「四年間ずっと」
「答えがほしかった」
アニがその水晶体に包まれて、今日で何日目だろう。……何年目の、何日目だろう。
海への探索のあと、ぼくらはこの島の至るところへ足を伸ばした。イェーガー先生の手記の通り、この島にはぼくたち壁の民以外の人類はいなくて、あの広大な海の向こうにも、本当に人類がいるのだろうかと途方もない気持ちにさせられた。
しばらくして国内の忙しなさが落ち着くと、ぼくは暇を見つけてはアニの水晶体が保管されている地下室に赴くようになった。……初めの感情は……どうだっただろう。そのときにはもう、『捉えた敵から話を聞き出したい』という気持ちはなかったと思う。――いや、初めから、ぼくがアニを恐れていたのは『敵だから』というよりも、『未知』だからという動機のほうが大きかったかもしれない。……ぼくはもう、自分のことがわからない。
「またアニのところに行くの?」
「……あ、うん」
食堂を出ようと席を立ったところで、ミカサに声をかけられる。こうやって暇を見つけてはアニのところに通っているぼくのことを、あまりよく思わない人がいることには気づいているし、理解もできているつもりだ。それでもぼくにはこれを止めなければいけない理由がわからない。
「お前、ほんと物好きだよな」
「そうかな……」
エレンとミカサはよく思っていないというよりは、心配しているのだと思う。ぼくがいつまでもアニを追い詰めたことを気に病んでいると思っている……おそらくだけど。
「なんだろう。あの場所が静かで落ち着くんだ」
「……ふうん……」
だからぼくはこうやって方便を使って席を立つのだけど、しっくりくる相槌をもらったことはない。
とにかく目的の建物に到着して、ぼくは入室手続きを終える。入室者の帳簿にはほとんどぼくの名前しかなくて、ここで他の人の名前を見つけるほうが難しいくらいになってしまった。
だいたいいつもここの守衛を任されているヒッチは今は休憩にでも行っているのか、姿が見当たらなかった。……見つかると茶化されるので、ぼくはそそくさと階段を下って、その青白く光る水晶の前に躍り出る。
「……アニ、こんにちは」
今日はどんな表情をしているだろう。……近寄って確かめてみても、やはり昨日からの変化はなさそうだ。
いつ見てもアニを包むこの水晶体はとても美しくて、そして冷たそうだった。果たしてこちら側の声がアニにまで届いているのかもわからない。
それでもぼくは話を止めることはない。……自分でもどうしてだと聞かれても説明はできないけれど、それでも心の深いところでただただそうしたいと思っていることだけはわかる。……君がこの島で唯一、立場としての〝敵〟だからだろうか。
「……アニ」
自分の考えにうんざりして、ぼくはいつものようにアニの目の前に腰を下ろした。
「……昨日も話したけど、ここ最近はさ、新兵器の操作の訓練ばかりなんだ」
残念ながら今のぼくたちは毎日が同じことのくり返しで、正直なところ、目新しいことは特に話して聞かせることはできない。アニからの返答もない。わかっているけど、話さずにはいられない。……どうして。それはぼくにもわからない。
「自分たちを守るためだってわかっていても、人殺しのことばかり考えてるみたいで……気分が滅入るよ」
――ぼくたち『壁中人類』を滅ぼしたいと思っている人たちがいることはわかっている。そしてぼくたちは彼らのことを『敵』と呼ぶ。せっかく壁外にも世界が広がっていて、その世界に幾千万もの人々がいるというのに、それらを区別してしまわないといけないのは、とてももったいないとぼくは思ってしまう。……例え幾千万の集合体だったとしても、一人ひとりに名前があって、家族がいて……好きな人がいて、夢がある。……これだけ人がいるのに、どうして殺し合わなければいけないのだろう。――自由とは、夢とは、奪い合いわないと手に入らないものなのだろうか?
いや、ぼくたちが今どうしてこんな状況にあるのか、その経緯も道理も理解はしている。……けど、そういうことではない。ただ純粋に、どうしてそうである必要があるのか、ぼくにはわからなかった。
こんなこと、誰にも打ち明けることはできないけど、出自も民族も能力も過去も罪も罰も……ぼくにとって、これらはもうどうでもいいことにしか思えなかった。
「……もっと他に、道はなかったのかなあ……」
落としていた視線を持ち上げる。
アニが必死に守ろうとしたものすべてを閉じ込めて、この青白い水晶体は今日も美しく輝いていた。
「……なかったんだろうね……」
いくら尋ねてもアニからの返答はない。……これもわかっていたことだ。
また落ちそうになった視線を引き止めて、ぼくは少し体勢を前に倒した。ぼくが誰に話しかけているのかわかりやすくするためだけど、それに意味がないことも知っている。
「ねえ、その中ってどんな感じなの? 息苦しくないのかな」
いくら答えやすい質問に変えたからと言って、言葉が返らない事実は変わらない。けれど返答がないと実感する度に、どうしてこうなってしまったのだろうと考えてしまう。アニの言葉を待ち望む気持ちが溢れて、ときどき涙がこみ上げるほど渇望してしまう。
――あのとき、ぼくは何も知らなくて、ただ見えない敵の存在に怯えていたから、ああするしかなかっただけだった。……きっとアニも、あの場でどうすることが最善なのかわからなくなって、こうなってしまったのだろう。後悔とは少し違う感情だ……ぼくはこれに何と名前をつけたらいいだろうか。
でも今、ぼくらはもう無知ではないから。……もっと、ちゃんと、
「……ねえ、アニ。本当はどうしたかったの」
――できることならぼくは、もっと君と話がしたかった。ときどき覗かせる君の優しさをもっと見たかったし、無口な君がその奥に隠していた心を、もっと知りたかった。……今でも、こんなにも。
「君もそんなところにいるのは辛いだろ。……今ここですべての柵から解き放たれたとして、君はどうしたい? まず、何をする?」
アニがそこから出てきたら、ぼくはなんて声をかけるだろう。今なら『敵』とか『味方』とか、そんなものはすべて取り払って話ができるような気がするんだ。
「…………ぼく……は……」
――君と話がしたいよ、アニ。
「お客さーん、」
背後から唐突に声をかけられて、ビクリと肩が跳ね上がった。
「お楽しみのところ残念ですが、お呼び出しですぅ」
聞き慣れた声と喋り方で誰なのかはすぐにわかり、ぼくは大慌てで立ち上がった。
「ええ、うそ。さっき着いたばかりなのに」
〝話の途中〟で終了を余儀なくされて、ぼくは子どもっぽく文句を垂れながら階段のほうへ向かった。どうやらしっかりとその職務を遂行していたヒッチは、同情するでもなくしれっとぼくを送り出そうとする。
「仕方ないでしょう。団長さんが探しているってよ」
「……はあ、わかったよ」
話の途中だなんて残念がっているのはぼくだけだとわかっていても、アニの表情を確認せずにはいられなかった。いつかアニが何にも囚われることなく、あのころよりももっともっとアニらしく返事をしてくれる日を、ぼくは待ち望む。……そうか、だからぼくは毎日こうやって――。
「――じゃあね、アニ。また来るよ」
***
「答えたかった」
ぼんやりと浮かぶ意識の中で、今日もふかふかと私は漂っている。
まるで水の中に浮かんでいるような心地だと思っていたような気がするけれど、今となってはもうよくわからない。ただ、自分が今どこにいるのかはわかっていて、どうしてそうなったのかも覚えている。
毎日毎日、誰もいなくなるとくり返し考える。……私を早くここから出して。いいや、出さないで。こんなのにはもう耐えられないと思うのに、果たして外に出たところで耐えられる現実が待ってくれているだろうか。
ベルトルトは死んだらしい。どうやらライナーは故郷へ帰ったそうだ。……ライナーの帰りを見た父さんはどう思っただろう。そこに私がいないことを知って、ひどく落胆しただろうか。父さんのことを考えると胸が引きちぎれそうになる。……必ず帰ると約束したのに……ああ、私は今日もまだ、こんなところでふかふかと浮かんでいる。
「……アニ、こんにちは」
そうやってぐるぐると考えていると、ときどき知っている声が意識に紛れ込む。……アルミンの声だ。私はこの声を忘れない。こうなってしまった私が聞くことのできる、数少ない声の一つだから。
「……アニ」
また呼ばれる。当然意識はそちらに呼ばれ、引きちぎれそうだった胸の痛みもどこかへ鳴りを潜めた。
「昨日も話したけど、ここ最近はさ、新兵器の操作の訓練ばかりなんだ。……自分たちを守るためだってわかってても、人殺しのことばかり考えてるみたいで、気分が滅入るよ」
アルミンはこうやってよく私に話を聞かせた。何の他愛もない日常の話だ。
だけどそれらは私が生きてきた日々とそう変わらなくて、言葉の度に色んな情景が思い浮かぶ。
『……私も毎日毎日格闘技の練習をしていたよ。うんざりしたことも、もちろんあったさ。……けど、武器の練習をしているときも、巨人化の訓練をしているときも、〝人殺し〟のことなんて考えたことなかったかもね。あんたはきっと、そういうところもすごいんだと思う』
振動させられる空気がここにあるのかすらわからないけど、私の返事が届いていないことだけは確信していた。その度にもどかしい気持ちになる。――あんただけ好き放題言うなんてずるいよ、なんて不貞腐れても、ここは自分で入り込んだ殻の中なのだから、それを享受するしか私に術はない。
「……もっと他に、道はなかったのかなあ」
寝言を呟くように曖昧な声が聞こえた。微かにしか届かなかったけど、確かにアルミンの声でそれは聞こえてきた。何度も何度も、アルミンはよくこの問いを私に向ける。まるで考えろ、考えろ、と示してくれているようで、私はその度にそれについて考える。だけど……、
『何度聞かれても同じだよ。あのとき、あの場所では、もうほかに道はなかったんだよ』
「……なかったんだろうね……」
不意に相槌のような声が意識に入り込む。こちらの声は聞こえていないのだから、偶然の会話なのはわかっていたけど、意識が通じたようで胸が高鳴った。例えその声がひどく落胆したようなものでも、今の私には〝すべて〟だった。
「ねえ、その中ってどんな感じなの? 息苦しくないのかな」
『よくわからない。ただ……あんたやヒッチが来てくれないと、とても寂しいよ』
偶然はそう何度も重ならず、返答は届かずに私の深層に消えていく。どうしてあんたの声が届くほど近くにいるのに、顔もよく見えないのだろう。あんたが話しかけてくれるから、私も話したいことがたくさん溢れてくるのに……ときどき全身を掻きむしりたくなるほどもどかしくなる。
「……ねえ、アニ。本当はどうしたかったの」
また、よく投げかけられる質問だ。本当はどうしたかったのか、どうしてアルミンがそんなことに興味を持つのかは理解できない。『どうしたかったか』なんて、存在しない別の世界でのできごとだ。今さら、そこまでときが戻せるわけでもないのに。
「君もそんなところにいるのは辛いだろ。……今ここですべての柵から解き放たれたとして、君はどうしたい? まず、何をする?」
――問われて、一番に浮かんだのはアルミンの顔だった。それから、ヒッチの顔。……父さんの、顔。
今ここですべての柵から解き放たれることなんてあるわけがない。……けど、いいよ、答えてあげる。
『私は――、』
「…………ぼく……は……」
消え入りそうなアルミンの声に遮られて、私の思考は〝言葉〟にはならなかった。
「お客さーん。残念ですが呼び出しですぅ」
それから続くようにヒッチの甲高い声が響いて、私はこのときの終わりを知る。
「ええ、うそ。さっき着いたばかりなのに」
「仕方ないでしょう。団長が探しているってよ」
「……はあ、わかったよ」
声がだんだん遠のいていく。私の意識の中に灯っていた光のような、道を示してくれているような、そんな気配が、遠のいていく。……私を、置いていく。
「じゃあね、アニ。また来るよ」
もしも涙が流せるなら、この込み上げた感情は行き場を見つけて消えてくれただろうか。私を閉じ込めるこの殻は、私の感情も何一つ逃すことなくここに留める。……あんたに返事がしたいと思う気持ちも、置いていかないでと、切望するような感情も。すべてここに留めて膨大な重りとして、私をこの狭い殻の中でもがかせる。
『なんで? ……なんで来てくれるの』
「ほんと、よく来るよねえ」
どこかへ消えてしまったアルミンの気配の代わりに、ヒッチの声が私の正気を取り戻させた。
「冗談抜きであんたが羨ましいわあ」
口ぶりからして、アルミンは本当にもうどこかへ行ってしまったらしい。
……そんなことは当たり前だ。本当はもう、とうの昔に用済みになった私の元へまだ通っていることが、そもそもおかしいのだから。
「……あんたのこと無口だとは思ってたけど、ここまでとは思わなかったよ」
ヒッチがあちらこちらと歩き回っているのが、声の動きでわかる。まったく落ち着きのない人だなと思う……けど、今はそれが救いだったりもする。
「もっと愛想よくしないと、彼からも嫌われちゃうわよ」
――彼? 誰のことを話しているのだろう。話の前後から考えてアルミンのことを言っているのは見当が着いた。……だとしたらヒッチは暇つぶしに飛んだ皮肉を見舞ってくれたものだ。
『この島で、私を嫌いじゃないやつなんて、初めからいなかったろう』
今さらそんなこと言われても、悲しくはない。私には父さんがついている。……ただ、少しだけ、寂しさが心臓の辺りを切りつけたようだった。……私はこのままここで忘れ去られていくのだろうか。こうやって私に会いにきてくれる人も、その内……――
「……ねえ、本当にずっと、このままなの?」
ヒッチの声は少し震えているように聞こえた。……私を苦しめる感情の塊が、また少し育ったように思った。
いやだ、このままでいたくない。私はあんたやアルミンがくれる言葉に、いつかちゃんと……、
***
四年間ずっと、
「答えがほしかった」
「答えたかった」
あとがき
アルアニちゃんしんどすぎて……
殴り書いてしまいました……
お粗末さまでした……
これが初めてのアルアニちゃんだなんて……131話恐ろしい……
なんというか、アルミンくんからの矢印についての解釈は山ほどあると思いますが、
個人的には、アニの返答を待ち望む気持ちがだんだん執着に変わって、それが愛着に変わって、
気づいたときにはもう遅かったって感じじゃないかなあって思いました。
アルミンくんにとっても、『気兼ねなく』話せる相手だったのかもしれないなあと思ったり……。
もう自分がアルアニちゃんにどうなってほしいのかよくわかりません。
二人のことを考えたらしんどすぎて涙出てきます……
とにかくできる限り幸せになってよ……
お粗末さまでした。