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    拝啓、神楽坂にて 夏の熱を存分に貯めて足を焼くような神楽坂をのぼり、風も吹かない横道を二つ曲がると、古びて暖簾も色褪せた蕎麦屋が目に入ってくる。建付けが悪く、黒くくすんだ引き戸を開けようとすると、中から扉が引かれ、ショートカットの日に焼けた女性と出会い頭にすれ違う。すみませんと頭を下げながら中に入ると昼もとうに過ぎたというのにそこそこの客がいて、みな一心にざるを食べていた。知る人ぞ知る名店というやつなんだろう。松井は生憎グルメとは程遠い勤め人なもので、今日までこの店のことは知らなかった。
     狭い店内をぐるりと見まわすと、探してた男はカウンターで一人蕎麦湯をすすっていた。挨拶を交わすわけでもなく隣に座り、手で顔を仰ぎハンカチで汗を拭いながら奥の厨房に向かい「もり二枚」と声をかける。と、男が小さく笑うのが聞こえた。だからその腹なんだよ、と言わんばかりだ。うるさい、この仕事は体力と気力がすべてだ。今日お前の隣にこうやって座ってるのも、靴がすり切れて息切れるまで歩いて、地道に這ってでもすべてを見て聞いてきた先の成果だよ。
     男を挟んで反対側を見れば、きれいに食べ終えたざる一人前が置かれている。自分が来るわずか前までそこにいたであろう人は、もう影すら残っていない。先に帰したことは明白であり、まるで初めから自分が来るのを見通していたかのようだ。
     いや、実際そうなのだろう、この男はいつだって底知れない。これが見通せないのはただ一人、隣にいたであろう女だけだ。
     男は相変わらず茫洋とした目で、ゆっくりと蕎麦湯をすすっている。ざるの横には半分ほど残っている漬物。少しはこちらに時間をくれるつもりらしい。この男が譲ってくれるのはこの世でもほんの一握りの人間だけだが、そのリストに自分が入っているのが、当たり前のようで実は不思議なことだった。
    「……女は元気かい?」
     思い切ってまず切り出して見たが、果たしてこれが正解だったかどうか。しかし、男は感情なく「女?」と聞き返してくる。
    「なんだっけ、前、まだあんが下町に住んでたころ囲ってただろ。あの、誰にでも足を開く股の緩い女のことだよ」
     男がかつて自分に伝えたとおりに描写してやると、ようやく男の顔に感情が乗った。
    「さっきまで横にいたよ」
    「だろうな。元気なのか」
    「おかげさまでね。事務員兼調査員。昔から書類仕事は得意だから助かって助かって」
    「そりゃよかった」、率直な感想を吐き出す。「あの人は、伏せて閉じこもってるのは似合わないからな。動いてるほうがいい」
    「同感だね」
    「お待ち、もり二枚です」
     店員がカウンター越しに盆を突き出してくる。二八の白い蕎麦に黒い割り下は見てるだけで食欲をそそられるものだった。そういえば今日は朝に食パンとコーヒーを詰め込んだままだ。箸を勢いよく割って、おざなりに手を合わせてから、徐にひとふさとり、すすった。美味い。そのままわさびもネギも入れず、勢いのままさらに三口食べてから、
    「それにしても東京にいたとはな。てっきり、遠くにいると思ってたよ」
    「遠くにいたよ。この春まで鹿児島と沖縄の間に」
    「なんで帰ってきた? 退屈だったからか?」
    「そりゃ退屈なんてもんじゃないよ」男は喉で低く笑った。「駐在すら寝てる平和なところでね、骨埋めてもよかったんだけど。……でも、やらなきゃいけないことがあってね。いや、やらなきゃいけないと説得されてさ。俺としてはほっといてもよかったんだけど」
     この男は一見人に心を砕く素振りをしながら、その他人がどう不幸になろうが気にしない冷酷なところがある。ここまで人に関心がなくて、よく中間管理職なんて勤められたものだ。そんな男を動かせる人間はただ一人しかいない。元同僚、誰にでも股を開くと侮蔑した女。Famme fatale、ただ一人、運命の人。今回のその放っておいてもよいこととやらも、女がそれを良しとしなかったから、やらなきゃいけないことに格上げされた。そして文字通り命を賭けてこの街に戻ってきた。
     つまり、女と男の過去にかかわることだ。
    「俺たちにはなんの責任もないっていうのにね」
     松井が聞いていようが聞いていないがかまわない調子で、昔通りになにを考えているのかみせないまま、男が淡々と愚痴った。それはあの事件に巻き込まれた誰もが同意するだろう。
     成熟出来なかった壮年の無責任と現実逃避と、そして勝手なわがままと思い上がりの末に、誰にもまったく関係のないところで起こった事件の最後、まず一人がだだをこねた子供のご褒美として一方的に巻き込まれ、たまらず手を伸ばした男と二人揃って、最後はすべての誇りを奪われ、そして地の底、黄泉の彼方へと堕とされた。事件が解決し、後始末の為に修羅場に引き戻されたあのころの男の荒れ具合を知ってる身として、人形と扱われて巻き込まれたとはいえ、それに流されるほどに愚かで未熟だった女に、結局はすべてを捧げる男の酔狂には呆れと羨望を同時に抱いてしまう。
     思えば最後、姿を消す前に言葉を交わしたとき男は何て言ってたか。
     そうだ、今同棲しているのは、確かに誰にでも足を開く股の緩い女だが、でも、「清濁は一緒に飲んだ方が楽でしょ、だって人はさ、必ず間違えるから」だったか。間違いを間違いだとそれぞれが認めたのなら、女が自分の虚けに向き合い、何かに対して過ちを償うとしたのなら、それ以上立ち入ることはない。黙ってわさびを乗せた蕎麦をすすったとき、男が不意に言った。
    「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、ってね」
    「だから清濁併せ飲もうと?」
    「そういうわけじゃなくて、許すとか信じるとかはもう俺の方の問題だから、気にするなって言ってるんだけどね」そう言って蕎麦湯をすすると、手に持った器を振って、「蕎麦湯お替わり」
    「腹、たぷたぷにならないのか」
    「ここ、蕎麦湯が美味いんだよ。……お替わりしていけばよかったのに」
    「悪かったな」
     隣の空席を見て恨めしそうにいう姿はまるでのろけているかのようだ。自分が来ることがなかったら、二人で腹をたぷたぷにするつもりだったとでも言いたいのだろう、一見仲が良くてよろしいことだ。
     しかしだ、箸休めの白菜の漬物を口にする。
    「そうは言っても難しいだろ、ましてやあの人の性格じゃ」
    「そう、……俺の大事な人はそういう人だから」
     さらっと言ってのけたその声色に思わず男の顔を見た。その顔に浮かんでいるぞっとする優越感を、気恥ずかしいほどの惚気を、狂気を感じるほどの、独占欲を。
     そうだ。松井は横で見ていた、見たくもないものを見せられた。人間がその誇りも過去も未来も奪われるまでの出来事を。それはどこにでもある痴話話でしかなく、互いのすべてを賭けたただ一つの悲劇でもある、それが恋愛と呼ぶものなのかはわからないが、間違いなくそこにあったものを松井は見たのだ。
     男が女といつ再会し、その後なにがあって、どう自分自身と向き合い、いつ互い同士を補い、再建し合ったのか。間違いないのは、隣の男にとって女は美しくも優しくもないゆえに、命を賭けるただ一つの理由だということだ。それを愛と呼ぶかは松井にはやはりわからない。一つだけ確かなのは、そこには一切関わらないほうが吉というやつだろう。
     その代わりに、二枚目のざるに取り掛かりながら違う質問をする。
    「このあたりに住んでるのか」
    「教えると思う?」
    「目撃証言が神楽坂に集まってるんだよ。少なくとも勤め先はこのあたりってことだろ。というか、事務所か」
    「依頼料、あんたなら安くしとくよ。腕はいいからね」
    「よく知ってるよ。するってえと、いまは夫婦探偵ってやつか」
    「ま、入れる籍もないけど」
     皮肉な響きも隠さず嗤う男は、数年前、最後に会った時よりさらに痩せ、髪に、肌に、年月の分の重みが刻み込まれていた。ただ、気を抜いているようで隠しきれないほどの酷薄な鋭さは、一層磨きがかかったようだった。
     果たしていま女はどんな姿なのか。ふとそれが気になった。集まった目撃情報はすべて男のものばかりで、長く手入れされた黒髪が幽霊のように美しかった女性の姿は、今日に至るまで誰の目にもとまってはいない。
    「しかし、事務所も替えないとな。せっかく家賃が手ごろだったのに」
    「誰にも言わねえよ」
     これは初めから決めていたことだった。男がなににあきれ果て、絶望し、最後すべてを捨てて東京から遁走したのか。それを推測出来ないほどに鈍くもないし、国のお偉いさんよりは古い知人との繋がりを優先したい。そうしてまだ、自分はどうしようもないほどに人間だと、自分に証明したかった。
    「だから、今度なんかあったら力貸してくれよ、負けてくれるんだろ」
    「脅されてる気分になったんだけど」
    「もちろん、脅してるんだよ」
     大真面目で返すと、男がようやく、知った顔でやわらかく笑った。
    「脅されてるなら仕方ないな。当分の間は昼、このあたりの蕎麦屋にいるから、本当に困ったなら探しに来て」
    「連絡先とかないのかよ」
    「そりゃ、こう見えても逃亡犯だからね。本庁の人間になにかを渡すわけないじゃない。罪状はなんだっけ、証拠隠滅? 犯人隠避? ま、どうでもいいんだけどさ」そこでそっと首を傾けた男と、今日初めて目が合った。その表情は昔よく見た相変わらずなものだ、物騒なことを言ってるのに、いたずらが楽しくて仕方がない幼子のような、妙な明るさがある顔で「検察も弁護士も、起訴する気なんかこれっぽっちもない被告の女とその間男なんて、もともと存在しないも同じじゃない」
     ねえ、と気の抜けた語尾とともに男は立ち上がり、奥にいるであろう店主に向かって声を掛けた。「大将お会計ー、この人の分も」
    「ちょっと、悪いよそれは」
    「賄賂だから黙って受け取ってよ」
    「ますます困るよそりゃ」
     昔のように名を呼ぼうとして、ふとそのまま口を閉じる。書類上では行方不明で、あと数年経ったらためらいなく自身の行旅死亡届を出そうという人間を果たして、どの名で呼べはいいのだろうか。
     名を呼ぶことは人を捉えることだ。ここで名前を知らないと、たちまちにすべては幻として夏いきれとともに消えてしまう。目振る間躊躇したが、物事は単純に考えるほうがいい、というのが刑事の鉄則なので、結局素直に聞いてみることにした。
    「ところで、いま、あんたたちなんていう名前なんだ?」
     すると出口に向かっていた男は振り返って、奇妙なまでに爽やかな声で、こう返したのだった。
    「さあ、存在しない無国籍者に名前なんかないからね、あえて言うなら、ジョン・ドゥってやつだよ。堂場とでも呼べば?」そしてまた出口に向かうと思いきやもう一度振り返って、「あ、忘れてたけど」
    「なんだよ、言わないっていったら言わないって」
    「そうじゃなくて、蕎麦湯、必ず飲んでいってね。ここの本当に美味いからさあ。…じゃあまた、松井さん」
     そして今度こそ去っていった痩せた後ろ姿を見ながら、改めて、俺は昔からあの男の名前を知らなかったのだと、松井はぼんやりと思った。

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:42:11

    拝啓、神楽坂にて

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/09)

    昔「神楽坂にそば湯が美味しい店がある」とTVで見たとき、発作的に思いついてPawooに走り書きしたものです。当時読んだ方が「救われました」と感想くださったので、 #P2 見てぼろぼろになった方にせめてオロナイン程度の優しさですが。
    この前に長い話があっての番外編として書いているのでどこか唐突だと思いますが、その唐突感までが味わいです。

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