三百年後の花嫁草むらに置いた学生鞄の隣に腰掛ける。セーラー服のスカートが雨露に濡れたが、そんなことは構わなかった。少女は泉のほとりに視線を落としながら呟く。
「約束、また破られちゃった」
喉から漏れ出た静かな声が、唇に浮かべた笑みをざらつかせる。少女は膝を抱え直し、言葉を続けた。
「あの子さ、言ったんだよね。あたしの誕生日に、プレゼント絶対渡すって。二人で遊びにいこうって」
記憶をなぞるように、少女は緩やかに目を閉じる。瞼の裏で友の笑顔が揺らいでいた。煌めく硝子の月のキーホルダーが、柔らかな茶色の髪に、陽に薫る白い頰に、少しだけ丈の異なる制服に、彼女の輪郭の全てにちらつく。
「でもね、あの子は来なかった。あたしの誕生日に、違う子達と遊びにいってたの」
巡ることのない月は欠ける。玻璃の音色が目醒めの前に砕けるように。黄昏の彼方に立ち尽くしながら、笑いさざめく影の群れへと落ちるように。
「次の日になって顔合わせたらさあ、気まずそうな顔でごめんねって言うんだよ。いいよって言ったら、ほっとした顔すんの」
少女は小さく声を立てて笑った。途切れた約束の破片で、傷口を広げているような笑い方だった。
「いっつもさあ、そうなんだよ。駄目になった、出来なかった、無理だった、ごめんね、って」
少女は俯いた視線を泉の中央へと持ち上げる。そうして無言で佇む白無垢の女に、笑みを削ぎ落とした言葉をほつりと零す。
「ねえ、神様。神様もずっと昔に、約束を破られたんだよね」
女は微動だにしない。だが少女は知っていた。彼女こそが、この地の守り神であることを。先代の守り神であった蛇神を伴侶に迎えてかの座を継いだが、遂には人の裏切りによって彼を失ったことを。
碑石に刻まれた言い伝えが、硝子玉の血と混ざりあうように、白無垢の影へとさざめく。
「……神様は、約束を破った人達のこと、許せたからずっとここにいるの」
神は目を細めた。
『許してなどいないわ』
少女は目を見開いた。今まで無関心を貫いてきた神が応えたのもそうだが、花弁のごとき唇から発された声が、想像以上に凍てついていたからだ。まるで眼前の少女の血を手繰り、祖の罪科を呪うように。
『許さない。未来永劫許さない。千年呪っても、万年祟っても。この地を守ってきたあのひとを、私への贄に仕立てたことを。そうして私を新たな守り神にして、領土を広げようとした薄汚い人間どもを。私は絶対に許さない。……けれど』
真冬の墓石がごとき声音が、ふと途切れる。紫を帯びた女の瞳が、雲間に射す一条の光を見出したように。細波に跳ねる雫を肌に纏い、朗らかに笑う面影へ指を伸ばすように。角隠しの下で再び綴られた女の声は、墓石に舞い散る紅葉の香を紡ぐ。
『あのひとは。オウナは、人間を憎まなかった。裏切られてなお、人を慈しんでいた。私が側にいたからだと言ってくれた。それでも私には、人を憎んでもいい、人を許せなくてもいい、ただそうした時に、俺の声を思いだしてほしいと』
握りしめられた女の手に、白無垢の袖が添う。
『思い出は過去の幻想ではなく、いかなる時も魂に生きる標だからと。彼は……私を役目に縛ることに、酷く心を痛めながらも、そう言った』
泉のほとりで山吹の花が揺れる。女は口を閉ざし、束の間目も閉じた。そうして次に少女へ向けた眼差しは、蛇の鱗を偲ぶ影ではなく、神籬を透く光を纏っていた。
『人の子。破られた約束以外に、あなたに思い出せるものはあるの』
守り神の言葉に、少女は我に返った。だが、どんなに記憶をなぞっても、今思い返されるのは遠い笑い声の記憶ばかりだ。
「……わかんない。あったかもしれないし、最初からなかったのかもしれない。少なくとも、あたしがあたしであることを願うような、そんな祈りは。今のあたしには見つけられない」
『……そう』
目を細めた神は、淡々と、だがわずかに光を投げかけるように言葉を続けた。
『ならば、少しだけ祈りを捧げましょう』
え、と少女が声を漏らす間もなかった。神は
瞼の裏に在るものを、願いの言葉に映しこむ。
『いつか、あなたが自らの標となるものを思い出せるように。あなたがそれを探しにいけるように。結ばれた約束が、果たされる時が来るように』
織り上げられた祈りの千代紙を、座した水面から天に羽ばたかせるように風が吹く。少女はささやかな言祝ぎを終えて睫毛を伏せた神を、呆然と仰いだ。掠れた声が、薄い唇を衝く。
「どうして、そんなことを」
人を許さないと。あんなに冷たい目で言ったばかりだったのに。人ならざる片割れを失くしてなお、彼の面影を己の鏡のごとく抱いているのに。
白無垢の神は静かに、だが凛と少女へ告げた。
『迷い子へ手を差し伸べることが。私があのひとにした、約束だから」
かつて、あのひとが私にそうしてくれたように。
刻まれた名に沁み入る雨滴のような最後の声音に、少女がはっと目を瞬かせた時には、白無垢の影は水面のさざめきへと消えていた。色あせた朱の鳥居に、枯れ落ちた紅葉が舞い上がる。
一人残された少女は、握りしめていた手を開いた。いつのまにか手にしていた硝子の月のキーホルダーが、澄んだ清水を反射するように光を宿す。
泉のほとりに立ち尽くす少女の前髪を、夜風が静かに揺らしていった。