亡霊殺し 出口の見えない旅路を行く車が道路の真ん中で停まる。その横に並んで走っていたバイクも停まり、乗り手であるダリルは自ら地面を蹴ってバイクを車に寄せた。そうすると車の運転席側の窓が開いた。顔を出したのはリーダーであるリックで、彼はダリルを真っ直ぐに見つめながら告げる。
「今日の移動は終わりだ。」
短く告げられた言葉に頷き、バイクを降りて後続車にリーダーの言葉を伝えに行けば仲間たちが車から降りてきた。
車を降りた皆は周囲を警戒したり、集めておいた薪を使って焚き火を始めたり、夕食の準備を始めるなどそれぞれに役割を担っている。安全であったはずの農場をウォーカーの群れに襲われてから始まった旅の中で役割のないものは誰一人としていない。全員で協力し合わなければ生き残ることなどできなかった。
ダリルはグループから離れ過ぎないように注意しながら周辺を見回る。脅威となるのは歩く屍だけではない。
ダリルが辺りに鋭い眼差しを向けていると落ち葉を踏みしめる音が聞こえてきた。振り返った先にいたのはリックで、彼は「異変はないか?」と尋ねてきた。
「とりあえずは大丈夫だろ。夜の見張りは──」
「どうする?」と問いかけようとしたダリルを阻むようにリックが「俺がやる」と宣言する。一人で夜通し見張りを行うかのような言い方にダリルは顔をしかめた。
「一人じゃ無理だ。交代でやるぞ。俺が先に見張るから、あんたは後だ。」
「いや、俺が先に見張ろう。」
「だめだ。」
ダリルはリックの言葉をピシャリと跳ね除けた。
リックが先に見張りを行うと交代する相手を起こすのが遅く、交代で見張りを行う意味が皆無に等しいのだ。明け方近くになって起こされた経験が何度もあるダリルは今回ばかりは絶対に譲るつもりはなかった。
ダリルが無言で睨み続けるとリックは小さく肩を竦めてから首を縦に振った。
「わかった。今夜は先に休む。絶対に起こしてくれよ。」
「ああ。」
リックはダリルが頷くのを見てから背を向けてグループの方に戻っていく。その後ろ姿を眺めながらダリルも後に続いた。
グループが旅に出てから、リックは一人で抱え込むことが今まで以上に多くなった。「ありとあらゆることが自分の責任だ」とでも言うように様々なことを背負い、その重荷を誰にも渡そうとせず、苦しみを打ち明けることもない。ダリルにできるのは少しでも彼の負担が減るように思いつく限りで先回りをしてやることだけだった。
リックのためにしてやれることの少なさに溜め息を吐くダリルの視線はリックの右手に吸い寄せられる。リックの右手はジーンズのポケットに入り込み、モゾモゾと動いた後に布を引っ張り出した。
汚れの染み付いた布。それをリックが時々触っていることに気づいたのは最近のことではない。
旅が始まって間もない頃。仲間たちから離れて周囲を警戒するリックがポケットから何かを取り出して、それを握っていることにダリルが気づいたのはそんな時期だった。
一度気づいてしまえば気になってしまうのが人間というもの。ダリルはリックに近づいて彼の手の中にあるものを観察する。
リックが握っていたのは一枚の布だった。よく見てみるとハンカチのような生地であることがわかる。薄汚れたそれをリックが握りしめる理由がわからず、ダリルは首を傾げる。
「おい、何なんだ、その汚い布。」
ダリルのストレートな表現にもリックは怒ることなく握っていたものを見せてくれた。
「ハンカチだ。血で汚れてしまったから元の色がよくわからなくなってしまったが。」
「血?」
「そう、カールの血。銃で撃たれたカールの血が俺の顔に付いて、それを拭ってくれたのがシェーンだった。その時のハンカチだよ。」
思いがけない答えがダリルから返事のための言葉を奪う。
シェーン。リックの親友だった男。リックから最も信頼されていた男は当のリックによって殺された。リックの命を奪おうとした報いではあるのだが、彼のことを語るには今はまだ生々し過ぎる。
黙り込むダリルに対してリックは微笑みながら話を続ける。
「荷物の中から出てきたんだが、いつ入れたのか全く記憶にない。歳のせいかな。」
リックは最近では見せることが珍しくなった笑みを浮かべながら手の中にあるハンカチを見つめる。その様子を見て、ダリルは尋ねずにいられなかった。
「それ、捨てないのか?」
ダリルの問いにリックの肩がビクンと跳ねた。リックは視線をハンカチに落としたまま答える。
「……何となく、捨てる気になれないんだ。」
リックはそう答えてハンカチを強く握りしめた。
リックは未だにシェーンを手放せないのだ、とダリルは悟った。
二人の間に何が起きたのかは知らない。何がきっかけで憎み合い、殺し合いにまで発展したのかもわからない。二人の間に生まれた感情をダリルが知ることは永遠にないのだろう。それでもリックの心はシェーンの方に向いているのだということは嫌でもわかった。
突きつけられた現実にダリルが胸の痛みを覚えた時、目の前で信じられないようなことが起きる。リックの傍らにシェーンが立ったのだ。
前触れなく突然現れたシェーンは胸の辺りを真っ赤に染めながらリックに視線を注いでいる。立ち尽くしたままリックを見つめているシェーンの気配は薄い。近くにいるのに意識を集中させることによって辛うじて感じられる程度だった。そのことから、目の前にいるのはシェーンの亡霊なのだと判断する。
頭がおかしくなったのだろうか?それとも夢でも見ているのだろうか?
混乱するダリルをリックが不思議そうに見た。
「ダリル、大丈夫か?」
様子のおかしいダリルを気遣うリックは傍らに立つシェーンに気づいていないようだ。
ダリルはシェーンの亡霊が見えているのは自分だけなのだと理解し、心配そうなリックに「平気だ」と答える。そのようなやり取りをする間もシェーンの亡霊は無言でリックを見つめ続けている。
(リックしか見てないってことか)
その事実に対してダリルが抱いたのは強い不快感だった。
回想が終わり、ダリルは目の前の光景に意識を戻す。
前方を歩くリックの隣にはシェーンがいる。リックの隣を歩きながら彼を見つめ続ける亡霊はダリル以外の誰にも見えていない。
シェーンが姿を現すのはリックがシェーンのハンカチを触っている時だと決まっていた。現れたシェーンは何をするわけでもなくリックだけを見つめている。
相変わらずリックを見つめている亡霊の存在にダリルが舌打ちをしそうになった時、仲間の一人がリックを呼ぶ。リックは我に返ったように慌ててハンカチをポケットに押し込むと足早に仲間の元へ向かった。
ヒラリ、とリックのポケットから染みだらけのハンカチが落ちる。慌てて押し込んだためにポケットにしっかりと入らなかったようだ。ダリルは音を立てずに地面に落ちたハンカチを拾い上げて、リックの背中に「落としたぞ」と声をかけようとする。
しかし、ダリルはその言葉を敢えて飲み込むことにした。
ダリルはしばらくその場に立ち尽くした後、己のジーンズのポケットにハンカチを捩じ込んだ。
******
放浪中の者たちの就寝時間は早い。辺りが暗くなる前に夕食と明日の準備を済ませてしまえば他にできることは何もなく、眠るしかなくなるからだ。今夜もいつものように早々と眠りに着いた仲間たちは今頃夢の中にいるのだろう。
ダリルは焚き火の前に座りながら周囲の音に耳を澄ます。パチパチと火の爆ぜる音だけが耳に届き、その他には何も聞こえてこない。穏やかな静寂がダリルを包む。
その静寂の中でダリルが取り出したのはリックが落としたシェーンのハンカチ。炎にかざしてみれば血の染みが輪郭を現す。
ダリルがハンカチを手にしてもシェーンの亡霊は姿を見せない。やはり、リックが触れた時だけなのだ。
「鬱陶しい奴だ。」
ダリルは微かに顔をしかめて呟いた。
チリチリと胸を焦がす不快感。リックの傍にシェーンの亡霊が現れると知ってから消えることのない不快感は心の底で澱んでいる。
ダリルはシェーンの亡霊が目障りだった。「リックの相棒」という肩書は失われることのない永遠のものだと思い込んで大切に扱わず、それを失いそうになれば自ら捨てようとしたくせに、死んだ後もリックに執着することが許せなかった。リックを裏切っておきながら今でも存在を求められるほど彼にとって大きな存在であることが妬ましかった。亡霊となって現れると他には一切目も暮れずにリックだけを見つめ、彼の傍から離れようとしないことにひどく腹が立った。
シェーンが死んだ今、「リックの相棒」の座にはダリルが納まっている。
しかし、それは永遠を約束されたものではない。少し離れたら他の誰かがその椅子に座るだろう。誰かの抜けた穴は別の誰かで埋めることができてしまうもの。それを知っているからダリルは絶対にそこから退かないと決めている。
他者から必要とされることは奇跡なのだと知っているから。欲しいものを手に入れることの難しさを知っているから。だからリックの隣は誰にも渡さない。それが亡霊であっても。
ダリルはハンカチを丸めると静かに燃える焚き火の炎に放り込む。
「──さっさと消えてくれ。」
炎に包まれるハンカチを見下ろしながら呟いた言葉はハンカチに取り憑いた亡霊に向けられたもの。
リックの前からいなくなれ、と。
リックの心から消えてしまえ、と。
ダリルは呪いをかけるように願った。ただただ、亡霊の消滅を願っていた。
******
翌朝、空は清々しいほどに晴れ渡っていた。
いつもと同じように朝食を済ませ、旅立ちの準備を終えて、終の住処を持たない者たちは再び終わりの見えない旅に出る。
いよいよ出発という段階になったのでダリルは愛用のバイクに跨る。その時、リックがバイクの横に立った。
顔を向けるとリックはこちらを真っ直ぐに見下ろしていた。その瞳は今日の空と同じ色をしている。
「ダリル、お前──」
そこまで言ってリックは口を閉じた。リックはこちらを黙って見つめたまま右手をジーンズのポケットに入れかけたが、すぐにその手は下ろされた。
ダリルは手を伸ばしてリックの右手を握り、一言だけ告げる。
「どうせ握るなら別のものにしろ。」
見上げた先にあるリックの顔に驚愕が浮かぶ。
思いがけない行動に驚いたのか、言外に主張したことの意味に驚いたのか。
リックの顔に浮かんでいた驚愕はすぐに消えて穏やかな微笑に変わる。
「……それもそうだな。」
そう言ったリックはダリルの手を握り返した。ほんの一瞬の出来事だった。それでもリックは確かにダリルの手を握り返したのだ。
どちらからともなく手を離すとリックは自分の車に向かって歩いていく。その後ろ姿と並んで歩く亡霊はいない。
ダリルはリックの後ろ姿をじっくりと眺めてからエンジンをかけた。
それ以降、ダリルは亡霊の姿を一度も見なかった。
END