あんなことや、こんなあそび毛穴の行方「失礼しま……えっ……」
研究室の扉を開けた途端、尚哉は突然眼前に広がる「迫る院生と迫られる准教授」の図を見つけてしまい言葉を失った。
この二人に見つかれば、面倒臭いことに巻き込まれてそうだと身を引いたのも束の間、「あ、深町くん〜」「わんこくんだ!丁度良いところに!」と完全に見つかってしまい、渋々室内に身体を滑り込ませる。
「何やってんですか、こんなところで」
「良かったぁ深町くんが来てくれて」
尚哉が入った途端に離れる二人と、あからさまにほっとした高槻を見て、やっぱりさっさと逃げれば良かったと心中で思う。明らかに変なことに巻き込まれそうな予感しかしない。
「あ!変なことしてないよ!瑠衣子くんが僕の顔見たいって言うから」
そんなことだとは分かっている。元々瑠衣子は純粋に民俗学に興味があり高槻ゼミに入ってきた一人だし、愛だの恋だのと言う前に研究してる方が楽しい!とは瑠衣子談だ。しかしその瑠衣子がどうしたと言うのだろう。
「そういえばさっき『丁度良い』ってな――」
何の話だと尚哉が訊く前に、眼前に瑠衣子の顔が飛び込む。
「な、近いです、瑠衣子せんぱ」
「ちょっと黙って」
鋭く遮られた途端両頬をむぎゅっと両手で挟み込まれながら、尚哉は瑠衣子に壁際に迫られた。滅茶苦茶、見られている。穴が開きそうなほど。しかもその視線がビシビシと感じるほど瑠衣子の顔も近いし身体も近い。彼女の香水だろうか、化粧品か花の様な香も感じるほど距離が縮まって。
「あの、そろそろ」
「ねぇわんこくん!」
やっとの至近距離から解放されて、ほっと息を吐いたのも束の間、キラキラした目で瑠衣子から呼ばれる。
「どんなお肌のケア、してる?」
*****
つまりは、こういうことだった。
瑠衣子が塾の仕事の前にメイクをしているときのこと。たまたま化粧のノリが悪かったらしい。
それを端に発して毛穴が目立つようになった、肌に透明感が無くなってきたのではと急に気になるようになった。本日本を借りようと高槻の研究室に訪れたところ、光源がさほど強くない部屋で光を浴びたかのように発光している件の准教授と目が合った。その肌は遠くからでもきめ細かく、透き通っているように見えた。
「――と、こういうわけでアキラ先生の毛穴レスなお肌を観察させて貰っていたの」
「はぁ」
「そしたら、わんこくんもお肌ぴちぴちじゃない?!その秘密を教えてもらおうと思って!」
一応説明されたが、未だに良く状況が掴めていない尚哉に、食い入るようにして瑠衣子が尚哉を見つめている。このままでは先程の状況と同じことになりそうだと危惧した尚哉は、早々に答えを教えることにした。
「何もしてません」
「えー?」
「何もしてないですよ、朝起きて、顔洗って、化粧水付けて、乳液付けて、終わりです」
夜も同じです。と付け加えるところに高槻が「へぇ」と相槌を打つ。
「何ですか」
「深町くんも今時の男の子だなぁって。僕は最近こそ化粧水付けてるけど、学生の頃は顔洗って終わりだったなぁ」
「難波が色々おすすめしてくれて、でやってみたら顔が突っ張らなくなったので、それだけです……」
自分では地味路線を突き通したいし、おしゃれなどは良く知らないが、良いところは、真似してみようとそれで始めただけだ。そんな尚哉をどこか微笑ましい目で見てくる高槻に居心地を悪くしてそっぽを向くと、その先に苦渋の表情をした瑠衣子がいた。
「瑠衣子先輩?」
「あ!なに!普通だなんて、思って――」
「ますよね」
瑠衣子はほとんど嘘を吐かないが、たまにこういうことがあるので先取りして口を出す。尚哉が言うと、しゅんとした表情になるので、焦ってしまう。しかし何だかその表情は、この部屋の主に似ている気がする。さすが師弟はそんなことろまで似るようになるのか。
「えーと、すみません。本当に普通のことで」
「いーのいーの、それこそ、あんまりケアしてないって人の方がお肌がキレイな人多いもんね。普通が一番ってことかなぁ」
別に悪いことをしたわけではないのに申し訳なくなる。何とか瑠衣子を納得出来るようなことは無いかと絞りだしたものは。
「あ、泡!」
「泡?」
「泡……を、いっぱい作ってます。あと、化粧水、沢山使って、ます……」
絞り出したが、あまり参考にならないような内容だった。これでは言わない方がましだったな、と考えていると近くからそうか!と声が聞こえた気がした。
「分かった!ありがとうわんこくん!アキラ先生もお肌見せてくれてありがとうございました〜。じゃ、バイト行ってきます!」
「え?うん。気をつけてね」
バタン、と力強くドアが閉められて。その場に残された二人は二人してポカンとしてしまう。
「何だったんだろう……」
「何だったんでしょう……でも瑠衣子先輩が元気になって良かったです」
そうだね、と高槻が言ったあと何かを思いついたように尚哉の方へ足を向ける。そのまま近づく高槻は、先程の瑠衣子と同じくらいの距離になって。
「なんですかあんたも」
「いやぁ、深町くんのぷりぷりお肌、僕も見たいなぁって」
そう言ってじい、と見てくる高槻に呆れたように尚哉はため息をついた。
「いつも見てるくせに、何言ってんですか」
「え、自覚あったの?」
「あんだけジロジロ見られてたら……ってだから近いです」
変わらずに見つめてくる高槻から逃げるように顔を捩るも、今度は腕が伸びてきてその両頬に柔らかく添えられる。
「何だか、キス出来そうな距離だね」
「は?だから近……っん」
「我慢出来なくて、しちゃった、ごめんね」
「……馬鹿」
ここはまだ学校の中だとか、こんな時間でとか、誰か来るかもとか言いたいことは色々とあったが、恥ずかしさを隠すために高槻から顔をぷいと向けてみると、高槻からくすくすと笑う声がする。
「また今度、誰もいないところで深町くんを堪能させて」
――深町くんのお肌のもっと奥も僕に見せてよ。
触れていた掌をそっと離しながらも小指の先で尚哉の耳を掠めた高槻は、その微かな刺激にさえも顔を赤らめる尚哉に、満足そうに微笑んだ。
Fin
おしおき ご馳走様でした、と食後の紅茶を飲み終えた高槻をちらりと盗み見た尚哉は、来るべきこのチャンスに心の中で大きく口角を上げた。
「せんせ」
「どうしたの、深町くん」
「ちょっと試したいことがあるので、ソファで寝っ転がってもらえませんか?」
出来るだけ警戒心を持たせずに、彼を意のままに操るために。羊の顔をして、彼を誘導してみる。いきなりの提案に高槻は驚くも「わかったよ、こう?」と大人しく従ってくれた。いつもお茶を飲み終わったあとは、イチャイチャする時間だ。尚哉が何か、高槻を喜ばせようと考えてくれているのかとワクワクしているのが見て取れる。
「そうです。上手ですね」
そう言いながら、尚哉もソファに近づく。身長差のせいでいつも見上げる高槻は今、尚哉の視線の下で大人しくしている。それが、とても、そそられる。
「ねぇ、先生」
よいしょ、と大胆に高槻の上に跨った尚哉に、高槻は目を丸くしている。高槻の腰に浅く腰掛けて、少し腰を浮かせる様子はまるで行為を彷彿とさせてしまう。いつもとは違う体勢に、期待で瞳を輝かせる高槻を見下ろして、尚哉はうっそりと笑った。
「先生?俺こう見えて怒ってるんです。どうしてだかわかりますか?」
「え……?え、と、」
「理由は二つあるんですよ、見当つきますか?」
「二つ……?え……、んっ」
高槻の返答を待たずに、ゆっくりと前傾になり両手を胸に置いた尚哉は、その腰を前後に揺らす。一瞬だけ擦れる服の重みが、眠っている高槻の夜の炎を目覚めさせそうになる。
「……俺、先生の隠されてる全部が知りたいわけじゃないんです。先生が、俺に隠そうとしていることが気に入らないだけ」
体勢はそのままに、腰の動きを止めて尚哉は高槻に問いかける。笑みを浮かべているのは尚哉だけ。これは相当な怒りを買っていると、その下で高槻は焦った。
「もしかして、僕が風邪をひいて寝込んでたこと……?」
「それもありますね」
答えたご褒美とばかりに、尚哉の腰はゆっくりと揺れる。「あとは?」
「あと、は……っ、健ちゃんと怪異の調査に……行った、こと……?」
「惜しい」
ゆらゆらとたゆとうように揺れていた尚哉の身体が止まる。高まる途中で投げ出された高槻が焦れるように尚哉の腰に両手を伸ばしたが、その手は無残にも跳ね退けられた。
「俺に内緒で行った怪異の調査で、怪我をしたことです」
膝立ちになり、高槻を冷ややかに見下ろす尚哉に、高槻はふるりと震える。ああ、この子はここまで自分を心配して、怒ってくれる。それほど愛されているのだと実感すればするほど、彼への恋慕が止まらない。嬉しさで胸が震える。彼を愛してる。彼に愛されている。
気持ちが昂って、顔が紅潮する。尚哉にされた直接的な刺激だけではない、ここまで尚哉に思いをぶつけられるほどの愛情に、歓喜する。
「ごめんね、深町く――」
「気持ちの無い謝罪なんて要りません」
言った途端、また腰を下ろし、今度はあからさまな律動を開始する尚哉に高槻は混乱する。尚哉は今自分をどうしたいのか、尚哉は何を望んでいるのか。
「ふか……っん、はぁ、……」
大きくグラウンドするように腰を揺らされて、思わず声が出てしまう。高槻は登りつめようとしているが、その顔を見る尚哉の表情は冷たいまま。けれど、逆にその瞳が高槻を熱くする。自分が虐げられて悦ぶ人間だと知らなかった。愛する人に開花されたその秘密の花園は、高槻をこれ以上無い快楽の底へ堕として、そして。
「――じゃあ、俺は帰ります」
「……っえ?!深町くん?」
あとほんの少しで絶頂を味わえる、期待に震えた高槻を蹴落とすのも、尚哉だった。あっさりと高槻の上から身を引き、帰り支度をする。かかっていた上着を着てリュックサックを背負うと、満面の笑みで高槻を振り返った。
「おしおきです。もう俺を同じことで怒らせないでくださいね」
「待っ……」
――パタン、と玄関の音が虚しく響いて、高槻は一人呆然としていた。尚哉は、最後の最後まで、高槻に主導権を握らせてくれなかった。こんなことは初めてで、それほど彼を怒らせてしまったと知る。
まだ熱い身体を抱きしめて高槻は思う。「おしおき」だと、彼はそう言った。先程まで近くにあった尚哉の体温はもうそこには無くて、ただそこには欲望を持て余す高槻が存在するのみ。尚哉が点けた火種はまだ、消えそうにない。これが、尚哉なりの「おしおき」。
しかし、このおしおきが高槻に別の火を点けてしまったこと、尚哉は気づいているのだろうか。
「次会うのが、楽しみだなぁ……」
その時は、どんなことをしてもらおうか。
何かを考えついた高槻はぺろりと唇を舐め、笑みを浮かべてもう一度ゆっくりとソファに身体を預けたのだった。
Fin