イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    紫陽花 東京地検から外に出たとき、空は薄鈍とも薄墨ともつかない色に染まっていた。泣き出すまで間もなさそうだ。
     行儀が悪いと解っていながらも、しのぶは小さく舌打ちした。失敗した。今日は終業までならなんとか持つだろう、となんの根拠もなく思い込んで、今朝出勤時に傘を持って出なかったのだ。二課まで戻れば置き傘があるが、果たしてそれまで雨雲が待ってくれるかどうか。
     見上げた霞ヶ関の空は、官公庁の高層ビルに囲まれてひどく窮屈そうだった。横手には、暗い煉瓦色をした農水省のビルの壁が見える。目の前に見える国道一号線には車が溢れていたが、そのエンジン音はここまでは響いてこなかった。
     これからすぐに二課へと帰るなら、地下道から丸の内線に乗り、JRの駅に出ればいい。しかし、しのぶはこのあと警視庁に立ち寄り、その足で警察庁に出向き、最後に文部省にてちょっとした用事を済ませて、ようやく二課棟へと帰還することになっていた。この中でも曲者なのが文部省で、他の場所は営団地下鉄霞ヶ関駅で繋がっているというのに、このブロックだけは銀座線虎ノ門駅が最寄なのだ。だから、地下道を使っての移動に限界がある。どうしても地上を歩いていかなければならず、いざとなったら雨に濡れることも覚悟しなければならないだろう。
     太陽は厚い雲に覆われて見えないが、多分、南中の少し手前の位置にある。直接日光が当たらない代わりに蒸発できない水分が空気の隙間と言う隙間に入り込み、肌にねっとりとまとわりついてくる。風一つ吹かない天候は、すべての熱を街に留めるかのようだ。
     体力を削ぐ暑さではなく、気力を奪う暑さが、街を今支配していた。
     この国の中枢である霞ヶ関の官庁街、頭脳も熱意も野望も、そして気力も人並み外れたエリート達の街であっても、行き交う人はどこか疲れ、うんざりしたような表情でゾンビのように力なく歩いている。それでも大体の人が早足で移動していることはさすがといえるだろうが、それも普段の習慣と、早く空気が乾いて人工的に冷やされている場所にたどり着きたいという現代人の本能がなせる技なのかもしれない。だとすればこの場で歩いている人間たちは、ゾンビになっても変わらず早足で移動していることだろう。
     しのぶもまた、その街の雰囲気に飲み込まれたような顔で、一心に警視庁を目指して歩いた。暑さ寒さについては、勤務地が先進国の、それも首都の官公庁直轄の設備のはずなのに、とんでもない環境条件を備えている関係で、かなり耐性が付いたと思っていたのだが、それでも限度はあったようだ。その要因は不快指数を跳ね上げる湿度であり、この場所が放つ空気であり、先程行われた会話の内容があまり愉快なものではなかったことであった。

     日本を揺るがす、そして世界が固唾を飲んで見守った事件がここ東京で起こったのは雪が舞う二月。今はもう、長雨を憂う季節だ。時が移ろうその早さに驚くのは年を取った証拠なのかもしれないが、あの一連の事件はまるで何年も前に起こったような、そんな錯覚を受けた。
     その原因はこの街そのものにあるのかもしれない。
     あの事件の首謀者達は、考えたことはとんでもないが、少なくともやり口はとてもスマートだった。
     無駄な破壊はせず、東京そのものに与えた損害は驚くほどに小さい。蜂起なんて、今時真剣に考える人がいるとは思えなかったことを平然やってのけたうえ、高速で襲撃された警察関係者をはじめにとして複数の負傷者は出たが、重体のものも無事快復したこともあり死者はいなかった。さらには事件解決に掛かったスピードも、日本の警察史上屈指の早さだった。本当に早すぎて、警視庁の斜め前からアメリカに向けて果敢にレポートを送っていたCNNのリポーターが、主犯および一味の逮捕の一報に、思わず「What happened? ...,It's impossible! Japan, you can never be settled quickly. But Today, you can do it!」と率直すぎる私見を叫んでしまい、全世界中の視聴者から「全くだ」「確かに」といった調子で支持を貰った、というのは今では有名な話である。
     ともかく、そのようなわけで日本国民のみならず、蜂起を真に当たりにしていたはずなのに、当日これ幸いとばかり出勤せずに閉じこもっていた東京都民の殆どが他人事として処理出来た事件であったために、人々はそれをあっという間に昇華し、消費し、そして過去の出来事という便利な引き出しの中に放り込んでしまった。さらにそれは人々の暗黙の了解のもとに余りにも自然に、尚且つ見事に行われたため、桜が咲くころには、最早二月の雪の日を現実感を持って思い出すことすら、困難な状況になっていた。
     それは数えられるほどしか居ない当事者であるしのぶにも言えることで、目の端に見えてきた警視庁のフォルムを見ながら、第一小隊員と95式パイソンを引き連れて、警察官として最後の砦を死守したあのときのことを思い出そうとしても、しのぶの脳内で、それは映画のフィルムを介しているかのような映像で脳に再生され、自分はあたかも観客のように一連の出来事を鑑賞しているような気にすらなってくるのだ。勿論、あの一日で感じたありとあらゆること――怒り、絶望、悲しみ、義務感、そして疑問と言ったことは、今でも胸の中で鮮やかに思い出すことが出来る。しかし、それらの感情をもってしても尚、あの冬の日に起こったことは、出来すぎたオペラのようにとしか受け止められない自分がいるのであった。
     都市論やフロイトの心理学などに強い興味はないが、一部の学者達がいうように仮に都市に意思があるとするならば、この街が持つベールのような雰囲気に、しのぶもまた飲み込まれているのかもしれない。いや、しのぶだけでなく、あの日、隊長の指揮のもと王手をかけたという野明や山崎にしても、よりにもよって米軍からどえらい口止め料を巻き上げて特攻をかましたという香貫花たちにしても然りだ。
     ただそれは一種の防衛本能であり、人が連続する時間に区切りをつけ、毎日を生きていくための知恵でもある。例えそれがどんなに痛ましい、忘れがたい出来事であっても、いつかは過去として処理していかなければ、人は簡単に感傷の山に埋もれてしまうことだろう。
     感傷の真中に沈み、世界を湖の底から見るような、そんな風に生きていくことは出来ないとしのぶは思う。少なくとも、今の自分には似合わない。
     一方で、そのように日々をカテゴライズすることなく生きていく人もいる。そういう人は相当に強靭な精神を持ち合わせているか、あるいは初めから過去と思い出に囚われて、今とは違う時間軸で生きている人かのどちらかだ。いずれにしても、明確な仕切りを作らず、日々増えていく思いを抱え込んだまま毎日を生きていくことは、想像以上にエネルギーを使うであろう。
     脳内にあの男の影がはっきりと浮かんできて、しのぶは知らずの内に深くため息をついた。

     でもそれは、多分仕方がないのだ。

     例えば、目の前で起こった出来事に深く関わるある人物が、実は自分と分かち難く、根の奥の方で深く結びついている人間だったら、果たして自分は起こった出来事のすべてを経験としてラベルを貼り、いつかきちんと切り離せるのだろうか。そう、いつか、長い時の果てには切り離せるかもしれない。しかし切り離せないかもしれない。
     もし、起こった事象と自分がそのような特別な関係であったならば、それは最後は自分自身の一部分も過去として切り離し、処理しなければならないということにもならないか。地中深くで絡み合う木の根同士のように、双方に影響を与えることなく、しかし確実にふたつの木の根をほぐすことは、どれほど強靭な人間であろうと簡単に出来る芸当ではないのだ。過ぎ去った出来事として処理できなかったものは、結局は個人の胸の中に仕舞われ、積もり、そしていつか暴れだすその日を待つのか、それとも、ゆっくりと菌類が木を土に還すほどのスピードで昇華されるのを待つか。どうであろうが外から見れば不器用な生き方であるようにも思えるが、当人から言わせれば、他には選択肢がない場合もあるのだろう。
     警視庁の、先が細くなった玄関口の前に立って、改めてその建物を見上げる。
     東京の一部であるこの建物も、東京の他の建物と同じように、他人事の振りをして変わらこの場にず建っている。この場所で犠牲になったのは、当時の特車二課長だった祖父江ただ一人だ。もっともこの人事について、しのぶはなんら同情心を持ってはいない。行われたことはとかげの尻尾切りに違いなく、通常であればそのようなことは自分がもっとも忌むことであるのだが、一方で、自業自得だという強い感情もまた、彼女の奥底に深くしみ込んだまま拭えないでいた。あの日、自分と同僚が受けた屈辱はいまもしのぶに昏い怒りをもたらすが、しかしそれだけであった。結局は祖父江一人が警察を去っただけで、あとはなにも変わっていない。最も処分されるに相応しい働きをした自分達特車二課の人員も含めて、だ。
     いずれにせよ、なにも変わらない振りをして日々を過ごしているのは誰も彼も一緒である。この鈍色の空と同じだ。向こう側には晴れ渡った空があると言い聞かせて、実際に曇っていることには目を瞑る。向こう側が見えないのもすべて厚い雲のせいにして。
     ほんの少しの間だけ目を閉じ、しのぶは気を取り直して入り口の警官に挨拶しながら中に入っていった。ふと振り返ったときに飛び込んできた緑が、いやに眩しく映った。

     それほど長い間ではないとはいえ、クーラーに当たった身には、真夏一歩手前の蒸し上げられた空気はとてもきつく感じた。警察庁の玄関を出た瞬間から、冷やされて心地良く引いていた汗が、またじわじわと体の表面から分泌されていくのがわかる。
     警視庁から警察庁までは、歩いて大して掛からないから苦にならない。しかしこれから向かう文部省は、警察庁から見て官庁街の正反対にある。普段は気にならない距離でも、こんな天候では面倒に感じることこの上ない。
     そんな自分らしからぬ感情をもてあそびながら、しのぶが行こうとした矢先、
    「あ、待ってください、南雲警部補」
     と、後ろから急に呼び止められた。自分を追いかけてきたらしい職員は、小太りな体ゆえか息を切らしながらようやっとしのぶに追いつく。
    「どうしました」
    「いえ、ちょっと託したいものがありまして……」
     言いながら出してきたのは長3サイズの茶封筒だった。
    「後藤警部補にお願いします。先程、渡し損ねてしまいまして」
    「後藤に、ですね。判りました、お預かりします」
     何気ない素振りで封筒を受け取ると、「助かります、ありがとうございました」と頭を下げ、職員はまた建物の中へと入っていく。それを横目で見送りながら、しのぶはやや大きめの封筒を眺めた。
     先程、渡し損ねたと言っていた。が、後藤は、今日霞ヶ関に来る予定はなかったはずだ。だからこそ、自分は長い時間、二課を空けてここに居られるのだ。
     どうして……、とつぶやきかけてしのぶは言葉を切った。この時期ならば、後藤が急な呼び出しで検察など関係省庁に出向くことは十分ありえるからだ。ついこの前も、「しのぶさん、ちょっとごめん」といって何時間か二課から出かけていったではないか。だいたい自分も、今日は彼と同じ用事で朝一番に東京地検に出向いたのだから。
     そのことに思い当たると、本人もいないのに妙に気まずくなって、しのぶは所在なげに書類を持ち替えた。
     梅雨の憂鬱が精神にまで錆を噴かせようとしているようだ。
     頭を少し振って気を変えて、しのぶは再び歩き出した。後藤がいつこちらに来たかは知らないが、あの口調だと警察庁を出てからしばらく経ってそうだ。もう二課に戻っているだろうが、ひょっとしたらまだかもしれない。隊長職にあるものが二人とも席を空けたままなのはいいことではないだろう。さっさと用事を済ませようと思うから、足も自然と速くなる。
     また霞ヶ関坂を横切ろうとして、ふと日比谷の方を向いたのは偶然だった。 
     距離があるからはっきりとは見えないが、先程自分がいた東京地裁のあたりを歩く猫背のスーツ姿は、普段見慣れているものだ。どうやら検察庁か地裁、そのどちらか、あるいはその両方に用事があり、それを済ませたあとのようだった。
     それはいいが、彼が向かっているのは地下鉄の駅ではなさそうだ。突き当たりに見える公園の緑は、日光が当たっていないからか、なぜか重苦しく感じられるほどに濃いものだった。
     まったく、なにを考えているんだが。
     心の中でつぶやいて、しのぶは方向を左に変える。歩行者用信号はあと少しで青に変わるところだ。後ほど隊長室で会えるというのに、なぜかしのぶはこのとき、同僚をこの場で捕まえようと、否、是が非でも捕まえなくては、と強く思った。すぐに職場に帰らないで、公園でさぼろうとしているように見える彼に、咎める気持ちを抱いたからかもしれない。他に良い言い訳が思いつかず、とりあえずそれを大義名分にして、しのぶは広い道路を足早に渡った。

     ここのところ二課全体を覆っている殺伐とした慌しさは、夏にも開かれる甲斐烈輝一派の第一回公判のためだ。あのときまともに機能したただ一つの警察機構として、あるいは犯人と対峙し、逮捕、連行することで事態を収拾した当事者として、二課の面々は検察から何度となく事情を聞かれている。
     その中でも後藤は証言を求められているとかで、検察とのやりとりの濃さも半端ではない。本人も証言には前向きなようで、時々顔を合わせる検察官から幾度となく彼が懐刀的存在であると聞いた。
     しかし切り札とは片方にのみ有利に働くとは限らない。一方で甲斐についた国選弁護団もまた後藤に証言を求め、こちらとも幾度となく後藤と話をしている。その度に後藤はいつものように「ちょっとごめん」と謝って、席を立つのであった。
     今日までのここ約四ヶ月というものしのぶはそのことについて後藤と話したことがない。
     あの日の出来事は不自然なほどに会話に上ることがなく、例えば今日のように決起事件関連でどちらかが出かけたときでさえも、二課に戻ってきた相手に対して互いにお疲れ様と労うだけで、会話はそこから先には行かないのが常だった。
     しのぶとしては、聞きたいことが無い訳なかった。あの日、海法と祖父江から聞かされた事実、甲斐と後藤がかつて同じ地平を見た同志だったという過去は、それだけでしのぶのある部分を打ちのめすに十分なものだった。何故言ってくれなかったのだろう、後藤にとって自分はそこまでの信頼に足る人物ではないということなのか、そしていま彼はどこで何を考えているのか。警視庁の前で反乱部隊と睨み合いながら、しのぶの頭の中にはそんな疑問が渦巻いていた。しかし、自分でも不思議なのだが、あのとき示唆されたように、後藤が実はすべてを裏切り、過去の友人と通じているとは露ほどにも思わなかった。しのぶは後藤を信じていたし、彼が動いたからには遅かれ早かれ、どうにかケリがつくだろう、と期待すらしていた。警視庁を死守するのは自分の信念と矜持、なによりも南雲しのぶという一警察官として、特車二課第一小隊を率いる隊長として、法と秩序を守るものとしての誇りからの行動ではあったが、他方で後藤たちが動きやすいように後方を支援したという側面があったことも否めない。海法らとの無意味なテレビ会議が決裂に終わり、自分の職を賭して警視庁前に立っているとき、しのぶは後藤に会ったらならすべて洗いざらい説明して貰おうと決意をしていた。自分には少なくともその権利はあるだろうと。
     ところが、その意気込みも、事件後に後藤に会った瞬間に、たちまち立ち消えてしまった。事後処理が面倒だからか、しばらくは仕事にならないと踏んだからか、後藤はきっちり休暇を消化してから職場に現れた。ごく普通の顔をして。
    「……しのぶさんおはよう」
     しのぶの顔を認めた瞬間、ただそれだけを告げた彼の背中には間違いなく闇があり、そこには今、目の前にあるすべてと折り合いをつけながらも、一方ですべての関わりを拒絶しようとする矛盾した存在があった。それを前にしてしのぶが出来たことは、
    「おはよう、後藤さん」
     と休暇前と同じように告げることだけだった。あのときの後藤を前にして、一体誰が何かを問い詰められようというのか。平素と全く変わらない立ち振る舞い、纏う空気だからこそ、それは一層際立ち、しのぶの心を静かに冷やしたのだ。後藤の纏うものに気付いたのは、ひとえに彼と過ごした年月が、しのぶが思っている以上に長かったからであり、その二人で過ごしてきた時間が、しのぶの声を押し殺す。
     今でも聞きたいことは山のようにある。しかし、それを問い詰めることはもう自分には出来ないとしのぶは思っていた。あるいはただ単に、しのぶが、後藤に対峙することから逃げているだけかも知れない。彼は水を向ければ話してくれるのかも知れない。それも、平気な顔をして。そういう風に考えることもあるが、しかし、やはりしのぶは彼になにも聞けずに今日まで来ている。もし話を聞けるとすれば、それは後藤自らがその厚い扉を開けた、そのときだけだ。

     人を器用にかき分けながら走らない程度の速さで追ってきたにも関わらず、後藤はさっさと日比谷公園の中へと消えていく。しのぶもすぐ公園の入り口にたどり着いた。彼とのタイムラグは大して空いていないはずだが、ざっと見た限り後藤の姿は見当たらない。ここから見える範囲で後姿を探したあと、しのぶは勘にしたがって園内を歩き始めた。
     日比谷公園は首都の真ん中にあって、大きいとは言えないが、しかしそれなりの面積を誇る。芝生は眩しく緑の種類も多く、鳩は戯れ、夏には噴水の水音が涼しい。
     公園を取り囲む木々も大きく育ち、それが道路の向こう側の世界と内の世界を見事に隔離していた。少し歩く内に、忽ちに往来の音は薄れ、代わりに遠くから聞こえる笑い声、なにかがさざめく音、空気を揺らす羽音などが鼓膜に響いてくる。あいにくの天気だからか人影はまばらで、木や草の緑、土の黒いところばかりが目に飛び込んできた。
     日比谷公会堂の赤煉瓦姿を右手に見てから方向を転じ、さらに足を進める。
     と、急に視界がひらけ、潅木があたりを埋める場所に出た。緑青の葉の間からこぼれんばかりに色を見せるうてなは薄花桜、鴇色そして紅碧。今が盛りとばかりに咲き誇る紫陽花の群れに、しのぶは一瞬息を呑む。日比谷公園にこんな見事な紫陽花の群生地があったというのか。
     その花々の中、後藤は一人佇んでいた。
     花の中にあって、ただ静かに、花を眺めていた。
     追ってきた男を目の間にして、しかししのぶはすぐには動けなかった。紫陽花と後藤でこの場のすべてが埋まってしまったように感じ、そして自分がそこに踏み込むことになぜかためらいを感じたからだ。雨降り前の空の下、後藤の背中は普段どおりでありながら、他のすべてを拒絶しているように見えた。
     そこに立ち尽くしていたのは、おそらくとても短い時間であろう。澱む時間に取り込まれたように、ただ後藤を見つめていたしのぶは、一斉に飛び立った鳩の羽ばたきで我に返った。同時に後藤がふと視線を上げる。こちらを見た目には張りが無く、代わりにただぽっかりと底知れぬ黒い光だけが瞳に宿っていた。
     彼はしのぶを見ると口の端だけで微笑んで見せた。しのぶが突然表れたことを驚きもせずに。まるで、この場に来ることを初めから知っていたようだった。
     自然と足が、前へと進む。自分以外の意思に後押しされるように、あるいは引き寄せられるように。湿地で流される葦のように、ためらいがちにしのぶは歩いていった。
     いよいよ雲はすべてに蓋をして空気は重くなり、紫陽花の空間は言葉に出来ない感情を多分に含んで、四方八方からしのぶを包む。その重さが足をますます重くしているように感じたが、しかし歩みは止まらない。僅かな距離は、あっという間に詰められる。そうして普段の任務のように後藤の傍らに立ってもなお、彼はなにも言わなかった。ただしのぶと一度目を合わせて、また紫陽花の群れに視線を戻す。しのぶも後藤につられて花を見た。青みがかった色がこの空にこそ生えていて、雨の中健気に咲くその花を、しのぶはなぜか寂しく感じた。
     しばらく、二人は無言のまま、ただ立ち尽くして花を眺めていた。
    「……これ、預かったのよ」
     結局、沈黙に耐え切れぬように口を開いたのはしのぶだった。持っていた封筒を掲げて、
    「警察庁の葉山さんから、あなたに、って」
    「ああ、わざわざありがとう」
     後藤はそう言いながら書類を受け取る。会話はそこで途切れ、用を終えたはずのしのぶは、しかしなぜか立ち去りがたく、再び男のそばで共に紫陽花の中に立ち尽くす。大気に雨が降る前の、あのつんとした水の匂いが混ざり始めた。
     ああ、早く立ち去ろう。すべての用事を済ませて、さっさと二課に戻らなくては。目の前の男には、いつものようにサボらないで早く戻るようにと言って、自分はさっさと文部省に向かうのだ。
     しのぶは心の中でそう何度も言い聞かせる。しかし実際には、その場の空気に縛られたように動けない。まるでなにかに飲まれたようだった。
     ふと、弱い風が吹いた。空気を払うには力なく、ただ、人の頬を撫でるだけのようなものが。
     その感触に触発されたかのように後藤が笑った。ふっと気を抜くように。
    「……この存在者には、自己の存在と共に、この存在を通して、この存在が自分自身に開示されている、ということが具わっているのである。存在了解そのものが、現存在の存在規定なのである」
     急に、つぶやくように吐き出された言葉に、しのぶは面食らった。後藤が時に謎掛けのようになにかを話してくるのには慣れている。慣れてはいるが、常に身構えているわけではない。突然何を言うのだろう、と思いながら、しのぶは言葉を返す。
    「現存在、ということはハイデガーね」
    「そう、ハイデガー。昔ね、ちょっと読んだことがあって」
    「後藤さんがハイデガー?」
    「なに、意外?」
    「意外というか……、そうね、どちらかといえばニーチェとかをより好みそうだけど」
    「サルトルならけっこう読み込んだけどね。ま、実存主義には変わりないけど。あとはフーコーとか」
    「あら、哲学科だったの?」
    「いや、政経」
     若き日の後藤が哲学書を真剣に読んでいる姿を、しのぶは想像した。真剣な顔をして人と世の存在について、そして世界の姿を論議する、そんな日々が今の後藤の基礎となっているのかもしれない。人をけむに巻くように哲学的なことを時にふっかけてくることもあるから、あながち外れていない気がする。
    「でも、現存在としての人間よりも、ハイデガーが何を考えていたか、っていうことに、今ちょっと興味あるかな」
     その言葉に込められた響きに、しのぶははっとした。後藤が自分のどの部分とハイデガーを重ねているのかを、はっきりと汲み取ったからだ。
     二十世紀の偉大な哲学者、実存主義、ドイツ哲学の金字塔にして、一方でナチスドイツの熱心な党員。彼が自身の政治的姿勢からナチスを強く支持し、その思想でもってヒトラーへの忠誠を果たしナチスを正当化しようとしたこと、やがて党内での政治的敗北からナチスと距離を置いたものの、ナチズム思想への肯定は最後まで不変だったこと。その陰は今日尚払拭されず、ハイデガー哲学の功績、そして彼自身の評価にも強い影響を与えている。
     なんというべきかわからず、しのぶはただ唇をかんだ。
    「……昔ね、何度もここに来たんだ。都立図書館で本借りてさ、さっさと家なり学校なりに帰りゃいいのに、その辺のベンチに座って」
     淡々と話す後藤の顔には、なんの感情も浮かんでいない。
    「今から思うと本当に若いねー、って他人事みたいに思っちゃうんだけどね。一体なにをあんなに話してたんだか」
    「……」
     誰と、と聞く必要はなかった。
    「そういうのも含めて『ここにある』、ってことなんだろうけどね」
     後藤が、しのぶの方を見た。
    「どういう関係なの、って前聞いてきたよね?」
     相変わらず目の光は暗く、いつも以上に表情は読み取りにくい。
    「……ねえ、しのぶさん。話、聞きたい?」
     しのぶは無意識に息を飲んだ。

     扉が、開こうとしている。

     考えるより先に、しのぶは答えていた。
    「ええ……、聞きたいわ」

    「一言で言えば若かったんだよ」
     後藤はそう言って、遠くを見つめた。恐らく後藤の目にはなにも映ってないだろう。あるいは、青の時代、理想に燃えて日々を過ごしていた後藤喜一青年がその先にいるのかもしれない。
    「ほんと、笑っちゃうけどさ。自分の力がもっと大きいって感じてたんだよね。なんたって若いから、歪んでる世界を自分が正せるんだ、ってまあ泉たちも真っ青なこと真剣に思っちゃって。そんな俺にとって、あいつの話は本当に刺激的だったよ。友人はそれまでもいたけど、同志とまで呼べる存在は、あいつが初めてだった」
     あいつ、という言葉に含まれる響きはとても複雑で、後藤がそう口にするたびに、しのぶの心にも小さな影を落とす。
    「やっぱ今日みたいな天気の日に、二人で紫陽花見てさ、そうしたらあいつが日本っていうのは紫陽花みたいなもんだ、っていうんだよね。なんだそりゃ、って聞き返したら、周りの萼だけ飾り立てて、本体たる花は全く目立たない。しかも生えてる場所の土壌に合わせて色まで変える。それはアメリカはじめ外国の意向でくるくる国策を変えて、しかし本質なんてものはなく、つじつま合わせのために他のもので誤魔化して本質を隠そうとする日本そのものだ、って。こう言うわけよ。そんときは花一つのんびり見えないのか、へんな奴だなあ、としか思わなかったけど」
     後藤はそこでなにかを揶揄するように笑った。しのぶは、心が痛む笑い方だと思った。
    「……紫陽花をみて、それを思い出したの?」
    「いや……、うん、それもあるんだけどね。というよりもさ、なんていうのかな。そう、自分を見てるようで」
    「後藤さん?!」
     ぎょっとして名を呼んだ。さっきの笑いは自分に当ててのものだったのか。
     しのぶの声に後藤はまた彼女の方を見る。その表情は寂しく、素朴で、常日頃の後藤喜一とは別人に見えた。ひょっとすると、今まで見ていた彼は後藤本人が長い時間を掛けて作り上げた仮面で、これが本来の彼そのものなのかもしれない。後藤はしのぶの心内を読んだかのように、
    「いや、揶揄してるんじゃなくて、花そのものは変わらないくせに生えてる場所で色まで変えちゃうんだからさ。なんかね」
    「……そういうの似合わないわよ」
     辛うじて搾り出せた言葉は、場に最もそぐわないものだった。自分の弁の立たなさにしのぶは内心閉口する。もっと言いたいことは違うはずなのに、上手くそれを掬いだせない。
    「ん、まあ確かに俺らしくないかも」
     後藤は大して気にすることなく返してきた。相変わらず表情は伺えず、口調には濃淡がない。
     しのぶは後悔した。後藤にこんな表情で、こんなことを言わせたかったわけじゃない。たとえ誘ったのが後藤だとしても、鍵が開いた扉に手を掛け、押したのは自分だ。
    「ねえ、後藤さ……」
    「最初は二人だけだった」
     その声は人に聞かせるため、というより、自分に聞かせるためのものに聞こえた。「二人でああだこうだ言いながら考えたよ。効率的に首都を抑える方法、人の心理をいかに混乱させるか」
     しのぶは言葉を失い、後藤を見つめた。喉が絞まるように、息が出来ない。
    「なんであんな的確に動けたのか、ってそりゃ自分もかつて考えたからだよ。昔の思考をトレースしていくんだから、答えにたどり着くのは時間の問題ってもんでしょ。方程式さえ知っていれば、誰だって出来ることだ」
    「……なにを、誰になにを言われたの」
     必死になって口にしたその問いかけの声は、どこか上ずって耳に届いた。対称的に、後藤の口調はますます冷静に響いた。
    「別に、本当の事しか言われてないよ」
    「本当のことって……」
    「何が本当か、なんて実は誰もわかってないと思うんだけどさ、俺を含めてね」
     そう言って肩をすくめる。
    「ただ、確実なのは、あれは俺の仕事だったってことだよ。他の誰でもなく、俺の、ね」
     しのぶはなにも言えなかった。
     なにをいえばいいのか、皆目見当がつかない。
     ただ、焦りだけが胸を満たしていくのが判った。早く、早く――
    「あの船に乗っていた副官と俺と、本来は区別なんてないのかもしれな――」

    「でも!」
     しのぶはとっさに叫んだ。自分でも思った以上に大きく声が響き、後藤は驚いた顔をしてしのぶを見る。
    「しのぶさん?」
    「でも、あなたはあの船には乗っていなかった」
     後藤を見据えて、はっきりとしのぶは言い切った。
    「あなたはさふらわあ号には乗らず、埠頭にいたわ。私にはそれで十分よ」
    「しのぶさん……」
     しのぶは目を逸らさず、全身を以て後藤と向き合った。
     過去は消えない。自分にも、誰にも背負いつづけなければならないものがある。
     しかし、それが人を構成するすべてなはずがない。過去は要素の一つであっても、すべてではないのだ。
     甲斐はかつて見た場所へと走っていき、後藤はこの場に留まった。
     かつて同じ場所から同じものを見たとしても、同じものを望んだとしても、なにになろうとしたとしても、今、どこでなにを見て、どこに手を伸ばそうとしているかが大事なのだ。
     いまどうあるかが大事で、あとは知ったことではなかった。しのぶにとって、後藤は二課の同僚で、自分をよく悩ませ、そして助けてくれる。よくわからない部分があるが、しのぶを尊重してくれて、なによりも信頼に足る人物である。それが、彼を判断し、理解するのに最も必要な要素であった。
     後藤はこれからも甲斐と共に過ごした青年を抱いて生きていく。それは彼の人生の一部であり、彼が背負うべきものでもある。ならば、周りにいる人間が出来ることは、その青年に後藤が呑みこまれないように見守ることぐらいだ。幸いにも後藤は悲しいほどにタフな人間である、過去を切り離せないままでも、呑みこまれることもまたないだろう。それは強固な確信となって、しのぶの胸に仕舞われた。
     気が付けば、空気は多分に水分を含み、しっとりと重くなっていた。梅雨空が舞い戻る前に、霧雨が都心を濡らそうとしている。
    「……ごめん」
     やがて後藤が口を開いた。
    「しのぶさん、ごめん」
     しのぶはかぶりをふって、わずかに口の端を上げた。
    「本当、あなたらしくないわよ、後藤さん。あやまるなんて」
    「俺、普段から素直じゃない」
    「帰ってから素直の意味を調べなおしたほうがいいんじゃないかしら」
     返しながら、しのぶは強張った自分の表情が緩むのを感じた。後藤の口調が、耳に慣れたものに近くなっている。しばらくどこか遠くにに行っていた旧友を迎えるような気持ちをしのぶは抱いた。この表現はある意味的を得ているのかもしれない。
     そうだ、彼は帰ってきたのだ。
     ふと、鐘の音が遠くから響いてくる。しのぶは反射的に時計を見た。時計の針は、12の文字盤で奇麗に重なっていた。
    「あらやだ、もうこんな時間? 早く文部省の方にいかないと」
    「文部省?」
    「そう、零式のOS関連で、あそこもなぜか絡んできてるのよ。今日担当者と会う約束をしているの」
    「会う、って時間とか大丈夫なの?」
    「ええ、特に約束はしてないけど、でも早くいかないと」
    「ならさ、さっさと済ませて食事行かない? よかったら奢るよ」
     後藤はそう言って微笑んだ。いつもの、あのしのぶに投げかける笑顔が、そこにあった。うさんくさいくせに、心から安心させられる。そして自分の日常に後藤の笑顔がしっかりと根付いていることを、しのぶは強く意識させられた。いや、笑顔だけではない。この男自体がもう自分の人生から切り離せられれないほどに、大きな存在となって絡み合っているのだ。そう無理に切り離して、なにかの箱に入れることが出来ないほどに。それはもうずっと知っていたことであり、同時にすべてを揺さぶるような大発見でもあった。
     しかし、そのことに動揺したり耽ったりするのはあともう少し後だ。いまは、戻ってきた日常を大事に抱きしめ、そしてそれをこなさないといけない。とりあえずはこの同僚と一緒に。
    「食事、ってどこで」
     了承の代わりにそう問いかけると、
    「そうだなあ、郵政省上の食堂とか。あそこのそば美味いんだよね」
     あるいは溜池山王の方にある中華とかでもいいんだけど、あそこの冷やし中華もこれまた美味いんだよなあ、と続ける後藤に、しのぶはやはりいつも通りの顔で返した。勿論、隊長職が二人とも不在というのは妥当な状況ではないし、二人ともさっさと仕事を終え、二課に早く戻らなくてはならない。でも、あと少し時間はあるだろう。目の前の男と、きつねうどんを一杯味わうぐらいの時間は。
    「そうね……、ならさっさと済ませましょう。二課にも早く帰らないといけないし」
    「雨も降りそうだし」
     二人は見詰め合って、ふっと笑いを漏らした。気が付けば公園内には人が溢れ、近所のOLやら営業中の会社員やらが食事を手に足早に歩いていく。時は確実に流れていた。誰の上にも、平等に。
     じゃ行くわよ、と声を掛けてしのぶは公園の出口に向かう。農水省の食堂だろうが郵政省の食堂だろうが、空が泣き出して、食堂の席が埋まるその前に滑り込まないと。きりりと歩き出したその後ろから、後藤がそっと声を掛ける。
    「……ありがとう」
     恐らくは聞こえなくてもよいぐらいの、空気に溶け込むような囁きだった。
     だがそれに対し、しのぶは振り返り、ただ柔らかく微笑んで見せた。
    「ほら、早く」
    「あ、うん。……せっかくだからさ、溜池山王の中華行こうよ、あそこほんと美味いんだって」

     梅雨はこれからが本番で、毎日雨ばかりの日々が続く。
     しかし、いつか、そう遠くないうちに雨は上がり、そうしたら輝かしい限りの青空が、視界いっぱいに広がるのだ。どこまでも晴れやかな空が。
    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/26 18:33:58

    紫陽花

    人気作品アーカイブ入り (2022/06/29)

    #パトレイバー #ごとしの
    この冬の「一番長い日」からもうすぐ半年。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    OK
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品