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    鮫愛づる姫君:その四(後編)ホオリは閉じていた目を開けた。額に菊と唐草のあしらわれた鏡が、まげを解いて椅子に座った、自らの姿を映し出している。帳を透けた山吹色の残光は銀版の上を滑り、鏡像の上に黄昏時を降らせていた。対である現身のホオリの頭上にも、等しくそれは注がれる。夕暮れの朱と金に染まった思考の水が、心に侍従の面影を滴らせる様を、己の鏡像を通して見つめながら、少女は胸の内で呟く。

    (もうじき、ヤヒロがかえってくるころかしら)

    彼は今日の昼過ぎから、ホデリの元へ参じている。未だ全快ではないホオリの代わりに、見舞いの品々の礼を申し上げるためだ。香(こう)が入れられた白磁の陶器。曙の光を帯びる綾糸で、表題を縫われた巻物。まばゆい金箔の上に魚や珊瑚の絵を咲かせ、褪せることなき夢を見ている数多の貝殻。それらの美しく輝く代物に添えられた文は、姉姫の身の回りで起こったよろずのことが記されていた。暖かな人々に囲まれ、光あふれるその内容を思い出し、少女は淡い笑みを浮かべて睫毛を伏せる。

    (……おげんきそうで、よかった)

    妹姫の早い快復を願う句で結ばれた文を、ホオリは記憶の小箱にしまう。そうして再び視線を鏡へと持ち上げたとき、不意に後方から髪を引っ張られた。頭がわずかにのけぞる感覚にホオリが目を丸くしたのと、彼女が着座している椅子の後ろから息を飲む音がしたのは、ほぼ同時のことだった。一瞬だけ弓弦のように張った、一束の黒髪が、慌てたように緩められる。

    「も、申し訳ございません」

    ホオリは少しばかり身動ぎして、青ざめた声音の主を振り向く。椅子の背もたれ越しに目に入ったのは、浅緋(うすきひ)色の衣を纏っている髪梳き係の采女だった。ホオリよりは年上だろうが、おそらく十三にはなっていないだろう。瑪瑙(めのう)の櫛を手にしたまま、頭巾を被った頭(こうべ)を垂れ、身を強張らせている。
    ホオリは穏やかに言った。

    「だいじょうぶですよ、いたくなどありませんから」

    髪梳き係の務めは、櫛で金紗を織るかのごとく、髪を一束ずつ手にとっては梳くようにして行われるのが慣例と聞いている。またそれは、ある種の細やかさを求められる作業であるがゆえに、慣れぬ者は誤って髪を強く引いてしまうことがあるのだということも。
    平気と言われてもなお肩を小さく震わせている采女にそのような話を思い出し、ホオリは彼女から視線を外した。代わりに鏡を見つめながら、問いをひとつ口にする。

    「このたびのみやいりで、いらっしゃったかたですか」

    眼前の鏡はホオリの全身のみを空間から額の内へと切りとり、采女の首から上は映さない。それでも背後から衣擦れの音が聞こえたことから、采女が微かに顔を上げたらしいことを悟る。やがて、いくばくかの間を置いて発された采女の硬い声には、唐突な問いに対する、灰梅(はいうめ)色の戸惑いの糸がほつれていた。

    「は、はい」
    「そうでしたか。……ああ、とつぜんごめんなさいね。なんだか、はいけんしたことがないおもざしを、なさっているようなきがしたものですから」

    仕事の拙さを責める気はないのだと、言外に含ませて微笑む。かくして采女の緊張した気配がわずかに緩んだのを察してから、ホオリは部屋に焚きしめられた、淡紅藤(あわべにふじ)の香の柔らかさをもって尋ねた。

    「おなまえは、なんとおっしゃるのですか」
    「白鈴(しらすず)と申します、御方様」
    「しらすず」

    口の中で響きを試すように呟く。舞い散る白銀(しろがね)が澄んだ音(ね)の軌跡を残す、清廉とした響きだ。端麗な名と目を細めて言えば、采女は恐縮したように肩をすぼめる。そんな彼女に、ホオリは穏やかな声の彩りを変えぬまま、言葉を続けた。

    「では、しらすずどの。いまいちど、かみをすいていただけますか」

    驚いたような沈黙を一拍挟み、采女は正式な受け答えの型でもって、ホオリの意に沿う旨を表す。そうして再び髪に触れた指先はぎこちなく、どこかたどたどしさを感じさせるものだった。髪に当たっている櫛から、采女が手の震えを抑えようと懸命になっていることを、ホオリは伺い知る。
    失敗は影を残す。だからこそ、失敗した事柄を今度は上手く成そうとすれば、多少の躊躇いが生じる。もし、もう一度間違えてしまったら。暗澹と陰る可能性の話に、握られた櫛の橙色が鈍色と落ち、そこから伝う采女の緊迫感が、髪に沁みていくようだった。
    ホオリは半ばまで瞼を引き下ろした。怒っていないから安心するようにという意味合いを込めたつもりが、却って緊張させてしまったかと心の中で小さく息を吐(つ)く。胸の内に萌え出(いづ)る、石と化した花の蕾に眼差しを注ぎ、ホオリは何か采女の心を和らげる方法はないものかと考える。ほのかな光を帯びて頭に浮かぶ思案の玉の数々は、様々な色に転じては消えたが、ホオリはそのうちの一つをそっと両手ですくい取った。かくして少女は、冷たい灰色の花弁に軽く手を添えるように、始まりの言葉を注いだ杯を采女へ差し出す。

    「そういえば」

    部屋の静寂をとりはらったホオリの声に、采女の肩が小さく跳ねた。恐る恐るこちらの様子を窺っている相手の気配を読みながら、ホオリは柔和な口調で語を継いだ。

    「ことしのみやいりのしきは、しんでんではなく、うみさちのみやでとりおこなわれたそうですね」
    「はい」
    「それもことしが、わたつみのおんかみが、あおうなばらへとおりたち、さんびゃくねんのふしめのとしとなるがためだとか。ゆえに、かなでられたかんがくも、れいねんとはことなるものであったとききおよんでおります」

    歌うように世間話の水を蒔くホオリに、采女はきらめき散った雫を思わず手にとるかのごとく、櫛の動きを止める。それから流れた緩やかな沈黙に、采女は自らが宮入りの曲について問われていると気付いたらしい。我に返り、慌てて姿勢を正して返された言葉は、やや上ずった声に縁どられて耳に届いた。

    「そ……奏されていたのは碧庭楽(へきていがく)でなく、龍花苑(りゅうかえん)、でございました。かの曲はその輝かんばかりの旋律で、死人をも黄泉返らせた祝いの歌。血と憎悪に荒れ狂い、滅びの道を辿るばかりであった青海原を、再び碧(みどり)あまねく寿(ことぶき)の地として蘇らせた、綿津見御神のご偉業にふさわしいとされたのではないでしょうか」

    なるほどと呟き、ホオリは唇にまどかな笑みを乗せる。

    「おくわしいのですね」

    碧庭楽は日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)の儀や春の節会にも舞われる、華やかな歌曲として有名だ。一方の龍花苑は名こそ知られているが、その内容までを知る者は少ない。元々が葬列の際に作られた曲であることも関連しているのだろうと、かの曲の出自を思い出しながらホオリが言えば、采女の声がはにかみの薄紅に染まる。

    「あ、いえ、そのような……幼いころ、祭りの際によく聴いていたものですから」
    「おまつり?」

    ホオリはきょとんと目を瞬かせた。先の宮入りを除けば、ここ数十年の間で龍花苑が竜宮の祭典に用いられたという話は聞いたことがない。ということは郷の祭りかと尋ねれば、背後から相槌と共に頷く気配が返ってきた。語り始めた采女の声から、灰に煙る雲が晴れて月光が射す。

    「夏の夜に催される、招福祈願の祭りでございます。巫女の方々が青い灯をともした黒蝋を持ち、七色の光沢を放つ銀の鱗を身につけて、御神がまつられた洞窟の中へと歩むのです。その時に龍花苑が奏でられるのですが、かの旋律の中で青き焔がたゆたう光景は、まるで闇に蒼玉の光彩を散らしたようで……幾度見ても美しゅうございました」

    そこまで語った采女は、はたと言葉を切った。さやかに物語を照らしていた光が途絶え、薄闇が采女の声音を覆う。

    「申し訳ございません。龍の言祝(ことほ)ぎを受けし尊きお方に、ひなびた里の話など」
    「いいえ」

    ホオリはやんわりと声を紡いだ。闇に散り沈んだ光の帯を、再び天に還そうと言葉を織る。

    「とてもすてきだとおもうわ。しらすずどのさえよろしければ、もっときかせていただけないかしら」

    果たして光は天に届けられた。再び輝きを纏った采女の話を聞きながら、ホオリは口元をほころばせる。いくばくかのぎこちなさを伴いつつも、采女が言葉を連ねるごとに、櫛にかかっていた余計な力が、雪解けのごとく少しずつ溶けていくのに気付いていた。思い出を慈しむ音(ね)の露に潤い、鮮らかな浅緋の色を取り戻す花を前に、少女は胸の内だけで呟く。良かった、少しは緊張がほどけたようだ。情愛の星々を抱いて一層きらめく古物語の薫風に、柔らかな表情を変えぬまま、少女は膝を丸く照らす夕日の光へと視線を落とす。そうだ。それが叶うのであれば、誰でも心安らかに時を過ごせた方がいい。
    采女が物語を語り終える頃には、ホオリの髪は毛先まで香油の芳香に梳けていた。頭から櫛が離れれば、少女の黒髪は黄昏の残滓を玉と弾くように艶めく。

    「しらすずどのは、ものがたりをかたるのが、とてもおじょうずでいらっしゃるのですね。おはなしをきかせていただいているあいだ、あおのかがりびや、みこのかたがたのまうすがたが、ほんとうにめのまえにあらわれたようなここちがいたしました」

    和やかな口調でそう言えば、采女が背後で顔を伏せる気配がした。浅緋の花が気恥ずかしげな声の上に発(ひら)き、ことさらの深緋(こきひ)へと染まる。

    「わ……私などには、もったいなきお言葉にございますれば」

    ホオリは微風にそよぐ花を愛でるように、頬をゆるめた。

    「いいえ。たましいのみなぞこから、そうおもったものですから」

    発される琴の声音が、月の雫と化して花弁の上に添えられる。藍と銀にさざめく夜が少女の瞳に望景と映え、流星が憧れの尾を引いていく。その影が花弁の上の雫に落ち、澄んだ白露は再び少女の言葉の形をとった。ホオリは目を細めて呟く。

    「わたくしもいつか、そのこうけいをみてみたいわ」

    それは何気ない一言のつもりだった。目にしたことがない景色へ惹かれた心を、透き通った白の結晶で飾っただけの代物だった。だが人の瞳は時として、他人と同じものを見ても、まるで異なる光景を心に落とすことがある。潮の流れに揺り動く泡沫に、青海原の息吹が成す珠玉の眩さを見るか、八重波の狭間へ消えゆく海蛍の儚さを見るか。そういった二択と同じように、ホオリの言葉に宿った夢想の結晶は、采女の目には溶けゆく淡雪と映ったようだった。哀切の幻に花は震える。

    「お、畏れながら、御方様」

    上ずった声音に、ホオリは花の色がやや白んだのに気付く。ああまたやってしまったのかといつぞやの年かさの采女が脳裏をよぎった時、采女の左手がホオリに向かって動いた。伸ばすというにはあまりにぎこちない仕草を見せた彼女の手は、ホオリの肩に触れる一歩手前の位置で止まる。一瞬驚いたホオリを尻目に、ためらいを湛えた華奢な指が何度か結んでは開き、その都度巻かれた長布が銀版の光を反射しひらめいた。今にも布が緩んでしまいそうなその様に、危ないからと声をかけようとしたとたん、背後の少女が口を開く。

    「きっと、きっと……」

    顔前に垂らされた呪布がわずかに傾いだ。区切られた言葉が凪ぎを産む。ホオリの肩がぴくりと動いた。

    「きっといつか……御方様の病はお治りになると……」

    天上で波が寄せ、窓の外の泡沫が音もなく弾ける。震える花から雪片が落ち、言葉を取りこぼしたホオリの唇に封をする。つかの間の六花は静寂の氷水(ひみず)と化し、やがて欠けた月を少女の口元に描いた。采女が息を潜めるようにしてこちらの様子を窺っているのを、ホオリは気配だけで感じ取る。
    優しい娘だ。きっと、こちらが思っている以上に。

    『なぜ……なぜ、このようなことに……』

    記憶の底から滲み出で、両目を覆わんと女性の声が反響する。嘆きの尾を引きずる影を胸の内に留めようと、ホオリは一度瞼を閉ざす。そうして軽く息を吸い、礼を言おうと振り向いた瞬間、ホオリは耳元に小さな風が走ったのを感じた。それは采女が素早くホオリから手を引いたためであると理解したのは、右手で左手をかばうように握り込んだ、彼女の姿が目に入った時だった。燭台の蝋燭の軸がくすぶる音を立て、橙色の炎が身をよじる。
    それは奇妙な一瞬だった。わずかに驚いた顔のホオリを前に、采女の黒々とした瞳が見開かれ、部屋から全ての音が消える。青白い頬。か細い手。薄い唇。ホオリの容貌を捕えた瞳は、そのまま根拠の鏡だった。そしてホオリは、慄く瞳に映る己の姿が、赤黒く爛れた病魔の触手に食まれ、人の形を成していないことを知る。
    落日の最中で緋の花は散る。無垢な花弁は怯えの底にあるものを隠せぬまま、ホオリの手の中で崩れて行く。色を無くした砂塵は指の隙間から流れ落ち、朽ちた重みを置いて虚空へ還った。跡形もなく霞んでいく花の残骸を、ホオリは無表情で見つめる。
    粘液を曳く触手が、侵した肉を咀嚼する。

    「あ……」

    口布越しに漏れた采女の声が、静まり返った部屋に落ちた。掠れた響きが思考に滴り、跳ねた飛沫がホオリの目に現身の采女の像を結ばせる。
    我に返ったホオリは、今一度采女を見つめた。青ざめた瞳の奥で、鏡は最早剥きだしにされてはいなかった。ただ、後悔と悲哀の覆いを掛けられた眼差しだけが、そこにあった。

    「御方、様」

    ホオリは静かに微笑んだ。

    「どうもありがとう」

    采女が退出した後に、ホオリはひとり髪に触れながら考えた。あの娘は、今までここに来た采女の誰よりも幼かった。本当はこの部屋にいる間中、ずっと恐ろしかったのだろう。下手に話しかけたりなどして、可哀想なことをしてしまった。
    睫毛を伏せた少女の細い指が、髪の毛先を滑る。黄昏を群青に鎖しゆく宵闇に身を浸らせ、ホオリは緩やかに目を閉じた。病魔は直に肌へ触れることで他者へと転ずるが、不死の象徴である髪にその力はまだ及んでいない。それでも自らの髪に触れる者の指が微かにこわばることを、ホオリはすでに知っていた。
    部屋を満たす静寂が、水晶の殻と化して頬を覆う。玉石に封じこまれた古の魚骨のように、言葉を無くした頬は乾いたままだ。月光を湛えるには硬質な表情の少女に、見知った形の影が囁く。笑って。笑え。笑わなければ。灰の舞い散る声が、緩く穏やかに少女の首に巻きつく。
    かくして、部屋の扉が開かれた時には、ホオリは口元に笑みを浮かべていた。開扉を告げた鈴の音は、深い青を部屋の薄闇に挿し入れ、その影を低い男の声音へと導く。

    「ただいま戻りました」

    ホオリは表情を変えぬまま、声の主へと顔を向けた。

    「おかえりなさい、ヤヒロ」

    片膝を床に着いていたヤヒロは、体勢を崩さぬまま頭を垂れる。ホオリが楽にするようにと告げれば、侍従は緩やかに顔を上げた。それから顔を扉の方に向けた彼は、針のように目を細める。

    「今しがた、退出された方がいたようですが」

    薄氷を帯びた視線は、浅緋の残り香を見抜いていた。窓の外を横切った巨大な魚影が、束の間室内を暗くする。

    「ええ。きぶんがすぐれないようだったから、きょうはもうさがってもらったの」

    波紋一つ立たぬ水面の声に、ヤヒロは眼差しだけを横に流して主を見る。微かに揺れた首飾りの金板が音の絹糸を散らし、(ひつ)の底に鬱金の調べを落とす。果たして仄暗い旋律は幽鬼の眼光によく似て、声音に剣の輪郭を朧げに浮かび上がらせた。

    「……なるほど」
    「ええ」

    低い男の声に、ホオリは笑みを浮かべたまま答えた。それから両手を膝の上に重ね直し、柔らかな声音で異なる話題を口にする。

    「あねうえのごようすは、いかがでしたか」
    「八重波に高光る天日(あまつひ)がごとく、変わりなく過ごされておいでのように見受けられました。また日を改めて姫様のお見舞いに参りたいとの仰せです。冨亀家の潮満様も同様に」
    「まあ、シオミツどのが」
    「はい」
    「なつかしいわ……シオミツどのは、ときおりこのみやをおとずれては、わたくしとおはなしをしてくださったの」

    他愛のない会話だ。抱く真珠も無く砕けた貝殻が、海底の砂に埋もれて序々に己の輪郭を失っていくように、ホオリは丸い響きを帯びた淡い言葉を重ねる。そうしてさりげなく椅子から立ち上がった時だった。不意に目の前が眩み、次いで視界がぐらりと揺れる。

    「あ」

    身が傾いだのだと悟る前に、微かな驚きが口をついて出る。よろめく足と力の入らない両腕に、このまま床に身を打つのだろうと予感めいた思いだけが宿る。どこか醒めた感情の白縹(しろはなだ)は瞬時に確信の深縹(こきはなだ)へと色を変え、ホオリの瞼を静かに閉ざした。遠い春の日、庭に伏した己を遠巻きに見る視線の記憶が、心の泉に濃藍の影を落としては、玉響(たまゆら)に闇の底へと消えて行く。
    だがはたして、紡ぎだされた予感はその身を夢浮橋(ゆめのうきはし)に留めたままだった。橋の下の水鏡には別のものが映され、夢と現の狭間を落ちていくホオリの頭を惑わせる。かくして、床に頬を伏す感触の代わりに形を成したのは、誰かの腕に身を支えられているような感覚だった。
    混乱の泡沫が湧き立つ中、ホオリは水底の現で目を開ける。そうして浅く開かれた瞳へ映しだされたのは、見慣れた藍色の襟元だった。驚きに瞬く少女の睫毛に金板のほのかなきらめきが星雨と注ぎ、頭上から降る問いに群青の光を射し入れる。

    「お怪我は」

    淡々としたその声音に、ホオリはようやくヤヒロに身を支えられているのだと悟った。涼やかな夜風の香りが、とっさに声が出ない少女から目眩の名残を奪っていく。引き換えに残されるのは少しばかりの沈黙だ。沈む者を拒まぬ砂地のごときそれに包まれながら、やや間を置いてホオリが発した声は掠れていた。

    「いいえ」

    何故。どうして。どうして彼がこの身を支えているのか。だって、わたくしは。
    混乱の泡沫は動揺の渦に変わり、思考を鈍色に濁らせる。とりあえずヤヒロから離れなければならないと身を引こうとした途端、ホオリは自らの手が彼の着物に触れていることに気が付いた。息が詰まり、目尻(まなじり)が裂けんばかりに目を見開く。澱んだ渦が勢いを増し、渦の中心に閉じ込められた少女の頬から血の気を奪う。反射的に青白い手が宙に跳ね、ホオリは弾かれるようにヤヒロから身を引いた。謝らなければ。謝らなければ。影が胸の内を叩き叫ぶがままに、ホオリは口を開く。だが少女の薄い唇は震えるだけで、言葉を結ぶことは叶わなかった。そうして浅い呼吸を抑制しようと片手で胸を押さえたホオリに、剣の声音が向けられる。

    「先ほどから、何をそのように怯えていらっしゃるのですか」

    ホオリは虚を突かれてヤヒロを見つめた。部屋の灯に照らされた侍従の顔は、魔祓いの頭巾と口布に覆われて伺い知ることはできない。だが唯一見える両の眼は、漣一つ立たぬ黒を宿してホオリを見ている。それは先程までホオリの唇に刻まれていた、水面の月を映してはいなかった。喉に埋もれた奈落の真珠を見極めようと、剣の切っ先をホオリの喉元に向ける眼差しがあるのみだった。
    応える言葉を持たず、視線を合わせることしかできない少女に、男は問いを重ねる。

    「病に関することですか」

    ホオリはもう一度目を見開いた。剥がれ落ちた仮面に、氷晶(ひょうしょう)が小さく罅を入れる。胸を押さえる手に力が込められた様子を見て、ヤヒロは答えを察したようだった。冷たく冴えた声が響く。

    「お言葉ですが。姫様の御身に直に触れなければ、病は転じないと伺っております」
    「けれど」

    微塵も揺るがぬヤヒロに対し、ホオリが発した逆接の言葉は切迫していた。思いのほか強い語調を秘めて零れ落ちた己の声に、ホオリは思わず自らの口を塞ぐ。だが続きを待つヤヒロの視線に、少女の指は一拍の間を置いて解かれた。桜色の貝が殻を開き、暁闇(あかときやみ)の玉(ぎょく)が顔(かんばせ)を覗かせる。果たして少女が発した声は、褪せた絹糸のごとく細かった。

    「けれど……」

    今にも立ち消えそうな言葉を伝い、黒玉から紅色の雫が滴り落ちる。泣きむせぶ母の髪に挿された金の簪。目を見開く姉の胸元に飾られた翡翠の首飾り。顔を強張らせた采女が纏う藤紫の数珠の腕輪。魂の欠如を密やかに囁いては地に転がる玻璃の声。記憶の断片が雫に混ざり、罅の入った仮面を赤く染める。しとどに濡れた仮初の月は、そのまま病魔の影だった。病魔が笑う。身動ぎもできぬ少女の前で、仮面を苗床に一輪の花が紡ぎだされる。彼岸に咲く色のそれは、先程までホオリの髪を梳いていた少女の頭巾の色によく似ていた。輪生状に並んだ花弁の中心から赤黒い雫が膨らみ出で、一瞬の間を置き溢れて消える。
    やがてホオリは手折られた曼珠沙華のように、睫毛を伏せた。曇った眼差しが、貝殻に座す黒玉を鈍く光らせ、少女の唇から言葉を散らす。

    「……あなたは」

    掠れた声を一度区切り、ホオリは強く目を閉じた。泉の底の闇から出で立つ、諦念の霧に盲いていきそうになる心を群青の影へと向け、揺らぐ言葉の形を定める。ホオリは再び瞼を開いた。そうして今度は瞳を逸らさずに、目の前のヤヒロへと相対する言葉を綴る。
    その音は嘆きに震えることもなければ、怒りにかき乱されてもいなかった。ただ、血の滴る指が爪弾く、静謐な白磁の旋律に、苦悩が滲んでいるのみだった。

    「ヤヒロは……おそろしくは、ないの」

    微かに歪められた唇から発された声を追うように、残りわずかとなっていた蝋燭の灯が、仄青い月光の中へほつりと消える。
    ヤヒロはホオリを見つめた。少女の面差しに添い流れる黒髪が、笹の葉擦れの音を立てる様から、目を逸らそうとはしなかった。霧渡る竹林の調べに散る曼珠沙華の花びらが、剣を宿した水面に触れる。沈黙に尽きるように途切れて行く琴の音が波紋を描き、水底に沈んでいた記憶と鏡を成す。

    『だから、いまはわたくしを……ひとりに、してください』

    あの夜の掠れた声に潜んでいたものが、輪郭を得て男の手の平に落ちてくる。怯えの泥に砕けた黒玉が棘と混じりあったそれは、他者へと根差してはいない。手の平に転がる少女の欠片は、誰のものとも混じることなく、彼女自身の赤に濡れていた。
    ヤヒロは目を細める。細波立つ剣の面影が揺らぎ、硬く澄んだ鋼の音が水面を裂く。常闇に封じられた金の眼が雷を帯びて真開(まびら)き、奈落の底から水泡(みなわ)が湧き立つ。烈風が吹き荒ぶように数多の気泡が舞いあがる中、男の瞳の奥に姿を現したのは古の巨大な幻魚だった。青海原のどの氏族にも属さぬ魚は、眼前の少女を見定めるように眺め、暗渠の中で長い尾鰭を揺らめかせた。そうして銀鱗の異形は群青の声に魚影を映し、流れ出でる声にその身を重ねる。

    「それは、私が姫様を恐ろしいと思うか、という意味ですか」

    白い蝋の残骸から煙が細く立ち昇る中、ホオリは唇を引き結んだ。剣の眼差しに晒された黒玉の破片が、身の内に秘めていた青紫の香を零す。苦痛の深紅と寂寞の紺碧が混ざりあったそれは桜色の貝殻を開かせ、静かな声音の中に罪科の告白めいてたゆたう。

    「……ええ、そうです」

    咎の重みに耐えるかのように手を握りしめたホオリへ、ヤヒロは言葉を紡いだ。

    「では、一つ伺わせて頂きますが。他者を嬲り殺めるために拳を振るった者がいた時、姫様はその者に腕が存在したことが悪いとお考えになりますか」
    「え」

    突然の問いに、ホオリは目を瞬かせた。月光に照らされたヤヒロの鋭い瞳は、一見何の変化もなく、蒼色(そうしょく)を帯びた玉輪に凪いでいるだけのように思える。だがこちらに向けられた眼差しの奥に、あの野分の夜と同じ魚が佇んでいるのに気付き、ホオリは小さく息を呑んだ。魚は三日月型の尾を翻さず、こちらを見ている。黒と金の視線が交わりあい、少女と異形の間で暗黙の銀波がうねる。波の穂から舞い飛んだ螺鈿の飛沫が、ホオリの足元に散り落ちる。煌めく貝殻の一片は、白蝶真珠の艶めきを帯びた琴の弦に変わり、沈黙に閉ざされた闇の中でほのかに光る。やがて一拍の間を置き、少女の華奢な指によって奏された音色は、儚げではあったが震えてはいなかった。

    「いいえ……そんなことは、ないとおもうわ。だれかのきずをてあてすることができるもので、だれかにがいをなそうとするのは、そのかたのふるまいのもんだいだとおもうから。てのひらがひとりでにうごき、だれかにがいをなそうとするわけではないもの」
    「それと同じことです」

    ホオリは目を見開いた。ヤヒロの低い声が響く。

    「姫様は病魔ではなく、病魔も姫様ではない。あくまで別の存在です。そして恐れるべきは病魔であり、姫様ご自身ではありません」

    憐憫でもなければ嘲笑でもない、ただ静かに理を説くような声音が、群青に輝く鱗を真珠色の弦に落とす。黄泉路の果てに似た冥闇の中で、異形の魚の片鱗が、天上の星々のごとく力強い光を放つ。

    「想いは考えの、考えは行いの礎となり、その者の在り方を決めるものです。……我が身に触れた時、姫様はすぐに私からお離れになりました。ゆえに、私には姫様を恐ろしいと感ずる理由がありません。最も、私が怯えているように振る舞った方が良いと姫様が仰るのであれば、そのように致しますが」

    異形の魚の瞳が、金色に閃いてホオリを見つめる。

    「姫様は、どうなされたいのですか」
    「……わたくしは」

    唇から漏れ出た声に、遅れて自分が酷く驚いていることを自覚する。眩い群青の鱗に照らされた弦から白露が滴り落ち、金の眼差しを反射しながら、少女の言葉の上に明滅する光の飛沫を散らす。

    「わたくしは……あなたが、こころのむかうままにふるまってくれればと。それは……いままでも、これからも、かわらないわ」

    やや動揺に揺れる声音ながらも、眼差しで誓うように己への言葉を紡いだホオリに、ヤヒロは目を細めた。幻魚の金の眼が、男の黒い瞳の奥で閉じられ、異形の面影だけを落ち着いた口調の中に残す。

    「では、変わりなく」

    短くそう言ったヤヒロの首元で、首飾りの輪に連なる金板が音を奏でる。その燦然とした錦糸の響きに、ホオリはふと思い出す。先ほど自らを支えたヤヒロの腕は、少しも強張ってはいなかった。
    きらめく群青の鱗が、真珠色の琴線から少女の手の平へと落ちていく。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 7:54:47

    鮫愛づる姫君:その四(後編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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