あんなことや、こんなきもちあの唇を奪いたい
――あの唇を奪いたい。
そう思ったのが始まりだった。
「おい、深町。お前やべぇぞ」
そう難波に言われて、初めて気づく。
「獲物を狙う肉食獣の顔してる」
どんな顔だよ、と返したが、何となく思い当たる節はある。先程からずっと視線を離さずに見つめている先のことだ。その先には質問に来た女子生徒と楽しそうに歓談している准教授、高槻彰良の姿がある。
「先生が可愛いからって襲うなよ〜」
軽そうに、けれど目はどこか真剣みを帯びている難波の注意に感謝して、おう、とだけ返す。
今はまだ、手を出さない。時期が来たら、逃げ道が無くなったら、そのときは。
「――待っていてくださいね、高槻先生」
楽しみは後に残しておいたほうが、燃えるというものだと、俺はひっそりと微笑んだ。
Fin
好きとの距離感
「わんこくん、そのバッグチャーム可愛い!」
研究室に入った途端やや興奮した瑠衣子に指摘され、尚哉は自分のリュックを見やる。何の変哲もない黒いリュックサックには、「START」と刺繍されたチャームが揺れていた。それを見て、尚哉も頬を緩ませる。大好きなものを褒められて嬉しいという気分だ。
「コレ……難波が好きな油絵アーティストで、ちょっと前に『動員数を増やしたいから』ってチケット貰って展覧会行ったときに買ったんです」
「知ってるよー!最近引っ張りだこの『START』でしょ?絵は勿論素敵なんだけど、物腰も柔らかで、お喋りも上手で、しかもめちゃくちゃイケメンなのよね!!」
更に興奮した瑠衣子に、まるで自分が褒められたかのように微笑む。今をときめくアーティスト。そんな人を自分が好きになるなんて想像もしていなかったが、その表現力に、とても魅入られた。色鮮やかな作品の中に、温かみと、どこか、寂しげな雰囲気がある彼の絵を前にして、尚哉はじわじわと心が動かされるのを感じた。これが感動することだと、初めて知った。
「瑠衣子先輩、詳しいですね」
近くの椅子にリュックを置き、席に座る。コーヒーは言わなくても、瑠衣子が用意してくれるようだ。
「私の情報網を舐めないでよ、わんこくん。最新トレンドから、学内でどの先生が一番人気かまで、私の耳に入ってくるんだからね」
「ええっそれは怖いなぁ」
今まで尚哉と瑠衣子の話をただ聞いていた高槻が口を挟む。「僕もココア追加しようっと」と瑠衣子に近づき隣でココアの缶を開けている。そんな高槻に「大丈夫です、アキラ先生は既に殿堂入りしてますから」と瑠衣子はにっこりと告げる。平和だなぁ、とそんな二人を見て尚哉はそんな感想を抱いた。話している内容は少し物騒だけど。
「はいどーぞ。でも本当に、最近のSTARTさんの勢いすごくない?今までSNSなんてやってなかったのに、Twitter、Instagram、YouTubeを始めて、あとテレビのバラエティにもめちゃくちゃ出てるよね」
「ありがとうございます。そう、なんですよ……」
瑠衣子に淹れて貰ったコーヒーの取手を強く握っていることを自分でも感じながら、思いを100%込めて尚哉は瑠衣子にそう返す。
自分だってそんなに昔からのファンではない。けれど、唯一の情報源である難波からイベントの話を教えて貰ったり、新しい情報は無いかとインターネットの海を彷徨っていたりしたあの頃が懐かしいと思えるほど、今、彼の情報はそこかしこに転がっている。
嬉しい。正直嬉しい。けれど元々SNSには不慣れであったし、ファンの子が騒いでいる情報元がどこにあるのか、探すことにも追いつかない。情報が多すぎて、世間で彼が消費されていっているような気がして、悲しくなる時もある。
「供給が多すぎて、正直、辛いです。メディアに注目されてないアーティストのファンの子からすれば、嫌味にしか聞こえないでしょうけど……」
「わんこくん……」
がっくりと項垂れる尚哉の肩にそっと触れ、瑠衣子は慰めの言葉をかけようとする。こんな時に何を言えばいいのかわからない。分からないから、ふと自分の師を仰ぎ見た。そこには、瑠衣子と同じように言葉を選ぼうとする高槻の姿があったが。
「あれっ?」
急に大きな声を出した瑠衣子に、尚哉は顔を上げる。瑠衣子の視線の先には、高槻がいた。しかし高槻自身も彼女の突拍子もない声の理由はわからなかったらしい。目を丸くして、瑠衣子を見ている。
「わんこくん、そこまで辛いならSNSやめよ。一旦距離置いた方がいいよ」
「そう、ですよね……」
「もしそれでもSTARTさんのことが知りたくなったら、アキラ先生に会いに来よう!」
「…………え?」
「瑠衣子くん?」
ちょっと良く、分からないが、とりあえず彼女の話を聞いてみる。
「今気づいたんだけどさ、STARTさんってアキラ先生に似てない?普段物腰柔らかくて、紳士的だけど、自分の好きな絵の話をする時は子どもみたいにキラキラした目をして、テンションが上がっちゃって大変なの!」
言われてみれば、二人は似てる、気がする。
「しかも、身長も高いし、キャラメル色の髪質だし、ふわふわしてるし、顔面強い!」
「る、瑠衣子くん……」
今は瑠衣子の方がいつもの高槻みたいで、おろおろしている高槻を見るのも初めてで、尚哉は口元を緩める。
「しーかーもー犬!!」
「犬……?」
「二人とも、大型犬、ぽいでしょ?」
「ふふっ……そうですね」
ついに堪えきれなくなって、尚哉は笑った。確かに高槻と彼は似ている。瑠衣子が言った外見的特徴も、その性格も、いつも静かに微笑むその姿は温もりが感じられるけれど、どこか寂しげな雰囲気を醸し出すところも。
「だから、寂しくなったら、アキラ先生に会いに来て」
「はい、そうしますね」
「よーし!じゃあ、そういうことなんで、アキラ先生は、その時になったら、わんこくんを慰めてくださいね」
「えっ僕まだ話が掴めてないんだけど」
「宜しくお願いします、先生」
「深町くんまで!」
研究室はいつも以上に騒がしくて、まるで以前パーティをやったときみたいに笑い声が響いていた。今まで悩んでいたことが嘘みたいに晴れやかで、尚哉は、やっと純粋に、彼の作品を好きだという気持ちに戻れたのだった。
Fin