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    交霊会 ドレイクの捻ったビートが頭を殴るように鳴り響き、照明はムーディーを通り越してはっきり言ってただ暗い。メニューを見るのもテーブルに置いてある蝋燭頼み。
     古都京都に全くもって相応しくない、恐ろしく癖が強い店だと思う。しかし、ここのムール貝の酒蒸しは恐らく日本で五本の指に入る。世界貝の酒蒸しコンテストに出しても、入賞は間違いなしだ。ここに来るのは大抵が学生やまだ若い社会人達で、彼らはビール壜を片手に軽くリズムに乗りながら、陽気に一日のウサを発散している。アルコール、低音が効きすぎたダンスナンバー、見知らぬものの中。
     すべて、人を癒す道具になる。
     私が二本目のトラビストを消費しきったとき、踊る影の中から、ようやっと待ち人達が現れた。一人は昔から馬が合う顔なじみの、私にとっては姉御としかいいようのない女性で、もう一人は彼女の弟分だという同業者だ。前から彼のエッセイや作品などを愛読していた私は、友人の友人だという縁故を利用し、今日アポイントを取っていたのだ。
     私は、近付いてくる彼女たちに手を上げながら、その男のどこかおどおどとした顔を観察した。白地に細いストライプのシャツが良く似合う、平凡ながら人好きする顔立ちだ。お人良しなのか流されやすいのか、とても受身な雰囲気がある。しかし表情のどこかに、なにかに対する拒絶みたいなものが見え隠れしているのがとても興味深いと感じた。そして、今時芸能人でもないと着ない形の白のジャケットを着ているのが特徴といえば特徴かもしれない。
    「あ、遅れてごめんな。この子ったら家に連絡取ってもいないくせに、携帯に電話したらまだパソコンの前でうんうんいうとるって言うんやもん。締め切り前か、って聞いたら正式の仕事やないんですが、っていうから無理に剥がして来てん」
    「そりゃ正規のルートには乗らんかもしれませんが、でも仕事熱心の何が悪いんですか。俺には小説書くしかないんですから、誉められこそすれ揶揄される覚えはないですわ」
    「ほらな、そんな詰んない男は一生もてんで」
    「もてんでも結構です。さすがに結婚は諦めました」
    「あ、あの」
     私はそっと発言を求めた。来た途端に紹介もされずにどつき漫才をやられたのでは、コミュニケーションもへったくれもない。大体、吉本新喜劇の客じゃないのだし。
    「あ、ごめんね麻奈ちゃん。こちらが会いたがっていました有栖川有栖。稀に見る珍名さんや。で、アリス、こちら久元麻奈さん。東京で劇の本を書いてるんよ」
    「へぇ、劇作家さんですか」。有栖川は心底感心したようにそう言う。まあ銀行員とも保険のセールスレディとも評される外見と自由業という職のギャップは、確かに大きいかもしれない。彼は私に手を差し出して、「ご紹介に預かりました、有栖川です。しがないやもめですが、よろしくお願いします」
    「いえ、私こそよろしくお願いします。久元です」。返しながら手を握り返す。男の手にしては華奢な感触だった。
    「今日はまたなんで関西に」
    「ここのムール貝が恋しくなるんです。ついでに大阪でやる舞台の打ち合わせに」
    「彼女、最近売れっ子なんよ」
     朝井がそう持ち上げてくれた。
    「売れっ子なんてそんな」
    「そろそろドラマ、オンエアされるんちゃう? この前書いてたっていう『少女カリスマ』やっけ?」
    「ええ、確か今週末に。でもそれは脚色ですから。今は別のものを書いてます」
    「またドラマ?」
    「はい。今度は完全オリジナルで、とのことなので、得意の分野で進めてるんです。ちょっとミステリ、っていうかそんなタッチで」
    「得意の分野っていうと、なんかあるんですか?」
     有栖川がそう聞いてきた。
    「ええ、なんていうのかな、メタ?」
    「メタ?」
    「そうなんよ、私なんて何回出演したことか」
     朝井がそう言って、しょうもないなあ、と言う風に笑った。判りにくいだろうな、と、私は有栖川に説明をする。
    「えっとですね、登場人物は全員現実にいる方の名前なんです」
    「現実?」
    「そうです、そして私が必ず出て、これが舞台の場合、あと登場人物は有栖川さんと朝井さん。……そうそう、とりあえず出演、っていっても名前だけですが。大丈夫ですよね、そういうの」
    「な、なんとも悪趣味やろ? こんな顔してようやるわ、ってなあ」
    「皆さんの許可は取ってるんですよ、書きあがった後、本もちゃんと送って確認して貰ってます」
    「あの、なんでそんなややこしいことを?」
     有栖川の疑問はもっともだろう。
    「いえ、面白いからです」
    「面白い」
     本当にそうなのだから、しょうがない。劇と現実の間の壁がいかに曖昧なものか、それを一番端的に表せる方法だと私は思っているのだ。そのあやふやさを提示したときの客の顔が、面白い。
     有栖川はそんな私の真意をそこそこ汲み取ったようで、「ああ、なるほど」と頷いた。
    「アリス、あんた本当にわかったん?」
    「ええ、大体は」
    「また、かわいい子の前やからって、格好つけとるんちゃう?」
    「それもあるかもしれませんね」
     彼は朗らかに笑った。そうすると他人との壁みたいなものが低くなり、途端にとっつきやすい印象になる。どちらが地なのかは判らないが。
     どちらにしても、私はこの大阪の作家に良い印象を抱いた。複雑な内面をシンプルに整理している人間。そういう人は面白いのだ。逆に、判りやすい内面が複雑に露出している人というのも面白い。どちらも、劇のなかで一種のジョーカーとなってくれる。
     頼んだ三杯目のトラビストを受け取りながら、私はまた漫才をはじめた二人に「しかし仲がよろしいんですね」と声を掛けた。
    「まあな、この子根っからの大阪人やから、こうウマが合うっつうか。友達として最適やね。なんたって苛め甲斐がある」
    「なんですか、苛め甲斐って」
    「文字通り。からかい甲斐と言い換えてもええで」
    「別に類語辞典的発展を望んではいませんよ」
    「私も歩く広辞苑になった覚えはないわ」
    「朝井さん、今のはあまり上手い切り替えしとはいえませんね」
     私が勝手にジャッジすると、朝井は口をへの字に曲げて、
    「東京もんにはこのセンスが判らんのやな」
     と負け惜しみを言った。
    「まあ、俺のも相当に無理でしたからね。……ところで久元さん」
    「はい?」
    「純粋な興味からなんですが、なんでそんなあやふや、っていうかある意味綱渡り的な作風になったんです?」
    「気になります?」
    「ええ」
     店員が持ってきたアビィエールを口にしながら有栖川は頷いた。朝井はお気に入りのブラウンエールを実に美味しそうに味わっている。
    「そうですね、多分癖、っていうか慣れ、ですね。日記から書き物を始めたんですが、そのときから私が出てくるんですよ」
    「小説みたいな日記ですか」
    「ええ。ほら、昔の文豪って日記なのか私小説なのかホラ話なのか分からないものを書いてたりするじゃないですか。だからそういうものだって思い込んでたんです。それで、日記も『不意に立ち止まって私がそういうと、高岡は笑って去っていったのだった』って感じで」
    「それもなんか面白い癖ですね」
    「自分でもそう思います」
     しみじみというと、失礼、と断られながら小さく笑われた。
    「でも、確かに読み返して小説に見える日記っていうのも、特徴あるわな。いいやん、二度楽しめて」
     つまみのカシューナッツをつまみながら朝井。
    「いいんですかね」
    「いや、面白いです。参考になりますわ」
    「なんの参考にするん?」
     朝井が、有栖川の方に首を傾げて聞いた。
    「いやね、今度の原稿。正規のルートに乗らんし冒険しようかと思ってて、俺が出るメタとか考えておったんです」
    「あんたがメタ? 向いとらんちゃう?」
    「そうですか? 探偵が最後まで事件を解決しない朝井さんに言われると説得力ありますね」
    「せやろ、って終いにはしばくで」
    「勿論冗談ですってば。話を戻して、自分が出て、俺やない第三者の一人称で、っていうのを書いてるんですが、これが結構難しいもんで。新鮮ではありますけどね。もう一本タクシーの話と迷ってはいるんですが」
     ちょっと久元さんのものに似てると思ったんですよ、と有栖川は言う。聞く限りでは輪郭は似ているかもしれない。
    「しかし、なんでそんなややこしいもん書いとるんや」
     朝井が聞くと、有栖川はあー、となにか誤魔化そうとするように頬を掻きながらあちこちに視線を彷徨わせていたが、やがて渋々と答えた。
    「ほら、ブラック書院の大柳さん、いはるでしょ」
    「……あー、あれ? あんた引き受けたん?」
    「どうしても逃げ切れん、っていうか止むに止まれぬもんなんですよ」
     朝井の切れかかった口調に、俺もいやなんですよ、と、続けた有栖川もまたかなりたじろいでいるようだ。私も聞いていて少し引いてしまう。それほど怒る内容なのだろうか。
     そのとき、ふい有栖川は脇に手を当てた。どうも携帯のバイブが振動しているらしい。
     服のポケットから携帯を出した有栖川は着信相手の名を見ると「あら」と小さく声を上げた。
    「どうしたん?」
    「いえ、連絡ミスしたみたいです。面倒やなぁ、なんて言おう……ちょっと出て話してきます」
     そして私たちに頭を下げると、有栖川はまた人影の奥に消えていった。この店で電話の受け答えをするのは至難の技だ。恐らく一旦外へ出るのだろう。
     店内に流れる曲は、いつしかケンドリック・ラマーに変わっていた。
     



     
     出て行く有栖川の後姿を見送った朝井は、深く溜息をついた。憂いが固まったような様子が見て取れた。
    「……あの子も人が良すぎる、っていうか痛々しい、っていうか」
     感情を抑えるためか、煙草をポケットから出して、テーブルに備えてあるマッチで乱暴に火をつける。肺の奥まで吸い込んでから煙を吐き出したあとも、表情は一向に冴えない。吸っている銘柄は珍しくマルボロだ。
    「煙草、替えたんですか?」
     そう水を向けると、
    「あ、いやな。今日は特別。ちょっとな、吸う気にもならん。……きっとまたまざまざと思い出してしまうやろうから。出来れば暗い顔は、させたくない。これ以上、な」
     そう嘆く様子は、心の底から弟分を心配している証だろう。手に持ったビール瓶を持て余すようにくるくると回しながら、沈痛な顔をしている。
     店内に響くラブソティのどこか刹那的な声に耳を傾けていると、朝井がそっと密やかに口を開いた。
    「アリスの着てる服、見たやろ」
    「あの、お前はドラマの斎藤工か、っていう白いジャケットですか」
    「例えが渋いな。まあええわ。そう、その白いジャケット。もう一年着っ放しなんや。……見るたびに居た堪れなくなる」
     今時白いジャケットを着てるから、ではないだろう。私が黙って聞き役に徹することを示すと、朝井は目をフロアの方に向けたまま口を開いた。
    「あの子な、一年とちょっと前友達を亡くしてな。その人が好んで着てたんよ」
     そこでまた溜息。
    「それが交通事故とか闘病の末病死とかなら、きっとあの子も引きずらんかったと思うんやけど……。あのまま家ん中で腐っていくのに我慢ならなくて、ときどき無理矢理引きずり出すけど、多分、余計なお世話なんかもな」
     洗練されたトリップしそうなグルーヴが店をくるくると回っている。朝井の目に移っているのはフロアの若者たちではなくて、その逝去した何某の姿なのかもしれない。白いジャケットを愛用し、尋常じゃない形でこの世から離れていったという男。
    「……でも普通に見えましたよ」
     私が控えめに感想を述べると、
    「カラ元気でも元気、って誰が言った言葉やっけ。今年に入ってからやっと笑うようになったけど、それも、私と片桐さん、ほら前に会わせた人の良い編集さん、あん人と二人で、そんな体たらく見せたら先生が泣くで、そろそろちゃんと生きてける、って先生に見せんと成仏も出来ん、って。そしたらあの無神論者がそもそも成仏出来るんですか、凶器も見つからないから未練もたらたらだろうけど、それでもとっくに消えうせてしまってるんでしょうね、って」
    「相手も作家さんなんですか?」
    「いや、頭のええ人でな。大学の先生」
    「へえ」
    「服のセンスが最悪で嫌味たらしくて、物腰はスマートで回転も速くて、なによりアリスのこと大事にしとった。……そんな嫌味な男やった」
     朝井もその何某に対し、良い感情を抱いていたのだろう。そして今も割り切れぬ悲しみを抱えている。あの有栖川が抱えこむ性格だとしたら、朝井は吐き出さないといられない性格といえた。
    「ほんま、アリスのこと置いていって……」
     そう呟く様子は、痛々しいの一言に尽きる。私の心も、少し軋むようだ。
     朝井はブラウンビールを一気に煽ると、お待ちかねのムール貝を持ってきたボーイにおかわりを頼んだ。そして、
    「年末のパーティーでネクタイ締めとらんときはまだしょうがないな、と思っとったけど。この前アリスんちに行った時、タンスの中にネクタイが一本も残ってなかったの見てな。ああ、アリスは半分死んだんだ、って」
     つ、と一筋涙が流れる。そんな映像が見えた気がした。朝井は泣いているのだ、この世にありふれている、叫びたくなるほどの悲劇に、この世を去った男に、そして行きながら死ぬをよしとする後輩に。
     私は無言でムール貝を一つ食べた。バターとセロリが効いたこの料理も、今日はどこかぼけている気がする。リアーナの歌響く店もまた、ぼやけた世界に見えた。その震源地である推理作家はまだ帰って来ない。誰からの電話なのだろうか。
    「……そういえば、先ほどの怒りの理由は?」
     大音量の中の沈黙は耐えがたく、私から彼女に話を振った。怒っている限り人は沈みきらない、という持論もあってのことだ。すると、朝井は「そうそう」と表情を引き締めたと思ったら、それこそ文字通り罵りはじめた。
    「あの大柳っつう男も相当にふざけた男でな。仕事はまあ出来るほうなんやろうけど、私は金輪際組もうと思わんな。真剣な顔して俺のは標準より太くて黒いんだぜ、ってバカか。駆け出しだったから堪えたけど今なら酒かけるな。いや、熱湯や熱湯。もういい年やっちゅうのに悪趣味が大好きで。その男が自費出版でミステリ集を出すんやって。方々のコネ総動員して、まあ自己満足やな。でもあのおっさん処世術だけは大したもので出世して、雑誌のスペースとか裁量でどうにかしたことも多いらしくて、結果頭が上がらない人も多いから、そこそこのメンバーが集まったらしくて。でも、噂かなんかでアリスになにがあったか知っとるやろうに、あの腐れぽんちが」
    「腐れ……」
     またすごい言い様である。頭の中でぎらぎらした親父が現れた。脂性ではげかかった頭もぎらぎらしている。出すぎた腹と豪快な笑い声。
    「でも、それってアンソロジーを組むからっていう依頼ですよね、それだけで」
    「内容が最悪なんよ、最悪」朝井はいらいらと指で小刻みに机を叩いた。吸い終わった吸殻を力を込めて消し、立て続けに煙草を出し火を付けながら、「あんバカの条件は三つ。最初にすべて実在の人物で書くこと、次に事件は殺人とすること。そして、その中の一人を被害者とすること」
     吐き捨てるように言われた内容に私もまた眉を顰めた。
     少なくとも、肉親やそれに近い人物を亡くしたばかりの人間に酷な依頼であることは間違いない。しかも、有栖川の友人は普通の死に方をしていないのだ。
     色々あるんですよ。そう言った男の顔を思い出した。どんなしがらみがあるにしてもその話を受けたのは、多分もうどうでもいいのかもしれない。そうして壊死していくつもりなのかもしれない。
     見ず知らずの中年に言いようのない憤りを抱いた。最悪だ、間違いなく。
    「……最低ですね」
    「やろ?」
     怒りに任せて四杯目のトラビストをオーダーしたとき、向こうから「いや、遅くなりまして……」と有栖川が帰ってきた。そしてテーブルに置いてあるムール貝の酒蒸しを見て、美味しそうですね、という。
     先ほどなら気付かなかったような様子が、今は見て取れた。目の奥にある自暴自棄、肌が荒れているのは精神の不安定さを象徴しているようだし、なによりもどこか嘘臭い、皮一枚被ったような柔らかさと社交性。それらは恐らく無意識に出てきているものなのだろう。だから一見、どこまでも自然に映るのだ。そうやって朝井や片桐からも距離を置こうとしている。
     有栖川はムール貝を一つとって頬張り、
    「あ、思ったとおり美味いです。いや、京都も長年来てますが、今まで知らなかったのは惜しいなあ」
    「せやろ? 私も麻奈ちゃんに教えてもらうまで知らんかったんよ」
     さっきとは打って変わった姉御の態度で朝井は有栖川に相槌を打った。朝井もすべて判ったうえで、有栖川の演技に合わせ、付き合っている。それが自分に出来ることだと、そう踏んでいるのだろう。
     有栖川は温んだビールと共に立て続けにムール貝を三つ食した後、ポケットを探りながら私に向かって、
    「煙草、いいですか?」
    「あ、どうぞ」
    「すいません」
     そう言って、取り出したキャメルを咥えると、内ポケットから出してきたジッポで火をつけた。よく使い込まれているらしいそれには名前が掘り込まれている。暗くて余りよく読み取れないが。美味そうに煙を味わう有栖川に朝井が「そういえば」と訊ねた。
    「誰からの電話だったんや」
    「噂をすれば、ですよ」
    「あのバカか」
     朝井が嫌悪感を露わにしてそう吐き出す。「アリス、ついでにちゃんと断ったんやろうな。そんな俗悪的なものに付き合ういわれはありませんって」
    「一旦引き受けたものを断るなんてしません、俺は。気が乗らないのは確かですけどね」
    「断れ断れ。なんなら私も加勢したるわ」
    「大丈夫です」
     有栖川がそう言って、少し微笑んだ。全然大丈夫そうな笑みじゃない。ねじが外れたブリキのおもちゃを、何故か連想した。
    「朝井さんは少し過保護が過ぎますよ。でもありがとうございます」
    「なにに対する例なんだか」
    「色々、です」
     そういってビールを一気に呷る。そのとき首に見えた一筋の黒いものに、私の目は釘付けとなった。本人は気付いていないのだろうか。それとも、それすらもどうでもいいのだろうか。横を見ると朝井も厳しい顔をしている。彼女もまた、今になって気付いたのだろう。
    「……アリス、首、どうしたん」
     私よりも付き合いがよほど長く深い朝井が、なんの躊躇いもなくそう切り出した。
    「え、なにかついとります?」
    「また、アザ」
    「ああ」
     有栖川は喉をさすってから、「別に大丈夫ですよ」と事も無げにいう。
     間違いなくどうでもいいのだ。
    「大丈夫ってなあ」
    「ほんま、だってここで美味しいもん食べとるやないですか。ものが美味しいうちは、人は平気らしいですよ。……でも、ほんま、朝井さんには感謝しとります」
     ビヨンセの張りのある歌声に乗せて言うには、余りにも暗い余韻残る謝礼だった。
     そして灰皿にある煙草を取り、美味しそうに煙を吐き出した有栖川は、ふと柔らかい目つきになる。そおっと首を一度撫でて、
    「結局俺は向こうにはいけません。朝井さんも片桐さんも、みんなようしてくれますしね。……どれだけ苦しかったか、ってわかろうとしても、手前で降りてしまう臆病さも持ち合わせています。やから、ここにいるしかないんです」
    「アリス……」
     怒りも度を越えると人を支えることは不可能になるのかもしれない。有栖川の首のアザについて責めたときの朝井は、心配と哀しみが昂じて怒っていた。今はそれを超え絶望を抱いているようだ。
     この男の抱えている虚無はとても大きいのだ。周りの人を否応無く飲み込んでいくほどに。
     ブラックホールと同じだ。大きすぎる質量を持ったものが崩壊したとき、その重さを支えられず、いつまでも内部へ内部へと、全てを巻き込みながら崩れ続けていく。
     有栖川はふと私を見ると、来たばかりのころ見せていた、あの人の良い好青年の仮面を瞬時に被り直した。
    「ああ、すいません。すっかり陰気臭い話をしてしまいまして……。ご気分を悪くされたこと、謝罪したいと思います」
     ビール四杯分のアルコールが背中を押してくれる。
     私はその一言で、その余計な賭けをする覚悟を決めた。
    「いえ、お気遣いなく。……でも、もし謝るなら、貴方の後ろにいるお友達にしたほうがいいと思います」
    「お友達?」
     有栖川は椅子に座ったまま後ろを見た。しかし彼の目に映るのは、自分たちと同じく、狭いテーブルを囲むように、高い椅子に座った客の姿ばかりのはずだ。
    「麻奈ちゃん、なにいうてるの?」
     朝井も面食らった様子で私の顔を覗き込む。大丈夫です、私は正気ですから、と目で伝えた後、私は改めて有栖川を、正確に言えば有栖川の顔から斜め三十度ほど上のあたりを見た。
    「ええ。……しかし良い男ですね。実際に会ったら絶対に口説いてました」
    「! 失礼にも程がある!」
     次の瞬間激昂した有栖川が、勢いよく席を立ち私を睨んでくる。互いの話し声さえ聞こえないような喧騒の中でも、有栖川の声はそれなりに通ったらしい。何人かが動きを一瞬止めてこちらを控えめに窺っている。
    「冗談じゃありません。最初から見えていましたよ。恐らく、ずっと貴方の傍にいたはずです。……悲しい顔をして」
    「……大体、傍になんかいるはずないやろ」
    「そう思いますか? ……ちょっと聞き取りにくいですからもうちょっと大声で。……い、ら。違う、ヒム、ラ、さん」
     私のその一言で、有栖川の顔が瞬時に変わった。一気に血の気が引き、目を丸くしてただ呆然とする。
    「なんやて……?」
    「麻奈ちゃん! ちょっとどういうこと? いつ名前調べたんや」
    「朝井さん落ち着いてください。どうやって名前を調べられるというんですか。ですから、聞いたんですよ、今。そちらにいる悲しい顔をした色男さんに。さっきはキャメルを、懐かしそうに見て吸う真似なんかもしてましたけどね。お好きだったんでしょう」
     澄ましてそう答えると、有栖川はどこか呆然としたままの顔で、「朝井さん」と言った。疑っているのだろう。
    「言ってへん、ほんまに言ってへんって。やから驚いとるんやないか」
    「ほんまですか」
    「当たり前や。っていうか、麻奈ちゃん、あんた」
    「滅多なことではこんなこと言いません」
     そう言うと、朝井は納得出来ないまでも反論もしようがない、という顔で私をまじまじと見詰めた。
     長い付き合いだが、確かに彼女の前でこんなことを言ったこともないから、当たり前の反応だろう。
     少しだけ動悸が早くなったようだ。喉を少し温んだトラビストで潤わす。そして、再び有栖川の方を向いた。
    「お友達、ヒムラさん、ですね。今もいつも通り白いジャケットを着て貴方の傍に立たれてますよ。ただ、先ほども言いました通り悲しい、寂しそうな顔をしているんです」
    「火村が……」
     有栖川はただ名前を繰り返した。
    「信じられませんか?」
    「どうして、信じられます。あいつが俺の傍にいる、だなんて」
    「そうですね、先生、なにか証明出来ますか……?」
     私はそう、有栖川の奥のほうに呼びかけれる。しばし間が開いてから、
    「出会いの話をしています。階段教室で、初夏に会われたそうですね。あなたが賞を取ったときは一番に喜んだつもりだと。そっけない口調だけど思いは込めた、そう言ってます」
     どうです、と彼の顔を見ると、有栖川は私から視線を微妙に外して、「そんな……」と、一言だけ発した。
    「……大体合ってるように聞こえるな。……ずっと見えとった、そういうわけ?」
     朝井がどこか信じられない様子で私に聞いた。
    「はい。……多分、ずっとこうして傍にいるつもりだったんでしょうね。黙ってろ、って感じで睨まれましたから」
    「それは先生らしい、かな」
     朝井がそう呟いた。
     有栖川はそっと顔を伏せた。そして力無く、
    「……なんで、なんで俺の傍なんかにいるんです」
    「そりゃ、先生が出はるとしたら、あんたの傍やろうな、アリス。誰に聞いても納得するで」
    「いるはずがないですよ。……他の誰の傍でもいい、でも俺の傍にはいないはずなんです、あいつは……」
     最後は消え入りそうな声で、そう呟いた。
     私はまた虚空を見詰めた。顔の真ん中に皺を寄せるようにしてから、また有栖川に告げる。
    「ヒムラさん、あなたが心配だそうです。首のあたりに撒きついた……多分ストライプのネクタイだと思うんですが、それが邪魔みたいでどうも声が小さいんですが、貴方が心配だ、って何度もさっきから言ってます」
     ネクタイ、のところで有栖川は体をびく、と動かす。そして、私の言葉を否定するように、何度も首を振った。
    「言うはずない。そんなん。……だって、俺はまだここにおるんですよ」
    「いて欲しいんですよ、ここに」
    「俺は」有栖川は間髪いれず言う。「俺はあいつの手を離さん、とか偉そうなことをいいながら、結局あいつの傍にいけん奴です。そんな俺に火村がそんな顔を……」
    「有栖川さん」
     私は力を込めて名を呼んだ。
     聞いているのか、有栖川はただ顔を伏せたままだ。私は彼が聞いていることを信じ、有栖川の斜め上を見詰めながら、一語一句を噛み締めるように離しつづけた。
    「有栖川さん、ヒムラさんは貴方には生きて欲しいと言っています。貴方が好きだから、だからこそここで普通に笑っていて欲しいと。……哀しみに浸るのはどうも別に良いらしいのですが、それに溺れて自暴自棄になられたら、それが一番困ることだと」
     有栖川はまだ下を向いたままだ。
     朝井は言葉を失ったかのように半端に口を開け、私の顔を見ている。
     ブルーノ・マースの歌声が、とても遠くで響いているように、淡く耳に届いている。
    「傍なんかに行ったらそれこそ今度こそヒムラさんはどっか行ってしまいますよ。それほどにあなたが……。大事なんですね、互いに」
     その喪失に耐えられなくなるほどの存在。
     それがどれほどのものなのか、得たことが無い私にはわからない。ただ、心の底から羨ましいとも、恐ろしいとも感じた。
     人はなんで一人で生きていかないといけないのだろうか。
    「人は心残りがあると、霊道に入れないんです。霊格が高ければ守護霊としてこの世に留まれますが、普通の人の魂がいきなり守護霊になることはちょっと無理です。ただの浮遊霊としてこの世に留まった場合、やがて魂が崩れてしまう可能性もあります。なによりも、安らぎが得られません」
     そう言いながら、私は有栖川と、その横にいる人の顔がある辺りを交互に見た。通訳の要領だ。
    「有栖川さんがまたちゃんとしないと、ヒムラさんはいつまでもこの世に留まりつづけるんです。ヒムラさんは今のところそれでも良いようですが、相手にいつまでも心配を掛け続けるのは貴方も本意ではないはずです」
    「そりゃ、そうやけど」
     蚊が鳴くようなか細い声で、有栖川が返してきた。
     反応があったことに、私は少し力付けられた。更に諭すような優しい声色で彼に言う。
    「なによりも、大事なお友達の真摯なる願いですよ。……誰だって、大切な人には心を病むことなく幸せに生きて欲しいんです。今は無理かもしれませんけど、でも何時かはちゃんと歩いて欲しいんです。それは生きてようが死んでようが変わりませんよ」
     朝井がそっと有栖川の肩を叩いて、小さく頷いた。
    「うちもそう思う。やって、心苦しいやん、好きな人が悲鳴をあげつづけてもそれを助けられんっていうのは。火村先生なんかあんな過保護やったんだから、いま歯痒くてしょうがないかもしれんやろ。あんたが、火村さん楽にしてあげな」
    「朝井さん……」
     有栖川が少しだけ顔を上げて、朝井に、そして私に視線をあわせた。
    「なにより、ここに残された以上、逃げずに生きなきゃいけないんです。これは私の意見ですが、そう、思います」
     ――生きるからには、ヒムラさんが安心していられるようにしないと。この悲しい顔を見たら、有栖川さんもそう思うと思うんです。
     そう感情を込めすぎないように告げると、有栖川は、「火村が、そんな……」と言って、そっと片手で目を抑えた。
     そして肩が小刻みに震える。
     すっかり冷え切ったムール貝を前に、有栖川は声を殺して泣いた。
     
     ホームに上がる前喫茶店で読んだ新聞によると、明日からここ京都だけでなく、関東も肌寒くなるらしい。晩秋は駆け足で冬の外套をまとっていく。
     新幹線ホームから見える京都タワーのフォルムはなんであんなに間抜けなのか、とどうでもいいことを考えていると、後ろから「久元さん」と声をかけて来る人がいた。
     夕方も過ぎた上りホームには、のぞみの到着を待っている出張帰りのサラリーマン達と旅行帰りのグループがちらほらといるだけだ。その中で、襟を立てたジャケットを羽織り、ラフなポロシャツに薄い色のスラックス、鞄は持たず靴はスニーカー、という絵に描いたような自由業の男は明らかに浮いている。
     柔らかく受身で、でも何かを拒絶する雰囲気は先日、初めて会ったときと大して変わらないようだ。
     私は慌てて彼に向かい、深々と礼をした。
    「あぁ、先日は大変申し訳ありません。酔った勢いとはいえ……」
    「いえいえ、頭を上げてください。そう言うの慣れとらんのですよ、俺」
     有栖川は慌てて私の肩に手をかけた。
     顔を上げると、有栖川はにっこりと私に笑いかけた。幼稚園児にもう怒ってないよ、と伝える保育士の顔に見えなくもない。
    「それに、改めて思い出しましたよ」
    「思い出したんです、か?」
    「ええ。逃げずに生きなきゃいけない、って。カウンター喰らったようでしたよ」
    「いえ、あの」
     思わずどもる私に、有栖川は「ですから」と話を続ける。
    「言われた通りなんですよ、久元さん。……どうやったって戻れませんけど、それを取り繕ったり、自分に酔ったりして、安易に逃げることはやめにします。やめられるかは正直わからんのですが、でも、生きなきゃ、あかんのですよね」
     目の前に待ち合わせのこだまが入線してきた。その風圧で、有栖川の長めの髪がふわ、と舞い上がる。
     その光景が妙に切なく映り、私はつい目を逸らせた。五〇〇系の古びた車両から、のぞみに乗り換える乗客がホームに出てきた。
     少しだけ賑やかになったホームを見ながら、私は有栖川に質問をした。
    「ところで、今日はどうしてこちらに?」
    「朝井さんに聞いたんです。見送りたいからって」
     有栖川は私の方を向き、口元を少し吊り上げた。
    「俺はですね、久元さん。謎を解かずにはいられないんですよ」
    「謎?」
     思わず鸚鵡返しに聞くと、有栖川はええ、と頷いた。
    「例えば、あの日俺が使っていたライターですが、そこから火村の名前を知ることが出来ます。彫ってありますからね。他人の名前が彫ってあるライターを使う人間はあまりいませんし、いるとしたらそれはその人にとって多少なりとも意味がある人間だ。名前は半分博打の覚悟で言ったのかもしれませんが、恐らくは分の悪い賭けだとは思ってなかったはずです。どうです?」
    「……さあ」
     私がそう答えると、有栖川はさらに続けた。
    「そして煙草。朝井さんはね、俺の前でキャメルを吸わなくなっているんです。身に余る友人だと思っています、本当に彼女はなんといいますか。……あなたは朝井さんと付き合いが長いそうですから、彼女が普段吸っている銘柄を知っていると類推できます。何故だろう、と思っているところへ俺がその銘柄を吸ったから、あなたは朝井さんがなにを避けているのかを大体把握し、それが火村の好んだ銘柄であると類推できた。筋は通っているでしょう」
     有栖川はそういって、私の方をどうです、といわんばかりに見る。
     私は口を開く変わりに肩を軽く竦めることで、彼に先を促した。
     したり、と有栖川は続ける。
    「白いジャケットはさすがに朝井さんから聞いたんでしょうが、あなたが挙げたプライベートな話は、実はみんなある一定以上の精度はなかった。ぼかしてしまうんです。俺もエッセイにはぼかして書きますから、それから得た知識ならばそれ以上詳細に狭めることは出来ません。だからなんとも半端になった。そして」
     有栖川は、ちょっとだけ立てた襟を下ろした。
     そこには、やはりなにかで絞めた後が痛々しく残っている。
    「不愉快になられたら失礼します。あなたは凶器を断定してましたが、それもからくりが見えれば簡単なことです。この傷と、朝井さんから聞いた断片的なこと、多分俺が事件後にネクタイを締められなくなっていることだと思うのですが、その辺りからあなたは火村の死因を推理出来たんです。不思議なことなど、なにもありません」
    「……あなたがそう思っていても、有栖川さん。彼はあの時間違いなく嘆いてました。一番の友人として」
     私がそう断言したとき、列車が間もなく到着するというアナウンスがホームに響き渡った。待合室などで待っていた客たちがいっせいにざわつき出す。
     空はもう紺色に染まっていた。だからだろうか、一段と肌寒く感じる。
     有栖川は悪いです、という制止をやんわりと止めて、私の荷物を持ちながら、
    「でも、あなたは何も見えてはいない。火村は俺の傍にだけはいませんよ。……感謝してます、それでも。本当に火村に説教を受けたような錯覚を、一寸だけでも味わえましたから。いい人だが余計な世話が過ぎる、って通知表に書かれませんでした?」
    「いえ、有栖川さんは心が広いが自分でも時々迷う、と書かれていたと思いますが」
     そう答えたとき、風と共に、のぞみ148号東京行きが入線してきた。
     傲慢な良心と好奇心で不用意なことをしてしまった今回の旅も、もうすぐ終わりになる。
     私は入り口近くで有栖川から荷物を受け取ると、謝礼と共に手を差し出した。握られた手はやはり華奢な感じだ。
     ベルが鳴り響く中、ふと最後に私は軽い気持ちで訊ねた。謎を解かずにはいられない、という推理作家に対し、
    「その私への頑固な結論は、推理作家としての矜持ゆえだなあ、と」
    「違いますよ」
     有栖川はあっけなく言った。
    「火村の首に撒きついているのは、ネクタイではなくて黒の携帯のストラップですから」
     プシュー、と音を立ててドアが閉まる。
     窓の外の有栖川は私を見て、明るく笑った。残酷なまでに明るく。
     新幹線はすぐに加速をはじめ、忽ちに京都は遠ざかっていく。そしてひたすらに闇の中へ。
     私は、そこにただしゃがみこんでいた。
     
     
     
     
     ここまで書いたところで、私はそろそろ一休みしようと、コーヒーを入れに台所へと向かった。



    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:19:10

    交霊会

    #有栖川有栖 #作家編
    ミステリあるいはホラー 変則的なものになっておりますので、何でも読める方におすすめします。

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