イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

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    しおり
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    しおり
    鮫愛づる姫君:その六(中編)白磁の床に水の滴る音がする。
    天に粘着質な糸を引くように、緩やかな一定の間隔を経て地に落ちるそれは、やがて一つの沓音に変わった。見廻りの衛士が庭に立てる、鋼の煌めきが混じったものではない。使いの童が廊を走り回る、文のささめきが鮮らかなものでもない。浅緋の花弁が闇夜に架ける、一人の少女のものだった。
    高く硬質な足音は、次第に白磁の床を黒漆の廊へと拓(ひら)いていく。常冬に黙した白壁は四季世を歌う丹塗の柱と化し、その身に纏うものを静寂から雑踏へと変えた。青紫に白銀を重ねた衣を身に纏い、何かを論じながら歩んでいく豪族の子息。淡紅や若緑の羽衣を宙に透きながら舞う、鯛やヒラメの女性(にょしょう)達。亀甲花紋の錦糸が輝く帯を花緑青の衣に締め、艶やかに笑みながら銀鼠色の海亀と語らう龍の姫君。柱の合間に現れては消える幻想のようなそれらに、少女は目もくれずに早足で歩いた。竜宮の人々の笑いさざめく声が、天井から吊るされた数多の灯篭を揺らす。黒漆の廊に照り輝く淡黄の光は、無言で歩を進める少女の顔に深い陰影を刻んだ。やがてそれは一人きりの足音に、無数の声
    色の玉を連ねていく。鉛丹色(えんたんいろ)や紅紫を交えた極彩色の宝玉達は、闇の最中に重なり合い、少女の足首を丹塗の柱に縛りつけんと、頭の中でひしめきあう。

    『あれが例の?』
    『どうしてここにいるのかしら』
    『気味が悪いったらないわ』
    『冨亀家の方に花を売りでもしたのかしら』
    『いやだわ汚らわしい』
    『ろくな能もないのにね』
    『もっとふさわしい居場所があるでしょうに』
    『身の程知らずだこと』
    『本当ね。ひなびた家の出であれば、それなりの分を弁えればいいものを』

    聞き覚えのある声の群れが、柱の影に息をひそめるように反響する。荒くなっていく呼吸に歯を食い縛りながら、少女は黒漆の廊下を進んだ。こめかみを伝う一筋の汗が、煌びやかな嘲笑の足枷に滴り落ち、極彩色に浅緋の罅を入れようと鎖を鳴らす。早まる胸の鼓動を押さえつけるように、少女は頭を振った。

    (大丈夫)

    紅を載せた唇を噛む。重さを増していく足枷に、歩む速さが遅くなっていく。それでも己に言い聞かせるように、少女は繰り返し言葉を紡いだ。

    (大丈夫、落ち着いて)

    鎖の音が頭の内で響き渡る。瞳に痛むほどの極彩色は、目眩に高鳴る神楽鈴の金と混ざり合い、少女をその場にしゃがみこませる。浅緋色の花はこみ上げる吐き気の中で、己に残された救いの名を思い出さんと、ひたすらにきつく目を閉じる。

    (私は……私は大丈夫……大丈夫、私は……だって、私には)

    天井に描かれた翡翠の龍が、床に膝をついた浅緋を睨めつける。瞼の裏に蘇る微笑みの面影が、少女の視界を赤く染め上げる。忌避。嫉妬。憎悪。嘲笑の腹に潜む呪詛の原石達の中で、ただ一つ澄み渡って見えるそれに手を伸ばせば、眼前に光が射した心地があった。遠のいていく人々の声に震える吐息を細く零しながら、浅緋の花は緩やかに目を開ける。そうして海蛍が舞う黒漆の廊の果てに、紅緋の扉が開かれているのを目の当たりにした少女は、張り詰めさせていた肩をゆるめた。眉尻を下げ、唇に笑みを刻んだ少女はよろめきながらも床から立ち上がる。両手に持ったものを再度抱え直しながら、少女は紅緋色の扉へと向かった。衣の裾を軽やかに陽射しに翻しながら、少女はかの人の名を口にする。だが愛おしげに紡がれた浅緋の声は、ついぞ音を伝うことはなかった。ただ唇の動きだけが虚空をなぞり、水面の視界を闇へと反転させていく。浅緋の花弁が淡紅の花弁へと重なり、再び夜の水底へ沈んでいく意識が、今一度夢の残滓を映し出す。

    真紅の紐にだらりと吊り下げられた、白い女の足が宙に揺れる。



    白い水面に紅色の波紋が広がる。滑り落ちた枸杞(くこ)の実が黒漆の器に沈む音に、ホオリははたと我に返った。

    「あ……」

    少女は箸の隙間から滑り落ちた紅色の実を見つめる。夢のように鮮やかな果実を再びすくい上げようとした瞬間、喉から小さな咳が一つ零れた。そのまま一度箸を置き、花弁を散らすように連なる咳を着物の袖で覆い隠す。そうして口元を押さえながら背を震わすホオリの前に置かれたのは、一つの紺瑠璃の杯だった。静かにだが確かな硬さを持って差し出されたその音色は、散り落ちた花弁を再び宙に舞わせる沓(くつ)音のように、夜半の泉に響き渡る。ホオリは一つ瞬きをした。杯に刻まれた他者の始まりの音を、己の視線に繋ぐように見上げれば、やはり切れ長の金の瞳がこちらを見ていた。

    「ヤヒロ」

    ホオリは侍従の視線に応えようと口を開いたが、再び沸き起こった咳が言葉を攫う。淡紅の花弁を散らす木枯らしは段々と勢いを増し、ついには激しく少女の喉を焼く。異形は少女の身を這う病魔の予兆を鎮めるように、咳き込む背を静かに撫ぜた。ホオリは滲む視界に映る群青の影に呟く。

    「ごめん、なさい」

    ヤヒロはホオリの背に手を置いたまま、あまり減っていない器の中身に視線を移した。そうして段々と咳が治まってきたころに、異形は淡々とした声音で言葉を紡ぐ。

    「食べる気力が無ければ、甘露水だけでも飲め。今日は寝ていた方がいい」

    ホオリは力なく微笑んだ。

    「そう……そうね」

    白い指が紺瑠璃の杯を受け取る。桃に似た芳香が微かに薫り、爛れた喉に薄紅の蕾を宿す。

    「ありがとう……ごめんね」

    ヤヒロは目を細めた。

    「……俺は務めを果たしているだけだ。お前に謝られる義理はない」

    紡がれた声音には、雷光の苛烈さも薄氷の鋭利さもなかった。素っ気ないとも取れる口調は、ただ月の静謐さにのみ満ち溢れている。ホオリは再び口を開こうとしたが、ヤヒロの静かな眼差しに、穏やかな微笑みを返すだけに留めた。そうして背から離れていく群青の手を一瞥し、ホオリは紺瑠璃の杯を唇へと傾ける。薄紅色の蕾は緩やかに注ぎ込まれる甘露水に潤い、少女の琴線に淡紅の花を蘇らせた。微かな吐息と共に唇から離れた杯の底には、宙を舞う翡翠の龍が描かれている。所々に螺鈿を交えた翡翠の鱗は美しい。だが、同時に見る者を威圧するその眼差しに、ホオリは今朝方見た夢を思い出していた。見覚えのある少女の面影は、以前見た夢との繋がりを浅緋の糸でもって示す。ホオリはゆっくりと杯を机に置いた。高く硬質な音が、少女の水鏡を現世から夢想へと変じさせていく。

    (あのゆめは、いったい何を示しているのだろう。あの人は、いったいだれなのだろう)

    孤独に蝕まれた喘鳴が、憎悪に迸る絶叫が、燃え盛ってはすすり泣きの尾を引いて夜半の泉に沈んでいく。跡形もなく焼け落ちていくようなその様を、ホオリは酷く痛ましく思った。叶うなら名を呼び、眼差しを交わし、彼女の身を食む火傷を掬い上げた清水で鎮めたかった。だが、今は呼ぶ名を知る術さえない。浅緋色の衣を身に纏う者は多々あれど、あの少女はどの青海原の眷族にも当てはまる特徴を持たなかった。そしてやはり、ホオリの記憶にも当てはまる者はいない。だが、いやだからこそ、ホオリは彼女の面影を心に留めおかなければならぬような気がした。水底に沈む断末魔のような火花が、淡紅の花弁に真紅の影を落とす。

    (……それにやはり、あの人形のことや、ムツハナの異変もかんがえると、ただのぐうぜんには思えない)

    それは予感めいた感覚だった。本当は魂の奥底で繋がる、縁(えにし)の深い者なのではないか。気付かぬ間に、記憶の隙間から浅緋色の花弁を流れ落としてしまっただけなのではないのか。夢想の影にざわめく心は、黒漆の廊を彷徨い、やがて一つの考えを産み落とす。

    (何か……何か、調べてみたほうが、よいのではないかしら)

    名は分からない。顔も知らない。だが夢の中の釆女達は、あの少女のことを本来宮に上がることが許されていないように話していた。そして冨亀家から手を引かれて、宮入りを果たしたようなことも囁きあっていた。つまり彼女はどこぞの豪族の娘ではない。そしてそのような娘が宮入りをしたということは、常日頃ではあり得ない特例ということだ。人は常ならぬ者を怖れるが、同時に好奇の目をも密やかに向ける。かように珍(めず)らかな事であれば、そして元の身分を隠さず公的に宮入りを果たしたのならば、恐らく宮入りの式かそれ以外の記録にも残っているはずだ。もしくは、彼女が本当に冨亀家の手引きで宮入りを果たしたのであれば、冨亀家の方に何かしらの記録があるやもしれない。

    (……そういえば、この間ヒシコが、冨亀家の禁書棚について話していた)

    綿津見御神と共に、現在の青海原の礎を築いた冨亀家には、神代の世から様々な書物が保管されている。青海原の歴史や神事の執り行い方、果ては陸(おか)の国から渡来した神話の書まである。そしてその中でも、禁書と呼ばれる類の書は、常ならぬ方法で厳重に保管されているという。

    『何でも、その禁書棚には古の呪術などが書かれた書が保管されているそうで!ゆえに常では絶対に入り込めないような、特別に強い結界が施されているそうなのです。あまりにも取り扱いが厳重なので、冨亀家の方々やその近縁の方でも、禁書を手にすることはなかなかに難しいとか。潮満もこの間、禁書の一冊を借りるのになかなか苦労したそうで』

    つぶらな目を輝かせ、少し興奮気味に語っていた彼女の姿を思い出す。
    ホオリは寝台に横になりながら、記憶の泉に映り込む真朱の面影に、少し頬を緩めた。それからまた眼差しを引き締めると、星の煌めく紅緋の鱗から、陽の暮れなずむ銀鼠の尾を辿るように、ホオリは思考を巡らせる。

    (みつ兄さまなら、何かご存じかもしれない)

    竜宮において、采女の宮入りの式は神事の一つとして数えられている。それは采女が、綿津見御神の加護を受け、自身も龍神の血を汲む乙姫やその御子(みこ)に付き従う、いわば神女(しんにょ)としての役割も担うためだ。そして冨亀家は竜宮王家の始祖、亀姫と同じように占(うら)の才能に秀でた者が多い。ゆえに現在では、神事の一切は冨亀家が執り行うこととなっている。今回潮満が神殿の再建を指揮しているのも、おそらくはその一環だろう。真面目で博識な彼のことだ。この神殿の再建において、神事にまつろう事柄はあらかた調べているはずだ。執務で忙しい彼に全てを聞くことは憚られるが、そのような特例があったおおよその年代だけでも聞くことができれば、後は己で絞り込んで書を探すことができる。ホオリは緩やかに目を閉じた。

    (それか、もしかしたら)

    思考の水が金板の影に滴り落ち、水琴のごとく群青の音を奏で上げる。現世にも深い青の音は反響し、ホオリの耳に微かだが玲瓏な金板の音を紡ぎ落とした。次いで身に触れた柔らかな絹の感触に浅く目を開ければ、ヤヒロが己の身に絹ぶすまを掛けているところだった。無駄はないがあくまで静かなその所作に、ホオリはぼんやりと出会った時のことを思い出す。ヤヒロもまた、あの時の塩椎の言葉から考えるに特例の身だ。加えて、こうしてホオリの傍にいる前には、半年ほど冨亀家に仕えていた。両者は似ている。奇妙なほどに。

    「……どうした」

    ホオリははたと我に返った。瞬きを一つ挟み、注ぐ眼差しを記憶の泉から現身(うつしみ)の侍従へと移せば、鋭く細められた金の瞳がこちらを見ていた。

    「寝覚めの悪い夢でも見たような顔だが」

    低く紡がれた剣の声音は、少女の水底を見透かすような響きを孕んでいた。だがその切っ先を喉に向けることはせず、ただ刀身にホオリの姿を映すのみに留めている。沈黙に浸された鋼は、刃に伝う淡紅の花弁を待つ。ホオリは逡巡した。ヤヒロにあの夢のことを話すべきか否か、何故だか妙なためらいが喉元までせり上がっていた。一日中ホオリの世話についている彼に、余計な負担をかけたくないと思ったこともあるが、それ以上に身の深く奥まった部分から緩く言葉を締めあげられているような感覚が、ホオリの唇を封じていた。まるでヤヒロには話すべきではないのだと、誰かから警告されているかのように。

    (……けれど)

    ホオリは金の瞳を見つめた。白刃の瞳孔を縦に刻んだ異形の瞳は、変わらずホオリの言葉を待っている。

    (ヤヒロは、いつもわたくしのことを気にかけてくれている。それが務めゆえだとしても、ほかに目的があるからだとしても、わたくしの言葉を待ってくれることに、変わりはない)

    ならば、それに応えるべきではないだろうか。一方的に言葉を沈め、唇に封をするよりかは、一度彼の手に夢の絵巻を渡すべきではないだろうか。秘匿し、隠蔽し、絵巻に錠をかけることこそ、最もヤヒロの心の泉を濁すのではないだろうか。
    ホオリは唇の端を引き結んだ。あの浅緋の少女のことを語ることに決め、琴の音を強く奏でようとした。

    「ヤヒロ、じつは」

    だが瞳に宿した決意の光は、意図せぬところから揺るがされる。ホオリが言葉を口にしようとした瞬間、突如喉に焼けるような熱が広がった。思わず喉元に手を触れれば、そのまま青白い肌を裂くように、再び咳が唇を突いて出る。初めは泉に響く細波めいて小さかったそれは途切れることを知らず、やがて少女の身に猛り狂う波浪のごとき大きなものへと変じていく。およそ先程とは比べものにならない咳に臓腑が裏返りそうになり、ホオリは強く口元を押さえた。背を丸めつつも、波打つ咳の狭間にどうにか言葉を紡ごうとしたが、息を吸った瞬間からより一層、喉を焼く真紅は酷くなる。何度かそれを繰り返し、だんだんと滲んできた視界の中で、ただ一つ金の瞳が険しさを帯びているのが分かった。いつの間にか真紅の熱を退けるように背に触れていた群青の手に、少女は荒い呼吸の合間に唇を引き結ぶ。これでは今言ったところで、正しく伝わらない可能性の方が高い。ならばまた、別の機に告げるより他はない。呪布越しに背に流れこんでくる異形の冷たい体温が、真紅に濁らされていた少女の泉を清澄な水縹へと戻していく。未だ瞳の剣を鞘に納めずにいるヤヒロに、ホオリは再び唇を開いた。不思議なことに、今度は滑らかに言葉が出る。

    「ごめん、なさい、今は……大丈夫」

    そう言葉を紡いだ途端に、あれほど喉の内で猛り狂っていた熱が嘘のように引いた。後には咳き込んだ後の気怠さと、半眼で少女を見つめる異形だけが残される。鋭い金の瞳は、死した言葉を喉に埋(うず)めた少女を責めるものではない。どちらかと言えば、徐々に呼吸を落ち着かせてきたホオリの影を透いて、何かを考えている風情だった。ようやく滲んでいた視界が明確な輪郭を取り戻してきたころ、冴えた月光の冷たさを纏う群青の手が、寝台に座す少女の背から静かに離れる。

    「……ならばいい」

    ヤヒロは短くそう言うと、懐から若竹色の包みを取り出した。金の羽衣を抱く蓮華の文様が眩いそれを傾ければ、若竹色の縁から貝殻の形に折られた紙が零れ出る。常ならばそのまま床に落ちていくところだが、紙で出来た純白の貝殻は地に伏すことなく宙に浮いていた。やがて金粉を散らしながら流れるように杯の真上に座を移した貝殻は、ゆっくりと己が身を開いていく。錦糸の煌めく紙のささめきと共に現れたのは、陽射しに澄む白い結晶と葵に薫る細末だった。真昼の星々を腕(かいな)に抱いた細末は、注がれた杯の中で夜明けの空と縁(ゆかり)を結ぶ。紺瑠璃の円に満たされた甘露水は、一瞬にして水面に暁光の射す東雲を映し出した。宿すものをなくした純白の貝殻は、秋風にそよぐひとひらの銀杏と化して、寝台の上に舞い降りる。仮初めの黄葉(おうよう)を眺めていると、ヤヒロが再び口を開いた。

    「今はあまり喉を使うな。例え些細なことだろうと、何か異変や用向きがあれば鈴を鳴らせ。だが、とりあえずは」

    群青の手が紺瑠璃の杯を持つ。青白い両手に杯を手渡した異形は、淡々と言葉を続けた。

    「先程も言ったが、今は身を休めろ。話があるのなら、その後で聞く」

    ホオリは円(まどか)な曙に視線を落とす。そうだ。あの少女のことを問うにしても、その後にまた調べるにしても、今は無理をすべきではない。急くあまりに病の尾を影に引きずり、巻物を紐解くうちに倒れでもすれば、それこそ本末転倒だ。ホオリは緩やかに目を閉じ、ヤヒロに小さく頷いた。

    「……ええ」

    かくして少女は杯に唇を触れる。まろやかな朝焼を身に沁み渡らせ、再び寝台に身を横たえれば、眠りの帳が瞼の裏に降りてくる。そうして意識を夢の貝殻に閉ざす前に、ホオリは低く何かを唱える声を聞いた気がした。だがホオリが浅く目を開くより早く、群青の手が両の瞼を覆う。ただあくまでも静かなその手付きに、涼やかな水縹の玉石の影を見て、ホオリは安堵の輪郭を満たされたように細く息をついた。ほどなくして、少女は穏やかな寝息と共に、乳白色の微睡みへと落ちていく。
    その日再び見たのは、淡紅色の蕾が金の水泡に揺られて眠る夢だった。



    次にホオリが床から起き上がったのは、病魔に身を苛まれて三日三晩の後だった。それから客人と会い、話すことができるようになったのは、更に数日後のことだった。ようやく軋みを上げなくなった背を椅子に預けながら、ホオリは緩やかに瞬きをする。今回もどうにか生を繋ぎとめられた。側にいたヤヒロには勿論、己を取り巻く巡り合わせに感謝しなければならない。そしてそれは、目の前で顔を伏せている彼女についても変わらない。

    「ヒシコ」

    穏やかに名を呼ばれ、マダイの少女は勢い良く顔を上げた。今日も人間の姿に変化している紅魚は、つぶらな黒い瞳に微笑む少女の姿を映し出す。目の周りに施された青い紋様が、淡紅の花弁に潤むように煌めいた。

    「宮様」

    波間を照らす天日を久々に目にしたのに似た声音に、ホオリは眉尻を下げて微笑む。

    「ごめんね。わたくしが伏せっているあいだも、わざわざ宮の入り口まで来てくれていたのでしょう」

    あの日から、ヒシコは冨亀家からの使いという体で、時折宮へ姿を現すようになった。察するに潮満の計らいのようだったが、一度だけならまだしも、他家に仕えている者に何度も使いを頼むのは不自然な上、理由もなしにいきなり召し上げるのは周囲への角が立つ。ゆえに、先日の贖罪という体で、しばらくの間ヒシコは潮満からの見舞いの文を山幸宮に届ける運びとなったのだと言う。初めは何かヒシコの身に疵(きず)が付くのではないかと不安になり、事実そのように問うたのだが、誤ってとは言えホオリの居室に侵入してしまったのは確かに己の成したこと、その償いをしないことこそ自らの疵となると必死に訴えたヒシコに、ホオリはようやく頷いたのだ。
    果たしてヒシコは、潮満からの文だけではなく、うららかな笑みの咲きこぼれる時間をもホオリに届けてくれた。好きな歌や花などの一見他愛のない話でも、ヒシコと語らう時間は楽しく、その都度ホオリの心には温かな灯火がともされた。そんなヒシコが、伏せっていた時も宮の近くまで来ていたのだと知り、ホオリは至極申し訳ない気分になった。そもそも用がない限り、ここへ来たがる者は少ない。ホオリが病で寝込んでいる最中は余計にだ。何か穢れの場に近付いたなどの噂を立てられていないかと思うと、胸が詰まった。だが紅魚は、声音に鈍色を滲ませたホオリへ勢い良く首を振る。

    「いえ、そのような!私などには勿体無きお言葉にございます!それにその、それは私が文もないのに勝手に立ち寄らせて頂いただけですゆえ!どうかお気になさらないでください!」

    そこまで言い切ったヒシコは、一度ぴたりと体の動きを止めた。それから躊躇いがちに視線を二、三度床に泳がせたかと思うと、ホオリの顔を見上げるように目線を合わせる。果たして紡ぎ出された声音は、先程の勢いとは打って変わって小さくささやかなものだった。

    「……あの、お体はもう、大丈夫なのですか?」

    眉を八の字にしてこちらを見つめるヒシコに、ホオリは穏やかに目を細めた。心の底からの心配を閃かせる真朱の鱗に、柔らかな銀の陽射しに照らされた桜の花弁が舞い降りる。

    「ありがとう。だいぶよくなったの。それに」

    きょとんとしたヒシコの瞳を見つめるように、ホオリは小さく首を傾げた。結い上げられた髷に煌めく簪が、明星の笑む音を声音に奏でる。

    「あなたとお話ができて、わたくしは今、とても心が華やいでいるの。いつもより、はやくよくなりそうな気がするわ」

    柔らかに紡がれた淡紅色の琴の音に、ヒシコは大きく目を見開いた。小さく息をのんだつぶらな瞳は、その身に映す少女の鏡像を満天の星灯りで彩り、かの微笑みに綺羅星を引く天女の面影を見い出す。元の姿に負けないほど頬を赤く染め上げたヒシコは、一言だけ紡いだ声音に燦然と輝く花々を咲かせた。

    「身に……身に余る、お言葉にございます」

    果たして真朱の衣の袂から流れるように、端正な字で綴られた文と彼女が語る徒然の物語が、雪造りの少女の元に届けられる。そうして語らいに花を咲かせていれば、先程までそばにいたヤヒロが、いつの間にか盆を持って二人の間に佇んでいた。瑞々しい常盤緑(ときわみどり)の枝葉を伸ばし、花芯に仄かな薄紅を帯びた白牡丹が眩い赤漆の盆には、二人分の茶と菓子がある。ホオリが柔らかくヤヒロに礼を言えば、目を輝かせていたヒシコも慌てて頭を下げた。盆と同じく赤漆の器に淹れられた浅緑の茶は、白珠の光にそよぐ爽やかな薫風の香を漂わせている。紅葉と共に添えられているのは、柔らかな伽羅色の焼き菓子だった。しっとりと陽に艶めく皮がほろりと崩れ、無数の星屑を絹にこして練り上げられたような白餡が、仄かな甘みを口の中に広げていく。舌の上で滑らかに溶けては消えていく感覚に、ホオリは目を細めた。

    「ふふ、おいしい」

    それからホオリは、手にした菓子を仔細に眺めているヒシコへと視線を移す。菓子の表面に施された萩と三日月の模様が珍しいのか、つぶらな瞳は殊更にきらめいている。そんな彼女を前に、ホオリは一口食べた菓子を自分の皿にそっと置いた。そして木立を抜ける銀のそよ風のごとき声音で、少女は紅魚へ語りかける。

    「……ねえ、ヒシコ」

    ヒシコは我に返ったように、大きく目を瞬かせた。ついで慌てたように菓子を皿に戻し、背筋を勢い良く正す。

    「はっ、はい!」

    口調を改めたホオリに何か感じるところがあったのか、桜の花弁を映した黒い瞳が揺れている。少しでも問いの形を間違えば、紅魚はその身を水底に潜めてしまいそうだった。ホオリは細心の注意を払いながら、水面へ垂らす言葉の綾糸を織り上げる。

    「その……気をわるくしたら、ごめんなさいね。さきほど、このへやに入ってきたときは、なんだか元気がなかったような気がするのだけれど」

    ホオリは眉尻を下げてヒシコを見つめた。夜半の泉に昇る憂(うれ)わしい月が、傷を労わるように織り上げられた錦の糸へと指先を添える。

    「何か……あったの?」

    先程部屋に入ってきた時のヒシコは、鈍色の膜を通して世界を見ているような眼差しをしていた。単に疲れているというには纏っている気が違うと感じたところに、ホオリはヒシコの左の手首に、呪布が巻かれているのを見たのだ。前に手当てしたのは右の手首だった上に、あれからの時の流れからしてもう完治しているはずだ。加えて、ヤヒロが先程淹れてきた茶は白扇曙射仰(はくせんあげぼのうちあおぎ)だった。かつて古の巫女が服し、暗雲立ち込める天を白扇で仰いだところ、瞬く間に澄み渡ったその様が、まるで曙を射落したかのようだったことから、この茶はそう呼ばれている。そこから転じて、飲んだ者の心身の淀みを打ち払い、気を落ち着かせる効果があるとも言われているのだ。先程衝立の裏に踵を返した侍従は、菓子を運んできた時も眉一つ動かさなかったが、密やかにヒシコの眼を読んでいたのかもしれなかった。

    「あ……」

    一方で、マダイの少女は言葉を喉に詰まらせる。だが指先が茨の棘に裂かれても、手を伸ばすのをやめはしないホオリの眼差しに、思うところがあったのだろうか。一瞬話を切り出すのを躊躇う様子を見せたが、ヒシコは自らの膝に落としていた視線を上目がちにあげると、一言呟くように言った。

    「……その、実は、話すと長くなってしまうのですが」
    「ええ、大丈夫」

    静かに微笑んだ淡紅の少女に、真朱の魚は小さく礼を言う。ヒシコはほつりほつりと語り始めた。

    「私は、舞が好きでした。それと同時に、舞うことは私の持ち得る、唯一無二の才でもありました。我が始祖がかつては陸の国の客人を、舞をもってもてなしたと言われていることも、関係しているのかもしれません」

    鯛や比目魚(ひらめ)の舞い踊り、ただ珍しくも面白きとは、竜宮を訪れた陸の国の民の言(げん)によるものだ。実際に竜宮歳時記一ノ巻には、マダイや比目魚の氏族の娘が、歓待の一環として陸の国の民に舞を披露した話が残されている。もっとも近頃では陸の国の民が竜宮を訪れてはいないため、彼女達が舞う姿を目にすることはあまりない。強いて言うなら、豪族の子息などの婚礼の場で稀に舞う娘がいるのみである。マダイは話を続けた。

    「私は舞うこと以外、特に取り柄もありません。頭もあまり良くないし、臆病で……鈍臭い。一族の恥晒しとさえ、言われたことがあります」

    そう言葉を紡いだヒシコは、傷ついたような笑みを浮かべた。正座した膝の上に置かれた両の手のひらが、強く、硬く握り締められる。

    「……そんな折に、私は明くる年の銀鱗の節会の舞姫に選ばれました」

    軽く息を吸ってから発された言葉に、ホオリは姉姫からの文が頭をよぎった。曰く、次に執り行われる銀鱗の節会は、より強く青海原の繁栄を願うため、占(うら)により選ばれた四人の少女が、綿津見御神への祈祷の舞を奉納することになったのだという。それと同時に、ヒシコはうなだれるように俯いた。

    「そのときは、うれしくて、うれしくて。身分など関係なく、私を見てもらえたような気がして、嬉しかったのです。私が最も好きなもので……私の、魂を占めているもので、初めて世に認められたような気がして。でも」

    伏せた面の下から発される声に、震えが混じる。眦(まなじり)を強く塞いでいた真朱の鱗が剥がれ落ち、ところどころが欠けた紫紺の朽葉が、紡がれる言葉の陰に苦渋を散らす。

    「……全く、うまく、いかなくて。他の姫様方には、品位も、所作も、何もかもがかなわなくて。そのうちに、私が両の手に持っていたはずのものさえ、どんどん滑り落ちて行くような気さえして。舞うことがあんなにも好きだったはずなのに、何だかもう、わからないのです。ただ……ただ」

    ヒシコは口をつぐんだ。つかの間、自らの膝に散る淀んだ落葉を見つめるような沈黙が流れる。斜陽に沈む枯葉の群れは、やがて夜闇に砕け散った玻璃の器と化し、道を踏み出した少女の素足を刺していく。後悔。虚無。焦燥。恐怖。濁り合う感情に、歪んでいくのはかつて輝いていた紅緋の鱗だ。噛み締められた唇から零れ落ちた声音は、喉にせり上がる劣等感の泥土を抑えるように色を失い、寄る辺を無くして虚空を舞った。

    「ただ今はもう……己が舞うことも、誰かが舞っている姿を見るのも……苦しいのです」

    振り絞るような掠れた言葉が地に落ちると同時に、張り詰めていた肩が丸くなる。再び顔を上げたヒシコは、打って変わって弱々しい微笑みを浮かべていた。

    「思えば、占で名を示されたとはいえ、私のような卑しい者が応じさせて頂いたこと自体、身の程知らずだったのやもしれません。慎ましやかに辞退させて頂くことこそ、世の理であったのかもしれません。いえ、現に陰でそう言われていることも、知っていますし、私自身も……そう考えています」

    ヒシコは言葉を続けようと、息を吸った。口の端に湛えた微かな笑みの一滴さえも零さぬように、懸命に言ノ葉の糸に伝わせようとしているのが見て取れた。だが震える唇に玉の露を乗せ続けることは叶わず、笑みの白珠は歪んだ鱗と共に地に落ちる。まるで泣き出す直前の幼子のような風情で、鱗に刺さった玻璃が刃のごとく煌めいた。

    「どうして、どうして……私は」

    そこまで口にしたヒシコは、視界に入った淡紅色の裳裾に、はたと我に返ったようだった。大きく目を見開いたヒシコは、慌てて床に額(ぬか)づいて平伏する。

    「も、申し訳ございません!このようなことまでお話するつもりではなかったのですが……!」
    「……ヒシコ」
    「べ、別の!別のお話を致しましょう!そうだ、そういえばこのあいだ潮満様が」
    「ヒシコ」

    自らの名を呼ぶ穏やかな声音に、ヒシコはぴたりと全身の動きを止めた。それから恐る恐る顔を上げれば、終始黙って話を聴いていたホオリの微笑みが彼女を包む。

    「わたくしの話を、きいてくれる?」

    水面に落ちる柔らかな花弁の響きに、平素の岸辺に上がろうとしていた円な瞳はわずかに揺れる。一瞬口を開こうとしたヒシコはだが、静謐に佇む少女の瞳を前に唇を引き結んだ。それから一拍程の間を置き、マダイの少女は言葉を無くした幼子のように小さく頷く。それを見たホオリは、緩やかに椅子から立ち上がった。陽射しにささめく裳の裾を丁寧に払った淡紅の少女は、紅魚が座している床に自ずから座る。そうして人の子一人分の間隔を置いて、ヒシコの目を見つめたホオリは、静かに唇を開いた。

    「まずね。身分というものは、ほんらい立場の異なる者たちが、互いに助け合うためにあるものだと、わたくしは考えているの。たとえるのなら、わたくしがこうして時を過ごせているのは、ヤヒロや、この宮につとめてくれている人々の力があってこそのこと。だから……身分が上とされる者が、下とされる者をわらったり、しいたげたり……そういったことをするためにあるものではないとも、思っているわ」

    ホオリは言葉を続けた。

    「ゆえに、たとえおかれた立場がちがっても。わたくしは、あなたに言葉をつくしたい。そのつもりで、わたくしの話をきいてくれると、うれしいのだけれど」

    話してもいいかしら、と問えば、マダイの少女は肯定の返事を返す。ホオリは礼を言ってから、琴の音で包むように、ヒシコへの言葉を爪弾いた。

    「ヒシコ、わたくしはね。ときおり、生きているというのは、それだけですごいのではないかと、思うことがあるの。そのなかで、自らの好きなものを見つけられることは、なおさら」

    ホオリは睫毛を伏せた。淡紅の着物の袖から覗く白い手が、己の内に湧く泉に祈りの花を手向けるように、そっと胸元に添えられる。

    「何かを好きになるきもちは、それだけで、何かの産声たり得る、とても尊いきもちだわ。……けれどね」

    反転する言葉と共に、胸元から緩やかに手が離れる。衣擦れの音と共に再び開かれた瞳には、蒼色に凪ぐ玉輪のもとに清められた、泉の煌めきが宿っていた。闇から醒めたように目を真開いた紅魚の前で、清水の滴る淡紅の花弁が、少女の声音を静かに紡ぐ。

    「それがあなたを占める、全てではないと思うの」

    ヒシコは唇を開いた。月光を抱く花の雫に触れ、玻璃に塗れた紅緋の鱗が艶めく。

    「全てでは、ない……」
    「ええ」

    ホオリは頷いた。紅緋の鱗に歪む玻璃の傷を優しく洗い流すように、少女は紡ぐ花弁に心を綴る。

    「あなたが、今つらそうにみえるのは。いぜんのように、うまく舞えないことは、もちろんあるのだと思うわ。けれど、それ以上に」

    ホオリはヒシコの目を真正面から見つめた。揺らぐ紅魚の瞳にかかる霧を、淡紅の花弁を伝わせた白い繊手(せんしゅ)が穏やかに払っていく。

    「うまく舞えなくなった己には、価値がないのではないかと。心のどこかおく深くで、考えているようにみえるの」

    眦が裂けんばかりに見開かれた瞳は、己の心情を隠すための影すら失う。血の気の引いたヒシコの顔に、ホオリは胸が痛んだが、青い隈取りを引いた瞳から視線を逸らすことはしなかった。怯えたように色を無くした紅魚の瞳は、水鏡と化して夜半の泉に映える。病魔と己の境目を切り離せず、両の手に留めておけるものなど無いのだと、足元に散らばる諦念の砂塵を見つめていた、つい先日までの己の影を宿して。
    やがて少しの沈黙を経て、ヒシコは唇を開いた。 清水のもとに緩められたかに思えた玻璃の刃が、再び紅緋の鱗に深く身を沈める。

    「……でも」

    伏せた視線のもとで発された声は震えていた。己の傷を抉るような口調で、ヒシコは唇から声を零す。

    「でも本当に、それ以外……私には、取り柄も何も、ありません。舞えなくなった後に、残されるのは……できそこ、ないの……生きる価値すら、わからない……私しか」
    「いいえ」

    ヒシコは思わず視線を上げた。纏う気は変わらず穏やかではあるが、内に水縹の刃を秘めたホオリの声音に、続けようとした言葉の楔は崩れ去る。そのままヒシコの身を厭う足枷を断つように、ホオリはもう一度はっきりと言った。

    「そんなことは、ないわ」

    褪せた紅緋を前に、潜められた水縹の刃は群青の鱗に変わる。手の内にある涼やかな玉石の感触は、夜明けを歌う白露の息吹と化して、花弁の舞う声を駆けていく。

    「たとえば、だけれど。あなたはみつ兄さまが、冨亀家の者ではなくなり、かの方が今ある才を失ったら、友のえにしをたち切る?」

    ヒシコは信じられないものを見たかのように、大きな瞳を瞬かせた。紅緋の鱗が白露の光を帯びて、闇の中でつかのま輝く。

    「そ……」

    一瞬喉につかえた言葉を、今度は取り落とすような真似はしなかった。ヒシコは必死に首を振る。

    「そのようなことはありません!あやつは、掛け替えのない我が友です。実直で、ひたむきで、誰にでも裏表なく接する……幼き日から、共に笑い、様々な時を過ごした仲です!例え潮満が家を追われ、才を失ったとしても、あやつとの友の縁を断つなどと」

    玻璃の刺さった紅緋の鱗にささめき笑むのは、暮れなずむ琥珀の玉の音だった。潤んだ紅魚の瞳を前に、少女は眉尻をやや下げた笑みを浮かべる。

    「そう」

    淡紅の花弁は、呟きの中に傷を悼むような声音を散らす。ホオリは震えるヒシコの両の手を包み込むように、再び言葉を紡ぎ出した。

    「いじわるなことをきいてしまって、ごめんなさいね。けれど、きっと……同じ事をみつ兄さまに問えば、今のあなたと似たようなことを、おっしゃるのではないかしら」

    言いながら、ホオリは潮満から送られてきた文の内容を思い出す。ホオリを見舞う万(よろず)の言葉の末に、ヒシコをくれぐれもよろしく頼むと記された、端正な文字。ほのかに麝香(じゃこう)の漂うあの言葉に、見出されるのは優しげな翡翠の瞳の面影だ。己の足元に咲く花に初めて気付いたかのように、小さく息を呑んだヒシコの前で、ホオリは静かに目を閉じる。

    「想いは考えの、考えは行いの礎となり、その者の在り方を決めるもの。……これは、わたくしではないひとの、言葉を引いたものなのだけれど」

    ホオリは目を開けた。淡紅の花弁が伝う白い指先に、凪いだ金の瞳が瞬く。決して水底から失われえぬ眼差しは、少女の瞳に朱華の光を昇らせ、かつて差し出された群青の理は東雲の射す永劫の祈りへと姿を変える。

    「あなたも、みつ兄さまも。己の持つ力そのものではなく、どのようにしてその力と向き合っているのか。その心のありさまを見て、友のえにしを結んだのではないかしら。そしてそれは、例え持ち得た力を失ったとしても。全てを手から零れ落としたわけではなく」

    ホオリはひたとヒシコを見つめた。少女は慈しみの花冠を言葉の中に編みあげ、目の前の紅魚の頰を撫でるように、唇から琴の音を奏でる。

    「誰かと長き時をともにすごすほどの縁を結び、こうして病床のわたくしを心配してくれる……何物にもかえがたい、ただひとつの、とうといあなたの心と。そんなあなたの心と、縁を結んだひとびとが、後に残るのではないのかしら」

    編み上げられた花冠に、祝福を願う真珠と琥珀がきらめく。少女は紫紺の絶望に歪められ、極彩色の嘲笑に数多の傷を負った紅緋の鱗を拾い上げた。そしてそれを、東雲に輝く祈りの冠に挿し入れる。

    「だから、仮に、仮にね。あなたが好きだったものが嫌いになって、もうどうにもならなくなってしまったのだとしても。それで、あなたが……」

    花弁に抱かれた鱗が震える。柔らかな淡紅の香に、紅緋を貫いていた玻璃の刃が抜け落ちていく。闇に爆ぜるように消えていく硝子細工の音を背に、少女は燦然と輝く花冠を紅魚の心にそっと乗せた。

    「あなたから、生きている価値がなくなるなどということは、ないのだから。だからどうか、自分のことを、きらいにならないでね」

    ホオリは優しく微笑んだ。

    「あなたはさきほど、自分のことを臆病で鈍臭いと言ったけれど。あなたはいつも一生懸命で、やさしくて。とてもすてきな……わが青海原の、はらからなのだから」

    少女の眉尻がわずかに下がる。温かな琴の音に息吹く銀のそよ風が、大きく見開かれた紅魚の瞳に響く。

    「ごめんね、わたくしはここから出られないけれど。いつでも、あなたの応援はしているから」

    少しの間、ヒシコは何も言わなかった。ただ肩を小さく震わせて、微笑む少女の顔を見つめていたが、やがて声音を取り落すように名を呼んだ。

    「宮、様……」

    花冠に飾られた紅緋の鱗がわずかに光る。温もりを取り戻した己の一部を抱くように、与えられた願いに頭を垂れるように、ヒシコは強く目を閉じた。潤んでいた瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

    「はい……はい、私……」
    「うん」

    震えている背に手を回すことはできない。頭を撫でてやることもできない。だが、泣いている彼女に声をかけることはできる。
    ホオリは幼子のように泣きじゃくるヒシコに、時折相槌を交えながら、ただ彼女の側に座り続けていた。淡紅の花が真朱にはためき、柔らかに鱗を包み込む。
    そしてまた、衝立の裏で身を潜めていた異形は、静かに目を細めて虚空を眺めていた。

    金の瞳の最果てに、銀風に翻る浅緋の衣が映る。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:50:13

    鮫愛づる姫君:その六(中編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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