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    スイートな悪魔、誘惑のバニラ それにしてもバニラビーンズの醸し出す香りは、なぜこうも人を柔らかく誘惑するのだろう。
     一口それを含みたい。
     口の中でとろりと溶けて甘く残り、鼻から抜けるときには色彩まで変化するに違いない。手に届く寸前の思い人のような誘惑が、そこには含まれている。
     そして、実際に味わおうと嬉々として口に入れた途端、半端ない苦味に襲われ後悔にさいなまれるあたりまで一緒と来ている。
     教訓は一つ、遠くから見てるだけにしておけ。
     目の前に置かれた、小さな黒いビンを見てそんな文が浮かんでくるあたり、作家菌とやらは相当に強い性質を持っているに違いない。
     火村は大きくため息をついて、無意味で無益な現実逃避を打ち切ることにした。「それでは、目の前にあるレシピをご覧下さいー」という、彼には無慈悲に響く開始のゴングが聞こえたからだ。
     それにしてもだ。
     火村は周りを見渡してさらにもう一度心の中で呟いた。それにしてもだ。
     二十畳ほどの広さがある調理室――きっともっと洒落た名前があるのだろうがそんなこと火村の知ったことではない――は落ち着いたベージュで纏められていて、目の前にあるキッチンも小さながら使い勝手がよく出来ている。教室に溢れ返る女性達は、皆色とりどりのエプロンと三角巾に身を包み、漂う甘い香りの中真剣な面持ちで教室の前方にいる男性を見ている。キッチンの上には量り・泡立て器・計量カップといった道具類とココアパウダーに無塩バター、小麦粉、そして砂糖といった材料群。自炊癖がついているゆえに、そういうものへの審美眼が同年代の男性に比べて多少は身に付いている火村から見ても、申し分のないものばかりだ。
     そんなもの全てから、あからさまに自分は浮いている。平均身長一メートル六〇センチの世界に一メートル八十近い大男がいるだけでも目立つのに、それがこんなおっさんと来た日には絶望的だ。菜の花畑にでん、と何年も立ちんぼうを続けていい加減原型もとどめていない案山子があるようなものだ。先ほどからちらりちらりと感じる視線は、明らかに異種であるものへの興味と嫌悪から来るものに違いない。そもそもコミュニティというものは……。
     火村は忌々しげに少しだけ頭を降った。食材の前なので出来る限り遠慮がちにだ。この状況から逃れようと先ほどから心が勝手に思考をはじめるから困ってしまう。ここで社会学の基礎の基礎を思い出してもなんら建設的ではない。
    「そういうわけで、注意点さえ留意すれば、必ず美味しく焼けるケーキです。皆さんも肩の力を抜いて、楽しみながら作ってくださいー」
     壇上でこれでもかと笑顔を振り撒く、自分よりも少しだけ年上と思しき襟足まで髪を伸ばした細身の男は、なんでも雑誌に何度も取り上げられた名店お抱えの菓子職人ということだ。その彼が直々に教える洋菓子講座は毎回人気が高く、受講できるのはとても運がいいことらしい。
     しかし火村はその運を望んだことはない。寧ろ積極的にご遠慮願いたい。なのに何故いまここにいるのか。全く、想像するさえいまいましい。
     講師の指示に従ってシャカシャカと泡立て器を器用に使いながら、火村は改めて、自分をこの境遇に押しやった憎き男の顔を思い出していた。確かに学生時分から大変世話になっている。なんたって卒論の指導担当教授であり、学問の師匠といってもいい。しかしだ、火村が彼に頭が上がらないことをいいことに、こんな無理難題を押し付けることはないだろう。
     白くふんわりしてきたバターに砂糖と、そして卵を加えて混ぜる。次に粉類の準備をしているうちに、ふとあの時の恩師の声が蘇ってきた。
    「妻に手作りのものを、と申し込んだのだが急にいけなくなってね、代理を探していたんだよ」、なんてにこやかに言われても、火村には全く関係がないはずなのだ。しかし、畳み掛けるように「いやあ彼とは旧知の仲でね、メニュー、リクエストしたんだよね。やっぱ無理言ったもんだから顔出さないとまずいと思うんだよね。火村くん、確か料理とか出来ると聞いたんだけど」とにこやかに告げられ、更に廊下で話していたのが運の尽き、たまたま通り掛かったジェンダー論が専門の切れ者の女史が面白がって向こうの加勢に入ったあたりで、勝敗は決したも同然だったのだ。多分。
     用意された型は、丸い小さめのものが二つ。そこに均等に生地を流し込みながら火村はなお心の中で悪態をついていた。
     本当にばかげてる。なぜ、日頃の疲れを癒すために貴重な休暇を、このようなことに費やさなくてはいけないのか。
     考えれば考える程疲れるだけだと判っているのに、頭は思考を止めようとしない。更に先ほどから纏わりつく数々の視線も疲労感をさらに倍増させていた。異種のものに対する険のあるものに混じって、妙にねっとり絡みつくものもあるのは一体どういうことなのか。妙な見直され方をするのならいつまでもはじかれている方がましというものだ。
     百八十℃に温めたオーブンに突っ込んで三十分弱待てば、件のケーキは完成するらしい。お菓子作りは化学の実験に似ている。分量と行程さえ間違わなければ大抵は失敗しないあたりが。
     教室中に広がる、ココアパウダーの焼ける甘い香りに胸焼けを覚えながら椅子にへたり込んだ火村に、今度は教授と懇意とやらのパティシェがにこやかに近づいてきた。
    「いや、日置さんから聞いてましたが本当にお見事なお手並みで」
    「……日置教授が何を言われたか知りませんが、それ程のものではありません」
    「そうですか? なかなか筋がありますよ。この道に進んでもきっと成功したんじゃないですかね。それにしてもさすが日置さん」
    「さすが、とは?」
    「あれ、聞いてません? 普段はほら、お菓子教室なんて女性ばかりじゃないですか。でも実際甘いもの好きな男性の方はたくさんいますからね、その中の何割かは自分で作っても、って思ってると思うんですよ。でも来るのは女性ばかりだからと遠慮する。そんな垣根を外せないものですかねえ、と日置さんとお話していたら、だったら実績を作ってみればいいんじゃないですか、って。それでご協力願ったんですよ」
    「……」
    「いや、おかげでいい宣伝になると思うんです。火村さん写真写りも良さそうですし。いや、さすが日置さん」
     今からブードゥー教に入信したとして、彼らの秘儀である呪詛を会得するのに果たして何年掛かるだろうか。火村は一瞬本気でそのプランを検討した。
     それとも西陣の神社を参った方が早いのか。
     物騒な考えと全く相容れないであろう甘い食べ物は、そうして無事完成したのであった。
     
     ところで友達といえばどんな存在なのだろう。
     曰く、喜びは二倍、悲しみは半分。
     チョコレートの香りに塗れながらケーキ作りに勤しんだその週末、火村は夕陽丘にいた。
     右手にはわざわざ丁寧にラッピングまで施した手作りのチョコレートケーキを持って。
     悲しみが半分になるのなら、不幸をおすそ分けしても一向に構わないはずである。それこそジョリィと僕とで半分こ。
     今頃は出版社から転送されてきた様々なチョコレートを前に幸せを噛み締めているであろう作家先生に、さらに迷惑極まりないチョコを一個追加してその反応を楽しもうという、子供じみたウサ晴らしを実行すべく火村はやってきたのだ。
     その上で、自分の身に降りかかった理不尽な出来事をつまみに酒でも飲もうというのが、本日の計画である。
     我ながら本当に子供地味てるな、と思わず苦笑しながら通い慣れた家のベルを鳴らすと、しばし間を置いてから鍵が開く音がして、見慣れた顔が火村を出迎えた。
    「おう来たか。にしても、今日はどうしたんや」
    「友人がふらりと訊ねたら悪いのか」
    「いいや全然」、有栖は真剣な顔で何度も頭を振った。「まあはよ上がり」。
    「おうよ」
     部屋片付いておらんけど気にせんよな、といいながら居間へと入っていく友人の後に続けば、果たしてそこにはチョコがたっぷり入った小ぶりのダンボールが置かれていた。
    「もてもてだな」
    「俺やなくて江神がな。君こそどうせ今年こそ山盛りやろ」
    「ご期待に添えず残念だが、今年もそんなことはない」
     京都に住み着いてから、火村はバレンタインにそれほど縁がない。二月に入れば大学は休みに入っており、入試の日程によっては学生は立ち入り禁止。そして火村は大学以外の場所に所属したことがないのだ。わざわざチョコレートを届けに来る女性なんてそれこそ片手にも余るし、見るからに本気とわかる品を持参した女性は、時間を割いてまで大学に出向いたところで火村にきっぱりと受け取りを拒否されて終りだ。
     逆に大学を卒業後は社会に出て頑張っていた有栖は、毎年そこそこの数の義理チョコと、時々は本命チョコを貰っているのが常だった。しかしその割には彼女が出来ることもなく、本人曰く寂しい一人身が今日まで続いている。
     とりあえずコーヒーぐらいはいれてやると有栖が立ち上がったのを見計らって、火村はこっそりと持ってきた、白く柔らかい紙に包まれたギフトボックスを、ダンボールの中のチョコの山の上にさりげなく載せた。
     かくして爆弾は仕掛けられた。後は起爆するのを待つだけだ。最も有栖の事だ、火村が帰ってからやっとものが一つ増えていると気付く可能性も高いが。
     そしらぬ顔でソファに大人しく座りなおすと、標的である有栖が二人分のマグと牛乳パックを持って表れた。そして、
    「そうそうチョコ食べよ、火村も好きやろ? ……って」
     なるほど凍ったか。
     火村は内心ニヤリと笑った。我ながら性格が悪く子供っぽい仕打ちだなあ、と思いながらも、どこかで楽しくて仕方がない。
     しかし、そんな余裕も次の瞬間忽ちに消し飛んでしまった。
    「火村……」
     そう小さく呟きながら振り向いた顔は、複雑な感情をごちゃまぜにしていて、どこか硬直していたからだ。
     どうやらやりすぎてしまったらしい。
     冗談と取ってくれるだろう、どこかで思っていた火村だが、まさかこんな反応をするとは全くの予想外だった。と同時に心が少し痛むのを感じる。
     とりあえずさっさと種明かしをするのが得策だ。そして潔く謝罪して、プラン通りに不幸を種に飲み明かすのだ。
     火村は、十年来の親友からバレンタインに告白されかかっている、と思い込んでいるであろう有栖に、そっと声をかけた。
    「なあ、有栖。聞いてくれよ」
     日置教授の姦計で酷いことになったんだぜ。
     そう続くはずだった言葉はなぜか出てこなかった。
     有栖の顔がアップになったなあ、と思ったらそっと口を塞がれたからだ。
     ああ、キスされてるなあ、と判ったのはそれから五秒後ほど。優しく唇に触れてくるそれは思った以上にかさかさしていて、最近体調があまり良くないことを知らせている。また無茶な生活をしているに違いな……、
    「――――っ!」
     俺はなんでいきなりキスされてるんだ、とようやく人並みの反応を思い出した火村は、真っ白になりかけながらも「ちょっと待てアリス」と発言しようとして、
    「ちょ……っ」
     最初の一音を発音する前に更に深く貪られる結果となった。
     角度を変え、何度も口付けを繰り返されながら、そっと頭を撫でられる。
     元々性欲が薄いこともあり、本当に久しぶりの感触にちょっと流されそうになりながらも、火村はなんとか自我を取り戻そうと、必死に心を落ち着かせるべく努力した。
     そもそもなんでこんなことになっているんだ。あれか、有栖なりの仕返しとか。
     音もなく有栖の唇が離れたときには、火村の息は軽く上がっていた。酸素不足のため上気した顔で有栖のことを見れば、彼もまた微かに顔を赤くして、少し潤んだ目で火村を見つめている。そして、
    「ひむら……」
     突然耳元で名前を呼ばれ、火村は思わず身を竦めた。今まで長く付き合ってきたが、こんな声を出す男とは知らなかった。
     甘く優しく、そしてどこか暗く響くその声。
    その響きについ気を取られたのがスキとなったらしい。
    「……って、ちょっとアリス、なに――っ。まてっ……ぁ」
     自分の出した声に思わず驚愕した火村を見下ろして、有栖はきっぱりと告げた。
    「待てへん」

     深いところからゆっくりと浮かぶような穏やかな感覚に包まれて、火村は目を覚ました。
     と、同時に尋常じゃないだるさと全身に広がる筋肉痛に、思わずうめいてしまう。
     とりあえずは起き上がろうと試みたが、思うように身体は動いてはくれない。再び枕に沈み込みながら、火村はふと、なんでソファに枕なんてあるんだ、と動かない頭で考えた。見上げる天井も居間のそれとは違う。
     確か昨日は男からチョコを貰ってしまい戸惑う親友の態度を楽しもう、と大阪に足を運んで……。
     その次の瞬間、火村は思わず毛布を被り直してしまった。そりゃあんな体勢を取らされたら全身の筋肉も痛くなるに決まってる。しかもなまじ記憶力がいいおげで夕べの出来事を隅々まで思い出し、現実の出来事とは心底信じたくないが、自分があげた嬌声がまざまざと蘇るに至って、いまだけどこかの宗教に入信するから、神の力とやらで今すぐ記憶喪失になりたい、と切に願った。
     しかし普段の持論どおり神などいないのか、記憶が消える代わりに、寝室のドアが静かに開けられ有栖がそっと入ってきて、火村を穏やかに見下ろした。
     見下ろされている。それだけで羞恥の余り消えたくなってくる。
    「火村、起きたんか? 大丈夫?」
    「……大丈夫なわけないだろ」
    「まあ、そうやな。今朝飯作っとるからゆっくり寝とき? ああ、それから風呂入りたいなら言ってな、沸かすから。今日は無理せんでゆっくり休んでおくとええよ、な?」
    「……そうさせてもらう」
    「そうそう! それからな、火村。あの、君が持ってきてくれたケーキ、後で二人で食おうな! さっきコンビニで生クリーム買うて来たから、それ添えて。そんで有栖川家秘蔵の、うんと上手い珈琲入れたるから。な!」
     一昔前の少女マンガのように、それこそ背中に花でも背負っていると言わんばかりのオーラを漂わせながら、「じゃ、出来たら起こすから」と有栖はいそいそと部屋を出て行った。歩く足も心なしか羽があるかのように軽やかだ。
     それをベッドの中でぼんやりと見送りながら、あんな幸せそうな有栖を見るのは初めてだと火村はしみじみと思う。浮かれている、なんてもんじゃない。
     しかし、だ。
     火村は布団の中で、深くため息をついた。
     なにより納得がいかないのは、こんな状況になってるのに嫌悪感や怒りどころか、悪くない、いやそれ以上に甘い空気すら感じてしまっている自分自身だ。
     悪態をついても何かを呪っても、変わってしまったものは何一つ元には戻らない。そのことは良く判っている。
     終わりよければ全て良し。ふとそんな言葉が頭を掠めたが。
    「……冗談じゃねぇ」
     まだ全てを素直に認めたくない火村の耳に、「ご飯出来たけど、そっちで食べるかー?」と訊ねる有栖の声が優しく届いた。
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    2022/06/27 1:52:19

    スイートな悪魔、誘惑のバニラ

    #有栖川有栖 #作家編 #アリヒ
    手作りのケーキと甘いキミ。

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