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    鮫愛づる姫君:その七(中編)「あ……」

    唇から漏れたか細い声が、群青の鱗に雫を散らす。腕輪を贈られたあの時から、ヤヒロは時折笑みを見せるようにはなっていたが、このようにホオリへ触れるのは初めてのことだった。棚に飾られた銀の蟹の彫像が、視界の端で淡く煌めく。
    人と異形とで心の成り方は違えど、ヤヒロはホオリから目を逸らすことはない。ホオリを見定めると言ったあの言葉に偽りはなく、ただホオリが在ることを在るとだけ認識し、正しく距離を保つ金の瞳は、瞳孔に刻まれた白刃がごとく鋭く、青い月光を射す清水に似て、怜悧に冴え渡っている。だが、あまねく全てを照らし出す神とも、己の内に見出した唯一無二を抱いて歩む人間とも異なるその眼差しは、今は何故か常とは違う静謐さを湛えていた。夜(よ)の泉に惹かれる少女の白い指先が、縹に揺れる己の水鏡と触れあうかのように。黄昏に高くそびえる天が、碧色に瞬く海原と、銀雨の調べで結ばれるように。本来ならば決して巡り会う筈のない者と、影を重ねる月蝕の響きが、少女の黒い虹彩を金環で彩り、頰に群青の標を落とし行く。
    ホオリは息を詰めて、金の瞳を見つめ返した。自らに触れている異形の手のひらは、薄氷を帯びた夜風に似て、人の肌より遥かに冷たい。真白の呪布を纏いながらも、暗渠に潜む鱗の硬質さを伝えてくる指先に、少女はあの夜の面影を思い出す。

    (やはり、あなたは)

    白銀に散る琵琶の残響に、黒い瞳は波紋を広げる。夜闇に冴える清水の飛沫に、少女の長い睫毛はかすかに震えた。水面へと泡沫を零す貝殻から、水底に潜む剣の鞘に指先を伸ばせば、静寂を纏う黒檀の鞘は、少女を映す根拠の鏡へと変わる。

    (やはり、あなたは、わたくしの……さいごの)

    金の瞳は凪いだまま、瞬き一つせずに桜花を宵闇に留める。ホオリは緩みかけていた手を握り締めた。夕凪に沈む水鏡に真昼の光を射すように、少女は唇に弧を描いて静かに異形を見つめ返す。触れるわけには、いかなかった。それでも、泉に澄む月光の涼やかさは、確かに零れ落ちることなく、手のひらの中にあった。
    風にはためく薄紅の袖の影を目元に引くように、ヤヒロは瞼を瞳の半ばまで引き下ろす。異形は緩やかに少女の頰から手を引いた。糸を引くかのように幽鬼の指先に掛かった黒髪が、扇を閉じるかのごとく少女の白い頰に触れ、目交いの泉に闇色の帳を下ろす。

    「ところで」

    現世に寄せる波の声音に、ホオリは浅く目を瞬かせた。不思議そうに面差しを僅かに傾げた少女を前に、ヤヒロは淡々と言葉を綴る。

    「近頃は、よく眠れているのか」

    明るい陽の光を透く長い睫毛が、微睡みから目覚めるように少女の虹彩に金粉を弾く。書棚と同じ銀鏡が角に煌めく、移動式の黒い階(きざはし)。宝珠を抱いて眠る龍の螺鈿細工が施された、数多の硯箱。黒漆に銀の箔絵で描かれた、麒麟と葡萄の花瓶にきざす白牡丹。群青の魚影は波の穂を踏み、人に連なる物を背に佇む。ホオリは静かに、だが柔らかな薄紅の灯を宿した声音で頷いた。

    「ええ」

    少女は胸の前で両手を重ね合わせる。

    「とても、とてもよくねむれているわ。まるで夜闇がわたくしを包んでくれているかのように、ひとひらの夢も見ないの」

    澄んだ朝露に照る桜花に、曙光に似た翡翠の玉が艶めく。少女は東雲を渡るそよ風がごとく、軽やかな笑い声を群青の影へと紡いだ。

    「きっと、あなたがくれた腕輪のおかげね」

    白い指先が腕輪をそっと撫でる。華奢な手首を伝う瑠璃の緒が、衣の袖にさらと揺れ、薄絹の刺繍の縁をなぞるように、姉の声の残響を水面へと広げていく。

    『その腕輪は?』
    『ヤヒロがくれたものです。夢見が良くなるようにと』

    はにかむようにホオリが笑むと、姉姫は目を細めた。花笑みの芳香が揺蕩う絹ぶすまに、鋼の煌めく眼光が落ちる。

    『……ふうん、そうなの』

    眼差しは翡翠を穿つ銀針と化して、金の小鈴が澄み渡る声音を低くする。ホオリは奇妙な感覚を覚えて姉を見た。まるで気に入っていた人形の手首を繋ぎ合せたのが他者であることに、暗雲を湧き上がらせたかのような面差しは、日頃の光り輝く珠のごとき美とは対極に座すものだった。縹深き瞳に広がる黒雲が孕んでいるのは、波間を裂く雷なのか、地に凍える霙(みぞれ)なのか。どちらとも分からなかったのは、姉姫の顔(かんばせ)に何の表情も浮かんでいなかったが為だった。ただ瞳だけが暗く、翡翠の腕輪を見つめている。
    だが、それも束の間のことだった。ホオリが瞬きをした次の瞬間、ホデリは陽に透いた金剛石が、花に舞うような笑顔をこちらに向けていた。いつもの眩い鈴の声音が、五色に漱がれた天女の羽衣がごとく、無垢な姉を明るく彩る。

    『すてきね。よく似合っているわ』

    銀針は泡沫に溶け、宝玉の欠片が微笑む桜花の水面にさざめく。そうだ。やはり先程の眼差しは、見間違いだったのだろう。仮に思うところがあったのだとしても、姉上は唇に大輪の牡丹を咲かせるのに似て、清(すず)らかな微笑を手向けて下さったのだ。それは、ヤヒロが瑠璃の緒を翡翠の玉(ぎょく)に連ねたように。闇に密やかな傷痕に触れる月光と、碧にあまねく全てを照らし出す日輪とでは、根差すものが異なるが、桜花に宿る綺羅星の灯を消さぬように在る点では、酷く似通いあっている。だからこそ。だからこそ、己は今、問わなければならない。
    ホオリは重ね合わせた両手に力を込めた。水面へ立ち渡る東雲を瞳に、瑠璃の緒が涼らかな玉石の音(ね)を奏でる。

    「……あのね、ヤヒロ」

    口調を改めたホオリに、ヤヒロは眼差しだけで応じる。少女は言葉を続けた。

    「この間の、言いかけていた話なのだけれど」

    言いながら、己の声音を確かめるように喉へと触れる。今は言葉を焼く熱はない。やはり腕輪の力が病魔を弱めているのだろう。そして四陣の鏡が存在するこの場では、連ねる言葉を邪な者に聞かれることもない。ホオリは確信を深めて、ヤヒロの瞳を見つめる。

    「あなたから、この腕輪をもらう前。ときおり、夢をみていたの。浅緋色の衣をまとった乙女が、泣いたり、とてもいたましい声でさけんだり……ここにはいるべきではないのだと、言われていたり」

    面差しに添う黒髪が、少女の青白い頰にささめく。降ろされた帳の合間を架けるように、薄紅の花弁が紡ぐ言葉の端(は)から、浅緋の慟哭が聞こえる。己の影の中で嘆く見知らぬ乙女の輪郭は、肌を紅涙に裂く薄刃そのものだった。ホオリは震える背を両の手のうちに手繰り寄せるように、静かに睫毛を伏せる。

    「夢は、もう一つの現世ともいうでしょう。先のこともあって、単なる偶然とも思えなくて。だから、もしかしたら……」

    夜半の泉は、浅緋の花から群青の鱗を映す。

    「むかし、何か似たようなことがあったのかもしれないと思ったの。それで、あなたなら、何か知っているのではないかと思って」

    そこまで言葉を紡いでから、ホオリは口を噤んだ。ヤヒロの瞳には、先程の浄弦に澄んだ月光の射す凪は無かった。否、消えていたと言った方が正しいのかもしれない。代わりに金眼に浮かび上がっていたのは、黒檀の鞘から引き抜かれた剣だった。天を裂く紫電のごとき苛烈な殺意と、奈落の底の魍魎を惓(う)む凄絶な嫌悪。鋼の刀身を冷ややかに、だが確かに群青の暗渠へと侵したそれは、ホオリを通して別の何かに切っ先を向けている。まるで少女の足首に絡む白い手を、一閃のもとに斬り捨てようとするかのように。
    ホオリは背を冷たいものが走るのを感じた。ヤヒロのこのような瞳は見たことがない。眼差しに言葉を乗せて突きつけることはあっても、それはあくまで心を問う為であり、誰かの口を封じるためではなかった。ゆえに、刃を覆う薄氷をそっと指先で融かすように、少女は異形の名を呼びかける。

    「ヤヒロ?」

    桜花の声音は刀身に清水を流す。異形は少女の呼び声に、緩やかに金眼を瞬かせた。雷鳴の翳りは少しばかり遠のき、叢雲から仄かに出づる月が、銀の睫毛を鍔鳴りの音に彩る。

    「……いや」

    低く呟いた異形は、今度は少女の面差しを見た。剣は鞘に収まっていたが、油断のない眼差しが薄紅の衣を映し出す。

    「その女は、お前の名を呼んでいたか」
    「いいえ」

    ホオリは首を横に振った。

    「前に一度、違う夢で呼ばれた気がしたけれど……あの乙女とは、違う声だったわ」
    「そうか」

    異形の尾は真昼の宙を巡るように、少女の前で僅かに揺れた。寄せては返す思考の波間に、群青の三日月は追憶に傾く。やがてヤヒロは、薄紅の花弁に月白の雫を落とすように、言葉を紡いだ。

    「心当たりはある。だが」

    金眼に剣の残光が閃く。ヤヒロは今一度誓約を刃紋になぞるように、低い声音でホオリに告げた。

    「証のないことを、無用に口にすることはできない」

    白刃が如く刻まれた瞳孔が細くなる。桜花に滴り落ちた月白の雫は群青の鱗へと変わり、暗渠へと波紋を描く。

    「……ただ、言えることはある」

    声音に連なる群青は深さを増す。地を這う毒蛇を穿つように、咎に塗れた悲鳴を断つように、異形の瞳は昏く真紅の最果てを映し出す。

    「浅緋色の乙女と、かの呼び声の主には近づくな。名を呼ばれようが、眼差しを交えようが、その場から決して動かず待て。声も返すな。それでもなお、手を引かれそうになったのなら、お前の魂の寄る辺を思い出せ。夢から現(うつつ)へと目覚める筈だ」

    ホオリは浅く目を見開いた。見知らぬ記憶に立つ鋭い剣の水影に、夜半の泉は六花の細波を広げる。

    「……それは」

    頰に添う黒髪が、清水に流れ落ちた薄氷の響きにささめく。凍てつく雪片に惑う桜花の水面に反響するのは、ただ浅緋色の乙女の啜り泣きばかりだ。ホオリは青ざめた指先を己の手で包むように、ヤヒロへと問いかける。

    「それは、たとえ、あの人が……ないていても?だれかに……だれかに、たすけを……もとめて、いても?」
    「ああ」

    ヤヒロは目を細めた。白刃を射す金眼は暗渠の底に黄泉路を拓き、見知らぬ巨魚の尾が浅緋の花を闇の底へと薙いでいく。

    「お前にとって、見殺しの形をとろうとも。決してだ」



    ホオリは絹ぶすまの上に視線を落とした。今日は窓辺に射す魚影はない。夕暮れの波間に微睡む、黄昏の揺らぎだけが室内に満ちている。

    (……ヤヒロは)

    少女は軽く手を握りしめた。純白の絹に淡く広がる金の細波の中心で、翡翠の腕輪が仄かにきらめく。

    (ヤヒロはなぜ、あのようなことを)

    あの日以来、ヤヒロと夢の話は一度もしていない。未だ心の水面に漂う、雷鳴に翳る金の瞳に呼応するように、あの夢さえも見ていない。まるでホオリが瞼を閉じる前から、浅緋の乙女など何処にも立っていなかったかのように。
    だが、現に翡翠の腕輪がここにある。身に付ければ魔を退けるのだと告げた、他ならぬヤヒロの手によって。

    (……ねむる前に付けるといいと、あの日ヤヒロは、そう言っていた)

    翡翠の玉に連なる金の鎖が、青白い手首の上でさらと鳴る。腕輪を纏ったあの日から、脚に絡む真紅の糸を断ち切ったかのように、ホオリは夢を見なくなった。おそらくホオリに腕輪を贈った時点で、ヤヒロは何かを察していたのだろう。それがあの浅緋の乙女に関連すると知っていたのかまでは、ホオリには分からない。あの時の金の瞳に浮かんでいたのは、思いもよらぬ名を出された動揺などではなかったからだ。告げられた浅緋の輪郭に落ちる魚影は、憎悪の熱こそ無けれど、余りに昏く、余りに酷薄としていた。薄氷に研ぎ澄まされた刃の軌跡をなぞるように、少女は緩やかに目を閉じる。

    (ヤヒロがわたくしにしてくれた忠告は、あまりに細やかなものだった。それはきっと……あの凍てつくようだった瞳から見ても、ただ心当たりがあるのではなく)

    思考に巡る瞼の裏を、極彩色の言葉の玉が触れ合いながら落ちていく。玻璃の音に弾ける数多の六花は、真紅の糸に縫い止められながら、清水を流れて彩を変える。純白を染め上げる彼岸花の香は、地に朽ち落ちた浅緋の衣そのものだった。憤怒と悲嘆に塗れた乙女の絶叫が脳裏に反響し、少女は胸の痛みと共に唇の端を引き結ぶ。

    (あの乙女は、ヤヒロと……何か因果のある、方なのかもしれない。それもただならぬ……ふかい傷のようなものが、あるのかもしれない)

    ヤヒロのことは信じている。彼女にとっての見殺しという言葉の形をとったことからも、ホオリの心から目を逸らしているわけでは、決してない。身を伏す手立ては伝えども、抗う手立ては口にしなかったことから、あの乙女に不要に手を伸ばせば、災いが身に降りかかるのであろうことも理解はできる。
    ただ、そうした明瞭な事柄の陰で、ホオリの胸中に靄が広がっているのも確かだった。語られぬ言葉から真実を探し出すことは難しい。それがヤヒロに纏ろうことであれば尚更だった。己の産声と共に亡くした母。呪布を隠された癒えぬ傷跡。六月(むつき)の間仕えた冨亀家。山幸宮に来る前の彼について知っているのは、およそ断片的なことばかりだ。その事実が鏡の破片のように、不安に揺れる少女の瞳を映し出す。

    (ヤヒロは、本当は……何か不穏なことに、まきこまれているのでは、ないかしら……わたくしの、しりえない陰で)

    薄紅の花弁は霜に凍える。緩やかに緋の息吹を失うように白む桜花は、水面に溶けゆく刃に顔を寄せる。恐ろしい。あの金の瞳が、銀の髪が、群青の肌が、傷付く瞬間があるのかもしれないと思うと、たまらなく恐ろしかった。異形の月蝕に重ね合わせた影から、己の魂まで鏡の欠片に引き裂かれるかのように。
    水面に淡い吐息を零した少女は、ふと浅く瞼を開くのに似て思う。あの瞬間は何だったのだろう。鼓動の全てが眼差しに通い合い、金に綾糸と解(ほど)けた己の輪郭が、かの魂に再び結びつくかの如き、夢幻の調べ。未だ琴の音に残香を散らす琵琶の弦は、閉じゆく瞼に白銀の標を残す。清水と化して融け落ちた薄氷の刃は、静寂に佇む少女の頰だけを映し、触れる指の隙間から流れて落ちていった。群青の鱗の冷たさは、あまりにも、遠い。
    気がつけば、ホオリは己の頰に触れていた。夢から醒めるように我に返った少女は、思わず自らの顔から手を離す。

    (わたくしは、いったい何を)

    ぎこちなく丸まった指先は、つかの間居場所を無くして宙を掻いたが、やがて静かに絹ぶすまの上へと降ろされた。黄昏の波に煌めく
    瑠璃の緒は、今は酷く眩く手首に映える。ホオリは小さく息を吸った。それから再び顔を上げ、傍らの椅子に視線を向けた時、室内に金の小鈴が鳴り渡る。
    開扉の音と共に室内へ入ってきたのは、すらりとした背の高い青年だった。豪奢な錦糸の亀甲花紋を散らした翡翠の衣。琥珀の玉の緒が煌めく、純白の絹で織られた帯。端正な顔立ちは蕾に触れる淡雪のごとき繊細さだが、穏やかな瞳に流れているのは、晴天にせせらぐ青柳の葉の涼やかさだ。さながら白緑に息吹く薫風の香が、彼の歩んだ軌跡に鈴蘭の花を揺らしていくかのようだった。
    青年はホオリが身を起こしている寝台の前まで歩むと、静かに畳の上へと腰を下ろした。そのまま恭しく頭を下げれば、翡翠の袖の房飾りが、銀粉を散らすように畳の上に広がる。

    「お久しぶりにございます、火遠理姫様」

    浅縹を透いた和やかな声音に、ホオリは自然と頰が綻ぶのを感じた。少女は寝台の上から琴の弦を奏でるように、青年へと声を掛ける。

    「お久しぶりです、潮満殿」

    顔を上げた潮満は、人の姿に変じたまま微笑みを返した。芍薬の雫が薫り立つような唇に、木漏れ日を伝う白珠の光が柔らかに映える。
    潮満とこうして対面するのは数年振りだ。幼少の砌は実の兄のように言葉を交わしたものだが、昨今は容態が芳しくなかったこともあり、ホオリは銀鱗の節会の際、彼の姿を遠くから眺めていることの方が多かった。王家の外戚であり、次期冨亀家当主たる彼は、公私共に多忙を極めている。それでもホオリの身を案じる文を山幸宮に贈り、添えた季節の花に祈りを綴るのは、生来の優しさ故なのだろう。ホオリは胸中に温かな灯が宿るのを感じながら、緩やかに言葉を紡ぐ。

    「お忙しい中、宮までお越しいただいて、ほんとうにありがとうございます。どうぞおすわりになって下さい」

    ホオリが掌を差し出すように椅子を示すと、潮満は礼を述べて立ち上がった。畳にきらめく縁飾りを踏まぬよう、静かに椅子へ歩み寄れば、白魚のごとき手が飴色の背に触れる。窓辺に寄せる黄昏の波に、伏せた睫毛が淡い光を帯びる様は、泉のほとりに舞い降りた木精(もくせい)のようだった。純白の細波を纏って微笑む少女を前に、暮れなずむ金の残光に照らされた青年は、そよ風に脚を浮かせるように軽く椅子を持ち上げる。
    だが、どうやら元の姿の感覚というものは、身の何処(いずこ)かに残るものらしい。潮満は手にした椅子を、寝台から大の人間一人分の距離を経た場所へと降ろした。それから丁重に裾を払って椅子に腰掛けようとした時、不思議そうな顔のホオリに、はたと何かに気付いたような面立ちになる。そうして一拍間を置いて立ち上がった彼は、少年のごとき照れた笑みを浮かべて言った。

    「ああ、申し訳ありません。人の姿であれば、こうも距離を取る必要はありませんでしたね」

    ホオリは微笑を目元に引いて、小さく頭を振った。少女は枝に掛けられていた羽衣を手渡すように、そっと青年へ言葉を紡ぐ。

    「もしよろしければ、わたくしは変化を解いていただいても、大丈夫ですが」

    元来、変化の術は侍女や衛士といった、人に仕える位の者たちが多用するものだ。そうした者達は、姿形が人より巨大ではない者達で占められている。元の姿があまりに巨大であると、人の大きさに変じる際に、心身に流れる気を著しく消耗するが故だ。これは人より巨大である邪鬼が、綿津見御神に属する変化の術を用いて、竜宮に紛れ込まないようにするための措置だったと言い伝えられている。
    加えて人より巨大で、かつ鱗を持つ者と言えば、冨亀家の血を汲む者くらいだ。術の仕組み上、変化の術を用いれば、当然彼らも疲弊する。故に綿津見御神は、冨亀家の始祖に帰依水(きえみず)を分け与えた。金丹と起源を同じくするこの水は、名の通り綿津見御神の神気満ちたる霊薬の一種である。一口飲めばどのような疲弊もたちどころに癒し、身の隅々まで活気が溢れると言う。そして現在に至るまで、かの霊薬は連綿と冨亀家に受け継がれている。
    冨亀家の末裔である潮満も、今日はおそらく帰依水を服してから、山幸宮まで歩んできたのだろう。身に淀む疲弊はすでに癒されているはずだが、魂の輪郭は慣れない変化に揺らいでいるのかもしれない。元より冨亀家は自分達の本来の姿が、竜宮の礎であることに誇りを持っている一族だ。ある程度変じた人の身に齟齬が生じるのは、無理からぬことだった。
    だが、潮満はホオリの言葉に微笑み、一礼したのち穏やかに言う。

    「お優しいお言葉、恐悦至極にございます。ですが、恐れながらこの姿で在る方が、姫様とお話しやすいものと存じますゆえ」

    それに、と潮満は言葉を続けた。水紋を映す羽衣は薫風にそよぎ、木漏れ日の下(もと)浅縹の声音を錦糸に梳く。

    「我が友が、もし人の身に慣れておらずとも。きっと同じようにすることでしょう」

    少女の手を伝う羽衣は、白銀に閃く薄絹の端(は)から、鮮やかな真朱の花菱紋様を織り成していく。まどかに紡がれた二色の温もりが、花冠と手に留(と)められたような感覚に、ホオリは浅く目を見開いた。だが、やがて頰を緩めた少女は、花冠を胸に抱くように目元に薄紅の香を引いた。

    「……ありがとうございます、潮満殿」

    陽の射す桜花は微笑に薄絹を翻す。芙蓉の帳が鮮らかな万葉の調べを水面に開き、語る声音に玉音を成す。潮満と和やかに言葉を交わしながら、ホオリは彼が健やかに過ごしているらしいことが嬉しかった。民に祝詞を捧ぐ姉姫。銀鱗の節会に向け、高座で舞うヒシコ。綿津見御神が青海原に降臨した三百年の節目を追うように、数年以内に執り行われることが宣言された、トツカノツルギの奉納の儀。近状を綴る言葉は今を流れていながら、穏やかな声音を紡ぐ潮満の眼差しは、幼い頃ホオリに微笑みかけた春の面影そのものだった。懐かしく、慕わしい。かつて、憐憫の灰ではなく悲痛の砂を交えたその優しさは、深く被った魔祓いの布から手を伸ばせば、瞬く間に宵の果てに去る淡雪のようにも思えてい
    た。けれどそれは違うのだと、ホオリはもう知っている。水底に沈む群青の鱗が、少女の胸に明星を宿し、数多に綴られた翡翠の文字を照らし出していく。

    「それにしても、ヒシコも言っていましたが。以前より瞳が明るくなられておいでのようで、本当に良かった。……ああ、人間の言葉で言うのなら、顔色が良くなった、だったかな」

    ホオリは目を細めた。細い肩に掛けられた竜胆の布へ、薄葉を梳く絹のさざめきを寄せるように、長い黒髪が音を立てる。

    「ありがとうございます。これも、潮満殿や、ヒシコや、姉上や、わたくしを気づかってくださる、みなさまと……ヤヒロの、おかげです」

    返歌の調べに六花は溶け去り、薄紅の香を引いて星へと至る。潮満は眩い春暁の空を目にしたように、つかの間ホオリを見つめた。だが東雲を透く桜花の輪郭に目を緩めると、青年は礼を述べてから、白磁の杯に甘露水を注ぐ。

    「正直に申し上げますと、姫様の文を読ませて頂き、安堵致しておりました。ヤヒロと彩り豊かな時を過ごされているようで」

    翡翠の蘭が象られた水差しから、言葉と共に雫が落ちる。蘭花を伝う露は杯に跳ね、金粉を持って浄弦の兆しを為す。円な水面に水冠と共に咲いたのは、一輪の小さな蓮華だった。辺りに響き渡るような赤紫の鮮やかさに、ホオリの頰は自然と綻ぶ。

    「ええ、ほんとうに。彼はわたくしによく仕えてくれています。先日も、わたくしのねがいに添って、瑞書倉へ共にきてくれました。とても……とても、ありがたいことです」

    綴る声音に琴線が煌めき、爪弾かれる白露が穏やかな横顔を映し出す。机の上に丁寧に置かれた杯に手を添えながら、ホオリは思考の水を巡らせた。山幸宮でのヤヒロの動向は、潮満としても気になるのだろう。何と言っても彼は以前、ヤヒロの主だったのだから。
    杯の縁へそっと口付ければ、白緑の風に吹かれるように、柔らかな蓮華の花弁が薄い唇へと触れる。金鈴に澄む赤紫の香から朧に霞む黒漆の廊へと魂を導かれるように、ホオリはふとあることに思い至る。潮満は、ヤヒロの過去を知っているだろうか。ホオリが知り得ない、彼の過去を。彼が何を厭い、何と対峙しているのかを。あの剣の眼差しに秘された、水底に佇む彼の想いを。
    行き止まりの壁を前にした少女の頰に、月夜に霜降る曼珠沙華の香が散りゆく。彼方から聴こえる音の錦糸は金板を連ね、先程扉の隙間から見えた、異形の横顔に重なっていく。遠くを見つめていた金の瞳の面影は、やがて夜露と化して少女の睫毛へと弾け、水の残響だけを残して消えた。ホオリは睫毛を伏せる。夜半の泉の岸辺に凪ぐ紅緋の花弁に、夜露がひとひら滴り落ちる。

    「姫様?」

    浅縹の声音に、ホオリははたと我に返った。唇から杯を離して振り向けば、潮満が心配そうにこちらを見つめていた。

    「申し訳ございません。お口に合わなかったでしょうか」

    円な水面に蓮華が揺れる。ホオリは微笑みを纏い、首を小さく横に振った。

    「いいえ、そのようなことは。とても美味しいです」

    言いながら、少女は再び杯に視線を落とす。白磁の器を満たす甘やかな香りには、仄かに琥珀色の蜜が微睡んでいる。桃仙花。幼少の頃も、そして今も、ホオリが好んでいる銘だ。金粉に揺蕩う蓮華の下に、かつて頭巾を深く被った己に微笑みかけた彼の姿が思い起こされ、少女は心の中で頭を振る。

    (……いけないわ。せっかく潮満殿がおみまいにきてくださっているのに、わたくしときたら、己の心の向くほうばかりをみて)

    ホオリは雑念を振り払うように、再び杯に口を付けた。甘露水を喉の奥へと伝わせながら、少女は心の泉に映る月へと指を引き、宿す面影を木漏れ日へと変える。そうして唇に笑みの水晶を纏ったホオリへ、潮満は柔らかに言葉を紡いだ。

    「そうでしたか。ならば良かったのですが」

    白緑の風は涼やかに、水晶の仮面を撫でていく。だが次に連なる声音は浅縹に息吹いたまま、少女の頰にかかる黒髪をそっと払うように紡がれた。

    「では、もしや御心には、何か他に気にかかることがおありですか」
    「え」

    ホオリは目を丸くした。仮面の奥に一条の光を射し入れられたがごとく、薄陽を映した泉は揺れる。水面を渡る薫風に、潮満は淡い真白の温もりを込めて言葉を続けた。

    「失礼ですが、どこか思い悩んでおられているように見えたもので」

    浅縹の声音が、夜の泉を覆う芙蓉の帳をそっと払う。束の間、瞳が翡翠に立ち返ったかのように見え、少女は息を詰まらせた。纏った仮面が水晶に綴じられた蓮華から、水底に翳る彼岸花へと細波立つ。

    「いえ、そのような」

    一拍の間をおいて、ホオリは伸ばされた手から身を逸らすように、動揺にさざめく仮面を蓮華の香に結い合わせようとした。だが、眉尻を僅かに下げてこちらを見る潮満に、少女は続ける言葉を浮かべる間もなくはっとする。金の残光を白皙の頰に受け、どこか寂しげに微笑みながら言葉を待つ潮満は、黄昏の窓辺へ置いていかれた少年のようだった。眼差しに架かる宵闇の端を前に、ホオリは水晶の欠けた痛みを覚える。

    (あ……)

    知っている。この微笑に似た諦念に根ざすのは、差し出した手を拒まれた落葉だ。遠ざかる影を彼方に眺め、色褪せた静寂に独り佇み瞼を閉ざす、星を追わずに潰える凪だ。かつて魔祓いの布の下で立ち尽くしていたホオリから、静かに身を引いた海亀の輪郭が、淡雪の幻に融けては琴の弦へと散り落ちていく。ホオリは口を開いた。少女はかの残響の果てへ駆け寄るように、砕いた水晶の破片から蓮華を取り出し、海亀へ向かって言葉を手向ける。

    「その、実は」

    瞳を瞬かせた潮満を前に、ホオリは少し逡巡する。己のことで無用な心配をかけたくはない。それにもし、潮満がヤヒロの正体を知らなかったのなら、迂闊に彼の名を指すわけにもいかない。だが、それと同じくらいに、偽りを述べるわけにもいかなかった。あの日の微笑みに、そして今目の前に有る薫風の調べを、枝葉を渡ることのない、泥の最中へと墜としたくは無かった。ゆえに少女は、海亀の瞳を見つめながら言葉を紡ぐ。

    「これは、とある乙女の話なのですが」

    ホオリは小さく息を吸った。華奢な手首を守るように結われた、翡翠の玉が金に煌めく。

    「……その乙女の傍らには、常につきしたがう者がいました。かの者は、友のように、師のように、乙女の傍にいました。ですが、語らぬことも、多いのです」

    語る声音は宵に揺らぐ山吹に照らされ、青白い面差しは薄紅の柔らかさから玉石の硬さを帯びていく。少女は言葉を続けた。

    「後ろ暗いくわだて、などをうたがっているわけではないのです。どちらかといえば……そう、乙女の身をまもらんとするために、無用な言葉をくちにしないよう、つとめているような。そうした類の、沈黙が。柔らかな陽射しの下においても、優しい月夜のほとりにおいても、まなざしにおりていることが、あって」

    蓮華を還した夜半の泉は、憂う少女の貝殻に、水底の彼岸花を映し出す。紅緋の花弁に瞬く金の残光は、日々を流転する黄昏ではなく、ただ一目のうちに無二へと昇る月の欠片だ。その面影に手を伸ばそうとすれば、翡翠の鎖に隔たれて指先さえも届かなかった。立ち尽くす螺鈿の影へと落ちる玉石のさざめきに、組まれた指先に力がこもる。

    「乙女は……しんぱいで。何か、何かほんとうは……彼が危ういことに巻き込まれているのではないかと、おもってしまって。そして同時に、心の中に広がる靄のようなものがあって」

    伏せられた睫毛の下、翡翠の鎖に分かたれた泉は、紅緋の靄に水面を裂かれて崖と化す。ああ、もしも。もしも、持ち得る全てを話せたのなら。ヒシコと潮満のように、言葉の端々まで分かち合えたのなら。今一度。今一度、ヤヒロの真意を問えたなら。少女は唇の端を引き結ぶ。崖の狭間に流れ落ちる、月を見失った清水の最中に、群青の鱗が束の間閃く。やがて少女は、傷を抱いた螺鈿の殻を開くように、声を紡いだ。

    「……こうした心持ちになったとき、人は、命ある者は、どうすべきなのかと」

    夜半の黒髪から琴の弦へと零れた真珠に、落陽の緋が幻が如くさざめく。白い腕に添う瑠璃の緒の煌めきに、柔らかな睫毛が微かに震える。それでもなお、散らした言葉から緩やかに視線を上げたホオリは、潮満の表情に我に返った。驚きの色を浮かべた青年の瞳は、人間の黒から海亀の翡翠へと戻っている。ホオリは足先が冷たくなるのを感じた。しまった。話し過ぎた。こうも心の内を言葉にしてしまうつもりはなかったのに。少女の心を巡った極彩色の思考の玉は、白い頬を強張らせる。
    だが、潮満は瞬きを一つ挟むと、穏やかにホオリへと微笑みかけた。再び人間の黒へと彩りを変えた瞳は、浅縹の声音を透いて涼やかに言葉を紡ぐ。

    「……その乙女は、信じておられるのですね。かの付き従う者を」

    ホオリは浅く目を見開いた。しかし一拍の間を置いたのち、少女は群青の鱗を強く握りしめるように、声を繋いだ。

    「はい。信じている……のだと、思います。魂の底まで見通しながら、拒絶することもなく。怯えることもなければ、憐れむこともなく。ただ在るものを在ると受け入れる、その心を。きっと」

    今一度、鱗の輪郭を確かめる少女を前に、潮満は微笑みを崩さなかった。魂を見定めんとする剣の薄氷ではない、心に添わんとする勾玉の白緑の眼差し。皐月の風が澄み渡る声は、そうなのですね、と淡雪を融かすように言葉を紡いだ。そうして続く海亀の声は、螺鈿の上を静かにそよぐ。

    「では、かの方は、寂しく思われておいでなのかもしれませんね」

    ホオリは目を見開いた。桜花を渡る薫風の調べに、少女の枝葉は酷くざわめく。

    「さび、しい?」

    酷く揺れた声音に、瑠璃の緒が波紋を描く。ホオリは零れた言葉を強く抑えるように、着物の袖で唇を覆った。螺鈿の殻から舞い散る桜の花弁は、続けられた少女の声に花曇りの帯を垂らす。

    「……さびしい、ですか」

    鈍色の帯は傾いだ注連縄へと変わり、叩き割れた貝殻からは灰青の水が流れ出る。散り落ちた花弁を乗せて流れるそれに、ホオリはつかの間呆然と立ち竦む。寂寞。離れてしまった母の手を求める、幼子の涙のような。別たれた友の背を見つめる、長く伸びた青年の影のような。人の普遍の中にある、途切れた約束への追慕がごときその名は、ホオリが赤黒い触手の陰に、永らく封じてきたものだった。在ってはならないと言い聞かせた鉄(くろがね)の声が再び響き、錆びた少女の鏡像は、強く手を握りしめる。寂しい。寂しいとは。ヤヒロはそばにいてくれて、ともに語らってくれて、それなのに。それなのに、わたくしは。

    (わたくしが、さびしい、だなんて……そのような……これ以上、彼に何かを求めるなんて……なんて、罪深いことを)

    瞳を強張らせたホオリを前に、潮満は一瞬だけ痛ましげな顔をした。が、彼はすぐに表情を元に戻すと、軽やかに言葉を続ける。

    「おそれながら、私はそう存じ上げます。ですが、寂しさを感じることは。決して」

    潮満は明るく笑った。

    「決して。悪いことなどではないのですよ」

    崖の狭間へと流れ込む灰青の上を、白緑の風が涼やかに渡っていく。白魚のごとき手が薄紅の花弁を掬いあげ、螺鈿の内へと光をかざす。

    「そもそも、瞳に映したものへ対して、何
    かを感じること自体は、何も悪いことなどではありません。それは例え、怒りや、憎しみなどであってもです」

    海亀は少女を見つめた。

    「どんなに怒りを抱き、憎しみを背負おうとも。己の定めの前に立ち尽くすことが、あったのだとしても。他者を傷付けることなく手を差し伸べる方も、中にはいるのだから」

    薄陽の白珠に、切れ切れの桜花がきらめく。少女の水辺のほとりに佇む青年の姿に、もはや少年の面影ははなかった。潮満は言葉を続ける。

    「ただそれだけ、感情というものは扱いが難しい。身を裂くような記憶を何度も思い返しては、心へ刻まれた傷を抗いようのない轍へと変えてしまうことも、時にはある。……特に寂しさとは、そうなりやすい代物です」

    潮満は瞼を瞳の半ばまで引き下ろした。翡翠を秘めた眼差しの最中に、真朱の尾びれがつかの間揺らめく。

    「寂しさの所縁は、他者との溝を少しでも埋めたいと。そう願う心であるがゆえに」

    薫風をせせらぐ紅魚の影は、波紋を残して闇の底へと消え去った。青年は一人、水面を見つめる。かの軌跡を追うように清水を掬い上げた彼はだが、そのまま面影を飲み下すことはしなかった。ゆらめく泉に座した少女を見つめながら、潮満は静かに言葉を重ねる。

    「だからと言って、己の持ち得る全てを語ることが、必ずしも良い結果に結びつくとも限りません。語らぬことこそ互いを守ることもあります。私もヒシコに、何もかもを話しているわけではありませんから」

    ホオリは目を丸くした。

    「そう……なのですか?お菓子をはんぶんにわけあったほど、仲がよろしいのに?」

    潮満は柔らかな、だが明瞭な声音で言い切る。

    「ええ、そうなのですよ」

    青年は両の手を開いた。清水を湛えた白魚の指の合間から、糸が切れた首飾りの玉のごとく、真朱の鱗が零れ落ちていく。砂糖菓子の甘やかな黄金色も、陽射しに煌めく珊瑚の淡紅色も、凪いだ翡翠の眼差しに閃いては散っていく。真朱を無くし、淡雪の白へ還った指先は最早欠片を追うことはない。だが白緑の風は黄昏の窓辺に途切れることはなく、浅縹の声に力を託す。

    「己の知らないことがある。何故秘めていたのかを見つめず、その一点のみに他者の心を問い、暴くのは。それは信頼ではなく、ただの支配と化してしまうからです。そして支配のためならば、命ある者はどこまでも残酷になってしまう。二人で共に歩んだ軌跡を、己ただ一人に淀む泥の中へと踏みにじるように」

    水辺に独り佇む青年の影に、彼方から鈴の音が鳴り響く。

    「寂しさというものが真にやりきれないのは。他者との溝を完全に埋めることが叶わぬゆえに、時にそうした惨さを生み出すからです。ですがかの溝を埋めることはできずとも、希望を抱くことはできます」

    青年は飛沫を払い、立ち上がった。紅緋の薄絹がごとき靄を手離し、翡翠の眼差しは崖の対岸を凛と見つめる。

    「共に語らった夢の兆し。木漏れ日に駆けた森の記憶。溝の狭間を流れる闇に、そうして紡いだ美しいものを浮かべることは。それだけは、どのように魂が隔てられていても、出来ることなのです。互いに愛で、互いに問い、語らうことが出来るのです。そして」

    白緑を透いた薫風は、狭間を流れる灰青に輝く。闇の底へと沈んでいた真朱の鱗は、白珠の光に浮かび上がる。黄金と淡紅の調べに息吹かれた面影の残滓は、やがて対岸へと継ぐ錦の標を成していく。

    「そうした物たちを、轍と刻む傷ではなく、溝に架ける橋として渡り。こちらに伸ばされてきた手を、しっかりと握り返せることが。菓子を分かち合うことと同じくらい、大切な信頼の証ではないのかと、私は思うのです」

    潮満は静かに微笑んだ。対岸の舞姫を見つめるかのごとき笑みは、やがて冷えた幼い頬を包むように、少女へと向けられる。

    「かの乙女は、そうした誰かを尊ぶ心を、すでにお持ちではないかと」

    ホオリは瞳を見開いた。螺鈿に座した薄紅の花弁が、浅縹の声に舞い上がる。

    「みつ兄さま……」

    潮満は緩やかに目を細めた。

    「昔はよく、私のことをそう呼んで下さいましたね。私にはそれが、誇らしかった」

    彼方で宵を告げる鐘が鳴る。風に舞う桜花を黄昏の窓から群青の空へと送り出すように、青年は柔らかな声を紡いだ。

    「火遠理姫様。どうか。どうか貴女に、龍と海原の加護のあらんことを」
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:54:21

    鮫愛づる姫君:その七(中編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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