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    しおり
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    鮫愛づる姫君:その五(中編)それから数日の時が流れた。ムツハナとシラフネは再び薬師へ身を預ける運びとなり、山幸の宮の籠は、今や空と化している。昇る玻璃の器を持たず、新月の夜を数えるだけの泡沫を気遣わしげに眺める主の姿を脳裏に紐解きながら、ヤヒロは海幸の宮を出た。朱塗りの扉を音もなく閉めれば、男の足の導かれる先は、黒漆の廊下から紅白の敷き瓦へと変わる。紅緋と純白が帯を成すように交互に連なる広場を横切りながら、ヤヒロは先程の光景を思い出していた。

    (希望の子、か)

    海蛍の青い燐光が、記憶の帯を海幸の宮へと誘う。天井から花蔓のごとく吊り下がり、淡黄の火を宿す無数の灯篭。瑞雲の箔絵を抱き、彩光(さいこう)に艶めく緋色の柱。燦然と金に輝く龍頭を肘掛に持ち、鏡面のごとく磨き抜かれた黒漆に立つ朱塗りの玉座。そして龍の至宝の座が冠するのは、穢れを知らぬ珠玉の姫だった。頭を垂れるヤヒロの上に、満天の星に澄む鈴の声音がきらめく。

    『そう。では我が妹姫は、近頃は健やかに過ごしているのね』
    『はい。先日も身を起こし、海幸の宮様がお贈りになった、竜宮歳時記を読まれておいででした』

    男の言葉に、ホデリは晴れやかな笑みを浮かべた。

    『それならば、また近いうちにお見舞いへ行けそう!ですよね、母上?』

    無垢な姫が奏でるのはやはり無邪気な言葉の調べだった。そうして、金剛石のきらめきに金粉を舞わせた小鈴の音は、傍らに座る一人の女性に手向けられる。艶やかな黒髪を真珠の簪で飾り、五色の羽衣を纏ったその女性は、人間ならば至上の美の姿を見い出すのだろう。だが白く眩い光に輪郭が浮き立つような容貌とは裏腹に、壁を眺める眼差しの在り処は鈍色に滲んで見えた。まるで、橘の花に乗せた魂の玉骨を、現世の泉から黄泉の底へと流してしまったかのように。
    背を這う奇妙な違和感に、ヤヒロは片膝を着いたまま両目を細めた。頭巾の下に走る鋭い眼光に気付く様子もなく、女性は緩やかにホデリの方へ顔を向ける。満天の星灯りに輝く瞳を前に、凍風に封じられていた唇が徐々に綻び、承和色(そがいろ)に光る龍笛の音を抱く。

    『ええ、ええそうね。あなたは希望の子。照り輝く炎の元に産まれた子。私の愛しい姫。何もできないことなどないわ、何も』

    第十五代乙姫にして現乙姫、サクヤ姫。ホオリとホデリの母でもある女性は、歌うように言葉を紡ぎ、娘の頬に手を添えた。慈しみに満ちあふれた和風(なぎかぜ)の所作に、小鈴の音色は明るさを増す。

    『はい、母上』

    麗らかな金の音を黄檗に咲き舞う鼻歌に変え、妹姫へ綴る物語の宝珠を選ばんと、玉座の少女は無邪気に笑う。どんな話がいいだろうかと楽しげに夢想する娘を前に、乙姫は穏やかに微笑んでいた。鈴と龍笛の音が織り成す、承和色(そがいろ)と金色のまどかな水玉の調べ。幸福を謳う翠雨を身に受けながら、ヤヒロは密やかに気付いていた。ホデリに注がれる乙姫の眼差しが、相変わらず鈍色に滲んでいることも。そして、ホデリが謁見の間に姿を現す直前にヤヒロへ向けていた眼差しは、憎悪の檻に魂の琥珀を閉ざしていながら、輪郭をはっきりと定めていたことも。

    (……皮肉なものだな)

    ヤヒロは瞳の半ばまで瞼を引き下ろした。呪詛の記憶に苛まれた琥珀は、異形の纏う群青の鱗の前に罅割れる。朽葉色の悲鳴に淀んだ貴石は、紅涙の軌跡を散らしながら回想の彼方へと消えた。かくして、瑠璃色の燐光に揺らめく追憶は、黒櫃の鞘に収まる剣の音により断ち切られる。ヤヒロは歩を進めた。白刃から滴る記憶の残渣(ざんさ)が、青い血に塗れた蟲の姿を紡ぎ出し、男の瞳に金の眼光を閃かせる。

    (やはり、乙姫と姉姫が、あの娘に害を成す理由はない。日嗣(ひつぎ)の御子のしきたりからして、次期乙姫はすでに姉姫と決まっている。今日の乙姫の態度からしても、それは揺るぎはしないだろう。わざわざ病床に伏すあの娘に害を成すほど、両者とも政(まつりごと)の上で追い詰められてはいない。そもそもあの娘に後ろ盾など無きに等しい。だが)

    紅白の敷き瓦の上を進む、黒漆の沓(くつ)の音が辺りに響く。思考の水が現世の影に滴り、紺青の黙思に鬱金の波紋を広げゆく。

    (花浅葱の香を纏うことが出来るのは、海幸の宮に務めている高位の采女のみ。そしてマダイは、海幸の宮で玉手箱を渡されたと言った。あの後、邪鬼祓いの儀を受けて何事もなく帰ったことから、あれが嘘をついているとは考えにくい。しかし、それを差し引いても)

    逆接の言葉は記憶を反転させ、思考の中を流転する。ヤヒロは眉をひそめた。

    (……あまりに手立てが露骨すぎる)

    単に海幸の宮と山幸の宮の溝を深めるだけならば、より手間と危険の少ない方法を取るはずだ。暗落ちとは言え、オニイソメをわざわざ使うような理由はない。竜宮の守護を担っていた蟲を意図的に傷つけたのだとしたら、例えそれが王族であったとしても、綿津見御神への侮辱と捉えられかねないからだ。にも関わらず、海幸の宮の人間が主へ害を成さんとしているような証の並びに、ヤヒロは奇妙な印象を抱いていた。やがてそれは一つの推察に姿を変え、深紅の血を垂らした翠玉を、瞳の水鏡に映し出す。

    (おそらく本来の目的は別にある。問題は花浅葱の采女が、あれの可能性があることだが)

    ヤヒロは足を止めた。紅白の敷き瓦は途切れ、代わりに低い石造りの階段が道の標を現している。淡紅に艶めく桜貝が所々に埋め込まれた石段が示すのは、巨大な朱塗りの門だった。竜宮に座す第四の門、紅福門。青海原の眷属からそう呼ばれるこの門は、紅緋を身に射す建築物の中央に、楼門を設えた造りをしている。言い換えればこの門そのものが一つの建造物であり、一つの部でもあった。男は石段に足をかける。血濡れて嗤う翠玉の断片を氷晶の月に封じ込み、一足ごとに石段を登って行く。

    (……いずれにせよ、備えはしておかねばなるまい)

    石段に伸びる影の内で、首飾りの金板が揺れる。闇を祓う音の錦糸に、異形の魚は群青の尾を翻す。水冠に弾ける雫は幻魚と共に瞳見へと消え、雷光の金を剣の漆黒へと作り変える。人の輪郭をなぞる影を背に連れて、ヤヒロは門の真下に立った。碧雲を翔ける龍を天井に頂く楼門は、左右の壁に絵画の花々をすくい、訪ね人の道を問うている。左は銀粉に舞う牡丹。右は金粉に薫る蓮華。ヤヒロの手は迷うことなく、右の蓮華を選び取る。呪布の真白が花弁に触れれば、浄土の浅紅を戴く朱塗りの壁は、白金の瓔珞(ようらく)文様を奏でる紅緋の扉へと姿を変えた。現れた扉をそのまま開ければ、檜造りの廊下を流れる香が、鼻先に葵の風を息吹かせる。竜宮正殿南方の部、薬師寮(くすしのつかさ)。俗に薬師詰所(くすしつめしょ)とも呼ばれるこの場所は、名の通り薬にまつわる事柄を担っている。金丹発祥の場でもあるここで作られた薬は、鱗の有無に関わらず、傷を治し病を癒やす。それは肉体のみならず、魂の欠落さえも補うと言われていることから、呪術に用いんと通う者もいるほどだ。だが今回ヤヒロが薬師寮を訪れたのは、自らの治癒が目的ではない。呪布の下に広がる刻印の代わりに、黒い瞳が映し出すのは双子の月だ。柔らかな淡黄の光に照り映える廊下を、薄氷を帯びた夜風の香が、沓音の軌跡を残して道の果てへと進んでいく。
    数々の部屋を通り過ぎ、やがてヤヒロが辿り着いたのは、一際大きな両開きの扉だった。延年転寿と書かれた赤地の扁額を頭上に冠し、金の羽衣に包まれた巨大な蓮華を抱く扉は、そのまま一対の海月の在り処を指し示している。先程と同じように呪布を巻いた指先で蓮華の花に触れれば、紅緋の扉は軽やかな鈴の音とともに開いた。だがヤヒロは、目の前に開かれた微かな隙間を、それ以上広げようとはしなかった。鈴の旋律に混ざり動揺の灰青を撒く声が、ヤヒロの手を沈黙の最中に留め置く。

    「何ということだ……じきに山幸の宮様の御側付きの方が、お見えになる刻限だというのに」
    「つい半刻前まではここにいらしたはず……それが、どうして」

    言葉を影に潜めるような二人分の声音が、割れた玻璃を群青の水底に散らし、叢雲に隠れた月の推察を瞳に浮かび上がらせる。ヤヒロはやや間隔を置いてから扉を開いた。引き出しに幾千もの薬草の名を刻み、白壁に沿うように設えられた黒檀の薬棚。梔子(くちなし)色の丸薬と翡翠の魚鱗を水平に釣り合わせ、檜造りの机に座す赤銅色の天秤。紺青の唐草紋様を纏い、ほのかに葵の香を散らす白磁の薬研。それらに囲まれながら部屋の中央に立っているのは、若竹色の装束を身に付けた若い男と、雄黄(ゆうおう)色のコンゴウフグだった。若竹は薬師の纏う色であり、黄魚は薬師の長である薬師頭(くすしのがしら)だ。再び鳴り響いた鈴の音が、振り向いた二対の瞳に驚きの波をもたらす。だがそれを隠すように、コンゴウフグはヤヒロへと頭を下げた。灯篭の光に透ける薄い背びれに、動揺の飛沫がわずかにきらめく。

    「これは、山幸の宮様の御側付きの」

    ヤヒロもまた仮面を纏う。涼やかな薄藍の声音を唇に載せ、穏やかな水縹の笑みを目元に引く。

    「ご記憶に留めて頂き光栄です。此の度は病魔の見極めは滞りなく終えられたとのことで、ムツハナ様とシラフネ様をお迎えに参じたのですが」

    ヤヒロは目を細めた。微笑のもとに綴られる薄藍に、薄氷が鋭く閃き散る。

    「御二方はこの場にはいらっしゃらぬご様子。病魔は在らず、やはり常と異なる点はまるで無しという報せを頂いた以上、未だに見極めの間におわすという訳ではなかろうとお見受けしたのですが」

    若竹と雄黄の背後を通じて、黒い瞳が映すのは、山幸の宮と同じ巨大な水泡の籠だ。本来ならば頂に座している筈の玻璃の月は、茜射す西陽の前に溶け去ったかのごとく消えていた。

    「一体、御二方はどちらに?」

    あくまでも柔らかな声音の殻の内側で、男の眼光は鋭さを増して相手を見る。剣の眼差しのもとに流れ出た薄藍の言葉は、問いの姿をしていながら、偽りを口にすることも、この場から逃れることも許さなかった。仮初めの選択肢の上で、選べるものは唯一つと悟ったのだろうか。若竹色の装束を纏った男が唇を引き結んだのと、コンゴウフグが深く頭を下げたのはほぼ同時のことだった。ヤヒロの瞳に散る薄氷が鏡の欠片へと姿を変え、連ねられる雄黄の言葉を映し出す。

    「申し訳ございません。確かに御二方とも病魔の見極めを無事終えられ、半刻ほど前には水泡の中でお眠りになられておいででした。ですが、先ほど再び見廻りにきたところ、御二方の姿は見えず」

    鏡面に映る魚鱗の虚像は、動揺の飛沫を拭った声音により真実を結ぶ。黙して話を聞くヤヒロを前に、コンゴウフグは謝罪の辞を述べた。

    「このような事になったのは、我らの不徳の致すところ。必ずやムツハナ様とシラフネ様を探し出してご覧にいれます」
    「……なるほど」

    低く呟かれた言葉と共に、銀鏡の破片は薄藍の布に覆われ、瞳の奥底へと埋められる。神妙な面持ちで返答を待つ魚に、ヤヒロは意図的にゆっくりと口を開いた。ほどなくして、穏やかな薄藍の声音で綴られた言葉に、コンゴウフグは目を丸くする。

    「分かりました。では私も御二方を探しましょう」
    「ですが、それは」

    驚きのあまり逆接の言葉を口走ったコンゴウフグを、ヤヒロは視線で制する。即座に鱗を沈黙に閉ざした黄魚へ、ヤヒロは流れるように薄藍の声を連ねた。

    「半刻もの時があれば、ムツハナ様とシラフネ様がこの場を離れられている可能性もあります。そうなれば薬師寮以外を探す者も必要となりましょう。それに」

    一度言葉を区切ったヤヒロは、再び仮面の目元に水縹の笑みを引いた。穏やかな人間の皮を纏った異形は、綴る言葉の中に舞い散る桜の残像を真開く。

    「私としても、我が君が嘆き悲しまれることは望みませぬゆえ」

    コンゴウフグは黙り込んだまま、石畳の床に視線を落とす。宵闇に消えた玻璃の月と、桜を透く薄藍の衣とを己の中の天秤にかけ、どちらに身を傾けるべきか思案している風情だった。だが最終的には、ヤヒロに借りを作ることよりも、このまま時が過ぎ去る方が望ましくないと判断したらしい。黄魚は再び顔を上げ、ヤヒロへと一礼した。

    「……お力添えに心より感謝致します。では私は出入りの記録を調べに参りますゆえ、御二方がいなくなられた時の事でお知りになりたいことがあらば、この者にお尋ね下さい」

    コンゴウフグはそう告げると、若竹色の装束を纏った男と少し言葉を交わしてから、滑るように部屋を出て行った。雄黄の影が水面に細波を立てるように、鈴の音が室内に響き渡り、閉じた金の残響の後にはヤヒロと男だけが取り残される。それから一拍の間を置いたのち、ヤヒロは男へ向き直り、幾つかの問いを口にした。先程よりもやや鋭さを潜めたヤヒロの眼差しに、男はいくばくか緊張の縄を解いたようだった。風にそよぐ笹の葉が、夜露を地に滴り落とすように、男は問いの答えをヤヒロに返す。
    曰く、ムツハナとシラフネが眠っていた水泡の籠は、誤って内側から外界へ出ることのないよう、呪術を施してあったこと。万が一海月たちが籠から出てしまったとしても、この治癒の間からは出ないよう、部屋には結界が幾重にも張られていたこと。故に梁の隙間などはもちろん、開かれた扉からでさえ、二匹が外へ出ることは到底出来うるものではないこと。そして今日も結界や呪術は正しく施されており、一点の綻びもなかったこと。
    追憶の霧に葉をざわめかせながらもそう語った若竹に、ヤヒロは瞳の半ばまで瞼を引き下ろした。結界に関しては後でもう一度確かめる必要があるが、おそらく嘘ではないだろう。治癒の間に設えられた蓮華の扉を思い返しながら、ヤヒロは呪布の巻かれた手を軽く握り締めた。そうして導き出された結論が、玻璃の月に添う物影と化して、侍従の水底へと映り込む。

    「……するとやはり、御二方のみで治癒の間を出た可能性は極めて低い、というわけですね」

    確認の意図も兼ねて男を見れば、頷きと共に肯定の言葉が返される。ヤヒロは緩やかな瞬きを一つしてから、再び声を紡いだ。

    「では、これは記憶にある限りで答えて頂いて構わないのですが」

    涼やかな清水を透く薄藍が、白刃を砥ぐ群青へと深みを増す。微細な変化に気付かぬ若竹は、抜き放たれた刀身に流水の幻想を見たままだ。男の目に映る水月鏡花を崩さぬように、ヤヒロはさりげなさをもって問う。

    「本日この場を訪れた方の中に、花浅葱の香をつけた采女の方はいらっしゃいましたか」

    きょとんとした男を前に、ヤヒロはすでに気付いていた。先日ヒシコが口にした香の名が、室内にひしめく様々な薬草の中に影を潜めていることに。それは酷く幽かな煙のようだったが、紛れもなくあの時の玉手箱にも付着していた匂いだった。瞳の剣を解かぬヤヒロに、若竹色の男は未だ澄み渡る清水の幻を見ながらも困惑にさざめく問いを返す。

    「采女の方、ですか?」

    男は記憶を探るように眉根を寄せた。笹の葉が時を遡る風に揺れ、花浅葱の香の軌跡を辿る。やがて少しばかりの沈黙を経た男は、首を小さく横に振った。

    「いえ、そのような方は本日いらっしゃっていません。ここを訪れた方々はみな、薬草をお出しするとそのまま帰られました。そしてどなたも、ムツハナ様とシラフネ様のいらっしゃる籠に近付かれてはいなかったはずですが」

    不安の色が濃くなった瞳で、男はヤヒロを見た。

    「失礼ですが、何ゆえそのようなことをお聞きに?」

    ヤヒロは男を見つめ返した。若竹の眼差しの最中には、不安の他に多少の疑心は見受けられたものの、その身を偽りの雪にしならせている風情は無かった。切れ長の瞳に抜き放たれた剣は、一度その切っ先を緑滴る竹から降ろす。代わりに芽生えた不審を拭うように薄く笑み、ヤヒロは歌うように涼やかな声音を紡いだ。

    「いえ。近頃、花浅葱の香を身に付け、采女に扮した者が他者の物を奪い去るとの噂を耳にしたものですから。ただ噂はあくまで噂。綿津見御神の神気満ちたるこの宮で、かようなことが真にあるまいとは思いますが、念のためお伺いさせていただいただけにございます」

    疑心の紫苑(しおん)は摘まれ、納得の白百合が若竹の根元に咲く。ヤヒロは言葉を続けた。

    「つまらぬことを伺い、申し訳ございません。では、薬師頭(くすしのがしら)殿がお戻りになられるまで、今一度結界の要の確認をさせて頂いてもよろしいですか。もちろん先程のお言葉を疑っているわけではありませんが、他に御二方がいなくなった手掛かりが残されているやもしれませぬゆえ」

    男は頷いた。

    「分かりました。では私は、それ以外の室内の確認をさせて頂こうと思います。何か奇妙な点がございましたら、遠慮なくおっしゃって下さい」

    男はそう言うと、室内にそなえられた石造りの台へと近付いた。中は青緑を透いた湧水に満たされており、天井に咲く藤の灯篭が降らす影を、清水に踊る星月夜と歌っている。そこに男が翡翠の鱗をひとひら落とせば、金の波紋が水面に広がると同時に、色とりどりのタツノオトシゴが水中から姿を現した。空へと泳ぎ出した彼らは、やがて主に言われるがまま部屋の四隅へと散った。そのまま何かを探し始める素振りを見せるタツノオトシゴの群れを、ヤヒロは横目で一瞥する。タツノオトシゴはその体躯の小ささや知覚の鋭さから失せ物探しにはよく使役される眷属だ。普通の人間や青海原の眷属では到底入り込むことができない場所も、彼らなら出入りができる。結界の要以外を探すとは、そういった意味合いも込められているのだろう。宙に浮かぶ数多の龍の似姿から、ヤヒロは部屋の中央にそびえる柱へと視線を移した。白龍の彫刻が刻まれた丹塗の柱は、いわばこの治癒の間の支柱であり、結界の要でもあった。そして今は花浅葱の香が最も強く輪郭を保ち、毒に塗れた影を広げる場と化している。ヤヒロは柱へと歩を進めた。指を伸ばせば煌めく螺鈿の龍に触れる距離まできたところで、耳が砂利の軋むような音を拾った。ヤヒロは床へと視線を落とす。黒漆の沓を今しがた踏みしめていた場所から退(の)ければ、檜造りの床に鱗粉めいた細末(さいまつ)が散る。ヤヒロは床に片膝を付き、人差し指でなぞるようにそれを掬った。
    呪布を巻いた指先で鈍く光る細末は、実に奇妙な代物だった。一見すると砕かれた黒炭の残骸のようにしか見えないが、灯篭の光にかざせば深緑の光沢を帯びて眼(まなこ)にちらつく。試しに人差し指と親指を軽くこすり合わせれば、それは指先の間からいとも簡単に崩れ落ちた。赤錆びた鉄の砂礫のようなざらついた感触に、ヤヒロは眉をひそめる。

    (……これは)

    異形の金の瞳の奥で、封じられていた翠玉が再び砕け散る。
    嘲りを孕んだ哄笑が脳裏に蘇り、群青の影に夥しい血の軌跡を残していく。



    時は黄昏から夜へと移り変わる。茜色に煌めく山吹は西陽の彼方へと消え去り、代わりに淡紅の端を引く群青が、竜宮に夜の帳を降ろし始めていた。海幸の宮は闇の中でより鮮らかな緋を浮き立たせ、山幸の宮は仄白い輪郭を影に隠す。宵闇に淡く透ける月が海上に夕凪を誘うこの時刻は、青海原の全てが真昼の華やかさとは異なる姿を見せる。それは錦の森も例外ではない。巨大な桜色の珊瑚樹は夜の気配に輪郭を潜め、代わりに銀の泡沫のみを静かに漂わせている。入り口に添えられた一対の松明のみが煌々と明るく、沈黙に佇む磯巾着と海藻を照らし出していた。
    少女は眠りに抱かれつつある森への道を急ぎながら、片手に持った鉄の籠を一瞥した。目的は達したのだ。あとはこれを送り届ければいい。薄茶の沓が地を踏みしめる。裳裾に白砂が煙り立つ。やや荒い息遣いが視界を揺らすが、それでも眼差しだけは前を見据えていた。しばらく歩を進め、ようやく錦の森の松明の光が見えてきた時、少女は安堵のあまり籠を持つ手を一瞬緩めそうになった。だがその近くに人影が見えたことにより、少女の指は再び籠の柄をきつく握り直す。背の高い男だ。群青の衣を纏い、芯の通った首筋からは金の首飾りを下げている。松明の火に爛々と光って見えるその切れ長の瞳に、少女は見覚えがあった。山幸の宮の側付きの侍従だ。彼とは幾度か廊ですれ違った程度だが、あのような剣の眼光を持つ者は他にいない。彼がここにいることに事態の暗雲を悟ったが、今更来た道を戻ることなど出来なかった。歩を進める場所はすでに前にしかない。それが例え、奈落に棲まう幽鬼へと至る道だとしても。
    少女は身の体裁を整え、息を深く吸った。焦燥が表に出ないように足の運びを緩やかにして、錦の森の入り口へと近付く。そうして松明の火のもとで佇む侍従に略式の礼をし、彼の脇を通り過ぎようとした時だった。涼やかだか低い男の声が宵闇を貫き、少女の耳を穿つ。

    「失礼」

    小さく息を呑んだのを見透かされていないよう願いながら、少女は声のした方向を振り向いた。視線の先にはやはりこちらを見ている男の姿があった。今日は魔祓いの頭巾を纏ってはいないがゆえに、彼の浮かべている表情がよく分かる。緩やかな弧を唇に描いている様は確かに微笑と呼ぶもののはずだが、自らに向けられる剣の眼差しが、その定義の輪郭を揺るがせる。少女は顔が引きつらないよう努めながら、側付きの顔を見上げた。

    「……私に、何か御用でしょうか」
    「ええ」

    清流のせせらぎのように穏やかな声が、男の口から言葉を紡ぐ。

    「山幸の宮様がご寵愛されている、アカボシクラゲのムツハナ様とシラフネ様の行方が知れないのです。ゆえにこうして、道行く方にお尋ねしているのですが」

    鏡の破片に似た水泡が、側付きの足下から立ち昇る。ごぼりという濁った音が、眠りから醒めた巨魚の影を少女の眼へと落とす。

    「何かご存知ではいらっしゃいませんか」

    少女は喉に言葉がつかえるのを感じた。男の視線に生身の心を晒さぬよう、視線をそらしながら声を絞り出す。

    「そう……ですか。申し訳ありません。私は、存じ上げません」

    鉄の籠の柄を持つ手に汗が滲む。早鐘を打つ心臓に呼応するかのように、籠の中身が身動ぎをする。お願いだから割れないで。願う神などいないにも関わらず、空の神籬(ひむろぎ)に縋りそうになる。必死で偽りを知らぬ無垢の仮面を表情に引き寄せる少女に、側付きは言った。

    「さようでございますか」

    少女は頷く。

    「ええ。お役に立てず申し訳ございません」
    「いえ。ご協力に感謝致します。……時に」

    男の目が細められる。少女が別れの辞を述べるより先に、側付きはゆっくりと言葉を紡いだ。

    「花浅葱の香が良く似合っておいでですね。浅緋(うすきひ)の衣とあいまって、射干玉(ぬばたま)の夜も醒めるかのようだ」

    少女は目を見開いた。身を翻さんと半歩後ろに下げていた片足が、白砂の上で凍りつく。

    「……え?」

    掠れた声音が唇から零れ落ちる。再び視線を合わせた側付きは、相変わらず微笑を浮かべていた。それがひどく不気味なものに思え、纏った仮面に怯えの罅が入りそうになる。少女は息を吸った。袖の袂から溢れる蝋梅の花が、震えまいとする声に波紋を描く。

    「失礼ですが、何ぞ思い違いをされているのではないでしょうか。どうして私のような婢(はしため)風情が、海幸の宮の高貴なる方々が纏われる香を、身に焚くことを許されましょう」

    側付きは褪せぬ薄藍の涼やかさで応えた。

    「なるほど。確かに花浅葱の香そのものは、龍の血を引く尊き御方の側にお仕えする采女の方のみが身に纏うことの出来る代物。ですが、良く似た香を発するものが他にあるとしたら。そう、例うるならば」

    側付きは一拍間を置いた。深くなる夜の群青に、松明の炎が揺らめく。

    「オニイソメの血の細末などは如何でしょうか」

    低い男の声音にざわめき立つように、闇に呑まれた森の奥から生暖かい風が吹き渡る。思わず息を詰まらせた少女の前で、側付きは言葉を続けた。

    「オニイソメの血は元来青い。だが月の光のもとで乾かせば、深緑を帯びた黒へと変わる。そして何も手を加えなければ香りなどしないが」

    側付きは懐から小さな袋を取り出した。亀甲花紋の刺繍が施された純白のそれには、銀の組紐が八重結びにされている。側付きが結われた紐を解けば、純白の袋は瞬く間に四方の布と化して、彼の手の平に広がった。柔らかな錦糸の光沢に座しているのは、深緑を帯びた黒い粉末だ。見間違えようはずもない。弾ける火花に毒々しく艶めく粉末は、紛れもなくオニイソメの血の細末だった。側付きはそれを人差し指に掬い上げると、揺らめく松明の炎へと翳した。ほどなくして、花浅葱に限りなく近い香りが辺りに漂い始める。

    「……このように、火にかざせば花浅葱の香に良く似たものとなる。それこそ本物の香と惑わすほどに」

    側付きはそう言い終えると、粉末を払うように、親指の腹を人差し指にこすり合わせた。呪布を巻いていなければとうに焼け爛れているであろう指の間を、ざらついた血の成れの果てが落ちていく。少女は一連の流れに絶句していたが、横目で視線をこちらに流す側付きに気付き、何とか口を開いた。

    「お……お戯れを。第一それは、オニイソメに傷を与えることでしか得ることのできない禁忌の品。安易に手に入れられるようなものでは」

    そこまで言いかけた少女は、うなじの毛が逆立つのを感じた。松明の火に照らし出された男の瞳が、一瞬異形のように見えたのだ。眼の色が常人の黒から魔性の金に変わったわけでも、瞳孔の形が白刃の如く縦に細くなったわけでもない。ただ、彼の唇に乗せられた微笑の形が、果たして本当に人間のそれかと疑うほどの何かがあった。その輪郭の名は少女にはわからない。恐ろしいという感情だけが、心に突き上がるのみだった。綴るはずだった言葉を取り落とし、自らの影の中で立ち竦む少女に対し、側付きは再び口を開く。

    「先日、血にまみれたオニイソメが我が君へ届けられました。幸い尊き御身に害が及ぶことはなかったのですが、かの御方はオニイソメの有様にたいそう心を痛められ、叶うのならばこれを救ってほしいと仰られました」

    側付きは静かな声色で語り続けた。

    「ゆえに私は、かのオニイソメの治癒に当たったのですが……その体に目立ったのは、急所の近くに唯一つ付けられた刺し傷と、それを囲うように付けられた数多の切り傷でした」

    蝋梅の淡黄が蟲の紺青で汚れる。血を凍りつかせた少女の心の水面が、赤黒く染まり咎を映す。

    「単に嬲るためならば、すぐさま殺めることのないように、急所から最も遠い箇所から傷を付けていくはず。だがオニイソメが身に負っていた傷は、切り落とされた歩脚も含めて、全て急所の近くにあった。ゆえに切り傷は嬲る際に出来たものではない。傷口の様子からしても、急所に刃を突き立てんとしたが、幾度か失敗したために出来た代物と考えた方が話が通る」

    慄く瞳の中で、青い飛沫に染まった花がぐしゃりと潰れる。崩壊した花弁は赤黒い水面に触れ、切り刻まれた蟲の体と化して少女の足元を転がり落ちる。肉を裂かれた紺青の悲鳴が身を這い登り、少女は思わず耳を塞ぎたくなった。血に塗れた両手を震わせ、今にも地に膝を着いてしまいそうな少女を前に、側付きの瞳は白刃の光を帯びる。

    「傷を与えたのは、日頃刃物の扱いに長けた者でも、オニイソメを押さえつけられる程の剛の者でもない。加えてあの蟲は山幸の宮に届けられた後でも、私の腕を断ち落とさんと顎を閃かせたほどでした。斬りつけている最中であれば、相当に暴れたはずだ。だからこそ直ぐに止めを刺せず、代わりに数多の切り傷ができた。そしておそらく、あの血の量であれば、いくばくかの返り血も浴びたはず」

    少女は唾を飲んだ。無垢の仮面が白刃の元に裂け、ただの醜い傷口と化したのを感じ取る。それでも少女は最後まで、仮面が存在するふりをする他なかった。少女の掠れた声音が、舌先に色褪せた言葉を手繰り寄せる。

    「それが……それが私に、何の関係が……」
    「先程あなたは、オニイソメの血を禁忌の代物と仰られました。表向きは、綿津見御神が竜宮の守護蟲と見定めた神聖なる存在を穢すなど恐れ多いとされたため。だが真の理由は」

    男の声色が低くなる。それまで清水の涼やかさを帯びていた薄藍が、暗渠へ滴る群青へと変わる。

    「オニイソメの血が幻を見せるがゆえだ」

    紡がれた言葉が薄氷の刃と化し、喉を斬られた心地がした。松明の火が大きく揺らぎ、瞠目する少女を闇に蝕む。

    「正しくは、先程のように乾燥させて火に翳した物のみだが。あれは少量でも身に纏えば、自らの念じた姿に変ずることが出来る。相手に吹きかければ、望んだ事柄をその者に見せることが出来る。巫女に姿を変じ、呪術用の薬を受け取る幻を見せ、二匹のアカボシクラゲを攫う事など容易いほどに」

    少女の呼吸が浅くなる。時を稼ぐために見せた幻が、竜宮に存在しない巫女の名を暴きたて、己の首を締め上げていることを知る。もはや怯えを隠しきれない少女を前に、側付きの言葉は途切れることなく続いた。

    「だがその反面、流れる血に触れた者の肌は怨嗟に爛れ、かの蟲の憎悪に特異な痣を疼かせる。ここへ至る前に、采女部(うねめのべ)に足を運びましたが。あなたが数日前から酷い火傷を負ったと、皆口を揃えて仰っていました。ゆえに宮様の部屋に出入りする以外でも、腕に呪布を巻かねばならぬとも」

    男は笑みを深くした。いや、凄絶な眼光を帯びたそれは、やはり人間の微笑などではなかった。先程まで男の唇に描かれていた完璧な孤は、少女を囲う異形の疑似餌でしかなかったのだと、寒気と共に今更悟る。

    「失礼ですが。その腕に巻かれた呪布の下と、お持ちになっている籠の中身を見せて頂けますか。山幸の宮采女部属、白鈴殿」

    もはやそこから先は肉声にすることが出来なかった。唇をわななかせながら白鈴が一歩後ろに下がれば、顔色を全く変えない男も、一歩前へと足を踏み出す。逃げ場のない少女をいたぶることを目的としているわけでもない。心中を染める憤怒が偽りの表情を超え、仕草に滲み出て入るわけでもない。ただ人間の感情で測れぬ何かが、人間の皮を被ったまま、彼女の願いを阻もうとこちらへ歩を進めて来るようだった。その様にまた恐怖の波が心に打ち寄せ、知らぬ内に足がもつれてよろける。気がついた時にはすでに遅く、白鈴は背後に倒れこむような形で転倒した。反転した天と地の狭間を呪布の留め具が弾け飛び、解けた真白の布が宙を舞う。その下から露わになった肌には、腕に纏わり付くゴカイの痣が浮き上がっていた。まるで血肉を抉られた蟲の呪いが、少女の罪業を刻んだかのように。

    「あ……」

    擦りむいた手のひらに砂利が食い込む。恐怖と絶望に軋む心は、こちらへ近づいて来た男が怨嗟に爛れた腕を掴み上げても、瞳に焼印を施すように、その様を見つめることしか許さなかった。黒い沓が地に落ちた呪布を踏み、笑みを模す表情を削ぎ落とした声が辺りに響く。

    「やはりか。おおかた結界を解くのにアカボシクラゲの毒を用いたのだろうと思ったが、その残りで己の痣を消そうとするとは」

    凍風の声音に呼応するかのように、痣の所々に付着した針状の白い結晶が煌めいた。アカボシクラゲが産み出す毒には、あらゆる呪術を解く力がある。故に、治癒の間の結界を一時的に解くのに使った残りで痣を消せはしないかと、白鈴は縋るような心持ちで腕に結晶を添えていたのだ。だがそのような彼女の考えを、目の前の男は冷酷に一蹴する。

    「愚かな。呪(まじな)いはアカボシクラゲの毒で消せようが、呪(のろ)いを葬り去れるはずもない。死に瀕した怨嗟による呪詛ならば尚更だ。蟲であろうと人間であろうと、一度濁った魂は二度と元には戻らん」

    淡々とした声音に反して、腕を掴む力が強くなる。白鈴は狂乱した。
    身をよじり、後ろ手に這ってでも男を振り解こうと力の限り声を上げる。

    「は……離して!離して下さい!山幸の宮様の御側付きともあろう方が、女人に手を上げるのですか」
    「何を言っている」

    研がれた刃が白鈴の言葉を斬り捨てる。その眼光の鋭さに、意図せず漏らした小さな悲鳴が、異形の棲まう闇に呑まれて消える。

    「雌雄の性など、己(おの)が種族を残すための差異であり、可能性であり、そしてあくまでも手段でしかない。それはお前たちも同じ事だ。男か女のどちらに属そうと、人間は人間以外の何者でもない」

    男は目を細めた。

    「お前は我が君へ害を為さんとした人間だ。私が捕縛する理由など、それで事足りる。むしろお前が女人という理由で見逃すことこそ、火遠理姫様の側付きとして恥と思うが」

    群青の声音で言い放たれた言葉に、少女の抵抗は全て剣の瞳の中で凍りつく。闇に揺らめく松明の炎だけが煌々と側付きと少女を照らし、火の粉の最中に真実の断片を映えさせる。男は再び口を開いた。

    「……さて。わざわざ血に塗れたオニイソメを山幸の宮へ届けたことも、まだ解呪の力が弱い幼体とは言え、姫様のアカボシクラゲを攫おうとした理由も、全て察しがつく」

    言うやいなや、側付きは腕を掴んだまま、白鈴の元に片膝をついた。そのまま硬直している少女の瞳を真正面から見つめ、彼女の生身の心に刃を突き立てる。そうして剣の眼光から身を逸らす間も無く発された声に、白鈴は慄然とする。

    「お前、あれの手の者だな」

    それは今までとは異なる、地を這うような低い声音だった。天を裂く紫電のごとき苛烈な殺意と、奈落の底の魍魎を倦(う)む凄絶な嫌悪が侵し合う、暗澹とした深い群青。禍々しいその色合いが、男の肉声が語らない名を黒々と白鈴に指し示す。

    「それ、は」

    恐怖にひきつれた喉が、ひゅうと笛の一節に似て鳴る。言えない。言ってはいけない。頭の中に響き渡る理性がそう囁き、蟲の残骸が転がる水面をかき乱す。少女は乾いた舌を動かそうとした。約束を守るために、願いを叶えるために、男への偽りを重ねようとした、筈だった。不意に土器が罅割れるような音が身の内から響き渡り、浅緋を伝わぬ虚言の糸は、少女の腹の中で断ち落とされる。

    「え?」

    唇を割って這い出たのは、簡素な驚きの音色だった。白鈴は自由な方の腕で、恐る恐る音が聞こえた部位に触れる。胸。首。次いで顔。ほどなくして目の下に触れ、ゆっくりと指を離した時、白鈴は目尻を引き裂かんばかりに目を見開いた。指に付着していたのは血ではない。わずかにざらつく鈍色の灰だった。白鈴の瞳が揺れる。浅緋の花が色をなくす。顔面に入った罅が深くなり、わななく唇を狂気が赤黒く染め上げる。

    「い……いや……まだ、まだ死にたくない……」

    震える声で幼子のように首を振ったが、一度顔から全身へと広がった罅は止まることを知らなかった。少女は絶叫する。ああ。崩壊していく肉体から歌が聴こえる。そうだ。笑い声の混じった翠玉の歌が聴こえる。今度こそあの人と。女の泣き叫ぶ声が耳を焼く。あの男ではなく、あの人と。脈動する胎児。ただ一人の、私の。畏怖と侮蔑の混ざった眼差し。私。鮮血と臓物に塗れた紅珊瑚。私は。折れた破魔矢。私は。殺す。わたしは。殺してやる。わたしは。殺してやる、殺してやる、殺してやる。わたしは、わたしは、わたし。

    「い、痛い……痛い、痛い……こわい……たすけて!すずしろねえさま、たすけて!」

    激痛が記憶を焼く。悲鳴が自我を剥き出しにする。白鈴は混濁する意識の中で、救いを求めて腕を伸ばした。あの優美な紅の瞳が微笑を浮かべ、いつものように彼女を苦痛から解き放ってくれるのではないかと思った。だがいくらそう願ったところで、手を伸ばした先にあるのは、無表情でこちらを見つめる異形の瞳だった。亀裂の入った腕がもげ、灰を撒き散らしながら地に落ちた時になって、少女は終ぞ己の願いは叶えられないのだと知る。もはや涙は形にすることが出来なかった。
    浅緋の花弁は冷徹な金の瞳に射抜かれながら、風を渡ることなく闇に途絶えた。



    群青の夜空を昇り始めた月が、錦の森の入口で佇むヤヒロの横顔を照らし出す。先程まで采女だったものは灰と化し、身に纏っていた衣服すら欠片も残ってはいなかった。一陣の風に吹かれた灰が宵闇へと消えていく中、ヤヒロは鈍色の残骸に、真紅の組紐で縛(いましめ)られた一房の黒髪を見つける。手のひらに黒を拾い上げてみれば、真紅の組紐は脆く崩れ去り、浅緋の灰燼に滴るように、指の隙間で朽ち果てていった。後に残された異様な程に艶やかな黒髪を見て、ヤヒロは低く呟く。

    「……人形(ヒトガタ)か」

    人形とは、人間を象(かたど)った土塊(つちくれ)に肉体の一部を埋めこむことで、その者の写し身を作り出す古の呪術だ。産み出された人形が生身の人間と見分けがつかないことや、死者の写し身でさえ作り出すことが可能なため、現代の竜宮では禁術とされている。蟲の血に引き続き、あれらしい下賤な真似だとヤヒロは黒髪を冷たく見つめた。それからすぐにオニイソメの血を包んでいた布を取り出し、黒髪を四方の純白で覆い隠す。ほどなくして、男に封じ込まれた禁術の名残は、松明の炎へと投げ入れられた。呪いを食んだ篝火は一瞬血のように赤く染まったが、瞬く間に元の清浄な橙を取り戻す。完全に黒髪が燃え尽きたのを見届けてから、ヤヒロは白砂に落ちた鉄籠に近付いた。かけられていた覆いを払うと、淡黄の光を抱いた一対の海月が宙に座したまま眠っていた。玻璃の月に刃や毒に晒された形跡がないことを確認してから、ヤヒロは静かに鉄籠の柄を持つ。珊瑚から水泡の昇り立つ音以外静寂に満ちた錦の森を、異形の影を長く引きながら、男は一人山幸の宮へと去る。

    後には誰も、残らない。
    ほるん Link Message Mute
    2022/09/01 21:46:47

    鮫愛づる姫君:その五(中編)

    #オリジナル #創作 #少女 #人外

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