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    しおり
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    しおり
    鮫愛づる姫君:その四(前編)少女は白い部屋の夢を見る。
    部屋を飾るものは何もなく、響くものもまた何もない。茫洋とした白の世界に落ちているのは、自らの華奢な影のみだ。無色の時が流れる中、少女は静かに窓のない壁を見上げる。
    不意に砂が風にさらわれるような音が耳に届き、違和感が左手を食(は)んだ。少女は無表情のまま、左手を眼前に持ちあげる。ほどなくして視界に入った自分の手に、彼女はぼんやりと目を細めた。
    それは肌色を喪失し、薄鈍(うすにび)色の霞(かすみ)と化した指先だった。
    霞はやがて細い手を侵蝕していき、ゆるやかに痩せた輪郭をほどいていく。そうして己の手が灰になっていく様を、少女は黙って見つめていた。
    さらさらと零へこぼれていく音を基調として、果てなき夢は夜を越えていく。



    時は淀むことなく流れる。巡りゆく朝と夜が織り成す星霜の中で、人もまた情を紡いでは歩を進めていく。例えそれが時として、鉄錆びた赤で鋭い棘を奏でるのにも似た、辛苦の体としか成り得ずとも。

    「御方様」

    ホオリは静かに目を開けた。それと同時に、寝巻の袖から覗く手首に触れていた、薬師の手が離れていく。視線を自らの手首に落としたまま、二、三度瞬きした少女に、老婆はしわがれた声で語りかけた。

    「もう楽にしていただいて結構です」

    絹ぶすまをかけた膝の上に手を重ね合わせ、ホオリは姿勢を正した。寝台の上からこちらを見つめてくる少女に、薬師は穏やかに見立ての結果を告げる。

    「すっかり熱が引かれましたね。喉の腫れも、咳もない。……ただ、やはり血虚の相が見受けられます。後で人参の湯薬を届けさせましょう」
    「ありがとうございます」

    少し痩せた頬に、ホオリはかすかな笑みを浮かべる。いえと老婆は頭を振り、机の上に広げられていた若竹色の布へと仕事道具をまとめた。そうして出来あがった包みを薬師が背負ったとたん、どこからともなく湧き起こった白い煙が、彼女を包み込む。
    かくして煙が霧散した時、薬師が立っていた場所から姿を現したのは人間ではなかった。

    「それでは、今日一日は安静にして下さりますよう」
    「はい、カサイどの」

    小さな突起に体表を覆われ、琵琶のように丸みを帯びた茶色の身。びっしりと牙を生え揃わせ、上顎よりせり出た下顎。そしてこの氏族の最大の特徴である、頭から伸びた突起の先端は、夜明け星のように黄色く輝いている。
    目の前にいるチョウチンアンコウの薬師に、ホオリは微笑んだまま返事をした。そんなホオリに、アンコウは恐ろしげな外見からは想像しがたい、どことなく愛嬌を感じさせる笑顔を返して一礼する。果たして短い胸鰭(むなびれ)でどうしたものか、器用にも荷物を背負い直して出口へ泳いでいく深海魚を、少女は静かに見送った。尾鰭が見えなくなると同時に扉が閉じ、薬師の退出を告げる鈴の音が、部屋の中に余波を描く。
    ホオリは寝台の周りにしつらえられた御簾を下ろし、短く息をついた。会話の最中は身を潜めていた気だるさが、骨の芯から体内へ滲み出る。
    病の発作が起こったあとは決まってこうだ。月に一度、高熱と咳にうなされて過ごす三日三晩の呪いの名残は、毎回尾を引く疲労でもってホオリを苛む。もっとも今回はまだ軽く済んだ方であったため、ああして薬師と対話ができたのだが。
    それにしても、とホオリは頭の中で言葉を転がす。明け方に見た夢は実に奇妙だった。肌色の形を保っている左手に目をやれば、そこにまだ薄鈍の夢の残り香がたゆたっているような気さえする。ホオリは朝靄の向こうを眺めるように目を細めた。

    (あれはいったいなんだったのかしら)

    わずかに首を傾げてみるものの、ぼんやりとした頭ではうまく思考をまとめられない。代わりに再び訪れた睡魔が意識を白く包みこみ、淡く真珠色に明滅する言葉の群れを、閉じゆく瞼の裏にしまいこんでしまった。ホオリは再び緩慢と水底に沈むのに似た眠りへと落ちていき、しばらくの間、少女が横たわる寝台を静寂だけが支配していた。
    まどろみに浸されていたホオリが、次に目覚めたのは昼近くだった。絹ぶすまの下で少しばかり身動きをしてから、上体を起こした彼女は思わず目を丸くする。御簾を隔てた寝台の傍に、樹木のごとく背の高い影が立っていたのだ。
    賊か魔か。一瞬体を固くしたホオリの耳に、触れ合う金板が音の絹糸を散らす、ちりりという微かな響きが届けられる。この二月余りで日常の一部と化した玲瓏(れいろう)な音色に、ホオリは強張っていた肩の力を抜いた。一拍遅れて、ああそうか、と眠気の余韻が消え去った頭の中で呟く。
    御簾越しの影に安堵の輪郭を見出した少女は、胸に浮かんだ名をそっと呼びかけてみる。

    「ヤヒロ?」

    ホオリのささやき声に、影はちょうど机の上から視線をあげるような仕草をした。それからやや間を置いて返された男の声は、海底の静けさを湛えた紺碧の色を纏っていた。

    「お目覚めになりましたか、姫様」

    語尾に疑問符は存在しない、事実を確認するためだけの言葉が、御簾を通り抜けて絹ぶすまの上に舞い降りる。少々そっけないと言い換えてもいい口調だったが、ホオリにはそれで充分だった。紛れもないヤヒロの声に、ホオリはもの柔らかに答える。

    「ええ、もうだいじょうぶ」

    寝台の脇に垂れさがっていた花緑青色の仕掛け紐を引き、御簾を上げる。そうして開けた視界の先には、四日ぶりに見る侍従の姿があった。長身に見合う藍色の衣に白い袴。魔祓いの頭巾から覗く、切れ長の黒い目はやはり剣を思わせる。もっともその印象は、漆黒のしとねに抱かれながらも、時折わずかに刀身を煌めかせるかのごとく、一層の静謐さに包まれたものではあったが。
    ヤヒロは傍らの机に置かれていた黒漆の盆を持つと、ホオリの目の前に差し出した。

    「甘露水です」

    盆に載せられているのは、瑞雲と龍の箔絵が施された小さな朱塗りの杯(さかづき)だ。ホオリは礼を言ってから杯を受け取った。杯を満たす澄明な液体から漂う、桃に似た芳香が少女の鼻をくすぐる。
    あの野分の一件以来、ヤヒロとの関係に劇的な変化が起こったわけではなかった。相変わらずこの侍従は無表情で淡々としていて、何を考えているか分からないことの方が多いくらいだ。それでも以前よりかは、少しだけ彼と言葉を交わす回数が増えた。例えそれが天候の良し悪しに対するような二言三言の会話だとしても、ヤヒロが他愛のないやりとりに応じてくれるようになったことが、ホオリは密やかに嬉しかった。穏やかな日射しの下、手にした杯の箔絵が柔らかく光る。
    甘露水を飲み終わって一息つくと、ヤヒロが軽く頭を下げた。淡々と述べられた祝いの辞が、沈黙の水を張っていた白い部屋に、紺碧の雫を滴らせる。

    「姫様のご快復を、心からお喜び申し上げます」

    ホオリは静かに微笑んだ。

    「ありがとうございます」

    主の感謝の言葉に、侍従は無言のまま目を細めることで応える。そうして一拍の間を置いたヤヒロは、頭を上げて言葉を続けた。

    「ですが、本日までは安静にして下さるようにと、先ほどカサイ様より伺いました。ゆえに、今日はいつも以上にご無理をなさらぬよう、平にお願い申し上げます」
    「はい」

    穏やかな微笑を浮かべたまま、ホオリはそう返事をする。ヤヒロはそんな主の様子を見つめながら、時に、と口にした。きょとんと目を丸くする少女に、男は一度ゆっくりと瞬きをしてから語を継ぐ。

    「火照の御方様から、竜宮歳時記七ノ巻をお預かりしておりますが」
    「まあ」

    竜宮歳時記とは、竜宮建国から現在にまで息づいている、呪術や氏族にまつわる出来事を記した書物である。元は四季折々の事物や年中行事についてまとめられただけの代物であったが、永きに渡って書き継がれていくにつれ、その内容を序々に変化させていったのだ。今では歴史書の類として認識されているこの書物を読むことが、ホオリは何より好きだった。瞳に麗らかな春光(しゅんこう)を宿した少女は、萌黄色の息吹いたまどかな声音で、綴る言葉に花を咲かせる。

    「うれしいわ。ぜひよみたいとおもうから、のちほどもってきてもらえる?」
    「御意に」

    瞳を伏せ、一礼したヤヒロが身を翻す。いったん部屋を出ていった侍従は、やがて紫苑色の布包みを抱えて戻ってきた。火炎宝珠を囲う双龍の紋が銀糸で施された絹織物が、机の上に広げられると、中から二軸の巻物が姿を現す。ホオリはヤヒロに感謝の言葉を述べてから、そのうちの一つを手に取った。寝台の前から下がり、執務用の文机に向かった藍色の背中をちらと見てから、ホオリは巻物を紐解いた。黄朽葉色の表紙になされた亀甲花文(きっこうかもん)の刺繍がきらめき、日の光の下でつまびらかにされた文字の連なりが、少女の心に綾錦の輝きを放つ。
    ホオリは文字が好きだ。例え紙に書かれる際に纏う色は黒一色だとしても、持ち得る意味
    次第で金にも銀にも閃く様を、玉音を奏して人の想いを歌う様を、心から美しいと思っている。それに対するものが文字ならば、病魔を介して人を傷つける恐れもない。読み解く書の内容に埋没しながら、ホオリは静かに目を細める。
    しばらく読み進めたのち、ホオリはふと目を瞬かせた。新たな章にさしかかったはいいが、記された文章のところどころに、それまで見たことのない文字が使われていたのだ。
    すぐさま蓬莱字典と書かれたもう一つの巻物を広げてみたものの、未知の文字と該当するものは何度探しても見当たらない。困り果てた少女は、整った眉を八の字にして肩を落とした。そうして小さくため息をついたとき、不意に絹ぶすまの上に影が落ちる。

    「いかがなされましたか」

    降ってきた声を辿るように影の鏡面を見上げると、ヤヒロが寝台の傍に立ってこちらを見ているのに気付いた。おそらくは人参の湯薬が届いた旨を知らせに来たのだろう、薬師の印が押された貝殻の札を手にしている。

    「ヤヒロ」

    わずかに開いた口から名が零れたが、すぐには続く言葉が見つからなかった。ホオリはややためらったのち、気恥ずかしげに軽く俯いた。まげを結わず、流したままにされていた黒髪が、頬を桃色に染めた少女の背で笹の葉擦れのような音を立てる。

    「じつは……はずかしいはなしなのだけれど。さきほどもってきてくれたしょもつのなかに、よめないもじがあるの。それがじてんにものっていないものだから、どうしたらいいのかわからなくて」

    語を継いだホオリはおずおずと、微動だにしない切れ長の瞳を見上げた。

    「ヤヒロは、これがなんとしるされているのかわかる?」
    「……失礼いたします」

    寝台の傍に置かれていた椅子に座り、ヤヒロはホオリが手にしている巻物に視線を走らせる。はたして瞼を目の半ばまで引き下ろした侍従は、少し間を置いてから口を開いた。紡がれる紺碧の声は琵琶の低音にも似て、遠い古の物語を流れるように爪弾く。

    「変化の術は、竜宮建国以前より存在した呪術である。此れなる術はかつて、鬼などの異形の者どもが呪具を用いて人に化け、人を欺き伏すために用いた代物であった。今日広く使用されている変化の術は、綿津見御神が青海原を平定せんとして、これら異形を討ち滅ぼした際に、眷属の者達が使用できるよう改められたものである」

    淀みなく文章を読み上げる様に、ホオリは大きな目を見張ってヤヒロを見上げた。歳相応に驚きを露わにした幼い少女に、ヤヒロは淡々とした口調でさらりと尋ねる。

    「こう記されておりますが、続きも読みますか」

    ホオリははたと我に返った。そのとき初めて、顔を巻物に向けていたヤヒロが、横目でこちらを見ていることに気が付く。薄氷の冷たさではない、凪いだ水面の静かな眼差しに、華奢な肩が小さく跳ねた。

    「お、おねがいします」
    「かしこまりました」

    主に応じたヤヒロは、再び清廉とした文字の並びに声を重ねた。

    「なお、綿津見御神と異形との熾烈を極めた戦は、七日七晩に及んだ。このとき最後に残りし異形は、変化の術を用いて御神を惑わし伏さんとしたが、すでに正体を見破っていた御神の放った矢により討ち倒されたという。そして戦が終えられし折、後に残された異形の亡骸は弔われ、かつて陸の国から渡来したとされる古の船に封じられた。今日、鎮魂祭で奉唱(ほうしょう)される御霊鎮めの唄(みたましずめのうた)は、その際に歌われたものとして伝えられている」

    物語の末尾を口にしたヤヒロは、静かに言葉を切った。語り終えられた物語は漣(さざなみ)のように空(くう)を広がり、波間を浮遊する海月のごとく静寂を漂う。その間に、驚きの殻を割って生まれた感嘆が、数多の星明かりとなってホオリの瞳に灯された。男を見つめる少女の唇から、小さなため息がひとつ零れる。

    「すごいわ、じてんにものっていないもじをよみとけるなんて。ヤヒロは、はくしきなのですね」
    「恐縮です」

    瞬きをするホオリに、ヤヒロはいつも通りの口調で返した。陽光が踊るように明るい中を、きらめくそよ風が吹き抜けていく。
    ホオリは少し顔をほころばせてから、巻物に視線を戻した。少女の発する柔らかな声が、楓の若葉が朱に色づくのに似て疑問に彩られる。

    「そういえば……いにしえのふねとは、いったいどういうものなのかしら」
    「……白羽の矢が数多く刺さっている他は、ごく普通の難破船です。到来した当初は白木の船であったそうですが、今や藤壺に食まれ藻を揺らめかせ、所々は朽ちて泡沫へと還っているために、その面影は見受けられません」

    傍らから流暢に返された答えに、ホオリは瞳を丸くする。

    「ヤヒロは、そのふねをみたことがあるの」

    主の問いかけに、ヤヒロは目を眇めて応じた。

    「二度ほど、拝謁する機会を賜りまして」

    侍従の返答に、ホオリは今一度、ほうと感心に染まったため息を漏らす。吐息にたなびく心の断片が夢想するのは、聞いたばかりの船の姿だ。己が内に無数の魂を眠らせる様は、はたして抱卵の生き物に似ているのだろうか。そう考え込むホオリに、不意に問いが投げかけられる。

    「興味がおありですか」

    少女は求められている言葉の形が一瞬分からず、少しばかりの驚きの色だけを表情に浮かべる。そんな主に、ヤヒロは平坦な口調で続けた。

    「失礼ながら。姫様ほどの年頃の女子(おなご)は、難破船の話なぞ聞けば、顔(かんばせ)をひきつらせるものと存じておりましたゆえ」

    ああ、なるほど。
    ホオリはゆっくりと驚きを消し、緩やかな孤を口元に描く。かくしてヤヒロに向けられたのは、今にも白い部屋に溶けて消えてしまいそうな、名残雪(なごりゆき)の淡い笑みだった。貝殻の風鈴が揺れ、花曇りの音をほのかに散らす。

    「わたくしは、あまりそとへでたことがないものだから」

    無表情の男を前に、ホオリは柔らかい口調のまま言葉を紡ぐ。

    「こわさよりも、めずらしさがさきだってしまって」

    ヤヒロは瞼を目の半ばまで引き下ろした。ほんの一瞬、切れ長の眼差しが刃の光を帯びて幼い主を映したが、僅かに瞳を伏せていたホオリはその鋭さに気付かなかった。静かに笑む少女を前に、剣を秘めた男は低く呟く。

    「……さようで」

    間(ま)を埋めるように舞い降りた静寂に、ホオリが視線を上げた時だった。海原を照らす月に波が寄せるかのごとく、遠方から時刻を告げる鐘の音が響く。その旋律が意味する刻限を思いだし、ホオリは軽く目を見開いた。思わず口元を手で覆う。

    「ごめんなさい。しつむのさいちゅうであったのに、いろいろきいてしまって」
    「いえ。これも務めの内です」

    返される声音は、やはり寸分の乱れもなく落ち着いている。そうして音もなく椅子を立ったヤヒロは、届いた湯薬を持参してくる旨を主に告げた。略式の礼を一つして、自らに背を向けた侍従に、ホオリは慌てて声をかける。

    「あの、ヤヒロ」

    ヤヒロは無言で振り返った。こちらに向けられた侍従の横顔に、ホオリは先ほどのものとは温度が異なる笑顔を返す。頬を染める桃色を周囲に撒くように、はにかんだ笑みを浮かべた少女は言った。

    「その……ありがとう、しょをよんでくださって」

    花散る琴の音で綴られた感謝の言葉に、ヤヒロは目を細める。内に潜む剣を眠らせ、再び静謐さに包まれた黒い瞳で主を見た男は、やがてそっけなく一言だけ返した。

    「……いえ」

    かくして、部屋の隅へと歩み去っていく後ろ姿を、ホオリは穏やかな眼差しで見送った。
    青を帯びた風鈴の音色が、ふわりと広げられた巻物の上に落ちていく。



    海上から射す夕暮れの光が錦の森を染めるころ、ヤヒロは務めからの帰途についていた。彼が歩を進めるのは、いつも使用している、白木の木目がほのかに桜色に香る廊下ではない。鮮やかな朱塗りの柱に良く映える、鏡のように磨き抜かれた黒漆の回廊だった。
    竜宮正殿、海幸宮(うみさちのみや)。乙姫を初めとした王族が過ごすことの多いこの宮は、臣民(しんみん)の者達からそう呼ばれている。数ある舎殿の中で最も広大であり、また政(まつりごと)の中心的な役割を担っていることから、ここに勤める者の数は多い。壁の上部に沿って二列に設えられた灯篭が、あたたかな淡黄(たんこう)の灯をともし始める中、膳持った下女が数人歩いていく。匂欄に身を寄せた鯛やヒラメは談笑しており、その脇を二人の貴族が世間話をしながら通り抜ける。中庭では見回りの衛士(えじ)をからかう子供達の笑い声が燦然と弾け、それに乗じるように流れてきた楽の音が、黄昏の訪れを優しく奏でては永遠の淵に溶け去っていった。
    廊下に導かれるままに足を運びながら、ヤヒロは主が身を置いている離れの宮を思った。山幸宮(やまさちのみや)の名を冠すあの場所は、これほど様々な者の気配に満ちてはいない。
    やがて宮の奥へと近づいていくにつれ、人影はまばらになり、楽の音と人々のざわめきは遠く幻の星となった。窓から射す光は金を帯びて赤い。揺らめく夕日に照らされた唐獅子の彫刻が、長い廊下を一人で歩む男を見送る。
    次に角を曲がれば海幸宮と山幸宮を繋ぐ門へ辿り着くというときに、ヤヒロは不意に後ろから名を呼ばれた。突然の呼びかけにも微動だにせず、彼はつと足を止める。

    「ヤヒロ?」

    人気のない廊下に響いた声は、若やいだ青年の音域をしていた。浅縹(あさはなだ)に透いたその涼やかな声音に、ヤヒロは記憶の底から一つの姿を揺り起す。半身になって声の主を振り向いてみればやはり、予想した通りの生き物がそこにいた。

    「ああ、やっぱりお前だったか」

    視線の先で朗らかにそう言ったのは、人間の大人ほどもある海亀だった。銀鼠色の体はやや青味を帯びており、眼尻の上がった目は翡翠の玉の色を宿している。長い尾になびいているのは、琥珀の玉が連ねられた飾り紐だ。暮れなずむ日と同じ色をした玉の緒は、さらさらと寄せる白波に似た音を立てている。
    胸の内で、ヤヒロはこの状況に最適な仮面を選び出し、手に取る。はたして彼が顔に纏わせたのは、控えめだがどこか人好きのする笑みだった。ホオリの部屋にいるときは決して浮かべることのない表情で、ヤヒロはこちらに近づいてきた海亀に挨拶をする。

    「お久しゅうございます、潮満(しおみつ)様」

    冨亀塩椎守の息子である海亀は、屈託なく顔をほころばせた。気さくで実直な心柄(こころがら)として知られる彼は、下々の者たちにもそうした態度を崩さずに対話を行うのが常だ。童や下人に冷ややかな一瞥をくれる者も少なくない豪族の子息にしては、彼のこうした気風は珍しいと言えた。それは竜宮王家側近である、冨亀家の次期当主を期待される立場ともなれば尚更のことだった。
    良く言えば気立てがいい、悪く言えばお人好し。半年ほど潮満に仕えた果てにヤヒロが導き出した結論は、現在も色合いを変えることなく彼の胸中に存在している。好き嫌いに限る話で言うのなら、その中庸の印象を抱いたまま、ヤヒロは潮満との会話に応じた。

    「卯月以来だな。息災のようで何よりだ」
    「いえ。潮満様もお変わりないご様子、謹んでお喜び申し上げます」

    かつての主を前に、ヤヒロは淀みなく言葉を連ねる。意図的に作られた微笑みが、低い声をさりげなく、穏やかな薄藍へと彩った。

    「山幸宮に身を置いていても、潮満様のご活躍の様子は耳に届いております。火遠理の御方様も仰っておいででした。神殿の再建が滞りなく進んでいるのも、ひとえにその御身あってのことと」

    媚や卑屈さを感じさせない自然な声音に、こそばゆいものがあったのだろうか。潮満は少しばかり首を甲羅に引き込むと、よせよと照れるように小さく笑った。

    「まあ、今日はその件でうちの爺……じゃない、冨亀家の長の名代(みょうだい)として来ただけなんだけどな」

    初めて知ったというように、ヤヒロは軽く驚いた風を装う。

    「塩椎様のお加減が優れないのですか」
    「いや」

    ヤヒロの問いに、潮満は苦笑した。

    「甲羅に首を引っ込めようとしたら、筋を痛めてしまっただけだよ。人間の言葉でいう……何といったか、ぎっくり腰?」

    それから翡翠の瞳に宿った苦笑いは、間を挟んで春風にきらめく桜を愛でるような表情に変わった。海亀は、ヤヒロが先ほど口にした少女の名をそっと呟く。

    「しかしそうか、火遠理姫様か……お前は今、あのお方の傍付きだったな。もう務めには慣れたのか」
    「お心遣い痛み入ります。不慣れな事柄もありますが、当初よりかは」
    「そうか。それはよかった」

    優しげな光を帯びていた瞳に、ふと淡く影が落ちる。宵闇にふりまいた銀の輝きだけを軌跡として残し、自らは散ってしまった花弁を目にしたかのごとく。ただただ悼むような表情を宿した翡翠は、つかの間現実ではないどこかを眺め、ヤヒロではない誰かを見ていた。
    やがて、琥珀の飾り紐がささめく音に瞬きをした潮満は、穏やかな声の調子を変えずに言葉を継ぐ。

    「火遠理姫様は気丈な御方だ。人の身を、それもまだ幼くいらっしゃる身を病魔に食まれる苦しみは、俺には想像もつかないが」

    周囲は相変わらず赤く揺らめく光に満たされている。これは流される血の色か。それとも胸に秘められた痛みの色か。知る術もそれを求める心も持たない男の前で、涙を流すことがないとされる生き物は、続く言葉を口から零す。

    「そのような状況に置かれてもなお、あの方は愚痴一つおっしゃらない」

    夕暮れに照る黒漆の廊下に、幻の花弁が残した銀の輝きが泡沫と消えた。ささやかな苦さを含んで漆黒の道に滴った海亀の声が、三日前の夜に目にした少女の姿を揺り起していく。



    寝台の上に横たわった主は、きつく目を閉じていた。少女の唇から漏れているのは、微笑みに彩られた言葉ではなく、脂汗の滲む喘鳴だ。苦痛を鎮める湯薬を口にしてもなお、体のどこかが軋むのか、自らを覆う絹ぶすまの裾を固く握りしめている。純白の絹織物にしわを作っている指先はすでに血の気を失い、いつも以上に青白い。
    そのまましばらく浅い呼吸を繰り返した果てに、だんだんと息の乱れが落ち着いてきたかと思った時だった。不意に喉へ牙を突き立てられたかのように、少女は閉じていた目を見開き、口を片方の手で押さえる。かくして弓なりに背をそらしたかと思うと、壁に体を向けてから激しく咳き込み始めた。華奢な背を丸め、肺腑を焼く痛みを吐き出す少女を、夜の闇だけが包みこむ。
    やがて咳が止まると、少女は力なく寝返りを打った。肩を上下させ、小さく睫毛を震わせる脆い生き物を、ヤヒロは黙って見下ろす。そうしてぐったりと身を横たえている少女に絹ぶすまをかけ直した際、彼は彼女の長い髪が一筋、汗ばんだ首筋にへばりついているのに気が付いた。白い喉の動きに合わせて襦動する黒。奈落に住まう蛇の首締めにも見えるそれに、ヤヒロは冷えた胸の内で半眼になる。とりあえずは義務感から髪を払ってやろうとしたが、指が髪に触れるか否かのところで、か細い声に名を呼ばれた。返事をする代わりに手を宙に留めた男は、物問うように主へと顔を向ける。

    『ありが、とう。わたくしは……だいじょうぶだから』

    浅く目を開けた少女は、舌先に言葉を手繰り寄せようと必死に口を開く。そうして発される声は、耳に馴染んだ、柔らかく澄んだ琴の音ではなかった。泥濘の最中踏みにじられ、軋む弦が血を垂らした、無残な音の亡骸だった。

    『それより、わたくしにふれて、あなたに……あなたに、やまいが、うつってしまっては、たいへん……だ、から』

    言いかけた少女は息を詰めて体を背ける。苦悶の呻きを微量に混ぜた咳が、再び暗闇の中に爪痕を残す。やがてどうにか咳をおさめた少女がこちらに顔を向けたとき、ヤヒロは緩慢と瞬きをした大きな瞳が、普段と全く異なる表情を浮かべているのに気がついた。魔祓いの頭巾の下、男の片眉がぴくりと動く。

    『だから、いまはわたくしを……ひとりに、してください』

    うわごとめいた低い声に沈むそれは、まるで泉が枯れた後の穴の様相だった。日頃宿している穏やかな水面のきらめきを失い、重く光を吸うばかりの虚(うろ)。人間という生き物の芯を抜き取られた空洞が、今はただ微風を迎え入れている。このまま双眸を見つめ続ければ、黄泉路の果てへと至るのではないか。黒の瞳は、そんな錯覚を覚えそうになるだけの暗さと深さをたたえていた。
    ヤヒロは憐憫も嫌悪も、同情さえも抱かなかった。ただ体の奥底から這い上った疑問だけが、彼の心に奇妙な陰影を投げかける。

    (この瞳は一体何だ)

    少女が周囲の者達に対し、一線を引いて接していることはすでに察していた。自らにも、着物を召しかえる采女にも、同じ腹から生まれたはずの姉姫にさえも。目を伏せて微笑む時の少女は、貝のごとく己を閉ざしている。卑屈さでも悲しみでもない、もっと風化して色褪せた感情の殻に身を覆っているその様は、いつもどこか退廃的な匂いを感じさせるものだった。そして今、その匂いの根源は病魔の手により、彼の眼前に曝け出されている。
    深淵の底に埋められ、月光の下で姿を現したそれは真珠によく似ていた。癒えぬ渇きと痛みが交互に積層し、干渉しあって生み出すのは彼(か)の宝玉とは異なる黒だ。隠蔽になぞえられることもある闇の色は、先程の主の言葉が単なる気遣いではないことを示す。
    今にも砕け散りそうなほどに切迫した少女の瞳は、ある種の恐怖を帯びて彼の顔を映していた。自らが花を手折ることで、その瑞々しく繊細な美が生を手放すのを恐れるような外界への拒絶。嫌悪と根差すところを異(こと)にする怯えの心情は、これまで彼が目にしたことがない類のものだった。
    身の内に秘めた剣が鳴く。凪いだ水面に波紋が広がっていく。金の目をした巨大な幻魚が、偽った人の皮を食い破ろうと牙を剥く。

    (この娘は、内に何を秘めている)

    あの夜に湧き立ち、声を成すことなく胸の奥底に沈められていた問いが、揺り起された追憶の帯を結ぶ。回想の残滓を洗いながす現世(うつしよ)に心を引き戻す中、ヤヒロは緩やかに瞬きをした。海面をさまよう斜陽の朱に染まった手は、無言のままに少女の首から引いた時と同じく、何も掴んでいない。
    海原が鳴く。命の脈動を謳う波のおとないが、風になびく羽衣に似た軌跡を廊下に残していく。その流れに沿うように、努めて明るさを宿した浅縹の声が紡がれていく。

    「だからこそ。お前がよく勤仕すれば姫様のご負担も減り、お喜びになることだろう。もっともお前のことだ、心配はいらないと思うが……これからも務めに励めよ」

    潮満の言葉に、ヤヒロが感謝の辞を述べた時だった。廊下の始まりから潮満を呼ぶ声が聞こえ、二人は声のした方へと顔を向けた。それと同時に、牡丹唐草の蒔絵が金と青に咲く緋の柱の陰から一人の少女が顔を出す。腰に占めている亀甲花紋の帯は、冨亀家に仕える女性(にょしょう)がよく用いる代物だ。察するに、潮満の供の者らしかった。
    少女は潮満のみならず、見知らぬ主人の話し相手の視線まで引いてしまったことが気まずいらしく、ためらいがちに口を開きかけては閉じる仕草を繰り返している。眉を八の字にしている彼女に目を細めた潮満は、ヤヒロの方に向き直ると、にこりと微笑んだ。

    「ではいずれ、改めて。お体が全快なされた暁には、是非とも山幸宮へお見舞いに伺わせて頂きたいと、火遠理姫様にお伝えしてくれ」

    会話の切れ目を見てとったヤヒロも、穏やかに微笑み返して一礼する。

    「承りました。潮満様に、龍と青海原の加護があらんことを」

    別れの挨拶をしたヤヒロは、伴を連れた潮満の姿が見えなくなるまで礼の型を崩さなかった。かくして再び一人になった彼は、潮満が消えた方とは逆の方向へ足を踏み出す。沈黙を纏い歩んでいく男の足元は、夕日が揺れる黒漆の廊下から、真珠の照る渡殿の緋色へ移り、ついには山幸宮の白木の廊下へと変わった。そうして通いなれた道を渡り、巨大な桃色珊瑚がそびえ立つ中庭を通り過ぎようというとき、ヤヒロはふと足を止める。

    「それにしても、火遠理の御方様もお可哀想よね」
    「本当に。竜宮に生を賜れて以来、病魔に体を蝕まれておいでなのでしょう」

    先程まで話題に上げていた少女の名が聞こえたのは、すぐ近くの簾のかかった部屋からだ。どうやら数人の采女が寄り集まって話をしているらしかった。目を細めるヤヒロの横で、簾一枚を挟み、色の異なる声の影たちがさざめく。

    「宮入りの式にご出席あそばされたことがないのも、病のためというじゃない」
    「病が人の身に転ずる種のものであるから、でしょう。しかも不治という噂よ」
    「まあ、こわい……ではやはり、御魂(みたま)が欠けていらっしゃるという噂は本当なのかしら」
    「お世話をさせて頂いた者の話では、そのせいか、時折虚(うろ)のような瞳をなさるというものね」

    人目をはばかる響きを受けて、暗渠が鈍く光る。一見少女の身を案じるような声の数々が、恐れと哀れみを等しく底に宿していることの証を見る。そこから隠しきれずに滲み出る好奇の毒が、発される言葉の上に落ちてはその意味を濁らせていった。
    秘匿されるべき心から跳ねた感情の飛沫が、ヤヒロの耳を汚していく。

    「そうね。何というか、火照の御方様が陽でいらっしゃるのなら、火遠理の御方様は陰のよう……」
    「これ、滅多なことを言うものではないわ。誰が聞いているか分からないのよ」

    ヤヒロは静かに歩き始めた。義務を課されているわけでもなく、自らの益にならぬ話を聞き続ける道理はない。
    斜陽に沈む黄昏の端(は)を群青に染めようと、朧に透ける月を抱いた宵闇が、海原の果てから裾野を広げている。夜の気配が迫りつつある廊下を進みながら、男は穢れを払うように、胸中で低く呟いた。

    (……実に、くだらんものだな)

    耳にした声の群れは、各々の彩りが異なる一方で、皆一様にどこか安心したような響きを孕んでもいた。言葉を濁らせ泥と化し、好奇や憐憫や恐怖の礎となっているもの。言いかえばそれは、病に身を食まれた少女の存在を口にしたことにより、自らの健やかさを今一度確信したことから成る、奇妙な優越感だった。記憶の中で反響する人間の声に、ヤヒロは冷ややかな一瞥を投げかける。
    頭のめでたいことだ。優劣自体は、あくまでその時の立場から成るものでしかない。ちょうど月に誘(いざな)われて海底に根付いた珊瑚が、過ごす場所と経る時によっては、その身に息づく宝珠の色を変えるように。正誤も美醜も強弱も、状況次第で見る者の手の平を転がり、簡単に裾を翻す。
    ゆえに心の底で相手を見下し、相対的に自らの価値を上げたところで、後に尾を引いて残るのは姑息な本質のみだ。両の手を伸ばして縋れるような絶対的な立場など、この世のどこにも存在しない。
    そこまで考えて、ふと彼は思う。あの娘が先の采女たちの会話を聞けば、どのような顔をするのだろうか。いつか自分に向けたように、顔をこわばらせるだろうか。それとも、痛みに耐えるかのごとく、唇を引き結んで目をそらすのだろうか。
    あるいは、と淡い微笑みを頭の中に浮かべたときだった。主の部屋にあと数歩で辿り着くかというところで、唐突にかの部屋の扉が開かれる。金箔と銀箔が精緻な藤の切金(きりかね)文様を織り成している唐戸の陰から、逃げるように出てきたのは采女の少女だった。顔を着物の袖で覆った彼女は、ヤヒロの存在に気づくことなく、足早に廊の向こうへと姿を消す。すれちがいざまに鼻先をかすめていったのは、焚きしめられた花の香を濡らす、微量の涙の匂いだった。

    わずかに眉をひそめたヤヒロは、采女が出てきた扉の先を見る。
    唐戸に添えられた鈴の鳴く音が、目の前に開かれた部屋を鎖すように、緩慢と途切れていく。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 7:51:21

    鮫愛づる姫君:その四(前編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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