ふと 自分が発言したことに、あまり意味なんてない。
ふと、思いついたから訊いてみた。たったそれけだった。
先生は35歳で、安定した職業に就いていて側から見れば順風満帆に見える。それなら、「普通」ならば、先生は誰かと家庭を持ちたいと考えたっておかしくないのではないか。
だから、そう。本当に思いついただけなんだ。
「先生って、彼女いるんですか?」
「……残念ながら、いないなぁ」
そう答えた先生に、自分の方が酷く傷つくなんて。
*****
あの時の、先生の表情が忘れられない。
先生の言葉は歪まなかった。加えて先生は、俺に嘘はつかないと言ってくれた。ということは。つまり。
「これって……失恋、になるのかな……」
あれからずっと、先生の声と、寂しそうな顔と、逸らされた視線が―頭の中でグルグル回っている。正直、自分でも信じられない。
きっと、俺は高槻先生のことを好きなんだ。けれど、先生は彼女を探していて。俺は女性じゃないから、先生の彼女になることは出来なくて。
「……はぁ」
先生に会いたくない。
言ってみれば勝手に恋を自覚して、勝手に失恋しただけ。けれど「失恋」が思った以上に尚哉の心に痛手を追わせてしまった。しばらくは講義だけ。それでも、辛い顔をしてしまうけれど、何とか乗り切っていかなければいけないな。
そう考えて、尚哉は痛む胸と共に生きていく決意をした。
……そう、決意をしたのに。
「深町くん、いらっしゃい」
スマホに「研究室に来ない?」と誘いが来れば嬉しくなって、何も考えずにまたこの場所に来てしまった。
いつもと変わらない、古本と、ココアと、あと少しだけ、高槻の香り。部屋の主に失恋をしていても落ち着く空間に、思わず深呼吸をする。
「深町くん?」
「あ、いえ、久しぶりだなって」
あの日から高槻と距離を置いていたのは本当だ。授業を除けば、二週間ほどこの研究室に足を運んでいなかった。どうして遠ざけることが出来たのだろう。こんなに心地よくて、落ち着ける場所を。
「深町くんが最近来てくれないから、寂しくてメールしちゃった。ごめんね、今日はバイトの話でも無いんだ」
そう申し訳無さそうに話す高槻に、恋に敗れ傷ついた胸がじくじくと痛む。高槻は尚哉を求めてなどいないのに、どうしてこの人はこんなに自分に期待させることを言うのだろう。
「そう……ですか」
「それじゃ、駄目……かな?深町くんと一緒にココアを飲んで、君とお喋りしたいって言ったら」
尚哉の様子を窺いながら、躊躇わずに尚哉が欲しい言葉を言ってくれる高槻に余計に胸が苦しくなる。単純に、とても嬉しい、けれど。
「……っ駄目です」
そんなの、駄目に決まっている。高槻に恋していると自覚する以前であれば「今更です」と苦笑しながら言い返したかもしれない。けれど、今の尚哉は傷つけられても尚、高槻へと恋慕する男だ。仲良くなった生徒を、友人として会いたいと紡ぐその高槻の不用意な言葉が、尚哉を痛めつける。
尚哉が拒絶の言葉を返したことで、恐らく高槻を傷つけてしまっただろう。けれどそれ以外の返事は出来なかった。
そんな自分がとても醜いものに感じて、コーヒーカップを持つ自分の手をただ見つめることしか出来ない。
「そっ、か……」
即座に反応した尚哉に、返した高槻の声は少し掠れたように聞こえた。尚哉が想像したよりもどこか悲しさと、辛さが混じり合う、そんな声。
高槻を傷つけた。
大好きな人を傷つけてしまったことに自らの心にも刃が刺さり、掴まれたように痛む胸を紛らわすように早口で捲し立てる。
「先生っは、彼女……が欲しいんじゃないですか、俺に構ってるヒマなんてないと思います」
「彼女……?」
本当は、確信に触れたくはない。
傷はまだ癒えなくて、今でも高槻の言葉一つで塩を揉み込まれるほどの痛みが尚哉を襲っている。けれど、このままあやふやな関係であれば、きっと尚哉は期待してしまう。それじゃ駄目なんだ、高槻が欲しいのは尚哉ではなく――
「彼女なんて、要らないよ?」
何かを察したように瞬きひとつした高槻が、澄んだ声色でそう告げる。
「っ嘘……」
「君に嘘はつかない、そう約束したよね?」
「けど……っ」
――嘘?でもあの時先生は?俺が間違っていた?
混乱しそうな頭で彷徨っていた視線を高槻に留めて、怯えたように尚哉は以前高槻に問う。
「先生、前に言ってたじゃないですか。『彼女がいないのは残念』だって。だからあの時」
――あの日。自分の気持ちに気づいて。同時に失恋したことに絶望して。だから。
「深町くん」
自分の気持ちも、高槻の気持ちも一気に分からなくなり戸惑う尚哉に、高槻の優しく落ち着いた声が優しく彼を呼びかける。
「僕が欲しいのは彼女じゃなくて」
一瞬だけ逡巡したように目線を彷徨わせたあと、何かを決意したように真っ直ぐ尚哉を見つめる焦げ茶色の瞳は、尚哉が大好きだと気づいたものの一つ。
その瞳に安心して続きを促せば、高槻が頬を緩ませ尚哉の手を取り、両手でそっと包み込む。
――君なんだよ、深町くん。
Fin