三千世界の鴉を殺し もしあの時、俺が本当にドラ公を殺していたら、どうなっていたのだろう。
ちょっとしたことですぐ死ぬあいつ。その度大騒ぎするあいつの親父。あいつの周りにはたくさんの家族親族がいて、ちょっとびっくりするくらいあいつは皆から愛されている。ドラ公の塵に縋りついて泣く親父さんを見た時、「目に入れても痛くないくらい」というのはこういう事かと理解した。愛されて愛されて、飽和するくらい愛されて、輪の中で笑っているあいつ。そんなあいつを、俺は初めて会ったあの日、殺そうとした。
真祖にして無敵、と聞いていた。だから何があってもおかしくないと、あの日は本気で殺す気でかかった。弾は麻酔弾ではなく銀の実弾だったし、聖油も十字架も用意していた。結局、使う機会はなかったのだけれど。
すぐ死ぬ吸血鬼はすぐ復活してまたすぐ死ぬ。城の崩壊後、放っておけば朝日に当たって死ぬであろうあいつを、俺は放置して帰った。その時にはあいつがそんな邪悪な存在ではないと薄々気づいていたのだが、あえて見ない振りをした。別に良い。死んだって。あいつは吸血鬼なのだから。
しかし意外なことにあいつは一命を取り留め、何故か俺の家に居つき、そして何故か今俺の腕の中で静かに寝息を立てている。
どうしてこうなった。
「……ろなるどくん?」
寝ぼけ眼でドラ公が俺を見上げる。悪い、起こしたか? と小声で聞くと、んーんと小さく返事をして、ドラ公は俺の胸元に額をぐりぐり押し付けた。
「もうあさ?」
「まだ。寝てろ」
「んー」
遮光カーテンを閉め切っているから、この部屋に朝日は差さない。付き合い始めてしばらく経って、じゃあ一緒に寝ようか、となったあの日に購入を決めた。生活リズムが違うから、一緒に寝られる時間はごく僅かだけれど、その僅かを少しでも伸ばしたい、なんて。
背中をとんとんと叩いてやると、ドラ公はまた静かに寝息を立て始めた。呼吸に合わせて背中が小さく動く。薄い身体越しに鼓動を感じる。生きているな、と思う。
あの時の俺は、知らなかった。こいつがあんなにも愛されていることを。こいつがこんなにも、愛しいということを。
もしあの日、俺がドラ公を本当に殺していたら。今でこそ友好? なドラ公の親父も、お袋さんもお師匠さんも祖父さんも、皆が皆、俺の、いや俺たち人間の敵になっていたかもしれない。ドラ公と違い、本当に強大な力を持つ一族。束になってかかってきても負けやしない、と昔の俺ならそう思っていた。しかし今なら分かる。絶対に勝てない。彼らがもし纏めて人類の敵になったとしたら――想像して、背筋が震えた。何に? 人類の危機に。いやそれよりも――
「……寝られない?」
いつの間にか起きていたドラ公が、とろんとした目で俺を見上げた。そうだ、こいつはこんな目をするんだ。あの日の俺は、知らなかった。
吸血鬼だから、退治依頼を貰ったからと、あの日の俺は深く考えずにお前を殺しに向かった。一方の意見だけを聞いて、勝手にお前が悪だと決めつけて、想像力に蓋をして銃に銀弾を詰めた。
「いや……うん、ちょっと考え事してて」
「考え事?」
「……寝てろよ」
「目、覚めちゃった」
「そうかよ」
さっきよりもくっきりとした目で、ドラ公が俺を見つめる。あの日の俺が知らない、よく見ると赤く綺麗な小さな瞳で。
「何考えてた?」
好奇心を宿した視線に耐え切れず、誤魔化す様にぎゅっと抱き締め髪をわしわしと撫でると、ドラ公はくふふと小さな声で笑った。
「おい、誤魔化すな。どうせまたろくでもないこと考えてたんだろ」
「ろくでもないこと、って何だよ」
「思い詰めたような顔しちゃって。ほらこの優しいドラドラちゃんが聞いてやるから」
そう言ってまた見上げて来るドラ公。瞳に宿っているのは好奇心だけじゃなくて、なんというか、愛とか、慈しみとか、そういうのを感じる。これもあの日の俺なら知り得なかった事だ。
「……初めて会った日、もし俺がお前のこと本当に殺してたらさ」
「うん」
「大変な事になってただろうなって。ほら、お前家族に愛されてんじゃん」
「可愛い可愛い私だからな、当然だ」
「……そんな可愛いお前をさ、俺は殺そうとした訳で。そんな事したらさ、当然恨まれるじゃん」
「そりゃあな。人類VS吸血鬼みたいになっていたかもしれないな」
「……やっぱりそう思う?」
ドラ公は黙って俺を見つめた。しんと静まり返った部屋の中、言葉を探して目を泳がせる。ドラ公は、出て来る言葉をじっと待つ。
「……それって、すげえ怖いことだなって、思って。俺、一歩間違えてたら大勢の人を危険に晒してたかもしれないって」
「退治人失格だなって?」
「……そうなんだよ。俺、だって、そこまで考えて、大勢の人の事より、お前のこと、考えちまって」
「……」
「吸血鬼と、人間が、分断された世界のこと考えて……だから、そうならなくてよかったなって、思わないといけないんだけどさ」
「……」
「……お前の事殺さなくて良かった、って思うのはさ、そう言う理由じゃなきゃいけないのに。違うんだよ、俺、もしあの時殺してたら、お前は今、ここにいない訳で」
「……そりゃそうだろうが」
「なんか俺、自分のことばっかり、考えてるっていうか」
「……」
「……」
「……私のこと、好き?」
「……うん」
小さく頷くと、ドラ公は俺の背に両手を回して、あやす様にとんとんと叩いた。
「馬鹿だなぁ」
「……馬鹿って言うなよ」
「たられば程、考えて無駄な事はないと思うがね」
「でも考えちまうのが人間なんだよ」
「減らず口だな。塞ぐか?」
「塞いで」
そう言うと、ドラ公はちょっと驚いたような顔をして、すぐ俺の唇に唇を重ねた。
「……」
「……思わないといけないとか、ないんだよ」
「……」
「いくら守る対象とは言え、その事ばかりを考える必要はないと思うがね」
「……でも俺、自分のことばっか」
「そうは思わないが。だって、君が今考えているのは、私と君のことだろう?」
「……」
「殺さなくてよかった、と思うのは、もちろん君の都合もある。でもそれだけじゃないだろう」
「そ、れは、当たり前だろ。だってお前だって、死ぬのは、永遠にいなくなるのは、嫌だろうし。でもそんな、殺そうとした側が、考えるのはおかしいっつーか、でも俺は、お前に居て欲しくて、それで、」
その先は、上手く言葉にならなかった。ドラ公の骨ばった手が、俺の背中をそっと撫でさする。
「そこに私がいるんだ」
「……どういう意味?」
「馬鹿だな」
「馬鹿って言うなよ」
「お人よしが過ぎるな、君は」
「……今の会話の、どこで」
「何もわかってないなぁ。まだまだ子供だ」
「うるせーな」
ドラ公の手が、背中を撫でる。何度も、何度も。
「カーテン、買ってくれたじゃない」
「……なんだよ、急に」
「一緒に朝寝がしたいって言ったら、二つ返事でさ」
「……それは、だって、俺もそうだし……」
「オーブン買ってくれたじゃない」
「それは、俺もお菓子とか、食べたいからで」
「でも私が言ったから、買ってくれたんでしょ」
「……」
「自分のことばかりじゃないんだ、そこに私がいる」
そう言うと、ドラ公は俺をそっと抱き締めた。言葉の意味は、よくわからなかった。
「朝はまだ来ないよ。ほら、目を閉じて」
霞む視界。遠のいてく意識。引き戻されるように、朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえた。ドラ公は両手を伸ばして、そっと、俺の耳を塞いだ。