鮫愛づる姫君:そのニ男は薄暗い回廊を歩いていた。数軒おきに廊に並んだ丸柱をいくつも抜けながら、時折遠くを見るように目を細める。そのつど金の首輪の垂れ飾りが、しゃなりと音を立てては揺れた。
朱塗りの御殿と呼ばれる通り、竜宮は内部も華やかだ。柱は鉱物の緋色に塗られ、白い壁には唐獅子と牡丹唐草の彫刻が施されている。輯瑞竜宮(しゅうずいりゅうぐう)と書かれた扁額(へんがく)を支える梁も柱同様に赤く、箔絵で描かれた雲がただよっていた。
足を導く黒漆の廊は磨きぬかれており、宮の奥へと長く続く様は音のない川を思わせる。一寸先を照らす海蛍の光が、ぼんやりと青い尾を引きながら床の上をすべっていく。
「よいか、和迩(わに)よ」
宮の最奥まで来たとき、不意に前を進んでいた翁がこちらを振りむいた。瞳を伏せると、両開きの扉に描かれた龍が、ねめつけるような眼差しで男を見下ろす。喧騒は切れ切れの夢のように遠い。静けさだけが空間に水を張っている。
そうした中で翁の声が重々しく響き、沈黙に波紋を描いた。天井からぶら下がった無数の灯篭が、粟立つように小さく震える。
「お前がこれからお仕えするのは、乙姫様が御子(みこ)、火遠理姫様(ほおりのひめさま)だ」
深く垂れた頭の上で、翁の声が低くなる。言葉に潜んだ影が矛を取り、その切っ先を男に向ける。
「くれぐれも、妙な振る舞いをするでないぞ」
「……心得ております」
眉一つ動かさぬまま、男は言葉少なくそう返した。いかにも気に入らなさそうに男を眺めまわした後、翁はふんと鼻を鳴らして身をひるがえす。そうして軋んだ音を立てて開いた扉が、廊に射しこむ日射しを用いて別棟へと続く道を示すのを、男は黙って見つめていた。
わずかに吹き込んできたそよ風の甘い香が、彼の鼻先をかすめていく。
「参るぞ」
扉を通る翁に続いて、男も再び歩き始めた。廊を二列に並ぶ巨大な貝に抱かれた真珠が、ひっそりと輝きながら彼を見送る。
人のものではない横顔を、その純白の身に映して。
*
まげを整え、えりを正し、ホオリは深く呼吸をした。采女以外の者に会うのは久方ぶりだ。まだどこかそわそわとした気持ちが、心の灯火を揺らめかせているのを感じながら、ホオリは鏡に向き直る。簪(かんざし)につけられた銀細工が、天降る星の音を奏でてきらめいた。
鏡面に映るホオリの姿は、まだ十にも満たぬ子供のものだ。桃色の衣をまとった体は、花の茎によく似て細い。長い黒髪とは対照的に、やや面やせした顔は青白く、睫毛を伏せれば消えてしまいそうに儚く見えた。形のよい大きな瞳は澄んでおり、真昼の湖面のように世界を映して輝くことはあまりない。常に夜半の泉の静けさをたたえ、時が流れていくのを穏やかに見守っている。
華奢で繊細な、雪造りの小さな少女。総じてそのような印象を与える容姿だ。薄い唇でほんのりと形作られる笑みも、またどことなく淡い。
首飾りの位置を正したのち、ホオリは鏡台に背を向け、衣替えの間を後にした。部屋の外で待っていた采女に連れられ、御座に通ずる階段をゆっくりと登る。
輝く鋲(びょう)の打たれた扉を開け、中に入ったホオリは目を丸くした。藤色の帳に仕切られた空間を、クラゲが二匹ほど漂っている。まるで双子の玻璃(はり)の月がまどろみながら宙をさまよっているような光景に、名を呼ぶ声が驚きに染まった。
「ムツハナ、シラフネ」
飼い主の声に応える代わりに、クラゲたちはくるりと宙で一回転した。そのまま差し出された手の上まで舞い降りてくると、無言のままホオリの指先にすり寄るような仕草を見せる。どうやら部屋を抜け出し、ここでホオリを待ち伏せていたものらしい。いつもと様子が違う主を案じているのだろうか、今日はなかなかホオリから離れようとはしない。
ホオリは小さく息をついた。そっと二匹のかさを撫でると、花房に似た触手がゆらゆらと揺れ、丸い体は黄色く光る。その光は龍の燭台に灯された火よりも、ずっと明るく温かみを帯びているようにホオリの目に映った。しばらくすると幾分か励まされた心地になり、少女は優しい口調でクラゲたちに呟く。
「ありがとう、わたくしはだいじょうぶよ。だから、おまえたちもいいこでまっていてね」
二匹のクラゲが去ったのち、ホオリは朱塗りの椅子に腰かけた。長い髪を払い、背筋を正す少女の影を、椅子の両隣にすえられた燭台が照らし出す。
少しして、若い女が来客を告げに来た。彼らをここへ通すよう言いつけてから、ホオリは静かに帳を引く。目の前にひらけた空の座敷に、再び緊張の波がくるぶしを浸し始めたころ、それは姿を現した。
岩のように大きい銀鼠色の体に背負われた、小山のごとき甲羅。平たい四肢の中でも長大な前脚。心持ちまなじりの釣り上がっている、青い鉱石めいた目。
現れた巨大な海亀は、窮屈そうに扉を抜け、ホオリの前に進み出る。そうして翡翠や琥珀の小玉を連ねた飾りひもを長い尾になびかせながら、深く頭を垂れて辞を述べた。
「お久しゅうございます、御方様。冨亀塩椎守(ふきしおつちのかみ)、ただいま御前にまかりこしましてございます」
「まあ、シオツチ」
先程とは違い、今度は嬉しい驚きで声が跳ねあがる。が、顔をあげたシオツチの様子から、ほとんど叫ぶような声音になってしまったのに気付き、ホオリは慌てて口元を袖で隠した。
乙姫とは龍王と対をなす号であり、また竜宮を治める女性に受け継がれてきた号である。その長い歴史をさかのぼれば、龍王と共に底綿津見の御神から宮を賜ったという、初代乙姫にたどり着く。
初代乙姫の名は亀姫といった。彼の御方は名の示す通り、もともとは海亀一族の姫であったという。
亀姫は優れた占(うら)の才能をもち、また聡明であったが、身のうちに秘めていたものはそれだけではなかった。姿形を亀にも人にも自在に変ずるという、稀有な力を持っていたのである。
かくして、亀姫は人の姿に変じていたところを龍の若者に見初められた。やがてそこから種々の経緯を経て、龍のもとに嫁いだ亀姫は、夫とともに竜宮王家の礎を築くこととなったのである。
今も残る名は体を表すのみならず、そこに連なる縁を血脈として続かせていく。亀姫が乙姫の座についたのち、亀姫の生家であった海亀一族は御神から冨亀の号を賜り、青海原随一の豪族としてその名を栄えさせた。現在ではシオツチが家長の座に就いており、今日に至るまで竜宮王家によく仕えている。
「今日はお加減もよろしいようで、爺(じい)は安堵いたしました」
そういった理由で、目の前の大亀はホオリが古くから馴染んだ数少ない者だ。微笑むようにしわんだ瞼を瞳の半ばまで下げたシオツチに、彼女ははにかんだ笑みを返す。
「そなたも、そくさいのようでなによりです。しつむのほうは、もうよろしいの」
「幸いなことに、あらかた片付きましてな。ですが姫様の為なら、爺はいついかなるときも駆けつけますぞ」
「ふふ、ありがとう。ところで」
ホオリはいったん言葉を切り、部屋の中に視線を走らせた。
「ははうえがわたくしにつかわされたという、くだんのかたはどちらに?」
人影と呼べそうなものは、御座を中心にして居並ぶ采女たちと、シオツチしか見当たらない。面差しを傾げたホオリに、大亀はかしこまった様子で頷くと、御座の前から少しばかり後退する。それと時を同じくして、何かがしゃなりと鳴る音が響いたかと思うと、戸口から一人の男が姿を現した。
すらりと背の高いその男は、采女たちと同じように覆面頭巾を被っていた。藍色の上衣に帯を締め、足結(あゆい)を結んだはかまは白い。頭巾の下からわずかに覗く金の首輪には無数の垂れ飾りがついており、彼が歩を進めるたびにちらちらと揺れた。
切れ長の目は、城中の人々と同じく黒を宿している。そして、ホオリはふと、男の黒が刃の鋭さを帯びて、自分を映していることに気がついた。どことなく醒めた雰囲気をまとっているように見える中、人を容赦なく裁く類の眼光は、ある種の異様さを伴って幼い少女をどきりとさせた。奇妙な威圧感が胸をふさぐ。
だが、それもまたたくような間のことで。ホオリがはたと我に返ったときには、男は御座の前にひざまずいていた。膝にそろえた両手を握りしめたままのホオリを、緊張していると見たのか、シオツチが穏やかな口調で説明する。
「この者はヤヒロと申しましてな。我が冨亀の家に仕えていたところを、乙姫様が直々に召されたのでございます」
「……お初にお目にかかります。身の回りのお世話をおおせつかまつりました、ヤヒロと申します」
大亀の視線と言葉を受け、伏せた顔の下から紡がれた声は落ち着いていた。まるで琵琶の低音のような声だと思いながら、ホオリはつとめてもの柔らかな声を出す。
「かおをおあげになって」
ゆっくりと顔をあげた男は、こちらを瞬き一つせずに見返した。自分を見る黒い目の奥に宿った鋼の光に、ホオリはほんの一瞬身をすくめそうになる。それでも、いくばくかのを冷たさを伴って胸中に芽吹いた怯えに覆いをかけ、ホオリは男に微笑みかけた。
「ヤヒロ。わたくしはからだがよわいゆえ、そなたにはなにかとふべんをかけるかとおもいますが。これからは、なにとぞよろしくおねがいもうしあげますね」
男は再び瞳を伏せた。発される声は相変わらず低く、寸分の乱れもなかった。
「勿体なきお言葉にございますれば。御方様の名に恥じぬよう、この身を賭してお仕えさせていただきます」
*
「ムツハナ、シラフネ、ただいま」
侍従の任は明日からという取次により、ホオリは采女のみを引き連れて自室に戻った。扉を開けるなり、すぐさま寄ってきたクラゲたちを撫でてやりながらも、思いを巡らせるのはヤヒロと名乗ったあの男のことだった。
(いったいどういったごじんなのかしら)
王族の、という枕詞がつくにしても、侍従一人に冨亀の長をわざわざ同行させるとは、いささか大仰なことのように思えた。普通そのような扱いをするのは、その家の血を汲む者であるか、よほど高貴な身の上であるかのどちらかである。あるいは。
(どこか、ふつうではないおかたなのか)
まげを解いた髪を内衣にすべらせ、ホオリは遠くを見るように目を細めた。クラゲたちがふよふよと身の回りを漂う中、泡沫に浮かぶように切れの長い瞳を思い出す。
その夜、しとみ戸から射した月の光は、白刃の煌めきによく似ていた。