秋の気配、夏の終わり 入道雲が海の向こうからもこもこと沸いて来て、街を覆い尽くし雨をひとしきり降らせてから、一層の蒸し暑さを残して去っていく日々が続き、朝は蝉、夕方は雷でやかましかった夏も、気付けはもうその後姿を見せるようになっている。
積乱雲の変わりに鱗雲やいわし雲が空を覆う日が少しずつ多くなり、吹き抜ける風は南から北に変わりつつある。ぎらぎらと輝きながら潮の香りをこれでもかと撒き散らしていた海も心なしか力無く見える、というのは単に見た人の心境の表れでしかないといえるが。
隊長室の窓からは、草刈に精を出す隊員たちのにぎやかな話し声が聞こえてくる。ここ一週間は出動がかかることもなく、二課全体が落ち着いた雰囲気に包まれていた。牧歌的だねえ、と後藤は煙草をくわえながら思う。しのぶがいないことをいいことに、自席でのんびりと煙草の煙を吐き出しながらぼんやりと天井を見ていると、またうっすらとヤニに染まり始めた天井板が見えて、取り替えてまだ一年経っていないのに、と思わず苦笑してしまった。
去年の夏の埋立地は、それはそれは、というぐらいの大騒動で、誰も彼もが疲れ果てていた。
黒いレイバーが去ったあと、東京はその分だけ平和になった。それが氷山の一角でしかなくとも、一つの出来事は片付いたのだ。それぞれの心に残った、なにか割り切れなかった余りがなんとか消化される頃には雑草は立ち枯れていて、壊滅的なダメージこそ受けなかったが、それでも好き勝手やられた建物の修復が終ったのは銀杏の葉も落ちた頃で、ある意味あの一連のひずみの象徴でもあった、遊馬と野明がまたコンビを組んだ頃には年の瀬も迫っていた。
思えばあの頃のことだ。
女の幸せを杓子定規で決めないで欲しい、と事あるごとに眉を八の字に寄せていた同僚に、なにかの気まぐれか心情の変化が起こったのは。
礼服が一番似合いそうじゃない、といった後藤に対し、しのぶは少しだけむっとした顔で「後藤さんが考えている以上に、プライベートも大事にしています」と言い返されたことを、ついこの前のことのように思う。夕日が落ちたあとの埋立地はがらんとして寒々しく、遠くに見える街の灯りから切り離された世界のように感じられた。閉じた世界、そんな甘いようで淋しい言葉がふと過ぎる。
「そうだね、しのぶさん、着物も似合うし」
「誉め言葉として受け取っておくわ」
「あからさまに誉め言葉じゃない」
後藤のそんなぼやきにしのぶは口の端で笑って、
「そういえば最近着てなかったから、たまに着ると息苦しくて。ああいうのはやっぱり馴れなのよね」
とやれやれ、といわんばかりに肩を回したのだった。
テレビでは有線大賞がわざとらしい盛り上がりのなかで発表され、膝からかなり上のスカートを身に纏ったアイドルが泣きながらなんとか歌を歌おうとしている。
「……もうバスも終るよ?」
「ご心配なく、終バスまでには切り上げるつもりです」
「なんだったら送ろうか?」
「あら、車なの?」
しのぶは伏せていた顔を上げて、「だったら甘えさせて貰おうかしら。ここの書類も片付けていきたいし」と笑顔で応えた。
「書類、ってそれ全部?」
「全部はさすがに無理よ。そんなことしたら後藤さんまで午前様になっちゃうじゃない」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮なんてしてません。……でも、本当に良いのかしら?」
「だめだったらそもそも言い出さないって」
しのぶはその言葉をうけて、ありがとう、とまた微笑んだ。笑うと目尻の皺が少し目立つようになり、またそれがしのぶらしい。
相応に、地に足をつけて生きてきた人間が顔に刻む時の印が似合うというのは、誉め言葉だと後藤は思う。その笑い皺をよく目にするのはそんなやり取りで彼女を家に送り届けたときで、しのぶは降りる前に見慣れた笑顔で心からの礼をいい、家へと入っていくのであった。
そういえば、誘ったらいつでも平気で車に乗ってくるんだよな、あの人。
回想の中の冬から現実の酷暑に戻ってきた後藤は、机の上のものに目をやりながら、改めてしのぶと自分の距離を思った。
壁に飾ってある予定表の月末あたりに記された、長期休暇を知らせる文字。もっと休めばいいものを、しのぶが申請したのはたった六日だ。真っ当な意味でワーカホリックなのだろう、彼女も。
ぷかー、と器用に煙の輪をつくり上空に吐き出したとき、前触れもなくがちゃりとドアが開かれた。
「……あ、おかえり。早かったねぇ」
「道路が空いていたもので」
すげなく言い返されて、後藤は慌てて灰皿に煙草を押し付けた。しかしそれで煙がすぐ消えるわけではなく、残り香が部屋に薄く広がる。しのぶはその様子に小さくため息をついたあと、自席へと戻る。
すぐに積まれた書類を手にとり、仕事に集中するしのぶをそれとなしに見ながら、後藤はとりとめなくまた色々と考え始めた。
目の前の同僚のことや来月からのローテーション、そしてなんでそんな心理状態になったのかも同時に考えたりするものだから、思考はあっちこっちに飛んで忙しないことこの上ない。
「後藤さん」
「はい?」
「手、止まってるわよ」
顔を上げることがないまま、そう指摘される。後藤は曖昧に苦笑して、とりあえず急ぎの書類を手にとった。
そうして机の上を見ると、また動きが止まる。そんな後藤の様子をさすがに見逃せなくなったのか、訝しげにしのぶが口を開いた。
「……なあに、珍しい蝶でも止まってるというのかしら」
「まあ当たらずといえども遠からず」
そんなすっとぼけた回答を返しながら、後藤は書類を元の山に戻して、しのぶに机の上のものを見せた。
「! ……ちょっと、後藤さん!」
「なに、赤くならなくてもいいじゃない」
ぴらぴらと動かしているそれは一枚のスナップ写真だった。去年の晩秋、しのぶの鞄に紛れていたそれはよりにもよって後藤の前にひらりと落ち、なんの気もなく拾った後藤がどさくさに紛れて机に仕舞ってしまったものだ。年が明け年度も変わる頃にはその存在すら忘れていたが、今日探し物のため引出しを探ったらひょっこり姿を現した。奥のほうに入れておいた本の間に、当時大事に挟んでおいたらしい。
上品な色合いの着物に結い上げられた髪。辛うじて笑ってる形に保たれた口元を裏切って目は全く笑ってない。撮られ慣れてないことが如実に判るその写真はしのぶの女性的な面も男性的な面も併せて切り取っていて、それゆえに好感が持てるものだった。しのぶという人間を視覚から伝えるのに相応しいものだ。
「いい写真じゃないの」
「写真の出来不出来とか、そういう問題じゃありません!」
「ま、そうなんだろうけどね」
いじめっこよろしくにやりと笑うと、しのぶは赤い顔のままこの人は、と言わんばかりに深くため息をついて、
「まったく何が楽しいんだか」
「知りたい?」
「結構です」
「あ、やっぱり」
俺はいい写真だと思うけどね、ともう一度呟いて後藤は写真を机へと仕舞う。南雲しのぶが同僚であり警察官である前に、一人の人間で普通の女性であることをちゃんと告げてくれる。そんな等身大の写真だった。
今度こそ仕事に取り掛かるべくペンを持ちながら、後藤は「ところでさ」といつもの調子で切り出した。
「なあに?」
「休み、本当に六日間でいいの? せっかくなんだからさ、もっとどばーっととっちゃえばいいのに」
「二課を第二小隊に任しっぱなしなのは不安なのよ。っていうのは冗談で、やっぱりどこかワーカホリックなのね。それ以上は多分無理だわ」
「でもさ、せっかくの東海岸でしょ。のんびりしてこそって俺なら思うけどなあ」
「多分その考えの方が正しいとは思うんだけど、まあ性分ね」
苦笑しながらそう話して、しのぶは前髪を掻き揚げる。
ふと目に入った左手に一瞬だけ視線を奪われた後藤は、その衝動に釣られるようにまた「しのぶさん」と声をかけていた。
「今度はなあに?」
「あ、うん」
思い浮かんでいることを口にすることを、なぜか後藤は躊躇った。
今日にはじまったことではない。梅雨入り前の曇り空の下、朝一番に「実は」と報告を受けてから、ずっと言いよどんできたことだ。しのぶはその度に訝しげな顔をしながらも、最後は流してくれていた。
今もまた流してもらおうか。
そう考えて口を閉じようとして、脳裏に先ほど見た控えめな輝きが瞬いたと感じたとき、後藤は「あのさ」と言葉を続けていた。
「旦那さん、どんな人?」
その問は予想外だったのか、しのぶが書類から目を上げる。浮かんでいる表情は驚いているとも逆に冷めたとも取れる曖昧なものだ。それに身が強張ったのは一瞬。しのぶは口の端をほころばせて、
「あら、突然興味が湧いたのかしら」
「興味は前から湧いてたよ。ただ、馬に蹴られて死ぬ趣味もないだけ」
「今なら蹴られないと?」
「もう蹴られないでしょ」
いつもの調子でおどけて見せると、しのぶは今度は滅多に見せない柔らかい笑みを浮かべて、そうね、と小さ呟く。
その上目遣いの表情には思春期の女子が持つような、恋する面影がどこか残り、それが言葉よりも雄弁に彼女の今の状態を後藤に告げていた。
「そうね……、普通の人だわ。可もなく不可もなく。敢えて言うなら善人、かしらね」
「普通、か。いい人なんだね」
「ええ。……なによりも私も普通でいられるのが大きいんだと思うの。そんな人よ」
「へぇ」
大きいだろうな、相槌を打ちながら後藤はそう思う。
警察官という仕事はなかなかに息苦しい仕事だ。非番といえども遠出は逐一報告しなければならないし、公僕という字が表す通り、プライベートがない。正確に言えばプライベートも公に捧げることを時に強いられる。
自分が決めた相手について、しのぶはあまり自分からは話したがらないが、それでも少しだけ聞こえてきた話を拾い集める限りでは、相手は警察官であり、あの特車二課に所属し、女がてらに小隊長まで勤めるしのぶを、まるごと受け入れる度量を持っているらしい。仕事は続けるとしのぶから聞いたとき、後藤は納得したと同時に、男として意外だとも感じたのだ。そして、婚約者は反対するどころか応援してくれているらしい、と聞いたときに、全てが腑に落ちたと思った。
息抜きが出来る場所、又は息がしやすい場所。誰もが見つけたくて、しかし何故か容易には得られない。
しのぶがそれを見出せたのだとしたら。
「……よかったよね」
声に辛うじて乗った祝い言葉は、そのまま風に掻き消えていく。仮に相手まで届いていたとしたら、後藤もしのぶも思わず言葉を失ってしまうだろうから、多分それでよかったのだろう。
ふとコンコン、と規則正しくドアが叩かれたあと、第一小隊の隊員が顔を覗かせた。
「隊長、ミーティングを開きたいのですがよろしいでしょうか」
「わかった、すぐ向います」
そう返事をしながら書類をとんとんと揃えていく。いつもながら動きに無駄がない人だ。
「それでは、少し席外します」
「はい、いってらっしゃい」
ひらひらと手を振って見送ると、しのぶはくるりと身を返して部屋を出て行った。
遠くから蝉の鳴き声が聞こえる。夏の盛りになくそれではなく、終わりを告げる日暮の声だ。
ぼんやりと、後藤はこれからを思った。
なにが変わるわけではないだろう。しかし、決定的に変わるものがある気もする。そんな掴み所もない予感を漠然と抱いたまま、夏は終ろうとしていた。
まあ、それでもいいかな、と思ったとき、また前触れもなくドアが開かれた。
「……おかえり、随分と短いミーティングだったね」
「そんなわけないでしょ。資料を刷っていたコピーにがたが来たとかで、しばし延期よ。整備員の人が見てるところ」
「あのコピーも古いからねー。なんたって俺らと同期だし」
警視庁から二課創設と同時にやってきた、明らかにお下がりな機械の様子をくっきりと思い描きながらいうと、その言い回しがつぼだったらしく、しのぶは小さく笑った。
「同期、そうね。そろそろ新しいものを、って思いながら今日まで使ってるのよね、結局」
「まあ、榊さんの愛弟子たちだけあって、整備員も天晴れだしね。ときどき新機能をつけるのが玉に傷だけどさ」
「それで実害が出てないのが不幸中の幸いかしら」
「そうだね」
少しでも書類を片付けようというのだろう、しのぶは先ほどの書類をまた机に広げた。そしてボールペンを手に取ったところで、ふと思い出したように後藤のほうを見た。
「……はい?」
「いえ、思い出したのよ。二課に来たばかりのころ、やっぱりコピー機のことで話したことがあった、って」
「……ああ、そういえば」
確か秋口のことだった。
そのころから型古だったコピーがテスト運転のつもりで一枚コピーした途端固まってしまい、しかもどこで紙詰まりを起したか判らない状態になったことがあるのだ。そのころ整備員たちは篠原八王子工場で研修を受けていて、まだレイバーが運び込まれていない二課棟は後藤としのぶと、何人かの事務員しかいない状態だった。
「あのときは、たしか後藤さんが手を油塗れにしながら紙を探し出したのよね」
「だってさ、男俺しかいなかったし、文字通りの汚れ仕事だったし」
「そう、それで終った後に後藤さんが言ったのよ、実害がなくてよかったじゃない、って」
しのぶにしては珍しい、遠くを見るような顔でそう言ったあと、彼女は後藤に向ってそっと笑った。
「あのときに、結構頼りがいのあるひとなのかしら、って思ったのよ」
「結構じゃなくて、かなり頼れるでしょ、ぼく」
「なに調子に乗ってるんだか」
そういって苦笑したあと、しのぶはふと、あの真っ直ぐ射抜くような目で後藤を見た。
「私ね、後藤さん」
「はい」
「私、……あなたほどの相棒を持てたことを、心から誇りにしているし、幸だと思ってる」
「……!」
しのぶはそういうと鮮やかに笑って、また席を立った。
「そろそろ直ったかしら。それじゃ改めてお願いしますね」
「あ、はい」
呆然としたままの後藤にもう一度行って来ますと告げて、今度こそしのぶは隊長室から出て行った。
隊長室に、しばらく沈黙が降りる。後藤は見送った形のまましばらく固まっていたが、やがて小さく笑いながら「参ったな」と呟いた。
背もたれに背を預け、空を見上げると、幾分か色が褪せてきた空が見える。
相棒、なんとも適切な言葉だ。なにも欠けていないし、余計なものもついていない。
しのぶの名字が変わったあとも、これからも二人で、様々な難局を乗り切っていくことになるだろう。シャフト事件ほどのものはさすがにないだろうが、それでもなにかあったとき、しのぶ率いる第一小隊が後ろにいると思えば後藤も存分に力を振るえるし、先ほどのしのぶの言葉から察するに、彼女もまたそうなのだろう。
知らず知らずのうちに柔らかく温かい笑みが浮かでいることに、後藤は気付いていた。
恐らくは今、一番近い位置にいる。誰よりも、そう誰よりもだ。ベクトルは互いに向かなかったけれど、しばらくは平行に、それぞれを助け合っていくことだろう。これから先のことはわからないが、決して失われないものがあると、はっきりと確信出来るのはなぜだろう。
その理由や根拠は説明出来ないが、しかし間違いないのだ。これからも背中の方を向けば、しのぶが任せたわよと強気で笑って、気合いを入れようと預けた背中を叩いてくる。
――この関係や気持ちをなにかに当てはめたり名前を付けたり、そんなことは答えじゃないしね。
抱えていたもやもやが空に融ける錯覚を覚えて、後藤は静かに目を閉じた。
結婚式では短いながらも、最高のスピーチを用意しよう。そうして六日間の空白のあと、またはじまる関係のために、例えば隊長室での煙草を控えるぐらいはしておこう。
「……いい天気だね、ほんと」
この天気のように、いつまでも、君が幸せでありますように。