慕情は残り香に寄り添うような少女は緩やかに目を開けた。浅葱のインクに満たされたガラスペンが、錆びた義手の合間で淡く西陽を透いている。どうやら思ったより長く眠っていたようだった。軋む上体を埃まみれの机の上に引きずり起こせば、意識を失う前に見ていたものが目に留まる。端が黄ばみはじめた白いページ。所々にインクを散らせている、歪んだ文字の群れ。ああそうだった、前はここまでだったな、と文字に滲んだインク溜まりにぼんやりと思い返した時、不意に声がした。
「何をしているの」
罅割れた壁が押し黙っている室内には、少女以外誰もいない。黄昏の窓辺に添い流れる涼やかな風に、蜉蝣の薄翅のごとき青年の声が、ただ響く。
「キミは、ひとりで何をしているの」
肉を纏わぬ虚の問いに、少女は薄く笑みを浮かべて答えた。
「物語を、書いていたんだよ」
「モノ、ガタリ」
己の持つ色へ紡ぎ難い言葉へ、薄翅の声は不思議そうに留まる。
「ここで人間の匂いは、キミしかしない。人間はボクらと違って、誰かと語らうことを好むと、昔誰かが言っていたけれど」
煤けた白いカーテンが、茜の残光にはためく。
「特に、モノガタリというのは。人間が他の同族の個体に語り継ぐために、興すものだと聞いた。キミは人間なのに、誰にも読まれない物語を書いているの」
少女は笑みを浮かべたまま、静かに答えた。
「読まれないんじゃないんだ。もう誰にも読まれなくなったんだよ」
ペンを置いた義手から錆が散る。そうしてぎこちなく開かれたページが、少女の指先でかさついた音を立てた。
「昔々、魔王と呼ばれた魔族の王を殺した男がいた。その死闘の果てには剣と、剣に付着した男の血だけが残った。人間はその男を勇者と呼び、かの剣を聖剣と崇め、付着していた血から人間を作った。更にそれに魔王の心臓をすり混ぜて、新しい勇者を作ったんだ。いつかまた、新しい魔王が現れた時のために」
伏せた睫毛が、白い頰に淡い影を落とす。
「やがて時は流れて、再び魔王が現れた。私はあいつを、この手で殺した。あっけないくらい、簡単だった」
弧を描いていた唇が歪む。自嘲を透いた模造の三日月が、標本の翅を留め損ねた醜い傷痕と化していく。
「私が人間の体に魔王の心臓を交えて作られたのに対して、あいつは勇者とは言えど、魔族の体に人間の血を交えて作られた。強大な力を手に入れたのは確かだけれど、その分本来の魔族としての寿命を縮めてしまった。私があいつの元にたどり着いた時は、もうすでに……何もかも、限界だったから」
少女は砕いた翅の在り処を確かめるように、義手ではない方の手を握りしめた。
「そして人間の国は平和に……いや、もともと平和だったのが、変わらなかったまま。私は国を離れ、この塔に住まうようになった。もう何百年も昔の、今はただの古びた伝説となった話さ」
しばらくの間、薄翅の声は窓辺から飛び立たなかった。やがて一言だけ、囁くような問いが風にひらめく。
「人間たちは、キミを国にとどめようとはしなかったの」
「うん。あいつのことを忘れるなら人間として暮らしていいって言われたけど、私はあいつのことを、忘れたくなかったから」
部屋に射す落陽の彼方に、少女は彼のことを思い出す。破れた袋から砂が零れていくような肉体を抱えながら、誰もいない廃墟に繋がれていた彼を。少女の歌をそっと真似るように、己の声に詩の調べを昇らせた彼を。人間の文字をなぞりながら、魔族の骨に視線を落としていた彼を。剣の柄を少女に握らせた時、静かに少女の手に己の手を重ねた彼を。宿命の相手を、この世でただ一人の同胞の願いを、窓辺から羽ばたかせるように言葉を紡ぐ。
「永遠が、ただずっと続く時間ではなく。また巡り会えるという意味になり得るなら、それは物語に記すことだと思ったから」
少女は強く眦を塞いだ。
「物語は、最後まで目にする者のそばにいてくれる。どんなに色褪せても、心が折れて誇りをなくしても、ぐちゃぐちゃに原型をとどめなくなったって。その扉をひらけば、私がなんだったのか、彼が誰だったのか。確かにあった、大事なものを。またこうして、私に巡り会わせてくれる」
少女は瞳を開く。そうして刻まれた文字を薄翅の声に透いた本を、義手の手のひらで優しく撫でた。
「……ありがとう。ずっと一緒にいてくれて。君は彼の記憶が宿っていたとしても、彼の声で話してくれても、君は彼じゃない。でも、君がいてくれるから。私はきっと、あのひとのことを最期まで覚えていられる」
浅葱の文字が夕暮れに煌めく。涼やかな風にカーテンが舞い上がり、錆びた義手を包んでいく。
二度とは触れられぬ面影を前に、少女は柔らかく微笑んだ。