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    鮫愛づる姫君:その六(後編)ヒシコが部屋から退出したのち、ホオリは再び寝台に身を移していた。すでに簪を抜き、髷を解いた少女は、長い黒髪を白い寝巻きの背に流している。久々の客人との会話は、まだ病魔の爪痕が残る身に疲労をもたらしたが、ホオリの唇から笑みを拭い去るようなことはしなかった。むしろある種の心地良ささえ感じさせるそれは、紅魚の形となって夜半の泉の中を漂う。瞳に真朱の灯火を宿し、宵闇の気配に微睡む少女は静かに寝台に身を横たえた。そうしてホオリは身を冷やさぬよう絹ぶすまを深く被ったが、部屋の扉に群青の気配が満ちるのを待つ。ほどなくして扉に設えられた鈴が鳴り、揺らめく燭台の火に侍従の影が照らし出された。そうして扉に鍵をかけ、寝台の間際に姿を現したヤヒロを前に、ホオリは緩やかに身を起こす。柔らかに咲き零れる笑みと共に、乳白色の衣摺れの音が少女の声音に淡雪と散った。

    「おかえりなさい、ヤヒロ」

    姿勢を正したホオリは、一度耳元の髪を指先で梳くように撫で付ける。それから己を見下ろす金の瞳に紅緋の軌跡を追うように、少女は穏やかに言葉を続けた。

    「ヒシコをお見送りしてくれてありがとう。あのこは、大丈夫そうだった?」

    細い首で己を見上げるホオリの瞳に、三日月を戴く尾がゆるりと揺れる。周囲には誰もいない。白木の廊に響く声もなく、玻璃の月さえすでに眠りについている。この場で異形に相対しているのは、少女の微笑みだけだった。ヤヒロは瞬きを一つする。異形は少女の目線に合わせるように、寝台の傍らに置かれた椅子に座り、彼女に淡々と言葉を返した。

    「あのマダイの瞳に、すでに陰りはなかった。あとは、己の務めに精進すると、お前にしきりに感謝をしていたが」

    ヤヒロの答えに、ホオリは柔らかく目を細めた。

    「そう、よかったわ」

    夜半の泉は時を遡る。胸に灯る真朱の灯火は嗚咽を止めた少女の面差しとなり、水面に漂う淡紅の花弁が己の声の残響と化して響く。

    『舞そのものについてだけれど。おそらく、今のあなたにひつようなのは、これ以上がんばることではなく、あなたにあった鍛錬のしかたね。どなたか、師事をたのめそうな方はいらっしゃる?』

    ヒシコは眦に残っていた涙を拭いた。瞳に射す青い紋様がきらめき、潤んだ眼差しがホオリを映す。

    『はい。今一度……今一度、かの方にお伺いを立ててみようと思います』

    真朱の膝の上で硬く握り締められていた手のひらが、緩やかに解ける。

    『私はずっと……ずっと、恐ろしかったのだと思います。……いいえ、実際に恐ろしかった。地に散らばった心を踏まれるように、誰かから否定されることも、己に価値がないように感じられることも、何もかも』

    ヒシコは視線を落とした。重ねられた手の上で、琥珀の玉と淡紅色の花弁がなびく。奏される声音には玻璃の残滓ではなく、紅緋の鱗に昇った光が満ちる。

    『けれど……違った。私は何が大事なのか、見えなくなっていただけでした。一番に大切なものは、最初からずっと持っていた。無くしてなど、いなかった』

    顔を上げたヒシコは、ホオリの瞳を真っ直ぐに見つめる。涙の軌跡を眦に引いた真朱の少女は、澄み渡る天に輝く星のような笑みを浮かべた。

    『ありがとうございます、宮様。これからも……私はきっと、何度も迷うことはあるのでしょうが。もう、その場に蹲って動けなくなってしまうことは、ありません。何度でも立ち上がって、歩んでいけると思います』

    泉に映る晴れやかな後ろ姿を慈しむように、現身のホオリは柔らかく微笑む。陽射しに舞う白扇のごとく水面に翻る真朱の裾に、密やかに煌めくのは夜風を渡る薄氷の香だ。少女は心に湛えた花弁を穏やかな声音に変えて、傍らの異形に語りかける。

    「ヤヒロもありがとう。あのお茶を淹れてくれて」

    ヤヒロは瞼を目の半ばまで引き降ろした。扇で顔を隠すように、金の瞳に銀の睫毛が伏せられる。

    「何のことだか」

    白扇の陰に射す剣の刀身に、舞い落ちていく紅緋の鱗が映る。ヤヒロは淡々と言葉を紡いだ。

    「仮に俺が意図して白扇曙射仰を淹れたとしても。あの娘が、お前に妙な気を起こさないようにする以上の意図はないと思うがな」

    ホオリは目を丸くした。

    「ヒシコが?」
    「ああ、そうだ」

    群青の雫が伝う低い声音には、紅緋の鱗から砕け落ちた玻璃の破片に澱む影を、一刀のもとに断ち斬るような響きがあった。だが、驚いている少女の瞳を捉えた金の眼光は、瞬きを一つ挟んでその刀身を鞘に収める。代わりに闇に昇る月の静謐さを秘めた眼差しで、ヤヒロは言葉を付け足した。

    「心の有り様が不安定な者は、何をしでかすか分からんからな。もっともあの様子では、今後そのようなことはないだろうが」

    言葉の意味を理解して、少女の肩は丸くなる。そんな彼女の様子を見ながら、ところで、とヤヒロはホオリに問いかけた。

    「寝台に入る前に、今夜の分の湯薬は飲んだか」

    ホオリは頷いた。

    「ええ、大丈夫」
    「……そうか。ならば」

    一度言葉を切ったヤヒロは、机の上に左手を置いた。鬼の如き異形の手が、貝殻を思わせる仕草で緩やかに開けば、中から小さな紗地の袋が現れる。口には薄紅に香る紐が通され、純白の地に舞い散る桜の刺繍が施されたそれは、ヤヒロの指が離れていくと同時に、微かに玉の鳴るような音を響かせた。泉に射す蒼い月光がその色を深め、再び目を丸くしている少女の瞳へ、低い群青の声を立ち渡らせていく。

    「姫。これをお前に渡しておく」

    ホオリはどきりとした。まるでヤヒロの声色が誓約を告げるように聞こえたこともあったが、何より彼から言葉以外の物を贈られるのは初めてのことだった。ホオリは一度視線を袋からヤヒロへと戻す。高鳴る鼓動に呼応した頰は淡紅の香に彩られる。薄い唇から奏される琴の音に鮮やかな桃色の花を開かせていく。

    「あなたが……わたくしに?」

    白刃の瞳孔を刻んだ金の瞳は、ホオリの問いを眼差しだけで肯定する。次いで袋を開けてもいいかと少女が問えば、異形は肉声でそれを許した。ヤヒロへ礼を返したホオリは、指先に滲み出そうになる震えを制しつつ、袋の口に結われていた紐を丁寧に解く。途端に眼前に現れた代物に、ホオリは思わず息を呑んだ。
    袋の中から出て来たのは、翡翠の玉が連なった腕輪だった。艶やかな光を帯びた深緑の宝珠には、夜明けを誘う朝霧の繊手(せんしゅ)に包まれたように、幾筋もの白い軌跡がたなびいている。柔らかな乳白色のもとに水晶の瞬きを交えた翡翠は、今にも吸い込まれそうなほどの鮮やかさを放っていたが、不思議と重さを感じることは無かった。ただ金で継がれた瑠璃の留め具だけが、掌から手首へとしな垂れて、微かだが玲瓏な音を奏でている。まるで金の瞳から零れ落ちた美しい夢が、現世に微睡みを撒く蓮華の水盆を通じて、華奢な少女の手の上へと舞い降りたかのように。

    「寝る前に腕に留めるといい。魔の力を退けるはずだ」

    言葉を無くして腕輪を見つめる少女のもとに、落ち着いた異形の声音が降る。ホオリは顔を上げた。数多の星灯りをともした黒い瞳は、静謐な月を宿した金の瞳と光を映え交わし、上気した頰と共に一層の輝きを増す。少女は一度口を開きかけたが、声に乗せるべき言葉は、彩光に舞い散る桃色の花弁に埋もれて、すぐには見つけることができなかった。ホオリは再び翡翠の腕輪に視線を落とす。そうして連なる深緑に、ようやく群青の影へと至る玉の緒を見出した少女は、緩やかに顔を上げた。感嘆に魅せられた吐息が唇から零れ落ち、奏される琴の音に流星が長く煌めく尾を引いていく。

    「とっても……とっても、きれい……」

    紅潮した頰でやっと一言そう口にしたホオリを前に、ヤヒロは目を細めた。異形の月が差し出された蒼星を無言で眺めている間に、少女はまだ奇跡を信じられないような面持ちで言葉を紡ぐ。

    「ありがとう、ヤヒロ。……けれどどうして、これをわたくしに?それに、この留め具の瑠璃は……」

    見間違えることはない。金で継がれていても分かる。翡翠の端(は)を結うのは、あの人形の瞳に使われていた瑠璃だった。華奢な手首に揺れる宝珠は、あの夜のような澱んだ真紅の影に染まってはいない。人形の瞳の内で微笑んでいた時と同じ、澄み渡った瑠璃の色を取り戻している。最早二度とまみえることは叶わぬと、微笑む母の面影ごと泉の底に沈めていた、喪失の色彩。眼差しに彼岸花の香を募らせて瑠璃を見つめる少女の瞳に、静かな群青の声が細波を撒いていく。

    「単純な話だ。俺が今、お前に死なれては困るからだ」

    再び細められた金の瞳に、顔を上げた少女の姿が映り込む。先ほどとは違う驚きに艶めくホオリの黒髪に、ヤヒロはさりげなく花を挿すように言葉を続けた。

    「……そういえば、お前は俺の目的について詳しく知りたいようだったな」

    見開かれた黒い瞳が、息を詰める。髪に添えられた花は山吹色に色付き、少女の耳元から離れていく異形の指先が、眇(すが)められた月の帳を開いていく。

    「だが。前にも言った通り、俺も手の内を明かしてばかりではいられない。その代わり、一つここに誓いを立てよう」

    ヤヒロはホオリの目を真正面から見据えた。闇を纏う鋭い金眼に、冴え冴えと蒼い月光が満ちる。低く静謐な異形の声音は、霧深い夜を駆ける清流の響きを宿し、力強い群青の光を秘めて煌めく。

    「姫。俺はお前に、偽りは言わない。いついかなる時も、決してだ」

    それを踏まえて俺の話を聞け、と異形は少女の泉に瑠璃の雫を落とす。

    「かの魔祓いの人形は、己の役目を果たした。己の目を澱ませながらも、お前に邪な術の存在を知らしめ、お前を魔の手から守り抜いた。あれを作り上げた乙姫が……お前の母が、何よりも、お前の無事を願ったがために」

    群青の光を深める異形の月に、少女の耳元で山吹の花がざわめく。金粉を散らす花弁は長い黒髪から滑り落ち、波紋を描いた黒い瞳に、微笑む人形の姿を浮き上がらせる。

    「それは心身の要。存在の核。お前の言うところの、魂の根。すなわちあの人形にとって、乙姫の願いを果たしたことは、己の肯定にして本懐だ。人間の目から見て、その様がどんなに惨たらしいものに思えようが」

    揺るぐことのない月光のもとで、白木の香が水面をたゆたう。埋もれていく骨に似た喪失の香は、舞い散る山吹の花弁に触れ、黄泉の底から在りし日の輝きを取り戻す。蘇った美しい微笑みが紡ぎ出すのは、母の澄んだ黒曜石の眼差しであり、柔らかな承和色(そがいろ)の声であり、白木の肌に残る仄かな温もりの跡だった。ホオリは手首を伝う瑠璃の留め具を、そっと握りしめる。

    『火遠理』

    優しく名を呼ぶ母の面影が、再び巡り落ちた流星のごとき宝珠にきらめく。沈黙に睫毛を伏せているホオリへ、ヤヒロは静かに問いを重ねた。

    「あの夜。人形の笑みは、最期まで崩れていなかったな」

    ホオリは緩やかに睫毛を上げる。滲みかけた瞼には瑠璃の輝きが溢れ、少女は水玉を眦に引く代わりに、金の瞳へと視線を合わせた。蒼い月光の沁み入る指先で珠玉の煌めきを天に撒くように、ホオリは静かに声を奏でる。

    「ええ。あのこは……砕け散るその直前まで、ずっと笑みをたたえていてくれた。そうして……わたくしをさいごまで、まもってくれたわ」
    「ならば、それが答えだ」

    銀の睫毛の下で、金の瞳が闇にさざめく。異形の眼差しは月天に還った宝珠の光を刃と成し、水面にその身を閃かせる。ヤヒロは細い体を縛っていた亡失の鎖を断つように、ホオリの瞳を真っ直ぐに見据えた。

    「果たされたものはあれど、失われたものなど何もない」

    ホオリは目を見開いた。

    「ヤヒロ……」

    断たれた鎖は解き放たれた星と化す。空を漂う白木の香は、輝き満ちたる女性(にょしょう)の影へと姿を変える。ホオリは再び、留め具の瑠璃を見つめた。母の託した、願いの貴石。少女の身を贖い続けた、祈りの軌跡。最早呪力は込められていないが、金で継がれた宝珠をなぞれば、今も白くたおやかな両腕に、背から抱きしめられているような心地がした。ホオリは眦を塞ぎ、唇の端を引き結ぶ。少女は少しの間、言葉を形にできずに、肉声を己の影の内に置いていた。だが眼差しを前を向けた時、秋霖(しゅうりん)の白露を帯びていた唇は、涼風に至る星の微笑を抱いてきらめく。

    「ありがとう」

    ホオリはそっと腕輪を両手で包み込み、胸に抱いた。潤んだ黒い瞳は薄紅の花弁に拭われ、奇跡を慈しむように美しい三日月の光を帯びる。ホオリは珠の花が咲き零れるような笑顔で、ヤヒロへと言葉を綴った。

    「あなたにかえせるものがないのが、今のわたくしにはないのが、残念だけれど。この腕輪、たいせつにするわ。とっても、とっても」

    瑠璃の玉がさざめく。連なる翡翠に琴の音が響く。ヤヒロはホオリを見つめた。彼はそのまましばらく返事をしなかったが、玉輪に舞う薄紅の花弁に、何かを見出したかのように目を細めた。だがそれは、静謐な月光の昇る眼差しでも、薄氷の刃が閃く眼差しでもなかった。喉の奥からくつりと漏れる低い声が、金の瞳に愉しげな琵琶の音を奏でて閃く。

    「お前が、そのような顔をするとはな」

    異形の言葉に張られた弦に、群青の鱗がきらめく。ホオリは目を丸くした。居並ぶ牙を垣間見せた唇は、緩やかな弧を描いている。嘲笑でもなければ冷笑でもない。人の皮を被っている時の、一切の歪を取り払った完璧な微笑とも違う。初めて目にしたその表情は、見る者の心を金眼の纏う夜闇に魅せるような、艶やかな異形の笑みだった。思わず声を取り落としたホオリを前に、ヤヒロは言葉を続ける。

    「元よりそれは、俺が必要だからこそお前に託した代物だ。お前から返礼を受ける理はない。だが、あえて言うのであれば」

    三日月を戴いた群青の尾が、緩やかに揺れる。

    「返礼は、先程の笑みでいい。あとは」

    金の瞳が帯びた光が、彼岸花を傾ぐ幽鬼の笑みから、鞘に秘められた剣の刀身へと変わる。異形は少女の耳元へ唇を寄せた。微かに螺鈿を散らした首飾りの音に、呪(しゅ)を交えるように低く囁く。

    「深く眠ることだ。夢に捉えられぬほど、深くな」

    刃を伝う青い月光が、夜半の泉に静かな波紋を描く。同時に胸に抱いた翡翠の玉が、星を弾いたような音を立てた気がしたが、真相は身を引く群青の影に紛れて分からなかった。更に柔らかな瞼を包むように、少女のもとへ乳白色の眠りの帳が降りてくる。ほどなくして微睡みに瞳を瞬かせたホオリは、ヤヒロに小さく頷いた。

    「……うん」

    寝台に横たわった少女に、異形が静かに絹ぶすまを掛ける。純白の布に肩まで包まれながら、ホオリはヤヒロを見上げた。金の瞳がよく見えるように、枕に乗せた面差しをわずかに傾げれば、添い流れる黒髪から花笑む薄紅の香が漂う。

    「おやすみなさい、ヤヒロ」

    月を戴く金眼が、柔らかな薫風を受けて細められる。ヤヒロは絹ぶすまに添えていた手をそっと離した。

    「……ああ。よく休め」

    首飾りの金板がかすかに音を奏でる。
    瑠璃の留め具が重なるように、華奢な手首を伝って揺れる。



    紅珊瑚と真珠をいけた水盆に、微かな鈴の音がきらめく。
    紐解かれた巻物に目を走らせていた青年は、文机から顔を上げた。豪奢な亀甲花紋を散らした翡翠の衣に、琥珀の玉の緒がささめく帯を締めた彼は、そのまま机の下に手を伸ばす。白魚のごとき指先が、床板に刻まれた蓮華の紋様に触れれば、鍵もないのに錠の回る音がした。ほどなくしてごそごそという物音の後に、戸が開くように青年のもとへ滑り出した床板の下から、一匹の紅魚が顔を出す。頰に少年のような笑みを浮かべた青年は、浅縹を透いた涼やかな声で名を呼んだ。

    「よう、ヒシコ」

    黒漆の机から宙に泳ぎ出した紅魚を、白い煙が包み込む。果たして煙が晴れた後には、人間の少女に変じたヒシコが立っていた。

    「すまんな潮満。遅くなった」

    冨亀家別邸、六甲院(ろっこういん)。古くは豪族の子息や竜宮王家の御子が、四季の折々に月を愛でては泡沫を詠み、互いに膝を交えるために建立されたこの宮の名だ。だが時が流れるに従い、かの集いは新たに建て直された本邸で行われることが多くなったため、現在ではあまり使われてはいない。ただ有事の際に使う抜け道などはそのままにされているため、幼い頃は探検と称してヒシコとこっそり遊んだものだった。潮満は巻物に紐を掛け直しながら、構わない旨を告げる。それからヒシコに向き直ると、彼はわずかに面差しを傾げて問いかけた。

    「火遠理姫様のご様子はどうだった?」

    ヒシコは朗らかに言った。

    「思っていたより顔色が明るくておいでだった。お話している最中もだいぶ良くなったと仰せで、声にも花が咲いているようだったぞ」
    「そうか、ならいいんだが」

    潮満は目元を緩めた。友へと寄せる浅縹の声が、花弁に抱かれた紅緋の鱗に、柔らかな朝露を添える。

    「お前の顔色も良くなったようでなによりだ」

    ヒシコは驚いたように目を丸くした。だが添えられた白露の穏やかさに言葉を取り落としたのも、ほんの一瞬のことだった。紅緋の鱗に触れた露は琥珀の玉へと変わり、温かに笑む真朱の灯火が、眩く宝珠を照らし出す。

    「ああ。ようやく……ようやく、色々なことに向き合えそうな気がする」

    そう言葉を綴ってから、ヒシコは少し眉尻を下げた。だが一度思案するように瞳を伏せてから、彼女は潮満に再び目を合わせる。紅緋の少女は彼の手を声音で握るように、そっと言葉を連ねた。

    「その……悪かったな。お前も、私のことを心配してくれていたんだろう?だから……だから、 お前が私が宮様のところへ通える手筈を裏で整えてくれていたのだと、宮様がそう教えて下さって」

    潮満はきょとんと目を瞬かせた。だがすぐに、ヒシコの眉を曇らせている鈍色の想いを宙に飛ばすかのように、軽やかな浅縹の声音を紡ぐ。

    「気にするなよ、友の大事は俺の大事だ。それに」

    浅縹の細波に彩られた言葉は、 陽射しに水玉を散らす天(あま)色の羽衣と化す。それを不安げな幼子の肩にかけるように、潮満は努めて明るく言い切った。

    「俺とお前の仲だろ」

    彼は知っている。いかに幼少の砌(みぎり)からの友と言えど、己の立場からでは決して埋めようのないものがある。ヒシコはマダイ一族現当主の末娘だが、その血は正室ではなく、市井の妾腹から受けたものだった。やがて母が死に、一人残されたヒシコはマダイの家に引き取られたのだが、平民の血の混じった彼女を疎む者も少なからずいたという。それ故だろうか。豪族の子息の集まりを抜け出して、木陰で泣いていたヒシコに声をかけたあの日のことを、潮満は未だに覚えている。
    出会った時以来、ヒシコが己の出自に関することで、彼に涙を見せたことはない。それは王家の外戚である潮満への羨望というよりは、ヒシコなりの彼への配慮だということは理解している。健やかな肉体を持つ彼の前であっても、決して笑みを崩そうとはしない火遠理姫のように。
    ゆえにそうした点において、彼女の抱えるものが見えないことも多く、また彼から掛けられる言葉も少ない。だが、いやだからこそ、潮満は己に出来うることは尽くしたいと思っている。冨亀家次期当主という立場を飲み込んででも潮満の友として在り続けた彼女に、彼もまた友として報いるために。彼では与えられぬ救いの言葉を、柔らかに紡ぎあげる者の元へ導くために。そしてかつて、己のことを実の兄のように呼び慕った少女の孤独が、少しでも癒されるよう願ったがために。
    屈託の無い天輪のような潮満の眼差しに、光の射したヒシコの瞳がほんの少しだけ潤む。だが彼女は一雫の雨滴を頰に流す代わりに、肩に掛けられた羽衣へ一筋の光を与えるように微笑んだ。

    「ありがとう」

    深梔子と紅緋の間に、涼やかな銀風が立ち渡る。銀の軌跡を伝うように温かな沈黙が流れていたが、しばらくしてから少し照れ臭くなったのか、ところで、とヒシコが口にした。

    「それは全て、今度の奉納の儀に関する巻物か?」

    潮満はヒシコが指差した方を振り返る。彼女がそれと称した文机の上には、先ほどまで読んでいた物も含めて、七つほどの巻物が積まれていた。花緑青や藤紫の表紙の全てに煌めく白銀の剣の刺繍は、神事に纏ろう書に刻まれる紋様だ。潮満は、ああと鷹揚に頷いた。

    「まだよく分からんことが多くてな。それに折角久々に変化したんだ、人間の書物は人間の体のうちに読むに限る」

    前脚で巻物を広げるのはなかなか鰭が折れるしな、と冗談めかした口ぶりで言いながら、潮満は片手を宙にひらめかせる。ヒシコは驚嘆したように息をついてから言った。

    「トツカノツルギの研ぎ直しは、そんなに大変なのか?お前でも?」
    「まあ何せ、三百年前に綿津見御神が直に振るっていたとかいう神剣だからなあ。なかなかそう上手く事は進まないもんさ。……それに」

    ここのところ、何やらきな臭い気がするのだ。先日、古より海幸宮に祀られていた神剣、十拳剣(トツカノツルギ)をも新たに研ぎ直すよう命が下った。常の刀を研ぎ直すには、錦の森の玄武石があれば事足りる。だが、呪術に用いる刀を研ぐのに必要なのはそれではない。刀の積み重ねた時を正しく知り、鈍っていた持ち主との縁を再び輝きに結い直すための依り代が必要なのだ。例えば、冨亀家に代々伝わる八束剣(ヤツカノツルギ)は、三代乙姫から賜りし宝剣だ。ゆえにその刃を研ぎ直すとすれば、三代乙姫と冨亀家に共通する所縁の品を用意せねばならない。八束剣が呪術の刀として冨亀家に縁を結んだのは、三代乙姫がその起点となっているが為である。ましてや神代の世に綿津見御神が直に振るっていた神剣ともなれば、尚更その趣きが強い。それこそ青海原の始まりから刃に刻まれた歴史を紐解き、綿津見御神と竜宮王家に通ずる所縁の品を供えねばならぬほどに。
    そのため、潮満は今ある務めの合間を縫って竜宮歳時記に目を通しているのだが、調べを進めていくうちに妙な感覚を覚えるようになった。一つ一つは些細なことだが、ここ二百年の間に数年に渡り明らかに欠落している箇所があったのだ。それも何かの意図を感じるほどに。
    神殿の巫女や神官に問いても皆知らぬと首を振る。父に問うても頑なに答えようとはしなかった。

    『良い。三百年(みほとせ)に渡る時の中で、たかが数年の欠落など大海の一雫に過ぎぬ。今残された歴史こそ、この碧あまねく青海原の歴史だ。……潮満よ、ゆめゆめそれを忘れるな』

    まるで禁忌にでも触れたような低い声音が、耳の内に蘇る。きょとんとしているヒシコに、何でもないと手をひらめかせれば、開かれた彼女の眉が心配そうにひそめられる。

    「あんまり根を詰めすぎるなよ、宮様も心配しておられたぞ」

    それに、とヒシコは潮満の方へと身を乗り出した。琥珀の輝きを帯びた紅緋の鱗に、円らな瞳は澄んできらめく。

    「私とお前の仲だ。弱音を吐きたくなったら、いつでも助けにいってやる」

    人に変じた黒い瞳が、一瞬翡翠の色に立ち返る。だがこちらを見るヒシコの眼差しに、潮満は柔らかな微笑みを浮かべた。

    「ああ、頼りにしてるぞ」

    少年の日を残した浅縹の言葉に、ヒシコは嬉しげに声を上げて笑う。潮満は目元を緩めてその様を眺めていたが、ふと紅緋の衣の上にあるものを見つけた。

    「ヒシコ、肩に何かついてるぞ」
    「へ?」
    「ほら」

    間の抜けた声を出したヒシコの肩に触れれば、何やら小さな虫の死骸のようなものが衣から滑り落ちる。ヒシコは目を丸くした。

    「おお、すまんな」

    潮満は軽く手を払い、やれやれと仕方なさそうな笑みを浮かべて肩を竦めた。

    「あまり虫がいるような場所は通るなよ、妙なものに憑かれでもしたら大変だからな」
    「妙なもの?」
    「闇に出づる邪鬼とか、暗落ちしたオニイソメとか……お前が七つの時に怖がってた、やたらと大きな具足蟲(グソクムシ)とか」
    「なっ……も、もう今は怖くはないぞ!それにあの時は、お前も一緒に怖がってただろ!」
    「はは、そういやそうだったな。すまんすまん」

    軽やかな笑い声が室内に響く。鮮やかな天上の夕焼けが、山吹色に染まる光を射す。
    ゆえにこそ、気付かれることはなかった。影に転がった虫の体に、幾筋もの亀裂が入っていることに。常盤緑に香る白扇の舞った軌跡が、虫を死に至らしめたことに。

    闇に転がる死骸から、黒い煙が立ち昇る。
    潮満と笑い合うヒシコの影に、赤い瞬きを残して消える。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:51:19

    鮫愛づる姫君:その六(後編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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