さよなら、私のアルファ※オリジナルキャラクターが複数名登場します。苦手な方はご注意ください。
◆オリジナルキャラクター紹介
・レイ
リックの三人の部下の中でも最年長で、落ちついた頼りがいのある男性。
リックを優しく見守る良き理解者。
・リリー
リックの部下の一人であり、明るく優しい女性。
持ち前の明るさでリックを励ますことも多く、気安い友人のような存在。
・ウォルター
リックの部下の中で最も年若く、冷静で物事をハッキリ言うタイプの男性。
いろんなことを考えて提案してくれるのでリックも頼りにしている。
・ロニー
リックとニーガンの息子。二歳。
顔立ちはリック、髪色と瞳の色はニーガンのものを受け継いだ。
人懐っこい性格で、三人の部下とも仲よし。父親たちが大好き。
その日はリックにとっていつも通りの一日になるはずだった。
いつもと同じ時間に起床し、着替えの後は幼い息子を起こしに行き、それからニーガンも交えて三人での朝食だ。
そして、その後の息子の世話をニーガンと部下に任せていつものように巡回の仕事をこなす。
リックがニーガンの番になり、この場所で暮らすことになってから毎日繰り返される日常。
全てのことは変わるはずがないのだと思っていた。
この日常がずっと続くのだと思い込んでいた。
ニーガンから離れることはないのだと、そう思っていた。
リックはいつもの巡回を終えて幼い我が子の部屋へ向かう。
息子のことは部下の一人が面倒を見てくれているが、リックの今日の仕事は終わったので休んでもらおうと思ったのだ。
そのリックの隣を歩いている部下が声をかけてくる。
「リック、今日の仕事は終わったが、この後はどうする?」
「もちろん部屋に戻るよ。だからお前の今日の仕事も終わりだ、レイ。たまには休んでくれ。」
今日の護衛兼補佐を務めているのはニーガンが付けた部下の中でも最年長のレイだ。落ちついた男で頼りになるが、いつも傍にいてくれるので休めていないのではないかとリックはいつも心配している。
そんなリックの心配を余所にレイは微笑みと共に首を横に振った。
「いいや、傍にいる。俺はリックの護衛だから。」
「レイ……仕事熱心なのは構わないが休憩しないとだめだぞ。」
「それは俺だけじゃなく他の二人にも言ってもらいたいね。」
そんなやり取りを続けるうちにリックは息子のロニーの部屋に到着した。
ドアを開ければ床に座り込んで積み木遊びに夢中になっているロニーの笑顔が目に飛び込んでくる。その隣に座るのは年若い部下のウォルターだ。
二人は同時に顔を上げ、ロニーは満面の笑顔、ウォルターは微笑みをリックに向ける。
「パパー!」
ロニーは跳ねるように立ち上がって走り寄ってきた。リックがその小さな体を受け止めると温もりに頬が緩む。
「楽しそうだな、ロニー。何を作っていたんだ?」
「あれ!見てー。」
リックは小さな手に導かれて積み木でできた城らしきものの前にしゃがんだ。
ロニーが「どうだ!」と言いたげな顔をしているので柔らかな頬を撫でながら出来ばえを褒める。
「すごいな、かっこいいぞ。上手にできたな。」
褒められたロニーは照れながらも嬉しそうに笑い、ギュッと抱きついてきたのでリックも抱きしめ返す。そんな仲の良い親子を二人の部下は微笑ましそうに眺めている。
リックはロニーの頭を撫でながらウォルターの方に顔を向けた。
「ウォルター、後は俺が面倒を見るから大丈夫だ。自由にしてくれて構わない。」
その言葉にウォルターは呆れ顔で小さく溜め息を吐いた。
「何を言ってるんですか、リック。僕のメインの仕事はあなたの護衛ですよ。あなたとロニーの傍を離れるわけにはいきませんね。」
ウォルターもレイと同じようなことを言ってリックの言葉を無視してしまう。
もう一人の部下のリリーも彼らと同じで、三人ともリックの傍を離れることをとても嫌がった。
リックは護衛の役割を理解しつつも自室にいれば問題ないのではないかと考えている。そのことを何度言っても彼らは任務を全うしようとするので、そろそろ自分の方が折れるべきなのかもしれないと密かに思い始めていた。
リックは仕事熱心な部下たちに苦笑しながら「わかった」と頷く。
「リック、ニーガンから伝言があります。新しいコミュニティに行くから帰るのは夜になる、とのことですよ。」
ニーガンからの伝言を聞いたリックは思わず眉を寄せた。
新しく支配下に置いたコミュニティがあると聞いていたが、なぜニーガン自ら出向くのだろうか?
コミュニティとの交渉は基本的に部下に任せている男がわざわざ出かけるのは何かあるからだ。
リックが疑問を抱いたのを察したウォルターが少し顔を曇らせながら口を開く。
「……どうやら新しいコミュニティはニーガンの支配に反抗的なようです。だから自分が出向くのだと。」
要するにルシールの出番ということだ。
脳裏にグレンとエイブラハムの顔が浮かび、リックは気分が重くなった。彼らの最期の姿が記憶から消えることはない。
また誰かが見せしめに殺される。それを止める術は今の自分にはない。
リックが無力感に襲われていると頬を小さな手にペシペシと叩かれる。
「パパ?痛いの?」
心配そうに見つめてくるロニーに「大丈夫だよ」と返事をしながら抱きしめる。
リックは幼い息子の存在に救われていることを実感すると同時に会えない我が子たちを想った。
「リック、俺たちは部屋の前にいるから何かあったら呼んでくれ。行こう、ウォルター。」
その言葉を残してレイとウォルターは部屋から出ていった。
彼らは傍を離れようとしないが、こうした気遣いをしてくれるところがリックにはありがたかった。単なる護衛ではなく信頼できる相手として傍にいてくれることが支えになるのだ。
まだ小さなロニーに心配をさせたくない、とリックは気を取り直して笑顔になった。
「ロニー、今度はパパと遊ぼう。何をして遊ぼうか?」
「んーとね、本読んで。」
「いいよ。どれがいい?」
「あれ!あれ読んで、パパ!」
嬉しそうに目を輝かせるロニーを見ているだけで幸せな気持ちになる。
ニーガンとの出会いによってリックの運命は狂ってしまったが、その運命の中でもロニーを授かったことは数少ない幸運だ。
カールとジュディスの成長を見守ることができないなら、せめてロニーの成長だけは見守り続けたい。
リックはその願いを込めながら愛する我が子の柔らかな髪を撫でた。
ロニーと親子二人の時間を過ごし、遊び疲れたロニーを寝かしつけて一息つこうとリックが思った頃のこと。
ドアをノックする音と共に「リック、話があるの!」という声が聞こえた。
声の主は部下のリリーで、彼女はニーガンに同行したと聞いている。彼女が戻ってきたということはニーガンも戻ってきたのだろう。
ドアを開けるとリリー以外にレイとウォルターも一緒だった。三人とも表情が固いことがリックは気になった。
「……何かあったんだな?入ってくれ、話を聞こう。」
リックは三人を部屋に入れてからドアを閉め、改めて三人に向き合う。
「まずは遠征お疲れさま、リリー。今戻ったのか?休まなくて大丈夫か?」
「ありがとう、リック。さっき戻ったばかりだけど、早くあなたに話さなきゃいけないことがあるから。」
リリーは小さく笑みを浮かべたが、すぐにその笑みは消えた。
いつも明るい笑顔の彼女にそれがないということは自分にとって良くない話なのだとリックは悟る。
リックは覚悟を決めるように軽く息を吐いてから「話してくれ」と促した。
リリーはリックの目を真っ直ぐに見つめながら真剣な表情で口を開く。
「──ニーガンが運命の番に出会った。」
リックは目を丸くして「運命、の、番?」とたどたどしく繰り返す。
知っている言葉なのに初めて聞いた言葉のように、一瞬、その意味を理解できなかったのだ。
運命の番とはアルファとオメガの間に存在する本能で結ばれた何よりも強い繋がり。その強さは他の繋がりを捨ててしまえるほどだとも言われている。
ニーガンが運命の番に出会ったということは、つまり───
「俺は番を解消される可能性が高い……いや、解消されるということだな。」
自嘲の響きを含んだ己の声にリックは苦笑を浮かべる。
リックの呟きに三人の顔が苦しげに歪んだ。
「相手は新しいコミュニティにいるオメガで、ニーガンが運命の番だと言ってたから間違いない。二人で家に入ってから出てこなくて……何をしてるのかなんて想像しなくてもわかる。」
「本能には逆らえないからな。俺に知らせるために先に戻ってきたのか?」
「そう。ドワイトが『先に戻ってリックに知らせろ』と言ってくれたから。……ニーガンは明日には戻ると思う。」
今頃、ニーガンは自分以外のオメガを抱いているのだ。
リックはそう考えただけで喉に大きな塊が詰まったような感じがした。
ウォルターは黙り込んだリックに気遣わしげな眼差しを寄越しながらも厳しい表情をする。
「強制的に番を解消されたオメガは二度と番を持てず、発情期になればフェロモンを撒き散らして誰彼構わず誘います。そして番を解消されたストレスで情緒不安定になります。……そうなればあなたは厄介者です。」
「ウォルター!」
残酷な現実をストレートに告げたウォルターにリリーが掴みかかった。それに対してウォルターが抗う素振りは見られない。
「言い方ってものがあるでしょ⁉そんな風に言われたリックの気持ちを考えろっての!」
「わかってますよ!だからって現実は変わらないでしょう⁉」
常に冷静なウォルターが怒鳴るのをリックは初めて見た。それだけ彼が心の整理をできていないという証拠だろう。
ウォルターの声に冷静さを取り戻したのか、リリーはウォルターから手を放して「ごめん」と小さく謝った。
黙って見守っていたレイは慰めるように二人の肩を叩いてからリックに視線を向ける。
「厳しいことを言うが、ニーガンの言う人材が何かを考えれば番を解消されたオメガは人材とは言えない。普通に考えてリックをここに置いておく可能性は低いだろう。」
「俺もそう思う。そのオメガと番になってここに呼び寄せるなら邪魔にもなるしな。」
パートナーの性が何であれ、運命の番を選んで今までのパートナーと別れるアルファやオメガがほとんどだ。それに関連した事件やトラブルも少なくなかった。
運命の番を選ぶのは本能。それは当然のことであり抗えないもの。
だからニーガンは運命の番を選ぶだろう。
「……ニーガンが戻ったら、ここを出ていく。荷物を準備するのを手伝ってもらえないか?」
リックの頼みにレイは悲しそうな顔で頷き、リリーは泣きそうな様子で何度も首を縦に振った。ウォルターも拳を震わせながらもしっかりと頷く。
押し付けられた護衛の役目を嫌がらず、傍で支えてきてくれた三人には感謝しかない。こうして自分のことのように悔しがって悲しんでくれる気持ちがリックには何よりも嬉しかった。
リックは精一杯笑みを浮かべて感謝を伝える。
「お前たちが支えてくれたからやってこられた。本当にありがとう。後もう少しだけ力を貸してくれ。」
真っ先に反応したのはリリーで、彼女は目元を拭うと笑顔を見せた。
いつもと変わらない笑顔にリックは救われた気持ちになる。
「さてと、私のお古のリュックを持ってこようかな。使いやすいし、たくさん入るから。他にも何かないか探してみる。」
そう言って出ていったリリーに続いてウォルターも部屋から出ていこうとする。
「遠征用の保存食を貯めてあるので……持ってきます。二日か三日はそれで大丈夫だと思います。」
ぎこちないながらもウォルターは微笑んでから部屋を後にした。慕ってくれる青年の成長も見届けたかったとリックは心から思う。
一人残ったレイはリックの顔を覗き込んだ。
向けられる眼差しはいつもと変わらず優しい。この眼差しに何度も慰められてきたとリックは改めて実感する。
「ロニーはどうするつもりなんだ?」
「連れていきたい。あの子を手放すなんて嫌だ。だが、俺一人であの子を守りきるのは難しいし、アレクサンドリアの仲間に任せるなんて無責任なことはできない。……置いていく。」
リックにとって何よりも辛い選択だ。カールとジュディスを手放し、ロニーまで手放すことになるとは考えてもみなかった。
それでも幼い我が子が無事に育つためにはここにいる必要があると十分に理解している。
リックは涙が出そうになるのを堪えてレイと目を合わせた。
「レイ、あの子を気にかけてやってもらえるか?お前たちには随分と懐いているから。」
切実な頼みにレイは黙って頷いた。
胸がいっぱいになったリックはそれ以上レイの顔を見ていられず、俯いて床に視線を落とす。
胸が苦しい。息子と離れる悲しさ、番を解消された後の自分への不安、そしてニーガンとの繋がりが切れるという喪失感。
いろんな感情がグチャグチャに混ざり合ってリックを押し潰そうとしている。
それに対して歯を食いしばって耐えることしか今のリックにはできなかった。
リックはよく眠れないまま朝を迎え、いつもと同じように午前中を過ごそうとした。
ニーガンとの繋がりが切れた感覚はないのだが、いつ解消されても不思議ではないと思うと不安が押し寄せてくる。そのことを考えると何をしていても上の空になってしまい、見かねたリリーによって巡回を終了させられた。
リックが部屋に戻ってボンヤリしていると、不意に部屋のドアがノックされた。
「どうぞ、入ってくれ。」
ドアが開かれ、部屋に入ってきた人物を見てリックは自分の顔が引きつったのを自覚する。
「よう、リック。いつもより巡回を終えるのが早いな。」
「ニーガン……おかえり。」
いつもと変わらない笑みを浮かべながら入ってきたニーガンの雰囲気もいつもと同じだ。いつもの、普段通りの姿に僅かに苛立ちが湧く。
そしてニーガンから漂ってくる匂いがリックに強い不快感を与えた。
それは他のオメガの匂いだ。ニーガンに自分以外のオメガの匂いが染みついていることが不快で、そしてニーガンが運命の番と出会ったことは現実であると突きつけられて胸が苦しくなる。
リックは冷静になるよう自分に言い聞かせながらニーガンを見据えた。
「運命の番に会ったそうだな。」
リックの言葉にニーガンは少し目を丸くしたが、すぐに楽しげな笑みに変わった。
「知ってたのか。まだ他のオメガが生きてるとは思わなかったから驚いたが、まさか俺の運命の番だとはな。つい朝までヤッちまった。」
「そうだろうな。匂いが染みついてる。」
ニーガンは「妬いてるのか?」と笑いながら目の前までやって来た。
相変わらず笑みを浮かべているが、その目が探るように細められる。
「……リック、そこにあるのは何だ?」
そう言ってニーガンが指差した先にあるのは荷物の詰まったリュックだ。
外に出ることを禁じられているリックはリュックどころか鞄を一つも持っていないので、この部屋にリュックがあれば目立つ。それを見ただけでリックがサンクチュアリを出ていこうとしていることは察せられるだろう。
それでもニーガンはリックの口から聞きたいようだ。
「外で活動するための荷物が入っている。俺はここを出ていく。」
「なるほどね。とりあえず理由を聞かせてもらおうか。」
ニーガンの顔から笑みが消えた。それだけで背筋を嫌な汗が伝う。
リックは緊張を解すために一つ深呼吸をしてから理由を告げる。
「あんたが他のオメガと番になるなら俺は強制的に番を解消されることになる。そうなった俺は単なる厄介者で人材にはならない。違うか?」
「違わないな。それで?」
「だから厄介者は出ていくと言っているんだ。駄々をこねられるよりその方がいいだろう?無駄が省ける。」
ニーガンは何も言わずにリックを見つめている。
その瞳の奥に何か感情が見えないかと探ってみたが、リックには感情の欠片さえも見つけることができなかった。
そのうちにニーガンはいつもの笑みを取り戻した。
「流石だな。どうやってお前を納得させようかと思っていたんだが、その必要はないわけだ。無駄が省けて助かるぜ。」
なんて軽い口調なのだろう。
仕事の打ち合わせの時と同じ口調で、表情で、ニーガンは「リックを捨てる」と認めた。
そういう男だとわかっていたはずなのにナイフが深く刺さったようにリックの胸は痛んだ。
それでもリックは必死に平静を装って口を開く。
「ロニーはあんたに任せる。俺一人だけじゃ壁の外であの子を守るのは無理だ。」
それに同意するようにニーガンが頷いた。
「当然だな。心配しなくても自分の子どもの面倒は見る。」
「頼む。……これ以上長居しても仕方がないから、もう行く。」
「そうか。まあ、気をつけて行けよ。番を解消されたオメガがどこまでやれるか……頑張ってみろ。」
面白がるように言い残してニーガンは部屋から出ていった。
あっさりと、呆気なく。
そんな言葉が似合う別れだった。
何の感慨もなく、罪悪感もなく、惜しむこともなく、ニーガンは簡単にリックを捨てた。
(そういう人間だとわかっていたじゃないか。たまたま傍にいたオメガが俺だっただけで、運命の番が現れたらそっちの方がいいに決まっている)
一体、自分はニーガンに何を期待していたのだろう?
頬を滑り落ちる涙の存在なんて気づかなければよかった。
リックは涙を拭うこともせずにその場に佇んでいた。
リックが一歩踏み出すごとに砂利の音が響く。
サンクチュアリを出てから二、三時間にはなるだろう。見慣れない景色を目に映しながら歩き続ける両足は重い。
幼い我が子と大切な部下たちに別れを告げ、見送りを断りひっそりとサンクチュアリを出てきたことがリックには何日も前のことのように思えた。
ニーガンとは部屋で別れたきりだ。見送りも、さよならの言葉もない。
リックはそのことに痛む胸から目を逸らし、ウォルターから貰った手描きの地図を見る。
ウォルターがくれたのはアレクサンドリアまでの道のりが描かれた地図だ。この地図はカールとジュディス、仲間たちにきちんと別れを告げようか迷っていたリックの背中を押すには十分だった。
別れの言葉も言えないまま離ればなれになった大切な人たちに今度こそ別れを告げよう。
そう決めたリックはアレクサンドリアを目指している。
ただ、昼を過ぎてからの出発なので今日中に到着するのは難しい。何年も外で活動していなかったせいで感が鈍り、体力も落ちている。無茶をすればアレクサンドリアまで辿り着くことはできない。
しかし、番を解消されるのがいつになるのかわからないので早く行きたいという焦りもある。番を解消するのがいつになるのかを確認してこなかったのは失敗だったとリックは後悔していた。
「聞いたところで教えてくれるはずもないか。」
自分で発した言葉がズシリと伸し掛かる。
番が解消されるタイミングのわからない不安を抱えながらの旅は辛い。
リックには背負ったリュックが重みを増したように感じられて、溜め息までも重たくなった。
リックは完全に日が沈む前に近くの家に入り、今夜の宿を確保した。
ここに来るまでに遭遇したウォーカーの数は少なかった。ウォーカーの駆除が定期的に行われているおかげなのだろう。その点に関してはニーガンたちが救世主と名乗るのも間違ってはいないのかもしれない。
侵入口となる場所を封鎖してから寝床を整えて簡単な夕食を取る。一人きりの食事は数年ぶりで、一人で食べることがこんなにも味気ないものなのだとリックは初めて知った。
脳裏に浮かぶのは世界が変わる前の食事風景ではなく最近のもの。
ロニーがフォークを使って食べる姿を楽しそうに見ているニーガンが、ロニーの口の周りに付いたものを指で拭う。
リックはその光景を思い出して微笑んでいる自分に気づいた。
(幸せだと感じる瞬間が、確かにあった)
ニーガンが憎くて殺したくて、大嫌いだと何度も思った。
それなのに共に過ごす中で幸せだと感じる瞬間は数え切れないくらいにあった。
それがリックには苦しかった。仲間を奪い、自由を奪い、自分と仲間を苦しめる相手なのに、一緒にいて幸せだと感じる自分を許せなかった。
だから「あの男から解放されたい」と何度も願ったのに、願いが叶った今、リックは喪失感に苦しんでいる。
「……もう、寝よう。」
これ以上食事を続ける気になれず、眠って夢の世界に逃げてしまおうとリックは決めた。
食べかけの食事をリュックにしまって寝袋に潜り込んだが、目をつぶっても眠気はちっとも訪れない。体は疲れているはずなのに、サンクチュアリの外で一人で夜を過ごすことに緊張しているせいで眠れない。
リックは飽きるくらいに寝返りを打って溜め息を吐く。
それから一晩中浅い眠りと覚醒を繰り返し、太陽が顔を覗かせ始める頃には完全に目が覚めてしまった。
リックが体を起こして溜め息と共に部屋の中を見回せば、自分が一人きりなのだと改めて実感することになる。
ロニーはまだ眠っているだろうが、ニーガンは何をしているだろうか?
眠っているか、起きているか。起きているなら、一体何を考えているのだろう?
運命の番のことを考えているのだろうか?
リックのことなどキレイさっぱり忘れて。
(ニーガンのことを考えるな。忘れてしまえばいい)
そうやって自身に言い聞かせようとしても頭は勝手にニーガンのことを考えてしまう。
やがてニーガンは運命の番を呼び寄せるだろう。
そうなれば自分の部屋はそのオメガのものになるのだろうか?
自分の時と同じように、あの部屋で自分以外のオメガと過ごすのだろうか?
自分との行為の時のように、甘く熱く自分以外のオメガを抱くのだろうか?
自分に言ったように、「お前は俺の番だ」と甘く囁くのだろうか?
自分以外のオメガと、ニーガンは番になるのか。
「──っ、何だ、これ。」
リックは目から零れ落ちる雫を掌で受け止めながら今の自分の状態に戸惑う。
胸が痛くて、苦しくて、涙が勝手に溢れて止まらない。
「アルファを奪われたくない」と本能が泣き叫ぶ。
「あのアルファは俺のものだ」と本能が吠える。
しかし、涙を流しているのは本能だけじゃない。
「リーダー」ではなく「リック」を見てくれることが本当は嬉しかった。
自分自身を求めてくれることが本当は幸せだった。
いつの間にか心がニーガンを必要とするようになっていたことを認めるのが怖かった。
ニーガンに魂まで囚われたことを誰にも知られたくなかった。
こんな自分と向き合いたくなかったから目を逸らし続けていたのに。
「バカみたい、だ。」
握り込んだ手を目元に押し当てても涙は止まってくれなかった。
アレクサンドリアに帰りたい気持ちは本物だ。子どもたちと仲間たちが恋しくて、会いたくて堪らない。
それと同じくらいニーガンと離れたくなかったと思ってしまう自分がリックは嫌だった。
なんて惨めなのだろう?あの男を憎みながらも求めていて、繋がりが切れることにこんなにも苦しむなんて。
リックの口から漏れる嗚咽は途絶えない。
「ほんとっ……に、バカ、みたいだ。」
まだ途切れていないニーガンとの番の繋がり。
それが失われてしまうのが怖くて、どうにもできないことが悔しくて、その気持ちを洗い流すように涙が湧いてくる。
この涙が枯れる時が来るのなら、ニーガンへの想いも一緒に枯れ果てればいいのに。
その願いが叶わないことをリックは知っている。
空がすっかり明るくなった頃にリックの涙は止まり、ノロノロと出発の準備を進める。
食欲はなかったが何も食べずに歩くのは良くないため、無理やり胃の中に食べ物を落としていく。味はほとんど感じられなかった。
朝食を終えて荷造りを済ませれば出発だ。外に出て太陽の光を浴びると少し気分が軽くなった。
大切な人たちに会うためにアレクサンドリアに帰ろう。迷惑をかけたくないから一緒に暮らすことはできないが、今度はきちんと別れを告げることができる。
それだけで満足だ、とリックの目に光が戻る。
「よし、行こう。」
自分を励ますように言ってからリックは歩き始める。
順調に行けば昼過ぎには到着できるだろう。何年も会っていないので少し緊張するが、早く皆の顔が見たい。
大切な人たちのことを考えただけで萎んでいたリックの気力は回復し始め、道路を踏みしめる足にも力が入る。
休憩を挟みながら進み続けるうちに見慣れた辺りまで辿り着くことができた。調達のために何度も通った道に出られたことに笑みが零れる。
ここまで来れば二時間ほどでアレクサンドリアに着くだろう。もう少しでアレクサンドリアに帰ることができる。
そう思うと心が浮き立った。
(カール、ジュディス、もうすぐだ)
走っていきたい気分だが、久しぶりに長距離を歩いたせいで全身が疲れ切っている。走りたくても足がもつれてしまいそうなので歩くしかない。
「体力が随分と落ちたな。」
一応鍛えていたはずなのに、と苦笑が漏れた。
とりあえずアレクサンドリアまで体力が保てばいい。今は辿り着くことだけを考えよう。
リックが頭の中をそのことで埋め尽くしながら歩き続けていると、遥か彼方に車が停まっているのが見えた。
その車は道路の真ん中を陣取っており、遠過ぎるせいで乗っている人間も何もわからない。
こちら側を向いて停まっているということはアレクサンドリアから来た車なのかもしれないが、わざわざ道路の真ん中に停まっている理由が気になる。
謎の車を訝しく思いながらもリックは歩みを止めない。徐々に近づいていくと、その車に見覚えがあることに気づいて鼓動が速くなる。
あれはアレクサンドリアの車ではない。
「まさか……そんなわけが……」
リックは驚きと緊張を抱きながらどんどん車に近づいていく。
頭に過ぎった可能性を考えれば逃げた方がよかったのかもしれないが、リックにはどうしても確かめたいことがあった。
それは「車に乗っている人物が誰なのか?」ということ。
ナンバープレートの文字がハッキリと見える距離まで近づけば運転手が誰なのかがわかった。
思わず口をついて出た「ドワイト」という名前に反応したかのようにドワイトが車から降りてくる。
ドワイトは何か言いたげにこちらを見たが、何も言わずに後部座席側のドアを開けた。
ゆっくりと降りてきた男は自分のよく知る笑みを湛えてこちらを見る。
「──ニーガン。」
ニーガンの姿を目にした途端にリックの足は完全に止まった。
パニックに近い状態になったリックは近づいてくるニーガンを見つめることしかできず、「なぜここにいるのか?」という疑問をぶつけることもできない。
わざわざ殺しに来たのだろうか?そんなことをしなくても強制的に番を解消されたオメガはこの世界では長生きできないだろう。
リックが緊張と不安でいっぱいな自分を悟られないために睨みつけると、ニーガンは楽しそうに笑った。
「俺がどうしてここにいるのか理由がわからないみたいだな。教えてやるから車に乗れ。」
ニーガンがそう言って手首を掴んできたのでリックは反射的にその手を振り払った。
その瞬間にニーガンが笑みを消したので背筋をヒヤリとしたものが走ったが、怯まずに睨み続ける。
「どういうつもりだ?もう必要ないから自由にしてくれたんだろう?だから俺は好きな所へ行く。構わないでくれ。」
ハッキリと主張したことでニーガンを怒らせたとしても、無惨に殺されるとしても構うものか。
腹を括ったリックはしばらくニーガンと睨み合っていたが、そのうちにニーガンが笑い始めた。その笑いは徐々に大きくなっていき、終いには愉快で堪らないといった様子で笑っている。
その様子をリックがあ然としながら眺めていると、笑いの治まったニーガンに顎を掴まれて無理やり目を合わせられる。
「俺が本当にお前を手放すとでも思ったか?」
囁くニーガンの目がギラギラと輝く。支配欲と独占欲を剥き出しにする時に見せる輝きにリックの背筋がゾクリとした。
アルファ特有の威圧感を前に言葉を失ったリックの手首をニーガンが再び掴み、車の前まで連れていかれる。
リックは車に押し込まれそうになるのを耐えながらニーガンに向かって叫ぶ。
「アレクサンドリアに行かせてくれ!もう少しで着くんだ、きちんと別れを言いたいんだ!頼むからアレクサンドリアに──」
「行かせない。」
感情の欠落した声と凍えそうなほど冷たい目がリックから続きを奪った。
「あいつらはお前が俺の番になろうが俺たちの間に子どもが生まれようがお構いなしに『リックを返せ』と喚き続ける。そんな状態なのにお前が行けばどうなると思う?奴らは俺からお前を奪おうとするだろうな。だから行かせない、絶対に。」
リックはニーガンから放たれる威圧感に負けるように車に乗った。
逆らう気力は一瞬にして消え去った。懐かしい町までもう少しというところで引き返すことになり、悔しさと悲しみが心を覆う。
隣に乗り込んできたニーガンから顔を逸らしたが、肩を抱き寄せられて頬に口付けられた。
「リック、怒るな。全部話してやるから。」
「怒るな、だって?」
瞬間的に勢いを増した怒りのままにリックはニーガンの方を向く。
ニーガンの余裕たっぷりな表情が憎らしく、そんな相手に振り回されることに腹が立った。
「振り回される身になってみろ!怒りたくもなる!あんたは俺をどうしたいんだ⁉」
怒りを吐き出したリックの唇にニーガンの指が触れ、優しくなぞられるとリックはそれ以上何も言えなくなった。
その様子に満足げな顔をしたニーガンは「良い子にして聞け」と語り始める。
支配に抵抗しているコミュニティへの仕置きは特に問題もなく終わった。一人が犠牲になったことによりコミュニティの住人たちはようやく従う気になったようだ。
大仕事が終わった後にコミュニティの中を見て回っていると、一人のオメガが食い入るように自分を見ていることに気づく。
リック以外のオメガが生きていることに驚くと同時に「運命の番だ」と直感する。
何かを考える前にそのオメガに近づき、本能のままに唇を奪えばアルファの本能がオメガを貪りたいと疼く。
そのため部下たちに様々な指示を出してからオメガを連れて見知らぬ誰かの家に引きこもり、思う存分に運命の番の味を味わった。
最中に何度も項に唇で触れたが、噛みつこうとは思わなかった。「このオメガと番になろう」という気には少しもならなかった。
行為が終わった後、名前を聞くことなく立ち去り、サンクチュアリに帰ってみればリックが「ニーガンは他のオメガと番になる」と決めつけて出ていくと言うではないか。
リックは番である自分に執着していることに気づいていないとわかったので、そのことを自覚させてやらなければならないと思った。
だから出ていくことを許した。死なれては困るので部下に密かに尾行させ、ある程度の場所まで行けば自ら迎えに行くと決めた。
つまり、最初から他のオメガを番にする気もなければリックとの番を解消する気もなかったということだ。
ニーガンの話を聞き、リックは驚くと共にひどく困惑する。
運命の番と出会いながらも番にならなかったことが不思議で仕方ないのだ。
運命の番に出会えば惹かれるのはどうしようもなく、「番になりたい」と思う気持ちは抗いようのないものだ。それによりパートナーを捨てた者は数え切れない。
それなのにニーガンは運命の相手と番にならなかった。体を重ねたというのに項に番の証を刻まなかったと言う。
そのことがリックには信じられなかった。
「信じられない……運命の番なんだろう?本当に番になる気がないのか?」
リックが思うままを口にするとニーガンは苦笑する。
「俺はアルファの本能に支配される気はないって前に言わなかったか?」
「それはそうだが、運命の番が相手なのに……」
リックの言葉を遮るようにニーガンの唇がリックのそれに触れた。
触れるだけのキスであってもリックは泣きたいくらいに嬉しかった。ニーガンに触れられることが堪らなく幸せだった。
唇が離れても視線は絡み合ったまま、離れることはない。
「俺が番になりたいと思うのはリックだけだ。それは少しも変わってない。」
ニーガンの顔に浮かぶのはいつもの笑みだ。それでも目は真剣なもので、本気でそう思っていることが伝わってくる。
リックはこれ以上、ニーガンへの想いを隠すことができなかった。
「──ニーガンッ!」
リックは躊躇うことなくニーガンに抱きつく。仲間たちへの裏切りだということを自覚しながらも、ニーガンを求める自分を抑えきれなくなっていた。
ニーガンの思惑通りになってしまったが構わない。
本能で惹かれ、心を奪われ、魂を囚われた。
こうなってしまっては逃げることなどできやしないのだ。そんなリックの気持ちを知っているかのようにニーガンは優しく抱きしめてくれる。
リックが温もりに包まれて幸福を噛みしめているとニーガンが外にいるドワイトを呼び、ドワイトが運転席に乗り込んできた。
「行き先はサンクチュアリか?」
淡々としたドワイトの質問にニーガンが「当然だろ」と答えるのを耳にしながら、リックは自分とアレクサンドリアとの繋がりが完全に切れたことを悟る。
帰りたいと心から望んでいた。子どもたちや仲間に会いたい気持ちは消えていない。
それでもニーガンと離れることに耐えられなかった。遠く離れてしまえば自分は死んでしまうかもしれないと思うほどに、その存在は魂に焼きついている。
(さよなら。今も、これからも、ずっと愛してる)
リックは愛しい者たちの顔を思い浮かべながら心の中で別れを告げた。
心の痛みを癒やすようにニーガンの手が背中を滑ると、緩やかに眠気が近づいてくる。番の腕の中にいるという安心感が眠気を呼び寄せたのだろう。
リックは眠気に身を委ねることに決め、そっと目を閉じる。
意識が完全に途切れる寸前、一滴の涙が零れ落ちた。
サンクチュアリに戻った後、リックは真っ先に幼い我が子と愛すべき部下たちに会いに行った。
ニーガンの計画を全く知らなかった部下たちは驚き、そしてリックが自由になれなかったことを理解して苦い顔をしたが、無事であったことを心から喜んでくれた。
ロニーはリックの姿を見た途端に泣きじゃくりながら抱きついてきたのでリックも思わず目を潤ませた。幼いながらに父とは二度と会えないと理解していたのだろう。泣き疲れて眠るまで自分から離れようとしなかった息子の姿にリックは胸が痛んだ。
リックは一通りの再会が済むとシャワーを浴びて汗を流し、自分の部屋のベッドに倒れ込む。いつの間にかこの部屋がどこよりも落ちつく場所になっていることに苦笑を漏らす。
仰向けになってうとうとしているとドアが開かれてニーガンが入ってきた。
リックは覆い被さってきたニーガンを見上げながら番の繋がりに意識を集中させる。しっかりと存在するそれに安堵の息を吐きながら頬を滑るニーガンの手に自分の手を重ねた。
「今回は外に出してくれたが、次はあるのか?」
そう尋ねてはみたが、恐らく二度と外に出してもらえないだろう。
今回は仕置きのようなものだ。特別措置であり二度目はないはず。
「今までと同じだ。お前は外に出さない。」
「そうだろうと思った。」
リックは小さく笑ってからニーガンの頬を両手で包んだ。
この男が心底憎い。殺したいと思ったことは数え切れず、殺意をぶつけたことも何度もある。
それと同じくらいに離れたくないと思う。向けられる執着に喜びを抱き、見えない枷を自ら嵌めたいと望むくらいだ。
リックはニーガンの顔を引き寄せながら囁く。
「俺を手放そうとしたら殺してやる。絶対に。」
リックの言葉にニーガンが目を見張った。リックがこんなことを言うとは考えてもいなかったのだろう。
しかし次の瞬間にはひどく嬉しそうな笑みを見せた。それは見せかけのものではなく、心からの笑みだった。
「最高の愛の言葉だな、リック。」
どちらからともなく唇を寄せ合い、心を込めたキスを交わす。
二人の間に存在するものが愛情と呼べるのか、それは二人にもわからない。
それでも確かなのは互いに相手を手放せないということだ。
「もし、リックの運命の番が現れたら。」
キスの合間にニーガンが独り言のように呟いた。
その時の目が肉食獣を思わせ、リックは情欲を刺激される。
「──そいつは俺が殺す。」
その宣言と共に噛みつくように口付けられた。
もし本当にリックの運命の番が現れたならニーガンがその相手を殺すのは間違いない。ニーガンは運命を変えるためなら何でもするだろう。
だからリックは願う。「自分の前に運命の番が現れませんように」と。
いつの間にかキスだけでなくニーガンの手による愛撫が始まり、リックは喜びに声を震わせる。そうすると艷やかな笑みを浮かべたニーガンが目を覗き込んできた。
「リック、俺がお前の運命だ。」
リックはその言葉に「お前が俺の運命だと言わないのがニーガンらしい」と思いながら、微笑んで大きく頷いた。
End