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    鮫愛づる姫君:その六(前編)白い部屋の夢は続く。
    冷たい白磁の床に半身を伏したまま、ホオリは緩やかに瞬きをした。瞳に映る風景は、相変わらず全てを白骨のごとき沈黙に閉ざしている。萌黄に息吹く風もなく、翡翠に煌めく光もない中、ホオリは右の手の平をそっと開いた。涼やかな玉石の感触と共に、少女の瞳に映り込むのは、青い燐光を放つ群青の鱗だった。華奢な手の中でただ一つだけ、鮮やかな輝きを放つそれに、ホオリは静かに目を細める。そのまま胸元に鱗を引き寄せれば、冴え冴えとした仄青い月光が、魂の水底まで沁み渡るような心地がした。まろみを帯びた微かな吐息が、白磁の床に淡紅の花弁を散らす。柔らかに微笑む淡紅はやがて白珠を纏う薫風と化し、静寂に微睡む室内に金の波紋を緩やかに広げる。群青を抱く少女を中心に織り成される金色は、冷たい壁や床を優しく撫でていった。次第にそれは窓に吊るされた貝殻の風鈴にも及び、室内に涼やかな玉石の音色を響かせる。
    だが澄み渡った安らぎの音は、徐々にその身を深紅の糸に絡め取られていった。暗渠に滴る血にも似た細糸は、真珠のまどかさを帯びた貝殻の上に掠れた女の声音を散らす。錆色に爛れた浅緋の花弁を思わせるその声は、涙を帯びて純白の殻を割っていく。すすり泣きの内に砕け散る螺鈿の煌めきに、ホオリは目を瞬かせた。思わず群青の鱗を強く握り直してから、少女はゆっくりと床から身を起こした。長い黒髪が星光に流るる絹糸のような音を立て、周囲を見回す華奢な背にそよぎ立つ。しかしどれだけホオリが室内に視線を走らせても、声の主の影すら見つけることはできなかった。ただ落涙の狭間に繰り返される言葉だけが、かの存在を指し示す。茫洋とした白の世界が朽ちていく花の香に揺らぎ、立ち尽くしたままのホオリの瞳に細波を広げていく。

    『どうして』

    震える唇の端からほつれ出たような、血の滲むか細い声。語尾に疑問符は存在しない。何かを問う余地など、どこにもありはしない。一縷の希望を打ち砕かれ、平穏へと繋がる糸を全て焼き尽くされ、崖の淵で崩れ落ちることしか残されていない声色だった。次第に薄暗くなっていく部屋の中で、目の前の事実に呆然としながら、絶望に燻る花弁は声を紡ぐ。

    『どうして』

    錆が花弁を蝕む。自失の浅緋が悲哀の深紅へと塗り替えられていく。胸を裂く孤独の谷に、女の慟哭が鳴り響いては木霊する。

    『どうして、どうして、どうして』

    荒い呼吸が膿を吐く。引き攣れた傷口から血が溢れる。湿った土と生臭い鉄の臭いが鼻腔を突き、意識を黒く塗り潰していく。眼に入り込んだ泥と溢れ出す涙が混ざり合い、霞んで行く視界の中で、浅緋色の花は震えた。身に広がる錆は花弁に爆ぜる火花と化し、女の喉を怨嗟に焼いていく。黒い瞳を歪ませた絶叫が、憎悪の炎と化して闇の中に迸る。

    『……どうして!』



    奔流となった火花が瞼の裏を焼く。幾筋もの冷や汗が頬を流れる中、ホオリは大きく目を見開いた。少女の睫毛を真珠色に彩るのは清浄な朝の陽射しだ。黒髪の下に広がる白布は自らの体温でほのかに温かい。夜の微睡みから醒めて窓辺に立ち昇る水泡の音が、ようやくここが現世の己の部屋だということを認識させる。だが耳の中で未だ赤黒く燻る叫び声に、ホオリは絹ぶすまの上で軽く手を握りしめた。痛ましげに伏せられた瞼の下で、悪夢の残滓が陽炎を揺らす。

    (また、あの部屋のゆめ……)

    ホオリは寝台に身を横たえたまま、左手に右手を重ねた。夢の焼け痕に群青の清水が滴り、動揺に傾ぐ心が幾ばくか鎮まるような心地がした。薄い唇から小さな吐息が零れ、夜半の泉に浅緋を帯びた灰が散る。

    (あの叫び声は、いったい、だれの……それに)

    水底へと沈んでいく灰は、黄昏の彼方に見知らぬ影となって漂う。誰そ彼と問う狭間に、記憶から力尽きるように色褪せていく浅緋を掬い上げながら、ホオリは思考を巡らせた。

    (ゆめの半ばから、まるでわたくしが声の主になったようだった。あの名も知らぬ記憶を身におこした心地が、うつつのことのように、鮮明に、いまでも)

    思考の水は記憶の玉石をそそぎ、少女の心を緩やかに眠りの貝殻からほどいていく。だが泉に秘めた桜色や萌黄色の玉をどれほど流水が清めても、あの夢に繋がる色合いのものは見つからなかった。ホオリは軽く唇を引き結んだが、やがて握っていた真白の布から手を離す。記憶の玉石は夜半の泉の底へと返り、少女の黒い瞳は白亜の天井を映した。

    (……いいえ。今はそれよりも、あの子たちの様子を確かめなければ)

    ホオリは寝台から身を起こした。そうして着替えを済ませたのち、衝立の陰から部屋の中心へと歩き出そうとした時だった。淡黄色に輝きながら眼前に現れた影に、少女は思わず目を丸くする。

    「ムツハナ……シラフネ……」

    朝陽の中に佇む一対の海月は、唇から取り零すように名を呼んだ主のもとへと近付く。陽射しを透いて煌めく玻璃の体には、一片の淀みも傷も残っていない。手を差し出せば常と変わらぬ様子で触手を絡めてくるムツハナとシラフネに、ホオリは暖かな灯火が宿るのを感じた。

    「よかった、ほんとうに……よかった……」

    二匹の花房を何度も優しく撫でながら、ホオリは安堵の滲んだ声音で呟く。そうして柔らかく明滅する淡黄を透いて、少女の瞳に映るのは、低い群青の声色だ。

    『眠っているだけです。波が日の光に煌めく頃には目を覚ますでしょう』

    夜半の泉に異形の瞳が蘇る。ホオリは睫毛を伏せた。泉に散る淡紅の花弁が、彼の名をなぞっては少女の琴線を爪弾いていく。広がる金の波紋と奏される名はだが、現世の金板の連なる音に重なって、揺らぐ水面に響き渡った。ホオリが音のした方に顔を向ければ、やはり思い描いていた影がそこにあった。

    「ヤヒロ」

    金板が散らす音の錦糸が、名を呼んだ少女の元へと近づいていく。玻璃の月が宙に浮かび上がるのと同時に目の前に現れた侍従の姿に、ホオリは目を細めた。闇夜を纏う金の瞳に、自然と唇が言葉を紡ぐ。

    「やはり、そのすがたは、ゆめではなかったのね」

    群青の肌を流れる白銀の長髪。空を裂く刃がごとく背に生えた巨大な背鰭。切っ先に三日月を戴く長く太い尾に至るまで、ヤヒロの姿は昨夜の異形のままだった。眩い宝玉を見るような眼差しを己に向けたホオリに、ヤヒロもまた目を細める。

    「夢が、良かったので?」

    常と変わらぬ低い声音に、ホオリは小さく笑みを浮かべた。銀糸の輝きを泉に透くように、一片の曇りもない音が少女の唇から奏でられる。

    「いいえ。あなたと、やっとかべを隔てずに話せた気がするから」

    窓から射す光が金の瞳に閃く。煌めく水面を鋼の刀身に映すように、異形は少女を見つめた。長い尾が一度緩やかに宙を揺らめき、群青の雫が夜半の泉へと滴り落ちる。

    「……妙な娘だ、お前は」

    低く声音を紡いだヤヒロに、ホオリは微笑んだまま言葉を返そうとした。だがほどなくして、扉に設えられた鈴の音が響き渡り、ヤヒロはホオリに一瞥を投げかけてから扉へと足を向ける。白銀の長髪が僅かに宙に弧を描き、群青の背が扉へと向かうのを見送ったホオリは、光射す窓辺へと視線を映した。丁寧に四方に折り畳まれ、朝の清浄な光にさらされている純白の布。穢れを知らぬ真白のそれからは、仄かに桜色を帯びた白木の香が漂っていた。昨夜も目に映したその香の主の名を、見間違えるはずも無い。ホオリは思わず伸ばしかけた指を宙で止め、ただ視線のみを布に投げかける。そうだ。ヤヒロのあの姿が現であれば、砕け散った人形もまた現なのだ。ホオリは軽く唇を噛む。人形を賜った時の母の笑顔が真白の布に重なり、記憶の水晶と化して泉の水面に砕け散る。

    『よいですか、火遠理。これは邪なる者からそなたを守護し、そなたの形代となるもの。来るべきその時まで、大切に持っておくのですよ』

    煌めく破片は澄み渡った母の眼差しと化して、少女の水底に突き刺さる。一点の曇りもない黒曜石の面影に、ホオリはひどく胸が痛むような心地がした。初めて人形を手にした時の滑らかな白木の感触と共に、瞳へ満天の星灯りが宿ったがごとき感情が、胸の奥底に蘇る。

    (……母上)

    それでも布から視線を外さないホオリの元に、玻璃の月が舞い降りてくる。薄青に発光しながらホオリの頬へそっと触手を伸ばす二匹に、ホオリは静かに微笑みかけた。首を緩く左右に振り、花房をそっと頬から外せば、海月達は緩やかにホオリの頭上を旋回する。淡くなりはすれど未だ薄水色の光を明滅させる双子の月は、少女の細い肩に揺らめく影を落とした。それに重なるように金板の音と衣擦れの音が辺りに響き渡り、ホオリははたと後ろを振り向く。そうして視線を向けた先には、ヤヒロと膳を持った一人の采女がいた。ただそれだけの光景だったが、ホオリは思わず目を丸くする。床に両膝をつき、膳を高く顔前に掲げている采女の顎に、今にも触れそうな三日月型の尾鰭。眼前のヤヒロは異形の姿のまま、采女の前に姿を晒していたのだ。だがそれ以上にホオリが奇妙に思ったのは、膳を掲げた采女の様子だった。顎に尾鰭が触れそうだというのに、一向に顔を引く気配がない。金の蒔絵が施された紅漆の盆を持ったまま、神妙な眼差しを床に注いでいる。その立ち振る舞いは、例え目の前に異形が存在しようが己が務めを果たさんとするというより、最初から異形などこの場にいないという風情に近かった。やがて儀礼的な言葉を交わしながら膳をヤヒロに渡した采女を見て、ホオリは海月たちをちらりと見上げる。一対の月はこの間のように警戒を露わにすることもなく、主が視線を向けたヤヒロと采女に体を向けていた。人間で言う興味を惹かれて眺めているのに似て、玻璃の月はほのかな淡黄色に煌めいている。再びヤヒロと采女に視線を戻したホオリの中で、陽炎のごとく芽生えた奇妙な感覚は、揺るぐことのない確信へと姿を変えた。

    (あの銀の髪も、群青のはだも、闇をまとう金の瞳も。この采女や、ムツハナとシラフネには、見えていない)

    いや、感じ取れないと言ったほうが正しいのかもしれない。ムツハナとシラフネは、人間のような視覚で世界を見ることはない。光を己の言葉とするアカボシクラゲは、やはり光を用いて己に世界の全てを映す。それは見る対象の身に宿した熱から発される光によるという。故にアカボシクラゲは、例え相手が変化の術を用いたとしても、その真の姿を見誤ることはない。肉体を一時的に異種族のものに作り変えたとしても、身に宿した熱の発する光までは変わらないからだ。その海月達が、ヤヒロが人間の姿を模していた時と変わらぬ反応を示している。采女に至ってはいわずもがなだ。すなわち、単に異形の姿を見えなくしているわけではない。おそらくは幻を見せるような術を用いて、采女や海月たちに人間の姿を見せているのだろう。もしくは、ヤヒロの使う変化の術に何か関連があるのかもしれなかった。顔色一つ変えず退出していく采女を見つめながら、ホオリはそのようなことを考える。そうして扉に設えられた鈴が鳴り響き、ヤヒロが膳を机に置いたところで、ホオリは静かに口を開いた。

    「ねえ、ヤヒロ」

    ヤヒロは視線だけで言葉に応じる。翳りのない月の静謐さを湛えた金の瞳に、銀に煙る淡紅色の花弁が、囁くように問いを紡ぐ。

    「あなたの、そのすがたは……かんじとれる人を、えらぶの?」

    古傷にそっと触れるような少女の声に、異形の瞳は揺らぐことはなかった。群青の声音は淡々と言葉を繋ぐ。

    「さあ、どうだろうな」

    彼岸と此岸を行き来するかのように、一度だけ尾が緩やかに揺れる。宙を彷徨う三日月を闇の頂に定めるように、異形の眼差しが少女の瞳を金に射止める。

    「元より人間は、己の目に映るものを、己が望むように見る。いかに心を注いだ者であっても、それまでと異なる面を目の当たりにすれば、相手を悪鬼とみなすことがあるように。人外の理に属する者であろうと、それを人間と信ずれば、同じ種族の者として接するように」

    流れるように言葉を奏でる声音は、古の物語を爪弾く琵琶の弦に似ていた。浅く目を見開いた少女の前で、低い弦の音は言葉を紡ぐ。

    「それに。あまり俺も、手の内を晒してばかりではいられない」

    切れ長の瞳の奥で、弦の音の狭間に鋭い鋼が閃く。鞘に秘めた刃の存在を思い出させるような金色に、少女に宿る花が舞う。淡紅の花弁は一瞬の内に群青の影に全て攫われ、ホオリは異形の瞳を見つめ返した。昨夜と同じ眼差し。血を、肉を、魂を差し出すように、酷く惹かれる金の眼。己に残された最後の、ヤヒロの瞳。思わずそれに手を伸ばしてしまいそうになった時、ふと鳴り響いた金板の音に、ホオリははたと我に返る。

    「膳が冷えるぞ」

    瞬きを挟んで目の前を見れば、ヤヒロが紅漆の器の蓋を開けていた。温かな湯気を上げているそれは、紅葉の形に切り揃えられた人参が琥珀色の水面を彩った汁物だった。ホオリは紅漆の器を見つめる。揺らめく紅葉が水面を漂ったのち、白岩のように角を覗かせた豆腐の前で動きを止める。静止した紅葉に途切れた話の面影を見たホオリは、一瞬の沈黙の後に、静かな微笑みを浮かべた。

    「……ええ、そうね」

    ありがとう、と言ってから、ホオリは膳の置かれた机の前に座る。とりあえずヤヒロの様子からして、心配はないということなのだろう。現に先程、ホオリ以外にヤヒロの真の姿を認識した様子はなかったのだから。元よりヤヒロのことだ、容易に他者に自分の正体を気取られるような真似はしないだろうが。
    そもそも、とホオリは象牙の箸を取りながら言葉を転がす。人外の理にある者の心配をすること自体、必要のないことなのかもしれない。何せヤヒロは人智を超えた存在だ。その存在も、魂も、人の両腕には収まらない場所に隔絶されている。だがそう考える一方で、未だ彼の正体が秘められている事に、安堵している自分もいる。我ながら奇妙な心地だと苦笑を零しそうになりながら、ホオリは椎茸を箸で取り上げた。琥珀色の水玉を身に纏った艶やかな茶の茸は、まろやかで芳醇な香を漂わせている。母の好きな品だ。胸に走った痛みを抑え、静かに食事を続けるホオリの傍らに、ヤヒロは黙って立っていた。そうして少女の様子を見守りなら、彼が窓辺に置かれた純白の布に視線を走らせた時だった。

    「失礼つかまつります」

    鈴の鳴る音と共に、先ほど膳を持ってきた采女が姿を現す。滑るような仕草でホオリの前へ進み出た采女に、何事かとヤヒロが問えば、形のいい唇が涼やかな藤紫の声を紡ぐ。

    「冨亀家の潮満様の使いと申す者が、宮の入り口まで来ているのですが」

    箸を置いたホオリは目を丸くした。

    「潮満どのから?」
    「はい」

    視線を地に落とした采女に、ホオリは内心で首を傾げる。確かに先日潮満から送られてきた文には、近い内に使いの者に見舞いの品を届けさせると記してあった。だが、それにしては采女の様子がおかしい。使いの者と断定しなかった言葉の選び方には、明らかな不審の影が漂っている。その疑問を察したのか、采女は顔を伏せたまま言葉を続けた。

    「確かに冨亀家の家紋のついた品と、通行許可印の施されたアズマニシキの貝殻は持っているのですが……それがどうやら、マダイ一族の娘のようでして」

    真朱(まそお)色の名を冠する氏族の名に、少女はもしやと使いの者の輪郭を思い描く。ホオリは少し逡巡したのち、采女に柔らかく微笑みかけた。

    「わかりました。ここに通してさしあげて」

    告げられた言葉に、采女の片眉がわずかに上がったような気配があったが、彼女はホオリに異を唱えようとはしなかった。ただ恭しく一礼すると、寸分の乱れもない口調でホオリへ返す言葉を紡ぎ上げる。

    「……かしこまりました」

    柔らかな陽を透く薄絹の衣が、白木の床に銀の軌跡を残す。入ってきた時と同じように音もなく退出して行った采女を見送ると、ホオリは静かに立ち上がった。それからまげを結い上げ、衣の支度を整えた時、再び扉に設えられた鈴が鳴り響く。使者を通すようにホオリが音に応えれば、ほどなくして一人の少女がホオリの前に姿を現した。身を精一杯縮めている彼女の纏う衣は、目も醒めるような紅緋色だ。夜明けを誘う鮮烈な暁光の色は、裾に向かうにつれて白銀を帯びた真朱へと階調を刻んでいる。緊張に硬直していながらも、煌めく光を宿した瞳は黒くつぶらだ。その目の周りをなぞる様に、青い光沢を帯びた隈取りが施されている。魚鱗のように艶めく黒髪を二つの束に分けて結っているその少女は、ホオリへ深々と頭を下げた。

    「ご、ご機嫌麗しゅうございます、山幸宮様。マダイ族のヒシコでございます。このたびは、冨亀家潮満様から預かりし品を、お持ちいたしました」

    ホオリは目を細めた。微笑む夜半の泉が、人の姿に変じたヒシコを穏やかに映し出す。

    「やはりそなたは、この間の……」

    紅魚の少女は驚きに弾かれたように顔を上げた。だがそれを不敬と考えたのか、慌ててもう一度面を伏せると、震える声音で再び言葉を紡いだ。

    「そ、その節は大変なご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした……こ、こ、この度は、その、御礼とお詫びの挨拶にも、伺わせて頂き、たく」

    そこまで言ったヒシコは、一度深く息を吸った。そうして怖気づきそうな心を制するように連ねられた言葉には、感謝に澄んだ紅緋の灯火が織り込まれていた。

    「あの時は、我が身に余る寛大な処置をして頂き、本当に……本当に、ありがとうございました。宮様から賜りしこの御恩は、生涯忘れません」

    ホオリは紅緋の灯火を包み込むように、桜の息吹く柔らかな声音を返す。

    「よいのですよ。ここは初めて訪れた者にとってはまよいやすいでしょう。それにそなたは、あの時いつわりなど申していなかったのだから」

    伏せた面の下から、小さく息を飲む気配がした。そのまま勢いよくまた顔を上げそうになったのだろうか、一度上がりかけた頭が慌てたように下げられる。そんなヒシコに、ホオリは微笑んだまま言葉を続けた。

    「さあ、顔を上げて」

    紡がれた琴の音色に、マダイは今度こそ勢いよく顔を上げる。怯えではない光に潤んだ大きな瞳に、ホオリは何故か胞子から孵った頃のムツハナとシラフネを思い出した。あの頃の二匹は、全身を黄色に光らせながら、鞠が弾むようにホオリの周りを回ることが多かった。そのままホオリに勢いよく擦り寄ってきたり、あるいは互いの花房を追いかけあっていた様は、今でも鮮明に思い出せる。どこかあの時の二匹に雰囲気が似ていると思いながら、ホオリはヒシコを見つめた。そして何とはなしに彼女の手元に視線を落とした時、ホオリはあることに気が付く。

    「あら」

    軽く目を見開いたホオリに、ヒシコも釣られたように目を丸くする。そのまま不思議そうに瞬きをしたつぶらな瞳とは反対に、ホオリは痛ましげに目を細めた。

    「その手首は、どうしたの」

    真朱の袖から覗く手首は、一目見て分かるほどに赤く腫れ上がっていた。まるで壁に叩きつけられたような痕に、微笑む桜の舞う琴が、憂(うれ)わしい朧月の影に音を潜める。自らが傷を負ったかのごとく睫毛を伏せた少女に、紅魚は目を白黒させながら首を振った。

    「あっ、いえ!宮様のお耳に入れるようなお話では……」

    そこまで言いかけて、ヒシコは言葉を詰まらせる。心配そうにこちらの顔を見つめてくる少女に、マダイは困ったように瞬きをした。八の字に眉を下げ、結ぶべき言葉を何度も口の中で綻ばせたかのように唇を動かす。幾度かそれを繰り返したあと、ヒシコはきまりが悪そうに言葉を紡いだ。

    「……その、実は、ここへ至る際に、ぶつけてしまいまして」
    「まあ」

    桜に煙る朧月の影が濃くなる。より一層痛ましげに曇ってしまった琴の音色に、紅緋の灯火が弦にかかる叢雲を晴らそうと必死に輝く。

    「で、ですが!我が主より預かり品は無事ですので!どうかご安心下さいませ!」

    ホオリは穏やかに微笑んだ。

    「ありがとう。けれど」

    続けられた逆接の言葉に、マダイはきょとんとした表情を浮かべた。そんなマダイを見つめ返しながら、ホオリは囁くように言葉を続ける。

    「いたむのではなくて?」

    ヒシコは数度瞬きをした。それから少しの時間を経て、傷痕に指先だけで触れるような少女の眼差しに、問われた内容を理解したらしい。一瞬軽く見開かれた目はすぐに狼狽えたように伏せられた。右往左往する視線の中で、真朱の裾が僅かに揺れる。

    「あ、ええと、それは……」

    語尾の上ずった声音は、水面に反転する紅緋の尾鰭に似ていた。先ほどよりも遥かに言い淀む様子は、陸に打ち上げられて地を跳ね回る紅魚のそれだった。どう言葉を返したものか思い悩んでいる様子のマダイを、少女は迷いの陸からそっと掬い上げる。

    「ねえ、ヒシコ」
    「は、はい!」

    白い少女の掌の上で、紅魚の影が再び跳ねる。唇の端を引き結び、緊張した眼差しでこちらを見つめるヒシコに、ホオリは柔らかな笑みを向けた。

    「よければ、怪我の手当てをさせてはくれないかしら」
    「え」

    硬く閉ざされていたマダイの口が、今度は呆気に取られたように半開きになった。手の上で跳ねることを忘れた紅魚の影を、少女はそっと澄み渡った夜半の泉へと離す。

    「いきなり、ごめんなさいね。わたくしには、そのけがが、とてもいたそうに見えたものだから」

    ホオリは言葉を続けた。唖然とこちらを見つめる魚影のもとへ、桜の花弁が流れていく。

    「でも、それはわたくしからはそう見える、というだけでもあるから。もしあなたが嫌であれば、ほんとうに、むりにとは言わないわ。あなたにも、きっと……いろいろと、事じょうがあるのかもしれないもの」

    きっとヒシコの手当てをして帰らせても、潮満は怒りはしないだろう。穏和な彼のことだから、次は怪我に気を付けるよう優しく言いこそすれど、ホオリの手を煩わせたなどと口にはしないはずだ。だが、例えそうでも、ヒシコにとっては気が引けるのやもしれなかった。マダイの氏族は、本来であれば王族への謁見を許されるほどの位は持たない。それこそ竜宮王家の外戚である冨亀家から、宮への通行許可印を施された貝殻を託されぬ限りは。ゆえにこれは、先日の謝罪という題目を持ってしても通例では考えられぬことであり、今のヒシコは周囲から眉を顰められやすい立場に身を置いているのではと思ったのだ。そこに怪我の手当まで受けたとあっては、ますます彼女が泳ぐ瀬を無くすかもしれなかった。
    それに、とホオリは頭の中で言葉の玉を転がす。そもそも名の通り光り輝くようなホデリではいざ知らず、御魂が欠けているなどと噂されているホオリでは嫌かもしれない。初めて会った時の動揺ぶりは、王家の姫君を前にしたという緊張だけではなかったことを、ホオリはすでに察していた。
    ただ、ヒシコがそれでも良いと思うのであれば、彼女の怪我を手当てしたいと考えたのもまた事実だった。痛みは肉を食み心を削ぐ。その苦しさを鎮められるのであれば、ホオリは両の掌に掬った清水を、紅魚の傷に注いでやりたかった。だがそれは、彼女が別の者を望むのであれば、必ずしもホオリでなくとも構わない。大切なのはホオリがヒシコの怪我を癒すことではなく、ヒシコの怪我が癒えることなのだから。
    だからこそホオリは問いを口にしたのだが、ヒシコから返ってきた反応は意外なものだった。口を半開きにした紅魚は、心を夜半の泉の中に取り落としてしまったかのようにホオリを見つめ、呟くように声を紡いだ。

    「よ……よろしいのですか?私のような、身の者に……そんな」

    微かに震えている声音は、緊張や恐怖によるものではない。だが何故か今にも泣き出しそうな響きを孕んでいるように聞こえて、ホオリは目を瞬かせた。長きに渡る夜の果てに朱華を射す東雲を見たようなその声色は、ホオリへ向けられたことのない類のものだ。少女の黒い瞳は真朱色の戸惑いをひとひら浮かべる。それでもホオリは、ここでヒシコに手を伸ばすことを止めてはならないような気がした。真朱の戸惑いを桜色の微笑みへと変え、ホオリは柔らかな声音で言葉を紡ぐ。

    「ええ。もちろん、あなたが……本当に、いやでなければ、だけれど」

    つぶらな瞳に桜の花弁が落ち、時を止めていた紅緋の鱗に淡紅の波紋を広げる。呆然としていたマダイは、傷を包みこむ琴の声音に我に返ったかのようだった。遅れて小さく息を飲んだヒシコは、勢いよく首を左右に振る。

    「と、とんでもございませぬ!宮様のお心遣いを、嫌などと……!」

    ホオリは小さく首を傾げた。眉尻をわずかに下げた少女は、唇に描いた笑みはそのままに紅魚へと問う。

    「そう?」
    「はい!」

    今度は勢いよく首を縦に振る。跳ねるように揺れた二束の黒髪を、そっと撫でるように、少女の笑みから淡紅の花弁が散った。

    「なら、よかったわ。少し待っていてくれる?」

    頷いたヒシコに、ホオリは柔らかく目を細める。そのまま腰掛けていた椅子から静かに立つと、すぐ側に佇んでいたヤヒロを振り向いた。

    「ヤヒロ」

    侍従は視線で少女に応える。人として側にいた時と変わらぬ静謐さを宿した金の瞳に、ホオリは言葉を続けた。

    「申し訳ないのだけれど、ヒシコの手首を手当てしてもらってもいい?膏薬と呪布なら、わたくしのものからつかってくれて大丈夫だから」

    ヤヒロは主を見つめ返した。少し引き結ばれた少女の唇の端に、自分では傷に触れられない、赤錆びた苦さを見てとったのだろうか。目を細めた侍従は一瞬の沈黙を挟んだのちに、短く言葉を紡いだ。

    「かしこまりました」

    ホオリは眉尻を少し下げ、唇に緩やかな弧を描いた。花弁に滲む紅は金の瞳にのみ映り、後も残さずに少女の影へと散っていく。

    「ごめんね、ありがとう。それと」

    軽く身をかがめたヤヒロに、ホオリは少し爪先立ちになる。少女は直に触れないように気をつけながら、小さく侍従に耳打ちした。

    「……あまり、こわがらせないであげてね」

    淡紅を透く薄絹のさざめきに、異形は姿勢を正して座っているヒシコに眼差しを流した。それからもう一度ホオリに視線を戻すと、刃のように細めた金の瞳は異形のままに、紡ぐ声音に人間の皮を纏わせる。

    「……善処致します」

    果たしてヤヒロが膏薬の入った壺と呪布を手に戻れば、ヒシコは大きく目を見開いて硬直していた。膝の上で硬く握り締められた掌に視線を投げかけ、ヤヒロはマダイの前へと座る。そうして心を伝う冷や汗が透けて見えそうなほど動揺している彼女の手首に、ヤヒロは薄氷色の膏薬を塗りながら言った。

    「先日はすまなかった」

    静かに発された声音に、顔を伏せていたヒシコの肩がひどく強張る。だが瞬きを一つ挟むほどの時を経て、言葉の意味が鱗に沁み入ってきたらしい。所在無さげに床へ泳がせていた視線を上げ、紅魚は思わずといった風にヤヒロを見つめる。

    「……へ?」
    「お前に姫様への邪心は無かったことが、邪鬼祓いの儀で明かされたと聞いている。すまなかった」

    ヒシコは完全に虚を突かれたのか、大きく口を開けた。もはや半開きではなく全開と言った方が近いほどだったが、涼やかな夜風の香に声を攫われてしまったのかのように、彼女がしばらく言葉を発することはなかった。だが、手際良く手首に呪布を巻いていくヤヒロから一瞥され、ヒシコは慌てて口を動かす。

    「い……いえ!そのような……」

    そこまで言って、ヒシコは言葉の在り処に迷うように口を開閉させた。月の静寂を湛えた切れ長の瞳を前に、ヒシコは適切な言葉の糸を結べずに言い淀む。結果的に再び唇を閉ざしてしまったヒシコを尻目に、ヤヒロは眼差しを彼女の手首へと戻した。そうして少し肩の力を緩めた紅魚へ、侍従は呪布の緒を結びながら淡々と言葉を続ける。

    「……だが、今度は妙な人間から姫様当ての代物を受け取ったら、直接姫様へ渡しに来るような真似はするな。まず私の元へ持ってくるか、私の名の元に神殿の巫女へと渡せ。それが出来ぬというのなら」

    ヤヒロは呪布を巻き終えた手首から視線を上げた。真正面からヒシコを見据えた切れ長の瞳に、白刃の光がわずかに閃く。

    「その時こそ、どうなるか……分かるな」
    「ひえっ」

    潜められた剣の気配に、紅魚の口から悲鳴が漏れる。元の姿であれば鱗を逆立てていたであろう様子で顔を引きつらせたヒシコは、口早に言葉を返した。

    「はっははははい!御傍付き様のお言葉に逆らうなど滅相もございません!断じて!決して!我が鱗に代えましても!」
    「ならば良い」

    呪布の結び目の硬さを今一度確かめるように、ヤヒロはヒシコの手首に触れた。肩を竦ませたヒシコから眼差しを逸らさぬまま、低く声を紡ぐ。

    「……頼んだぞ」

    激しく頷いたヒシコの手首から、ヤヒロが触れていた手を離した時だった。奥の間から潮満への返し文を抱いたホオリが姿を現し、治癒を終えたマダイに微笑みかける。

    「痛みは、やわらいだ?」

    白銀の錦糸が施された文と共に抱えられた白百合の香が、少女の笑みをより柔らかく彩る。膏薬の入った壺を持ち直したヤヒロが立ち上がると同時に、安堵に少しばかり頬を緩めたヒシコはホオリへと頷き返した。

    「はい!」
    「そう、ならよかったわ」

    文を手にしたホオリは、そのまま椅子へ腰掛けようとした。だが、まだ硬さの取れていないヒシコの表情に、ホオリは少し逡巡する。そうして薄紅の花弁を白露が滑り散るほどの間を置いて、少女は床へと座った。互いが確実に触れ合うことはないが、会話をするには充分な距離をヒシコからとったホオリは、彼女を軽く見上げるように、目を合わせて話しかける。

    「潮満どのは、おげんき?」

    仄かな白光を帯びた思案の水面を渡り、己の元に流れついてきた桜花に、紅緋の魚は驚いたように目を見開いた。だが、微笑みながら返答を待っているホオリに、ヒシコは急いで言葉をかき集める。

    「は、はい!この間は妙な夢を見たと申しておりましたが、大事ありませぬ!」

    ホオリはきょとんとヒシコを見つめ返した。

    「みょうな、夢?」
    「はい」

    神妙な様子で頷いたマダイは、とつとつと言葉を続けた。

    「何でも、身の丈六尺ほどの異形の鬼が、あの陸の国から到来した船を動き回っている夢を見たとか。闇に照り輝く深緑の肌に、爛々と光る真紅の瞳を持ち、耳まで裂けた口に笑みを浮かべながら振り返る様は、まさに悪鬼そのものだったそうで」

    ホオリはかすかに眉をひそめた。

    「異形の、鬼……」

    告げられた姿がヤヒロとは異なることに密かな安堵を覚えながらも、紅緋の鱗から滴り落ちた彼岸の雫に、此岸の少女は奇妙な寒気を覚える。理由は分からない。だが澄んだ水縹が真紅に瞬き、悲鳴を上げる間もなく濁った緑青に暗転していく感覚は、確実にホオリの足元から這い登っていた。これは一体何だろうか。己が夢を見たわけではないというのに、血の粘液を曳く瞳がにたりと傍らで笑んでいるような心地に、ホオリは思わず膝に置いた手を握りしめる。だがその一方で少女の頭を横切ったのは、砕かれた瑠璃色の瞳の残骸だった。

    (つねならば……つねならば、こわれる筈のない人形が砕けちり、光を失うことのないアカボシクラゲが、闇にくるい……その明くる日に、ふきつな夢の話をきいた)

    桜の花弁に散った緑青を、瑠璃の光を灯した雫が洗い流していく。褪せていた薄紅に少女の息吹が通い、白露の艶めきを帯びた花弁の姿を取り戻していく。ホオリは思考を巡らせた。

    (これは、ほんとうにぐうぜんかしら。それとも……)

    目を細めて記憶の彼方を見つめる少女の睫毛に、花弁の影が舞い降りる。その様を不安の水辺に佇んでいると思ったのか、ヒシコは懸命に言葉を補うように声を紡いだ。

    「あっ、その!夢を見る前日に、神殿の立て直しに伴い、かつての綿津見御神と邪鬼との戦いの神話を一から読み返したようで!ゆえにそのような夢を見たのでございましょう、あやつらしいことだと思います!」

    煌めく紅緋色の鱗に、ホオリははたと睫毛を上げる。不安の水辺から安堵の岸辺へ手を取ったようにも見える反応に力づけられたのか、ヒシコはやがて熱が入ったように話を続けた。

    「あやつは少々、根が真面目すぎるきらいがありますゆえ!確かにそこもあやつの美点ではあるのですが、寝る前くらいは執務以外のことも考えた方がよいのではと、私も友として気にかかるばかりで……ああですが、夜はぐっすりと眠り、食事もきちんと取っているので、大事はないかと思います!いえそれどころか、先日も私の話に大笑いしていたので、一点の曇りのない健やかそのものだと思いま」

    そこまで口早に言ったヒシコは、一度声を喉元にしまい込む。薄紅色の衣の袖で口元を隠したホオリが、小さくだが軽やかな笑い声を上げたがためだった。岸辺に銀粉を散らし百重(ももえ)と咲く、浜木綿(はまゆう)の煌めきと重なる微笑みが、紅魚の瞳に眩く映える。

    「ありがとう、ヒシコ。わたくしはだいじょうぶ。少し、気にかかることをおもいだしただけだから」

    ヒシコの肩が安堵したように丸くなる。そんなマダイに頬を緩めたホオリは、ところで、と小さく面差しを傾げた。

    「あやつ……とは、潮満どののこと?」

    血の気が引いたとは、このことを言うのではないだろうか。ヒシコの血色のいい丸みを帯びた顔が、一瞬にして波に攫われたかのように青くなる。仮にも己が仕える家の主であり、竜宮王家の外戚でもある潮満への侮辱と取られかねないと、考えたのかもしれなかった。だが、ホオリが気になったのはもっと別のことだった。青ざめた顔のまま口を動かそうとしたヒシコを、ホオリは銀の木漏れ日の射す声音で制する。

    「だいじょうぶよ。おこってなどいないし、だれにも言わないわ。ヒシコと潮満どのは、おともだちなの?」

    ヒシコは顔を強張らせていたが、少女の声音に息吹く柔らかな薫風に励まされたらしい。恐る恐る唇を開いたマダイは、謝罪を述べる代わりに小さく頷いた。

    「じ、実は……まだ幼かった頃、私は潮満様と共に遊びに興じたのです。その時は、潮満様が次期冨亀家当主となる方とは知らず……それでも未だに、私を友と呼び、昔と変わらずに接して下さいます。それで、つい」
    「まあ、そうだったの」

    ホオリは唇を綻ばせた。金粉を撒く花が琴の弦に咲き、紅緋の鱗へと夢想の音を奏でる。きっと先程の話し方からして、潮満とヒシコは殊更に仲の良い友なのだろう。笑い合う銀鼠色と紅緋の影を心の水面に思い描き、少女は温かな心持ちになる。

    「とっても、とってもすてきね。けれどおどろいたわ、みつ兄さまが大笑いすることがあるなんて」

    うららかに緩む淡紅の花弁から、暮れなずむ日を宿した玉の緒がまろび出でる。記憶に映る琥珀の緒に宿るのは、優しげな銀鼠色の面影だ。唇の端から零れ出た古い呼び名に、今度はヒシコが目を瞬かせた。

    「みつ、にいさま?」

    はたと気付いて口元を覆ったホオリを、つぶらな黒い瞳が見つめる。訝しげではない、ただ純然な驚きを灯したその眼差しに、ホオリは少し間を置いてから言葉を紡ぐ。

    「わたくしもね。今よりもっと小さかったころ、色々とおはなしをしていただいたの。まるで、ほんとうのお兄様のように。……今ではあまり、そうは呼べないけれど、今日はついつられてしまったわ」

    ホオリは衣の袖で口元を隠したまま、微かに頬を薄紅に染めた。

    「ふふ。ひみつにしてね」

    ヒシコは丸い目を更に丸くする。だがはにかんだように微笑む眼前の少女を見ると、紅魚は数多の星灯りを声音に宿すように、瞳に笑みを輝かせた。

    「は、はい!」

    かくして、ホオリとヒシコは穏やかに話を続けた。小さな淡黄色の秘密が少女と紅魚を暖かく照らし出す中、話の中で時折織り成される小さな笑い声が、二人を綾錦の輝きに結ぶ。そうして、萌黄の風にきらめく二輪の花にも見えるその様を、ヤヒロは静かに見つめていた。

    白木の窓辺に晒された純白の布が、柔らかな陽射しの銀を帯びる。
    仄かな瑠璃の光が、花弁と共に宙へと舞い昇っていく。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:49:08

    鮫愛づる姫君:その六(前編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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