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    しおり
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    和をもってとうとし1988年 9月1999年 大晦日2011年 7月2019年 5月4日1988年 9月
     暦の上では今日から秋だというが、今年に限ってはだらだらとした冷夏の続きのようにしか思えず、肌寒さにカレンダーが追いついたような感覚だった。街も雨に濡れた暗い灰色に染まるように毎日沈んでいたが、それは梅雨のあとものんべんだらりと雨が絶えず降っているからだけではないだろう。下町からオフィス街、歌舞伎町に六本木、桜田門から目と鼻の先の銀座でさえもいまは自粛自粛の嵐、いまが千年程前なら、この天候もまた国の命運を表していると陰陽師が大仰に告げる場面だ。
     ああ本当にチンケだねえ。二本目の煙草を力任せに灰皿に押しつけたところで、「待たせたな」と同僚が小走りで戻ってきた。
    「どうだった?」
    「ダメだね」
     男はこの寒い天候であっても暑い暑いとハンカチで額を拭きながら、自分も胸ポケットに入れていたキャメルを取り出し火を付けた。
    「あの証拠じゃ裁判所から判子もらえないってよ、後藤ちゃん」
    「これ以上攻め込めって、盗聴でもしろっていうのかね」
    「するか?」
    「まさか」
     後藤は軽蔑を込めた目で相棒を見た。本庁に異動したと同時に組んだからもう一年以上の付き合いだが、このふくよかで人好きする風貌の男の軽さはいまだ頂けない。後藤よりも十近くは上だが、彼の慎重さよりもルールよりも市民よりも効率を重視する傾向と、手持ちのカードを見極めつつルールと理屈を考え抜いた上でうまいほころびを見つける後藤とでは、あまりに物事を見て考える土台が違いすぎるのだ。いまも冗談だよと心にもないとりつくろいをして、同じく軽蔑した笑みとともに煙を吐く。昔の相棒とならば、勢いで盗聴でもなんでもやったのかもしれない。
    「まったく、頑固だよなお前」
    「吉原さんがお気楽すぎるだけでしょ、だいたいおまわりさんが法律を守らないで誰が法律守るんだよ」
    「そりゃ一般市民のみなさんだろ」。フー、と煙を上に吐いて、男は丸く笑った。「そして一般市民の皆さんの生活を守るのが俺たちの仕事だ。さっさと胸張って盗聴出来るように、法律でも作って欲しいってもんだよ」
    「でもそれまでは違法なわけだろ。そういうことはきっちりしないとだめなんだよ」
     いらいらと吐き捨てるように言いながら、後藤も煙に釣られるようにもう一本吸おうとポケットに手を入れて、そして先ほどのが最後だったことを思い出し、空のフィルムを握りつぶした。あとでまた買いに行かないと。
    「一本吸うか?」
    「いや、キャメルはまずいからいい」
    「そうだったな、全く、お前って本当に頑固だわ」
     一本ぐらいならなんでもいいだろ、と笑う吉原を睨んで、後藤はむっとしたまま顔を外に向けた。まずいというのは言い訳で、単に昔キャメルを吸っていた男を思い出すからいやなだけだ。学生らしく貧乏で、フィルタぎりぎりまでちみちみと吸っていた後藤に、笑いながら一口吸うかと自分の吸いさしを渡してきた男の背中を昔も今も追いかけている。ただ、追いかける立場と理由は全く変わったが。
     いまも隣の男が上手そうに吐き出す煙に釣られて、ひとさじほどの郷愁が顔を覗かせたから、後藤は煙を追い払う振りでノスタルジーを追いやる。すると挙げた左手に嵌まる指輪が目に入って、今度は違う苦みが思い起こされたが、それは手を強く握ることでやり過ごした。
    「ともかく今日は手詰まりだから、一杯やってくかね」
    「俺に言ってるの?」
     後藤が聞き返すと吉原は顔をしかめてまさかと言った。
    「お前と酒飲むと面倒そうだからいい。それにさすがに」
    「お、ここにいたか、杉並で遺体だとよ。あと後藤、奥さんから電話あったぞ」
    「マジかよ、今日は後藤ちゃんと銀座で一杯やってこうと想ってたのに」
    「ついさっきイヤだって言ってましたよね」
    「遺体よりも後藤ちゃんのほうがいいに決まってるだろ」
    「後藤だってお前のしけた面よりも奥さんのほうがいいに決まってるだろ、さっきも電話掛かってきたぐらいには愛されてるんだよ後藤は」
     なあ、と呼びに来た同僚に同情を込めた目で言われて、後藤はええともまあともとれるような声をもごもごと出した。
    「後藤ちゃん、今月帰ったの何日」
    「吉原さんと同じだけだよ」
    「今度帰るとき花の一つでも買ってけよ。経験者は語るってやつだが、女房に愛想尽かされる前にご機嫌取らないと。女っていうのは勝手になんでも終わらせるからな」
    「おれんちが終わる前に昭和が先に終わるんじゃないの」
    「お前石頭な上に不謹慎だな」
     良くここでそんなこと言えるな、という吉原の言葉を聞き流したところでほら、と促す声がする。
    「班長がお待ちかねなんだから二人ともさっさといくぞ。ってその前に後藤、家に電話掛けるか」
     後藤は一瞬だけ考える振りをしたが、すぐに「いいよ、急ぎじゃないだろ」と返した。所轄時代に先輩が取り持った見合いで結婚したのだから、刑事の仕事を理解し、家を守るということを知っている女のはずだ。いまは杉並の遺体を検分しながら出なかった捜査令状について検討することが先である。
     ようやく桜田門まで上がって来られたのだ、ここで力を発揮し続けなければまた振り出しに戻される。いまはなによりもやるべきことのために力が欲しい。その力を得るために地位が欲しい、そしてある程度の権力も。ポケットの空の煙草を勢いよくゴミ箱に投げてさっさと移動しようとしたところで、吉原がぽんと肩を叩いてきた。
    「ほら、愛人が待ってるぞ」
    「愛人じゃないよ」
     後藤も吉原のいう客人が、いつも通りに一課の入り口の脇に立っているの確認して、疲れが顔をもたげた。全く、これで一週間連続だ。
    「先行っててくれ」
    「三木さんに遅れるっていっとくか?」
    「いや、五分もしないうちに行く」
    「あれだけ可愛いんだから食っちまえばいいのに」
     後藤は吉原に冷たい一瞥を与えてから大股で歩き出す。やはりこの相棒は苦手だ。
     後藤が客人と内心呼んでいる婦警は、扉の横で顔を伏せていたが、後藤の影に気付くと顔を上げて、切れ長の目を真っ直ぐ後藤へと向けた。険しいとも涼やかとも取れるきりりとした顔立ちだから、まだ若いだろうに迫力がある。今日もおっかないねと心で呟いてから、いつも通りに無表情で「だから無理なものは無理」とだけ言った。
    「規則では無理ではないはずです」
    「規則と捜査はだいぶ違うの。保安部のお嬢さんは知らないだろうけど」
    「だからお嬢さんじゃありません、私は」
    「保安部のお嬢さんでいいよ」
     苛立ちを隠さずにそう相手をはねのけると、婦警はいっそうきっとした顔で、
    「私のことを個別に認識しないから結構。しかし、王竹会がらみの三ノ輪のソープの情報だけは今日こそ頂いて行きます。池添班なら持っておられるはず」
    「五日間もここに通ってお疲れ様だけど」
    「六日です」
    「お嬢さん細かいねえ、警察学校出たてっていうのはフレッシュでいいね」
    「出たてじゃありません、それにハコにも立ったし所轄にもいました。お子様扱いは止めて下さい」
     腕時計の長針が三十度傾いた。決めていた通り五分間。
    「ま、明日も頑張って。俺、しばらく杉並通いだけど」
     じゃあねとおざなりに手を振ってまた足早に立ち去る。これがここ数日間繰り返されている風景だ。それにしてもあの婦警も、よりにもよって俺にすがってくるとは、人を見る目がない。
     ただ、頭は切れるな。エレベーターホールで何度も降りのボタンを連打しながら後藤はそう素直に評価する。
     今追っている荒川土手の薬物中毒者の遺体と王竹会と三ノ輪のソープが繋がっているのは間違いなく、にも関わらず、証拠が薄いからソープへの令状が取れないことに一課池添班はいらだっている。ただ、ソープ嬢を介した薬物売買の情報は一課と暴対のみで共有しているもので、保安部の人間がそれに気がついたとしたら独自に情報を辿ったからだ。しかし、正式に情報提要を請われているわけではないから、あの婦警の独自ネタの可能性が高い。恐らくは、上に訴えたがけんもほろろに扱われたというところだろう。普通は組んでる相手もいやいやだろうが付き合ってくれる場面だろうに今も単独で動いているのは、ペアにも追った情報の精度を危ぶまれたか、勝手に情報を追ったことへのペナルティを食らっているのか、それとも女だからと端から誰にも相手にされなかったのかはわからない。
     ふと、あの婦警なら、吉原の提案に乗って三ノ輪のソープに盗聴器を仕掛けるだろうかと考えてみて、後藤はすぐに楽しげに笑って首を振った。相貌からもにじみ出ているほどに、規律や規範を重んじる潔癖さを持ち合わせる女性だ、ルールを蔑ろにする提案などされたら相手の年齢や階級関係なく、嫌悪もあらわに抗議するに違いない。
     吉原があの若い婦警に詰められてむっとしている顔を思い浮かべると、暗い空気も胸にまだ残る苦い予感も少しは薄らいだように感じられた。良い感じだ、これで捜査に専念出来る。仕事が楽しいとかやりがいや意義に溺れているわけでなく、いまは犯罪を追い、知識を蓄え、先を見据えたい。私生活を送る余裕はまだ持てない。そして捜査一課池添班というのは相棒の吉原も含めて、犯罪捜査しか生活にない人間の集まりだ。つまり後藤にとって、ここは居心地のよい場所だった。

     ただ、そんなわがままな生活を送れるのは、私生活が空虚でも構わない人間か、これから私生活が空虚になる人間だけだ。


     夜の九時を回った公団の部屋は空っぽで、人の気配どころか、夫婦が暮らしていた名残でさえもこれっぽっちも残っていなかった。食器棚からは妻が気に入っていた湯飲みとマグカップがなくなっていて、きれいに整頓された部屋は少しだけほこりが積もっている。レースカーテンだけが引かれ、隣の棟からの明かりに弱く照らされた居間のちゃぶ台の上には白い紙と、もう一枚なにかが書かれた紙。
     玄関で十秒ほど呆けてから、電気を点ける気にもなれずにネクタイを緩めることも忘れてのろのろと居間に行くと、便せんには見慣れた右上がりの字で、後藤に向けたメッセージが一行だけ記されていた。

     もうあなたのことが一かけらも心配でなくなってしまいました。

     名前の横に印鑑が捺された離婚届を手にして、もうなにも出来ることはないことを悟る。左手の薬指へと視線を向けると、鈍い色をした銀色の指輪がただの記号としてそこに嵌まっていて、とたんに手錠のように重く感じられた。あるいは、はじめから自分にとってそれは異物だったのかもしれない。コートも脱がないまま、なにも考えることなく居間に一時間も二時間も立ち尽くしていたところに、目覚まし時計のように黒電話が鳴った。
    「――後藤です」
    『帰って早々のところすまない、杉並のあれ、千歳でひっかかったぞ。搭乗者名簿によると、今日の最終で羽田だそうだ』
     電話越しに聞く池添のがらがら声に妙な安堵感を抱いて、後藤はそっと息を吐いた。肺に入る空気のほこり臭さを気にしながら掛け時計を見れば、午後九時十八分。
    「本当に早々ですね」
    『家で一息入れたいところなのは分かってるが』
    「行きます。羽田の最終、ですね」
     言いながらはめっぱなしの腕時計を見ても、時間はもうすぐ午後九時二〇分。最後の電話が来てから三日が経って、帰宅時間はせいぜい五分か十分というところか。それは家に帰ったとは言えないし、思い出せば、結婚してから、夫として家に帰ったことなど数えるほどしかなかった。
    「すぐ出ます」
     後藤は落ち着いた声で短く答えて、そして受話器を置いた横に指輪を外してそっと置いた。指輪はただの指輪でしかなく、軽くもなければ重くもなかった。


     警視庁から虎ノ門方面にぶらぶらと歩いて、新橋の高架が見えるあたりでさらに路地を少し行くと、ビルの二階に大衆居酒屋が現れる。まだ新しく駅から近いわけではないから新橋の店としては混んでいないが、口コミで官庁の人間がふらりと寄っていくからそれなりに繁盛している。モツの匂いが充満する店はレバ刺しが特に絶品らしい。後藤はレバ刺しを食べないので関係ない話だが。
     杉並の殺人事件は、初動捜査時の見込み通り、北海道に出張していた夫が犯人として挙げられた。殺人でも暴行でも、一課が扱う事件は八割九割が身内か顔見知りの犯行だ。いつだって周りの人間が一番怖い。任意でひっぱってから逮捕、送検までが三日間。それなりに早く片が付いてなによりだ。
     明日からもやることは山積みで、まず妻の実家に電話をしなければならないし、事務的な手続きが山のように待ち構えているし、なによりも早急に妻にも会うべきなのだが、それらに向き合うのは明日以降の話で、今日はささやかな祝杯と夕飯をかねて中ジョッキを味わうぐらいのことは許されるはずだ。冷やしトマトと皮とねぎま。それからもつ煮。あとはなにか適当にと考えながらのれんをくぐると、カウンターに女性客ひとりなんて珍しいものがあった。それだけでも新鮮なのに、さらにその後ろ姿に見覚えがあったものだから、後藤は迷わず隣の椅子を引き、「生ひとつ」と注文をする。人の気配を感じてこちら側を向いた保安部のお嬢さんは、後藤の登場に眉を僅かにあげたものの、すぐにカウンターに向き直り、「私にも生追加で」と同じく奥へと声を掛けた。
    「女一人で飲むなんていい趣味してるね」
    「前に上司に連れてきてもらったんです。もつの味が好みで。それに大人が一人でお酒を飲むことのなにがいけないんですか」
    「いけないなんて言ってないでしょ」
    「あなたはそうでしょう、幸か不幸か私に興味がないようですし、そもそも」
     そこで彼女はカウンターに置かれた後藤の左手に目をやり、そこで一瞬だけ目が釘付けになるのがわかった。三日も経てば指にあったなにかの跡も消えている。後藤も釣られて自分の薬指を見て、もうなにも残っていないことを今一度確認した。
    「中ジョッキですー」
     若い店員がドンとジョッキを置いたところで、「後藤さん」とお嬢さんが名を呼ぶ。
    「なんでしょう」
    「――飲みましょう」
     彼女は美しい瞳で凜々しく言って、一気にジョッキを煽った。


     冷やしトマトに皮、ねぎま。さらにレバとももせせりが揃ったところで、彼女が不機嫌を隠さず自分で注文していたきゅうりのぬか漬けをぼりぼりと噛んだ。
    「確かに女一人でのれんをくぐるなんて上品じゃないかもしれませんが、好きなときに好きなものを食べたいだけで、どこかの男とよろしくやりたいわけじゃないんです」
    「男っていうのは自分の都合の良いようにしか物事を見ないもんだからね」
    「生々しい響きですね」
     後藤は苦笑して彼女が好みだというせせりを一本口にした。美味い。
    「……見合い結婚だったとはいえ、家庭を築きたいぐらいには愛してたつもりなんだけどなあ」
    「愛してるつもりだけなら誰だって出来ます」
    「慰めてくれるつもりなんじゃないの」
    「いくらでも話を聞きます、っていうつもりだったんです」
     彼女が上品にレバを食べながら言う。同じ焼き鳥のはずなのに、保安部のお嬢さんが口にすると、途端に大衆酒場の気さくな串ではなく赤坂あたりの店の串焼きに見える。そういえば仕立ての良い紺のスーツといい手触りが良さそうなシャツといい、間違いなくお屋敷町のお嬢様という出で立ちである。煙草の煙とビールと酔った男性の枯れた笑い声の中にあって、ここで一人酒を飲めるのはたいしたものだ。
    「厳しいね」
    「後藤さんは、本当のことしか言ってもらいたくない方のように見えるので」
    「へえ」
     後藤はそう感歎を漏らしてビールを煽った。その通りだ。馴染みにしているスナックのママやホステスたちの顔を思い浮かべても、全員客で警官である後藤にずげずげと物を言う。そして浮かんできた全員が「どうせ後藤さんのことだからまねごとだったんじゃないの」と声を揃えて責めてきたものだから、後藤はますますやれやれと溜め息をついた。そんな後藤の顔を見て彼女は少しだけ優しい色を目に浮かべて、
    「本庁の人は誰も彼も家庭よりも事件という姿勢でないといけないようだから、誰も平気なふりをしてるうちに本当に平気になるのかもしれませんね」
    と、慰めなのか分析なのかわからないことを言う。
     後藤は無言で目当てだった皮を食らって、ビールのお替わりを頼んてから、ところでさあと口を開いた。
    「なんで俺なんかに頼み込みに来たの」
     彼女も冷やしトマトを上品に咀嚼して、同じくビールをもう一杯、と店員に声を掛けた。
    「王竹会が経営している三ノ輪のソープランドと池添班が捜査している事件が絡んでいるというのは、所轄にいる同期の話から察したんです。それで、池添班の誰かにと思ったのですが。――はっきり言って一課のみなさんはろくなものじゃないです、揃いも揃ってゲスです」
    「そのとおりだけど言ってくれるねえ」
    「でも、その中で、あなたが一番まともに見えました」
    「……なんで?」
    「どうしてって……、後藤さんは、あなただけは、自分が冷たいことを承知して、そして他の人と違って、それを平気だという振りをしている目でした。それだけです」
     後藤は黙ってポケットを探って、そして煙草を取り出した。火を点けて煙をたっぷり肺に吸いこみ、そして吐く。隣の彼女が少しだけ目を細めたのは、煙草が得意じゃないからだろう。しばらく煙を追ってから、静かに話し始めた。
    「奥さんとはさ、家庭を作りたいくらいには気が合った人だったんだけど、そもそも見合いをしたのは、結婚して家庭を作ったほうが出世が早いからで」
     所轄のときにかわいがってくれた先輩の、さらに同期の妹だと紹介された元妻は、警官の兄を尊敬し、控えめな笑顔とさらさらの黒髪が美しい女性だった。彼女の兄も所轄の刑事として靴を何足も潰すまじめな男で、先輩と同様に後藤をかわいがって「一人前の警官は家庭を持ってこそ」と背中を押してくれたから、後藤は安心してこの人たちの親族となろうと思えたのだ。
    「だから、ふりが上手いっていうの、それ、当たってるんだろうよ」
     口に出して状況を鑑みると、そもそもはじめから結婚生活は破綻していたように思えた。家庭を築くために結婚を求めるのは珍しいことでもおかしいことでもないが、自分のように人を大事に出来ない人間には、社会人の勤めとして家庭を築くというコマンドは無理があったのだろう。この人と家庭を築きたいと願ったことも、結婚して夫婦として始めて手を繋ぎキスをしたときに感じた高揚感が間違いなく本物だったとしても、だ。そしてやっと、空っぽの家も、指輪のあとが消えた左手も、明日掛ける電話も、次に妻と会う時の相手の顔も、すべてが正しい意味と重さを伴って、後藤の中に像を結んだ。
     途端に途方に暮れたようになって、たばこをふかして煙を追いながらしばらく呆けていると、横の女性がジョッキを置いて、カウンターに身体を預けて、ジョッキを流れ落ちる水滴をじっと見つめた。
    「私は、後藤さんのことを責めることはしませんし出来ません。……私も、出世したいんです」
     酒に任せた男たちの喧騒の中にあって、保安部のお嬢さんの声は低く、そして冷たく聞こえた。まるで彼女が喉元に突きつけているガラスの破片を見ているような、そんな耳障りだった。
    「私は、警察官という仕事がしたくて試験を受け、そして就職しました。なった以上は自分の能力を試したいし証明したい。だから、警視庁で仕事をするには、女は出世するしかないんです」テーブルに置かれた手が少しだけ強く握られる。「あなたと同じです、事件を解決したいし、私の立場では取れる手段はほんの少ししかないんです。だから、本庁に今回呼ばれた理由がなんであれ、私は、自分の仕事をやり遂げて、仕事が出来ると証明してみせます」
     そう静かに言い切る彼女の横顔は美しく、若さ以上の強烈な魅力がまつげに宿っていた。
    「男なんていうのは都合のいいようにしか物をみないし、だから女性のことも同じなんだよ。俺たちに期待しちゃいけない」
    「先ほどもおなじことを言われてましたね」
    「念を押す性格でね」後藤は初めて、保安部の警官の顔を正面から見た。
    「だから遠慮無くはっ倒していくしかないってこと」
    「……上司でも、同僚でもですか?」
    「そう、俺のことも」
     そしてわざとらしく笑顔を作ると、彼女は目を丸くしてそして小さく吹き出す。たちまちに柔らかくなる雰囲気に、まっすぐなものを見いだし、後藤は少しだけ気持ちが軽くなる。それが知らずに顔に出たのか、彼女は目尻を少し下げて後藤に小さく笑いかけた。「じゃあ明日また、一課に伺いますね」
     ちょっと失礼します、と席を立ってお手洗いに行く女性の姿を目で追ってから、後藤は手帳を取り出し、ボールペンで電話番号と「後藤からと伝えること」と記して彼女の皿の前に置く。
    「おやっさん勘定、ここまでの隣の客の分も一緒にしちゃって」
     お待ちくださいー、という声を聞きながら後藤は手早く荷物をまとめた。明日からしばらくの間、せめて真っ当にならなくてはならない。それが仕事と自分を選び続けた人間の、数少なく出来ることのように思えるからだ。
     季節はもうすぐ秋だ。隣のお嬢さんと熱燗でも飲めたら楽しいかもしれない。
     今日限りの縁だと思うとほのかに寂しさを感じるが、そんなものは酒が運んできた自己憐憫なので、後藤は涼やかにそれを無視した。


     離婚届に名前を書いて判を捺して、その上で妻と一度会う段取りをしてと日常を過ごしているあいだに警視庁捜査一課池添班は強盗事件を一件担当し、毎日は相変わらず仕事だけで埋まっていく。案の定保安部のお嬢さんは後藤の前に姿を見せることはなくなり、吉原はさすがに身の程をわきまえて諦めたのか、なんてことを言ってダミ声で笑ったが後藤は特になにも言わなかった。仕事がしたいから出世したいと言ったときの横顔からして、今頃手に入れた情報で必死に部署の男たちと戦っているのだろう。
     十月はじめの朝はとても澄んでいて、東京は相変わらずの自粛ムードながら、それでも心地よい秋の日である。次の休みには布団でも干すかと算段を付けながらのろのろと机に向かった後藤は、貯めがちの書類の山の一番上に、見慣れない封筒が置かれていることに気がついた。書いてある住所は警視庁下谷署。訝しげに中を開けるとそこには調書のコピーとクリップで留められたメモ。そこには「下谷署の有間刑事に尋ねるときは、南雲からと伝えてください」と美しい字で書いてある。なぐも、と音もなく名を呼んでから調書に目を通し始めた後藤はやがて目を見開き、そして勢いよく班長の名を呼んだ。
    「池添さん、例のソープ、これで令状取れます!」

    1999年 大晦日
     ミニパトの無線から、興奮する太田とそれを諫めているのか煽っているのか分からない香貫花の声が聞こえる。預かりとはいえ極めて優秀な警官なのだからと、毒をもって毒を制すという故事にならい香貫花を二号機の指揮に置いてみたものの、いまのところ上手くいっているのかいっていないのかがよくわからない。間違いないのは太田と香貫花はフォワードとバックアップとしては息がよく合っていて、かつ香貫花はあと三ヶ月でいなくなるということだけだ。
     来年にはいい人材回ってくるかな、佐久間の言葉を信用するなら、外事から回されたという巡査部長あたりなどなかなか見込みがあるはずだ。
     それにしても外事からとは、自分以外にもあの魑魅魍魎の世界からドロップアウトを希望した人間がいたらしい。まあ気持ちは分かるけどね、そんな勝手なことを考えているうちに太田機は酔っ払い運転のレイバーをどうにか止めて、中の運転手を引っ張り出すことに成功していた。
    「隊長、任務完了しました。被害ありません」
    「はいご苦労さん、撤収ね」
    「了解」
    「あと進士、直帰していいぞ、多分年越しそばには間に合うでしょ。太田、トレーラー運転していって」
    「本当ですか? 隊長、ありがとうございます!」
     進士が無線を握って喜んでいる様が、声からも伝わってきた。警察学校卒業と同時に挙式し、半年の交番勤務のあとすぐに人手不足の特車二課第二小隊に配属されたものだから、忙しさから家庭がおろそかになりがちのはずだ。進士はきわめてまじめな人間で、妻も私生活も大切にしようとするタイプだから、後藤は彼をできるだけマメに家庭に帰したいと思うし、部下の生活に干渉せず、しかし蔑ろにしない上司でありたいと思う。そしてそう心がけていないと経験の浅いものゆえに皆で激務に飲み込まれて過労死まっしぐらである。そこは警察官としても社会人としてもリズムを掴んでいる第一小隊と違って、しっかりしないといけない。
    「太田も香貫花も今日は帰っていいぞ、ただ出動があったときは犯人を恨むようにね」
     もっとも正月を迎えるそのときにレイバーでなにかしようとする人間なぞいないだろうが。
     東京は一年でもっとも人影がなく静かな時期を迎えている。街のどこも静まり、たまの車のエンジンが大きく響く。大晦日だ。

     二課に帰還したときに煌々と光る隊長室の窓を見て、後藤はハンドルを切り返しながら眉をひそめた。
     警察に就職してから大晦日と正月は消え失せ、歳末特別警戒と年末年始の警備で忙しいのか忙しくないのか分からないまま過ぎていくのが恒例だ。ましてや後藤は大学に入ってから実家で正月を過ごすことはなくなったし、僅かな結婚生活も昭和の人間らしく仕事に邁進して結果壊してしまったから、正月もついでにクリスマスもまともに過ごした記憶がなく、もうかれこれ二〇年ほど正月というものを経験していない計算になる。
     しかしそれは人間として非情であった結果、わびしい独身人生となったゆえのことであって、世間一般の人間は、警察官だろうが医者だろうが大事な人とささやかな特別と圧倒的な日常を過ごして生きていくものである。妻と二人年越し蕎麦を食べることを何よりも楽しみにしている進士しかり、先日祖母が来日した香貫花しかり、そして母親と支え合って暮らしている同僚しかり。
     ミニパトを所定の位置に止め、年末年始の当番である整備員たちに「今年一年最後までありがとうね」と声を掛けながらぺたりぺたりと階段を上っていくと、思った通り、しのぶがパソコンの画面と手元の資料を交互に見ながら唸っているところだった。
    「それ、急ぎだっけ?」
    「あら、戻ったの」
    「今年最後のお勤めも無事に済ませてきましたよ」
    「お疲れ様、最後になるといいわね」
    「最後でしょ、ほら、紅白も後半戦だし」
     あえて軽く口にしてテレビを付けると、女性アイドルが七人ほど、今年何度も有線で聴いた曲を明るい笑顔で歌っていた。へえこんな大人数で歌ってたのか、と思うものの、それ以上の感慨は特になく、芸能界にとことん興味がないしのぶに至っては顔もあげずにまた書類に没頭している。思えばしのぶの興味のあるものを後藤はなにも知らないのだった。彼女とは世間話と仕事の話かしない、それは初めて会ったときからずっとだ。
    「準待機なんだから家に帰ってればいいのに」
    「準でも待機は待機よ、それにこれを作っておけば年明けに楽なのよ」
    「それって今度の土木学会のでしょ?」
    「そうよ」
     それ、締め切り来月末だよね、という言葉は言わないでおいた。確かに夏休みの宿題を七月中に済ませるような性格をしているしのぶのことだ、出来るときに書き上げてしまいたいというのは、もちろん本当なのだろう。
    「そういう後藤さんは、今度のシンポジウムのための資料は揃えたの?」
    「あ、揃えてますよ。三月の本番までには十分間に合いますって」
    「頼むわよ、防災か道交かで道交法のシンポジウムを取ったの後藤さんなんだから」
     面倒なほうを人に押しつけているんですからね、と念を押されて、後藤はいつも通りにはいはいと誠意のない返事をした。実際に準備は始めているし、年が明けたらすぐ年度末なのだから、しのぶが念を押すように早めに動いたほうがよい。しかし、しのぶに倣って今からさっそくとはせずに、後藤はパソコンからシステムを呼び出して最低限のレポートを書き込むだけにした。
     今日は宿直ではないしなによりも大晦日で、一九〇〇年代もあと三時間もない。世界が滅亡することもなにかの予言が成熟することも、若いときのツケを払う局面になることもないまま、間もなく遠い未来だった二〇〇〇年、そしてすぐに夢の二十一世紀になる。
    「しのぶさん、今日ひょっとしてバス? 表に車なかったけど」
    「ええ、そうだけど」
    「だったら送るよ。俺も今日は上がるし」
    「いいわよ、タクシー呼んで帰るから」
    「よくないよ、いま何時だと思ってるの」
    「いまって……あら、思ってたより遅いのね」
    「さっきそう言ったじゃない」
     わざとらしく呆れてみせると、しのぶは目をぱちくりとして、そうだったわね、と返事をする。恐らく聞き流していたのだろう。
    「仕事好きなのはいいけどさあ、今日はもう上がりなよ」
    「そうね、でも」
    「いいから上がりなよ」
     後藤はやや強めに念を押す、その響きにしのぶの手が止まり、少しだけ目が丸くなった。後藤がしのぶにそのような声を向けることなど滅多にないからだ。彼女の様子に後藤は内心しまった、と舌打ちをして、すぐに常日頃の茫洋とした声で「あんまり根を詰めすぎないほうがいいよ、参っちまう」と労った。その声が本心を込めたものだからか、しのぶがもう一度時計を見て、後藤を見て、そして小さく溜め息をついた。
    「そうね、あなたの言う通りだわ」
     じゃあお言葉に甘えさせて貰うわね、としのぶは書類をトントンと整え始める。
    「うん、大晦日なんだからさ。それにお母さんが年越しそばでも用意してくれてるんじゃないの?」
    「こんな稼業だもの、もう十年以上口になんてしてないわよ。楽しみなのはお雑煮。母のものは絶品なの」
    「いいなあ、俺なんてどっちもとんとご無沙汰だよ」
     後藤はそっと安堵の溜め息をついて、自分も帰る用意を始めた。しのぶがワーカホリックの気があることはよく知っているし、職務について妥協も手抜きも出来ないほどには生真面目なことも知っている。
     しかし、だ。彼女のここ数日の働きぶりは、他の理由も加わっているように見え、さらにその理由が理解出来ることもあって、後藤は一人、勝手に気を揉んでいる。どうにか出来ることでもないし、どうにかしようとしてもいけない、それに自分はそんなことをする立場にいない。だとしてもどうしても心は騒ぐ。周りの目とは裏腹にまったく達観なんてほど遠い話だ。持て余す感情を冗談にも軽薄なものにも出来ないまま、この一年も終わろうとしていた。


     二人ともそれぞれ仕事を閉めて二課棟を出たころには、もう二十二時半をとうに過ぎていて、車のエンジンを掛けると同時にスイッチが入ったラジオからは、白組の演歌歌手がたまにスナックで聴いた曲を朗々と歌い上げている。一緒に下手な鼻歌を合わせながら暖房を入れてついでにラジオを切ろうとしたら「聴きたかったら別にいいわよ」と助手席でシートベルトを締めながらしのぶが言う。本の数十メートルを歩いただけなのに彼女の頬は少し赤くなり、車の中の気温はまだ外と大して変わらない。白い息がそっと現れては消えるのに一瞬だけ見惚れてから、後藤はラジオを切ってギアを入れた。
    「しのぶさん、なにか食べた?」
    「あ、ええ、夜食用のカロリーメイトを」
    「そんなん食べたうちに入らないよ」最近そんなものばっかじゃない、という言葉は続けずに、「だったらさ、年越しそばでも食べていかない?」
    「そば? この時間に?」
    「そう、チェーンなんだけど立ち食いでもないし、美味いよ。ちょっと遠回りになるけど」
    「遠回りになるのは構わないけど……」
    「だったら付き合ってよ。家で緑のたぬき食べるつもりだたけど、たまには年越しそばっていうのも乙でしょ」
    「そうね……、じゃあつれてって貰おうかしら。今度こそお店が開いてそうだし」
     しのぶは軽く言った後、刹那口に出してはいけなかったという風に目を少しだけ見開いて、そしてすぐに取り繕うように「美味しいといいんだけど」と嫌味をいう振りをする。後藤はただ「本当に美味いから」とだけ返した。
     思えば、しのぶが後藤の運転する車の助手席に座るのはあの台風の夜以来だ。後藤はイングラムが配備され同時にパイロットである新人が異動してきて、いよいよ予備軍扱いされなくなって忙しくなる前に一度は出席しておかないと、という理由から、しのぶは必修だからと毎回真面目に出席をしていたがゆえに、今年の夏は二人揃って幹部研修に出ることになったのだが、そのあとに起こったことは未だに非現実過ぎて実感が薄く、そして二人とも台風一過の青空の下東京へと車を走らせ、そして成城で別れた次の日から、一言もその話題を出すことはなかった。それこそさきほどしのぶがうっかりとこぼすまで、ただの一言もだ。
     おそらくしのぶにとってはすべてのことが想定外のハプニングであり、さらにはどう扱って良いかわからないぐらいにはイレギュラーなことだったのだろう。自分の世界と相容れないエラーはしっかりと蓋をする、正しく大人の対応だ。一方後藤にとっては、偶然と機転が重なった果ての忘れようもない一夜になった。しのぶが一度の交わりを遊びだと楽しめない性格なことは承知している。だからこそ欲望に流されたり下世話な素振りを怒られたりしながら、この甘く淡い感情は軽薄で信用ならない男の願望だと拒絶してほしく、そしてすべてを冗談として流そうとしたのに、実際は気持ちがより重く苦く温かくなって、胸の奥へ奥へと沈んでいくだけだった。眠ったふりをして上下する胸、うなじの柔らかさ、静かに流れる髪。そのすべてがただ愛おしいと心から思ったときのあの絶望は、誰に説明してもわかるまい。
     私は、この人を、心から愛しているのだ。
     自分とは恐ろしく不釣り合いな、不純物によって鈍く光る石英のような気持ちが後藤の中にあって、胸をかすかに照らしているが、同時にその重さで気を抜けばどこまでも沈んでいってしまいまそうだった。久しぶりの恋は線香花火で、心を慰めてくれるが必ず玉は落ちるし、ただそれだけのものだ。
     とにかくそのようなわけで二人とも東京では適度に距離を取り、よき警官として、よき同僚として、異動してきた一年前とかわらぬよう過ごしているのだった。以後、たった一つの逸脱もないように。
    「ところで場所はどこなの?」
     環七に出るあたりでしのぶがそう尋ねてきた。車内は少しずつ温まってきていて、もうしのぶの息の形は見えない。
    「赤羽橋のあたりだよ、東京タワーの近く」
    「そんなところよく知ってるわね」
    「芝のテレビ局に知り合いがいてね」
    「ま、マスコミも二四時間三六五日の職場ですものね」
     大晦日の夜の東京はどこもかしこも空っぽだ。後藤の愛車も無人の倉庫街を滑るように走って行く。
    「ありがとう」
     窓の外の水の底のような街を眺めながら、しのぶがそう独りごちる。後藤は小さく「いえいえ」とだけ答えた。


     国道十五号線から都道三〇一号線へとハンドルを切って人気のないオフィス街を行けば東京タワーはもう目と鼻の先だ。赤羽橋を越えたあたりに路上駐車をしてほんの少し歩けば、正月飾りと年始は何日から営業しますというポスターが貼られたシャッター街の中に一軒だけ明かりが灯った店が見える。カウンターしかない蕎麦屋にはタクシーの運転手の姿があって、ふうふうと掛けをすすっている。この二十四時間営業の蕎麦屋には夜勤明けのときなどに世話になっており、一人暮らしの胃に温かいものを入れられるありがたい店だ。
     しのぶはしばらく迷って月見を、後藤は掻き揚げにいなりもつけて、二人は特に会話をすることもなく黙々と蕎麦をすすった。ほぼ同時に汁まで飲み干して満足した溜め息を同時に吐くと、心から食事をしたという満足を得られる。二〇年ぶりの年越しそばはなかなか悪くないものだった。来年からはカップ麺ではなくてきちんとした蕎麦を食べようかな、と思うほどには。
    「本当、美味しかったわ」
    「そりゃよかった」
     しのぶは小さく胃をさすってから、さてと立ち上がる。
    「ここって赤羽橋の近くよね。だったら神谷町までタクシーで行けばいいのかしら」
    「え、いいよ、送るよ。今日付き合わせたし」
    「いいわよ、逆方向じゃない」
    「大丈夫だって。それにこんな時間じゃタクシーだって来るの遅いよ」
     言いながら後藤が腕時計を見ようと腕を動かしたそのとき、目の端に、かすかにしのぶの身体が反応したのが見えた。強く自制された身体にあって本当に僅かな、制御しきれないものだ。後藤はあえて触れずに「ましてや大晦日だしさあ」と付け加える。
    「でも……」
    「わかった、悪いって思うんならさ。もうちょっと付き合ってよ」
    「もうちょっと、ってどこに」
    「せっかくだから東京タワー、見ていこうよ」
    「へ?」
     しのぶは文字通り、目を丸くした。


     誰もいない東京タワー通りを二人で歩くと、すぐに赤い鉄塔の足下が見えてきた。展望台には電飾で1999と書かれていて、今日が年末であることを東京中に知らしめている。やがて見えてきた自販機で二人分の缶コーヒーを買って一つをしのぶに寄越すと、彼女は怪訝な顔をしたまま大人しくそれを受け取った。
    「東京タワーを見たいって、まさか足下に来るとは思わなかったわ」
    「いや、全体像でもいいんだけど、足下のほうが近かったから」
     言いながらぐいと首をあげて、てっぺんまで見上げる。曇りがちの空に向かいシグナルを送るライトを見ながら、後藤はできるだけ普通に声を掛けた。
    「しのぶさんさあ、ちょっとは仕事の手を抜きなよ。だいたいうちは年末年始比較的暇な部署なんだしさ」
    「なによ藪から棒に。だいたいあなたみたいなサボり好きばかりじゃないのよ」
    「いや、実はさ……ちょっとね、気になってたんだけど」少しだけ深く呼吸をして、でも上を向いたまま後藤は言葉を続けた。常の自分ならしない、全く慣れないことをしようとしているからこそ、慎重にいかなければならない。
    「クリスマス明けからちょっと根詰めすぎだよ。いまさら言うことじゃないけど、休めるときに休まないと。今だって仕事がたまってるわけでもないし」
    「たまってもいないけど、日頃こまめに片付けておかないとたまるじゃない」
     余計なお世話ですというむっとした気持ちを隠さないまましのぶが言う。確かに余計なお世話で、本来は言うべきじゃないのだ。
     しかし。
     後藤はとうとう覚悟を決めてしのぶのほうに向き直った。
    「でも休んだ方がいい。少し、自分を大事にしてよ」
    「全くどうしたの。人に関心はあっても興味なんかないくせに、指図するなんてあなたらしくないわね」
    「俺だって言いたかないけど、でもさすがに言わずにはうれないんだよ」
     ねえ、と続けたものの、しかし少しだけ次の言葉をいうことをためらった。自分としのぶは同僚で、階級も等しく、二人の間には一切の差はないと、後藤は心からそう思っているしそう振る舞っている。しかしこの言葉を口にしたらそこが壊れてしまうのではないだろうか。そう問いかけてくる日常を強く思ったのは刹那、結局後藤はその一言を口にした。「ねえ、保安部のお嬢さん」
     異動という形であのときの婦警に再会してからも一度も口にしなかった呼び名をあえて出すと、しのぶは虚を突かれたと口を丸く開けて、次に眉尻をさげて、やれやれという態度になった。
    「意外ね、覚えてたなんて」
    「あんなアタックされて覚えてないほうが無理だよ」
     あのときに食らいついてきた、ただ真っ直ぐと野心的だった若い婦警と、いま目の前に立つしのぶの顔が重なった。彼女は変わらないままで、自分の隣に立っている。
    「だから今日は同僚じゃなくて先輩としての忠告。しのぶさんに必要なのは仕事じゃなくて休養だよ」
     言い終わった途端に後藤はたちまち居心地が悪くなった。いつもならもっと相手が飲み込めるように冷静に伝えられるのに、もっと上手く立ち回れるというのに。自分らしくないことをしているという自覚もあるし、それを口にすることのいやらしさも分かって言ったというのに、だ。
     一方のしのぶはびっくりしたように瞬きを繰り返した。二課で働き始めてから今日まで、後藤がこんなあからさまに先輩風を吹かしたことなど、いままで一度もなかったからだ。
    「……だったら同僚として返すけど、休む必要は本当にないのよ、見てて分かるでしょ」
     思っていた通りの台詞だ。私は大丈夫、今回のことは大丈夫。いつからそう言い聞かせる癖を身につけてきたのだろう。まるで、昭和が終わろうというときの自分みたいに。
    「だったせめてカウンセリングを受けるべきだ。……ねえ、受けようよ、頼むから」
     自分で決めた線から、相手と関係を保つための距離から、相当踏み込んでいることは分かっている。でも、言わずにはいられなかった。
    「頼むって、なによそれ」
    「なんでって、しのぶさんたちは監禁されたじゃない、警察官であるまえに被害者なんだよ。五味丘たちにはプログラムの受講を指示して、自分は大丈夫だって? そういうときこそ自分をもっと大事に」
    「――私は大丈夫、なのになんでそんなこというの!」
    「俺以外の誰も言えないからだよ、同僚の、俺以外は」
     しのぶの鋭い声に、きつい目に、伸びた指の先に憤りが満ちている。それがちりちりと後藤を焼いて、心を軋ませていく。俺以外に言えない、の先にある本当の言葉を後藤はよく分かっている。俺以外の誰にも、この人のことについて、言わせたくないのだ。
    「ええそうよね、確かに私と隊は敵にしてやられて捕まって、監禁もされたわよ。まったく情けないことだわ。でも短時間だったしケガもなかったし、ご覧の通り無事に解放された。第二小隊の働きには感謝してるし誇りにも思う。でも、ケガもしてないのに、隊長たるものそれくらいでへこたれてるわけにはいかない」
    「俺たちとか隊長職とか階級とかは関係ないでしょ」
    「あなたにはないでしょうけど私にはあるの」しのぶが遮るように口を開く。「わからないでしょ、男なら流されるような失敗でも私たちには一度も許されないことも、要求されるままタフに振る舞い続けないと行けないことも。でもそれに乗ると決めたのは私、だから大丈夫かなんて、知ってて聞く振りをしないで」
     そう言い切る彼女の目を見て、後藤はああこのまなざしだと思う。憤りと自信が混ざった強い光、あの日資料が欲しいと一課の横に立っていたときから今日まで、彼女か一人、仕事をするために戦い続けてきたことを表す、後藤を惹きつけて止まない目。
    「そうだね……俺が知っているのは、同僚としてのあんただけだ。カラ元気も元気っていうのも本当。だからこそ言いたいんだよ、自分を追い詰めちゃだめなんだって。なによりもさ、しのぶさんにとって、仕事は逃げ込む場所じゃない」
    「逃げてなんかないわよ」しのぶは視線を淡い自分の影に落とした。「逃げてなんか」
    「……それに、逃げても最後は追いつかれる、しのぶさんみたいな真っ当な人ほど、必ず」
     ブーゥン……とバイクが空の街を走り抜け、いつしか低い鐘の音も響き始めている。煩悩が払われていく音色だ。それがきっかけになったかのようにしのぶがただ後藤に目を向けた。そこにあった怒りは、鐘の音に反応したかのように蒸発していて、ただ自分だけが映っている。ありのままの自分に見えた。相手に本心から話すために、無防備になった自分。
    「せっかくいい相棒に巡り会えたんだから、たまには悪役になって守らせてよ。君自身から、君を。
     ――南雲さん、あんたは最高の警官だ。誰よりもマシで、まともで、仕事が出来る。上や周りがなんと言おうと俺が保証する」
     口八丁に振る舞うのは得意だったはずだが、いまはそれ以上の言葉が出てこず、言葉を探すようにまた航空障害灯を見上げた。
     伝わったかはわからない。ただ冷たい風が弱く、後藤の肌を撫でていく。
    「……特別警戒が終わったら、行ってくるわ」
     しのぶがそう静かに言ったのはしばらくの沈黙のあとだ。ありがとう、と続きそうだったから、後藤はすぐに「そうするといいよ」と返す。どこかでどっと力が抜けた。
     そうして二人で冬の東京タワーの下で見つめ合っていたのはわずかで、やがてしのぶが先ほどとは違うトーンで、「後藤さん、なんで」とだけ聞いてきた。
    「……なんでだろうね」
     しのぶの方から少し身体を背ける。彼女が問うているのは、後藤がなぜあえて自分で決めた線を越えてきたか、その一点だ。ここで雪でも降ればごまかしも出来るだろうが、今日はなんの重しにもならない程度の雲しかない。
    「一回は自分のエゴのために人を不幸にしたから、もう人に関心を持ったりするのは止めようと思ってたのに」
     一歩二歩と前に出る。街灯の具合で、少しだけ影が濃くなった。
    「一人で生きていくつもりなのになあ」
     吐く息と共に消えるほどの小さな声でそう独りごちる。やがて、しのぶがささやくように言った。
    「まるで」
    「ん?」
     振り向くとしのぶが呆然としたように後藤だけを見つめている。寒さからか頬がまた薔薇色になっていて、吐く息が光るように白い。後藤がうっかり見惚れたとき、しのぶはもう一度、まるでと繰り返した。
    「まるで、あなた、私のことが好きみたい」
    「え」
     次の瞬間、しのぶは染まるかのように顔が赤くなって「そんな風に、聞こえちゃうから、その、言い方を……」
     しのぶさんこそ、そんな態度取られると。そう言う代わりに後藤はしのぶの方を向いた。
     もう誰にも関心を持つまいと思っていたのに。
    「……そうだよ」
     除夜の鐘が鳴り響くなか、後藤はしのぶのことをそっと見つめて、そして優しい顔になった。
    「言うと腹が決まるもんだね」
     しのぶは顔を赤くしたまま立ち尽くしていて、その姿を美しいと後藤は思う。戦う苛烈さも、ふと息を吐く無防備さも、戸惑うときの表情も、息が詰まりそうなほどに毅然と立つ姿も、冷たい顔で嫌味を言う生真面目な同僚としての顔も、すべてがモザイクのように混ざり合い。
     ――ごとうさん。しのぶの唇が音もなく名を呼んだとき、どこかでクラッカーが鳴る音とともに「ハッピーミレミアム!」と祝う声が聞こえる。頭上のタワーの数字は2000、昨日と地続きの、新しい時代が到来したのだ。
    「新年、か」
     もう一つクラッカーを鳴らしながら、若者たちが楽しそうにしのぶと後藤を追い抜かしていくのを目で追って、そのまま目で街をぐるりと見渡したとき、しのぶが改めて後藤さん、と男を呼んだ。小さい声だがしっかりと芯の通った、聞き慣れた響きだった。
    「あのさ、返事とかそういうのは」
    「まずは礼儀よ。後藤さん、あけましておめでとう」
    「あ、そうだね。あけましておめでとう」
    「そして……。これから、よろしくお願いします」彼女はそう言って軽く頭を下げて、そして納得するように口の端をあげた。
    「本当ね、口にするとすとんと収まるものだわ」
     いま自分はどんな顔をしているのか後藤にはわからない。わからないが、しのぶが自分の顔を見て少しだけ嬉しそうになったから、それだけでいいか、と後藤は思った。
    2011年 7月
     東京湾からのむっとする潮風と、きらきらと絶え間なく揺れるゴミが浮く水面と、ひっきりなしに聞こえる飛行機のエンジンと。
     そのごみごみとした風景の全てが懐かしくしのぶを迎えた。唯一見慣れないのはあえて通りすぎてきた築三年の二階建ての建物。三小隊が同じ建物で情報を共有出来る設計、防音ガラスに空調管理、清潔なトイレとシャワー室。もともとは増設された第三小隊に後藤らを制御しようとキャリアを鈴として送り込んだことを逆手に取って、後藤が本庁と渡り合い見事職場の改善要求を通させたのだが、その後藤も新二課棟を見ることなくここを去ったので、自分の要求がどのような形になったのかはいまだに知らないはずだ。
     当人はいつでも否定するが、あのぐうたらな態度とはうらはらに、後藤はなかなかの仕事好きである。しのぶの知るだれよりも警察官という職に誇りを持っているし、その矜持ゆえに警察や司法全体に対して辛辣だ。また、仕事は自分ではないのだから生きがいや逃げ場にしてはいけない、というのが後藤の持論で、しのぶもいつしか後藤に感化され、仕事との距離を適度に保つように心がけている。冷静に、理性的にと振る舞おうとしても、ともすれば焦り、時に短気な自分に、皮を一枚めくれば同じほどに熱いものを持っている男から、腹が立つほどマイペースな佇まいとのんびりとした声で落ち着いたら、と言われると、頭を冷やさざるを得ないのだ。
     そうして二千年代に自身の身に起こった様々な変化に対して、正面から斬りかかる以外の対処法を身につけて、持ち前の真面目さで一歩ずつ手を抜かずに尽力した結果、ようやくここにたどり着いたのだ。ノスタルジーや惰性ではなく、自ら築いたものの集大成として望んだ場所に。
    「――南雲隊長!」
     不意に後ろから弾けるような声がした。まっすぐで青空のように高く、曇りのないソプラノ。そしてすぐに「あ」と慌てた声がこぼれたものだから、しのぶは自然に微笑みながら振り向いてお久しぶりね、と声を掛けた。
    「呼び慣れた呼び方で良いわよ、泉巡査部長。そういえば同時に異動だったわね。……えっと、旧姓を使用しているのよね、それとも篠原のほうがいいのかしら」
    「私も泉でいいです、泉野明って名前も間違いなく私ですから」
     新人が制服のままイングラムを追っかけてさあ、いやあ元気なことったらないよ、若さと元気の塊。後藤が隊長室でそう称したあの日の第二小隊の新人は、今は年齢相応の自信と経験を背中に背負い、あの頃とは違うデザインのオレンジと白の夏服に袖を通して真っ直ぐに立っている。形のいいショートカットとはつらつとした空気はあの頃のまま、よい大人に、よい警官になったようだ。文字の年賀状だから近況ぐらいしかわからないなとこぼしていた後藤の背中が不意に思い出された。
    「えっと……南雲さん、改めておめでとうございます」
    「課長って言っても今のところ代理よ。でも、ありがとう」
    「いえいえ、南雲さんが上にいるだけで心強いです、頼りにさせてもらいます」
     そうぺこりと頭を下げて、浮かぶ笑顔は人を信頼し、同時に責任を自覚したもので、彼女が自然体のまま、しかし複雑で割り切れない世界の一端を背負う大人となったことをしのぶに伝えてくる。十年という時は間違いなく誰の上にも流れていて、それは概ね素晴らしいことだ。
    「私のほうも、泉さんのようなベテランが二課に戻ってきてくれるのは心強いわ。……後輩たち、よろしくね」
    「はい! ただ今日からは第一小隊だから、間違って第二小隊に行かないようにしないと」そう笑った後、すぐにそういえば、と目を大きくして、「あ、あと南雲さんに渡したいというか、返したいものが」
    「返したいもの?」
     しのぶが首を傾けたところで泉が腕に手をやり、「やば、そろそろ行かなきゃ」と慌てたように腕時計の表面を触る。スマートウォッチを使いこなしているのは、泉の好奇心と夫である篠原のガジェット好きが合わさったものだろう。
    「ではあとで!」と走って行く泉を見送って、しのぶもさて、と襟を正して波止場から二課棟へと戻る。
     後藤こと、南雲しのぶ警視庁警備部特殊車両二課課長代理。たとえ代理だとしても、悪くない響きだ。


     午前中は引き継ぎと挨拶を兼ねたミーティングに追われ、昼ご飯にありつけたのは十三時に近いころだった。事務棟から整備棟まであらゆるものが新しくなっていて、榊の後を継いで整備班をまとめている斯波は、しのぶへの挨拶もそこそこにいかに以下の環境が素晴らしいかを並べ立て、最後に「おやっさんにも今の二課と篠原のコイツみせてやりたかったなあ、バリアントが子供用に見えるほど進化してるんだから、きっと腕が鳴ったと思うんすよ」と鼻をすすっていたものだ。なお榊は引退しただけでまだ健在だ。
     そして新しくなった食堂は、厨房こそ付かなかったものの給茶機と自動販売機が設置されていて、さらに上海亭だけでなくケータリング業者の弁当も注文可能なことが隔世の感を抱かせる。さっそく注文してみた可も不可もない味だが油の量が絶妙な照り焼き弁当を食べていると、「南雲さん」と今朝と同じトーンで呼ばれた。
    「お疲れ様です、ここいいですか?」
    「大歓迎よ」
     泉はお邪魔しますと頭を下げながら、これ懐かしくて、と天津飯をテーブルに置く。相変わらずの匂いがして、たちまちに伸びて冷めたラーメンを淡々と食べていたあのころを思い出した。明日は久しぶりにエビチャーハンを頼もうか、胃袋が油に勝てるか心配だが。
    「泉さんも遅いお昼ね」
    「引き継ぎとかで手間取ってしまって。八王子で再訓練も受けてきたんですが、やっぱり六年ぶりともなるとブランクを感じちゃいますね」
    「どう? 今の機種は」
    「そりゃ最高のものですよ」
     泉は天津飯を口にしながら胸を張る。彼女はパイロットとして長く前線に立った後、結婚を機に異動となり、篠原に出向して警察と消防のための専用機の製作に関わっていた。自分の意見が反映された機体ならば信頼もひとしおだろう。
     思えばイングラムへの愛着も強く、非番の日もわざわざ出てきては整備班と相談して自ら油まみれになっていたぐらいだから、設計から携わる職務というのは泉に向いているといえる。しかし帰ってきたということは、やはりレイバーに乗って現場にいたいということなのかもしれない。
    「実際、上がってくるデータをみても上々の機体だわ」
    「誰が乗っても乗りこなしやすくて、そして個人個人の機体としての特性も乗るように、設計とOSのチームが頑張ってくれたんです。ヴァリアントを基本としてイングラムのいいところを取った上位互換が目標で」
    「上位互換。的確な表現ね」
     先日異動が決まった後、久しぶりに搭乗してみた現行機の操縦感覚はまさにそのようなものだった。
    「そう作ったからには、今度はしっかりと性能を引き出してあげないと。なにより現場で生かせるものでないと、いい機体とは言えませんものね」
     つまりは、現場の要求に応えた機体になっているはず、という自信があると言うことか。管理職としてはありがたく頼もしい言葉だ。
    「ところで今朝言っていたことって」
     しのぶが思い出した話を振ると、泉は「そうだ」と再びはっとした顔をする。そんなときに目を丸くする様は昔と変わらない。そして持ってきた小さなトートを覗き込む。
    「えっと……、これですこれ」
     泉が出してきたものを見て、今度はしのぶが目を丸くした。
    「これは?」
    「これ、忘れ物なんです。もう六年も前だから忘れてると思うんですけど……お嬢さんのぬいぐるみです」
    「あの子の」
     丸々とデフォルメされた、手のひらに載る馬のそれは、確か夫が競馬場に行ったとき買ってきたお土産で、娘が一時期大事にしていた記憶がある。まだ保育園に通わせていたころの話だ。
    「隊長が異動したあと、ここから仮庁舎に移る引っ越しのときに出てきて。娘さん、隊長と一緒に来たときはいつもその子と遊んでたんですよ」
    「そうだったの……」
     しのぶは目を細めて、娘の良き親友を見た。保育園に行くときもいつも抱きかかえていた小さなお馬さん。なくしたとき私たちはどう慰めたのだっけ。
    「――ありがとう泉さん。あの子のことも大事にしてくれてたのね」
     かみしめるように言うと、泉は照れたようにはにかんだ。「いえいえ」そして娘さん、どちらかといえば南雲さん似でとても良い子だったし、と間接的に元の上司について忌憚ない事を言ってくる。と思い出したように笑みを浮かべて、とっておきの話をするような口調で。
    「そういえばですね、隊長、熊だったんですよ」
    「熊? 後藤が?」
    「そうなんです、熊」


     部下には熊と言われ、昔はカミソリとあだ名されて、妻からは粗大ゴミと呼ばれている後藤の姿を入り口に見つけたしのぶは、手を振って自分たちのテーブルを知らせた。
     課長代理一日目は出動もなく重要な会議もなく、二課全体が平穏そのものだった。上々の滑り出しといって良いだろう。七月の夕日は長く、予約した欧風料理の店の窓から見える空はまだ上品なみ空色だ。
    「ごめん、会議が長引いちゃってさ」
    「待ってないわよ。……お久しぶりね、旦那様」
    「うん。会いたかった」
     素直に本心を言いながら後藤は椅子を引いた。
     後藤が東北に派遣され、単身赴任になってから三ヶ月。一つの季節会わない間に、男は少し痩せて白髪が増えたようだった。春先に東北で発生した地震は夏になった今もまだ深い爪痕を残していて、東京都は二〇年前の首都直下地震の時のノウハウを、関西は阪神の震災の際のノウハウを、という風に各地からプロフェッショナルが派遣され、それぞれが臨時職員として汗水を流している。深夜の自宅で派遣職員として志願しようと思うと打ち明けられたのも三ヶ月ほど前のことだ。レイバー隊を指揮したことのある人間は間違いなく求められるだろうから、しのぶは無理しないで念を押しつつ彼の決断を受け入れた。かくして警備部から刑事部に戻されて捜査の第一線にいた後藤は、臨時とはいえ警備部へと戻り、そして宮城へと派遣されていったのだった。
    「なにはともあれ今日はお祝いしないとね。課長職お疲れ様。あ、この人と同じものください」
    「これスパークリングワインよ。ビールもあるのに。あと課長といっても代理よ、どこかでキャリアが余ったらすぐ取り替えられる立場だわ」
    「お祝いだものビールよりもシャンパンのほうがいいよ。あと、しのぶさん以上の適任なんていないから大丈夫でしょ。次の昇進試験受けるんでしょ」
    「受けるけど、警視よ、警視。簡単になれるものじゃないわ」
    「大丈夫だよ、しのぶさんの実力なら」
     ネクタイを少し緩めながらそう太鼓判を押した後藤は、そこでテーブルの端に置いてあったものに気付いて、驚いたように凝視した。
    「それって……。どうしたの」
    「今日ね、泉さんが渡してくれたのよ」
    「泉が? 泉も異動で二課に?」
    「異動を希望したそうよ。泉さんはしばらく福島に行ってて、それで現場に戻ろうって決めたって」
    「そうか……。あいつらしいよ」
     感じ入ったように後藤は遠くを見る。部下への誇りが胸に満ちた目は、しのぶの心を温かくする。
    「それにしても泉が持ってたのか。あのときはなくしたって大変だったなあ。ついこの前のようだよ」
    「隊長室のどこかに入り込んでたらしいわよ」
    「ああ、保育園が休みのときには連れてっていたから、そのときか」
     後藤が懐かしい顔になったときにウェイターが「スパークリングワインでございます」と華奢なグラスを置いていく。そこで二人はまず再会を祝して小さな乾杯をした。二人の大事な娘は林間学校で日光に行っていて、十年前の七月一日に二人は籍を入れた。だから今日だけは父と母はお休みして、妻と夫としてお祝いをしようということになったわけだ。し
    「あと……この十年ありがとうね」
     そう照れくさそうに酒を一口飲んで満足そうに小さく唸った後藤を見て、しのぶはふと今日の話を思い出して小さく笑った。
    「どうしたの?」
    「べつにどうもしないんだけど。あなた、熊だったんですってね」


    「熊?」とオウム返しに聞いたしのぶに、泉はそうなんですよ、と返す。
    「隊長ったら、もうずっと一日落ち着かないでうろうろとして」
     しのぶが異動し、同時に昇進した五味丘が正式に第一小隊長に任命され、二課が新体制に慣れたたころの事だ。その日は春の足音がはっきりと聞こえる温かい日で、膨らみきった桜のつぼみが明日ほころぶか明後日咲くかと、天気予報で予報士が解説している。と思ったら風が吹いて砂埃とスギ花粉を盛大に巻き上げて、二課の半分ほどの人間の目を真っ赤にしていた。
     恐らくはじめは隊長室でそわそわとしてはのしのしと歩き回り、事が事だから五味丘も注意出来ず、しかし気になって仕方がないから、落ち着かないならせめて部屋の外でとでも言ったのだろう。泉が後藤を見た時は廊下をのしのしとただ往復している最中だった。
    「隊長、大丈夫ですか?」
    「あ? うん、大丈夫、大丈夫。だたちょっと落ち着かなくて」
     後藤はそう言いながらも心ここにあらずとばかりに茫洋とした様子である。それでなくてもつかみ所のない上司なのだから、さらにこうも気もそぞろだと、付き合いが長い泉でもどうしていいかわからない。
     そうしている間にも喫煙所の椅子に座ってポケットを探っては、そうだと気がついてまたいらいらしたり、と思ったら靴でとんとんとリズムを取ったりと、見ているだけで忙しないことこの上ない。
    「ガム、食べます?」
     ポケットを探りながらそう申し出ると後藤は悪いな、と素直に手を出してくる。あの後藤が禁煙に成功しているということは、あの後藤があの南雲しのぶを口説き落としたという事実と並んで、二課の人間に示された奇跡として知られている。
     影で奇跡の人と呼ばれているなんて知らない当の本人は、泉から貰ったレモンミントフレーバーのガムを口に入れてひたすらもぐもぐとし始める。ふと泉は、前にニュースで見た和歌山かどこかのパンダが、おじさんのようにでんと座って、かわいげもなく笹をひたすら食べていた光景を思い出した。
    「隊長、そんなに落ち着かないなら……」
    「隊長、こちらにいられたのですか」
     現れた第三の声に釣られて振り向くと、熊耳が書類を手に颯爽と歩いてくる。
    「八王子の佐久間さんからお電話で、夕方当たりにかけ直すとのことです」
    「あ、そうだ佐久間さんから連絡あるって言ってた」
    「後藤隊長」
     まったく、と深く溜息をつく熊耳に後藤は苦笑いを返した。しのぶがいなくなったのち、後藤に嫌味を言ったり釘を刺したりする役割は自然と熊耳に移り、部下というラインを守りながらもしっかりと後藤のストッパーとして頑張っていた。しかし彼女も先日受けた昇進試験に合格して、間もなく研修のためいったん二課を去ることになっており、そうなると後藤を苦手としている五味丘か、あるいは泉ら他の第二小隊の誰かにバトンが渡されることになるのだろう。だったら私以外の誰かがいいなあ。泉はそう強く願った。後藤については上司ながら呆れることも多いが、いかんせん自分をひっぱりあげてくれた恩人なのと、なんだかんだで尊敬しているのと、なにより後藤という人間を間近に見てきたからこそ、小言を言う役割はとても無理だ。
    「隊長、はじめ隊長室に行ったら五味丘さんから整備のほうに行かれたと言われて」
    「行ったねえ」
    「で、ハンガーに行ったら、榊さんがうろうろされて邪魔だから違うところにいけと追い出したと言われ」
    「あんたも若いなって笑われちゃってさ」
    「食堂にでもいるのかと思ったら、野菜を閉まってた山崎くんに、ずっと歩き回ってたと思ったらふらっとどこか行きましたって言われて」
    「なんか手伝う? って聞いたんだけど特にないって言うから」
    「隊長。それほど落ち着かないのなら、有休を取ればよろしかったじゃないですか」
    「だってさあ、奥さんがね、待機なら休むな、って言うんだもん」
     南雲ならそう言うだろうが、それにしてもだもんとはなんだ、だもんとは。
     心底情けない顔をする上司に、熊耳はぴしゃりと言い放った。
    「行くなら行く、行かないなら行かないでしゃんとしてください!」
     ほら、あちこちうろうろされるとみんな気になるんですよ、と後藤を強気一辺倒で隊長室へと押し戻す熊耳を見て、泉は南雲がよく後藤をそうしてあしらっていたことを思い出した。なるほど理で詰めつつ強く出るほうがいいのかもしれない。
     その日はめでたく東京は平和で、幸いにもそわそわしたままの後藤が指揮をとるような事態にはならず、そして後藤は冬眠から醒めた熊のごとく午後に全くおなじルートをもう一周と半分したところで、ようやく定時となったのだった。


     しのぶが泉から聞いた話を楽しそうに話しているうちに枝豆ととうがん、ハモの前菜が並べられて、枝豆の上品な味とハモを包んだ寒天のつるりとしたのどごしが、ささやかな宴を彩ってくれる。後藤はとうがんとトマトの蒸し物を口にしながら顔を赤らめて、だってさあと恥ずかしそうにした。
    「四十過ぎて父親になるなんて思ってなかったから緊張してたんだよ。……それに、奥さんのこと心配しない旦那なんて」
     後藤の心境は理解出来るもので、まず三十五を過ぎたところでの高齢出産となったし、そもそも母になる準備も心構えもしていなかったから、しのぶもまた喜びと不安、期待と戸惑いの中にいた。人の親になるというのは後藤にとってもしのぶにとっても未知のものだったのだ。
     もっとも三十を過ぎたときには結婚も出産も興味がなく仕事が全てだったし、女性なら体を使えと迫ってきた上司をきっぱり拒絶したら、些細なミスすら女はこれだからと叱責されるようになり、レイバーの部隊を作れと無理難題を押し付けられ、ならばと同僚の助けを借りつつ東奔西走して創設に尽力したら本庁の誰もが持てあましていた男を左遷させてくることになるなんて経緯は想像もしていなかったし、そして、上の思惑がどうであれ、後藤と二人で二課を守り、育てていくことも、かつて食い下がった相手とよい同僚となり、そして恋人に、やがて夫になることも知らなかったのだから、人生とはつねに思ってもみないことだらけだが。
     娘が生まれた日は三月も終わりの頃で、後藤は第一小隊との引き継ぎまできっちりこなしてから、築地の病院の産婦人科に飛んできたのだ。息を切らして「しのぶさん大丈夫?」と言ってきたときはまさに陣痛のただ中だから「大丈夫なわけないでしょ!」と叫んだ、気がする。
    しばらくしてよちよち歩きの娘さんを隊長が連れてきたとき、熊と子ウサギに見えてかわいくて、と優しい笑顔で話す泉を見て、娘はここで可愛がられていたのだな、としのぶはとても幸せになったものだ。子育ては幸せなだけでも楽しいだけでもなく、両家の家族の助けを受けながら、夫婦二人で寝不足に陥り心配で混乱しいらいらして八つ当たりをしたり、子供の好奇心と突飛な行動に振り回されたりと、思い出すだけで疲れることもとても多いが、それでも遅くに出来た子供だからと後藤は甘い父親になり、しのぶは自分の母がそうであったように、慈愛と屹然さをもって子供に接している。そして二人とも子供の無防備で頼りなく、とてもやわらかい頬に触れた感触を生涯忘れないであろうと思っていた。
     泉が熊と称したのは、子どもが産まれた日の動作だけでなく子供を連れた後藤の背中から感じるものがあったからなのだろう。
    「いいじゃない、熊。ぬらりひょんよりもいいあだ名よ」
    「ぬらりひょん? 今度はそんな風に呼ばれてるわけ?」
     人のことなんだと思ってるんだかねえとぼやく後藤にしのぶは小さく笑って、あと一杯と白ワインのグラスを頼んだ。大事な人とたまに飲む酒は心地よい酩酊を運んでくる。後藤もゆっくりと酒を味わいながらふんわりとした目つきで「たまにはこういうのもいいね」と呟く。いつしか無防備になった男は爬虫類のような得体の知れなさを手放して、懐かしい熊の着ぐるみのような雰囲気をまとっている。どちらが後藤の本質なのかはわからないが、しのぶにはどちらでもよいことだった。初対面のときの、人面獣心な男たちの中でも抜きん出た頭と、すべてを冷たく突き放す酷薄さをむき出しにしていたころから、無情な男なのかもしれないがいやな印象は抱かなかったのだ、つまりはどちらも自分が愛した男に変わりはない。
     恐らくは、後藤の前の妻も、彼に同じようなものを見いだし、そして寂しさがそれを上回ったのかもしれない。だとすれば自分が後藤といて寂しさを感じなかったのは、出会ったときと場所が生み出した偶然がもたらしたものに過ぎないのだろう。
     二人はしばらく恋人同士のようにたわいない言葉を交わしながら、運ばれてきたイカやホタテをゆっくりと味わった。人生のなかでの、本当に短い期間のころだ。大人でありながらどこか無邪気な恋のなかにいたころと偶然について、しのぶはふいに思い出したりする。


     あの年の梅雨は街をいつまでも濡らして、もうすぐ七月だというのに半袖では寒く、薄い長袖を羽織るとじめじめとした空気がまとわりつくような日が一週間ほど続いていた。二課の女性たちは隊員も事務員も半袖を着るべきか羽織る物はどうするか、と試行錯誤しており、半袖で十分とばかりの男性たちとは対照的だ。しかし女性陣の中で唯一人、しのぶはやや暑いと感じることも多く、去年に倣ってカーディガンをもっては来ているが、着てみたりやはり脱いだりと人一倍忙しない。
     一方毎年通りにさっさと半袖にして形のよい腕の筋肉を晒している後藤は、終業後に話があると伝えてからというもの、一見いつもと変わらぬ様子だが、少し考え込むような素振りをしてはすぐに気持ちを切り替える、を繰り返しているようだった。
     同僚との関係に恋人を加えてから一年半近くが経っている。はじめはどこかぎくしゃくするのでは、と心がさわぐこともあったが、実際のところ今までと変わることはなかった。後藤は変わらず同僚としてアドバイスをくれ、しのぶも変わらず同僚として後藤に嫌味をいいというのは変わらず、ただ、後藤のひげと同様に薄い体毛に覆われた身体の体温を肌で知り、自分の胸から腰に向けてのしなやかなラインを肌で教え、そうして互いの内側に、前よりは深く踏み込んだだけだ。
     三十もとうに過ぎているのだし、さっさと将来について考えないのか、と友人に言われたこともあったが、二人とも新しい関係がよく機能していることに心から満足していたし、さらにしのぶから言わせれば、新しい機体が来て隊員たちの実力が遺憾なく発揮されるようになり、ようやく特車二課が目指していた形になったばかりだ。そして後藤も昔の過ちからいろいろと慎重になっているのか、今のこの状態にもうしばらくとどまりたいと無意識で願っているように見える。クリスマスの日、泉らが買い出しに行ったケンタッキーを隊長室で頬張った後、指を舐める互いに欲情しながら、時期が来たら一緒に暮らそうと二人で言い合っては、それもすぐに制服を着て話すことではないと二人で少しだけ気まずくなって笑ったものだ。いつか、いつかそのうちに。
     しかし、世の中には意志ではどうにかならない事もどうにかなる。確率の話だ。例えばこれから二人で話すことについての数字は成功率九十二パーセント。
     夜勤明けにコーヒーを飲む職場近くのファミリーレストランのボックス席に向き合って、頼んだコーヒーとトロピカルアイスティーを待ちながら、しのぶはどう話を切り出そうかと考え込んでいた。例えば、いつもならコーヒーにミルクを落とすのが好きなのに、最近はアイスティーやリンゴジュースを好んで飲むようになったことからとか。
     ベテランらしいウェイトレスが丁寧にドリンクを置いていったところで、何かを待ち、身構えている後藤にしのぶは口を開いた、
    「――来ないの」
     考えたあげく、口から出たのはシンプルな一言だった。
     後藤は目を少しだけ見開き、持とうとしたコーヒーカップに指を掛けたまましばらくただしのぶを見た。周りの喧騒も軽い調子のBGMも、すべてが膜の向こう側に消えたかのようだ。全身が緊張して硬直したままで、しのぶは小さくツバを飲む。後藤は何度か瞬きしながら口を開けて、閉じてを数度繰り返してから、ついにただまっすぐにしのぶを見た。
    「結婚しよう」
    「喜一さん……あの、まだ」
    「結婚しよ。お母様に改めてご挨拶したあとすぐ、いや明日……今晩これからでもいい」
    「ちょっと、いくらなんでもそんないきなり」
    「伊達に長く付き合ってないよ。しのぶさん、産むんでしょ。だったら一日も無駄にしたくない」
     後藤は真剣な顔でそう言い切った。
    「無駄にって」
    「少しでも早く、あなたと子供に関わりたいんだ、夫と父親として。――家族になりたい、家族と人生を過ごしたいんだ」
     そこまで一気に話してから、後藤は繰り返すように「子どもが」と呟いて、そして顔を赤らめながら何かを堪えるように片手で口を押さえてそして呼吸を整えるように肩を上下させて、またしのぶの顔をみた。「どうかな、家族になってくるかな」
    「……ええ、もちろんよ。もちろんだわ」
     昔は結婚するつもりなどなかった、この人と付き合い始めてからもすぐそばにある話だが現実感がなかった。だが、たった今からすべて人生がまた、変わるのだ。
     指輪もなにも用意してなくてごめんね、と後藤がしのぶの手をそっと取り、ぎゅっと握る。冷たい指先がかすかに震えていると思ったら、最後にぽろりと一つ涙が流れて、そして見たこともないほどに顔に幸せが満ちた。
    「どうしよう、しのぶさん。俺たち夫婦になって、お父さんとお母さんになるんだ」
     包み込んできている手から伝わってくる感情に、しのぶはどんどん言葉を失っていく。そして優しく指で頬を撫でられて、自分も少し、泣いていることを知った。


     あの日のことは何度も何度も繰り返し思い出す。次の日に後藤は成城に足を伸ばし、婚約も飛ばして夫婦に、そして父親になると報告して深く頭を下げた。職場に報告したのは五日後、まずは籍だけ入れたのが十年前の今日。
    「なにか話したいことがあるんでしょ」
     しのぶがそう水を向けたのはメインの豚肉を食べ終わり、コーヒーとデザートを待っているときのことだ。
    「あ、うん……。話したいというか、考えてるというか」
     後藤はよくわかったね、と言わんばかりに目を丸くした。十年以上の付き合いにもなると小さな仕草から相手の心境が測れるようになるだけだ。相手を観察するのはなにも後藤だけの特技ではない。
     やがて運ばれてきたコーヒーと艶やかなソルベを口にしてから、しのぶはおもむろに話しかけた。
    「このお店、良い感じね」
    「そうだね、なに食べても美味しかったし。しのぶさん、良いお店知ってるよね」
     六月末日をもって東京に帰ると連絡があったのは先月の半ば頃で、ならばとこの店を予約したのはしのぶだ。出来るならば後藤とここを訪れたいと思う理由が、しのぶにはあった。
    「ここね、今年の年賀状のなかに、こちらのシェフになったのでお時間あるときにおいで下さい、ってあったのよ」
    「知り合いの人がシェフなの?」
    「ええ」しのぶは桃のソルベを口に運び、青い甘みを味わってからさりげなく口の端をあげた。「何年かに一度、思い出したように年賀状をくれるだけのお付き合いなのだけどね。その人、私が本庁に異動になって初めて担当した事件のときに縁があったの」
    「一番はじめの事件……」
     男は思い当たることがあるように少しだけ身を乗り出す。
    「あの頃は保安部にいて、三ノ輪で借金を負わせてソープで働かせているのは間違いないのだけど、背後には王竹会がいて、どうしても証拠が掴めない。でも、そんなときに別件で王竹会のソープを調べてた捜査一課の人が情報をくれて、それが糸口になったの。そのときに知り合った元ソープ嬢の一人が、ここのシェフ」
     しのぶの話を聞いているうちにに後藤の顔は徐々に驚いたものになり、最後は信じられないというように目を何度もぱちぱちとした。
    「ねえ、あれが初めて二人で解決した事件なのかもしれないわね」
     そう言ってもう一口ソルベを食べる。彼女がどの料理を担当したかはわからないが、暑中見舞いを出して、そこに一筆、美味しかったですと記そうと思う。もうとても昔の話で、互いに顔を見ても分からないだろうが、それでもすべての事件の関係者が忘れがたいように、あのとき高校を中退し、行き場がなかった彼女もまた、しのぶの人生に影響を与えた人だった。
    「あのとき、本当に助かったのよ。お礼言ってなかったと思って」
     しのぶの言葉に後藤はもう一度店を見渡してから、少し目を伏せた。
    「そうか、二十年前……」
    「覚えてるの?」
    「そりゃ、嫁さんに愛想尽かされたときのことだから忘れようがないよ」
     後藤は心が痛むのか少しだけばつが悪そうに眉を下げて、そしてまた静かにそうか、と噛みしめるように呟いた。
     やがて二人がコーヒーを飲み終わるころ、後藤が穏やかで遠くまで見渡すような目であのさ、と切り出してくる。
     ああ、これはこの人が心を決めたときの目だ。
    「ちょっと相談に乗ってもらえるかな。実は提示されてることがあって」
    「いいけど、あなた、もう決めたんでしょ」
    「決めたというか……、少なくとも悪い話じゃないなとは思ってる」
     後藤は穏やかにそう答えた。


     その年の夏、しのぶは有休を取り、娘を連れて仙台へと旅行に行った。
     地震により組織改編を余儀なくされた宮城県警に、災害などにも対応できるレイバー部隊を創設するため、後藤は宮城県警の若い警官たちと毎日奔走している。刑事部から警備部への異動の辞令を正式に受けたうえで、最低でも一年、恐らくは二年ほど東北で一人暮らしだ。
     毎日のように電話を寄越し、休みが取れる日は東京に帰っては来ているが、それでも距離は消えない。
    「おとうさんってしごと好きなんだね」
     新幹線で通り過ぎる風景を見ながら、足をぶらぶらさせてぽつりと言った娘を、しのぶは「でもあなたが一番大事ですってよ」とそっと抱きしめた。
    2019年 5月4日
     葉桜の緑が風に揺れて、成城の街がツツジに染まるころになると、長期休みがそうであるように日々の献立に頭を抱えることになる。五月の始まりはいつもそのようなものだったが、今年は違った。
    「こんな静かなのも久しぶりだわ」
     居間で庭を見ながらお茶をすすると、夫は旬も終わりのシラヌイをせっせと剥きながら、「この先の予行だと思えばいいんじゃないかな」と合理的なことをいう。乾き、ごつごつとして、皺が寄った指が器用に柑橘の皮を剥いて、しのぶに「食べる?」と聞いてきた。そして今度は自分の分とばかりにもう一つ皮をむき始める。
     後藤との間に産まれた一人娘は、父親に連れられて競馬場に行ったりしているうちに馬、そして生き物に興味を持ち、将来の目標は畜産の臨床医だ。馬など牧場の生き物に触れられる環境がいいからと北海道大学獣医学部を志望しており、このゴールデンウィークは友人たちとともに、北海道にある競走馬の牧場での体験学習に向かっている。
    「渡会牧場なら大丈夫でしょ、あそこ評判いいし」
     そう太鼓判を押して娘を見送った夫だが、姿が見えなくなった後に小さな声で「もうすぐ大人になっちゃうな」と呟いたのをしのぶはしっかり耳に入れていた。後藤の言いたいことはわかる、この二〇年近くは長いはずなのに風のようにあっという間に過ぎていった。来年には後藤は定年となり、警備部の昼行灯からついに唯の人となる。専業主夫としてなんでもするよ、と笑う顔は皺が増え、髪は白髪が多くなり、さながら哲学科の教授のような風貌だ。冗談抜きにいい男だと、たまにしのぶはのろけたくなるのだが、本人に言ったことはまだない。
     しのぶはほうじ茶をすすってから、先日届いた案内状にもう一度目を通した。
    「まだ迷ってるの?」
    「だって……本当に私が貰ってよいものなのかしら」
    「じゃあ聞くけど、しのぶさん以外の誰がふさわしいのさ」
    「あなたやチームの人たちも相応しいって言ってるのよ」
     しのぶが二課の課長代理だった時期は五年ほどだった。しのぶ本人が考えていた通り、キャリア用の課長の椅子が足りなくなったということで、彼女もまた本庁の違う課に移動となったのだ。だがそれからさらに一年後、しのぶは鳴り物入りで新設された、特車二課と連携した災害対策課特殊救助レイバー部隊の初代大隊長へと任命された。
     彼女は仙台の単身赴任を終えた後の夫が、それを作るためにどれほどの心血を注いだかを間近にみてきた。必要なものだし、その制度を設計する経験とスキルは俺が一番持ち合わせているはずだ、あの頃、後藤はよくそう口にして自分を鼓舞していたものだ。いま、彼が作りしのぶが運用した隊は、特殊救助隊と共に全国に派遣されている。
    「しのぶさんは二課と部隊と、どっちも上手くやって見せたじゃない。あんた以上に相応しい人はいないと」
    「そうなのかしら……」
     思いも掛けないことだからとここ数日戸惑っている妻に、後藤はまたその度掛けている言葉をまた口にした。
    「俺の誇りだよ」
     そのとき、廊下から電話を告げる電子音が響いた。「俺が」と言って立ち上がった男を見送りながらしのぶは庭の緑を穏やかに眺めた。
     娘が無事志望校に受かり北へと旅立ったら、いよいよ後藤と二人きりになる。これほど長い付き合いなのに、彼と二人きりで暮らしたことは実はない。昭和に出会い、平成に結婚し、家族が増え家族を見送り、そして次の年号になったときには二人で暮らすことになる。
     元号みっつ分。人生のなんと長い時間を、この男と過ごしてきたとは。
    「まったくこんな時にも電話営業なんてお疲れ様だよね……しのぶさんなにかいいことでもあった?」
    「いいこと? いえ、そうじゃなくて……あの子が結婚して子どもが産まれたら、三世代で元号が違うのかと思うと、年を取ったと実感しただけ」
    「ああそうか、そういや年号変わったんだよね」
     後藤は本当に忘れていたという顔をしてから、遠くを見て「年寄りになったっていう実感が湧くねえ」とのんきに言う。
    「本当にね……年を取ったものだわ」
     無事、あなたが働き、さぼり、泣き、笑い、そうして年を取っていく全てを見られた偶然が嬉しいという代わりに、しのぶは後藤に「今度は私がむきましょうシラヌイを取る。後藤はしのぶに頼むよ、と言った後、庭を見て「いい日だねえ」と呟く。
    「いい人生だわ」と、しのぶは返した。
    「……うん。そうだね、いい人生だ」
    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:57:13

    和をもってとうとし

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/09)

    #パトレイバー #ごとしの
    2019年のスーパーコミックシティにて発行した本の再録です。ほんのちょこっとだけ変えてます
    4月1日に「今年のSCCの新刊はおこたでみかんを食べる話です」と書いた一か月後、本当に入稿していたエネルギッシュな一冊ですが内容はおだやか王道です。

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