【刀剣】あと一歩が踏み込めない話【いちおに】 各時代への出陣や遠征の部隊編成は審神者が行っているが、演練は自主参加となっている。一部の者たちは実戦以外は用がないと言い、この本丸の演練参加率は著しく低いのが現状であった。
それを打破すべく審神者が導入したのが『ご褒美システム』だ。
演練で誉を一定数取った者の要望を聞くと言った、いわゆる物で釣るという大変よろしくない手段である。
当然の事ながら難色を示す者も居たが、条件を満たし政府からの支援を受ける為には背に腹は代えられぬと、理解を示してくれた事によって成り立っている。
「誉スタンプがいくつになったと、弟たちが楽しげに話しておりました」
本日の出陣に関する報告書を作成する為に鬼丸の元を訪れた一期が、休憩がてら先ほど見た光景を口にすれば、敵の進軍ルートを地図上で確認していた鬼丸は、ちら、とも相手を見る事なく、そうか、とだけ返した。
「あまり無茶を言って主を困らせなければ良いのですが」
人妻に執着する弟の事が脳裏をよぎったか、はは、と困ったように笑う一期に、鬼丸の手が、ぴたり、と止まる。
「他人事ではないぞ」
淡々と発せられた言葉に、はて? と一期が不思議そうな顔を見せれば、鬼丸は卓に頬杖をつきどこか疲れた息を吐いた。
「大包平と手合わせさせられた」
これまで、のらりくらり、と避けていた鬼丸にも若干の非はあるが、審神者が初めにきちんと「自分に出来る範囲で」と指定しなかったせいで、可能な要望の範囲がガバガバであったのだ。
「よく了承されましたな」
審神者の落ち度である為、知った事か、なんでおれが、と鬼丸ならば突っぱねると思ったのだ。だが、過去形で語られていると言う事はつまり、大包平の要望を叶えた後と言う事だ。
「……長谷部に土下座までされたら、さすがに断れないだろう」
瞼を伏せ、はぁ……、とため息をついた鬼丸はその時の事を思い出しているのだろう。
常日頃から主に尽くしている姿を見ている事に加え、鬼丸とは浅からぬ縁のある刀だ。そこまでされてすげなく断れるほど薄情ではない。
「それは……大変な目に合われましたな」
お疲れ様です、と労いの言葉を掛けられ、色の薄い睫に縁取られた瞼がゆっくりと持ち上がっていく。
「お前なら、なにを望む?」
不意に投げられた問いに一期の目が、ぱちり、と大きく開かれた。
「私、ですか……」
考えた事もなかったと、口に出すまでもなく顔に出ている一期を前に、鬼丸の目が僅かに細められる。
「そうですね……現世のてーまぱーく? でしたか。映画の世界を再現した物があると弟たちが話していましたので、そこに連れて行ってやりたいですね」
「そうじゃない」
どのような答えが返ってくるかわかっていたのか、違う、と鬼丸は即座に首を横に振った。一期は困惑しつつも笑みを浮かべながら、なにがでしょう? と穏やかに口にした。
「弟たちは関係なしの、お前自身の望みを聞いている」
なにをするにもまず『弟』の存在を挙げてくる事を、一期自身は自覚しているのかいないのか。
指摘された瞬間、きゅっ、と唇を引き結んだ一期だが、瞬きひとつの間に先と変わらぬ柔和な笑みを浮かべ、困りましたな、と僅かに眉尻を下げた。
「特にこれと言って行きたい場所がある訳でなし、かと言って欲しい物があるでもなく……」
「……そうなのか」
とん、と鬼丸が指先で自身の下唇を軽く叩き、ちら、と上目に見てくる。
「なんでもいいぞ」
すい、と伸ばされた指先が卓に乗っていた一期の手の甲を、引っ掻くように何度も柔く掠めていく。
その仕草が何を意味するか理解した瞬間、一期の心臓が派手に大きく鳴った。
懸想人からの誘いとしか思えぬそれにやかましく鳴り続ける鼓動を宥めつつ、冷静に冷静に、と己に言い聞かせる。
万が一、誘いだとの解釈がとんだ勘違いだった場合、居たたまれないどころの話ではない。
「……からかわないでいただきたい」
ようよう押し出した声は喉に引っ掛かり、一期は困ったように目を泳がせる。珍しくも僅かに口角を上げている鬼丸の様子から、反応を面白がられているのだとわかってはいるが、彼がこのような事をしてくるのは意外であった。
甲を擽るいたずらな指先は止まる事なく、鬼丸は黙ったまま一期を見つめている。
無言の催促に一期は内心で呻き声を上げながら、一旦瞼を伏せ、そろり、と鬼丸を見た。
「ひどいことをしたい、です」
何か言うまでこの責め苦のような時間が続くのであれば、相手が呆れてこの話をここで終わりにする事を言えば良いのだと思っての発言であった。
こう言えば鬼丸の方から「冗談だ」と返されると思っていたのだ。
「具体的には?」
だが、全く動じた様子もなく、それどころか、にぃ、と猫のように目を細められ、甲で遊んでいた指先が意味深に中指を辿る。
「あ、ぅ……いや、その……ちがっ、あっ貴方の作ったご飯が食べたいです!」
中指を軽くつまんでいた鬼丸の手を振り払うように、ばっ、と勢いよく腕を上げた一期は、見ている方が気の毒になる程に顔を真っ赤にさせている。
まるで挙手のような格好になった一期の姿に、ふっ、と鬼丸は軽く笑いながら己の手を引き戻した。
「覚えておく」
そう言うや立ち上がった鬼丸は、一期が問うてくる前に「茶を入れてくる」と断りを入れ、障子に手を掛けた。
廊下に踏み出す瞬間、ちら、と肩越しに一期を見やった鬼丸は「このへたれめ」と唇に乗せる。
はっ、と一期が顔を上げたのと同時に、すたん、と障子は閉められたのだった。
2023.08.10
2023.08.13 修正