触れて欲しい先生への恋心を自覚して。いつも距離が近い先生からの、何気ないハグに胸が高鳴って。
そして、同時に絶望した。
このままではいずれ、先生に恋慕する自分の気持ちに気づかれてしまうだろう。先生と、もっとずっと一緒に居たいのに、先生に恋する気持ちが露見してしまえば一緒に居ることが出来なくなる。
だから、自分から距離を取ることにした。
手を握られないように。顔が近づかないように。大好きな先生から抱きしめられないように。
でもそれが、これほど自分を苦しめることになるなんて思いもしなかった。自分の為なのに。自分だけでなく、先生の為でもあるはずなのに。
きっと生徒から慕われることは、彼を苦めることになるだろう。そんな想いをして欲しくなくて、ただ自分が我慢すれば隣に居られる時間が長くなると分かっているのに。
――触れて欲しい。近づいて欲しい。
知らなかったんだ。あの温もりがこんなにも、こんなにも恋しくて、気持ちを抑える程もっと先生に焦がれて、想いが増すなんて。
お酒が入ると思考能力が低下するなんて、分かっていたはずなのに。自分で科した鎖の重さにとうとう耐えきれなくなってきたと、心の底では気づいていたくせに。
そんな時に先生の家での晩御飯の誘いに乗ってしまった俺は、嬉しくて、先生に会いたくて、もうどうなってもいいと思ってしまったんだ。
*****
「深町くん……?」
高槻の戸惑った声で我に帰った直哉は、自分の腕の中の温もりに気づいてびくりと体を揺らした。
あれだけ直哉を縛っていた気持ちは、高槻から勧められた少量のワインで直ぐに崩れた。
目の前で高槻が楽しそうに笑っている。大好きなその笑顔を彼の近くで見てみたい。欲を言えば、彼に触れられたい。そして触れてみたい。
考えの淵に沈んだのは、一瞬のことだった。飲んでいたグラスを置き、怪異のことについて気分良く話す高槻に直哉はそっと近づいた。
「先生、立って」
「え?深町く……」
困惑した高槻からワイングラスを奪い取って、腕を掴み彼を無理やり立たせる。直哉よりも目線の高い彼の整った顔を見上げて満足気に笑った直哉は、何の躊躇いも無くそのまま高槻を抱擁した。
突然のことに身動ぎする高槻を、抱きしめる腕で軽く制すると高槻は途端に大人しくなる。
――ああ、この温もりが欲しかった。この温もりに飢えていた。高槻の首筋から香るコロンの香りも、フワフワと指をくすぐる蜂蜜色の髪の毛も。ずっと、ずっと、それは直哉が求めて止まなかった大事な大切な宝物だったのに。
「深町くん……?」
二人の息遣いしか聞こえないほぼ無音の空間に、高槻の気遣うような声が響くとビクリと直哉の肩が揺れた。
そして、気づいてしまう。
自分は過ちを犯してしまった。高槻への劣情にも似た気持ちを気づかれることは、高槻の側にいることが出来なくなることと同意だ。だから自分を押さえつけて、律して、ここまで過ごしてきたのに。
「っごめんなさい、あの、俺、もう帰ります、何か、酔っちゃったみたいで」
「深町くん」
お願いだから、断罪しないで。終止符を打たないで。それを聞いたらきっと直哉は立ち直ることが出来なくなる。
「すみません、あの、料理、と、ワイン、美味しかったです、じゃあ」
「深町くん!」
引き剥がすように無理やり高槻の身体から身を離して、ふらふらと彷徨い直哉は上着とカバンを掴み取る。視線だけはただ高槻に合わせないように、笑顔は作れているのかも分からない。
「待って」
そそくさと逃げるように玄関に向かう直哉を、力強い腕が止めた、高槻だ。掴まれた部分が燃えるように熱い。
「何で、僕を抱きしめたの」
やはり、彼を誤魔化すことなんて出来なかった。血の気が引く直哉を高槻はその翠眼でじっと見つめている。
もし今本当のことを言わなければ、きっとその手が離されることはないだろう。そう考えて、どこかでそうされなければいいと思ってしまった素直な心に気づいて、直哉は歪に笑う。
「先生が好きなんです」
高槻の、息を飲む音が聞こえた。
「先生に触れられたくて、触れたくて、でもずっと我慢してました」
「どうして……」
「どうして?そこまで言わなきゃ分からないですか?」
現実は残酷だ。直哉の全てさらけ出してみせろと言う高槻に、直哉は心の中で呟く。俺の全てなんて、もうずっと前から、貴方だけなのに。
「止まらなくなるからです。今こうして俺に触れているけれど、知りませんよ、あんたに無理矢理乱暴するかもしれない」
だから離せと続けるはずだった。離して、自分は高槻の元から離れて、これから二度と交わることなく一生暮らすことになるだろう。きっと早かれ遅かれそうなることは決まっていたのかもしれない。ただそれが今日だっただけ。
けれど、その直哉の告白を聞くと高槻はゆっくりと微笑んだ。いつもの、慈愛のある彼らしい笑みで。
「深町くんは、優しいね」
「は?どこが……」
「僕を傷つけまいと、そうやって自分を遠ざけようとしくれてるんでしょ?」
高槻の腕の力が弱まり、直哉はその手から抜け出すことが出来るようになった。でも、見つめられるその瞳に縛られて身体を動かすことが出来ない。
「でも、僕が、それでもいいと言ったら?僕は深町くんに触れて欲しい」
「なっ……」
高槻の、瞳の色が変わっていく。いつも見せる愛くるしい表情に似合う焦茶色から、夜の星空のような深い碧色へ――。
「……ね、深町くん。僕を奪ってよ」
Fin