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    しおり
    赤の王 黒の王 ネオンのやかましい灯りが照らす部屋の奥に、どろりとした闇がある。
     カーテンもブラインドもない剥き出しの窓は煤汚れていて、ピンク、青、黄色、と賑やかしく色をつけては落としていく。ただペンキを塗っただけの壁は、昔は白かったのかもしれないが、今は茶と灰を混ぜた不愉快な色の埃を纏っているだけだ。
     新緑の頃も過ぎて、昼間は汗ばむ陽気が続く時期になっても、まだ夜は肌寒い。ましてや、黴の青い匂いがツンと漂うこんな部屋では尚更だ。陽光が降り注いだこともない、狭いビルの一室は季節に関わらず温むことがない。蒸し暑い不愉快な空気が隙間から入り込むことがあっても、空気はいつまでも温まることはないだろう。
     どろりとした闇の中に、今は錆の匂いが混ざっている。
     時が経つにつれて濃厚になっていく錆の匂いは、黴や埃と混ざり合って、息をするごとに肺を朱く染めていった。
     吐く息に、皮膚の周りに、空気に舞った血の細かな粒子が混ざり合い、全てが昏く色付いていく。
     床下に倒れこんだ女の目は虚ろに見開いたままで、どこか出来損ないのマネキンを思い起こさせた。だらしなく開いた口からは嘔吐物らしきものと、どす黒い血が覗いている。醜悪なものが転じて美になるなんてことは滅多にないが、しかし目の前にある顔には、見る者を強く惹きつける力が存在していた。
     少なくとも、男にとっては。
     女が給料をはたいて買ったという、聞いたこともない欧州のブランドのタイトスカートから伸びる股のなまめかしさは、ベッドで散々見たどのような痴態よりも強い艶を纏って男の目に飛び込んでくる。一糸乱れぬブラウスから覗く首にはうっすらと残るあざ。自慢だったセミロングの髪はべったりと濡れて、みっともなく固まっていた。
     そして、全体に広がる、血、血、血。
     一部、凝固を始めている血の池には小波一つ起こらない。ただ、吐き気を催す、畏怖や嫌悪を呼び起こす錆びた鉄の匂いを撒き散らすだけだ。
     ビルの下の喧騒は一切聞こえない。
     音のない世界の中、ただ死だけが空間を満たすこの部屋は、男にとって完全なる世界だった。
     女のこめかみに一発、興奮のまま前頭部に二発。
     太陽が翳る寸前に女が倒れてから今まで、男は紫煙をたゆませながらただ死体を眺めていた。最初のデートで女がくれたジッポを、何度も手で弄びながら。
     女の体は不自然に強張り、かつて生きて話し、動いていたことを想像するのが困難なほどだ。
     ぽろり、と咥えていた煙草の灰が落ちる。
     それが合図だと、男は思った。
     手に入れたトカレフに入っていた弾は八発。三発は消費したが、それでも十分な数が残っている。
     不意にこみ上げてくる衝動を抑えきれず、男は低く嗤った。
     ――ようやく、終わるのだ。
     床に座ったまま目を閉じて、銃口をこめかみに当てる。
     引き金に指をかけると、心は自然と凪いだ。
     これで全てが終わる。
     ――ただ一つ、終りだけが欲しかった。
     かつてないほどに安らいだ気持ちのまま、躊躇いなく男は引き金を引いた。
     
     
     
     
     
     
     
     
     どこからか、鳩が一斉に羽ばたく音が、聞こえた気がした。
     
     
     初夏のどこか攻撃的な日差しが、埃をきらきらと輝かせている。
     高く採られた窓から差し込む光は、見たこともない天国を思わせる穏やかさを同時に内包していた。
     下のほうからは、眠気を誘うような低い声が聞こえてくる。その主は八割が白くなった髪を時折無造作に掻き揚げながら、聴衆の殆どが自分に耳を傾けていないことなどお構いなしに、ただ淡々と発言を続けている。
     ――ここはどこだ。
     いつのまに伏せていた顔を上げ、ぼんやりと周りを見渡しながら軽い混乱に陥っていく。
     安らぎと静かな活気が満ちるこの空間は、自分に最もそぐわないものだ。
     今まで属していた場所は閉鎖的でうらぶれた、惨めという単語が相応しいところで、こんな広々とした平穏な場所ではない。
     長い夢に足を踏み入れたように、自分が薄い膜で覆われている感覚がする。
     しかし、夢と言い切るには余りにも現実味があり(得てして夢を見ている間はそのような感覚に包まれているものだとしてもだ)、結果何度か頭を振って、意識をはっきりさせる必要があった。
     そして、そっとこめかみを押さえる。
     触ったところからは濡れた感触が伝わってきたことで、心はすぅ、と安らいだ。それが今までの現実とここが地続きであることの証明のように感じられたからだ。恐らくはシナプスがしぶとく放出され、脳に最期の像を結んでいるのだろう。
     間もなくこの空間が掻き消えるという安堵からこめかみに置いた手を机に戻したとき、ふと手の甲に冷たいものが触れる。反射的に目をやり、そしてそのまま凍りついた。
     ミネラルウォーターが詰ったペットボトルは部屋の温度により汗をかき、光を小さくいくつにも乱反射させている。もう一度こめかみに、そしてその周りに指を当てると、髪から頬の上辺りまでうっすらと水で濡れているのがわかった。顔を伏せているときに、ペットボトルの結露がそのあたりをしっとりと濡らしたのだと、知れた。
     ――ここは、どこだ。
     そもそも自分がなぜこの場に座っているかも理解できず、しかもこの世界は霧散することもなさそうだ、と本能が告げたとき、ついに頭が混乱をきたした。とりあえず少しでも情報を得ようと顔をぐるりと廻らせて、すぐ脇へと視線を動かしたその時、飛び込んできた名前に思わず目を見開いた。
     自分が凝視されていることに気付かないのか、横の男は、自分が先程殺した女の名前を記したその紙を、既に置いてあった百枚程度の束の上に重ねる。恐らくはなにも見えていないのだ。自らが紡いでいるもの以外には。
     なにかを確かめるように、のろのろとその束の一番下から一枚目と思われる原稿用紙を引っ張り出し、男は目を通し始めた。
     
     バスを降り、ふらふらと知らない道を行く。
     いや、知らない、と訴えているのはただ理性のみで、体も、記憶もこの道を熟知していた。何個目かの角を曲がり、古くも上品な家が並ぶ住宅街を歩く。北白川は京都の中でも屋敷町として知られ、広い家とゆったりとした前庭の緑がゆったりとした佇まいをかもし出している。遠くから聞こえるのは人の暮らしが生むありふれた喧騒。
     吹く風は心地よく肌に触れ、シャツに戯れて去っていく。やがて自分の住まいが見えてくると、軒先で水撒きをしていた老婦人がこちらを見て優しく微笑んだ。二藍の着物と相俟って、上品な笑い顔は陽光に相応しい。
    「お帰りなさい、火村さん」
    「……ああ、只今帰りました」
     殆ど機械的に頭を下げ、足早に自分の部屋へと戻る。
     ひどい吐き気がした。
     古びた畳の、陽が届いていないあたりに座り、意識的に深く息をしても気分の悪さは去らず、世界は相変わらず混沌としたままだ。
     すべての記憶はある。口八丁で連れ込んだ大塚の見捨てられたような雑居ビルで、付き合っていた女の首をおもむろに絞め、何事か理解できずに咳き込む頭にトカレフを向け、彼女が己の身に降りかかりつつある出来事に目を丸くしてこちらを見ようとすると同時に引き金を引いた。瞬時に広がる苦い焦げた火薬の匂いと、空気中に飛び散る血。朱に染まる風景と倒れていく女のコントラストはどんな芸術よりも美しい。
     二十七年と僅かの生の中で、初めて心から嗤える気すらした。
     しかし、一方で火村英生は十八で親元を離れ独り京都に移り住み、現在は古びた下宿で学問に勤しんでおり、先日二十歳になったばかりだという。
     記憶がそう火村に囁くのだ。
     確かに京都の大学には願書を出した。家から出るためにと関東の大学を故意に避け、国立も北海道か東北かを希望したのだ。
     だがそれは叶わなかったはずだ。結局最期の瞬間まで、自分は逃れられなかったのだ。
     その記憶の一方で、この部屋から大学に通った一年の記憶も鮮やかに蘇ってくる。間違いなく現実だと脳は認識している。
     どちらも間違った記憶ではないと。
     激しい吐き気に襲われ、火村は重い体を動かし、なんとか流しまで移動した。後始末が大変だが、便所まで行く気力はない。
     げぇぇぇ……、と盛大に喉からせり上がってくるものを出すと、半ば消化されたカレーが出てきた。茶色くどろどろしたものが発するその匂いに記憶が刺激され、また吐き気が催される。
     自分は最期を手に入れたのではなかったのか。
     蛇口に歪んで映る自分の顔はまだ幼さを残した二十歳の男のそれで、ますます精神を蝕まれる。じわじわと現実に浸蝕されていく感覚から逃れるために、火村はさらに口を開いた。
    「……君、大丈夫か?」
     本当に、急に降って来た声だった。身を凍らせるより早く背中に手が置かれ、そのまま優しくさすられる。再びまとまった量を吐くと、す……、と胃が楽になるのを感じた。
     自分の後ろにいるのは、先程知り合った男だろう。柔らかい当たりの声が気遣わしげにもう一度発せられる。
    「そんなに気分悪かったら、カレーなんぞ食わなきゃええのに。……でもだいぶ戻せたようやな。楽になったか?」
     問い掛けられるままに頷くと、男は微笑んで「よし」といった。そして突如思い出したように慌てて、
    「あ、そうや、お邪魔してます。勝手に上がってすまんかった。でも、中から吐く音がしたからやばい思うて。……やっぱ怒っとるか?」
     おずおずと聞いてくる顔が余りにも情けなく映ったからだろうか、火村はふと力が抜けたような心持ちになった。ひどくぼやけていた世界にピントが合って、息が楽に出来ている。
    「いや、怒ってはいない。寧ろ礼を言うべきだな。……それにしてもよく家がわかったな、――えっと、有栖川?」
     そう言うと、有栖川はぱっと笑顔を浮かべた。
    「あ、名前覚えててくれたんか?」
    「忘れる方が難しいと思うが」
    「あ、やっぱりそう思うか。俺もな、我ながらインパクトだけはある本名やと思うで。そうそう、それでここはすぐに判った。社会学部の火村、だけで情報が集まって来たからな。君学内で有名人やな」
    「そうなのか」
    「そうや」
     有栖川はそういってにこりと笑った。
    「おかげでこうして忘れ物を届けられた、っつうわけや。これ、君のやろ?」
     そういって差し出されたジッポを見て火村はまた凍りつく。弾が頭に命中したときに飛び散った脳髄の一部が付着していたはずのそれは、新品同様に鈍く光っている。
     部屋の薄暗い場所では引き攣った顔もさほど目立たないのだろう。有栖川は気にもせず話を続けた。
    「本当は次会うまで預かっておけばええと思ったんやけど、君学部違うし、相続法も聴講やっていうことは来週も来るとは限らん。するといつ会えるかわからんな、って思ったら、じゃあすぐ渡したほうがええな、って。しかしけっこう上物なんちゃうか、それ。俺煙草あんまり吸わんからよう判らんのやけど。やっぱ彼女から?」
    「ああ……」
     のろのろとライターを手に取りながらおざなりに返事をする。彼女から、確かにそのとおりだ。
     が、すぐに呆然としながら火村は呟くように告げた。
    「……いや、高校のときの悪友が餞別に、ってくれたんだ、確か」
    「確か? 曖昧な記憶やな。にしても未成年同士ろくでもないなあ」
     曖昧もなにも、突然思い起こされた記憶だったのだ。はにかみながら包装された箱を渡している女の映像と同時に、二度と会わないだろうけど、とこれを投げてよこした男の顔が浮かんでくる。
    「……鍋島、っていうやつだったんだけど、そいつ自体は酒も煙草も二十歳から、と四角く生きてるやつだった」
     言うほどにはっきりしてくる記憶の確かさに、再び眩暈が襲ってくる。
    「……火村、君、唇青いで? そんなに気分悪いのか」
    「いや、大丈夫だ」
     その声は自分でもわかるほど震えていて、大丈夫には程遠いとどこか冷静に自嘲する。
     ここはどこか。
     そして、自分は誰なのか。
     全ての境界が曖昧になり、自分が溶け出すような、そんな心持になってくる。ぐらぐらと世界は回っていた。
    「どこがや」
     やはり有栖川も同様に感じたらしい。「えっと、布団はいちいち上げとるみたいやな。男なのにマメな奴。まあええわ、とりあえず横になり」
     言いながらてきぱきと座布団を折って火村を横にならせ、さらには初訪問した人の家だというのに勝手に台所に立って水まで汲んでくる。
    「飲めるか?」
    「……ああ」
    「なら飲め。だいぶ落ち着くと思う」
     軽く身を起こし、塩素臭い水道水を何口か含む。その様子を見ていた有栖川はほっとした表情を見せて、コップをちゃぶ台の上にのせた。
    「なんかすまんな、具合が悪いときに押しかけて。しかも今日が初対面なのに」
    「いや、気にするな。それに……、縁でもあるんだろうさ」
     壁の方を見つめたまま、火村は言った。
     根拠もなく、つるりと出た言葉だったのだが、
    「そうなんかな。いや、きっとそうやな」
     と返答する有栖川の声はどこか嬉しそうで、火村はつい視線を上にあげた。
     自分を見下ろしている有栖川の目は輝いていて、火村と目が合うとその目によく合う笑みを浮かべて、
    「だったら友人になれるな、君と俺は」
    「……友人になりたいのか?」
    「なりたい、というか興味がある。それを縁というんなら、そのうち太くもなるんちゃうかな」
    「さてね」。火村は皮肉げに笑った。「その手のことはなりゆきに任せることにしてあるんだ」
    「なかなかにシビアな人生観やな」
    「そうか?」
    「んー、そうでもないかも」
     首を少しだけかしげながら返されたものだから、火村はつい笑ってしまった。
    「なんでそんな自信なさげなんだよ」
    「いや、なんでって言われても」
    「ヘンなやつだな」
    「誉め言葉として受け取っておくわ」
     有栖川はそう笑うと、徐に火村の肩に手を置いた。
     そっと、壊れやすい細工を包むごとく柔らかさで。
    「……なんだ?」
     訝しい気持ちを隠すことなく問い掛けると、穏やかに有栖川は口を開いた。
    「君……、きっと悪い夢でも見たんやな」
    「……ゆめ?」
    「そう、悪い夢」
     くらり、と意識が回った。
     違う。
     違う、あれは夢ではない、と火村が口にする前に、有栖川は静かに微笑んで言葉を重ねる。
    「目を閉じて、目を開けて、それで見えたものが現実や。だから今は休み。俺は帰るから、そうしたらゆっくりと寝るとええ」
     そっと髪を撫でられると、風が心を吹きぬけたかのように、なぜか安らいだ気持ちになってくる。
     夢、ゆめだというのか。
    「……寝て、目が醒めて、ここでなかったら?」
    「なら今が夢のなか、ってことやろ。どっちにしても夢なら醒める」
    「随分と哲学的な問いかけだな」
     有栖川は穏やかなまま、
    「ただの戯言や。……君、来週もあの講義来るか?」
    「……わかんねえよ。この夢も醒めるかもしれないしな」
    「なら醒めなかったら、来いへん? そいで良かったら、続き、読んでくれると嬉しい」
    「続き、か……」
     有栖川が書いていた小説は、男が適当な雑居ビルに入るところで途絶えていた。そのあと後ろから好奇心と下心からついてきた女の首を渾身の力で締め上げるはずだ。
     これは倒叙って形式で書いとるんや、と昼休みに告げられたことを火村は思い出した。
    「なあ、……続きはどうなるんだ?」
    「だから、それを来週に見せる。構想は全部ここに入っとるしな」
     頭を指で二、三度叩きながら有栖川は立ち上がった。
    「すまん、邪魔したな。ほんまゆっくり休め。そして……、夢は夢としてその領分に収めとき」
     ――悪い夢、やったんやから。
     そう呟いて、火村が犯した殺人を物語として綴っていた男は、そっと部屋から出て行った。
     その姿を見送りながら火村は、そっと目を閉じる。夢だというなら醒めることを願いながら。
     そして、そっと目を開けた。
     
     
     京都は盆地という地理的条件上暑いイメージが付きまとうが、平野に位置する東京も十分に暑い。コンクリートとアスファルトに囲まれた街には熱気が溜まり、纏わりつくような熱を常に放射している。
     九年もかの地に住んでいるからか、酷暑とまで言われる京都の夏よりも東京の方がよほど体に応えると火村は常々思う。
     博士論文の執筆に必要な資料を借り受けるため出てきた連休明けの東京はどこか刺々しい感じがした。
    「あちぃ……」
     行儀悪くシャツのボタンを外しながら、火村は池袋の町を足早に歩いた。立教の次は、お茶の水にも行かなくてはならない。気力と根性と時間さえ十分にあれば歩いていけない距離ではなかったが、やはり大人しく地下鉄を使うのが吉だろう。
     赤信号で止まったとき、ふと空を見上げる。薄雲がところどころに散らばる青空はすこんと抜けていて、どこまでも続いているような錯覚を覚える。こんな日は、営業の途中で缶コーヒーを一気飲みするのがなによりの贅沢だと言った友人の顔を思い出し、火村はふと微笑ましい気持ちになった。
     有栖とは本当に不思議な縁であったと思う。
     もう一つの人生を歩んでいたはずの自分の記憶――とくに最期の日の出来事――は今でも頻繁に、そして鮮やかにフラッシュバックしてくる。手触りも匂いも伴うそれにより混乱するたびに、彼はなによりもその存在によって優しく、こここそが現実だと火村に教えてくれた。
     初めて会った日、目を開けて見えた世界が現実だと呪文のように言われたことで火村の中は安定し、今こうして歩いていられる。
     確かに夢だったのかもしれない。思春期の頃に抱えてしまったトラウマとうつらうつらとした意識が、有栖の書いていた小説によって形を得てしまい、強烈な力で自分を浸蝕しただけだと考えれば、雑ではあるが全てに片がつく話なのだ。
     そんな不安定な自分を知り合ったばかりだというのに支えてくれた彼に対して、火村は心からの信頼と愛情を寄せている。ただ、一生口には出さないが。
     その知り合うきっかけとなった小説の結末を、結局火村は読んでいない。次の週、やはりカレーを食しながら有栖は「すまん、締め切り先週末消印やった……」と申し訳なさそうに告げてきたのだ。しかし火村はそれで良かったと思う。ここが現実ならば、他の現実はいらないのだから。
     営業マンである友人は、時期を同じくして東京本社に出張となっている。せっかくだからと互いの予定をあわせ、有栖の仕事が終わったあとに有楽町で待ち合わせて、食事をすることになっていた。
     今頃は会議の最中か、或いは缶コーヒー一杯分の贅沢を味わっているのかもしれない。
     駅についたら自分も飲もうか、と思いながら見えてきた地下鉄の入り口へと急ぐ。なんでも研究室の主任は海外に出かけているとかで、今週中に顔を出せば必要なものが助手から手渡される手筈になっている。研究者に会えるわけでもなく、明日までに行って本を一冊借り受けるだけだというなら、面倒な用はさっさと済ますに限るだろう。
     しかし、構内から階段を上がってくる人の数が多い印象を受けたときに、嫌な予感はしていたのだ。
    『……駅で発生しました火災によりまして、只今、全線不通となっております。JRおよび私鉄各線において振替輸送を……』
     駅員独特の言い回しで響く構内放送に、火村ははしたなくも盛大に舌打ちをした。この分では復旧には時間がかかることだろう。
     逡巡は一瞬、火村は迷いもなく元来た階段を上がり始めた。東京に来る前にざっと見た地図によれば、池袋からは春日通りを行けばたどり着くはずだ。……確か。
     歩いたことのない街を行くのは若干の不安があるが、幸い方角の把握にはある程度の自信がある。それにお茶の水大を出る頃にはさすがに電車も動いていることだろう。日頃の運動不足の解消にもなるしな、と心の中で呟きながら、火村は標識を頼りに春日通りを目指した。

     大通りは排気ガスに塗れお世辞にも心地よいとは言えないが、傾き始めた太陽の下街を行くのは案外に楽しいものだ。
     有栖ならこれも取材だときょろきょろしながら歩くだろうな、と火村は考え、容易にその姿を想像出来たものだから、思わずにやついてしまった。時折吹く風の手触りも気持ちよい。
     絵に描いたような、穏やかな晩春の午後だった。
     ついそぞろ歩きのような気分になったのがいけなかったのかもしれない。
     そして、自分の方向感覚に対して過大な信頼を置いていたことも。
     喉の渇きを覚え、親友の顔を思い出しながら、自動販売機を探そうと一本道を入ったのが運の尽きというべきか。暫く歩いてやっとありついたコーヒーを一口味わい、ほっと一息ついたあたりで周りを見渡して、火村は思わず固まった。
     少し先に見える、けばけばしく品性の欠片もない看板の数々は、そこが風俗街である証だ。どこか薄暗いくせに開けっぴろげな印象もある街角を見て、火村はついため息をついてしまった。護国寺方面に向かわなければならないのに、どうやらそうとうに大塚よりに来てしまったらしい。思えば大学に上がる前、東京に住んでいたときも池袋近辺には来た事はないのだ。初めての土地、ということを相当に甘く見ていた自分につい呆れてしまった。
     さっさと春日通りに戻らないとな、と思いながらも、意味もなく先をひょいと覗いてみる。最初に目に入った看板は「ニャンニャン倶楽部」という典型的な名がついていて、店一番の売れっ子なのだろう、胸だけがやたら発育した女性が媚びた目つきで写真に写っている。
     その先にある「艶姿ナミダ娘。」には何度か行ったことがあった。あそこの女性はどのような教育の賜物か、全員舌使いが巧みで、スペシャルサービスも好意で付けてくれたりするのだ。そんなことをしてくれるのは大抵は新人の女の子なのだが。
     そして一つ先を曲がれば――。
     殆ど消費されないまま手から滑り落ちたコーヒーは道に広がり、茶に濁った水溜りを作ったが、そのことを誰も気に留めない。当の火村でさえも。
     なにかに急かされるように、歓楽街へと火村は歩き出す。
     頭の中では銅鑼が鳴り響き、冷や汗がじっとりと背中を濡らしていくのが感じられた。
     途中からは大して行きもしなかった大学を中退し、本能の真ん中、巣食い続ける闇の声に忠実に行動していたころ、この辺りの風俗店によく通った。その中でも、一軒のファッションヘルスで知り合った、学費を稼いで専門学校に行きたいのだと卑猥な感じすらする真っ赤なルージュがひかれたその口で告げた女性とは特に懇意にしていた。性格や外見も好みであったが、その口で己を含まれるやわやわとした感覚が気に入っていたからで、やがて店の外でも会うようになると、安全日だからと生で何度も交わったりすることもあった。
     夢だったはずだ。
     自分の中の拭い様もないものが作り出した夢のはずだと。
     早い時間から客引きをしている男たちの間をすり抜けて道を曲がると、見捨てられたような雑居ビルが不意に姿を表す。
     横にはイメクラのけばけばしいネオンがピンク、青、黄色、と賑やかしく色を瞬かせている。上のほうに熟れきった太陽の禍々しい光が差し、ビルを朱に染めていた。
     二階にだけ入居している形跡があり、五階には「入居者募集中」と書かれた張り紙が色褪せて朽ちている。
     そして一番上の部屋の壁はかつて白かったはずだ。
     不意に嗤いが込み上げてきた。
     これが夢ならばいつか醒める、そう言ったのは誰だったか。
     躊躇いもせず、火村はビルへと足を向けた。あの時、店ではなくあそこでしゃぶって欲しいと女に耳打ちすると、やらしい笑みで了承の意を伝えて来た。確か、このぐらいの時間に。
     広がる血溜まり。
     フレアスカートから覗く股。
     濁る瞳。
     床に散る白い脳髄。
     温度の消えた躰の白さ。
     最上階にあるであろうそれを見てどうするのか、と何かが囁く。
     すべてが始まり、終わった場所に行き。
     ――ただ、夢から醒めるのだ。
     長く穏やかだった時間はここで無に還り、漸く、この夢が終わる。
     昏い歓喜にすら酔いながらビルの入り口へと入っていったとき、不意に強く体をつかまれた。
    「――!」
     驚く間もなくそのままエレベーターに押し込まれ、壁に体を押し付けられる。
     そのまま重ねられた唇を、火村は呆然として受け止めた。
     ぼろいエレベーターはゆっくりと上昇を開始する。眩暈がするほど長い間をかけて登っていき、やがて無粋な音を立ててがらんとした空間に扉を開けた。
     隣のネオンに照らされる部屋は黴と埃だけが場を占めている。他にはなにも、ない。
    「――気が済んだか」
     耳に馴染む柔らかい関西訛りの声が、咎めるように火村に聞いてくる。
    「……、なん、で……」
    「君はさながらハンプティ・ダンプティやな。わざわざ壊れようとすることもないやろ」
     暗い光を携えて、有栖は火村に詰め寄る。その口調は残酷なまでに淡々としていて、この場に相応しいとも、そぐわないとも思った。
    「そうじゃない、なんでここに……」
    「ええか、火村」
     名を呼ばれ、きっと目を見られる。激しい感情を剥き出しにしたその瞳に、火村はすべての言葉を失った。
    「君が俺を捕まえたように、俺は君を捕らえたんや。今更引き返そうとしても遅い」
    「アリス」
    「君は俺のものやろ」
     無表情で告げられたあと、すぐにまた唇を塞がれる。貪るような口付けは火村から思考能力を奪っていく。いつしか互いに息もつけぬ程に舌を絡めあい、そしてそっと顔を離した。つ、と唾液が糸をひくのが妙にはっきりと見えた。
     雫が落ちそうな太陽は急速にその力を失っていく。死に行く光りに照らされた有栖の顔はグロテスクなほどの色気があり、火村の中にある凶暴的な恋情を刺激する。
    「……なんでここに」
     三度目の問を発すると、東京本社で会議に出席していたはずの、黒橡のスーツに身を包んだ男は、ふと口元だけで笑って告げた。
    「……自分の書いたもんの結末やからな」
    「じゃあ……、あの続きはどうなるんだ」
    「ご覧のとおりや。男は望みながらも罪を犯せず、代わりに互いに本当に欲しいものを手に入れ、それを二度と離さへん」
     悪くない終りやろ、と小さく笑いながら有栖は火村を抱きしめた。
    「だから、ここにおり」
     太陽はついに崩れ落ち、世界は急速に色を無くしていく。やかましいネオンに照らされながら二人は暫く抱き合っていたが、やがて火村がぽつりと呟いた。
    「……そんな話じゃ、そりゃ一次選考も通らねえだろうよ」
    「言ってくれるな。……確かにそうやったけど、でも今度のは違う。手応えがあったからな」
    「この前のも手応えがあったんだよな、確か」
    「くっ、古傷をえぐるようなこと……」
     少しだけ体を離すと、意図せずして目と目が合う。
     どちらともなく漏れた笑いは狭い部屋に反響し、互いの声に包まれながら二人はしばしただ笑っていた。
    「……帰ろう、火村」
     やがて静かに有栖は火村に手を差し伸べた。
    「帰ろう」
    「……ああ」
     その手を取ると、二人でまた壊れかけの、すいた匂いがするエレベーターに乗り込む。火村は今いる階の表示をなぜか見ないでいようと思った。
     見ないほうがいいのだ、多分。自分のために。なによりも彼のために。
     のろのろと動き始めたエレベーターの、落ちて行く感覚に包まれていると、有栖が小さな声で「あのな……」と切り出す。
    「なんだ」
    「明日休みだし、君と夕飯取ったらその足で日帰りで帰ろうと思っとったから、宿取ってないんや。……君がよければ、君は」
    「俺もまだ取ってないし、行き損ねたお茶の水に明日行かなきゃいけねえんだ。だから……」わざと言葉を切って、意味ありげに有栖の顔をのぞきんで続けた。「池袋プリンスあたりにでもするか?」
    「それはまた大きく出たな、未来の学者センセ」
    「なに、初めこそ肝心さ、未来の作家センセイ」
     エレベーターが開いた先には、活気付いてきた歓楽街があり、呼び込みがしきりに通る男たちに声をかけている。腐敗臭をかすかに纏った空気、騒がしいでは済まないほどの喧騒。その全てこそが現実であった。
     もう、この街に来ることはないだろう。
     にしても腹減ったなー、と呑気に呟きながら先に行く有栖の後を追いながら火村は思う。先程まで強烈なまでにひきめき合っていた記憶は忽ちに輪郭をぼやかし、夢は夢のなかへと帰っていったかのようだ。
     
     ターン……
     
    「どうした?」
     急に止まった火村に気付き、有栖が訝しげに声をかけてくる。
    「アリス、お前聞こえなかったのか?」
    「なにが? 呼び込みにでも呼ばれたか?」
     間違いなく、かすかに聞こえた音を追って振り向いた火村は、やがて頭を振って有栖に「いや、名前を呼ばれた気がしたんだけど、気のせいだろうな」と笑顔で告げた。
     自分はなにも聞かなかった。そして、なににも気付かなかった、と心で呟いて、また歩き出す。
     その頭上を、巣へ急ぐ鳩の群れが音を立てながら通り過ぎていった。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/06/30 17:05:41

    赤の王 黒の王

    #有栖川有栖 #作家編
    出来上がる直前。ややへんてこな話です、また血の描写あり。お気をつけください。 うつし世は夢、君の現実は僕。

    more...
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