     ジト目でそう訴えると、あらーそうだったかしらーと言わんばかりの目で、南雲は「ごめんなさいね、死んでもいい加減なところって直らないものねー」と笑ってごまかしてくる。
     等々力で二人の調書に目を通してからは五日が経っている。文に現れていた、生真面目だがどこか陰気で力を失ったような女は目の前にはおらず、今いるのは、どちらといえば勝気で真面目で、さらに闊達さを持ち合わせているような人だ。
    「で、今度こそ、いつ頃になりそうかわかりますか」
    「今日か明日には帰宅するって連絡が」
    「先日もそう言いましたよね」
    「そうだったわね」そうして笑って誤魔化しながらやけばちな口調になった。「それとも、とうとう帰ってこないかも」
    「それはないと思います」
     思わずそう返してしまうと、心底思ってもいないものを見たというような顔で南雲があかりの事を聞いた。
    「どうして?」
     実はあなたたちのことをちょっと調べまして、なんて言えるほどずれているわけではない。が、嘘をつける性格でもないので、あかりは慎重に、しかし思ったまま口を開いた。
    「だって、待っているのは勇気で、帰ってくるのは信頼じゃないですか」
    「え?」
    「あ、あの、だから」あかりはさらに慌てて言葉を重ねた。
    「物事ってジグソーパズルみたいなもので、似たパーツを持ってきて無理無理はめて、そうして一見整ったようにみえても、パーツが合ってないとやっぱり壊れちゃうわけで」
     口頭試問のように必死に言葉をたぐりながらあかりはうっすらと自覚する。
     私はいま、この人たちの、そして魁と竹ノ内の、按察使邸の人々の話をしている。
    「だから、半世紀も一緒に居られるというなら、それはピースとピースが合ってるってことなんですよ。だから、過去は過去としても、いま人と人として時間を分かち合えてるのって、つまりなんだかんだいって信頼し合っていて大丈夫ってことだと思うんです。だって長い時間を生きるのに一人じゃないって、すごいことじゃないですか」
     あかりの言葉を目を丸くしたまま聞いていた南雲はやがてふと優しい笑みになって、片手で頬杖ついた。
    「それにしてももったいないわね」
    「なにがです?」
    「あなたぐらい客観的に親身になれるタイプなら、いい医者になれるでしょうに、資格を取ってないないなんてね」
    「あ、どうもありがとうございます……」
     褒められたのだろうと頭を下げると、さらに小さく吹き出す声が聞こえた。

     夏至が過ぎたばかりの頃は、四時ごろにはもう空が白々と照らされてくる。空梅雨ながらもところどころ雲に覆われた東京は、古びた蛍光灯に照らされたようにぼんやりとした光に包まれ始めてきた。
     そろそろカーテンを閉めて寝ようかというあたりで、玄関のドアノブが回される音がした。もうちょっともうちょっととメールをよこし続けて、結局予定から半月遅れの帰還だ。時間に縛られないものだからと調子に乗って、調べものに没頭するといつまでも凝り続けてしまうところがあるから、戦後生まれだったら刑事畑でさぞ才能を発揮できたに違いない。もしいつかオキナガに対する就業規則が緩くなって警察官にも門戸が開いたなら、自分が医師免許を取り直せたように、調べものの下請け業は止めて、もう一回警察官採用試験でも受けてみたらと勧めてみようと、南雲は常日頃から思っている。もっとも、宮仕えから解放されて幸せだとたまに口にするのだから、本人にその気はないだろうが。
    「ありゃ、起きてたんだ」
     真っ白い髪を雑なオールバックに整えて、四十路前で時が止まった顔の若さとちぐはぐな印象を与える男は、パジャマを着て遮光カーテンを閉めた部屋で座っていた南雲の顔を見て不器用に笑った。
    「夜間衛生官局の人に注意されたのよ、明日にでもさっさと診断に行ってきて」
    「ああ、本当面倒だよなあ、権利と管理っていうのはどうして一体なんだかなあ」
    「後藤さん」
    「行きます、起きたら早速行きます」
     笑って誤魔化しながら服を着替えていく後藤の後ろ姿を目にしながら、「今回から夜間衛生管理課の新人が担当するそうでその挨拶も兼ねてたんでしょうけど。そういえば言ってないことがあるなって思い出したの」
    「定期診断のほかにもなんかやらかしてた? それとも仕事でも振られた?」
    「そういうことじゃなくて」。
     南雲はしかしいったん口を閉じた。あの時、夜間衛生管理課で手続きをすべて終えて、帰ろうといっておずおずと伸ばした手を、帰ろうと握り返してくれて以来、ずっと帰ってきてくれることが嬉しいのだと、信頼しあえる人といることが嬉しいのだと。それを余すことなく伝える言葉を一瞬見失ったからだ。
     待っているのは信頼、帰ってくるのが勇気だと思っていたけど。
    「あなたがここにいてくれて、うれしいって」
      結局思ったままのことを伝えると、後藤はネクタイをほどいた手を止めて、南雲の方を見たが、やがて「それは、自信になるなあ」と嬉しそうに笑った。

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    2022/07/02 16:55:31

    ジグソーパズル

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    #白暮のクロニクル #クロスオーバー #ごとしの
    コミックマーケット93で発行しましたごとしの×白暮のクロニクル合同誌『刻まない時 旅の始まり』に掲載いたしました小説の再録です。
    パトレイバーではなく白クロのパロディなのでごとしのとしては変則ものです。また原材料にP2成分が含まれますのでお気を付け下さい。

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