春うららかに傍らに穏やかな春の日だ。チェリムがうきうきしながらピンク色の花びらを陽に揺らし、のんびりと泳ぐウパーの尻尾が煌めく水面に小波を起こすような、そんな一日。そして家の中ではいつも通りの日常が流れているはずだったのだが、この日は違った。少年はメラルバのポポを膝に乗せたまま、床の上ですっかり丸くなってしまった赤紫の物体に呼びかける。
「ノノン」
名を呼ばれたペンドラーは、丸くなったままちらりと少年を見やった。常に眠たげな黄色の瞳は、一見表情が分かりにくい。だがしょんぼりと垂れたギザギザの触角が、全てを物語っている。そう、落ち込んでいるのだ。少年が小さい頃から大事にしていたフシデのぬいぐるみをもっていこうとしたら、うっかり咥えた力が強すぎてボロボロにしてしまったものだから、完全にしょげているのである。いつもならお気に入りのドーナッツクッションを前脚でふみふみして遊んでいるのだが、今日はそのクッションに見向きもしない。まるでホイーガに戻ってしまったように微動だにしないノノンに、少年は優しく声をかける。
「大丈夫だって、気にすんなよ。おばさんとこのハハコモリも、直すの手伝ってくれるって言ってたし」
言っている間に、ポポが膝の上からぴょいと床の上に飛び降りる。短い前脚を伸ばして、赤紫の殻にちょこんと触れた。そうして身体の大きな仲間を心配するように、めぅ、と小さく鳴く。それに応える様に、低くぎゃうと鳴いたノノンに微笑みかけながら、少年は彼の頭を撫でた。
「オレのこと、心配してくれたんだろ?ありがとな。だから、ゼンッゼン、ダイジョーブ!」
明るく言い放った少年に、ノノンの触角が少しだけ持ち上がる。ほい、と少年が手を目の前に差し出せば、ノノンはそろそろと頭を持ち上げて、ぽすりと顎を手のひらに乗せた。すべすべした黒い皮膚からほのかな温もりが伝わり、くすぐるように喉を撫でると、黄色の瞳は気持ち良さそうに目蓋を下ろした。
「よしよし」
喉を低く鳴らすノノンに、少年は目を細めた。そうして紡いだ声音にはだが、散りゆく桜の影が落ちていた。
「ごめんなあ、早くオレの足が治ればいいんだけどな。そしたら……」
少年は移動式の椅子に座ったまま、自分の右足を見下ろす。あと一月もすれば治ると言われたし、命に関わるような怪我でもない。友達も見舞いに来てくれるし、それは素直に嬉しい。だがそれはそれとして、ずっと家にこもっているのは退屈なのである。外に出られないことが、こんなに気の塞ぐことだとは正直思っていなかった。そのせいでノノンとポポに心配をかけているのも、正直とても心苦しい。風の通らぬ白い天井をわずかに見上げて、少年は唇の端をきゅっと結ぶ。
だがノノンとポポがじっとこちらを見つめているのに気づき、少年は慌てて笑顔を作った。そうして、まあおやつの時間だし、ドーナッツでも食べようぜ、と言おうとした時、不意にノノンが少年の服の裾をそっと引っ張った。いつの間にかノノンの体によじ登っていたポポが鳴くと、ノノンはそのままとことこ歩いていく。どうしたのかと椅子を動かしてついていけば、ノノンは庭に通じる大きな窓の前で歩みを止めた。次いでポポが、カーテンを燃やさぬようにちまりと咥えて引っ張り、眼差しだけで少年を振り返る。どうしたのかとくりくりした青い瞳を見つめてから、少年は窓の鍵を開けた。そうして目に入った光景に、少年は思わず歓声を上げる。
「うわあ」
白む太陽に澄み渡った青空を、ふわふわと飛んでいく萌葱と桃色の影の群れ。満開に咲き誇る桜の木と、地に微笑みを架ける黄色い花々に、陽だまりの歌を撒くようにハネッコたちが移動している最中だった。のんびりと、ゆっくりと、葉っぱのプロペラを回しながら、時には三匹くらいで身を寄せ合いながら、ハネッコたちが春風に漂う様は、和やかな春の光景そのものだった。最後の一匹を見送りながら、少年は心の中で呟く。
(……ああ、そういえば)
少年は睫毛を伏せた。
(最近は窓を開けても、ろくに外の景色を見ていなかった気がする)
風が開け放たれた窓から吹き込み、萌葱の香りが室内に満ちる。ぺちりと赤紫の額に張り付いた桜の花弁と、ふわふわの純白の毛に絡みついた綿毛を取ってやってから、少年は心の底から笑顔を浮かべた。
「ありがとな、ノノン、ポポ」
嬉しげな二匹の鳴き声が、春の陽射しに混ざって少年の頬を包み込んでいった。
その日。開け放たれた窓辺でノノンとポポと一緒に食べたドーナッツは、格別に美味しかった。