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    あじさいとひまわり 青鈍の重苦しい空の下、湿度だけがじりじりと上がっていく。うっすらと搔いた汗が蒸発せずに身体を湿らせていき、まったく気持ちがよくない日だ。
     しのぶは職務に支障がなければ、オフィスが山の奥だろうが駅から三〇分掛かろうが海の側の廃工場跡だろうがまったく構わないが、夏だけはこの分署の立地を恨めしく思う。それでなくても精密機械であるレイバーが傷みやすいことに加えて、東京湾の潮風はお世辞にも心地よいとはいえないものだからだ。後者はただの愚痴だが、機材については切実な話で、それでなくても金食い虫と言われて予算が削減されている二課において、余計な出費は少しでも抑えたい。夏のサビは二課一番の敵だ。
     そういえばそろそろ予算案が提示される時期である。去年は「なんなら私と後藤で折衝にいきますがよろしいか」と提案することで福島の尻を叩いて、管理職で頭を絞ってどうにか現状維持まで持ち込んだのだが、新型機の導入が間近な今年は果たしてどうなるのだろうか。
     つらつらと考え事をしている間にも不快さが増していく。クーラーを入れるにはまだ早く、窓を開けても緩やかな風は部屋を撫でるだけだ。せめてコーヒーでも飲んで気張らしをしようと思い、ねえあなたも飲む? と声を掛けようとして、その一歩手前でなんとか言葉を飲んだ。そうだ、後藤はまだ戻ってこない。
     朝から空っぽの机とホワイトボードに書かれた「後藤 本庁直行」という言葉。時刻が書いてないのは戻りの時間が読めないからだ。
     本庁に異動して以来一貫して警備畑だったしのぶと違い、後藤は所轄時代から、常に前線に身を置き、容疑者と対峙する部署を渡り歩いてきた。だからなのだろうが、警備部の特車二課に異動してきたいまも、裁判での証言が必要になったり未解決事件に動きがあったときには、検事だったり弁護士だったり、過去の部署から呼び出しが掛かる。
     今日は確か未解決事件のほうだったか。どんな事件だったのかを後藤は語らないし、しのぶも尋ねることはないが、それでも未解決という言葉の重みは警察官として理解出来る。当の後藤は表面だけはいつも通りの表情ままで、昔取った杵柄とやらで意見を言うだけとはいえ、久しぶりの本庁の捜査会議だから面倒だよ、と怠慢なことをこぼしていたのは昨日の終業前のことだ。
     本庁で持て余されて飛ばされたとはいえ、後藤は見る限り刑事部とも公安部とも当たり障りのない関係を維持してるようなのだが、それでも前部署の人間と顔を合わせるのはおっくうらしい。昨日も伏魔殿に出向くんだからなにかご褒美が欲しいな、と眉をさげながらわざとらしくしのぶの方をちらちらと見るものだから、「明日分の業務報告書ぐらいは書いておいてあげるわよ」と太っ腹なことを言ってあげたら、微妙な顔をしながらありがとうと返してきた。
     とはいえしのぶも後藤の心労は理解出来るから、帰ってきたらとっておきの羊羹でも出してもいいし、なんなら夜に焼き鳥を食べに行ってもいい。下谷にある焼き鳥屋のせせりととりわさは後藤のお気に入りなのだ。
     それにしても同僚はいつ戻ってくるのだろう。コーヒーメーカーに粉を落としながらしのぶは時計を見た。時刻は一三時一五分過ぎ、部外者がちょっと話してくるだけだし会議が佳境に入ったら追い出されるはずだから、遅くても一時前には戻ってくるよ、とは昨日の後藤の見立てなのだが。
     事件が刑事部の管轄なのか、それとも公安部の管轄なのか、そもそも事件の概要すら知らないが、未解決のまま今日まで進展がなかった事件なのなら、ただのアドバイザーのつもりがついつい身が入ってしまっているのかもしれない。普段は昼行灯との呼び名通りに力も手も抜く仕事ぶりであるが、現場においては真面目で抜け目なく、そして常に冷静だ。徹底した自制と観察、それこそが後藤に冷静さをもたらす武器であり、人よりも広く先を見通しているからこそ動揺することが極端に少ない。
     思えば彼が赴任してきてしばらくの間は、後藤の余裕があまりにマイペースすぎるように見えて、それで苛立ったこともよくあった。後藤がこれまでのあいだ敵は作れど相棒に恵まれなかったとしたら、人よりも優秀であるがゆえに、常に余裕のある様子が常に人を食ったように受け取られるからだろう、もっとも人を食った態度自体は誰に対してもよく取るのだが。
     そもそも後藤はここで隊長職をやっていること自体がイレギュラーで、それこそ雨が止んだら旅人が街道沿いの大木から出て行くように、後藤自身が望もうが拒もうが、いつかはここから去って行く人間だ。後藤は「俺が飛ばされるぐらい場末っていうより、俺が飛ばされて場末になったもんだよね」と微妙にずれた反省をしたこともあったが、では飛ばしたものの思惑通りにここで塩漬けのままなのかといえば、それはないだろうとしのぶは思っているし、後藤も心の奥底では一線に戻ることはやぶさかではないはずだ。今日も本人でも意外なほど気持ちが乗り、いつしか水を得た魚みたいになってるのかもしれない。落ちきったコーヒーを注いで香りをまず堪能したとき、後藤のデスクの電話が鳴った。
    「――はい、警備部特車二課分署隊長室、後藤のデスクです。あいにく後藤は用事で出てまして」
    「南雲さんか。後藤さんまだ戻ってないのか?」
     電話の向こうの松井の声に、しのぶは知らず眉を寄せた。
     それから数分の会話の後に「わかりました」と電話を切ったあとも、しのぶはしばらくの間厳しい顔で思案していたが、やがて席を立ち、第二小隊のハンガーへと向かった。いくつかやらなければいけないことがある。

    <後藤さん お疲れさまです。会議が白熱しているとのことで、午後休の手続きを取りました。熊耳巡査部長に代理を命じましたので、本日は直帰で結構です>
     あえて公用のアドレスで後藤の携帯にメールを送り、しのぶは椅子に深くもたれかかった。
    「捜査本部の八阪管理官がどうやら後藤さんと因縁があったらしくてね。アドバイザーといいながらありゃつるし上げだよ、俺たちも間には入ったんだけどね」
     先ほどの電話で松井は後藤への同情を隠さずに、しのぶに返さなくていいから俺から連絡があったことだけは伝えてくれと言ってきた。
    「後藤はどうしました? まさか黙って聞いていたわけじゃ」
    「そのまさかだよ。あの事件は初動から間違ってたやつでさ、見込みが違ったもんでここまで未解決で来てたから、遺族のことを思うと反論する資格もないと、当時の担当はみんなそんな調子でね」松井はそこで一端言葉を切り、重い息を吐いた。「俺はさ、今だってあの人は札付きだと思ってるよ。でも、警察官としてあそこまで真っ当だと、後藤さんはもうここじゃしんどいかも知れないな。……不器用な人だよ」
     八阪といえば小森刑事部長の子飼いだったか。実力より忖度が本庁での処世術の基本で、実力だけしかない後藤は忖度のみでのし上がった八阪のような男にはもともと目障りだったのだろう。それにしても、勝負から降りている男を呼び出してまですることだろうか。それとも、八阪以外の人間の思惑に、否応なく後藤も巻き込まれたというのか。
     いずれにしても、人をただの駒としか思わないような戦術を平気で取るくせに政治にはとことん興味がない後藤のことだから、さぞ重苦しい時間を過ごしたことだろう。松井も先ほど吐露していたが、とっくにすり切れた卑しい人間の振りをして、そのくせ後藤喜一という男の内心は真っ当で堅い。
     手元のマグカップも飲み干して時計を見れば一三時四五分、そろそろ返答が来るだろうと思ったそのタイミングで、パソコンにメール受信の通知が現れた。
    <後藤です ごめん寝過ごしてたみたい。すみませんすぐ戻ります>
    <南雲です。繰り返しますが直帰でけっこうです。お疲れ様でした>
     すぐにそう返信した後、私用の携帯を取り出し、今度は後藤の個人アドレスを呼び出した。
    <ただし、どこにいるかは適時連絡してちょうだい。迎えにいくから>
     送信してぱちんと閉じたところですぐに携帯が震える。
    <ありがとう>
     そして間髪いれずもう一通。
    <ごめんね>
     声が聞こえるようなシンプルなメールだ。読んでいるそばからすぐにメールが届く。
    <品川で降りるつもりで東海道に乗ったらうっかり乗り過ごした。もうすぐ終点だって>
     この時間まで乗っていたということは、熱海か。
    <了解しました>
     あえて事務的にメールを返して、しのぶは書類を広げた。
     定時まであと三時間半。そこから熱海まで行くなら品川からこだまがいいだろう。後藤が熱海で日帰り温泉としゃれ込むだけの気力を取り戻していたらだが。
     果たして一四時を過ぎたところで再び携帯が鳴って<戻ります、と言いたいけど、次の列車があと三〇分出ないそうです>とある。近郊区を抜けると列車の運行頻度がのんびりとしたものになることを、しばしば都会の人間は忘れてしまうものだ。
    <寛一とお宮の像でも見てきたら?>
    <駅から海まで、微妙に遠いみたい>
    <じゃあ海鮮丼でも食べて、せっかくだから海も見てきなさいよ>
     後藤にとってもしのぶにとっても、海は見慣れたも見飽きたも過ぎてもはや背景でしかないが、本当に開けた大海原というのは独りの人間に優しい。だから、どこかで海を見てくるといい。
    <大磯で一度降りました>と連絡があったのは一五時過ぎ。それからやや間があって、写真が一枚、贈られてきた。
     荒い画像でもわかる、海岸から望む海原に、重く垂れた雲の合間から天使の階段が数本暗い海へと降りている風景。この重い雲も間もなく晴れようとしている。恐らくは後藤は、大人しく一番早い東京行きに乗り込んだものの、大磯にさしかかったあたり、偶然窓からこの光景を見て、そうして慌てて降りて砂浜へと急いだのだろうか。
     しのぶも席を立って窓から都心の空を見上げた。広がる雲は相変わらずの鈍色で差し込む光は当然ながら見えない、だが遠くのどこかでは間違いなく晴れているのだ。
    <しのぶさんにも見せたかった>
     写真のあとすぐに送られてきたメールに、しのぶはただ<ありがとう>とだけ返す。そして慌てて<きれいね>と付け加えた。今度は返事がすぐ帰ってこない。恐らくは太平洋を見ているのだろう。砂浜に立ち尽くして、初めから独りで生きてきた背中で、ただ遠くを見ている後藤の様子がありありと目に浮かんだ。目に差す影の紫とほつれたオールバックがなびく姿、しのぶはその背中になにを言うことも出来ず、一度まばたきをして気持ちを切り替える。現実の隊長室は書類が山積みで、いつもの置物だけがいない。それだけでがらんとしていて、かつて後藤が異動してくるまでの間はこれが日常だったことを、すでにしのぶは思い出せないのであった。
     ここから南西に後藤がいる。早く帰ってこないでもいい、明日にはみっちり働いて貰うし、積まれた書類を手際よくミスなく片付けてもらう。でも今日は、今日だけは、ただ後藤がそこでなにかを捨てて来れれば良い。
    <帰ります。六時前には東京に着くみたい>とメールが来たのはそれから三〇分後のことだ。しのぶは<品川の港南口のコーヒースタンドで待っててください>と返答し、今度は鞄に携帯を放り込んだ。
     定時まであと一時間。

     日も暮れ始めた品川駅バスターミナルから喫煙が出来るコーヒーチェーンの店へと向かえば、店の入り口に後藤が寂しげな顔で立ち尽くしている。しのぶの姿を見ると、今度は反省してると全身で表して、眉をさげたしわしわの顔で小さくしのぶさんと呼んできた。
    「あの、今日は本当にごめん……」
    「黙って」
     言葉がないのなら行動をすれば良いのだ、恐らく。
     ネクタイを持って顔を引き寄せそのまま唇を重ねる。いつもよりも長いキスの間に、後藤が目を見開きながら白黒させていたようだが、それで良いのだとしのぶは思った。


      後藤はホワイトボードに書きなぐられた「南雲 本庁直行 10時」の文字と時計を何度も見てから、どうしたもんかね、と小さくため息をついた。
     背もたれに体重を掛けると、古い椅子はぎぃと音を立てて軋む。時刻は一三時一五分過ぎ、お昼も終わり出動も掛からなさそうな二課棟は静かにまどろんでいるかののようだ。ただひとりがいないだけでこの部屋は静寂に満たされる。何ごとも変化しない定常的な状態は、なんの意外性も刺激性もなくて後藤にはいささか退屈だ。この退屈こそ求めたものであるから文句はないのだが、一方で一人だとどこか穴が空いたように感じてしまうようになったのは、長い人生の中で最大の変化である。
     後藤にとって日常の彩りにして最大の謎である同僚は、一週間ほど掛けて過不足なく情報が入れられ、そして見やすい形に整えられたパワーポイントのファイルを携え、朝一番で警視庁へと向かっているはずだ。それこそ会議が紛糾し止まらないほどに熱を帯びたものならまだいいが、今日しのぶが出席しているものは、しのぶの熱意だけが空回りして、冷ややかにいなされるタイプのものだ、いつも通りに。予定通りに議事が進み、しのぶの進言はけんもほろろに扱われ、真正面からぶつかろうとしても悪達者な上層部にたしなめられて、予定時間きっちりに終わる。かつては、いや心の奥底ではいまも、正しいことをするために上を目指したしのぶにとって、それがどれほどの屈辱かは想像に難くない。
     だから俺が行くって言ったのになあ……と後藤は独り言ちた。
     先日、昔の仕事の関係で本庁に行ったとき、大変情けない話だが、自分を上手く律することが出来なかったことがある。なにもかも耐えられなくなることはこれまでもあったし、やり過ごす方法も身につけている。しかし、本当に耐えられなかったのは久しぶりのことだった。後藤を当時の担当として呼んだのは、野心的なキャリアの典型である刑事一課の藤本であり、後藤を歓迎しなかったのは狡猾なキャリアの典型である八阪だ。
     藤本は後藤を駒としてここに呼び戻してでも手元に置きたく、八阪は後藤をいつまでも埋め立て地に閉じ込めておきたい勢力の代表だったらしく、第一ラウンドは八阪が勝利を収めたといったところか。藤本が迂闊だったのは、よりにもよってあの事件を口実に後藤を引っ張り出したことだ。あの事件が解決し、今度こそ遺族を含めた関係者に正しい形で報告が出来るなら、自分がどういう扱いを受けても構わないというのが、あのとき担当した班全員の気持ちだろうし、後藤も例外ではない。
     会議の後、松井はとんだ茶番だと怒り、八阪は警察官ではないと呆れていたが、しかし、八阪の向こうに見えた影は、ただ後藤を真っ直ぐに見ていたのだ。
     余裕とは自分がぐらついているときには生まれないものだ、さらに後藤の選んだ職業は、他人の人生とその人の名前のもと責任を果たすため、ぐらつくことを許してくれない。不真面目で不誠実な公務員というレッテルを利用してせいぜい一時間だけエスケープするつもりだったが、最近特に察しがよい同僚の計らいで午後一杯の時間が与えられ、さぼりが思わぬ小旅行となり、最後に後藤はただなにもない海を眺めることが出来た。時間にしたらそれほど長くない時間、砂を気にすることなく革靴で海の端まで寄って、鈍色の海に白く水彩の筆を走らせたような光景を見ているうちに、ぽかんと思い浮かんだのだ、ただ「しのぶさんに会いたいな」と。そして同時に、もう一人きりのきままな道行きは終わっていたのだと、後藤はようやく悟ったのだ。
     ただしこのイレギュラーな話には後日談があった。
     あの日しのぶの機転によってちょっと寄り道をさせてもらってからというもの、しのぶは前よりやや多めの頻度で自ら手を上げて本庁に出向いていくようになった。しのぶに問いただせばもちろん違うというのだろうが、恐らくは後藤をなにかから守っているつもりなのだろう。何から、と聞けば彼女も答えに困るだろうが、それでも彼女は相棒として、なにか持てるものは持とうとしてくれている。それがしのぶの持つ強さの一つであり、その優しさがありがたい。が、しかしどこか歪んでいるのも間違いないように後藤には思えた。
     確かに、後藤としのぶはここ特車二課という小さな部署において、ただふたりの同僚として互いに背中を守り合う関係ではあるが、過度に凭れ合うような関係になるのならそれはいびつと言えるだろう。頼ることと甘えることは違うことで、人は時にただ甘えたくなり甘やかしたくなり、それを信頼と取り違えてしまうことがある。一方で人が本当に甘えてそして甘やかす相手は、心から信頼している人のみだ。
     確かにこの前は、自分でも驚くまでに感傷的すぎたから、それに引きずられてしのぶも一時的に感情的になっているだけなのだろうが。
     リボンの騎士よろしく美しく勇ましいのが彼女の美点だが、だからと言っていくら鎧で身体を包み敵陣を突っ切るように守ろうとしても、心が傷つかないわけではないし、傷を器用に癒せるタイプでもない。出来ることは傷ついてない振りをすることぐらいだ。そういうところは俺たち本当によく似てるんだよな、しのぶさんは否定しそうだけど。
     改めてしみじみとしながら後藤はよっと立ち上がった。今日の天候は雨時々曇り、工事現場は基本休みだ。今週出動が掛かるのは第二小隊だが、この天気ならおそらく開店休業で終わる。仕事がないほうがいい警察としてはめでたいことだ。
     だから、ちょっとぐらい隊長室が空になっても、とりあえずは問題ないはずだ。多分。

     二課棟を出て山崎を筆頭に第二小隊の隊員と、土いじりにと食生活の改善に興味を持った一部の整備員と、しのぶは知らないことだが実家が農家だったという地方出身の第一小隊の隊員数人たちがせっせと開墾した畑を超えて、さらに海の方に歩くと、堤防の手前に古びたベンチがある広場跡に出る。
     恐らくはここが会社だったころ整えた、福利厚生用施設の一環だったのだろう、申し訳程度につつじが植えてあり、その横には鳥が落としていった種が芽生えたのか、力がなさそうな向日葵が五、六本生えていて、それぞれがひょろっと貧弱ながらも、多少は花を咲かせたりもする。昼休憩の頃なら物好きな整備員が弁当をつついているときもあるが、二時前の今頃は基本誰もいない。
     二課棟の真後ろの堤防か、海に面したほうの屋上か、あるいは。いずれにしても、いつもはその場所に踏み込むことはしないのだが、今日に限っては不文律をやぶることにする。
     会議が始まったのは午前十時、紛糾もせず提案は冷ややかな目で一蹴され、定められたルーティン通りに進めば大抵二時間ほどで終了、鬱憤を晴らそうにもどこかに寄り道が出来る性格ではなく、ただ今日は五十日で道が混んでいるだろうから、二課棟に着いたのは恐らく一時半頃のことだろう。
     後藤が黙ってベンチに座ると、しのぶはバツが悪そうな顔で後藤を見た。
    「隊長室、誰もいないじゃないの」
    「大丈夫、ここ出動要請聞こえるから」
    「そういう問題じゃないでしょ。それにしてもよくご存じね」
    「まあね、はじめのうちは探検とかもしたのよ、こう見えても」
     しのぶはそれ以上咎めることもなく、しかし自分がそこに佇んでいたことを詫びることもなく、また視線を海に向けた。会議は熱を帯びることも真剣な言葉が交わされることもなく、時間通りに始まって時間通りに終わる、この次の会議も、さらにその次の会議も、これからもこれまでのように。
     後藤もまた無言で、茫洋と東京湾を眺めた。雨の合間の東京はむしむしとしていてゆらゆらと揺れ、陽炎の中に建てられているようだった。
    「……今日、泊まっていきなよ」やがて海を見たままぽつりと後藤が言った。「今日みたいな日はさ、梅きゅうとか板わさとか、そういったさっぱりしたもので、ビールでも飲むのがいいじゃない」
     しのぶはちらりと後藤の方を見た。
    「それで?」
    「それで」
     後藤はそっとしのぶの肩に手をまわし、自分に寄り掛かるよう、そっと身体を引き寄せた。自然としのぶの頭が肩へと寄せられる。堅く結んだ髪がほんの少しだけ揺れた。
    「そうだね、海の話でもする?」
    「なによそれ」
     しのぶは苦笑して、しかし離れることなくそのまま後藤の顔を見上げた。後藤もそっと視線を合わせて、
    「しのぶさん」
    「今度はなに」
    「大丈夫、とは言わないから。だから、今日は傍にいてよ」
     そんな風に懇願しているようにいうと、しのぶはやれやれ、という態度でそっと目を閉じる。こうして甘えているふりをしないと、わがままを許容したふりをして相手に寄り掛かることも難しい。互いに難儀な性格だ。
     雨が降り出しそうな中、とりあえず、今は三分だけ。

     そうして二人で言葉もなく飛行機が翼の端を光らせながら離陸して着陸してを見送ったころに、しのぶがそっと身体を離して、そっと身だしなみを整えた。ささやかな休憩が終わって、二人はただの警部補と警部補だ。
     また一機、飛行機がC滑走路から勢いよく北へと飛び立っていく。昔なら旅情に誘われるときは常に浮かぶ影は一人だった。いまも北海道を車で巡りながら、馬の走る姿やうっそうとした湿原に立つことを想像したりするが、本庁でひとりきりだったころのような逃避行のような願望はなくなっている。ただ、まだ、隣の人を旅路に誘う勇気はないのだけど。
    「さ、もう二時よ。さすがに行きましょ」
     しのぶが海を見たまま小さく伸びをして、軽やかに立ち上がった。いつだってそうだ、彼女は何度躓いて何度息が切れても、必ず立ち上がって、逃げることをしない。ほらあなたも、と振り向くしのぶにつられて立ち上がったところで、後藤は「あ、ちょっと」と声を掛けた。
    「なに」
    「来週の交通課とのやつ、あれやっぱり俺が引き受けるから、しのぶさんは今度の二課合同勉強会の講師のほうやってくれない? 今回の法改正、あれ旧法との比較が面倒だからまだ講師出来る自信がないのよ」
     へらりとした顔を作って押しつけて悪いけど、と付け加えると、しのぶは後藤の目をまっすぐ見たままかすかにまばたきをして、そしていつものあのつっけんどんとした顔になった。
    「資料、手を抜かないようにね。尻拭いはごめんよ」
    「最低限のものは作っていくから大丈夫、こう見えても社会人の自覚はあるから」
    「普段からその自覚を持って働いてくれるとありがたいわ」そして少しだけ気まずそうに小声になった「私は、ちょっと世話を病み過ぎてて」
    「なんか言いました?」
     そう言っていつも通りにふてぶてしく笑うと、しのぶは眉を下げたまま不器用に口の端をあげた。「甘いわね」
    「お互い様でしょ」
     そして腕時計を覗き込んで、やだ本当に行かないと、と鞄を背負い直して先に歩き始めたしのぶに、後藤は小さく声を掛けた。聞かれないように、聞こえないように。
     ――いつだって帰ってきてもいいんでしょ。
     そうして弱音をここに置いて、自分もさっさと日常に戻ろうとしたとき、しのぶが不意に立ち止まってくるりと振り向いた。
    「当たり前でしょ、あなたここの人間じゃないの」
     しのぶがここの、と言ったとき、恐らくは無意識に自分の胸を叩いたものだから、後藤は思わず心から笑ってしまったのだった。

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:23:33

    あじさいとひまわり

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    #パトレイバー #ごとしの
    タイトルはチャゲアスからです。かなり甘め。大人同士でも、少し疲れたときには

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