イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

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    しおり
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    鮫愛づる姫君:その五(後編)闇の最中に光が射す。一筋の光はやがて金の小鈴が転がるような笑い声に変わり、翡翠の衣の裾を翻す幼い少女の姿を描き出した。次第にそれは巨大なリュウグウノツカイの背に跨った姉姫と化し、銀糸に透けた羽衣を笙や笛の奏でる五色の音で彩り、紅白の敷瓦を優雅に進む。鮮やかな紅緋の胸鰭を玉ノ緒のごとく風になびかせ、身に薄青色の線を幾重にも引いた白銀の魚は美しく、その背に乗った姉姫もまた麗しかった。金の瓔珞を幾重にも垂らした簪を黒髪に刺し、煌めく翡翠の衣を紺碧の腰紐で結った姿は、まさしく日嗣の御子の名に相応しい。優雅に微笑む姉姫が広場に手を振れば、居並ぶ青海原の眷属達の間に、歓声に似たざわめきが巻き起こる。まるで絵巻物の一場面のように絢爛な光景だった。やがて広場を一周した姉姫は、開け放たれた海幸の宮の正殿前までリュウグウノツカイを進めた。それから玉座に座る乙姫とホオリを見て、輝く白珠が宙に舞わんばかりの笑みを浮かべる。

    『母上、火遠理姫!』

    姉姫に微笑みを返しながら、ホオリは徐々に思い出す。そうだ。これは二年ほど前の、銀鱗節会(ぎんりんのせちえ)の記憶だ。この時は普段よりも体が軽かったため、節会に参列することを許されたのだ。何よりも姉姫が、ホオリの出席を願ったために。
    銀鱗節会は、次期乙姫となる日嗣(ひつぎ)の御子が、青海原で最も美しいリュウグウノツカイに乗り、竜宮正殿御前の広場を一周することで一年の厄災を祓う儀式だ。心優しい姉は、病魔に蝕まれた妹の災厄を少しでも祓えればと思ったのだろう。朝日に白銀の鱗を煌めかせているリュウグウノツカイを見ながら、ホオリは顔まで深く濃紫の布を被り直す。ありがたいことだ。病魔が他者へ転じぬよう、魔封じの布と退魔の呪布を身に纏っての参列となったが、ホオリは姉姫の心遣いを喜ばしいものと思った。儀式を終え、新年の挨拶をすませるべく海幸の宮へ向かう最中も、翡翠の灯火が柔らかくホオリの胸中を照らし出していた。そして夜半の瞳に映るものは、白銀に輝く鱗から薄紅を透く輿(こし)の帳へと転じ、ついには金銀閃く乙姫の間と変わる。四方形の額に収められ、金箔と翡翠の上に咲く花の絵画を無数に敷き詰めた天井の下、初めに奏でられたのは金の小鈴の音色だった。

    『ねえタマヨリ、かあさまはまだいらっしゃらないの?』

    机上の高杯に美しく盛られた桃を見ながら、姉姫は不満げに唇を尖らせる。名を呼ばれた采女はホデリをなだめるように笑った。唐草紋様の銀の刺繍を施された畳縁が、障子からほのかに射す陽射しに煌めく。

    『御方様はお忙しゅうございますゆえ。ですが、姫様が善き行いをされていれば、きっと早くお戻りになられますよ』
    『そうかしら』
    『そうですとも』

    牡丹の蒔絵が眩い紅緋の漆器に茶を注ぎながら、采女は慣れたようにそう言った。金色の光を帯びて目の前に注がれていく茶を見つめ、ホデリはふうんと呟く。それから少し何かを考えるような仕草をした後、朝日に花が開くように顔を輝かせた姉姫は、ホオリを勢い良く振り向いた。

    『では、ホオリもわたしといっしょに、よいこにしていなければね』

    ホオリは手元から顔を上げた。二人が言葉を交わしている間、静かに見つめていた退魔の貝殻が、簪の先で揺れる瓔珞の光を反射する。ホオリは穏やかに微笑んだ。

    『はい、おねえさま』

    姉姫は楽しげに笑った。静寂に佇む琴の弦に、明るく澄んだ小鈴の音が触れ、室内に金の波紋を広げる。

    『ねえタマヨリ、あのおはなしをして!そうしたら、わたしたち、いっしょによいこにしていられるとおもうの。それに、きっとホオリもきにいるとおもうわ』

    姉姫の言葉を受けたタマヨリの微笑みは、少しばかり強張っていた。ホオリは気付いている。先程顔を上げた時、タマヨリが初めて存在の輪郭を見出したような眼差しをホオリへ向けたことも。そして視線を交わした時、タマヨリがそれをホオリに見透かされたと悟ったらしいことも。
    あなたがそのような顔をしなくてもいいのだと、取り落とした笑みの泥を落とし、真珠と花を添えてその両手に戻せたらと思う。本来ならば自分は今日ここにいない筈の人間なのだ。姉妹の乳母(めのと)になるはずだったタマヨリが、ホオリに巣食う病魔により、姉にのみ仕えているように。それでも時折ホオリの様子を見に、山幸の宮に足を運んでくれるだけで充分だった。例えその度に、姉に対するのとは違う、痛ましさと怯えのないまぜになった瞳をこちらに向けてきても、それでいいと微笑んでいた。故にホオリは願う。彼女が姉を親しげに呼ぶのに積み重ねた時と、そこから織り成されている姉との日常に、異質な影を落としているのは自分の方だ。どうか気にしないでほしいと、眼差しで強張った手を包み込みたかった。

    『わかりました』

    だが目交いの糸は再び結ばれることはなく、伏せられた采女の睫毛により断ち落とされる。巻物の棚を探す背に、己の心情を隠すような濃紅(こきくれない)から、少女の視線は薄緑の畳へ落ちる。
    やがて采女は一つの絵巻を手に、こちらを振り返った。深緑の表装に錦糸で牡丹華紋の刺繍を施されたそれは、翠君嶋子縁記(すいくんしまこえんき)と題されている。巻物に結われた真紅の紐を解けば、瞬く間に黒漆の文机に極彩色の絵画が広がり、采女の声が物語を紡いでいく。

    『神代の世の昔。青海原より遥か果て、八雲立つ陸の国に、一人の若者がおりました。彼の者の名は嶋子と言い、心優しく清廉な青年でした』

    絵巻には、群青に白の花菱の散る衣を纏い、銀の結紐を身に締めた青年が描かれている。目を輝かせている姉姫の隣で、采女の言葉は続いた。

    『ある日嶋子は、青波と白砂の境の地で、陸の民の子に苛まれている亀を見つけました。その様子に心を痛めた嶋子は、金銀と引き換えに子供から亀を助けてやりました。それから亀を青海原へ帰そうとした時、亀は口を開きました。「危ないところを助けて頂き、感謝の言葉もございません。助けて頂いたお礼に、ぜひ我が主の治める竜宮へとお連れさせて頂きたく存じます」嶋子はそれを承諾しました。かくして嶋子は助けた亀に連れられて、竜宮へとやってきました』

    絵巻の場面は、白砂の地から青海原へと移り変わる。白魚のような采女の指が、麝香(じゃこう)の香を帯びた文字をなぞる。

    『海幸の宮で鯛やヒラメの舞を眺め、四季世見(しきよみ)の庭を巡った嶋子は、ある時桂の木の下で一人の美しい乙女に出会いました。二人はすぐに惹かれあい、共に時を育むようになりました。ですがある時、そのことを知った当代の乙姫が言いました。「新月の闇夜にあの乙女の姿をごらんなさい。きっと真の姿を表すことでしょう。ただしこちらの姿を気取られてはなりません」嶋子は乙姫の助言に従い、新月の夜に闇に紛れて乙女の姿を垣間見ました。そこで嶋子が目にしたのは、昼間の美しい姿ではなく、髪を血に振り乱し、一心に青海原への呪詛を叫び続ける異形の姿でした。嶋子が今まで乙女だと思っていたのは、人間に化けた邪鬼だったのです。嶋子は邪鬼を討ちました。邪鬼が嶋子に討ち倒されたことにより、皆は幸せに暮らしました。めでたし、めでたし』

    絵巻は乙姫から玉手箱を送られ、白木の舟で陸の国へ帰っていく嶋子の絵で終わっていた。采女が再び巻物を真紅の紐で結い上げれば、古の英雄譚に笑みを煌めかせていた姉姫がこちらを振り返る。そして唇から言葉を取り落としているホオリを見て、姉姫は心底不思議そうな顔で首を傾げた。

    『どうしたの、ホオリ?』

    途切れた琴の弦に、金の小鈴の音が響き渡る。

    『どうして、そんなかおをしているの?』



    己の小さく息を飲む音が耳に這い登り、少女を眠りから呼び覚ます。ホオリは目を開けた。冷や汗こそかいてはいないものの、泉に薄氷が張ったような感覚がまだ身に残っている。そのまま寝台の上に身を起こせば、今より幼い姉姫の声が、もう一度頭の中で木霊した。

    『どうして、そんなかおをしているの?』

    記憶の泉に枯葉がさざめき、現世のホオリの瞳に影を落とす。

    (……なつかしい、ゆめを)

    蘇る無邪気な金の細波が、鋼の刃と化して古傷を開く。あの時姉が邪鬼を打ち倒した嶋子に視線を注いでいたのに対し、ホオリは呪詛を狂い叫ぶ邪鬼から目を逸らせなかったのだ。水鏡に映る邪鬼の赤黒い血涙は、少女の曼珠沙華に滴る白露へ変わる。

    (どうして、あの邪鬼は乙女のすがたで嶋子と時をすごしたのだろう。もっとほかのすがたにもなれたはずなのに。何かおそろしいくわだてのために乙女のすがたでゆだんさせようとしたのだとしても、呪詛をとなえていたのが青海原にたいしてなら、陸の国の民である嶋子に害をなすりゆうはないはず)

    ホオリは強く目を閉ざした。瞼の裏に映り込むのは、血溜まりの中で独り死んでいった邪鬼の姿だ。伏せた少女の睫毛の下で、紅緋の花弁は悼みの風に攫われる。

    (……あの邪鬼が最期にみたものは、なんだったのかしら)

    とりとめのない思考は、新しく用意されていた衣に着替えている最中も続いた。それは息絶えた邪鬼の姿に、どこかで赤黒い触手ののたうつ病魔を重ねていたのかもしれない。だが、いつか迎える死への夢想は、不意にした物音により彼岸を渡ることなく消えた。室内に広がる乾いた音の余波に、少女の心臓はどきりと脈打つ。今この部屋にヤヒロはいない。つまりはホオリ以外誰もいない。最後にここへ来たのは浅緋色の衣を纏った采女だけだ。それも着替えを届けにきたと思ったら早々に立ち去った。そして今しがた衣を結った淡紅の紐が、着替えに不備がなかったことを物語っている。すなわちあの采女がこの場に戻ってくる必要性は、ない。
    ホオリは唇を引き結んだ。月光の銀に煌めく淡紅の紐を結い直し、竜胆の肩掛けを羽織った少女は、意を決して地に爪先を着ける。竜胆からほのかに涼めく夜風の香に励まされながら、ホオリは寝台から物音がした方へ歩を進めた。そうして辿り着いた先で目にしたものに、少女は思わず身を固くする。
    宵闇のほとりに黙する床に転がっているのは、あの魔除けの人形だった。優しげで繊細な面差しも、闇の中で桜色に匂うような白木の肌も、あの野分の夜に見た時と何も変わってはいない。だが一つだけ、前に見た時と決定的に異なる点があった。朧月にさざめく美しい瑠璃色の瞳が、緑青(ろくしょう)の水底に皸割れる深藍(ふかあい)に変じていたのだ。まるで、地の底から這い登る邪気に、清らかな泉を穢されたかのように。
    呆然の蒼白に心臓を掴まれながら、ホオリは人形を拾い上げた。単なる汚れではないことは、月光の下でも明らかだった。そもそもこの人形はあれ以来、玻璃の透き戸が設えられた榊(さかき)の祭壇に厳重に祀られていたのだ。今後何かあっても、汚れたり落ちることのないように、という配慮からだった。本来ならば床に落ちるどころか、棚の中で倒れるはずもない。だが現に、風一つ通らず沈黙に凪ぐこの部屋で、祭壇の扉は開け放たれている。戸にきらめく玻璃に、何者かの淀んだ嘲笑の爪痕を残して。
    ホオリは深く息を吸った。震えだしそうになる両手で、強く人形を抱え直す。

    (……おちつかなければ)

    とりあえず他に何か変じている点はないかと、ホオリが再び人形に視線を落とした時だった。ほの青い月光に満たされた部屋の中に、耳慣れた金板の音が響き渡る。耳が拾った音の錦糸は群青の輪郭を紡ぎ出し、入り口を振り返った少女の頬を安堵の形に緩ませる。

    「ただいま戻りました」

    低い声音が部屋を通る。静かに扉を閉めたヤヒロに、ホオリは人形を抱えたまま歩を進めた。少女の足取りにあわせて、竜胆の布の端がわずかにはためく。侍従は鉄製の籠の錠を開き、海月の片割れを宙へ自由にした後、己に近づいて来た主へ略式の礼をした。

    「おかえりなさい、ヤヒロ」

    微笑みに桜の花弁を散らす主に、ヤヒロは目を細めた。

    「帰還が遅くなり、申し訳ございません」

    ホオリは首を横に振った。月光に照らされた長い黒髪が、笹の葉擦れの音を立てる。

    「いいえ。ムツハナとシラフネを連れ帰ってくれてありがとう」

    言いながら、ホオリは両手に抱えていた人形を軽く抱え直す。その瞬間、漆黒の水面に凪いでいたヤヒロの眼差しが、黒檀の鞘から抜き放たれる剣へと変わった。そのあまりの鋭さに、ホオリは良く研がれた刃が肌の上を滑っていくような錯覚を覚える。

    「姫様」

    月白に閃いた剣は、淡紅の花弁を覆わんとする影を貫く。ヤヒロの瞳が人形を映していることに気付き、ホオリもつられて人形を見た。途端に少女は小さく息を飲む。抱え上げてから数分と経っていないにも関わらず、人形の瑠璃の瞳は紺青を通り越し、どす黒い深紅へと変色していた。

    「え」

    簡素な驚きが、掠れた声と化してホオリの唇から零れ落ちる。それから瞬く間に、深紅に穢された瞳に稲妻のごとく罅が走る様を、ホオリは目を見開いて見つめることしかできなかった。瞳に走った罅は人形の顔面に広がり、ついには全身へと広がる。最後まで優しげな表情だけは変わらぬまま、魔除けの人形は少女の腕の中で砕け散った。ホオリは足元に降り注ぐ白木の残骸を呆然と見つめる。その瞬間、ヤヒロが素早くまだシラフネの眠る鉄籠に錠をかけたのが視界界の端に映ったが、それが酷く遠くの出来事のように感じた。白木に混じって降る深紅が巨大な真珠貝の殻と化し、少女の身も心も現世から閉ざしたかのようだった。だが、変化というものはいつも唐突に訪れる。いとも簡単に魂の貝殻を開き、中に眠る宝珠の色を白から黒へと反転させ、表層に奏でる光の在り処を天から地へと変えてしまう。そしてそれは、宙に座す玻璃の月も変わりはしない。
    動揺の水底にあったホオリは、手元に落ちる澄んだ水影に気付き、己の頭上を見上げた。主の様子を気にしたのであろう海月は、一瞬身に青い光を帯びたかと思うと、何かに抗うようにホオリから距離を取る。

    「……ムツハナ?」

    主に名を呼ばれても、海月は部屋の中央から動こうとしない。流石におかしいと気が付き、ホオリがムツハナに近付こうとした時だった。白い足が一歩前に出たのと同時に、海月の体が倍の大きさに膨れ上がる。ホオリは瞠目した。掠れた笛の一節に似て、言葉を詰まらせた喉がひゅうと鳴る。

    「ムツ……ハナ?」

    六花(りっか)の響きを取り落とした少女の前で、光無き苦痛にのたうつように、生来の輪郭を歪まされた海月の表皮が激しく泡立つ。宙で触手をもがかせながら、目も眩むような速度で紅緋と紺青の強い点滅を繰り返す様は、狂気の沙汰という言葉では囲いきれないほどおぞましい光景だった。混沌とした光の明滅は、しだいに海月の体の中心に一つの影を沸き立たせる。影はやがて血に喘ぐ泥土のような赤黒い色を帯び、ムツハナの身に広がり始めた。蠢く呪詛は海月の臓腑を焼き、血脈を侵し、花房の先に至るまで、深紅の魔手で蹂躙する。玻璃の面影を引き裂く忌まわしい月蝕に、ホオリの心臓が酷く脈打った。肉声のない海月の悲鳴が、少女の瞳を自失の呪縛から解き放つ。

    「ムツハナ!」

    叫ぶと同時に、ホオリはムツハナへと駆け出した。駄目だ。あれを止めなければ。その一心でムツハナへ手を伸ばそうとした。だが宙に伸ばされた少女の手は、悶え苦しむ海月へ届くことはなかった。金板の音と共に目の前に現れた群青の背が、少女と海月の間に立ち塞がる。

    「ヤヒ、ロ?」

    何を、と口走るより先に、男は海月へ向かって左手を伸ばした。相対する海月は、既に身のほとんどを呪詛に蝕まれている。どす黒く淀んだ毒液を触手から滴らせ、深紅の影を闇夜に浮かび上がらせる様は、もはや禍つの月だった。乃至(ないし)は血の予兆。そしてその直感が正しかったことを、ホオリはすぐに思い知らされることになる。
    一瞬強く闇に身を仰け反らせた海月は、触手の先端を大きく膨らませた。それが毒に脈打つ矢尻のように見えたのもつかの間、赤黒く染まった触手は光を駆ける速さでこちらへと伸ばされる。ホオリが制止の言葉を叫ぶより早く、海月の触手はヤヒロの腕を射抜くように巻きついた。声にならない悲鳴が少女の喉の内で引き攣れる。深紅の纏う毒に焼け爛れた純白の呪布が、骨の軋む音と共に、男の腕から剥がれ落ちていく。だが、なおも瞳に細波一つ立たせないヤヒロが、己の腕に巻きつくムツハナの触手を掴み返した瞬間、それは起きた。
    真正面から月を見据えるヤヒロの足元から、一陣の風が湧き起こる。金に煌めく水泡を伴い、二重の螺旋を描きながら天を昇る風は、焼け爛れた腕からヤヒロの輪郭を作り変えていった。風が触れた先から、無骨な人間の男の指先は、鬼のごとき爪を生やした異形の手と変貌していく。褪せて行く肌色は次第に群青へと染まり、纏っていた魔祓いの頭巾と上衣を夜闇に消し去る。その後を追うように、頭の左右に結われていた角髪(みずら)も解け、宙になびく長髪は漆黒から白銀へと転じた。そうして水泡を伴う風が止み、銀の蓬髪が首筋にかかった瞬間、ヤヒロの背の一点が隆起する。肉を練り交ぜ骨の砕く変質の音は、やがて巨大な刃の切っ先がごとき鰭(ひれ)と化し、彼の背に生え沈黙を切り裂いた。それに共鳴するかのように、尾骶(びてい)からは太く長い群青の尾が伸び、三日月の形をした尾鰭が低く虚空を薙ぎ払う。そして抜き放たれた黒檀の剣がごとく鋭い瞳は、刀身に帯びる光を雷の閃く金へと変えた。ヤヒロの眼差しに疾る金の雷光は、白目の部分を闇夜の黒へと塗り替え、眼(まなこ)に刻む瞳孔を、白刃が如く縦に細長く伸びたものへと変貌させる。瞳に宿る剣の顕現。あるいは人から異形への転成。そう呼ぶべき姿を月光の最中に現し、ヤヒロはホオリの目の前に立っていた。揺るぐことなく剣の眼差しを貫く背に、金板の音が鳴り響く。
    目を見開いたままのホオリの前で、ヤヒロは赤黒い触手を掴む腕に、更なる力を込めたようだった。触手に触れている群青の手から、眩い白珠がごとき光が海月の内へと沁み渡る。ほどなくしてホオリは見た。白珠の光により呪詛の切っ先が折られ、びくりと痙攣したムツハナから錆が削げ落ちるように、深紅の影が消え失せて行く瞬間を。

    「あ……」

    掠れた吐息が少女の唇から散り落ちる。やがて深紅の呪詛は完全に玻璃の月から祓われ、群青の影の元に塵と化した。元の澄んだ体を取り戻したムツハナは、総身の力を失ったかのように宙から地へと落ちていく。

    「ムツハナ!」

    今度こそホオリはムツハナへと駆け寄った。少女の両手が抱えた月はほのかな淡黄に光ったかと思うと、どこからともなく現れた巨大な水泡に包み込まれる。泡沫はムツハナを抱いたままホオリの手からわずかに浮き上がり、底から金の光を帯びた水を湧き上がらせた。煌めく清水に満たされた海月は、身に宿す光を閉じて水泡の中を漂っている。驚くホオリの頭の上に、淡々とした低い声音が降った。

    「眠っているだけです。波が日の光に煌めく頃には目を覚ますでしょう」

    ホオリは頭上を見上げた。長い銀髪を背に流し、群青の肌を鎧のように身に纏った異形は静かにこちらを見下ろしている。鋭い牙の居並ぶ唇から紡がれた声音はだが、紛れもなくヤヒロのものだった。ホオリは片手で強く胸を押さえる。

    「ヤヒロ……やはりあなたは、ヤヒロなのね」

    薄氷に凍りついていた白露が、金の眼差しのもとで溶けていく。少女の瞳に宿る夜半の泉に、瑞々しい紅緋をとりもどした彼岸花の影が映える。

    「ありがとう。ムツハナを助けてくれて……本当に、とりかえしのつかないことに、なるところだったわ」

    仮にあの状態のムツハナの動きを封じることが出来ていたとしても、良くて暗落ち、悪ければ命を奪われていたかもしれないのだ。いずれにせよ二度とムツハナと会えなくなるところだったことに変わりはない。元の清らかな身を取り戻し、水泡の中で揺られて眠る海月に、琴の音が安堵以上の感情を爪弾く。だが、奏でられた弦に連なる雫は、身に帯びる色合いを白珠から淡紅へと変える。背鰭と同じような突起の生えたヤヒロの左腕には、焼け爛れた呪布の残骸と共に鮮血が滲んでいた。

    「けがを」

    紅緋の花弁を震わせる主に、ヤヒロは平らかな口調で答えた。

    「ご心配には及びません」

    ホオリが言葉の真意を問う前に、ヤヒロは腕に巻かれていた呪布の残骸を完全に剥ぎ取る。布の下から現れたのは、腕に長く刻まれた刀傷の痕だった。その瞬間、腕に滲んでいた血が身に還るように傷跡に吸い込まれていく。次第に焼け爛れた肌も元の群青を取り戻していき、後に残されたのは刀傷の痕だけになった。初めから怪我など負っていなかったような有様にホオリが言葉を失っていると、ヤヒロが口を開いた。

    「やはり、貴女は驚きこそすれど、怯えることはしないのですね」

    ホオリはヤヒロを見つめた。少女は瞬きを二つほど挟んで、どうにか驚きから立ち直る。そうして紡いだ声音は、紅緋の花弁に穏やかな笑みを息吹かせていた。

    「あなたがあなたなら、おびえる理由がないもの」

    夜半の泉は彼岸花の影にさざめきながら、白刃を刻む金の眼差しを真中(まなか)に映す。闇夜に沈む月の静謐さを纏った刀身に、先程見せた雷光の苛烈さはない。だが月影の元で紡ぎ出された声音は凍風を纏い、水面の上に薄氷の欠片を舞い散らせる。

    「本当に、そうだと思われますか」

    零度の響きに紅緋が揺れるより早く、ヤヒロはホオリの手首を着物の上から軽く掴んだ。そのまま少女の手首を宙に縫いとめるように持ち上げれば、細い肩から竜胆の布が離れる。柔らかな衣擦れの音が、少女の素足に青紫の影を落とし、異形の声音を反響させる。

    「貴女は気付いている筈だ。私のこの身も、用いた呪術も、竜宮の理には属さぬものだということに。いわば、禁忌の領域に属するものだということに」

    夜半の泉に触れた薄氷が、群青の波紋を水面に広げる。泉のほとりで静止した紅緋の花弁に、冴え冴えとした月光が降り注ぐ。

    「禁忌が禁忌たらしめられるのは、その対象にある種の強い印付けがなされているが故だ。それは死であり、穢れであり、人の世から隔絶された超常のもの。すなわちは、竜宮の理から外れた魔道の力」

    月光が鋭さを増すと共に、ホオリの手首を結う力が僅かに強くなる。痛みはまるで無かったが、連なる言葉は氷晶の刃を帯びて紅緋の前に閃いた。

    「ゆえに、今の私には貴女の手首を折ることも容易い。……お分かりかと思いますが」

    異形はひたと少女を見つめた。眠りから完全に醒めた巨魚の眼差しが、両者の間にごぼりと水泡をたちのぼらせる。

    「この姿を見られた今。俺はお前を、殺めるのやも知れんのだぞ」

    群青の低い声音は、金色の雫と化して刀身を伝い、紅緋の花弁へと滴り落ちる。闇に閃く金の眼は、醜いと言うにはあまりに鮮烈で、美しいと言うにはあまりに暗澹とした響きを帯びていた。わずかに風にそよぐ黒髪も、胸の内で脈打つ鼓動も、人間の持ちうるどんな代物も届くことのない、魔性の眼差し。仄暗い金色に酷く惹かれるこの感情は、恐怖と名のつくものではない。ただ、夜半の泉に剣を突き立てるこの眼差しが、己の最後なのだと、そう思った。最後という言葉に連なるのが、光景なのか、虚無なのか、あるいは願いなのか、何を指すかは分からない。だが、人に非(あら)ざるが故に最も己から遠く、それでいて克明に己の姿を捉える異形の瞳は、確かに少女に残された、最後と呼ぶべきものだった。紅緋の花弁が月を映す水面に舞う。舞い散る花弁は波紋の先に棲まう幻魚に触れ、泉に眠る琴線を奏でる。奏でられた音は目交いの糸に緋色の錦糸を織り込んでいき、少女の唇から言葉を紡いでいく。

    「そうしたら、あなたは安心できる?」

    異形は瞬き一つせず、少女に問い返す。

    「安心、とは」

    ホオリは口元に緩やかな弧を描いた。彼岸に咲く花の残滓が、少女の唇の端を淡紅の香に息吹かせる。

    「あなたが人間であれば、きっとわたくしをいますぐあやめはしないでしょう。わたくしのかばねをかくす場所をさがすのにてまどれば、わたくしが消えれば真っ先にうたがわれるのはあなた。それならばここでわたくしを気絶させたうえでどくをもり、わたくしが病によってしんだようにみせかけたほうが、まだしぜんというもの。逃げるじかんもつくりだせる」

    そこまで言葉を紡いだ少女は、かすかに眉尻を下げた。異形と少女の間に沸き立つ水泡に、琴の弦が一張り切れる。

    「けれどあなたは人間ではないから、わたくしのしりえぬ方法を持っているかもしれない。跡形もなくかばねを消す方法も、わたくしがいきているようにみせかける方法も、人の理の外のものを、持っているかもしれない。現に、あなたは今もこうして、わたくしの知らない変化のじゅつをつかって、わたくしの前にたっている」

    寂寞とも憧憬ともつかぬ感情に、少女は指先を軽く握りしめる。さながら真昼の玻璃に映る孤独の影が、古い傷痕をなぞったかのように。だが同時に、閉じた手の平に蘇ってくるのは、物語を爪弾く低い声音であり、躊躇いなくホオリに触れる手であり、真正面からこちらを見つめる切れ長の瞳の記憶だった。記憶の欠片は、いつか夢見た水縹に澄む玉石と化し、少女の声音に沁み渡っていく。

    「……それでも、あなたは言ってくれたから。病魔はわたくしではないのだと」

    涼やかな玉石は、目の前の異形の名を得て、群青の鱗へと変わる。ほのかに青い燐光を放つ鱗は、紅緋の花弁に銀風をなびかせ、色彩を純白へと反転させていく。

    「とても……とても、驚いたわ。今までそんなことを言われたことはなかったから。でも、それと同じくらい……」

    口にするのを一瞬ためらった心を、純白の花弁が吹き抜けて行く。ホオリは息を吸った。そうして浮かべた笑みはぎこちなかったが、瞳には錆びた足枷が外れたような、一筋の光が射していた。

    「きっと、嬉しかった」

    光の射した夜半の泉で、純白の曼珠沙華が咲く。持ち得る意味を死から天上へと変えて、一輪の花は瞬く間に百重へと増える。闇にさざめく花々を瞳の奥に湛えたホオリは、もう一度ヤヒロに微笑んだ。

    「その対価ではないけれど。あなたの心の安らぎを、わたくしのいのちで贖うことができるのなら。よろこんで、この身をあなたにさしだしましょう」

    異形は少女を見つめた。言葉を紡ぎ終えた黒い瞳を見極めるかのように、金の眼差しは沈黙を纏い、鋭く細められていた。だがしばらくの時を経て、鋭利な静寂はヤヒロ自身の手によって斬り捨てられる。

    「……いや。対価は今、受け取った」

    瞬きをする間も無く、手首を拘束していた群青が離れる。それまで抑えられていた衣の袖口が肘までずれ落ち、ホオリは目を丸くした。

    「ヤヒロ?」

    名を呼べば、異形は視線だけで少女に応じる。

    「なにも、しないの」

    心底不思議に思って聞くホオリに、ヤヒロは淡々と答えを返した。

    「この場にいるのは俺とお前だけだ。周囲に綿津見の眷属はいない。……強いて言えばこのクラゲがいるが、すでに今宵の記憶はないだろう。それに」

    再び細められた金色の瞳が、白刃の光を帯びて闇夜に閃く。

    「先に言っておくが、俺には人間の使う邪鬼祓いの術は効かない。魑魅魍魎に破魔の念が込められていない矢を射かけたところで、射抜くのは霞ばかりである事と同じように。そうした中で、仮に俺が突き出された先で抵抗をすれば、何が起こるか」

    月の光が冷たくさざめく。

    「……宮の人間を、むざむざ危険に晒すお前ではあるまい」

    そして何より、と唇が動く。紡ぎ出される群青の雫が、暗渠へと滴り落ちる。

    「俺はまだ、お前を見定めてはいない」

    異形の奏でた低い声音が、波紋を描いて水面に落ちる。それはわずかにだが、ある種の真摯さのようなものを孕み、真っ直ぐホオリを見つめていた。まるで忘れ去られた誓約を果たそうとするような声色に、ホオリは目を瞬かせる。

    「え……?」

    言葉の真意を問おうと、ホオリは口を開きかけた。だがそんな彼女の前で、ヤヒロは身を翻す。銀の髪が群青の背にさざめき、三日月型の尾鰭が少女の前で緩やかに揺らめく。鋭い金の視線が向けられたのは、鍵のかけられた鉄籠だ。ヤヒロは半身でホオリを振り返る。

    「懐の香袋を、こちらへ」

    有無を言わせぬ口調に、どうあっても問いに答える気はないのだと悟る。ホオリは開きかけた唇を閉じた。そうして香袋を取り出し、ヤヒロの手のひらへと差し出しながら、ホオリは別の問いを口にする。

    「これを、どうするの」

    異形の手が、香袋を掴む。首飾りの金板が、深緑に染め上げられたを映す。己を見つめる少女に、異形は静かに言った。

    「あるべきところに還す。それだけだ」



    ホオリが寝所へ戻ってから、ヤヒロは香袋の口を開いた。そのまま上下を反転させれば、中に入っていた色とりどりの花が群青の手のひらへと舞い落ちる。今だ瑞々しい香を保っているその中から、ヤヒロは一粒の真珠を拾い上げた。一見なめらかな純白の宝珠はだが、つまんだ指先に力をこめれば、いとも簡単に罅割れる。亀裂に沿うように中から染み出してきたのは、粘着質な赤黒い液体だった。間違いない。あの女の血だった。もはや喜びに命を巡らせる赤ではなく、死に堕ちる呪詛に満ちた深紅。解呪の力に秀でたアカボシクラゲでさえ、慄き狂うほどの憎悪の玉(ぎょく)。青海原の眷属が触れれば、とうに触れた箇所が腐り落ちているであろう玉は、異形の手により握り潰される。指の間から滴り落ちる前に、煙を上げて消えていく深紅の血は、彼岸花の孕む紅緋の毒に似ていた。ヤヒロは目を細める。

    (やはり、あの娘は異質だ)

    あの状況で命乞いもせず、狂乱することもなく、微笑みを浮かべた少女。あまつさえ、こちらを案ずる言葉さえ紡いだ人間の娘。連ねられた数々の言葉の水面下にあったのは、ヤヒロへの信頼ではない。ましてや己を犠牲にすることによる陶酔などでもない。例えヤヒロが自らをその手にかけようが、それが彼の役に立つのであれば、迷いなく身に刺さる刃を強く深める眼差しだった。前に潮満があの娘を、慈愛に満ちた姫君と称したが、あれは慈愛などというものではない。少女の瞳の奥に揺らめく白い曼珠沙華は、酷く澄み渡っていながら歪な音を、異形の脳裏に響かせる。

    (人間であれば、あれを狂気の沙汰と言うのだろうが)

    他者を傷付けることを恐れる反面、自らへの執着はまるで無い。ゆえに望まれれば、己の喉元を微笑みながら相手に晒す。それは病魔に食まれた身のためか、他者に慄かれながら生きてきた魂ゆえか。あるいは両方かもしれないが、ヤヒロは嫌悪や恐怖を沸き立たせることはしなかった。むしろ真逆の感情が、金の瞳に浮かび上がる。

    (……だがそれゆえに、あの娘は興味深い)

    人の身でありながら、人ならざる心を持つ少女。異貌の娘が全ての果てに見せるのは、一体何か。
    ヤヒロは鉄籠へと歩を進める。近付けば近付くほど、籠の中が揺れる音が強くなる。そして赤黒く淀んだ光を発する月の片割れに、ヤヒロは静かに片腕をかかげた。

    首飾りの金板が鳴る。
    金を帯びた水泡が、ほの青い月光の中を昇っていく。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:47:59

    鮫愛づる姫君:その五(後編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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