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    しおり
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    しおり
    鮫愛づる姫君:その七(前編)承和(そが)色に息吹く薫風が、春陽を射す金の小鈴の音に煌めく。
    ホデリは笑っていた。麗らかな笙や龍笛の調べに、唐紅や黄檗(きはだ)色の衣の裾を翻す子供達と戯れていた。どこまでも碧(へき)色に澄み渡った海原の最中で、銀糸の羽衣が柔らかな白光に舞う。牡丹や浅緑色の衣を纏った采女たちの笑い声がさざめき、大輪の菊の刺繍が施された瑠璃色の鞠は宙へと跳ねる。巨大な桃色珊瑚の頂を駆けた鞠は、やがて錦の森の奥へと転がっていった。紅梅色の衣を着た小さな影が、呆然としたように球の飛んだ軌跡を見つめる。

    『あ……』

    か細い声を零した幼子の周りで、極彩色の影がざわめく。

    『まあ、なんということでしょう』
    『あのように遠くへとんで』
    『あのあたり、禁足地じゃないのか』

    交わされる数多の視線は、哀れむような光を幼子へと向けた。その重みに耐えかねるように、紅梅の背は小さく萎れる。だが俯いた眼差しを掬い上げるように、ホデリは明るく言い放った。

    『だいじょうぶ、わたしがとってくるわ!』

    告げられた言葉に、周囲の影が一層ざわめく。幼子は戸惑うようにホデリを見つめた。

    『で、でも』

    不安げに潤む瞳を前に、ホデリは快活に声を紡ぐ。風光る金の小鈴の笑みに重なるように、銀糸揺蕩う羽衣に金剛石の星が煌めいた。

    『まりがとんでいったほうこうは、さいしょのりゅうおうたるりゅうがおりたったち。ゆえにこそ、りゅうのちのながれぬものは、たちいることをゆるされない。でも、わたしならへいきだわ。かのかたのいかりにふれることもないでしょう』

    ついでにおいのりもしてきちゃうわ、とホデリは弾んだ声音に花を咲かせる。そうして少女は輝きを撒くように、微笑んでいる母を振り返った。

    『ねえかあさま、いいでしょう?』

    鈍色の瞳で宙を仰いでいた乙姫は、緩やかに娘へと視線を移した。春風を裂く緊張の刃が極彩色を走る中、母は二、三度瞬きを繰り返す。それから己の言葉に焦点を合わせるように、乙姫は慈愛に満ちた声音を紡いだ。

    『ええ、そうね。そうね火照姫。わたくしのかわいい子』

    白光の溢るる三日月のような美しい笑みを浮かべた母に、縹深い瞳は満天の星を抱く。ホデリは目を煌めかせ、呆気に取られたように立ち尽くしている幼子の頭を軽く撫でた。

    『ほらね、だいじょうぶ!しんぱいしないでまっていなさい、かならずまりをもって、もどってくるから!』

    軽やかに笑うホデリを前に、柔らかな幼子の頰は灯火に触れたかのような薄紅色に染まる。かくしてホデリは光風に舞う天女がごとく、颯爽と錦の森へと身を翻した。鞠が飛んでいった方角に歩を進めながら、少女はくすりと小さく笑う。先程の幼子は、小さかった頃の彼女に似ていた。一生懸命に鞠を追う様を、たどたどしく言葉を紡いでいたかつての妹に重ねながら、ホデリは森の中を軽やかに進む。
    仄かな虹を抱く泡沫は、少女の鼻歌を空に架け、頭上を泳ぐ極彩色の魚影は、薄紅の縁を繋いでいく。そうしてホデリが行き着いた先には、一台の御車(みぐるま)があった。リュウグウノツカイが二匹繋がれたそれは、桜花に照る黒漆を纏っている。瑞雲の蒔絵が車輪にたなびき、東雲色の御簾を八重結びに伝う翡翠の紐は、和風の歌に嬉々ときらめく。微睡む玉緒の音を、錦糸の艶めく袖に引いたホデリは、躊躇うことなく御車の中に入った。かすかに陽の射す車内には、ただ一人だけの影がある。精緻な花菱紋様が描かれた白壁に、座したその身を囲われた少女は、ホデリの姿に驚いたように顔を上げた。濃紫の魔祓いの布を目深に被っている彼女に、ホデリは華やいだ笑みを向ける。

    「ホオリ」

    名を呼ばれた妹姫は、濃紫のささめきの下で穏やかに微笑んだ。

    「おねえさま」

    ホデリは妹姫の前に座った。そのままホオリの前に転がっていた鞠を手に取ると、それを自らの膝の上にそっと乗せる。陽の射す瑠璃の上に金の小鈴を転がすように、ホデリは朗らかな笑みを浮かべた。

    「すがたがみえないとおもったら、こんなところにいたのね」

    真昼の薄暗さに身を置く妹姫の方に身を乗り出せば、一瞬戸惑うように瞳が揺れた。そうして濃紫の布の端から覗く、呪布を巻いた指先が強張ったのには構わず、ホデリは明るく言葉を続ける。

    「きょうは、おねつも、おせきも、なんにもないのでしょう?だからこうして、やまさちのみやから、そとにでることをゆるされたって」

    ホデリは妹に手を差し伸べるように、満面の笑みを浮かべた。

    「ならおねえさまやみんなといっしょに、おそとであそびましょう!」

    麗らかな春光を帯びた白緑の衣が、畳にまで広がっている濃紫の布に影を落とす。ホオリは浮かべた微笑はそのままに、困ったように眉尻を下げた。そうだった。この時はまだ、知らなかった。ホオリが月に一度熱を出すのは、ただ体が弱いという理由からではないことを。稀に彼女が宮で行われる儀に参列した時、決して人の輪に入ろうとしないのは、単に内気なだけではないということも。そして手向けられた白い鈴蘭に触れることなく、差し出された両手に柔らかな花を再び包み込むように返された言葉が、姉への遠慮を滲ませていたことを。

    「……ごめんなさい、おねえさま。じつはまだすこし、からだがぼんやりしたかんじがしていて。だから、ここでやすませていただいていたのです」
    「あら、そうなの」

    ホデリはその場に座り直した。それから思考を巡らせるように少し面差しを傾げた少女は、再び目の前の妹姫に微笑みかける。

    「じゃあ、あなたがほしいものを、あとでここにもってきてあげるわ!なにがいい?」
    「いえ、おねえさまにそのような」

    濃紫の影に睫毛を伏せたホオリに、ホデリは鈴蘭の白い輝きを撒くように声音を紡ぐ。豊かな黒髪を結う簪の垂れ飾りが、朝露に煌めく笑みをなぞるように、凛と音を奏でては揺れる。

    「いいのよ、えんりょせずに、なんでもいいなさい!」

    ホオリは可愛い妹だ。物心ついた時には、すでに住まう宮を異にして暮らしていたが、初めて対面を果たした時から、己を姉と慕う様は愛らしいものと思えていた。同時にそれは、臣下からの賞賛の玉座に座すホデリにとって、最も身近な敬愛の標(しるべ)でもあったのだ。
    臣下の願いを叶えることは、王族の務めにして誇りだ。そしてその務めは、ホオリが相手でも変わらない。極彩色の珊瑚の群れが眠る錦の森も、数多の眷属が集う朱塗りの宮も、いずれはホデリが統べるものだ。綿津見御神の元に、希望を歌い、幸福を導き、青海原にあまねく全てを治めることが、日嗣の御子としてのホデリの定めだ。そこに疑問を持ったことはない。煌めく碧色に広がる海原は、常世の国が如く瞳に映え、鮮やかな黄色朱色に響く民の笑い声は、桃源郷の調べのように耳に快く、愛おしいものと思えていた。
    ゆえにこそ、ホデリは目の前に座す妹姫も、他と等しく愛すべきものと信じていた。陽に輝く金の小鈴の前で、迷うように濃紫の陰を纏った琴から、白檀の香が微かに薫る。

    「……では」

    考え込んでいた妹姫は、己の膝から視線を上げた。穏やかな瞳の奥で、夜明け前のほの青い薄暗さに笑む、白蠟の火が小さく灯る。

    「こがたなを、ひとふり」
    「まあ」

    ホデリは目を丸くした。眼差しを静寂の内に伏せていることの多い妹が、そのようなものを欲したことが、些か意外であったのだ。てっきり真珠色に艶めく貝殻か、陽に鮮やかな紅珊瑚の枝あたりかと思っていたのだが、まあそれはそれで構わないとホデリは考え直した。もしかしたら、貝殻に彫り物をしたいのかもしれない。匂い立つ紅を宿すヒオウギの殻に、星を重ねた白波や月に流るる桜などの紋様を刻み、その内に宝珠や文を入れるのが、最近の宮中の流行りだ。そうして秘められた品は、近しい者に贈られる。雅に彩られた籠に、相手の心をも閉ざすように。魂を全て己の懐に仕舞い込み、決して外へと離さないその行為は、とても耽美で魅惑的な想いの表し方だ。だって愛とは素敵なもので、その言葉は相手のことで胸をいっぱいにすることに由来するのだから。
    そのような美しいものに、ホオリが興味を惹かれるのも無理はない。ゆえに、ホデリは軽やかに妹に問いかけた。

    「いいわよ!なににつかうの?」

    姉の問いに、ホオリは静かに口を開いた。魔祓いの布の下で保たれたままの微笑みが、真昼の陽射しのもとに照らし出される。

    「てを、きりおとそうと、おもったのです」

    瞬間、世界から色が褪せたように思えた。身を満たす極彩色から黒白へと変貌した沈黙が、痛いほどに耳を刺す。ホデリは己の喉がひきつるのを感じた。思わず強張った手の下から、煌めく瑠璃の鞠が滑り落ちる。

    「え」

    青海原の色を模した円球は、刺繍が華やぐ浅葱の袖を解くように、明るい畳の上を転がっていった。瑠璃の輝きは夜半の泉に呑まれていく。罅に軋む螺鈿は闇へ滲み、東雲の舞う暁光を、薄氷に凍つ夜霧へと閉ざして行く。

    「てって……あなたの、てを?」
    「はい」

    恐る恐る問いかけたホデリに、ホオリは柔らかな声音で返した。妹は相変わらず穏やかに微笑んではいるが、戯言の風情はどこにもない。常と全く同じ優しげな光が、蝋燭の火が如く眼差しの奥に灯っているだけだ。白。陽に瑞々しく咲く鈴蘭ではない。波に照り輝く真珠でもない。妹の言葉に宿っているのは、月光に晒され朽ち落ちていく、白骨のそれだった。命は通わず、命を彩りもしないそれは、墓前に尽きる蝋の火がごとく、少女を伽藍堂の闇へと閉ざす。笑い声は、ただひたすらに遠い。
    ホデリは空になった膝の上で、両の手を強く握りしめた。縹深き天女の瞳の中で、朱い彼岸花の微笑が影と揺らめく。

    「……どうして?そんなことをしたら、とてもいたいわ」

    やっとそれだけを口にしたホデリに、ホオリは表情を崩さぬまま言葉を綴った。

    「さきほど、このみぐるまにのるまえに、いちどころんでしまったのです。そのときいっしょにいたうねめに、うっかりてをのばしてしまったら、とてもこわがったかおをしていて」

    掛ける松の枝もなく、ほつれていく純白の羽衣の上に、紅緋の花弁が散り落ちる。問いへ答えているだけの妹の平かな素直さが、ホデリの足元を仄暗い水底に沈めていく。

    「それが、とてもかわいそうだったものだから。だから、どうしたらいいのかをかんがえたのですけれど」

    ホオリはまどかな口調で言葉を続けた。

    「それならば。わたくしがてをきれば、だれかにまちがえてふれてしまうことがないから。みんながこわがらずにすむかとおもって。たしかに、きったときはいたいかもしれないけれど、それでだれかがこわいおもいをしなくてすむのなら。それはそれで、いいのではないかと、おもったのです」

    ホデリは目を見開いた。

    「そんな……」

    朝露に薫る花のような唇が、痛みに歪むように引き結ばれる。ホデリは再び身を乗り出すように、妹を見つめた。白い踝を浸す彼岸花の香の中で、天女は貝殻の籠を胸に言い募る。黒漆の廊に映える、淡黄の笑い声。朱塗りの壁に反響する、花緑青の楽の音。繊細な桜花の面差しに宿る、柔らかで温かな水面の煌めき。己が信じているものを籠に閉ざし、螺鈿の輝きに再び包み込むように、少女は言葉を紡いでいく。

    「そんなの……そんなの、だめだわ!すりむいただけでも、ちがでるのよ?きったりなんてしたら、まっかなちが、いっぱい、いっぱいでるのよ?しんでしまうかも、しれないのよ?」

    必死に声を上げる姉に、ホオリは不思議そうに目を瞬かせた。

    「おねえさま?」

    わずかに首を傾げた拍子に、濃紫の布が柔らかにささめく。だが、今にも張り裂けそうなホデリの瞳を前に、妹姫は赤子をあやすように微笑んだ。

    「だいじょうぶです。それならば、よりよいことなのですから」
    「え……」

    唇から掠れた声が漏れ出る。それと同時に、ホデリはうなじの毛が逆立つのを感じた。妹の瞳は、最早常人のそれではなかった。静謐に揺らめく白蠟の灯が照らし出すのは、夜風すら通わぬ虚の眼差しだった。天女の太腿まで這い上った暗い水の下で、赤黒い触手が密やかに蠢く。
    凍りついた姉の前で、ホオリは静かに言葉を紡いだ。

    「にどと。もう、にどと。だれも、こわいおもいをしなくて、すむのですから」

    安らぎに満ちた声音が、瞳に宿った最後の白蠟の灯火を消す。
    ホデリは呆然と妹を見つめた。わからない、何もわからない。どうして安息を与えられたような声音で、そのような言葉を微笑に乗せるのか、まるで理解が及ばなかった。絹がごとき琴の音が紡いだのは、いわば死への憧憬だ。生者でありながら、生きていたいという感情がない。青海原の生きとし生ける全ての者は、波の息吹の祝福の元に存在しているはずなのに。命を天上の陽に煌めかせ、笑い合いながら泡沫を歌うことが、あまねく眷属たちの意義であるはずなのに。だからこそ青海原はどこまでも碧色に澄み渡り、美しいのに。自らそれを進んで手放しているような虚ろな瞳が、ホデリには分からなかった。恐ろしい。今まで信じてきた全てを穏やかに否定するようなその微笑みが、ただただ恐ろしかった。罅割れた貝殻の音が、どこか遠くで響き渡る。

    「……だめ」

    気が付けば、喉の奥から絞り出すような声が出ていた。ホオリは不思議そうに瞬きをしたが、姉がどこかを痛めていると思ったのか、心配そうな顔つきでこちらを見つめる。再び小さな灯火を宿した瞳は、もう彼岸花の香を漂わせてはいなかった。夜半の泉に湛えられた静けさは、優しげに散りめく桜花の影であり、常のホオリのそれだ。だが、先程その水底に棲まう異形と対峙した名残は、冷や汗と化して未だ背に残っている。ホデリは息を殺すように、だが真っ直ぐにホオリを見つめた。握りしめられた天女の指の隙間から、螺鈿の残滓が零れ落ちる。

    「やっぱり、だめ。なんでもは、だめだわ。かわりに、みやにもどったら、しんじゅのくびかざりか、さんごのえだをひとふり、あとでやまさちのみやまでもっていってあげる」

    体の奥底に貯めた力を、魔を祓わんとする金鈴の音に変え、ホデリは精一杯声音を紡ぐ。
    ホオリは静かに微笑んだ。姉が体を痛めているわけではないことに安堵したような、錆び付いた諦めの殻に再び身を閉ざすような、そんな笑い方だった。

    「わかりました、おねえさま」

    ホデリは唇の端を引き結んだ。濃紫の影から鞠を拾い上げれば、明るく真昼の光を反射する錦糸の刺繍に、妙に目が眩む気がした。
    己の懐に入れることは決して叶わぬ少女を前に、純白の羽衣は赤黒く淀んでいく。

    ホオリ。
    私の妹。
    唯一無二の、私の、妹。



    紐解かれた絵巻を机の上に広げれば、白銀の鱗が真昼の陽射しの最中にきらめく。優雅な朱を珠と広げる、檜扇(ひおうぎ)がごとき背鰭。玉ノ緒に似て風になびく、鮮やかな紅緋の胸鰭。薄青色の線が幾重にも引かれた、太刀のような長大な身体。青海原の全てを見通し、深淵の底さえも映すと言われる銀灰色の眼は、冠する名と同じ宮に住まう少女を静かに見つめている。興味深げに絵巻を眺めているホオリに、ヤヒロは言った。

    「リュウグウノツカイについて、最も解しやすい絵図はこれだが」

    ホオリはヤヒロを振り向いた。わずかに揺れた黒髪が、木漏れ日を渡る花弁の音を、穏やかな面差しへと添える。

    「ありがとう、ヤヒロ」

    仄かに煌めく桜の微笑が、異形の金の瞳に舞い散る。少女は薄紅の香を宙にも散らすように、再びリュウグウノツカイの絵図へと向き直った。華奢な指先が巻物の縁をなぞり、夢想の雨滴が柔らかな琴の音を伝う。

    「リュウグウノツカイを、絵図でもゆっくりと見たことは、あまりなかったのだけれど。とても……とても、きれいね。いぜん姉上が、磨きぬかれた銀の鏡のようと賞されていたのを、おもいだしたわ」

    琴線から滴り落ちる追憶の雫を受け、銀の睫毛が白扇の如く金眼へと伏せられる。異形は銀鱗の巨魚から桜花の少女へと、緩やかに眼差しを移した。

    「それなりに、的を得た賛辞だな」

    ホオリはきょとんと目を瞬かせた。小首を傾げるようにこちらを見上げた少女に、ヤヒロは淡々と言葉を続ける。

    「リュウグウノツカイの身が白銀であるのは、邪鬼の目を惑わすためだ。かの銀鱗は、海上から射す清(すず)らかな光を用いて、己の姿が海原に溶け込んだかのように見せかける。かつて綿津見御神が錦の森で邪鬼と戦った際、鏡張りの鎧を用いたのと同じように」

    つまりは、と異形は鋭い爪で軽く机を叩いた。群青の背鰭を流れる銀髪が、響き渡った硬質な音に呼応するように、陽を梳いてわずかに煌めく。

    「ここと同様の作りということだ」

    異形の首筋を伝う金板が、目を丸くした少女の前で、玲瓏な音を奏でて揺れる。
    瑞書倉(ずいしょのそう)。山幸宮の北に座するこの蔵は、名の通り竜宮における書を集めた場所だ。もっとも書とは言えど、竜宮歳時記のような、広く青海原の歴史を歌い紡ぐものが集められているわけではない。禍々しい黒雲を断つ結界。不浄を鎮める清めの水。邪鬼を寄せ付けぬ神秘の銀鱗。退魔の鈴の軌跡に連ねられるように納められた書物は、全て呪術に関するものだ。もとより、山幸宮がホオリの身を癒す場に選ばれたのは、この瑞書倉の存在が大きい。綿津見御神の加護が最も強い神殿に近く、また魔祓いの桂の枝に飾られた御鏡が四方に配置されている。いずれも、邪鬼に人の用いる呪術の書を奪われないためだ。そして元来、山幸宮はこの瑞書倉に異変が無いか否かを見守るために建立された宮であり、瑞書倉の四陣の鏡に匹敵する強さの結界も張られている。その力は宮の内側にも働き、仮に邪鬼の侵入を許したとしても、かの身に退魔の力は及ぶという。曰く、清(すず)らかなる者には涼風の如しなれど、邪なる者には白刃で身を刻まれるが如し、と古よりそう語り継がれている。

    『本当に、以前より良くなられて……病魔は魂と身の双方に巣食う邪鬼とも申しますれば。これもよく食事をお召し上がりになり、服された湯薬と宮の結界が、より一層御身を清めた結果にございましょう』

    回想の帯が紐解かれれば、夜半の泉に淡黄色の行灯が映し出される。穏やかな面差しにありがとうと微笑めば、カサイも薄紅の花を添えられたように笑みを返した。若竹の香に桜花が散り、綴る言葉に陽春の緋が息吹く。

    『この分であれば、宮の内を歩かれても障りはないかと存じますが……』

    薬師は一度言葉を切ると、ホオリの傍に控えているヤヒロを見た。そうしてヤヒロが目を細めたのを促しと取ったのか、再びホオリに目を合わせた老婆は言葉を続ける。

    『どこか、宮の内で行かれたい場所はおありですか』

    木漏れ日を透いたまどかな声音に、ホオリは浅く目を瞬かせる。カサイとは物心ついてからの付き合いだ。病魔に呪われたこの身に怯えを見せたことのない彼女が、柔らかな淡黄色の灯の陰で、密やかにホオリを憐れんでいることを知っている。ゆえに、ホオリは逡巡した。元来の心優しい若竹と淡黄の憐れみが織り交ぜられた言葉は、おそらく宮の内の中庭を指し示している。麗らかな陽の光を歌い、橙色の花のごとく波に揺れる磯巾着の群れは、窓から見ても大層に愛らしいものだった。だが、夜半の泉の底にあるものは、水面に華やぐ金彩地(きんだみじ)の春ではない。水底の望みは、すでに別の場所にある。しかし、ホオリがそれを口にするのを躊躇っていると、不意にヤヒロと目が合った。椅子に座った己の隣に剣がごとく佇む異形は、不動の芯鉄(しんがね)と伸ばされた背筋同様、揺るぐことなくホオリを見つめている。かの眼差しの最中にあるのは、薄氷を纏う刃ではなく、泉の底を深く照らす月光だった。水面に揺蕩う幻想の果てから、銀鱗を掬いだす白い繊手を、静謐の内に待つ瞳。ホオリは金眼に緩やかな瞬きを一つ返すと、カサイに向き直った。少女は胸に射す群青の光に言葉を支えるように、涼やかな銀風の声音を紡ぐ。

    『では、瑞書倉に』

    カサイは微笑みを崩さなかった。木漏れ日の射す声音は、ただ少しの意外さをもって涼風にそよぐ。

    『まあ、瑞書倉に』
    『ええ』

    ホオリは穏やかに言葉を紡いだ。

    『リュウグウノツカイについて、知りたいことがあるのです。かの眷属は神秘の銀鱗を持ち、魔を寄せつけぬと聴きます。ゆえに、瑞書倉であれば、よりくわしく書かれた書があるかとおもって』
    『さようでございましたか』

    薬師は膝の上で手を重ね直した。人に変じた黒い瞳に宿るのは、少女の眼差しを読み解く淡黄の灯だ。柔らかな若竹の葉のささめきが、泉に湛えられた桜の花弁から、鮮らかな紺碧の糸を伝いゆく。

    『……つかぬことをお尋ね致しますが。それはもしや、海幸宮様のご生誕の日が近しいがゆえにございますか』

    花弁に滲み出る好奇ではなく、薄紅の輪郭をそっと確かめるような声音に、ホオリは一瞬目を丸くする。だが星明かりをもって桜花に触れる笹舟を前に、少女ははにかむような笑みを浮かべた。

    『姉上からは、いつもいただいてばかりいますから。わたくしからも、何か姉上のお好きなものを、差し上げられたらとおもいまして』

    ホオリは少し睫毛を伏せた。眩い天女の面差しが金剛石を水面に撒き、少女の頰に淡い影を落とす。

    『……さしでがましくなければ、なのですけれど』

    カサイは唇にまどかな弧を描いたまま、緩やかに首を振った。幼い頰に降る影を拭い去るように、老婆の声音は麗らかな水仙の香を紡ぎ出す。

    『いいえ。そのようなことは、きっとないでしょう。宮様からの贈り物であれば、海幸宮様も、さぞやお喜びになるかと存じます』

    ホオリは眼差しをわずかに上げた。ありがとうとカサイの瞳に再び微笑みかければ、老婆もまた淡黄の灯を広げるように目を細める。ヤヒロが静かに口を開いた。

    『瑞書倉への書状は、私が備えておきます。後ほど薬師寮(くすしのつかさ)へ伺わせて頂きますゆえ、その際にカサイ殿の印を頂戴したく』

    桜花と水仙の目交いの糸に、群青の雫が滴り落ちる。明くる空に降る数多の銀糸を帯びた声音に、カサイは目を細めたまま答えた。

    『承りました』

    果たして淡黄の灯を乗せた笹舟は、少女と異形を銀鱗の標へと導いた。泉を進む舳先(へさき)は緩やかに記憶を閉ざしていき、水面に広がる波紋は映す現世を細波(さざなみ)立たせていく。ホオリは小さな感嘆の吐息を零した。金粉を撒く薄紅を微笑に乗せた少女は、星明かりの宿った眼差しを異形に向ける。

    「そうなのね……知らなかったわ」

    銀の涼風が息吹く声音は、春灯が渡る琴の音を室内に広げていく。泉に開く幻想の花々が照らし出すのは、綾糸で綴じられた文字の数々だ。天へ伸びる桂の木がごとき書棚には、剣の刺繍が煌く薄群青の巻物が整然と積まれている。そうして、ホオリは書棚の四隅に設えられている鏡の角飾りに視線を向け、密やかに呟いた。

    「とても、とてもふしぎね。鱗と鏡はまるでちがうものなのに、同じ光をその身にやどしているなんて。まるで誰かが、かの二つを見えざる糸でおつなげになったかのようだわ」

    曇りなき白銀の鏡に、真珠のきらめきを纏う少女の面差しが映り込む。見えざる神秘を天上の美が如く水面に想う眼差しに、ヤヒロは緩やかに瞬きをした。泉にたゆたう睡蓮を手の内に攫うように、黒漆の机から群青の手が離れていく。

    「そうだな」

    白い花弁に一筋の月光を射しいれる声音が、静寂に満ちた室内に波紋を描く。身に寄せる金の細波に、少女は黒髪を柔らかに翻して振り向いた。異形は夢想に微睡む白珠の香へ、古の物語を綴るように言葉を紡ぐ。

    「この世にあまねく生きる者は全て、属する種ごとの視点を持つが。それとは別に、見えざる視点というものがある。例うるならば」

    ヤヒロは巻物の一点を指差した。時を逆巻き闇夜を拓く清流の眼差しは、銀鱗の巨魚の傍らに描かれた影を、桜花の水面に映し出していく。

    「鮟鱇(あんこう)の氏族は、頭(こうべ)に灯火を宿している。これは己の意思で身に付したものでも、初めから種の標(しるべ)として存在していたものでもない。それは知っているな」
    「ええ」

    ホオリは頷いた。

    「綿津見神が青海原に降り立つより、遥か昔。この世の始まりに現れた二柱の神が、青海原を作り上げたころ。水面を彷徨う種の者も、水底に潜む種の者も、まだその命の形を定めてはいなかった。鱗を持つ者も、今のように言葉を手繰らず、強きが弱きを食む混沌の世であったのだと。そう、きいているわ」

    異形は目を細めた。空に吟じるように紡がれた少女の声が、薄紅の錦糸を群青の指先に八重と結ぶ。

    「ああ、そうだ」

    低く落ち着いた声音の中に、巨大な幻魚の影が真開く。青海原のどの眷属とも異なる姿をしたかの影は、巻かれた呪布に三日月の尾をさざめかせるように、異形の腕を降り行く。鋼のごとき群青を辿った魚影は、金眼の果てに花を誘い、指先を結う錦糸の端へ淡黄の灯をともしていく。

    「綿津見神が降り立つまで、青海原に生きる全ての者は属する種の存亡を懸け、生き残るのにより相応しい型へと姿形を変え続けた。そのうちの一つが、鮟鱇族の灯火だ」

    続けられた言葉の内で、淡黄を宿す灯は悠久を渡る星となる。ヤヒロはホオリを見つめた。眦に薄紅の香を引いた幻魚は、数多の流星を架ける清流を昇っていく。

    「かの灯火は、かつては行く道を照らすものではなく、己が食む者を誘き寄せんとするための代物だった。相手が用いる光を灯火に宿すことにより、それを餌と錯覚させ、己の側へ引き寄せるのだと」

    いわば疑似餌だな、とヤヒロは低く呟いた。仄かに煌めく星々の水影へ、驚きの朱(あけ)を射した少女の瞳を前に、現世の日を透く銀の睫毛は一度静かに伏せられる。

    「産まれ落ちた頃には、種の標ではなかったかの灯が、今日では鮟鱇族を表す最大の標と化したのは。この異種族の視点を、己が身に取り入れたがためと言われている。それこそが」

    ヤヒロは言葉を切った。群青の魚影が天を巡る。古の神々が引く薄絹の帳を琵琶の弦に奏でるように、金の瞳は時の最果てに座す星の名を詠む。

    「見えざる視点。己の意思によらず、己の肉体と他者の視点を混じり合わせ、己が種を残さんとした変容の力。この世にあまねく生きる命を定めた、始まりの神の残したもの」

    異形の弦に爪弾かれた明星の名残は、海底に秘められた銀鱗へと光を継ぐ。鬼のごとき指先は巨魚の絵図をそっとなぞり、神世に咲く睡蓮を現世の蕾へと導いた。語り部の鏡は月光に澄んだ清水に霧散し、反響する波紋が物語の終わりを告げる。

    「リュウグウノツカイの鱗も、それと同じ理だ。もっとも綿津見神が青海原を治めて以来、かの力は失われたが」

    ホオリは目を瞬かせた。蕾へ閉じた乳白色の花弁から、月夜に微睡む真珠が落ちる。

    「みえざる、視点……」

    唇から零れた琴の音に、白銀の細波が芳香を広げる。少女は泉のほとりに落ちた珠玉を、柔らかな手のひらに掬い上げた。月光の余韻に煌めく物語の欠片に、涼風に至った桜花は散りゆく。

    「すべての氏族は、今とは異なる一つのちからで、つながっていたことがあったのね」

    ホオリは手にした宝珠を慈しむように、片手を胸元に重ねた。泉に宿された星明かりは、ほのかに銀鱗の光を帯びて艶めく。

    「強きが弱きを食む世は、混沌としていて、おそろしいけれど。でも」

    少女は瞼を瞳の半ばまで引き下ろした。白縹の水面に過ぎ去りし時を想い、わずかに傾げられた面差しは、水底の銀星に花を手向けるように静かに微笑む。

    「みえざる視点のありし時も、それが失われた今も。誰かの視点で何かを考える意味が、時をへて変わっても。いきていくのには、己以外のだれかが必要なことは。ただそれだけは、かわらないのね」

    少女は微笑の陰に積み重ねられた犠牲を偲び、過去の陽射しを花弁に想う。楽しげな笑い声を上げて鞠を追う影法師は金剛石の輝きを纏い、揺れる木漏れ日に反射していた。切れ切れの夢を眺める少女の足元には、触手のうねる赤黒い影が尾を引くように伸びている。影に滴り落ちる血に、鏡面の少女の肉までもを食むかのように。
    ヤヒロは机からするりと身を引いた。そうして影の側に佇むように、言葉を口にする。

    「まるで、悼むような口ぶりだな」

    ホオリは睫毛を持ち上げた。病魔の影は足元から消え去ることはなかったが、少女は唇に浮かべた微笑を消すことをしなかった。闇に尽きる紅緋ではなく、曙に射す朱華の調べが、澄んだ声音に白露と薫る。

    「わたくしは……ヤヒロや、姉上や、皆のたすけがあって、ここまで生きてこられたから。わたくしが生きていくためだけではなく、皆がよりよく生きていけるように。もし他のすべてを忘れてしまっても、だれかの心をたいせつにする気持ちだけは、忘れないようにしなければ、いけないと思うから」

    ホオリは異形の頰を白い繊手で包むように、柔らかく言葉を紡いだ。

    「ありがとう、ヤヒロ。いつも、わたくしのおねがいに、つきあってくれて。あなたがわたくしに言ってくれた言葉も、銀の髪も、金の瞳も、群青の肌も。とてもたいせつな、あなたの標だわ」

    ヤヒロはホオリを見つめた。血の滲む指先を、水底にまで煌めく朝の陽射しを奏でる琴を前に、異形は緩やかに一度目を閉じる。

    「……人間ならば、人が好いとでも言うのだろうな。お前は」

    爪弾かれた琵琶の弦はだが、連ねる音色に逆接の言葉を紡ぐ。

    「しかし、銀の髪に金の瞳とはな。お前の瞳には、俺の姿はそう見えているのか」
    「ええ」

    微笑みを浮かべたまま頷いてから、ホオリははたと気がつく。

    「そう言えば、ヤヒロには、わたくしの姿はどう見えているの?」
    「……ああ、そうだな」

    少女の問いに、異形は目を細めた。

    「人間の感覚で言うのなら、白い灯火が闇に浮いているように見える……とでも、言いたいところだが」

    言葉の終わりに戯言の香を孕んで低く紡がれた琵琶の音が、不意に途切れる。ホオリは目を見開いた。ほんの束の間、愉しげな光を微かに虹彩に散らした金の瞳は、宿すものを幽鬼の笑みから叢雲に射す月光へと変えていた。そうして呪布を巻いた群青の手が、魂の輪郭を包むように、少女の頰に静かに触れる。

    「今の俺の眼には。黒い瞳と、黒い髪。青白い肌を肉に纏った姿が映っている。そしてその内に、呪いの淵に忘れ得ぬ、他者への祈りの鼓動を感じる」

    ヤヒロはホオリの目を真正面から見据えた。

    「人間の、だが紛れもなくお前が見える」


    月光にさざめく夜半の泉に、群青の鱗が煌めく。
    地に広がっていた血溜まりに、少女の面差しが波紋を描く。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:53:18

    鮫愛づる姫君:その七(前編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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