ナポリタン 失恋の心を癒すのは、新しい恋に限る。
恋愛の最後なんてみっともなくて辛いだけだ。いかなる形の別れであっても、心の奥に隠してあったものが剥き出しになる。なにより、自分の醜さが露呈する。恋は前向きで美しいなんて嘘だ。エゴと我が侭に塗れた、手に負えない暴走する感情がコアにあるのだから。
本当に手に負えない、と思ったのだ。
あの男と来たら、紳士な振りをして排他的で、優しい顔をして実際は線を引く。こちらの覚悟なんて知ったことじゃないとばかりに、お前が大事なんだ、と言いながら本心を巧みに隠していく。
自分という存在が必要だろう、と傲慢に構えながら、心の底で相手の心を推量しては怯えていた。か弱い乙女ではないのだから、と本音を飲み込みながら笑顔で接するのは辛く、会う度になにかに罅が入る音が脳の中で響いていた。話してはいけないと頑なに思い込むことで、関係すらも硬化していくことからは目を背け続けた
そして、自分では抱えたものの大きさごとあの男を受け止めることは出来ない、と思ったとき、その男に出会ったのだ。
あれは蒸し暑いだけの夏の夜、夕立が長く続いた夜のことだ。いつもと同じようになにかを抱えて表れて、散々好きなだけ嬲り、勝手に人を労わって帰っていく火村の後姿を心配顔で見送ったあと、またいつものように、砂を食むような虚しさに襲われた。この後ろ向きな感情は、恐らくは締め切りだなんだでここ一ヶ月家に閉じこもっているからに違いない、と無理に結論付け、コート片手に夜の街へと飛び出して、地下鉄から賑やかなほうへと向かう。無償に酒が飲みたかった。それもビールやカクテルなんてものじゃなく、もっと自己憐憫に浸りきった独り者に似合う酒が。
梅田の繁華街から少しだけ離れた場所にある、半地下にある薄暗いジャジーな店は知る人ぞ知るゲイバーだ。火村と二人、稀に顔を出しては控えめに惚気あったりしたのももう遠い昔だと、そう自棄になりながらフォーロージーズを呷ったとき、ピクルスを差し出してきたのが浜中だった。切れ長の目にどこか甘く響く声。そのくせ笑うと途端に幼さが全面に表れる。三十の自分より三つ下だというその男は、話してみれば誠実さと軽薄さを兼ね備えた興味をそそる男だった。中之島の高層マンションに住居を構え、自由な一人身を満喫しているのだと、ほろ酔い口調でそう自分を紹介して、そして最後に「判ってます? 僕、あなたのこと口説いとるんですよ」と不意に真面目な顔でそう告げられた。
ずるずると嵌っていくのは判っていたのに、それから暇を見つけては二人で飲んだ。
浜中は甘えることを知っている。人から甘えられることで、結果として人に甘えられる性格の人間がいることを把握していて、有栖をそうやって甘えさえてくれた。会社であった些細なことから、両親に同性愛者だと打ち明けられない心苦しさまで、なんでも開けっぴろげに話してくれるし、時にはむきになって、今だけでいいから自分を見て欲しい、なんて嬉しいことも言ってくれる。
なにもかもあの傲慢な男とは大違いだ。
隠し通せるなんて思っていなかった。正確に言えば、そんなことにすら目が行かなかった。
火村は相変わらずの態度のまま、ただ有栖のマンションに足を運ぶ回数が少しずつ減っていった。それすらも、仕事が込んでいるのか、だとしたら都合がいいもんやな、と故意に誤解し目を瞑り、余った時間を浜中との時間へと費やしていった。
なにも考えずにただ流される状況は、有栖にとってあまりにも蠱惑的だった。抗う理由はあやふやなまま霧散していき、いつだって気が付いたときには物事は行き過ぎているものだと、そんなことすらいつしかすっかり忘れていたのだ。
浜中と飲むようになって、三月ほど経った夕方。注文した資料を取りにジュンク堂へと出向いた帰り、待ち合わせて福島のラテンレストランで談笑しながら大いに飲み、へべれけになって夕陽丘まで送ってもらったのがゆがみのとどめとなった。
マンションの手前で急に止まったと思ったら、「……あの人がつれない彼氏ですか」と告げられたあと仕掛けられた濃厚なキス。驚きでなにもいえない有栖に「口説いてる、って言ったでしょ」と告げた笑顔の幼さに、初めて有栖は事態を悟った。
愛が醒めていたらよかったのに、と思う。疲れてはいたが、笑ってしまうぐらい火村に惹かれていた。手に負えない男だと嘆きながら、その男が自分だけを求めていることに、最上の幸福を感じていたのだと、テーブルに置かれたスペアキーを見ながら、有栖はただぼんやりそう回想していた。
自分は捨てられたのだろう。火村は感情を込めすぎたなんともちぐはぐな顔をして、捨てたのはお前だと決め付けていたが、一方でその束になった感情の中、火村も気づかないほど奥深くに安堵も入っていたのを、有栖は見抜いてしまったのだ。自分の人生から有栖を切り離すタイミングを、恐らくずっと狙っていたのだと有栖は思った。
まったくもって手に負えない。そうやって身軽になって、大事なものなんて一つも無いことにしたいのだ。実際、有栖は火村の一番近しい人間だったのだから、彼は望みどおり自由になった。
そうして一人で勝手に生きていくがいい。俺はまた誰かと手を取り合って生きていく。心の中で何度そう罵っても、傷は癒えないままだった。
中之島のそのマンションは、新築の匂いがうっすらと残る、どこを切っても高級感が溢れ出しているような建物だった。
証券マンというのは想像以上にいい給料を貰っているらしい、と有栖は磨きこまれたフローリングを見ながら場違いな感想を抱く。
一人で暮らすには広いであろう3LDKの部屋には、スウェーデンの先鋭的な家具がモデルルームのように配置されている。机の上に置かれた英字新聞も、購入する人種が間違いなく存在したらしい、無意味に明かりを発しているよくわからない形をした床置きの照明も、なにもかもがモデルルーム臭さを強めているようだ。
対面式のキッチンでは、浜中がギャルソンのようなエプロンをして、楽しそうにアボガドを調理していた。全く、なにをさせてもスマートに見える男だ。そういう男は油断ならないことを知ってはいるのだが、その器用な手つきに見とれてしまう。
「男が包丁使うのって、そんなに珍しいです?」
顔を上げないまま、浜中はそう軽く聞いてきた。
「あ、いや、そういうわけやないんやけど……。俺あんま器用に出来んから、羨ましいっていうか」
「そうなんですか? 料理とかしないっていうのは意外ですわ」
「ほんま不器用なんよ。よく笑われたもんやなあ」
「あの人に? 酷いなあ」
あっさりとそう言われて、有栖は曖昧な笑みを浮かべた。
「馬鹿にしとったわけやないと思うで? なんだかんだ言ってフォローを入れてくれて」
「ストップ」
浜中はそこで顔を上げた。
「昔の恋を振り返られるのは、はっきり言って不愉快です」
「……それは悪かっ、て、そもそもは君が」
「口説いとる、って何度伝えました? 僕はね、有栖さん。機会をずっと窺っとったんですよ。そのチャンス逃すわけないやないですか、それに」浜中はカウンターに高級そうな白い皿を置いた。上にはアボガドとマグロのカルパッチョが乗っている。ヤマザキ春のパン祭りで貰った皿に、半額だからと買ってきた赤身を並べる男とは始めから立ち位置が違う。
見るからに美味しそうなその料理に有栖が思わず目を輝かせると、
「今のほうがずっと可愛いです。恋愛はあんな重い悲しい目でやるものやないですから」
「……そんな辛そうな顔をしてたつもりはない」
「鏡を見るときは、無意識に補正してたんちゃいます? さ、食べてください」
浜中は有栖にそう薦めながら、自分は次の料理に取り掛かっていた。他の部屋に比べ、台所だけは男の一人暮らしには似つかわいほどに使い込まれているようだ。趣味は料理、というところか。促されるままに箸をつけると、自家製のものとは思えないほどに高級な塩味がした。
「……美味い」
「でしょ? 僕、腕に自信ありますから。ましてや本気の相手にはね」
子供のような笑顔でそうストレートに告げてくる。
「今度、マンションに行ってなにか作りましょうか? 修羅場のときとかに出前でも」
「いや、ええよ別に」
「遠慮せんで下さいよ。それに興味があるんです。作家ってどんな生き物なのか。想像力だけで食っていくんでしょ、なんとも華やかですよね」
「別に、そんな華やかなもんやないし。作家業に夢見過ぎやって」
「そうかなあ。でも好きなことだけをやって毎日暮らせるって羨ましいですわ、やっぱ僕みたいな宮仕えにはね。クリエイターって仙人みたいに華やかやないですか。才能ですよね」
玉ねぎを刻みながら軽快に喋る男に、有栖はただ笑みを浮かべたまま「やっぱ夢見すぎやわ」とだけ突っ込んだ。
知らない世界に夢を見るのはよくあることだから、気にもならない。作家だ、と言われてそんな反応を受けるのも、もう慣れたし、今までは気にも留めなかった。
「今度、有栖さんの本読んでみよう思っとるんです。プレジデントと日経と、インディベンデントだけの生活に潤いを、ってね」
浜中は白カビにまみれたチーズらしきものを切り分けながら、そういった。
「そりゃ、みたままの読書傾向やね。まあ、仕事柄必要やもんなあ」
「インディペンデントは趣味です。あ、あと帝国データバンクも読んでます。あれ、けっこう面白いですよ」
「その感覚にはいまいち賛同しかねるな」
「そうですか、残念。赤お好きですか?」
一旦料理の手を止めた浜口は、有栖の返事を待たずに冷蔵庫の横に据えてあった小さい冷蔵庫からさっさとワイン壜を選んでくる。あれはワイン専用のものなのだろう。深緑のボディーに張られたラベルは、聞いたこともないフランスのものだ。
「これね、今日のために探したんです」
「また、大袈裟な」
「ほんまですよ」浜中は有栖の目を覗き込んで、そう言い切った。細い目の先にある光は肉食獣のそれに似ている。有栖は浮かんだ言葉の陳腐さに思わず呆れながら、口では普通に会話を続けた。
「浜中くん、でも、俺はまだなにも」
「でも、あなたは来てくれたじゃないですか。有栖さんが僕の部屋に来る日のために、手配したんです。最初に食前酒として飲んで」
ぽん、と景気のいい音とコルクが抜かれた。女性的なフォルムのワイングラスに透明感のある赤い液体が静かに注がれていく。
「残りはシーツの上で。ベタですけどね」
有栖にグラスを渡しながら、浜中は薄く目を開いていった。
「……部屋に来た時点で、お返事と考えていいんですよね。少なくとも、今日起こる出来事は予想範囲内、と」
「わからんよ、体温が恋しくなって遊びたいだけかもしれんやん」
「それでもいいですよ。そういうときに選ぶのが僕になったんですから」
チン、と軽くグラスを合わせて、浜中がゆっくりとワインを呷る。それにつられて有栖もグラスを傾けると、漢方のような癖のある香りが鼻腔に抜けた。
「僕はね、チャンスは逃さないんですよ。息つく暇も無いぐらいに夢中にする自信があるから、前の彼からあなたを奪ったんです」
「奪ったって」
「奪いますよ。そのためにこのワインを選びましたから。これ、なんでもルパン書いた人のワインやそうです」
「ルパンって、ルブラン?」
「多分。ティエンポン家のものです」
「へぇ」
有栖はワインをしげしげと眺めた。なんというか、どこまでも卒が無い。
発泡酒とそこそこの日本酒、ときどきちょっと奮発して久保田の万寿がいつもの酒の種類だった。ムードに合わせて、なんてことは思えばやったことがない。ムードを口では求めても、実際はまったく必要としていなかったからかもしれない。
「さて、パスタなんですけど、塩味お好きですか?」
「塩?」
「おいしい岩塩が入ったんです。だからストレートに塩と唐辛子を味わうのがいいと思って。ヴォイエロのスパゲッティーニでキノコのパスタ、ええでしょ?」
「ぼいえろ?」
「パスタはここですよ。やっぱそういうのってこだわるところでしょう」
「俺はそういうのないなあ。なんていうのかな、最後は食えればええ」
「やから、これからは僕が作りにいきますって」
馴れた手つきで細い包丁を操りながら、浜中は明るく言った。
「パスタ鍋とオムレツパン、今度持っていってもええですよね。締め切り前の力強いシェフになりますよ」
「いや、締め切り前には優雅な食事を食う時間もないし、そういうのは別個に」
「そうなんですか? 残念だなあ。でも有栖さん、そういうのも今のうちですよ。僕、脱サラしてイタリアンの店出そうか、とか夢想することあるくらいですから。イタリアンに関しては自惚れてます」
「確かに、作りなれてる印象は受けるな」
「でしょ。パスタもクリームとかトマトとかで、太さや形状が変わってきますからね。個々の違い、僕が教えますから」
黒光りした鉄のフライパンに、金色のオリーブオイルが惜しみもなく注ぎ込まれる。あのオイルも口を噛みそうな名前のメーカーのものなのだろう。そして荒く刻まれたにんにくが入れられる。
「有栖さんはパスタ、なにが好きですか?」
「……ナポリタン」
少し考えてからそう答えると、浜中があからさまにうへぇ、と言いたげな顔をした。
「ナポリタンって料理は、向こうにはないんですよ。やだなあ、なんでですか」
「理由は特には。あえて言うなら美味いから」
「……他には?」
「……おじさんだから、かな」
うやむやにしようと適当で無難な言葉を選んだつもりだったが、浜中はふと冷めた目をして有栖を見た。
「また曖昧な理由ですね。――よし、僕のレパートリー全部お見せしますよ。その中から次の一番を選んで、ナポリタンは忘れてください」
「またずいぶんと我侭を。なんでか知らんけど、別にいいやん」
「いいですか」浜中は包丁を置いて、「僕はあなたを口説いている、何回言いました? あの嫉妬深そうな男に、もう殆ど奪いました、って知らせて、やから、有栖さんも承知の上でここに来たんでしょ」
「――なんかやな言い回しやないなあ、それ」
不機嫌になったことを隠しもせずにそう問い詰めると、逆に執着にも似た感情を顕にした浜中が有栖をにらんだ。
「やったら、……やったら、そんな暗い目して好きなもんは、って言わんで下さい」
フライパンの中では、熱せられたオイルがにんにくを香ばしく色づけている。
「……ごめん」
有栖がそう口にしたのは、にんにくが狐色から狸色に変わったあたりだった。
ドアを開けてこちらを睨んだ顔は、恐ろしく不機嫌だった。
単にへそを曲げているのではない。普通、連絡もなしに真夜中近い時間に人が訪ねてきたら、大抵の人は歓迎しないだろうから、至極まっとうな反応と言えるだろう。
ましてや、碌な別れ方をしなかった相手だときたら尚更だ。
「……なんの用だ」
この肌寒い日にわざわざ階段を下りて来てまで下宿の入り口を開けた自分の迂闊さを、心の底から後悔していることを隠そうとしない、地を這うような声で尋ねてくる火村に、有栖は無言で手に持っていたスーパーの袋を差し出した。
「食いっぱぐれた」
「家に帰っててめえで作れ」
「乗ってきた市バス、丁度終バスでな」
「銀閣寺のあたりまで行けばタクシーなんでごろごろ転がってるだろ」
「でも食材は揃っとるし」
もう一度袋を差し出す有栖を火村は上から下まで、何度も目を往復させて観察していた。ちょっと出掛けるにしては気合が入っている服装に何を思ったのかはわからないが、やがて袋を受け取ると無言で踵を返す。有栖も黙ってきしむ階段を上がっていった。
紙の匂いと混ざり合ったキャメルの香りがなにか懐かしい。思えば有栖の家にこびりついていた煙草の香りも薄れ掛けてきている。
「適当に座ってろ。いいか、作ったら俺は寝るから、おまえは明日勝手に帰れ」
「わかった」
淡々と返事を返す有栖に、火村は冷たい一瞥をくれて袋を見る。そして、
「……なんだこりゃ」
「その材料から作れるものなんてたかが知れとるやろ」
「ケチャップぐらいうちにもあるぜ」
「ここの冷蔵庫の中身は透視出来へんしな」
これ以上の会話は不毛だと悟ったのか、火村はパジャマに半纏姿のまま黙って台所へ向かう。有栖は着てきたコートを脱いでくるくると丸めると、自分の横に置いてちょこんと正座をした。猫たちの姿は見えない。恐らく婆ちゃんの布団の中でぬくんでいるのだろう。机の上には横文字の論文誌に散らかされたメモ。そしていくつかの専門書。今年の春から専任講師としていくつかの授業を受け持たされた、と以前言っていた。半年経ったいまは、多少はそれに慣れたのだろうか。そんなことを聞くことすら忘れていた、と有栖は己を振り返る。
そして台所に立っている男に目を向ける。火村は中に入っていた玉ねぎを大雑把に半分にすると、皮をむいて適当にざくぎりにしているところだった。
麺を茹でる鍋はアルミの使い込まれたぼろ鍋だし、フライパンはテフロンがはげかけた、イトーヨーカドーのセール品である。まずくなければそれでいい、が火村の料理の信条だ。 学生のころから、なんでも炒めればいいと思っていたような節もある。
手際よく食材はぶつ切りにされ、やがてサラダ油の焼けたべたついた匂いが部屋に充満し、すぐにケチャップが炒まるいい匂いが鼻を突いた。
「このスパゲティ、茹るのやけに早いな。ウルトラマン並みだ」
鍋から麺を出しながら、火村がそう感想を述べる。
「そう書いてあったから買ってきた。最近のサミットは遅くまで営業しててありがたいこっちゃ」
「俺は深夜営業のスーパーに現代の悲哀を見るね。……ほら」
どか、と割り箸とともに有栖の前に完成したナポリタンが置かれる。
火村は有栖から少し離れた場所に座ると、灰皿を引き寄せて徐に一本取り出した。
「……いただきます」
何の反応もしない火村を横目に見て、有栖は割り箸を勢いよく割った。
真っ赤なスパゲティはほかほかと湯気を立てていて、飾り気がない代わりに食欲をそそるようだ。まず一口運んで、
「……美味い」
そう小声で漏らすと、
「心斎橋か中之島か知らねえが、そこのレストランの味には劣るぜ」
「……でも、こっちの方が美味い。なんでかな」
住宅街の夜はどこまでも静かだ。
耳が痛くなるような沈黙の中、有栖は黙々とナポリタンを食べ続けた。安い油まみれのケチャップがかもし出す味は、どこか懐かしく飽きが来ない。安いソーゼージとピーマン、たまねぎがかもし出すこの味は喫茶店から姿を消しつつあるが、しかし日本から姿を消すことはまずないだろう。
馴染みのないものなら馴染みを無理にでも作るのが、日本人の特性といえるかもしれない。
そんなとりとめもないことを考えながら、半分ほど一気に食べると、有栖はそこで一息ついた。火村は煙草を吸い終わったあとも、寝ることはせずぼんやりと壁を見詰めている。
チ、チ、チ……、と古い時計が秒針を刻む音が、やけに重く耳に響く。まるで残された時間を残酷に切り分けていく音にも聞こえた。
「……どうもな、気取った味は俺には合わんようで」
有栖がそうひとりごちたのは、秒針が十回ほど回りきった頃だった。
「安い言われようが、なんでかな、忘れられん。やっぱスパゲティはナポリタンやね」
「――安い男だな、本当」
火村もまた、有栖のほうを見ずにそう返す。
有栖はナポリタンを見たまま、静かにそっと微笑んだ。
「そうや、それで馴れてもうたから。どうしても食べたくてなって、どうしても……。
どう考えても向こうの方がええのにな。優しいし、ややこしくもないし。せっかくやし流され切って、どこまでも遠くへいてまえ、ってやっと思い立ったんに……」
思い立ったのにな……。もう一度繰り返すと、目頭がじわりと熱くなったように感じた。
ふ、と空気が動くのを感じた。
火村が自分を見ているのだと、有栖は分かった。伊達に十年付き合っていない、この男のことなら大体は推し量れるのだ。
すっかり忘れていた。こんなことだけではなく、他にも色々と。
火村がどんな色をした目で自分を見ているのか、有栖は少しだけ気になったが、しかし視線を合わせていいものか迷う。
「……俺は変わらねぇぞ」
しばらく経って火村が告げたそれは、搾り出すような低い、小さい声だった。
「分かってるわ、そんなん。……俺かて変われん」
有栖はのろのろと火村のほうを向いた。
黒い瞳にはなんの光も映ってはいない。ただぽっかりと、有栖だけが映りこんでいた。
なんで忘れていたのだろうか。この目の光も、見慣れたものだったというのに。
「……ごめんな」
そう告げると同時に、一粒だけ涙がこぼれた。ぽたり、と音を立てて、涙は古ぼけた畳に吸い込まれていく。
ああ、大の男が恥ずかしい。か弱い乙女じゃあるまいし。
有栖は顔を伏せた。
「ほんま、ごめん……」
そうやって枠を勝手に作って、勝手に苦しくなって一方的に向こうに責任を押し付けて。
周りを巻き込んで必要ない人まで傷つけて、それでも気づいただけマシだと、果たして言えるのだろうか。
でも。
畳が軋む音がしたと思うと、すぐ傍に人の体温を感じた。嗅ぎ慣れた、キャメルに燻された肌の匂い。
「莫迦だな、お前」
そっと火村が声をかけてきた。
「せっかく逃がしてやったのに、非常口にはもういけねえぜ」
「わざわざ捕まってやるんや、ありがたく思え」
弱弱しく憎まれ口を叩くと、火村が低く笑った。
「叱られる覚悟は出来てるんだろうな」
「……しばらくは色々と好きにせえ。なにされても文句は言わん。……それでまたはじめられるんなら」
ふと頬に手が添えられると、そのまま顔を持っていかれる。火村は言ってる言葉にそぐわないほど温かな目をして有栖を見ていた。
そしてそっと、抱きしめられる。
「本当、莫迦だな」
「否定せん」
肩口に顔を埋めると、心から安心した。
火村は変わらない。
自分も変われない。
また互いに、勝手に疲れたり愛想をつかしたり、時にはやってられないと口汚く罵り合うこともあるだろう。
それでも。
「……好きや」
ささやくように耳元で告げると、いっそう強く抱きしめられた。
「本当にごめん」
「……まったくだな」
あんな思いは二度とごめんだ、と火村は低く笑いながら有栖から身を離した。
そのまま近づいてくる顔に、有栖は目を閉じる。
ただ触れるだけのキスは涙がまたこぼれそうなほど優しい感触だった。
アリス、とようやく名前を呼ばれ、有栖は少しだけうっとりとしながら火村と呼び返す。
そして目を開けたさきの火村の顔を見て思わず笑ってしまったのは、この場の雰囲気にそぐわず、火村の唇にべっとりとナポリタンのソースがついていたからで、だとしたら自分もさぞてかてかした唇をしているのだろうと容易に想像出来たからからだ。
なんか俺たちどっか間抜けやな、そう言おうとした口は火村にまたふさがれて、キスは案の定安いトマトケチャップの味がした。