トライ。 一九〇〇年代に終わりをつげて、悪夢のように夏が過ぎて心寂しい秋が終わったあと、冬とともについに輝かしい二十一世紀が到来した。だがそんなものは実際のところ世紀はただの区切りで、世紀の変わり目も結局は日常の続きだ。土木機械は二本足で立ったが、車は空を飛ばず、時間を巻き戻すすべもない。
ふざけた子供のまま悪人になった大人の悪ふざけは何人もの人生と命を奪い名のない男の死で忽焉と終わり、そしてまず建物が修復され、各隊にレイバーが戻ってきて、ただ一人が欠員したまま年を越して、特車二課は日常と仕事をこなしながら、他異の冬を過ごしていった。
しかしそれももうすぐ終わりのようだ。
しのぶが朝のミーティングを終えて隊長室へと戻ると、後藤が常と変わらぬ無表情のまま月間予定表に赤ペンで丸を書きこんでいるところであり、ああ、と声を上げた。
「いよいよね」
「うん」
後藤は茫洋と返してくる。しかし視線は相変わらずどこも見ていないようにさまよっているから、しのぶはあえて平素の通りの声を出した。
「大丈夫よ」
それに釣られるように後藤の視線がしのぶへと向き、なにかを言おうと口がわずかに動く。だがいつものように結局口を開くことはなく、代わりにほっとしたような目になって、もう一度「うん」とだけ告げた。
これからのことはこれからとして、少なくとも間もなく二課は通常の姿に戻る。実際は熊耳が復帰してから、彼女にも周りにも乗り越えなくてはいけないことが山積みだとしても。整うのは建前だけかもしれない。しかし、建前は大事だ。
「しのぶさんもコーヒー飲む?」
いつも通りに後藤がそう聞いてきて、しのぶもいつも通りにありがとう、と答えるところで、不意にドアがノックされる。
「隊長、お客様ですが、通してもいいです?」
そのひょいっと顔をのぞかせた篠原に誰? と後藤が問うと、「捜査二課の方だそうで」と返してくる。
「二課? まあいいや、お通しして」
そう返事をした後、二課ねぇ、と後藤は微かに頭を傾げる。
「シャフト関連のことじゃないの」
「それだったら松井さんを通すでしょ」
「確かにそうね」
まあ、すぐわかるんだけどさ。というと同時に再びドアがノックされる。どうぞーと迎えた後藤の目が見る見るうちに丸くなり、驚いたと言わんばかりに口がしまりなく半開きになった。
「――捜査二課?」
「そうよ、捜査二課から来ました」
「後藤さん、お知り合い?」
入ってきたのは女性は楽しそうに口の端をにっと上げた。濃紺のタイトなスカートに体の線を強調するデザインのジャケット、緩やかなシャギーが入ったミディアムの髪。丸く強気な目は才気にあふれている。年のころは自分と同じくらいか。
あまりじろじろと観察するのも失礼だと目をさりげなく逸らしたしのぶに向けて、女の方が声をかけてきた。
「ええ、そうなんです。以前後藤と働いてました。南雲警部補、ですね」
「あ、はい、そうですが……」
後藤と同僚だったということは外事か。そう言われると、爬虫類を思わせる抜け目ない雰囲気は後藤と同類のものだ。
「ご挨拶遅れましたが」
「いいよ挨拶なんかしなくて」
なぜか辟易したように後藤。しかし女二人は後藤を無視して視線を交わし合う形になった。なぜか、受けて立たなくてはというよくわからない気持ちが湧く。
「こちらこそご挨拶遅れました。特車二課第一小隊隊長、南雲です」
「初めまして。警視庁捜査二課の冴木です。昔、後藤と個人的に付き合ってました。この度、よりを戻そうと思っています」
後藤は思わず天を仰ぎ、しのぶは目を丸くする。二人の様子に、冴木はにっこりと笑った。
「いきなりなんてことを言ってくれるの」
ため息をついて手酌で瓶ビールを注ぐと、隣で冴木が心底楽しそうに喉を鳴らした。上野と御徒町の間にある赤ちょうちんは今日も隣の声がやっと聞こえるぐらいの喧騒で、ほどよく汚れていて。店内は焼き鳥の煙で薄く曇っている。
バビロンプロジェクトの入札に関して、指定暴力団成和会との関連も噂される中堅のレイバーメーカーと国土交通省の間の関係を洗っていると、今朝冴木は打ち明けてきた。
「南雲警部補にも聞いて頂きたいんです、餅は餅屋ですし、レイバーのことでしたら、後藤よりも警部補のほうが一日の長があるでしょうし」
出会い頭に爆弾を投げて相手の気を削いだ後、仕事モードになってきりりと話す冴木のペースに、呆気にとられたままだったしのぶもいつの間にか乗せられて、求められるままにそのメーカーの機体の特徴や無人工区と有人工区が入り混じっていることなどを次々に話していく。冴木の才能はまさにその口で、はきはきと簡潔に聞きたいことを整理し、相手の警戒心を適度に解きながら、必要最低限な情報を収集していく。相手に好かれる必要はない、ただ、必要なだけの関心さえ得られれば。そのセオリー通りに今日も動いたというわけだ。
帰り際、「相談があるから、近々あの店で」と一方的に言い置いて去ったあと、しのぶの笑っていない目とどこか冷たい声を思い出して、後藤は何かを飲み込むようにビールを煽った。「よかったじゃない、いいご縁があって。今週は準待機だし楽しんでくれば?」。あなたたちのことは私に一切関係ありません。そう宣言されてあとは取り付く島もない。
「でだ、本当にバビロンプロジェクトのそれが目当てなの?」
「他になにが?」
「俺の知っている冴木真樹って女は、自力で取れる情報をわざわざ聞きにこないよ。ついでに、人間関係に無駄な波風も立てないけど。ひょっとして、特捜と組んで篠原、あげるつもり?」
「さあて、どう思う?」
きらりと輝く目はゲームに興奮しているそれで、後藤は内心嘆息する。篠原と警察の汚職疑惑についてはもちろん自浄作用を働かせるべきだし求められれば現場の人間として証言などもするつもりだ。しかし、もし冴木が捜査に加わるとしたら。これからのことを想像すると早くも疲れがたまり始める。彼女は獲物だろうが目標だろうが、一度なにかを定めてどうするか決めたならば、成し遂げて相手の首を掲げるまで決して諦めない。狩りのためなら何時間でも草むらに紛れていられる肉食獣のような根気とどんな獲物だろうとひるまず喰らい尽くす野心とが、あのころ、剃刀とあだ名された頃の後藤が、冴木を気に入っていた最大の理由のひとつだった。
「ところで、どうなの」
いままでの話の延長の振りで今度は冴木が踏み込んでくる。やや前のめりになってグラスを振りながらさきほどの野心をひっこめて、かわりに楽しそうに目をきらきらとさせている。彼女が人をゆさぶて遊びたいときの癖だ。なにもかもあの頃から全く変わってないと思いながら、後藤はあえてとぼけた。
「どうってなにが」
「その言い方だとまだなにもないかあ、だろうね案外奥手だものねえ。……じゃあどう、たまには。骨抜きになったふりしてまだ体力あるんでしょ、なら一回ぐらいなら明日にも響かないでしょ」
そうそう、あとすべてをゲームにするところと、後腐れもなく明け透けに物事を処理するところと。自分自身をどうでもよいものだとないがしろにすることで周りを整理してきた自分とよく似たところがあるから、彼女とは安心して遊んでいられた。若いころの話だ。
「……いや、遠慮しとくよ。明日も楽しいお仕事だしね」
若いときの冴木の乳の柔らかさがふいに手のひらに蘇ったが、それは懐かしさも興奮も伴わないただの乳でしかなく、後藤はもう本庁に自分がいないことをしみじみと思った。後藤が瓶ビールをもう一度注いで空にしたのをみた冴木が「おばちゃーん、レモンハイボールとあと黒ラベルもう一本」と声を上げて、そして楽しそうなまま後藤の喉仏に目をやってきた。
「へぇ、操を立てるんだ。喜一くんったら変わったね」
「四十路になればがつがつもしないだけだよ、あと懐かしい呼び方しても無駄」
表情を出さないようにしてすげなく断ると、冴木はふーんとだけ言って、ハイボールを飲み干す。と、「さんまんじかん」と徐に口にした。
「なにが?」
「あなたが本庁から楽しそうに島流しに出向いて、もうすぐ三万時間」
「数えてるの?」
「まさか、計算したの」
冴木はアルコールで少しだけ紅潮した顔で、しっかりと後藤を見た。
「数字よ後藤さん、すべては数字を追えばわかる。国外の輩だろうが企業だろうが、数字が真実を語ってくれる」
「だから二課に異動したってわけ」
「そう。でも、一人じゃね。二課の人たちもそりゃ先鋭ぞろいだけど、やりやすいようにやるには、あの人たちより互いにやり方に馴れてる人がいい」
「つまり?」
「わかってるくせに」冴木は意味ありげに微笑んだ。「それだけ休んだら充分でしょ?」
後藤はなにかを言おうとして、しかし口を閉じた。なに勝手なこと言ってるのとも、遠慮するとも、いくらでも言葉はあるはずだというのに。後藤の様子をどう受け取ったのか、冴木はふふんとまた笑う。と思ったら突然「ごめんなさい、携帯って面倒」と断って席を立つ。確かにここでは、電話の向こうの声も聞こえまい。一人残された後藤は、冷え切った砂肝をかみ砕きながら、一人物思いに耽った。
三万時間。
ということは三年ともうすぐで半年、秒に直せば一億と一千秒にはいかない程度か。それが長いのか短いのか、後藤にはわからない。本庁に悪い感情はないが戻りたいとも思わない。しかしそれと同時に、このままいつまでもあの隊長室で働いているつもりでいる自分を不思議に思う。
ふとしのぶに会いたいと思い、同時にしのぶが怖いとも思った。去年の夏、あの黒いレイバーとの決着がついた悪夢のような嵐の日、彼女が自分と同じ場所に立ち同じものを見ていると悟ったあの時から、後藤にはしのぶが捉えきれない。同僚であることと違う軸で、どうしていいかわからない。
「参ったね」
意識しないため息が一つ、零れた。
また大きなため息を吐いたことに気付き、しのぶは一人顔をしかめた。なにかが違う、そう感じるたびに沸き上がる小さな苛立ちを心の中でぷちっと潰す。理由は分からないが原因は分かっていた。冴木だ。彼女がここに顔を出すようになってから、モジュールに余計な歯車が一つ追加されたかのように、後藤と自分の関係に余計なファンクションが見え隠れするようになって、それがどうしても落ち着かない。
冴木自体には何の責もない。彼女は明晰で刑事として文句ない才覚がある。本当の狙いはわからないが、工区で怪しい動きはないか、レイバーのほうになにかおかしいことはないかと、こまめに二課に足を運んできては現場の意見をきき自分の目で見ていく。仕事熱心なのはいいことだし、男社会の刑事部で一人奮闘している彼女のことは同じ境遇の女性警官として応援もしたい。
しかし、冴木が不意に後藤に投げる視線に気付くたび、しのぶの中でなにかが軋むようだった。媚びているわけではない、誘惑しているわけでも。しかし、後藤と冴木の間には間違いなく二人にしかわからない何かがあり、後藤が、応えるでもないがないがしろにもしていないことも、なによりそのことにも気付いてしまう自分にも苛立つのだ。別に後藤のプライベートに口出しをしたいわけでも、興味があるわけでもないというのに。
黒いレイバーにより二課が壊滅的な打撃を受け、第二小隊がイレギュラーな状態になってから数か月、いつの間にか、後藤は得体の知れない、何を企んでいるか読み切れない冷血漢ではなく、見ているものや聞いたものからの思考や判断の流れが見え、そして考えや見解を無理なく理解できる警察官へと変化していた。もちろんそれまでの三年の間も全く理解不能だったというわけではない、ただ今は、彼が手繰り、点から点へとつなぐ糸を、しのぶもまた自然と手繰るようになっているだけだ。
そのころからだろうか。後藤がふとしたタイミングでなにかを言いかけては、はみ出たものを押し込むようにそれを飲み込むような仕草を見せるようになったのは。
気にしないように、それがなになのかを故意に考えないようにしていたのに、冴木の登場によって、しのぶはどうしても後藤と自分の間がどう変質したのかを意識せざるを得なくなった。それに言葉を与えたくはないのにも関わらず、だ。
いまも後藤は冴木の情報からなにか掴んだのか、いくつかの事件の資料を引っ張り出してなにやらまとめている。なんでも前にドラマの撮影の事件のときに使われた自動制御プログラムの流通状況について、協力料代わりだと耳打ちされたらしい。場合によってはサイバーセキュリティ課や組織犯罪課も加わる大規模な合同捜査本部が立ち上がる可能性があり、そうなれば後藤はしばらく本庁とここを往復する生活だ。しのぶのほうがレイバーの専門家として優れていると冴木は評価してくれているが、本庁の捜査本部に出向くとしたら後藤の方だろう。なぜならそれは知識がある方ではなく、冴木がより信頼している方が選ばれるはずだからだ。そして冴木が後藤に深い信頼を寄せているのは見ているだけで伝わってきた。
そうだ。しのぶは書類に印を押しながら、さりげなく目の前の男をみた。ここまでうさん臭いのに、これほど信頼を置ける人間は他にはない。自分がどれほど後藤を信頼し、評価し。そして頼っているのか。それもあの嵐の中で気付かされたことだった。だからこそ冴木が後藤に寄せている信頼の深さも手に取るようにわかるのだ。
これ以上考えてしまうと、また目をそらしていることにぶつかりそうで、しのぶは意識して息を吐いた。時刻は午後四時過ぎ。射してくるはずの夕日は、今日は弱弱しい光でしかない。夜はまた冷え込むことだろう。
「明日、天気持つかしら」
「じゃあ天気予報でも見る?」
後藤はしのぶの返事を待たずにテレビのスイッチを入れた。当たり前ながらそんな都合よく天気予報が流れるわけはなく、アナウンサーが予算委員会で審議された法案についての解説をしているところだ。保険法改正案の成立に向けて与野党の論議が進んでますが、とアナウンサーが真面目な声で話すのを聞きながら、しのぶは書類へと顔を落として、後藤に声をかけた。
「冴木さんの件、上手くいってる?」
「うん、って言いたいけど、正直うちの出る幕じゃないよ。特捜に食い込むネタを探して覗きにきてるのかと思ったけど、どうも違うっぽいんだよなあ」
「そりゃそうでしょ、ここには機体しかないもの。案外、あなた目当てなんじゃないの?」
「俺目当て、ねえ……」
後藤は心底面倒そうな顔になってペンをまわした。テレビはまだ審議についてのニュースだ。可決されれば特車二課による被害の申請も通りにくくなるかもしれませんね、なんて愉快じゃないコメントでスタジオが和んだ。なんて失礼だ、まず被害は主に第二小隊(さらにいうなら二号機だ)によるものだったし、次にその第二小隊もすっかり成長し、晩秋のころから今日まで両隊ともに民間への被害は最小限に抑えている。課全体への屈辱にも感じて、またしのぶの心にイラっとした球がぽっと浮かんだ。それを親指で潰すように消したところで、
「ところでさあ」
その声のトーンにしのぶはふと表情を消してペンを置き、そして後藤の方を見た。
「冴木警部補がくれた資料、前に使われた自動制御システムデータがどこらへんから出てきたか、っていうやつだって話はしたよね」
「ええ、成和会じゃないかって。あそこは知能犯が得意だから納得する話だわ」
「おそらく系列のどっかがシノギとして作ったんじゃないか、っていう話で、海の家あたりに流れたら面倒になるからって言うんだけど。でも相手したからわかるけど、実際さ、陽動にしか使えないし、今やどっちの小隊が出ても、基本抑えられるじゃない」
「そうね……市販のレイバーならうちに火力で勝るものはないし、シャフト事件ほどの太い後ろ盾がないと、軍用レイバーなんて投入出来ないでしょうし」
「でしょ。それでもシノギとして通用してるとしたら、なにかおいしい旨味があるわけじゃない。赤字覚悟でレイバー爆発させる活動家以外に商売が成り立つ当てがさ」
後藤の指摘に、しのぶはいつものように親指を軽く噛みながら考え込んだ。活動家は機体を使いこなすという発想に乏しく、基本レイバーは使い捨てだ。だからシステムを使って勝手に暴れさせてその間に本来の目的を果たそうとする、まさに第二小隊が対処したあの事件のような使い方が出来る。しかし、使い捨てをするにしても、限度がある。つまり市場規模に限度があるという事だ。
「ところで、くだんのメーカーが入札した工区のうち、いくつが無人なんだっけ」
その問いにしのぶはまたはっと目を見開いた。いま後藤の言わんとするところが、彼の見ているものがはっきりと見えたのだ。
「しのぶさん」
「大丈夫、貸しにしておいてあげる」
後藤の言葉を待たずに、書類を片付けながらそう返事をすると、一瞬後藤の目が丸くなった。が、すぐに頼もしいと言わんばかりに笑みを浮かべ、
「悪いね」
「何言ってるのよ、あなたじゃなくて、冴木さんによ」
徐に立ち上がりながら、しのぶもいつもの強気な顔で、また驚いたようにきょとんとした後藤に笑いかけた。
「そもそも今週はうちの当番なんだから、貸しもなにもないでしょ。だから伝えておいて、いつかしっかり取り立てますって」
「怖い怖い」
後藤はおどけた振りをして、椅子に深く腰掛けると、ふと少しだけ思案する顔になった。
「なんでこんな回りくどいことするかなあ」
「気になるなら聞いてきなさいよ、じゃ、必要な手続きよろしくね」
後藤が了承の返事をしながら電話に手を掛けたの横目に確かめて、しのぶは小隊のオフィスへと向かった。軽く顔を叩き気合を入れる。仕事だ。
後藤が冴木を訪ねて本庁を訪れたのは、成和会の保険金詐欺未遂事件が明るみに出てから三日後のことだ。二課での仕事を終えてからだというのに、夜の警視庁は他の省庁と同様にどの階の窓からも明かりがこぼれていた。エレベーターで階を上がり、三年ほど前まで散々世話になった喫煙所側の休憩スペースにいくと、すでに冴木がコーヒーをちびちびと飲んでいた。足を汲んで頬杖をついている姿は昔のままで、微かなノスタルジーが後藤の胸に迫る。しかしそれをすぐに散らして、いつも通りの人を食った顔で後藤は声をかけた。
「待った?」
「まさか、今だってただの休憩よ」
振り向いた顔はどこかバツが悪そうで、冴木が思った通りに事が運ばなかったことを如実に語っていた。喜怒哀楽がはっきり出るのはいまの相棒と同じだな、と後藤は意味をなさないことをつらつらと思う。
「はい」
冴木に頼まれていた資料を渡すと、まだ口をへの字にしたままで「ありがとう」と受け取る。そしてすぐにざっと目を通すと、はぁと小さく息を吐いた。
「相変わらずの手腕よね」
「素直に受け取っておくよ」
「素直に褒めたの」
冴木はそう言って立ち去るべく身体を起こし掛けて、しかしもう一度座ると今度は大袈裟にため息を吐きながら背もたれにもたれかかった。
「あー、おかしいなあ……」
「それは残念」後藤は器用に眉を片方上げて見せた。「だったらヒントなんて置いて行かなきゃよかったのに」
「こっちと情報を共有したうえで、大きな魚を捕まえるって判断すると思ったのよ」
「OSによる暴走をとっかかりにして、成和会と政財界ルートの道を開きたかったって? 確かにあんたが辺りを付けた工区は無人だったが、すぐ傍には有人で作業してる場所があるんだ。警察官たるもの、いつでも人命を第一に尊重すべし。それに」
後藤はそこで言葉を切って、あえて冴木の顔を見下ろした。
「事件に大小なんてないよ」
「だとしても、他に任せるなんて」
「任せるもなにも向こうの当番だっただけだよ。ヤケ起こしてプログラムを手動起動させる暇を与えてたなら、うちも出張ったろうけどさ」
成和会系水田組は、ただのレイバー保険詐欺を狙っていただけだと供述しているようだが、自動制御プログラムを一斉に起動させる実験の意図もあったのではないかと、捜査本部は睨んでいるようだった。後藤から電話を受け、隊長室での推理を話し、令状を取るよう捜査二課長と裁判所に掛け合ってくれと頼んだ時の松井の声が容易に思い出される。「あんたどうやったらそんな情報を持ってくるんだ」。そして部下に無理をさせるなよという声に、出るのは第一小隊だと伝えるといよいよ絶句して、南雲さんもすっかりあんたに毒されて、とつぶやいたものだ。
「そもそも、俺の事件も第一小隊の事件もない、うちは課全体がチームだし」
毒された、確かにそうかもしれない。ただし自分が、だ。
「南雲さんは相棒だしね」
何気ないトーンを保ったはずだが、冴木はなにか信じがたいというように後藤を見た。
「――やっぱ三万時間は長いなあ。課で一番の一匹狼はどこいったんだか」
「さあ、初めからそんなのいなかったか、山に帰ったんじゃないの?」
「山かあ」
がしがしと頭を掻く冴木の様子は昔と変わらず、ふと無茶をしても経過を無視をしても結果を出すことを求められたころが思い起こされる。個人と体制そして組織は対立するものと単純に割り切ろうとしていた、まだ若いころだ。
「じゃ、そういうことで。あとは頑張って」
踵を返そうとしたところで「後藤さん」と冴木が呼び止めた。
「……諦めないから」
「だろうね」
「とりあえず、水田組のガサ入れを足場に合同捜査本部を立ち上げるつもりだから、二課もそのときはよろしく」
「俺か南雲さんか、その時空いてる方が行くようにするよ」
「空いてる方、ね」、冴木はでしょうねと言わんばかりの顔で、ひらひらと手を振った。
同じくらい誠意なく手を振り返して、かつて通い慣れた廊下を引き返しながら、ふと、あの人の顔を見たくなった。あの書類の山なら、まだ、いるはずだ。
思った通り、しのぶはまだ二課に居た。が、八時過ぎともなるとさすがに区切りをつけたらしく、着替え終わってコートを羽織ったところでひょっこりと入ってきた後藤を見て、文字通りに目を丸くした。
「直帰じゃなかったの? それとも忘れ物?」
「いや、どっちでもないんだけど」
「たまに思うのだけど、あなたの職場への愛着って驚くほどよね」
非番のときにも顔を出すし住んでるみたい、と呆れたように言いながら、しのぶは手にしていた鞄をさりげなく机に置いた。
「冴木さんの頼まれもの、終わったの」
「うん、まあ」
「そう」
着陸するのであろう飛行機のエンジン音が、窓越しに聞こえた。暗闇の向こう、目と鼻の先の空港は離着陸のラッシュだ。
「三万時間、なんだって」
「何が?」
「俺がここに異動してきてから。もうすぐそれくらいらしいんだよね」
「数えたの?」
「まさか」後藤は思わず小さく笑った。「教えてもらったんだよ」
「あらそう、暇な人もいるのね。三万というと……三年と半年ほどあなたと組んでるんだから、私も辛抱強くなるってもんだわ」
「言うねえ」後藤は窓際に立って、遠くを見るともなく見た。滑走路へと降りる飛行機の光も、すっかり見慣れたものになった。
「なんだろうね、本庁なんてしょっちゅう行ってるのに、年月を言われるとなんか他所みたいでさ。三年がこれだけあっという間だったら、三十年後も瞬く間に来るんだろうなって」
「さすがに三十年はどうかしら」しのぶがまさかと笑う。「でも、きっと思ったよりも早く過ぎていくんでしょうね」
「あと三十年経ったら、さすがに車が飛んだりロボットの友達が出来たりするのかな」
大昔に少年漫画で読んだようにさ、と笑うとしのぶが柔らかく眼を細める。
「どうかしら。……想像もつかないわね、あの地震で街並みも変わって、レイバーなんてものが出来たのに、一方で学生のころから今日まで、世界は大して変わっていないようにも感じるのよ」
「まあ、そういうことなんだろうなあ。この後本当に車が空飛ぼうがきっと大して変わらなくてさ、高速は渋滞してて、工事の音はうるさくて、谷中あたりでレイバーが暴れて、で、ここから出動して」
「そのころには三小隊制になって、女性隊員の比率も増えてて、隊長はどちらも女性かもしれないし」
「俺たちの二代……それとも三代ぐらいあとの隊長か。そのころには太田あたりがやってるのかもねえ」
「太田君が?」
「あれでも真面目で警察の仕事っていうのをわきまえてるやつだよ、あと五回くらい皮がむければ、いい隊長になると思うよ。熊耳と太田は警察官向きの性格だし、隊長職に向いてるのもあの二人だな」
「ま、後藤隊長の推薦なのだから、せいぜい期待しておくわ」
後藤の風情に誘われたのか、しのぶも窓際へと歩いてきて、同じように外を眺める。きりりと結ばれた口、まっすぐ揺らがない瞳。すっかり当たり前になった距離にある横顔に誘われるように、後藤はそっと口を開いた。
「すきだよ」
しのぶは言葉を受け止めるように、ほんの少しの間だけ目を閉じた。
「――言わないと思ってた」
「言うつもりもなかったんだけどね」
後藤はふと力を抜くように小さく笑った。
「ただ、三年も隣にいると、欲が出てきたみたいで。だったらさ、あと三十年ぐらい隣にいても、いいんじゃないか、って」
「告白というより、プロポーズされてる心地だわ」
「どっちでも大して変わらないよ」
また一機、小さめの旅客機が上空を飛んでいく。その音が小さくなるのを待ってから、しのぶが穏やかに口を開いた。
「あなたが言わなかったら、いつか私から言おうと思ってた」
いきなりプロポーズまで受けるとは思わなかったけど。その声に釣られるように横の女を見る。そこに浮かんでいる笑みは後藤が今まで見たことのないもので、後藤はまるで初めて会ったかのような眩しい感覚を抱いてしまう。美しいとはこういうものなのか。そして窓ガラスに目をやり、そこに写っている男の顔を見た。鏡で散々見ているはずなのに、見たことのない笑みを浮かべた姿がぼんやりと浮かんでいる。
「後藤さんって、そんな顔も出来るのね」
知らなかったわ、と笑うしのぶに、あんたこそそんな、と言おうとして、後藤はああと気が付いた。
「うん、俺も知らなかった」
俺たちって幸せなとき、こんな顔をしているんだね。そう伝える代わりに、そっと身体を抱き寄せると、自然と体重を預けてくる。そのくせむずがゆそうにまた笑うしのぶの声に、後藤もまた照れを隠すように笑う。
「――三十年後の今日、ここに来て見ようか」
「なに、顔に似合わずロマンチストみたいなことを」
「知らなかった? 俺ってこう見えてもロマンチストなの」
そういって後藤は似合わないウィンクまでしてみせた。
第二小隊に熊耳巡査部長が復帰して、人生のすべての建前が整うまで、あと一週間。