イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    【7/13新刊】Dear


     目が覚めると、人の顔のようにも見える木目の天井を眺めて毎朝考える。自分はどうしてこんなところにいるのだろう。何もかもの環境が変わり、痛みと責任を伴うこの場所に、どうして来てしまったのだろう。
     そうしてほんの少し痛み始めた鳩尾を押さえて村雲は起き上がった。なんだかおかしい。首を回して周囲を見渡す、自分の部屋ではない。そこでやっと村雲は今が朝ではないことを思い出した。出陣して、負傷して手入れ部屋に担ぎ込まれた。頭を強打して昏倒しかけたので、記憶があやふやになっている。手を開いたり閉じたりしてみた。身体の傷は治っている。しかし起きてすぐに覚え始めた腹痛はすぐには治まりそうになかった。とはいえこれはいつものこと。村雲は軽く息を吐いた。手入れにどのくらいの時間がかかったかわからない。
     けれど布団の上でぼんやりしていると、襖の向こうから微かに声が聞こえてくることに村雲は気づいた。細く高い、小さなそれは男性のものではない。ということはこの場所で唯一の女性である審神者のものだろう。村雲はのろのろと立ち上がり静かに襖を開ける。すると縁側に腰を下ろした彼女の背中が見えた。今手入れ部屋に入っているのは村雲だけのようだ。つまり彼女は村雲の手入れが終わるのを待っていたということになる。近侍でもなく、そこまで彼女と親しいわけでもない村雲は少々それにたじろいた。どう声をかけたらいいかわからなかったのだ。だからただ黙ってじっとして、彼女の小さな声に耳を澄ませた。なにか歌のようだった。
     日が傾き、薄紅に染まった空。微かに聞こえる柔らかな歌声。だがそれと対照的に何処か遠くを見つめる彼女の横顔に村雲は目を奪われた。普段彼女と二人で接することはほぼない村雲は、初めてまじまじと彼女の顔を見た。
     そんな村雲の視線でこちらに気づいたのか、彼女の瞳が動いてちらりと村雲を見る。息を潜めていた村雲はどきりとしてやや下がった。
    「手入れ終わった?」
     先程の歌声とは違う、はっきりした調子で彼女は言った。村雲はそれに答えようとして、うまく声が出せずにただ首を縦に振る。すると彼女は「そう」と簡潔に返した。
    「もう二度と、無茶な進軍、しちゃだめだよ」
     こちらを振り返り、しっかりした声で釘を刺すように告げた彼女は先程と全く違う表情をしている。村雲はコクコクとただ同じように首を動かした。
     その間もずっと、彼女の横顔は村雲の頭から離れなかった。いつの間にか鳩尾の痛みは消えている。



    「主のことが知りたい?」
    「あっ、ちょ、ちょっと声、落として、お願い」
     片眉を上げて言った松井に、村雲は慌てて頼んだ。キュッと痛んだ鳩尾を押さえる。昼下がりの江のものの部屋には松井だけが在室していた。あらかたの当番を終えた松井は村雲同様楽な服に着替えており、夕飯までの時間を各々自由に寛いで過ごそうとしていたところだったらしい。手には本を持っている。
    「陰でこそこそ聞くのはどうかと僕は思うけど」
     松井の至極真っ当な指摘に村雲はウッと言葉を詰まらせた。それはご尤もで、村雲だって可能であればこんなコ風に嗅ぎまわるようなことしたくないのだが、これは仕方がない。
    「でも、俺は全然、主と接点ないから……」
     村雲江は、この本丸で取るに足らない刀剣男士である……と村雲自身はそう思っている。国宝や希少な価値を持つ刀剣たちが名を連ねるこの場所で、村雲には特に大きな武勲があるわけでもなく、有名な逸話を持つわけでもなければ、特別秀でた何かがあるわけでもない。だから言ってしまえば、自分は万が一何かあったとしても他にいくらでも代わりのいるような存在なのだ……と村雲は勝手に思い込んでいる。ちなみに本当は全くそんなことはない。少なくとも芸術品的な見地から見ても江の重要文化財は代わりはきかない。村雲からしてみればそう捉えていないというだけだ。
     とにもかくにも本丸内に在籍する刀剣は今や百を超え、その中で特段何か役割や能力のあるわけでもない村雲は彼女と親しくなるための理由がない。もちろん顔を合わせれば挨拶くらいする。彼女の方も村雲を避けたりなんだりは当然しない。だが言ってしまえばそれだけだ。夜戦などで彼女と生活の時間帯がすれ違ってしまえば、今は一日も口を利かない日だってある。それはそのくらいこの本丸の戦力や刃員が充実しているということなのだから、良いことには違いないのだが……。
    「直接聞けるほど親しくないって言いたいんだね」
     小さく肩を竦め、松井は村雲が思っていた通りのことを言う。きまり悪い村雲はやや体を縮めつつそれでも頷いた。
    「う、まあ、そう……でもほら、松井は事務方を手伝ってるし、俺よりは早くに顕現してるから」
    「そうは言っても主は事務方にしょっちゅう来るわけでもないし、村雲と五十歩百歩だと思うよ。それにどうせ聞くなら僕より適任、いるんじゃないか」
     さらに御尤もな松井の言に村雲は閉口した。一応言及しておくと松井は決して村雲に意地悪をしているわけではない。事実として彼女のことを聞くのに一番最適な相手が村雲の身近にはいるからである。
    「どうして近侍の豊前に聞かないんだい」
     うぐ、と村雲は俯いた。そう言われると思っていた。思っていたが松井に聞いたのだ。
     理由は知らないけれど、彼女の近侍は村雲が顕現したとき既に豊前江だった。ちなみに始まりの一振は加州清光で、彼は近侍ではないがいつも何かしらの意見を彼女に求められているところを見る。何も聞かなくても、彼女から加州への信頼が厚いことはよくわかった。だが豊前は……さっぱりわからない。近侍をやれていない、という風ではない。しかし豊前が彼女と反りが合う性格なのかと聞かれたら、それはなんとなく違う気がする。
     村雲から見て豊前と彼女は特別親しいという風には見えない。けれどそれなりに長い間近侍を務めて側に控えているのは確かなのだから、なにか関係性や絆みたいなものがあるのだと思う。でもなぜだか村雲はそれを聞いたり見たりするのがなんとなく怖かった。
    「ほら、噂をすれば」
    「うわっ!」
    「ん? どうしたんだよ」
     村雲がビャッと肩を跳ね上げて飛びのけば、後ろから白い歯をのぞかせた豊前が笑う。ドッドッドと心臓がすごい音を立てていた。豊前は近侍で、日中この江の共同部屋にいることは殆どないから油断していた。まさかこんなときに顔を出すとは。
     しかもどうしてだか豊前は特に何かを探したりする風ではなかった。私室ではない共同部屋に来たのに松井に話しかけるような様子もなく、小首を傾げて村雲を覗き込んだ。
    「どうした村雲、すげえ顔だぞ」
    「えっ、いっ、いや、なんでも、なくて、うっ」
     そこまで言ったところで後ろから松井に背中を小突かれた。やはり自分で聞けということらしい。まあ村雲だってわかっている。松井の言うようにこそこそ陰で聞いたところで、後々彼女にそれがばれてしまったら最終的に困るのは村雲自身だ。とはいえ、直接彼女を訪ねていくような度胸はなく……。
    「ご、ご趣味は……?」
     結局、村雲はおずおずと豊前に尋ねた。松井が顔をしかめたのがわかる。一方の豊前は相変わらず爽やかな表情のまま首を傾げた。
    「俺か? やっぱり走ることだなー」
    「違うだろう……」
     はあとため息を付き、顔に手をやった松井が左右に首を振る。きゅっと村雲の鳩尾が痛んだ。
    「豊前、村雲は君のじゃなくて、主の趣味が知りたいんだ」
    「主の? なんで俺に聞くんだ?」
     悪意のない純粋な豊前の問いにますます村雲の胃がキリキリする。その通りなのがなお辛い。
     だが豊前はそんなの気にもせず「まあいいか」とすぐにその話題に興味をなくしたようだった。
    「よくわかんねーけど、主の趣味が気になるなら自分で聞くといーぜ。ちょうど今村雲のこと呼んでこいって言われたからさ、行ってこいよ」
    「えっ、俺っ、なんで」
     ヒュッと喉が変な音を立て、顔から血の気が引いたのがわかった。どうして今。何故自分。先程に増して泡を食った様子の村雲を余所に、豊前はなんでもない調子で笑って続ける。
    「この間お前が無理したからだろ? 主そーいうのしっかり叱るからな、まあ説教だろ。けどずるずるぐちぐち言うのも好きじゃねーからすぐ終わるって。あんま気にせず行ってこいよ」
     な、と背中のど真ん中を叩かれる。パンパンと乾いた音は軽やかだったけれど、村雲の気持ちはどんどん下を向いて行った。怒られるのも嫌だし、そんなことで呼び出されるのも気が進まないが、それ以上に豊前の彼女の考えをきちんと理解している言葉が村雲の気分を下降させた。豊前には他意がなく、ただ村雲を落ち着かせようとしていることはわかっていたけれど。
    「まあ、良い機会だよ。村雲もわかってる通り主は忙しいし、ここは刀剣男士も多いから僕ら一振一振にかけられる時間は限られてる。せっかくだからお説教をもらうついでに普通に話してきたらいい。話したいって相手を無碍にする人じゃないと思うよ、主は」
     村雲が思い詰めているのがわかったのか、松井もそう言って励ましてくれる。だが、村雲は曖昧に頷くことしかできなかった。
     待たせて余計に叱られるのは避けたい。気が進まないながらも村雲は立ち上がり、とぼとぼと部屋を出る。特に場所を指定されなかったので、村雲は足を執務室に向けた。本丸の母屋は今殆ど刀剣男士の居住空間になっている。口数が増え始めた時点で増改築は繰り返したと聞いたが、それでも刀剣男士だけで百振を超えているのが現状。個室だけではなく各刀派や馴染みの刀で集まれる部屋など場所を取った結果、彼女の私的な空間は離れに移動することになった。だから彼女は今離れで寝起きして、日中は執務室にいることが多い。
     摺り足で廊下を進むと、執務室は襖がすっかり開け放ってある。大抵はそうなので、今日が普段と違うというわけではないのだが村雲は緊張してその場で深呼吸した。襖から顔を出す前に、一声かけようと口を開く。
    「あの……」
    「入って」
     たった一言だったけれど、彼女のてきぱきとした物言いに村雲は怯んだ。怒られるのだと思うとやはり体が委縮してしまう。
     しかし村雲がそうして立ち止まってしまってすぐ、軽い足音と共に彼女のほうが廊下に顔を出した。村雲よりも小柄な体躯、そして黒い瞳がこちらを見上げている。村雲は少しどきりとした。
    「麦茶、冷たくていい? 温かい方が良い?」
    「え、ぅ、温かい、ほう……」
     そう答えると、彼女は微かに唇を緩めた。
    「わかった。温めるから座って待ってて。今日は他に当番なかったよね」
     こっち、と彼女は村雲の手首を握ると入室を促す。もちろん村雲は動揺したが、引っ張られるままに執務室に足を踏み入れた。既に置かれていた座布団を「そこ座ってね」と示され、彼女は用意していたらしい器を電子レンジに入れる。村雲はそろそろと音を立てないように座布団の上に正座した。
     執務室の中はすっかり整理整頓……というわけでもないが、雑然とは言えない程度に片付いていた。壁にはいくつか表彰状やら何やらが飾られている。彼女が審神者の中でも優秀なほうに入るというのは村雲も聞いていたが、あれらがその証らしい。彼女が使用しているらしい文机には松井もよく部屋で使用している薄型のパソコンや書籍、筆記具がすっきりと並べられていたが、その隣にある机はやや散らかっていたので豊前が主に使っている方なのだろう。そちらには今日誌が閉じた状態で置かれている。村雲は豊前の近侍の仕事ぶりはよく知らないのだが、見る限りその仕事場は「きちんと」していた。
     電子レンジから音がして、彼女が中から器を取り出す。湯気が立ちのぼるそれを彼女は座りながら村雲の手前、豊前の机の上に置いた。
    「はい、どうぞ。少し冷ましてね」
    「ありがとう……」
    「お菓子は? 食べてもお腹は平気?」
    「あ、うん、平気」
     棚を探り、彼女は木皿に盛られた個包装の菓子も村雲に差し出した。はきはきとした物言いや身動きは全体的に手早い。村雲は彼女が全体に連絡事項を通達するときくらいしかその話し方や身のこなしをじっくり見たことはないが、普段からそうなのだろうなと思った。
     自分のほうは冷たいものにしたらしい彼女は、村雲に差し出したのと色違いの器で麦茶を飲んだ。村雲もそっと温かいほうのそれに手を伸ばす。今日はいくらか暖かい日よりで、麦茶を飲めば暑くなるに違いない。それでもいくらか温度のあるそれのおかげで、村雲の胃のあたりはやや落ち着いた。彼女は個包装にされていた焼き菓子に手を伸ばし、一つを村雲の前に置くと自分も一つ封を切った。
    「それで、なんで呼ばれたか、わかる?」
     彼女の声音は怒っている風ではなかったけれど、それでもふざけたり別の話をすることは許してくれそうにない強さがあった。一言一言が重い。村雲は委縮しつつ答えた。
    「え、えっと、この間の、こと」
    「そう。無理な判断した自覚ある?」
    「う、でも」
    「私は全振無事に帰城するように言った。そうだよね」
     けれどあのとき、踵を返すのが一瞬遅れた刀を庇わなければ、その刀は村雲よりももっと酷い怪我をしていたはずだ。村雲にはまだ刀を振りかぶるだけの余裕があった。だから応戦した。しかし結果として、村雲はそれなりの負傷はしたけれど。
    「仲間を庇ってくれた気持ちは嬉しい。でもそれで村雲のほうが酷い傷を負ったんじゃ意味がない。戦場での判断ミスは命取りになる。あの場では応戦するんじゃなくて、一太刀交わした後は逃げる方を優先するべきだった。ああいう切羽詰まった状況でいつも正解を選ぶのは難しいと思うけど、意識してより安全な選択肢を取る練習をして」
    「はい……ごめんなさい……」
     しゅんと俯いて村雲は謝罪した。そもそも今はお説教をされに来ているのだ。素直に謝るほかない。そう思って村雲は頭を下げた。
     だがもう少しお小言をもらうつもりでいた村雲を他所に、彼女はすんなりと「うん」と返事した。
    「もうしないで」
    「え、えっ、はい」
    「うん、お菓子食べて」
     先程置いた焼き菓子に加えてもう一つ、彼女は村雲の前に別なお菓子を積んだ。本当にお説教は今ので終わりなのだろうか。確かに豊前は「ずるずるぐちぐち言うのは好きではない」と言っていたけれど、あれだけ?
     困惑しつつ薦めてもらったものをそのままにするのも良くない気がして、村雲は袋に手を伸ばした。差し出されたのは万屋なんかで簡単に買える菓子だが、これは彼女の好みで買い置いているものなのだろうか。少なくとも豊前の好みではない。村雲は彼女が甘いものが好きなのかそうではないのかも知らない。
     そんなことを考えつつ村雲が黙って菓子を食べていると、彼女が不意に口を開いた。
    「雲さん」
    「えっ」
     彼女にそんな風に呼ばれたことは当然だが今まで一度もない。だから余計に村雲は面食らって硬直し、慌てて顔を上げる。しかし彼女の視線が真っ直ぐとこちらに向けられていることに気づき、再び視線を逸らした。だが彼女はそれに気分を悪くしたような様子は見せず、微笑んで続けた。
    「そう呼ばれたほうが力抜けるかな。五月雨と仲が良いって聞いたけど」
    「う、うん。……雨さんといると落ち着くんだ」
     そう、と彼女は穏やかに相槌を打った。
    「同じ刀工の刀、少しだけ一緒にいた時期もあるね」
    「うん……。よく知ってるね」
    「皆の主だからね」
     小さく笑って、彼女は瞳を細めた。ちょっと得意げな、悪戯っぽい口調に村雲もいくらか体の緊張が解れる。
    「他には? 江のみんなとうまくやってる? 顕現してからあんまり、様子を見たり聞いたり、できなかったけど。ごめんね」
     こちらを覗き込みながら彼女がそう言ったので、村雲は慌てて首を振った。
    「いや、だって、主忙しいから」
     確かに彼女の言うように、村雲は顕現以来こんな風に彼女と面と向かって落ち着いて話をするような機会はなかった。とはいえそれは仕方のないことだ。刀剣男士百数振に対して、審神者の彼女はたった一人しかいない。彼女の時間を細切れにして全員と接したとて限度はあるし、二四時間ずっと刀の相手をしているわけにもいくまい。
     したがって彼女と話せない現状について村雲は十分理解していたけれど、それでも彼女は落ち着いて答えた。
    「忙しくても、私は雲さんの主だよ」
     簡潔に一言、それだけ。それなのにどうしてだか村雲は心が落ち着いていくのを感じた。軽く息を吐いて、村雲は頷く。
    「うん……でも俺は雨さんと一緒にいられればそれでいいんだ」
     そう、多くは望まない。高望みはしない。
     期待をすることや、反対にされることが楽しいばかりでないことを村雲は知っている。どちらかと言えば苦しいことが多いことも。何事も、身の丈に合っている方がいい。
     だから二束三文の自分にちょうどいい生活を、村雲は望んでいる。心が波立つことがなく、善にも悪にも左右されない、そんな生活。
     彼女はそんな風に静かに答えた村雲の様子を見つめていた。彼女の瞳は村雲をただ観察しているようだった。何を考えているのか、村雲の心を感じ取ろうとするようなそんな視線。村雲にとってそれは少々緊張するものではあったけれど、不思議と嫌ではなかった。彼女の目には悪意やそれ以外の嫌なものはなく、ただ村雲を知ろうとしているように思えたからだ。だから村雲も同じように黙ってそのままでいた。
     暫く彼女はそうしてじっと村雲を見つめていたけれど、そのうち飲み物に口をつけ、一息吐いてから言った。
    「そっか……じゃあ、この間の罰として、雲さんには暫く、私の手伝いをしてもらおうかな」
     罰、手伝い。思いもよらない単語が出てきたため、村雲は焦って繰り返す。
    「て、手伝い?」
    「そう。やっぱりペナルティは必要かなと思って」
    「ぺ、なにって?」
    「お仕置きってこと」
     急に話の流れが変わったので村雲はぎょっとした。ぐちぐち言うのが嫌いというのは間違っていなかったようだが、仕置きの件は聞いていないし豊前だってそんなこと言っていなかった。そんな村雲の焦りを余所に、彼女は真剣な表情で淡々と告げた。
    「とはいえいきなり近侍をやらせるのは可哀想だし、近侍の豊前の手伝いをしてもらおうかな。豊前なら見知った顔だから、雲さんも緊張せずに色々聞いたりできるよね」
    「そ、それはそう、だけど」
    「別に専門的なことをやらせるつもりはないし、難しいことはないから安心して。明日からお願いね」
     彼女は全く有無を言わせない調子でそう言い切って話を締めくくった。村雲はぽかんと口を開けてしまう。
     いや、彼女を手伝うのが嫌だとかそういうわけではない。今まで一日に全く接点のなかったことを考えれば状況は好転したと言えるはずだが、あまりに目まぐるしくてよくわからないというのが本当のところだ。しかし元々お説教という名目で来た手前、何も反論できずに村雲は執務室を後にした。その日の夜近侍の仕事から戻った豊前がこれまた爽やかな顔で「でーしょーぶだよ」と背中を叩いてくれたが、それもまた昼同様ただ痛いばかりだった。


     朝食後に執務室に来るように言われ、村雲が一番に任された仕事は領収書を分けることだった。
     彼女は大きな留め具でひとまとめにされた紙の束を村雲に見せる。
    「今はひとまとめになってるから、使われた用途ごとに分けてほしい。分け終わったら日付順に並べて。できる?」
    「で、きると思う」
     何をさせられるかと思っていたが、とりあえずは単純作業だ。村雲は頷いて束を受け取った。彼女は村雲の作業用に丸い卓袱台を用意しており、それをズルズルと引っ張って村雲の前に移動させる。
    「そう、よろしく。何かわからないことがあれば、私でも豊前でも、雲さんが楽な方に聞いて」
    「う、うん」
     緊張するができるだけ頑張って彼女に話しかけてみよう、そう思って村雲は紙の束を握る。すると後ろから豊前がそれを覗き込んだ。それからいつもの爽やかな笑顔で言う。
    「おっ、俺も主も嫌えな作業だな! 頑張れよ」
    「えっ、そうなの」
    「豊前、余計なことは言わなくていい」
     豊前の明るい声に、彼女は眉を片方上げて息を吐いた。それから彼女はパソコンを開き、豊前はその隣に胡坐をかいて日誌を開く。二人とも特に会話を交わすことなく、彼女はカタカタと音を立てながら何かを入力しており、豊前は豊前で日誌に筆記具で何かを書き入れていた。暫くそうして村雲の前で二人は作業をしていたが、そのうち豊前が日誌を閉じてポイと筆記具を放る。それからパッと立ち上がった。
    「じゃあ俺見回り行ってくんよ。そのまま演練出っから、第一部隊連れてく」
    「わかった。行ってらっしゃい」
     彼女は首だけを豊前の方に向けてそう答えた。豊前は軽く彼女に手を振ると、村雲の方を振り返る。
    「初日なんだから、あんま無理すんなよ、村雲」
    「う、うん、豊前行ってらっしゃい」
    「おう」
     気のいい笑みを見せて豊前は執務室から出ていく。村雲は二度ほど瞬きを繰り返して呟いた。
    「……慣れてるんだ」
     するとくるりと彼女も村雲の方を向いた。村雲はギクッと肩を震わせる。
    「ん? ああ、豊前のこと?」
    「えっ、いや、あの、うん……」
    「そりゃあ雲さんが顕現する前から近侍だからね。最初は豊前もバタバタだったよ。今でもちょっと雑だけど」
     そう言って彼女は少し瞳を緩めて、体勢を元に戻した。村雲はどうして豊前を近侍にしたのか聞こうか迷ったが、結局やめて領収書を分ける作業に集中することにした。紙の束はそれなりに分厚く、村雲は何となくそれらを分けていった。この本丸では刀剣男士に月ごとで給料が支払われている。各々個々刃の出費はそこから出ているため、今村雲の手元にあるのは本丸全体の食費だとか、光熱費だとかそういうものだった。
     それほど時間をかけることなく、あらかた領収書を分けて日付順に並べ終える。思っていた通り単純作業であったし、ほとんど決まった店からの領収書ばかりで悩むこともなかったためすんなり済んでホッとする。だが恐らくこれらは分けただけで終わりではないはずだ。帳簿につけるなら合計が分かっていたほうがいいのではないだろうか。村雲は左右を見渡し、豊前の机の上に算盤があるのを見つけた。
    「主、あの、あれ借りてもいい?」
     声をかけると彼女は振り返り、村雲の指の先を辿る。それから「ああ」と口を開いた。
    「電卓あるよ、算盤のほうがいい?」
    「一応あっちの方が慣れてるから……、今日は」
    「そっか。いいよ、はい」
     彼女は手を伸ばして豊前の算盤を取り、村雲に手渡す。珠が動いていくらか音を立てた。
     一度すべて珠を下に落としてから、指を端まで通して整える。シャッと小気味よい音が執務室に響いた。村雲は分けた領収書の束のうち一つを手に取って、球を弾き始める。こういった作業は嫌いではない。だから暫くの間集中して計算を進めた。それぞれ合計金額を雑紙に書き留めておいて、分けた束と一緒に留める。これなら次の作業も楽だろう。
    「雲さん、計算早いんだね」
    「ぅわっ」
     最後の一束を置いたとき、作業を見ていたらしい彼女が言った。声をかけられると思っていなかった村雲の心臓は跳ね上がり、飛びのいた拍子に卓袱台に膝をぶつける。見た目より軽いそれは、村雲の膝に蹴り上げられて結構な音を立てた。
    「いっ、た!」
    「ごめん、吃驚した? 大丈夫?」
     申し訳なさそうに彼女が言ったので、村雲は慌てて首を左右に振った。
    「へ、平気、音が派手だっただけだから」
    「そう?」
    「う、うん。あと、別に計算はそこまで早いわけじゃない、と思う。松井の方がこういうのは得意だし……」
     松井は近侍ではなくとも自主的に事務作業を手伝う程度には、こういった計算には明るい。元の主の影響だと思う。そして恐らくは今の村雲もそうである。
    「ふうん……金額が気になるのは前向きな理由? それとも後ろ向き?」
     彼女が何でもないことのようにそう言ったので、村雲はやや視線を惑わせた。そりゃあ、気にしなくて済むのであればしたくないというのが本当のところだ。だがそうもいかない。微かに痛んだ鳩尾のあたりに村雲は手を添えた。一方の彼女は体ごと村雲の卓袱台の方に向いて座り直す。
    「二束三文っていうのは、草履が二束で三文ってすごく安かったことから来てる言葉だったと思うけど。雲さんは現世の靴が一足いくらかしってる?」
     思いもよらない話題だったので、村雲は顔を上げて首を傾げた。刀剣男士の給料は現世の通貨ではない小判で支払われているし、万屋なんかで使用するのもそれだ。その小判が現世の通貨でどの程度の価値なのかわからないので、現世の物価なんて村雲には見当もつかない。
    「え……知らない」
    「これがそんなに安くないんだよ。運動靴でも平均して五千円くらいするかな。ピンキリだし、特にスニーカーは高いものは本当に高いかな。嗜好品になりつつあるから。でもね、大抵それを二足買おうと思ったら一万、要はそれなりに見積もらないといけないと思う。今はね、二束三文どころじゃないんだよ」
    「……そうなの?」
    「うん、そう。むしろ草履二束ですごく安かったから、っていう謂れは逆に私にはピンと来ないかな。だってちっとも安くないから」
     ふふと小さく彼女は笑った。彼女は村雲とは全く時代で生きているのだ。それは至極当たり前のことだと思う。けれど彼女がそう笑ってくれると、不思議と村雲も「そうなんだ」とすんなりとそれを受け入れることができた。
    「だからね、物の価値なんてその時々だと私は思ってる」
     静かで穏やかに、しかしはっきりと彼女はそう言い切った。
    「生きてる時代だけの話じゃない。場所や人によっても違う。私にとって価値があるものやことも、雲さんにとっては違うかもしれない。雲さんだけじゃなくて、豊前や清光や、私以外の誰かには取るに足らないものかも。私自身だって、現世にいるときはそういうどこにでもいる誰かだったから。国のもっと偉い人には、二束三文だっただろうね」
    「そ、そんなことないよ」
     慌てて村雲が首を振れば、彼女はやや愉快そうに眉を上げて見せた。村雲は軽く息を吐いて肩の力を抜く。
     彼女はおそらく、というより確実に彼女は、村雲の負い目や事情を知っていて励ましてくれているのだ。それは嬉しい。彼女は村雲の今の主であるし、その彼女が自分を思いやってくれていることがわかると多少は気が楽になる。
     けれど同時に、気を遣わせていることへの申し訳なさもあった。そしてここまで言われてもなお、微かに感じる鳩尾の痛みから村雲は逃げることができない。
     彼女はじっと村雲を見つめた後、穏やかに言った。
    「……まあそれでもね、雲さんが辛いことだとか苦しいことはすぐにはなくならないよね」
    「……ごめん」
     村雲の謝罪に、彼女は緩く首を振る。
    「自分自身のことだから、自分で納得いくまでは難しいよね。謝ることじゃない」
     ここ数日暖かい日が続いていて、襖を開け放った執務室は湿気でややじっとりとしていた。村雲は僅かに眉間に皺を寄せる。自分の納得のいくまで。それならいつまで、村雲はこの痛みと向き合わなくてはいけないのだろう。
     何の意味があるか、わからないのに。
    「でもそれでも価値が気になるなら、雲さんはここで価値があるものになればいいよ」
     しかし相変わらず何でもないような調子で、彼女はそう言うとスッと立ち上がった。それから執務室に備え付けられている小型の冷蔵庫を開いて、中にあった麦茶の容器を取り出す。その拍子に蒸していた室内にほんの少しだけ涼やかで心地のいい空気が流れた。
    「ここで、価値……?」
    「そう。少なくともここでなら、雲さんは私の大切な刀だから。私の大切なものでいればいいよ。ここでなら、私が雲さんは私の大切なもので、二束三文じゃないって保証してあげられる。ここは私の本丸だから」
     穏やかにそう告げて、彼女は村雲に冷えた麦茶を差し出した。
    「もちろん、雲さんがそれで良ければだけど。今日は暑いね」
     麦茶を注がれた硝子の器は、外気温ですぐに曇っていった。村雲はゆっくり手を伸ばしてそれを受け取る。ひんやりしていてとても美味しい。
    「……ありがとう」
     思ったよりもすんなりとその言葉は村雲の口から出てきた。変わらず鳩尾のあたりには鈍い痛みがあったけれど、それでも彼女の言葉を受け入れられたことが村雲は嬉しかった。
    「ううん、お代わりあるからね。領収書の作業が終わったら、今度はこの書類日付順にしてもらっていいかな。計算じゃなくて悪いけど。それが終わったらおやつにしよう」
    「うん……ねえ、あのお菓子、主が好きなの?」
     ごく自然に、何でもない話題を彼女に振れたことが嬉しい。彼女は笑って「小腹が空いたとき用」と答えた。
     それからいくつか村雲は単純作業をしながら彼女と取り留めのない話をした。夕飯なんだろうだとか、最近急に熱くなってきて辛いだとか、本当に他愛もないこと。彼女は村雲用の小さな卓袱台に自分が記入する書類を持ってきて、同じ場所で仕事をしていた。そんな風に穏やかに、村雲の初仕事一日目は終わった。
    「よかった……思ったより何もなかった」
     夕刻、今日はここまででいいと言われて村雲は部屋に戻った。夕飯を食べて江の共同部屋に戻ると、丁度風呂上りらしい豊前と出くわす。
    「おう、先風呂もらったぜ。村雲も早く入れよ、明日も手伝い、あんだろ?」
    「うん、今夕飯食べたから、ちょっと休んでからにする。お腹、痛くなるし」
    「そっか、そうだな」
     勢いよく襖を開けて、豊前は共同部屋に入った。他の江の面々もそれぞれ食事や入浴に行っているらしく室内には誰もいない。そう言えば篭手切は夜戦部隊だった、今夜は戻って来ないだろう。豊前は部屋に置いてある共用の冷蔵庫から水を取り出して容器の蓋を捻っているのが見えた。村雲は何となく腰を下ろして、傍にあった本に手を伸ばしたが農業用の専門書だったのですぐに閉じた。桑名の私物だ。
    「主の傍いっと、落ち着くだろ」
    「え?」
     村雲が顔を上げると、濡れた髪を白いタオルで掻き乱していた豊前が赤い瞳でこちらを見つめている。見慣れているはずのそれに村雲は少し緊張して怯んでしまった。真っ直ぐなそれはどこか彼女に似ている。
    「主は欲しい言葉、欲しいときにくれっからさ。落ち着くだろ?」
     欲しい言葉、という表現がすとんと腑に落ちた。そうだ、彼女は今日村雲が嬉しい言葉を正確に、そして的確に与えてくれたのだ。それは彼女が村雲をよく見ているということであるし、同時に正しく理解してくれているということでもある。審神者としては理想的だ。今日の仕事ぶりを見ていても、卒なくかつ村雲と話しながらでも進められる程度には彼女の中で決まった作業として確立されている。何度も優秀な審神者として表彰されているという理由が分かった気がした。
    「……うん。そうだね」
    「だろ? 村雲には合うと思ってたんだよなぁ」
     軽やかに笑って豊前はタオルをそのまま首にかけた。一息ついて、また水の容器に口を付ける。中身はもう半分くらいなくなっていた。
     彼女が欲しいときに欲しいものをくれると知っているということは、豊前にもそういう経験があるのだろうか。村雲はそれが気になったけれど、直接聞くことはできなかった。ただ彼女がどんな言葉を豊前に書けたのか気になった。しかし豊前もまた、村雲にそれを聞くことはなかった。元々豊前はこちらから話さないことを無理に聞く方ではない。
    「いー主だよな、俺達には」
    「……俺達には?」
     少し引っかかる言い方に、村雲は逸らしていた視線を上げた。豊前は「ああ」と首を振った。
    「他意はねえよ、そのまんまの意味ちゃ。審神者として、申し分ねえってこと」
    「あー、うん、そう、だね」
     その言葉に間違いはない。だがどうしてだろう、気になってしまうのは。村雲は釈然としない気持ちで考える。彼女はいい主なのは間違いない。そしてそれが良いことだということも。全部豊前の言う通りだ。
     何も間違って、いないのに。
    「村雲が何言っても、何考えても、今日みたいに主は聞いてくれっからさ。これからは言いたいこと言えよ」
     いつもの気のいい笑顔で締めくくると、豊前はそれ以上彼女について何も言うことはなかった。だから村雲もこのことを追求することはなく、そのあとはいつも通りに一日を終えた。


     しとしとと雨が降っている音が聞こえる。
     彼女に手伝い役を申し付けられてから数日、村雲は問題なくその役割を務めていた。彼女が村雲に回す作業は初日と変わらず単純作業であったし、大した量があるものでもなかった。だから村雲は彼女と話しながら、たまに豊前に作業を聞いたりしながら手伝い役を務めた。
     けれど今日は朝から布団の中にいる。雨の日はどうも具合が悪い。村雲自身は雨を嫌いではないのに、体のほうが怠くなってしまうのだ。
    「主には俺が言っとくから、今日は休んどけよ」
     朝に豊前が部屋に来て、そう言って出て行った。村雲は大丈夫だと言いたかったけれど、相変わらず腹が鈍く痛み、体が重くて起き上がれなかった。それから五月雨たち他の江のものが代わる代わるに様子を見に来てくれて、昼前まで眠りに落ちる。次に目を覚ましたのは、不意に襖が開いた音がしたときだった。
     外でしとしと聞こえていた雨音は止んでいて、体の気だるさもいくらかましになっている。村雲は目を擦りつつ上半身を起こした。
    「雨さん……? ごめん、今何時……」
    「ごめんね、五月雨は今遠征」
    「えっ」
     ぎょっとして顔を上げる。するとそこには五月雨ではなく彼女が立っていた。手には飲み物の容器と握り飯の載った皿を持っている。
    「具合が悪いって、豊前から聞いたから。気分はどう?」
    「えっ、だ、だいじょうぶ、ご、ごめんっ! 俺今日」
     顔も洗っていないし髪も結んでいない。村雲は慌てて手で髪をひとまとめにしたが髪ゴムを持っていなかった。というか服も寝巻であるし、こんなだらしのない格好でいるところを見られるのは恥ずかしい。村雲は自分の顔が羞恥で赤くなったり、血の気が引いて青くなったりするのがわかった。
    「大丈夫、本当に平気だから。時間ができたから様子を見に来ただけ。具合が悪いんだから、良く寝てたのがわかってよかったよ」
    「う、うぅ、ごめん」
     慌てふためく村雲を見て、彼女は笑って首を振った。それから村雲の布団の傍に腰を下ろす。
    「お昼食べてないでしょ? 食べれそうなら」
    「ありがとう……」
    「お腹痛いなら食べちゃだめだよ」
     揶揄うような調子で彼女は言うと、その皿を畳の上に置いた。そして飲み物だけは村雲に手渡す。
    「まあ水分は摂っておいた方がいいかな、はい」
    「う、うん、ありがとう」
     蓋を捻り、村雲は容器に口を付けてお茶を飲んだ。寝起きで乾いていた口の中が湿る。適度にひんやりとしたそれで頭もややすっきりしてきた。ふうと息を吐いた村雲に、彼女も微笑む。
    「良かった。風邪引いたとか、本格的に調子崩したわけじゃないみたいだね」
    「雨の日はちょっと……具合悪くなりやすくて」
     体調が悪かったのは本当で嘘を吐いたわけではないのだが、なんだか後ろめたい気持ちになって村雲は俯いた。
     大した戦力なわけでもなく特別何かができるわけではないのに、単純作業さえできないなんて、使えないやつと思われたのではないだろうか。大体、村雲たち刀剣男士の本分は戦うことなのだから、体調管理もできないだらしのない刀だと思われたかもしれない。
     そうしたら、「ここで彼女の大切なもの」でいる資格もない。
    「心配しなくても平気だよ。私も雨の日はそういうときあるし、手伝いはまた明日からしてくれればいいから」
     村雲が飲んだ容器を受け取りつつ、彼女は蓋を閉めてそう言った。彼女が他意なくそう励ましてくれていることもわかっているのに。ぼそりと村雲は呟いた。
    「俺がいない間に俺の売り飛ばし先、探せた?」
     すると彼女は飲み物の容器を畳の上に置いて、僅かに首を傾げる。
    「そんなことしないのに。どうしてそんなに売られることを心配するの? 前からそうだよね」
     彼女の問いは村雲を責めている風ではなく、純粋にどうしてなのか問うているものだったし、それを村雲も理解していた。けれどどうしてもきゅっと鳩尾のあたりが痛む。村雲は俯き、体を縮こめた。
     亀のように膝を抱えて黙りこくっていても、何も解決はしない。この何百年かの間、言葉を発する術を持たなかった村雲はそれをよくわかっている。けれど言葉を尽くしたところで伝わらないものがあることも知っている。それならば何のためにこの体は痛むのか。どうして今更痛む体を与えられたのか、村雲にはわからない。
    「……まあ、理由は何でもいいや」
     黙りこくってしまった村雲を見かねたのか、彼女はそう言った。駄目だ、どうしてもうまくやれない。村雲は唇を引き絞る。歩み寄ってくれる彼女を拒絶したいわけではないのに。
    「本当に何でもいいから、私が雲さんを売らない理由を言うよ」
    「え……」
     しかし村雲の内向的な様子を他所に、彼女は真っ直ぐとこちらを見つめたまま話を続けた。驚いた拍子に真正面から彼女と視線がぶつかってしまい、慌てて逸らす。だが彼女はその村雲の様子にも気分を害した様子はなく、ただ口を開いた。
    「本丸でも知ってる子は知ってるんだけど、私は現世に戸籍がないの」
     はっきりと簡潔に告げられた内容に、村雲は混乱した。戸籍制度は村雲の生まれた時代からある。
    「戸籍がないって、どういう」
    「厳密にいうと昔はあったけど今はないの。審神者になったとき死亡届が出されて抹消されたから」
    「えっ、だって、主生きてる」
     ぎょっとして村雲が顔を上げたのを見て、彼女はやや苦笑した。それにドキリとして村雲は再び目を伏せる。彼女は小さく息を吐いた後、そっと続けた。
    「面倒くさいんだよ。本丸って、ほら、都道府県のどこに属してるとかじゃないから。住民票とかもそうだし、現世にいたら納めなくちゃいけない税金とか、管轄とか年金とか……そういうものの処理をね、どうするかって。だから審神者になると、慣例として死亡届が出されて現世では死んだことになる。その時点で私の戸籍もなくなった」
    「でも、でも主ここで生きてるのに」
    「うん、そうだね。でも現世じゃ幽霊みたいなものなんだよ。いるのにいない人間になってる」
     ふふ、と微かに彼女は笑った。何にも笑える話ではないと思った村雲はどうしたらいいかわからず身じろいだ。ずりずりと畳の擦れる音が響く。
    「私はね、元々審神者になるつもりはなかったんだ。適性がわかって召集されたときも随分ごねた。家族のことが好きだったし、他にも色々、向こうの生活を捨てるつもりはなかったから。でもあの頃は今以上に審神者は人員不足が酷くて、結局半分くらい無理矢理ここに就任させられた」
    「……」
    「こうなったら仕方ないと思った。審神者に就任しても現世に行く術がないわけじゃない。折り合いを見つけて、できる限り向こうの生活も守りたかった。でも慣例で向こうでは死んだことになってるって聞いて……我慢できなくなった」
    「……それでどうしたの?」
     そんな話は今まで聞いたことがなかった。彼女の就任は村雲の顕現よりもずっと前であるし、今まで誰もそんなこと教えてくれなかった。村雲が訪ねると、少し遠くを見ていた彼女が再び視線を村雲に戻す。
    「ストライキした」
    「すと、え?」
     耳慣れぬ言葉に村雲が首を傾げれば、彼女はやや口元を緩める。
    「一切の食事を断って、政府に抗議したの。あと同じように不満を持ってる審神者を募って意見書も提出したし、出陣とか日課も拒否した」
    「えっ、えっ、それ、駄目じゃないっ?」
     驚いて村雲が体を起こせば、彼女はくつくつと笑って肩を揺らす。
    「うん、駄目だね。それにあんまり意味もなかったし。でも全く無意味ってわけでもなくて、多少は騒ぎになったから私は厳重注意とか色々処分もらったよ。今は若気の至りだったなあと思ってる」
    「ちゅ、注意って……それだけで済んでよかったよ……」
     ホッと村雲が脱力すると、彼女はやや目を細めて微笑んだ。しかしすぐにいつもの真っ直ぐな強い視線に戻る。
    「うん、それだけ。結局審神者を首になったりはしなかった」
     それだけでは、決してないはずだ。食事を断つだけでも彼女の身体にはいくらか影響があったはず。それに仲間の審神者を募ることも、政府に申し入れをすることもそれなりの時間と労力を使ったはず。けれどそこまで考えて「ああ、そうか」と村雲は過激な彼女の「若気の至り」に納得した。きっと彼女はそういった問題行動で審神者の任を解かれることを望んだのだ。
     しかしそうはならず、彼女は今もここにいる。彼女の望みは叶わなかった。何度か瞬きを繰り返して、彼女は話を続けた。
    「雲さん、私はね、皆のことが嫌いで審神者を辞めたかったわけじゃない。ストライキを起こすときも、清光とは話し合った。心配をかけたくなかったから。身体に本当に悪い影響が出ない程度ならって、清光も言ってくれた。審神者を辞めて現世に帰りたかった気持ちと、それでもここで私を慕ってくれる皆のことを好きな気持ち、どっちも私の中にはあった。それでも許せなかったから、あんなことしたけど」
    「……でも、今の主は優秀な審神者で、政府からだって何回も表彰とか、されてるよね?」
     おずおずと村雲が尋ねれば、彼女は静かに頷く。もう、帰りたい気持ちはなくなったということなのだろうか。
    「……暫くして、許可取って久しぶりに現世に帰ったとき、なんて言ったらいいのかな、すごく不思議な気持ちになった」
    「どんな?」
    「もう……ここに私って、いないんだなと思って」
     呟いた彼女の声は途方に暮れたようで、それでいて諦めた風でもあった。
     帰りたい。でももう帰る場所がない。
     本丸から何とかして逃げ出したとて、彼女は公的にはもう死んだことになっている。以前と同じ生活はもちろん、現世でまともな生活は送れない。審神者という職には辞めるという概念がはっきりとはない。だからここに来た以上は、文字通り死ぬまで務めを果たす他ない。
    「そんなこの世の終わりみたいな顔しないで。もう折り合いはついてる」
     村雲が眉をひそめていると、彼女の方が清々しい声音で言った。しかし折り合いはついているといっても、彼女にとっての現状は不本意な状況に変わりはない。それなのに彼女は審神者として、あまつさえ高戦績を維持している。
    「辛いんじゃ、ないの。主は、ここにいるの」
     ぼそりと村雲は呟いた。彼女は一呼吸置いて、それから答える。
    「辛いことは現世にもある。ここに限った話じゃない」
    「でも、でも主は」
    「それにね、考えを変えることにしたの。帰れないってわかったから決めた。私はもう何も失くさないって」
    「え?」
     村雲の言葉を遮って彼女は言い切った。戸惑って村雲は視線を上げる。こちらが黙りこくるならまだしも、彼女が村雲の話を待たずに何かを言うなんてこと今まで一度もなかったのだ。
     しかし今度は別なことに驚いて村雲は口を噤む。彼女の視線にぎょっとしてしまったのだ。真っ黒く、開いた瞳孔。
    「全部失ったから、もう何も失くさない。ここで手に入れたものは何も手放さない、一生私のものだって。もう何も手放さずに成績を出して優秀な審神者になって、そうしたらやっと認められる。これが正しかった。ここで全部手に入れれば、私の人生、向こうの生活を失くしたことには意味があるって。それをここで証明するの」
     顕現して初めて、村雲は彼女のことを怖いと思った。そう語る彼女の瞳はどこも見ておらず、ただ黒くて丸くぽっかりとしている。それが村雲は酷く恐ろしかった。思わずぎゅっと自分の服の袖を握りしめてしまう。
     そのうちふっと彼女の目の焦点が村雲に戻り、彼女は僅かに体を引いた。
    「……そういうわけだから売らないよ、雲さんのこと。安心して」
     彼女はわざと冗談めかして言ってくれたのだろうが、村雲はそれに答える気にはなれなかった。言葉としては嬉しい。今まで知らなかった彼女のことを知れたことも。けれど純粋に喜べなかった。本当に、困って村雲は俯く。
    「……」
    「それでも気が乗らないなら、私に協力してくれる?」
    「……協力?」
     村雲が問い直せば、口元を緩めた彼女が村雲に右手を差し出した。
    「そう。今言ったけど、私はここで優秀な審神者になりたい。だから協力してほしい。ここに居てほしいし、どこにもいかないでほしい。私の目的のために。代わりに私も雲さんのこと売らないから」
     本当に、それでいいのだろうか。
     躊躇って唇を小さく噛む。けれど考えても考えても、今の村雲には彼女の手を取る以外の選択肢が思いつかなかった。迷いながら膝を抱えていた手を伸ばし、彼女の指先に触れた。できるだけ優しく手を握る。 
    「ありがとう、助かるよ」
     正面から顔を見ることはできなかったが、彼女がそう言って笑ったのがわかった。そして手を離し、立ち上がる。最初と全く変わらない様子で、彼女は「それじゃあお大事にね」と優しく言った。彼女が踵を返すと微かに甘やかな匂いがする。女の人の匂いだと村雲は思った。
     衣服から見え隠れする彼女の足首や手はほっそりとしていて、村雲や刀剣男士たちのそれとは程遠い。この本丸で、彼女だけがそうだ。彼女のすべてが戦いには適していない。そういう風にできていない。
    「後悔、してる? ここに来たこと」
     村雲が問えば、振り返った彼女はやや眉を動かした。彼女には珍しいいくらか不快そうな表情だ。
    「してどうなるの。もうそれは変えられない」
    「でも、でも政府に連れてこられないで、審神者にならなければ」
    「言ったってしょうがない。しょうがないことで私のことを可哀想にしないで」
     ぴしゃりと彼女は言い放ち、村雲は黙る他なかった。俯いた村雲を見て、彼女も小さく息を吐く。
    「ごめん、言葉が強くなった。気持ちは有難いよ。でも本当に、もう全部終わったことだから。今皆に責任を感じられても、私は困る」
     それは、そうかもしれないがと村雲は閉口した。彼女自身が既に審神者としてここにいる覚悟を決めているのだ。村雲がとやかく言ったところでそれは余計なお世話であるし、どうにかなる問題でもない。もう選択肢がないのだ。村雲と出会う前に、事態はすべて終わってしまっている。
     想像力と情緒が豊かな五月雨と違って、村雲の考え方はどちらかと言えば即物的だった。仕方ないと言われてしまえば、そうなのだろうなと思う。悲しかったり惜しくないわけではないが、諦められないというものではない。むしろどうにもならないことは早めに受け入れられる。目を閉じて、耳を塞いで、鈍く痛む鳩尾を無視して膝を抱えていれば、気が付いたらすべてが終わっているのだ。
     そうして、この数百年過ごしてきたはずなのに。
    「……何? どうかした?」
     一度部屋を出ていこうとしたはずの彼女が再び振り返った。腰を上げた村雲が彼女の手首を掴んだからだ。いつもの村雲なら、自分から彼女に触れるなんてしないしできない。けれど気が付いたらそうしていた。
    「じゃあ、俺、が、証明するよ」
     怪訝そうな顔で彼女がこちらを見る。自分でも何を言っているんだと思ったが、村雲はそのまま続けた。
    「君の人生が間違ってないこと、俺が証明する。君が苦しかったことも、悲しかったことも痛みも、全部意味があったって、俺がここで証明する」
     彼女が開いた襖から外の雨上がりの風が吹き込む。ぱちぱちと二度、彼女の黒い瞳が瞬かれた。
     その瞳を綺麗だと思って初めて、村雲は自分が彼女のことを好きなのだと気づいた。
    micm1ckey Link Message Mute
    2025/06/29 17:18:12

    【7/13新刊】Dear

    #雲さに #女審神者 #刀剣乱夢 #星に願いを2025day2 #花嫁ノ守刀
    ここで生きていく村雲と審神者の話

    7/13開催星に願いを2025day2内刀さにオンリー、花嫁ノ守刀に参加します。
    【南2ホールす57a】にてお待ちしております。

    新刊はまだ作業中です。
    詳細決定後またお知らせします。
    よろしくお願いいたします。

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品