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    しおり
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    しおり
    鮫愛づる姫君:その五(前編)少女は再び夢を見る。
    胎児のように身を丸め、白い床へ長い黒髪を扇形に広げたホオリは、静かに目を開けた。地に伏した半身を浸す温度は、白磁の硬質さを帯びて冷たい。緩やかに上体を起こし、視線だけで周囲を見回したホオリは、その感覚が間違いではなかったことを知る。
    四季の移ろいを歌う窓もなく、永遠の常冬(とこふゆ)に黙している壁。明けそめし夜の紅緋(べにひ)を金に彩る暁光(ぎょくこう)も、暮れなずむ夕の藤紫を銀に綾なす星光(せいこう)も、曇天の彼方へと封じた天井。それら全ての礎となり、乳白色の眠りに落ちた静寂を水鏡のように映す床。目の前に広がる白一面の茫洋とした世界は、紛れもなくあの夢の部屋だった。
    ホオリは己の手を見つめた。華奢な少女の手のひらは、今度は薄鈍の霞と化すことはなく、青白い輪郭を保ったまま肉体の一部としてそこにある。ただ右の手ひらだけが、握り込んだ形のまま開くことができなかった。それは何か大切なものを手の内に秘めているがゆえだということは朧気に理解していたが、彼の物の名は叢雲に閉ざされて思い出すことは叶わなかった。清流に息吹く水縹(みはなだ)の涼やかさに澄む玉石の感触だけが、確かなものとして少女の心を桜の芳香に色付かせる。包み込むように右手に左手をそっと重ね、穏やかに息を一つ吐いた時だった。
    自らの成す所作以外は全て白に凪いでいるこの部屋に、どこからともなく雫が滴り落ちた。翡翠よりは深く、青碧(せいへき)よりは浅い色合いのそれは、奇妙な旋律を伴って床に細波を広げる。切れ切れの音曲(おんぎょく)の雫は高く低く調べを奏でながら、少女を中心に波紋を描いた。やがて音曲の雫は言霊の玉(ぎょく)と化し、連なる玉には呼び声の輪が通される。掠れた女の低い声音が作りだすのは、ホオリの名を冠した緑青の首飾りだった。

    自らの名を繰り返し呼ぶ声に、ホオリはわずかに目を見開く。
    貝殻の鈴の音だけが、遥か彼方で響きわたる。



    八雲立つ陸(おか)の国では、天から雨が降り注ぐという。白雲(しらくも)に梳かれた数多の銀糸が、地に葉に花に瑞々しく柔らかな福音の雫と化して舞い散る様は、まさに静穏の美と呼ぶにふさわしい。特に絹糸を連ねるように地上のものへ触れる際の音は、さながら神の紡いだ精緻な弦が、雲間に透けるほの明るい光にさざめき鳴るような、夢幻の響きに満ちているという。
    竜宮歳時記八ノ巻、陸の国の章を読み終えたホオリは小さく息をついた。満足げな吐息に金粉を撒く桜花と漂う少女の心は、天から地へと織り成される豊穣の歌を夢想する。神の言祝ぎに満ちたその音は、きっと美しいだけではなく、慈愛の調べに溢れているのだろう。巻物に記された文字をなぞりながら、海底の少女は穏やかに微笑む。そうして、萌黄の香も鮮(あざ)らかな若葉にきらめく雫の夢想は、淡黄の光を帯びて宙に輝く玻璃の月へと姿を変えた。ホオリは水玉(すいぎょく)を照らす薄陽(うすび)の声音で、こちらに近づいてきた海月たちの名を柔らかく呼ぶ。

    「ムツハナ、シラフネ」

    丸い輪郭に縁どられた透明な影が、広げられた巻物の上に落ちる。端正な文字に細波立つ双子の水影の主に、ホオリは静かに語りかけた。

    「ねえ、しっている?このあおうなばらにそそぐ雨は、波にふれればきえてしまうけれど、おかの国ではそのようなことがないのですって。とてもうつくしい音をかなでながら、かの国にあまねく生きる者たちへ、めぐみのしずくを降らせるのですって」

    ホオリは巻物に添えていた手を翻した。幻の慈雨に露濡れる白百合がごとく、少女の華奢な手のひらが、天に向かって花と開く。

    「きっと、とてもすばらしいこうけいなのでしょうね」

    天降(あまも)る憧憬が少女の瞳に星明かりを灯し、口元にまどかな弧を描く。そんな主の声音に芳(かぐわ)しい薫風の響きを感じたのか、海月たちは少女の指先に花房のような触手を伸ばした。明るさの増した淡黄の光を緩やかに明滅させながら、自らの指にそっと触手を絡ませる海月たちに、ホオリは麗らかな花笑みの音を零す。

    「ふふ」

    触手を握り返すように指を軽く曲げると、手のひらを満たす暖かな光が花房から発される。ホオリがその様子に微笑みながら曲げていた指を伸ばすと、再び海月たちは宙へと舞い上がった。夢を歌い巡るように、ゆっくりと己の頭上を回る玻璃の月たちを、ホオリは和やかな眼差しで見守る。そうして身を冷やさぬ為に肩から掛けていた竜胆色の布を、今一度かけ直そうと布の端(は)に指を伸ばした時だった。幾つかの金板が触れ合う音が後方から響き、少女の指先が驚きの錦糸に結われる。肩からかけた布に触れることなく背を振り向けば、そこにはホオリが予測した通りの人物がいた。指を綾なす錦糸が八重の結び目から銀粉と弾け、群青に輝く鱗へとその身を変える。

    「ヤヒロ」

    動揺の残滓を瞳に映した主を、ヤヒロは冷静な眼差しで一瞥する。それから略式の礼をすると、ヤヒロは畳に裾を広げている布を踏まぬように、ホオリへと一歩近づいた。

    「失礼いたします」

    低い男の声が竜胆色の布を通じて、少女の胸中に紺碧の雫を落とす。一片の花弁に似て心の泉に散ったそれは、こちらへ伸ばされる手の影と化して、澄んだ水面に瑠璃の波紋をさざめかせる。かくして、ヤヒロが己の肩に布を掛け直すまでの間、ホオリは息を詰めてその所作を眺めていた。呪い封じの長布に巻かれていながら、強張ることのない武骨な手が、暗い濃藍の水底に光を灯す。青い燐光に揺れる水を、闇の中で自らの手に包み隠すように、ホオリは侍従へと微笑みかけた。

    「ありがとう」

    布をかけ直すために身をかがめていたヤヒロは、目の半ばまで瞼を引き下ろした。泡沫一つ昇らぬ黒を湛えた瞳は、夕凪に沈む海原がごとく、紅の衣を纏った少女の姿を克明に映し出す。

    「いえ」

    短くそう返したヤヒロは、ホオリの傍から立ち上がった。薄氷を帯びた夜風の香が、竜胆色の布に包まれた少女の隣を涼やかに通り過ぎて行く。それからほどなくして、部屋の最奥にある窓を閉めたヤヒロの背を、ホオリは黙って見つめていた。貝殻の風鈴が微かに揺れ、男の纏う藍色の衣に追憶の雨滴を零す。

    『我が身に触れた時、姫様はすぐに私からお離れになりました。ゆえに、私には姫様を恐ろしいと感ずる理由がありません』

    月光に冴え渡る白刃のごとき声が、ホオリの胸の中で反響する。揺らぐ水面に蘇る異形の金の眼差しに、ホオリはわずかに目を伏せた。
    あの夜から時が巡り、月を抱いて水盆に映る紅葉が、風そよぐ浅緑から匂い立つ紅緋へと色を変えた今も、ヤヒロの言葉は錆びることなくホオリの中に在り続けている。それは彼が言葉通り態度を変えなかったこともあるが、何よりホオリが病床に伏しても彼女の傍にいるようになったことが大きかった。己の身を案じる主に有無を言わさぬよう、殊更きつく指に巻かれた呪い封じの長布。清水にすすがれ雪華に浮かぶ白妙の布を持ち、喘鳴が蝕む額の汗を拭い去る手。湯薬を掬った銀の匙をホオリの唇へ運ぶ際も、一切揺るぐことのない切れ長の瞳。熱に惑いながらも鮮烈に思い返される病床の記憶は、銀砂と化して群青の鱗に散り落ちる。憐憫ではなく、ただ己の理に身を通しているかのような振る舞いは、ホオリの瞳にひどく眩いものとして映った。人の忌避へと澱む身に、感情に煙ることなく接することはそうできたものではない。ゆえに銀砂に閃く群青の鱗は美しく、ホオリはそれを掌に収めて良いものか躊躇っていた。黄泉の泥から這い出るように産まれ出で、病魔の赤黒い触手がのたうつ身には、それはあまりに貴く、正体が分からぬものだった。ホオリは竜胆色の肩掛けに、指先だけでそっと触れる。

    (ヤヒロは言ってくれた。病魔とわたくしは別なのだと。そしてそれに証をたてるかのように、今日までわたくしのそばにいてくれている)

    布に添えた指先の影が濃くなる。あれから幾千となく繰り返した問いがホオリの喉を詰まらせ、心の泉を山吹の香に曇らせる。

    (なぜ。なぜ、ここまでしてくれるのだろう。そもそもあの時、気づかぬふりもできたはずなのに。めんどうだからと、目をそらすこともできたはずなのに。いつもヤヒロは、まるでつるぎのようなまなざしで、わたくしの瞳見(まみ)を揺るがずに見る。……それがヤヒロの心のありようゆえだと言うのなら、確かにそうなのだけれど)

    細波の止まぬ瑠璃の水面に呼応するかのように、百重に連なる鮮黄の花が揺れる。花弁が記憶にそよぐ度、白藍を透く岩清水に浸した傷が痛むような、紺青の水底に輝きを誘(いざな)う明星に焦がれるような。どこまでも温もることはないが、膿んだ血を流し去る清廉とした冷たさは、不思議と身に沁み入るものがあった。さざめく面影に山吹の花が散り、群青に浸された白い足を梔子(くちなし)色の霧で彩る。ホオリは密やかに胸を押さえた。

    (……この心持ちは、いったい何なのだろう)

    幽明の狭間に舞う少女の花弁は、やがて儚げな吐息の中へと攫われていく。ホオリは唇を閉じ、目を伏せたまま竜胆色の肩掛けを身に引き寄せた。ほどなくして顔を上げた時、ホオリはふと、海月達の様子が先程とは違うことに気がつく。

    「ムツハナ?シラフネ?」

    淡黄に煌めいていた海月の体は、幾多の斑紋を白星と抱く傘から、銀雪の花房がごとき触手に至るまで赤く点滅していた。シラフネが主の傍らに添うように天井から降りてきたのに対し、ムツハナはホオリを背にし、触手を広げたまま宙に浮いている。相対しているのは、いつの間にか部屋の奥から戻ってきていたヤヒロだ。冷然とした黒い瞳で己を見下ろすヤヒロを前に、ムツハナとシラフネはより一層赤い光を強めた。
    アカボシクラゲは、いわゆる肉声というものを持たない。意思を伝える言ノ葉の調べとして、彼らが持ち得るものは光だ。花萌ゆる黄は喜びを、月沈む青は悲しみを、天地沸き立つ赤は怒りを表す。転じて赤い光を点滅させている場合は、相手への警戒を意味するとされている。ゆえに、ホオリは当惑した。今までムツハナとシラフネがヤヒロと同じ空間にいることは何度かあったが、このようにヤヒロへ敵意を見せることなどなかったのだ。そう、まるで穢土より出でた異貌の者から、幼い主を守ろうとするかのように。
    竜胆色の布の下、ホオリの胸中に一陣の風が吹く。一瞬の逡巡の後に、少女は薄氷にそよいだ戸惑いの露草へ、浅紅色の覆いをかけた。淡い紅に眠る白菊を、声に発(ひら)いて差し出すように、ホオリは海月達に微笑みかける。

    「どうしたの、二人とも。大丈夫よ。ヤヒロは、わたくし達に害をなしたりしないわ。どうしてもこわいのなら、わたくしの指にもう一度とまって。あなたたちの御魂が安まる、小春凪(こはるなぎ)の歌をうたいましょう」

    黄檗(きはだ)色の灯火を言葉に宿し、少女はそっと海月達に手を伸ばす。だが、いつもは主に従順な対の月は、今日に限ってすぐ身を引くということをしなかった。ホオリが触手を優しく撫でても、波間をたゆたうように穏やかな声音を紡いでも、彼らの身に射す深紅は醒めることを知らぬまま、侍従へと向けられ続けていた。

    「どうしたのかしら。もどってきてから二日と経っていないというのに……薬師の方も、特に障りはないと言っていたのだけれど」

    しばらくの後、ようやく主の声に応じた海月達を水泡(みなわ)の籠に戻してから、ホオリは少しだけ眉尻を下げた。王族に飼われているリュウグウノツカイやアカボシクラゲは、月に一度、龍宮直属の薬師の元で、病を抱えているか否かを見定めるよう義務付けられている。それは彼らが希少な種であることも一つとして挙げられるが、かつて病に侵されたアカボシクラゲが、魂に射すべき光を見失い、護るべき主を害さんとしたという話が古より伝わっているためだ。ホオリの元で過ごすムツハナやシラフネも例外ではなく、大抵は薬師の元で月の半分ほどを過ごす。今回も葵色の香がひしめく薬師の部屋から、白木の芳しい山幸の宮へと帰ってきたばかりだったのだ。
    清澄な玻璃の輝きを取り戻した月は、やがて螺鈿の光沢を帯びた水泡に抱かれて眠る。青白い肌に淡く睫毛の影を落とす主に、ヤヒロは波立たぬ口調で言葉を連ねた。

    「今一度、薬師をこの場に呼び寄せましょう。診立てを終えて宮に戻るまでに、何か魂を変ずることがあったのか。それとも診立ての時点で病が身に潜んでいたのか。いずれにせよ、もう一度診て頂かない限りはその由もわからぬままです」

    ホオリはヤヒロを振り向いた。一瞬彼の黒い瞳に金の光が走ったように見えたのは、不安と心配に揺らぐ水面が見せた、遠雷の虚像だったのだろうか。

    「ええ、そうね。おねがいしてもいいかしら」
    「かしこまりました」

    朝霜を結う紅葉に顔(かんばせ)を曇らせたホオリに、ヤヒロは静謐な群青の雫で紡がれた声を返す。ただ、主へ一礼した侍従は、そのまま薬師へ文を出す支度に移ろうとはしなかった。黒漆の机に薄様を広げる代わりに、ヤヒロは障子へ鋭く視線を走らせる。

    「……ですが、その前に」

    剣の柄に手を掛けるような低い声音が、鞘に鎮まる群青から刃に研がれた薄氷へと色を変える。ホオリが目を瞬かせる間に、ヤヒロは身を翻し、障子の縁に手をかけた。白木の木枠を横に滑らせる所作は丁寧であったが、どこか剣を抜き放つ様に似て、眼前の光景に緊迫した鳴弦の音を響かせる。
    障子の開かれた先に在る庭そのものは、常と変わりがなかった。地にそびえ立つ白亜の巨岩は、それぞれ高さの異なる柱のように海上からの光を受けている。岩の所々に橙色の鞠と咲く磯巾着達は、金彩地(きんだみじ)の夢に微睡んでいた。紅紫や桃花色、淡黄檗(うすきはだ)色の珊瑚は静寂の羽衣を身に纏い、珠の如き白砂の上に淡い影を落としている。全てが眠りの最中に佇んでいるようなこの庭で、日頃動きを見せる物は無きに等しい。だが今日に限っては、紅紫の珊瑚の付近に赤い鱗を閃かせる姿があった。背鰭から身の半ばにかけて華やかに広がる紅緋の鱗は、腹部へと向かうにつれ、白銀(しろがね)を帯びた真朱(まそお)へと階調を刻んでいる。隈取りに似た青い模様を冠する眼は黄金(こがね)色だ。落ち着きなく周囲を見回すその物影が、マダイの氏族の者だとホオリが察するのと、ヤヒロが低く声を発したのはほぼ同時のことだった。

    「そこで何をしている」
    「ひえっ」

    いきなり声をかけられたことに驚いたのか、飛び上がるように身を竦ませたマダイは、幾分か情けなく聞こえる声を上げた。そうして再び周囲を見回したマダイは、欄干越しにこちらを見ている男の姿に気が付く。慌てふためき赤い胸鰭を上下させた彼女に、ヤヒロは何も言わない。凍てつく月白を纏う眼差しの内に、無言の圧力を感じとったのだろうか。珊瑚の陰から進み出た紅色の魚は、口早に言葉を綴った。

    「お、お初にお目にかかります、わ、わたくし、比目魚家にお仕えしております、ヒシコと申します!こちらを山幸の宮様へおとどけするよう、采女の方からたのまれて……でも、でも、道に迷ってしまってここに」

    上ずった声音でそう言ったヒシコは、細長い胸鰭で自らの胴の下を指し示す。目を凝らしてよく見れば、黒漆の箱が白銀の鱗のもとで微かに揺れ動いているのが分かった。箱から伸びる飾り紐を身に結わえた魚に、ヤヒロの低い声が降る。

    「その方の名は」
    「わ、わかりません……気が付くといなくなられておいでで……けれど、目も醒めるような芳しい、花浅葱の香を付けていらっしゃいました」

    ヤヒロは目を細めた。黒い瞳に秘められた剣が、怯える紅を前に鋭さを増す。

    「では、我が君へお渡しする前に、私が一度中身を改める。その箱をこちらへ」

    言われるがままに進み出たヒシコの背に、ヤヒロは迷いなく手を伸ばした。そのまま淀みない仕草で緋色の紐を解けば、黒漆の箱は誘われるように宙に浮かび、己の座す場所を白銀の鱗から真白(ましろ)の呪布へと移し変える。無骨な手の平に収まった箱に施されているのは、金の蒔絵に龍の螺鈿細工だ。玉手箱に用いられている物と同じらしいその箱の蓋を、ヤヒロは魔を祓うように一撫でする。それから油断のない手付きで開かれた箱の中身に、ホオリは思わず着物の袖で口元を覆った。
    いくつもの節に分かれた紅鬱金色の長い体。鎧に似た光沢を帯びる身の頭(かしら)を頂く五本の触角。外気に晒され鈍く艶めく巨大な二対の顎(あぎと)。黒漆の箱から現れたのは、十尺はあろうかというオニイソメだった。しかもそれだけではなく、全身が夥しい量の青い血に塗れている。節に連なる歩脚をところどころもがれたオニイソメは、横たわったまま微動だにしない。漆黒に広がる青い血溜まりが、呼気により細波立っていなければ、泥土に朽ちゆく骸と見間違うほどに。
    惨憺たる光景を前に、ヤヒロは声一つ上げなかった。代わりに箱から視線を上げ、悲鳴に青ざめた紅魚を冷気の増した瞳に閉ざす。

    「……これはまた、随分と斬新な代物だな」

    揺らぐことのない群青の声音の最中に、瞳の奥で抜き放たれた剣が薄氷に閃く。刃を首にあてがわれたかのように、ヒシコは大きく見開いた黄金色の眼を震わせた。

    「も……申し訳ございません!中身が、中身がこのようなものとは知らず……き、きっとこれは、何かの間違いで」
    「本当に、そうだと言えるか」
    「え」

    掠れた声を上げたヒシコに、ヤヒロは冷然と言葉を続けた。

    「神代の世の昔、己の境界を侵す者を一閃で両断する、大太刀のごとく強靭な顎(あぎと)を持つことから、オニイソメは綿津見御神から竜宮の守護を任されていた。ここにいるのはその末裔だ。それを血と泥土で穢し、あまつさえ忠誠の証たる玉手箱に納めて奉じるとは」

    無骨な手の平の内で、龍の螺鈿細工がきらめく。

    「どちらも意図無くしてできることではない。故に問う。お前は本当に迷ったがゆえにここまで来たのか。その釆女だと名乗った者の手引きのもと、この庭に侵入したわけではないと何故言い切れる」

    切れ長の黒い瞳を前に、ヒシコは懸命に首を振った。真朱の鱗の周りで、小さな水泡が弾けて消える。

    「そ、そんな……!龍の血をひく尊きお方に害を成さんとするなど、私は……私は、決して」
    「ならば、証をこの場で示せ」
    「そ、れは」

    震える声は恐怖の黒緋(くろあけ)に淀む。救いを求めて開閉する口は、もはや言葉を紡ぐ錦糸を持たない。涙に褪せる紅緋の鱗は、証の無いまま潔白の言葉を連ねても、更に疑いの毒が身に回ると知っている風情だった。そしてその様を前にしても、ヤヒロはただ目を細めただけだった。薄氷に研がれた刃は双涙をも断つ。

    「力無き様を演じているのなら大した技量だ。そうでなければ単に愚鈍だ。いずれにせよ、このまま帰すわけにはいくまい」

    首飾りの光を反射した黒い瞳が、金の虹彩を散らす。凍りついたように動けずにいるヒシコを映す眼差しは、あの夜の異形の魚に似ていた。それに気付いたホオリは、綴る言葉に群青の名を織る。そうして手を伸ばす代わりに、静寂に散る桜の声音で侍従の袖を軽く引いた。

    「ヤヒロ、まって」

    言葉を切った侍従は、視線だけでこちらを振り返る。ホオリはヤヒロの半歩後ろまで足を運んだ。剣の冷気に慄く紅魚を、少女は柔らかな綺羅で包むように微笑む。

    「ヒシコ、といいましたね。そなたの言葉を、わたくしも偽りではないとしんじたいと思います。ゆえに、そなたが本当に、その箱をぐうぜんのうちにさずけられただけだと言うのなら。邪鬼祓いの儀をうけて、それからあるべきばしょへおかえりなさい。それをそなたの善き心の、真の証といたしましょう」

    邪鬼祓いの儀とは、文字通り邪鬼を祓う儀だ。神殿で育まれた紅珊瑚の枝に魔を退ける桂の葉を結い、頭上で三度振る簡単な様式から成り立つ。邪鬼に憑かれた者は綿津見御神の力により浄められ、邪鬼そのものが青海原の眷属に変じていた場合は、頭上に雷が落ちると伝えられている。なお、元来邪鬼が憑いていない者はもちろん、邪鬼が憑いていただけの者にこの儀を行っても痛みなどはない。ただ朝の光にきらめき澄む泉に触れたような、清々しい気に満ち溢れるのみである。
    鱗の紅緋を蒼白のうちに無くしていたヒシコは、今度は呆気に取られたようにホオリを見つめた。それから徐々に氷が溶けるかのごとく、目の前の少女が誰かを理解したらしい。慌てて地に平伏したマダイの胴の下で、白砂が激しく弾け飛ぶ。

    「やっ山幸の宮様におかれましてはごっごご機嫌麗しく……あっ、いえ、申し訳、申し訳ございません!かようなつもりではなかったのです、どうか、どうかお許しを……邪鬼祓いの儀も謹んでお受けさせて頂きたく思いま……存じあげます!」

    頭を地に擦り付けんばかりの勢いに、ホオリは目を細めた。幼子の頭を撫でる慈しみの桜の音が、少女の唇から紡ぎ出される。

    「だいじょうぶよ、おちついて。では、儀が終わったら宮の入り口まで案内役をつけるわ。そこから先は、ひとりで道をたどっていける?」
    「は、はい!大丈夫で……何の問題もございません!」
    「そう、よかった。気をつけて帰るのですよ」

    花弁の綾なす穏やかな声色に、鮮やかな紅緋が色を無くしていた鱗に息吹く。マダイは何度も礼の言葉を述べたのちに、侍女へと連れられ邪鬼祓いの儀へと向かった。紅緋の尾が銀の水泡を棚引かせて錦の森へと消えるまで、男と少女は言葉を交わすことはなかった。やがてヤヒロがホオリを振り返り、薄氷の残滓がちらつく眼差しで主を映す。

    「よろしいのですか」

    ホオリは静かに微笑んだ。

    「もし本当にヒシコがわたくしに害をなす気なら、もっと危険の少ない方法をとるわ。だれがこんなことをしたのかわからないように。まちがっても仕えている家の名を出すことがないように。うたがいをいだかれたまま事をなし、ほしいものを手にいれても、いつかそれがもとで全てをうしないかねないのだから」

    磯巾着の黄が波間に射す光にそよぐ。遠くを見つめる夜半の泉をたたえた瞳は、舞い散る記憶を水面に映し、凪いだ少女の声音を紡ぐ。

    「比目魚家はシオミツどのによくつかえているときくわ。だから、このようなことをしても、得るものは冨亀家との亀裂のみでしょうし、ヒシコにしても、それは同じようなもの。気になるとしたら、あの子が言っていた花浅葱のうねめだけれど」

    言葉を切ったホオリは、視線を箱の中身に映した。青い血溜まりの中で今にも息絶えそうな蟲の姿に、形の良い眉が痛ましげにひそめられる。

    「……むごいことを」

    白い喉に血の滲むような細い声が、少女の瞳を鈍色に曇らせる。暗雲に翳る眼差しの最中に降る雫は、紺青の血杯を映して歪んだが、秋霖(しゅうりん)の彼方に消え去ることはなかった。ホオリはヤヒロを見上げ、静かな声音で呼びかける。

    「ねえ、ヤヒロ」

    ヤヒロは瞼を目の半ばまで引き下ろした。膿んだ傷口に悲哀を注ぐ雨が、雲間に射す一筋の光を息吹かせる様を、まだ幼い瞳の中に見る。

    「……助けたいと、仰せですか」
    「ええ」

    貝殻の鈴の音が、男と少女の間に波紋を描く。ヤヒロは瞬き一つ挟んで、主を見つめた。修羅の箱庭を手にした黒の瞳が、紡ぎ出される群青の声音に閃く。

    「姫様は、何故オニイソメが我らと同じ言葉を持たぬかご存知ですか」

    ホオリは侍従の問いに応えた。

    「かつて、オニイソメは綿津見御神から竜宮の守護を任された。けれど綿津見御神は、オニイソメやアカボシクラゲをはじめとした、鱗を持たぬ者たちに、人の言葉を与えなかった。邪鬼は人の言葉を操り人心を惑わそうとする。もしそうなった時のために、邪鬼の心を見抜いて竜宮を守る必要があったから。……そのように、きいているわ」
    「さようでございます。ゆえに我らの言葉はオニイソメには通じず、魂の有り様も異なる」

    金の虹彩が散る眼差しは、少女から蟲へと移る。続けた言葉に流れる群青は、再び冷気を増して月白に凍てつく。

    「これは確かに、竜宮の守護を担っていたオニイソメの末裔が一匹。ですがおそらく、背に描かれている紋からして、暗落(くらお)ちしたものと見受けられます」

    暗落ちとは、何らかの問題を抱えているがために任を解かれた、鱗を持たぬ者たちを指す言葉だ。そう滅多にいるものではないが、確かに血に塗れた蟲の背には、剣の一閃のもとに断たれたがごとく、真一文字が引かれた火炎宝珠が描かれている。根ノ国の焔に滾る黒鉄(くろがね)の色を刻まれたそれは、まるで焼印のようだった。時折、紋の下で脈動するかのように、深紅や鬱金が鈍くちらつく。

    「オニイソメは元来気性が荒い。加えて暗落ちしたものは、例え龍の血の流れる尊きお方に対しても、自らの理に定まらなければ牙を剥くこともある」

    一度言葉を切ったヤヒロは、不意にオニイソメの上に手を翳した。その瞬間、どこにそのような力を残していたのか、蟲は稲妻の紫電が走るより早く身を起こした。虚空を裂き男の肉を断たんと閃く顎はだが、瞳に映らぬ壁に弾かれて、その太刀筋を見失う。反動で身を仰け反らせ、宙に脚をもがかせるオニイソメを見下ろしながら、ヤヒロは言葉を続けた。

    「つまりは、このようなことが起こりかねません。もっとも先ほど結界を張ったゆえに、今はこちらに害を成すことはできませんが」

    ヤヒロは蟲から視線を上げた。冷気を纏う月白は剣を真開く異形の瞳へと姿を変える。ヤヒロはホオリを見据えた。金の眼を持つ巨魚が、蒼色を帯びた薄氷を通じて夜半の泉へと降り立つ。

    「それでも、助けたいと仰りますか」

    低い男の声音を梳いて、雨雫のように落ちる群青の鱗が、少女の瞳に波紋を描く。触れた白い指先をほのかに赤く染める鱗は、端々に至るまで氷晶の蒼を模していた。だが同時に一点の曇りもないそれは、心根を見定めるかのように鋭い光を帯びて、少女の呼吸を束の間止める。恐怖ではない。鱗を通じて静寂に佇む異形の姿に、酷く魅入られたためだった。しばらくの沈黙ののち、ホオリは唇を開く。雪解けに流るる白緑の葉を彩る、少女の静かな声だった。

    「……ヤヒロ、わたくしはね」

    ホオリは小さく息を吸う。続く言葉を黙して待つ異形に、少女は声を紡ぐ。

    「時折、ムツハナやシラフネと遊んでいても、おもうことがあるの。あの子たちがもつものは、わたくしたちが心とよぶものとは、かけはなれたものなのかもしれない。同じものを抱えているようにみえて、本当はまったくちがうものをかかえているのかもしれないと……いえ、きっと、本当に、ちがうものなのでしょうね。けれど、それは」

    ホオリは水泡の籠を振り向いた。双子の月は時折淡黄色の光を点滅させながら、微睡みに包まれている。少女の唇に浮かんだ柔らかな笑みが、六花のきらめく白緑に、たおやかな紅梅の香を織り込む。

    「わたくしたちが人として暮らすように、そしてわたくしたちが人のたましいの根として大切にしているものがあるように、あの子たちがアカボシクラゲのたましいの根として、大切にしているものがあることを、同時にしめしているのではないかと思うの。まだ、わたくしには、あの子たちのたましいの根が何なのか、本当にわかっているとは言えないけれど。でも、人のたましいの根についてなら、わかることがあるわ」

    夜半の泉を抱く瞳が、水泡の籠から黒漆の箱へと映すものを変える。紅梅の微笑みは散り、紺桔梗の憂いが面影に射す。それでも完全に消え去ることなく、散った紅梅は伏せられた少女の睫毛の上で白銀の光に透け、憂いの最中に真摯な響きを咲かせる。

    「どうか、いたみやくるしみに苛まれている者たちのこころが、いやされますように。龍と青海原の加護のもと、幸魂にみたされますように。……たとえ、じかに救うことができなくても。もしいのちが尽きるのをまつこといがい、できないのだとしても。死んでしまうのだからと泥の中に置き去りにするのではなく、そう祈るこころをもって、いたみやくるしみに触れること。さいごまで、こころをこころとして見つめること。それがきっと、ひとのたましいの根の一部をなすもの」

    ホオリはオニイソメから顔を上げ、今一度ヤヒロを見つめた。異形の瞳を映す少女の泉が、夜半の黒から曙の朱華に染まり、暁風(ぎょうふう)のきらめきが水面に満ちる。

    「だから、たとえたましいの理がちがっても。この子を助けられるならわたくしは助けたいと思うわ。けれど、それが叶わぬというのなら」

    引き結ばれた少女の唇の端が、滴り落ちる痛みの紅玉に滲む。ホオリは両の手を握りしめ、琴の音を爪弾く。

    「そうすることで、この子のたましいの根をけがしたり……かりにわたくしの身に何かおこって、あなたの身にきけんがおよんでしまうのなら。せめて、せめてこの子が、やすらかにねむれるように……」

    閉ざした言葉の続きは、金と黒の目交いの絹糸に織られる。沈黙と血に透け、それでも光を湛える少女の瞳に、異形は金眼を細めた。それは糸に織られた朱華の言葉の雫を、瞳に受けたがゆえなのか、それともまた別の何かに気付いたがゆえなのか。真実を知る術のないうちに、金の瞳は黒檀に眠る剣の鞘に納められる。次にヤヒロが声を発した時、その眼差しに彩なす色は人間の宿す黒だった。

    「……姫様の御心はわかりました。では、このオニイソメは私が預かりましょう」
    「え」

    目を見開いたホオリの前で、黒漆の箱が閉じられる。緋色の紐を再び箱に結い直しながら、男は淡々と群青の声音を綴った。

    「オニイソメは生への執着がとりわけ強い。その魂の在り方は肉体にも水鏡のごとく映し出されております。すなわち身の造りは頑丈。このまま数刻も捨て置けば死ぬるでしょうが、今ならまだ黄泉路を渡ることもない」

    ホオリの面差しに射していた不安の青藤が溶け去る。代わりに唇から落ちた琴の音に、驚きの浅緑がそよぎゆく。

    「たすけて……くれるの?」
    「出来うるならそうしたいと、そう仰られたのは貴女だ」

    ヤヒロはそっけなく返した。八重結びにされた箱の蓋を、無骨な手が穢れを薙ぐようにもう一度撫でれば、白い光の珠玉が龍の螺鈿細工に散る。

    「ただし、御身を危険に晒すわけには参りません。ゆえに、このオニイソメには近づかれぬとお約束下さい」
    「……わかったわ」

    約束を結んだ声音を新たに、ホオリは唇を開いた。黒漆の箱を手に去ろうとする群青の背に、薄紅の花弁が紅涙のごとく静かに散る。

    「……ヤヒロ、ありがとう。その……たすけることを、えらんでくれて」

    ヤヒロはホオリを振り向いた。切れ長の鋭い眼差しに、少女の青白い面差しを映す。

    「……いえ」

    首飾りの金板が鳴る。
    男の黒い瞳に、金の光がつかの間閃く。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 7:59:30

    鮫愛づる姫君:その五(前編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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