鮫愛づる姫君:その三白い部屋の中で、風の凪いだような日々は続いた。
侍従となったヤヒロはそつなく仕事をこなしていたが、必要なこと以外はあまり喋ろうとはしなかった。もともと寡黙なたちなのか、それとも書物を読んで一日を過ごすことの多いホオリに、一応は気を使っているのか。無感動な口調からも、頭巾から覗く瞳からも表情はうかがい知れず、ホオリは彼の心の向かっているところがわからなかった。
わずかばかりに交わした言葉は宙に溶け、部屋には沈黙が降り積もる。そうして互いの眼差しが相手から微妙にそらされたまま、半月と七日ばかりが過ぎたころ。変化は野分(のわき)の接近と共に訪れた。
その日は昼から暗く、ホオリは窓の外を眺めていた。天上の波は仄暗い緑に荒れ狂い、潮の流れを猛らせている。土砂と共に舞いあがった気泡の群れは、遠くの雷に呼応するかのごとく牙を剥き、ぎらついた光を放ちながら海中を駆け巡っていた。怒るような、嘆くような波濤(はとう)の咆哮が、海底まで響きわたってはそこに息づくものを揺るがせていく。
まるで二頭の龍が死闘を繰り広げているような有様に、ホオリは顔を強張らせた。結界に守られた宮の中にいるとは言え、耳慣れぬ嵐の轟きには、少女を確かに打つものがあった。
「姫様」
突然後ろから声をかけられ、短い悲鳴が口をついて出そうになる。だがおそるおそる振り返ってみれば、そこにいるのは盆を持ったヤヒロだった。ほっと息をついたホオリの心中を知ってか知らずか、ヤヒロは通常と変わらぬ口調で用件を告げる。
「白湯をお持ちいたしました」
「ありがとう、ヤヒロ」
膝を折ったヤヒロから白湯を受け取ったホオリは、ふと瞼をしばたたかせた。視線を伏せている目の前の彼から、いつもはしない薄氷色の匂いがする。わずかに首をかしげると、ぴりりとした一抹の辛さを含んだそれは、涼やかな夜風さながらにしてホオリにそっとささやきかけてきた。やや間をおいて、そのか細い声に応えたおぼろげな記憶が奇妙な当惑にすり替わり、少女の眉をひそめさせる。
(このかおり、なんだかしっているようなきがするのだけれど……いったいなんだったかしら)
「いかがなされましたか」
淡々とした低い声に、ホオリははたと顔を上げた。瞬きしないヤヒロの目に見上げられ、一瞬言葉に詰まったものの、彼女は何とか微笑みを返すことに成功する。
「いいえ、なんでもないの。ただすこし」
そこから先を言い終えないうちだった。不意に衝立の向こうから、何やら硬いものが落下したような物音が響きわたり、少女の瞳を驚きで彩る。その拍子に、続けようとしたはずの言葉が喉の奥から飛び去ってしまい、ホオリはただただ目を丸くして音のした方を見やった。
「まあ、なにかしら」
「見てまいります」
横目で同じ方向を見ていたヤヒロが、主人の声に立ちあがる。かくして、何か言葉をかける間もなく暗がりに紛れてしまった後ろ姿に、残されたホオリは少しの間途方にくれた。
とりあえず白湯を盆に戻し、衝立の端から顔を出すと、ちょうどヤヒロが床に落ちた何かを拾い上げているところだった。遠方で轟く海鳴りに身をすくめながらも、ホオリは燭台にゆらめく火の力を借りて、無骨な腕に抱えられたものを見る。とたんに、口からあっと小さな声が漏れた。
ヤヒロが持っているそれは、赤子ほどの大きさをした人形だった。白木の肌は薄闇の中でも冴え冴えとし、かすかに桜色に匂っているかのようだ。面差しは繊細であり、眼差しは見る者を包みこむかのごとく優しい。あたかも生きているような微笑みを浮かべた人形は、瑠璃色の美しい瞳で、古い思い出に移ろうホオリの心を見つめていた。
「ああ、それは」
衝立の陰から歩み出て、ホオリは再び表情を笑みの形に緩めた。視線を人形から、こちらを振り向いたヤヒロへと合わせた少女は、懐かしさと慈しみの音(ね)にあふれた言葉をそっとつまびく。
「そのにんぎょうはね。むかし、ははうえが、まよけとしてわたくしにつくってくださったものなの。なぜかぜもないのにたおれたのかわからないけれど……とにかく、こわれなくてよかったわ」
穏やかに言いながら、ホオリはふと一つの疑問が泉のごとく湧き出るのを感じた。ヤヒロの母は、どのような人なのだろうか。ホオリの母のように、息子たるヤヒロに語りかけたり、時には涙したりするのだろうか。
「ねえ、ヤヒロ」
黙っていた侍従は、口調を改めたホオリに短く返事をする。
「何にございましょう、姫様」
「ヤヒロのははぎみは、いったいどんなおかたでいらっしゃるの」
柔らかな声で紡がれた無邪気な問いに、ヤヒロはさらりと答えた。
「母は、私を産んで亡くなりました」
*
「あ……」
疑問の泉はあっという間に後悔で濁り、面(おもて)に透いていたはずの夢想の欠片は心の底へと沈んでいく。暗闇に見えなくなった幻の残骸は、そのあいだに強張った表情で侍従を見つめる少女を石へと変えた。ほどなくして、しんと静まり返った部屋の中で動いているのは、荒れ狂う嵐の影だけになる。
やがて、伸ばしたはずの心の手が宙をかくのを感じながら、ホオリは消え入るような声で呟いた。
「ごめんなさい」
目を伏せてしまったホオリに、ヤヒロは思うところがあったのだろうか。それとも、何かほかに理由があったのだろうか。
真相は、水底(みなぞこ)の闇に閉ざされてわからない。ただこのとき、日頃の彼を見ている人間からすれば驚いたことに、ヤヒロは正式な受け答えを返さなかった。代わりにいつも通りの静かな声で、主人に問いを一つ投げかける。
「どうして、そのようなお顔をなされるのですか」
顔を上げれば、さざ波一つ立っていない黒い瞳がこちらを見ていた。初めて出会ったあの日と同じく、それは静謐さに浸っていながら、剣によく似た光を宿していた。
眼前の男に半ば気圧され、半ば戸惑いながら、ホオリは息が詰まるのを感じた。白木の人形だけが、相変わらずヤヒロの腕の中で微笑み続けている。
「それは……とてもかなしいとおもったから」
ようやく声をひねり出すと、侍従は瞼を引き下ろして半眼になった。研がれた刃の印象が増す。
「それはまた、何故に」
「なにゆえ、とは」
ヤヒロは目を細めたままホオリに応じた。薄氷色の冷たさが、発される声の上に淡く散る。
「おそれながら。姫様は、私の母がどのような者であったのかをご存じでないがためにございます」
「それは……そうなのだけれど」
微動だにしない立ち姿に、ホオリは唇を引き結んだ。そうしてわずかに逡巡したのち、ためらいの滲んだ小さな声で言葉の続きを口にする。
「でも、ヤヒロにとってはたったひとりのははぎみなのでしょう」
「私が彼の者について聞き及んでいるのは、名のみです。それ以外のことは存じておりません」
ホオリは軽く目を見張った。ヤヒロの言葉が粘着質な糸として喉の奥に絡まり、少女の中へゆっくりと滴り落ちる。死してなお、語られることのない母。その響きは、奇妙ないたみを伴ってホオリの胸の中に波紋を描いた。
生まれながらにして病魔に侵されていたホオリは、病のもつ性質上、目も開かぬ赤子のうちに母と引き離された。ゆえに、ホオリには自らの母と共に過ごした記憶はあまりない。今でもせいぜい、一年に数回会えればいい方だ。それでも。逆接の表現は、柔らかな淡紅色の花弁となり、金粉と共に舞い降りる。間違いなくホオリに母はいる。自分に触れはせずとも、優しく声をかけてくれる母が。少し離れた場所からでも、部屋に来れば名を呼んでくれる母が。
思い浮かべた母の顔が、水辺を吹きすぎる風のごとく脳裏を横切り、奇妙ないたみを増加させる。それはほどなくして、少女の口から古傷に触れるようなささやき声を産み落とした。
「ヤヒロは……ヤヒロは、それで……かなしくは、ないの」
侍従は、自分を見上げてくる主に短く返した。
「朽ちて血肉の通わぬ記憶など、無きに等しいというものです」
平らな口調の底に流れる冷淡な響きに、今度こそ完全に目を見開く。やや間を置いて口を開きかけたとたん、不意にホオリは、相手の瞳の奥に知らない魚を見た気がした。何者にも捕らわれぬ鋼鉄の肌に覆われ、無数の牙を持つ巨大な幻魚。竜宮に住まう綿津見の眷属のどれとも似つかぬその魚は、静かに少女を見据えている。つかの間、音よりも声よりも、深い切り口をもって断たれた断崖の端から魚と見つめあうかのような錯覚が、ホオリの体を無音のままに浸した。やがてそれは、目の前の相手に伸ばせるものなど何もないのだという確信に変わり、少女の心に針を打つ。
思わず胸を押さえた拍子に、簪に施された垂れ飾りが揺れた。凍った星が震えるのに似た音が、再び硬直したホオリの顔の近くで鳴る。
対するヤヒロは表情一つ変えぬまま、淡々と言葉を継いだ。
「姫様のお優しい心遣いに、深く感謝いたします。ですが、多くの者たちは、最初から自分にないものへと、悲しみを寄せることはできません。私もまたその者たちの一人であるというだけなのです。ゆえに、どうかお気を病まれませぬよう、平にお願い申し上げます」
言い終えるとヤヒロは一礼し、すいとホオリから目をそらした。
瞳の魚は尾をひらめかせ、沈黙の奥底へと見えなくなってしまった。
*
(さいしょから、じぶんになかったものを、かなしむことはできない)
ホオリは寝台の上に半身を起こし、ぼんやりと窓辺に手をかざした。野分は七日前に過ぎ去り、目に映る外の景色はすでに鮮やかな美しさを取り戻している。青白く発光する大小の岩の上で、喜ばしげにゆらめく橙や黄の磯巾着は平和そのものだ。だがそんな風景とは裏腹に、ホオリの頭の中ではいまだにヤヒロの言葉が渦を巻いていた。眉を曇らせる少女の前を、そうとは気づかぬ翡翠色と桜色の小魚が、連れだって泳いでいく。沸き立つ銀の気泡は、白くなだらかな砂地に輪郭だけの透明な影を落とした。
(ならわたくしは、あのものにいったいなにをみたというのだろう)
かざした自らの手にまなざしを注いでも、透けて見えるものは何もない。子供の痩せた細い手が、窓から差し込む一筋の光に洗われているばかりだ。ホオリは黙って目を伏せる。窓辺から緩やかに手を下ろすと、肩にかかった髪がさらと衣ずれのような音を立てた。そうして小さく息をついたとき、不意に扉の向こうから鈴の音が響き渡り、ホオリははたと我に立ち返った。思考の水が夢から現(うつつ)へと滴り落ち、彼女は扉へと顔を向ける。
「おやすみのところを失礼つかまつります、御方様。火照姫(ほでりのひめ)様が御見えになられました」
来客を知らせる澄んだ音色に続いたのは、年若い少女の声だった。その明るい声音に、ホオリは肩の力を抜く。急いで髪などを撫でつけてから、彼女は穏やかに返事をした。
「どうぞ、おとおししてください」
再び鈴の音が響き渡り、開かれた扉から四人の采女が進み出た。しずしずと歩む采女たちは皆一様に病魔祓いの頭巾を被っているものの、白縹(しろはなだ)に薄青、藤紫に萌黄色と目に涼やかな衣をまとっている。その最後に、浅葱色の衣を着た女(わらわめ)と共に、ひときわ豪奢な装いをした少女が姿を現した。
豊かな黒髪をまとめ上げて作られたまげには、きらびやかな数本の簪が刺されている。鮮やかな紺碧の上衣に輝くのは、金細工の施された瑠璃と真珠の首飾りだ。肩にふわりと巻きついた羽衣は銀糸の光沢を帯びており、それは少女の顔の前に長く垂らされた薄絹の口布も同様だった。繊細な布地に染め抜かれた退魔の呪文は、時々わずかに光を発している。
現乙姫が第一子、火照姫。竜宮のもう一人の姫君にして、自らの姉である少女に挨拶をしようとしたホオリは、思わず目を丸くした。眼前の少女の装いは確かにホデリのよく好むものではあったが、こちらを見るやや恐縮した瞳は姉姫のそれとは全く違うものだったのだ。あっけにとられ、つい開いてしまった口を衣の袖で隠す。と同時に、くすりという笑い声がホオリの耳に届いた。
反射的に声のした方向を見ると、先ほどの童女が肩を震わせているのが視界に入った。まさかと小さく息を飲んだホオリに、顔を上げた浅葱の少女は笑いながら言葉を紡ぐ。
「久方ぶりですね、火遠理の君」
軽やかな風になびく、金の小鈴の響きを含んだあどけない声。今度こそ紛れもない姉姫の声に、ホオリは見開いていた目をまばたかせた。唇からこぼれ落ちた驚きが、白い絹ぶすまの上に散る。
「あねうえ」
入れ替わっていた紺碧の少女を下がらせ、寝台のそばに用意された椅子に腰かけたホデリに、ホオリは当惑しながらたずねた。
「いかがなされたのですか、そのようなかっこうをなされて」
ホデリは快活な口調のまま、妹姫に返した。
「勿論、そなたの見舞いですよ。あと」
不意にホデリは悪戯っぽい笑みを浮かべた。黒曜石のような瞳に散りばめられた、少女特有の無邪気さがきらめく。
「おどろかせようとおもって」
満天の星に彩られた言葉は、きょとんとしていたホオリの顔に、やや間を置いて微笑みを咲かせた。二つ年上のこの姉は、天真爛漫で、また天女さながらにうるわしい。薄絹の口布越しに見える面差しは、どことなく気品が漂う顔立ちをしている。錦糸のごとく柔らかで、長い睫毛に縁どられた瞳は、縹深く表情豊かだ。白い肌は金剛石のきらめきを宿しており、小さな唇は朝露に薫る花のように愛らしい。
身の内から射す麗質が光と化して、辺りを照らすかのような美姫。その輝きは例え装いが童女のものとなっても、少しも褪せることはない。珠玉のまばゆさは座する場所を選ばないのだと、ホオリは改めて確信する。
美しい姉は居住まいを正したのち、容姿にふさわしい無垢さで言った。
「先日はねつが出たそうだけれど、思ったより元気そうでよかったわ」
「おこころづかい、ありがたくぞんじあげます。あねうえもすこやかにすごされていらっしゃるとのこと、このホオリ、つつがなくおよろこびもうしあげたくおもいまする」
寝台の上から頭を軽く下げたホオリに、ホデリはほがらかに返す。
「ホオリったら、そんなにかたくならなくてもいいのに。でも、ありがとう」
終わりの言葉は温もる日差しの色を持って、ホオリをまどかに包んだ。いえと少しばかりはにかんで返す妹に、再度ホデリは屈託なく頬を緩める。貝殻の風鈴が鳴り、涼やかな音が二人の少女の間を通り抜けていった。
「今日はこの間の書のつづきをもってきたから、すきなときに読んでね。それとこれも、わたしからのみまいのしなです」
礼を言いかけたホオリは、姉がどこからともなく取り出した、虹の光沢を持つ小さな水晶の筒を見る。筒の底に敷かれた白砂の上、一輪の花のごとく飾られているのは丁寧に手折られた紅珊瑚だ。その周りを舞い漂う、海蛍に似た桜色の光の群れにホオリは目を丸くした。寿の宿った雪と見間違いそうなそれを、姉姫はきれいでしょうと言って笑う。
「珊瑚の玉散(たまちり)、というのですって」
紅珊瑚から顔を上げたホオリに、ホデリは語を継いだ。
「にしきの森ではちょうどこれが見られるじきだから、のわきがくる前にいってきたの。そうそう、母上もおいでになられてね」
語られる言の葉は、清らかな小鈴の音とともに記憶を移ろう。群青の海に息づく、紅や桃色や月白(げっぱく)の珊瑚の森。いっせいに宙へと舞った桜色の光が織り成す、海中に歌う天花の群れ。神秘の織り成す景色の中、羽衣をなびかせて佇む母の穏やかな笑顔。綴られていく感情から命を吹き込まれ、綾錦(あやにしき)の調べに昇華された記憶は、白い部屋を鮮やかに彩る。
そうして、美しい風景を妹にも見せようと懸命に話すホデリを、ホオリは静かに微笑みながら見つめていた。
「……だから、ね、ホオリ。そなたのやまいがなおったら、いつかいっしょにみにいきましょうね」
「はい、あねうえ」
表情を変えないままホオリが返すと、ホデリの顔が開け放しの喜色に輝く。そのまま嬉しげに何度か頷いた姉はあらたに言葉を紡ごうとして、不意に目を丸くした。
「あら」
ホデリの視線を追い、ホオリは椅子と同じく、寝台の横に設置された机を見る。磨きぬかれた机の上に置かれているのは、金の蒔絵と龍の螺鈿細工が施された、漆塗りの小さな箱だ。きちんと閉じられた蓋の上には、目も醒めるような緋色の紐が、花結びの形でもってかけられている。
「それはもしかして、玉手箱?」
「ええ。さいきん、そばつきとなったものがおりまして」
傍付きの侍従となった者が王族に仕えて一月が経ったとき、何の問題もなければ、その者には忠誠の証として玉手箱が贈られる。竜宮では古くから伝わる習わしだ。元は陸の国の民が竜宮に訪れたとき、和平と友好の象徴として差しだされていたという箱が、何をどう転じてこのような慣習に使われるようになったのか、ホオリは知らない。漆塗りの小箱が今の彼女に指し示す事柄は、ただ一つだけだ。
「もしかして、入り口に立っていらしたとのがたのこと?」
ホデリの問いに、先ほどまでの物思いがちらと頭をかすめる。同時に胸に走った僅かな痛みを見ないふりをして、ホオリは穏やかに答えた。
「はい」
「そう、やはり」
ホデリの口調に翳(かげ)るものを感じ取り、ホオリは俯かせていた視線をあげる。見つめた先の姉姫は、端正な眉目を曇らせ、どこか痛ましげな表情を浮かべていた。ややためらうような間をおいたのち、ホデリはささやきにまで落とした声で言う。
「うねめが言っていたのを聞いたの。ホオリは知らないかもしれないけれど……あのかたは外でも長ぬのをはずさないのよ。それはうまれつき、うでにいえぬきずをおわれているからなのですって」
「いえぬきず、ですか」
この部屋に入る者が着用を義務付けられている長布と覆面頭巾は、いわゆる病魔祓いの呪具だ。自らに転ずる恐れのある病を伏すというこれらの代物は、もうひとつ、自らの内に巣食う病があれば、それを封ずる役割も持つ。もっともその効果は腕や足など局所的なものに限るので、ホオリ自身は使用したことがない。そういった作用もあるのだと、今まで知識としてだけ頭に留めていただけだ。だが姉の言葉が絡んだその知識が、長布を巻いた無骨な手の記憶に枯れ葉を舞い散らせ、彼の者の面影にさざ波を立たせる。
先の語を継げずにいるホオリに、ホデリは目を伏せたまま話を続けた。
「ふだんは平気なのだけれど、ときどきいたむのですって。だから長ぬのをまくだけでなく、ひとつきに何度かはうでに薬をぬらなければならないそうよ」
ささやかな憂いの下から発された言葉は、天降(あまも)る天女のように、一片の邪気もない。それがために、小さなため息を挟んでさりげなく連ねられた句は、ホオリの胸の琴線に容易に刃を添え、彼女の目をわずかに見開かせる結果を招いた。
「おかわいそうにね。おのが身でありながら、ふじゆうとは」
*
『最初から自分にないものへと、悲しみを寄せることはできません』
姉の言葉に反響するかのように、ちりちりと粟立つ胸中の琴が奏でたのは、何度目と知れぬヤヒロの声だった。響く言霊に宿った男の冷たさはホオリの中で実体を結び、再びあの見知らぬ瞳の幻魚となってよみがえる。彼がこの場にいたら、姉の言葉にどういう反応をしたのだろうか。
今一度、鋼鉄の魚と対峙しているかのごとき錯覚に陥り、かすかに顔をこわばらせながらもホオリは考える。あのとき自分に向けられた鋼の鋭利さは、自らを包む温もりを必要とはしていなかった。塗りつけられた生温かさを露と払い、迷わず凍てつく薄氷をその身に宿す。そういった類の鋭さだった。だから、少なくとも、きっと。
海面へ立ち昇る泡沫に似た短い思考は、不意に鋭く息を飲む音に遮られた。はたと我に返ったホオリは、ホデリが傍らで青ざめているのに気が付く。
「ごめんなさい、わたしったら。今のはけっして……けっして、そんなつもりでは」
こちらに向けられる声の尾末は、切れる直前の鈴の緒のようにか細く震えていた。侍従に向けた言葉で、妹姫を傷つけてしまった。どうやらホデリがそう思っているらしいことを悟るのに、少しばかり時間がかかる。ホオリは軽く笑ってかぶりを振った。
「だいじょうぶです、あねうえ。どうぞおきになさらないでください」
姉は揺れる瞳のままに、何か言おうと口を開きかけた。が、ちょうどそのとき、萌黄の衣をまとった采女が退出の時間を告げに来る。采女と二言三言話したのち、気遣わしげにこちらを見たホデリに、ホオリは柔らかな微笑みを返した。自分のことは案じないように言うと、ほんの一瞬、ホデリの面差しに、寂しさとも憂いともつかぬ靄(もや)がかかる。
だがそれを打ち消すように、姉姫は咳払いを一つしたあと、別れ際の定型となった辞を述べた。
「……それでは、火遠理の君。そなたに龍と青海原の加護があらんことを」
また来るわね、と小さく付け足したホデリに、ホオリは型通りの返事をしてから一礼する。
姉の後姿を見送る少女の隣で、水晶の中の紅珊瑚が静かに光を放っていた。
*
わずかに開いたしとみ戸から吹き込む夜風に、ホオリは寝台に横になったまま、浅く目を開けた。竜宮に息づく全ての色彩は闇に抱かれ、時を渡る夢となって夜のしじまを漂っている。そこからこぼれた小鈴の音が、灰青(はいあお)の粉を少女の瞼に散らしていく。
『ひとつきに何度かは、うでに薬をぬらなければならないのだそうよ。おかわいそうにね』
野分の日にヤヒロからした薄氷色の匂いは、おそらく薬のそれだったのだろう。今より幼かったころ、夏の盛りに見舞いにきたホデリが、足に薬を塗っていたのを思い出す。リュウグウノツカイに乗ろうとした拍子に転んだのだと、照れくさそうに笑ったあのときの姉は、唇の前に人差し指を立てて続けたのだ。母上にはないしょよと、陽の当たるまぶしい場所で。
(あのとき、どこかでおぼえのあるかおりだとおもったのは、あねうえがつかわれていらしたくすりと、かおりがにていたからだったのだわ)
頬を撫でていく涼しい風に、ホオリは静かに瞬きをした。剥がれ落ちていく遠い記憶を、波音の残響がさらっていく。そうして闇を映す少女の瞳に浮き上がるのは、頭を巡る無数の言葉だ。母。笑顔。鋭い眼差し。癒えぬ腕の痛み。自分にはないもの。連なる思考の欠片は数珠繋ぎになり、姉の言葉を鏡として、野分の日の心の在り方を映しだす。
(わたくしが……わたくしが、あのときヤヒロにみたのは、きっと)
心の鏡像に自分の手を重ねるような感覚とともに、ホオリはそっと目を閉じた。開いた手の平へ導き出されたものを瞼の裏に思いながら、背後に流れていく潮の流れの歌に意識を遠く預けていく。
ほんとうに、たいせつなことは、きっと。
*
翌日の昼過ぎ、ホオリは仕事を終えた侍従に呼びかけた。
「ヤヒロ、すこしいいかしら」
広げていた巻き物に紐をかけ、ヤヒロはホオリのもとへと歩みを進める。相変わらず剣を内に納めたような静けさを帯びている長身を前に、少女は緊張しながら言葉を紡ぐ。
「あなたがこうしてつかえてくれるようになって、ひとつきがたったでしょう。だから、これをわたそうかとおもったのだけれど」
これと称された玉手箱は、螺鈿を絹に織り込んだような乳白色の布にくるまれて、ホオリの手にかかえられている。そうして腕のうちにある、漆塗りの小箱の確固とした存在感に励まされるように、彼女は胸の内で蔦を伸ばしていた思いを口にした。
「そのまえに、このあいだの……のわきのときのことを、あやまりたくて」
「謝りたいとは」
平らな口調で問い返すヤヒロを見上げ、ホオリは懸命に話を続けた。
「あなたのははぎみのはなしをきいたとき、わたくしは、それが、ほんとうはかなしいというより、とても……かわいそうなことのようにみえたの」
あのとき、ヤヒロと対峙して浮かんだ奇妙な痛みを思い返す。可哀想とはすなわち憐憫だ。優しさの双子にして、中身は全く異なる別のものだ。そして、そういった感情の流れの底を掬いとってみたところで、手にできるのが必ずしも清らかな白砂ばかりではないことをホオリは知っている。知っていたはずだったのに、という悔いを胸に秘めたまま、少女は切れ長の黒い目を見つめて話す。
「でも、わたくしがそうおもったのは、おそらくみまちがいだったとおもうの。うまく、いえないのだけれど……じぶんがもっているものを、ひとがもっていないというだけで、あわれみをかけるのは」
どこからか風が吹き、顔の両端に流した髪がふわりとなびく。一輪の花を手向けようとしていたはずが、砕けた鏡の破片しか手のひらに乗せていなかった事実が脳裏で白む。
一瞬息を詰めるように間を置いたホオリは、ヤヒロから目をそらさないまま言った。
「きっと、そのひとをとおしてみずからをみつめているだけ。そのひとじしんをみていないのと、おなじことだとおもうから」
*
「だから、その、ほんとうに……ごめんなさい」
少しの間、沈黙が二人の内に流れる。床の木目にこぼれる日差しと、どこかから聞こえる切れ切れの笛の音が、全て見つめる先の黒の中に吸いこまれていくかのような錯覚を覚える。
唇を引き結んだまま揺れる瞳で自らを見る主人に、やがてヤヒロは口を開いた。男の低い声に、少女の華奢な肩が跳ねる。
「姫様」
「は、はい」
言葉を区切るように一度目を閉じ、ゆっくりと瞼を半ばまで引き上げたヤヒロは、淡々と言った。
「私はもとより、気になどしておりません。憐れみというのは、人の間では往々にして起こりうるものです。……ゆえに、その謝罪のお言葉を受ける理(ことわり)が、私の中には存在しません」
「ほん、とうに?」
「嘘をついてどうするのですか」
侍従の口調はあくまでもそっけない。だが今回は、白刃の鋭さも薄氷の冷たさも彼の声には含まれていなかった。水を打つ静謐さがこちらに向けられているのみだ。目を丸くした驚きが鎮められていき、凪いだ水面の上でホオリはあらたに言葉を紡ぐ。
「そう。それ、なら……ひとつだけ、きいてくれる?」
少女の声音が固くなる。目だけで頷いた相手に自らの音(ね)を届けようと、ホオリはひたむきに言葉をつまびいた。
「きのう、あねうえからきいたの。あなたが、うでにいえぬきずをかかえているのだと。だからこれから、もしあなたが、きずがいたんでつらいようなことがあったなら、えんりょをしないでいってくれないかしら。わたくしは」
ほんのつかの間、少女の視線が自らの手に落ちる。病魔の巣食う痩せた手は細く、受け止められるものの数は多くない。青白い手に浮かび上がる事実に、一瞬だけ目をすがめたホオリは、再び顔をあげてヤヒロを見た。
「あなたにてをさしだして、いたみをなでてあげることはできないけれど……おやすみをとらせてあげることくらいなら、できるから」
「……それは、ご命令ですか」
「いいえ、これはおねがい」
こちらの様子を窺うようにすいと目を細めたヤヒロに、ホオリは少しだけ表情を緩める。きらめく白銀の光が射した柔らかな声で、彼女は穏やかに言った。
「ちからであっても、ことのはであっても、いっぽうてきにこころをしばることなどできないもの。それに、きずをおわれているということじたいより。あなたがそのことをどうおもっているか、どうかんじているのかをしるほうが、ずっとたいせつだとおもうから」
*
灯りのない自室で、ヤヒロは窓辺に腰かけていた。背を窓に預けたまま、片膝を縁(へり)に立て、片足の爪先を床に下ろした格好のまま、手にした玉手箱を眺める。明け初める夜(よ)の色の紐をかけられた箱に浮かぶのは、落花の風情がかいま見える幼い主の面影だ。彼が繊細で病弱とだけ見なしていた少女の声は琴の高音に似て、静かでいながら、確実に響くものを持っていた。ヤヒロは粛として目を閉じる。
「……妙な娘だ」
再び彼が目を開けると同時に、翳っていた月が叢雲(むらくも)から顔を出し、部屋の中に光を射し入れた。そうして、闇夜の中におぼろに浮かび上がった彼の姿は、人のそれから大きく変じていた。
刃の鋭さを帯びた黒い瞳は、雷の閃き(ひらめき)を帯びた金に。瞳を囲む白目は暗雲を垂らした闇の色に。しゅるりとほどけた長布の下から見える肌は、海原と同じく薄群青の色に。
月光に照らしだされた異形の男は、漆塗りの小箱を祭壇の上に置いた。
夜はこくこくと、しじまのままに更けていく。