ぼくらのたからもの
少年は天を見上げ、深く息を吐いた。瑞々しい縹色の空に漂う白雲は、穏やかな春の陽気を纏ってうたたねをしている。水面に鮮やかな緑を透いて輝く青海原は、地平の果てまで薫風の喜びを歌うかのようだ。時折遠くから聞こえるキャモメの鳴き声がのどかに響いては、ゆったりと昼下がりの中へ消えていく。思わずふわりと手放しそうになった釣竿を握り直しながら、少年はしみじみと呟いた。
「いやあ、いい天気だなあ」
今日はまるっきりからっきしコイキング一匹釣れていないけれど、まあそれはそれ、これはこれ。ここサザナミタウンは言わずと知れた別荘地だが、今は夏ではないので人もまばらだし、自分とポケモンだけでまったりしたい時には最適なのだ。寄せては返す波の調べが耳に心地よく響き、ぱしゃぱしゃと水飛沫が陽に弾ける。次第に煌めく音色はぽてぽてという足音を伴い、少年の真横でぴたりと止まった。
白星を浮かべた柔らかな青の瞳。優しい夜の夢めいた桃色の体に、おとぎ話に羽ばたく天使の羽根のような薄黄色の耳。ホイップクリームに似たふわふわの純白の尻尾は、陽射しのもとで楽しげに揺れている。少年は水面から引き上げた釣竿を傍らに置き、微笑みながらタブンネに向き直った。
「リディ」
名を呼ばれたタブンネは、嬉しげに鳴いて少年の隣にぽすりと座った。それから少年の顔を見上げると、何かを包むように重ね合わせた小さな両手を、そっと少年の元へ差し出す。
「素敵なものを見つけたのかい?」
「ネネ」
リディはにっこり笑うと両手を開いた。暖かな陽射しに照る、海のひとかけらめいた硝子玉。柔らかなクリーム色の手のひらに乗せられたそれは、小さな青いビー玉だった。耳をぱたぱたと動かしながらこちらの様子を伺っているリディに、少年は穏やかな声音のまま問いかける。
「僕にくれるの?」
「みぃみ!」
元気よく頷いた拍子に、白い尻尾がふわりと揺れる。わくわくに星の輝きを増す青い瞳に、心のうちで花が咲くのを感じながら、少年はそっとリディの頬を両手で包んだ。
「ありがとう。リディは優しいね。それに、宝物を見つけるのがとても上手だ」
ふわふわと頬を撫でる手に目を細め、リディは甘えるように小さく鳴いた。ぱたぱたと動く両耳ににっこり微笑むと、少年はたいせつなものポケットへビー玉を入れる。そうして、ふとCギアの画面へ目をやったのと、背後できゅるるとお腹が鳴る音が聞こえたのはほぼ同時だった。きょとんと目を丸くして自分のお腹を見下ろしたリディの姿に、少年はくすりと笑い声をこぼす。
「そろそろお腹が空いたよな。あ、そうだ」
再び、たいせつなものポケットに手を入れる。あったあった。口元に丸い笑みを浮かべ、白い紙包を取り出した少年に、リディは不思議そうに首を傾げた。そんな彼女の様子に鼻歌を歌いつつ、ウィンクしている金色のペロッパフのシールをぺりりと剥がす。透明な飴細工をぽってりと纏った、艶やかな赤色の果実。淡雪の上に桜を載せたような、白とピンク色のクリーム。綿菓子が錦糸を解いて、桃の香に晴天の陽を架けているのその菓子は、マフィンによく似ている。じっと菓子を覗き込んだリディに、少年は笑顔のまま続けた。
「友達がくれたんだ。カロスで流行ってるお菓子で、ポフレって言うんだって。食べてみる?」
ちんまりとした両手が、そっとポフレを受け取る。リディは二、三度ふんふんと匂いを嗅ぎ、くりくりとした目を瞬かせた。嗅いだことのない匂いだったのだろうか、興味津々といった風情で耳がぱたぱたと動き、青い瞳は再び少年の顔をじっと見つめる。そうして少年が頷くと、リディは小さな口をそっと開いた。そうしてぱくりと一口ポフレを食べると、ぽわりと全身の毛が膨らむ。やがて信じられないものを見たかのように両眼が丸くなり、青に瞬く白星は、満天の星の調べにぱあっと輝いた。
「ネッネ!ネー!」
きらきら光る夜空の星は、ホイップクリームの尻尾に桜色の音符を落とす。ほわほわでふわふわの大好きを振りまきながらはためく尻尾に、少年は柔らかく目を細めた。だが、良かった良かったと頭の中でキレイハナが踊るより前に、上着の裾をくいくいと引っ張られる。どうしたのかと首を傾げると、リディは目を輝かせたままポフレをこちらに差し出した。少年を指差してから食べる真似だけするその仕草に、少年はああなるほどと呟く。
「僕にも、食べてみてほしい?」
「ネネ!」
にっこり笑ったリディの頭を、少年は優しく撫でた。
「ありがとう。でも僕はポフレを食べられないんだ。ごめんね」
夢想にぱたぱたはためいていた耳が、しょんぼりと垂れ下がる。だが少年は、みぃ、と小さくこぼれ落ちた鳴き声を掬いあげるように、明るく言葉を続けた。
「その代わりに」
ごそごそという音に、青い瞳が丸くなる。少年はどうぐポケットからラップに包んだサンドイッチを取り出すと、リディにぱちりとウィンクをした。
「一緒にご飯を食べよう。例え食べてるものが違っても、おいしいは一緒だし。そういう一緒のおいしいは、とっても楽しくて素敵で、ずっとずっと、きらきらしているから」
煌めく海原へ乾杯するように、サンドイッチをポフレの縁にちょんとつける。そうしてサンドイッチを一口かじると、春の日差しがほわりと口の中に広がるような気がした。ふわふわ。きらきら。ほわほわ。心に丸く溶けていく響きに、少年はリディに微笑みかけた。きょとんとしていた青い瞳は、再び星空のようにぱあっと輝く。
リディはサンドイッチと乾杯したポフレをぱくりと一口食べると、とても嬉しげににっこり笑った。
「ネー!」
この日は結局、やっぱりコイキング一匹釣れないままだったのだけれど。
それでも、とても楽しい一日だった。