儘ならぬが浮世の常「明智は誠に目障りな男だのう。」
「お主もそう思うか?わしもじゃ、わしもじゃ。」
その聞き捨てならぬ言葉を信長が耳にしたのは己の館の中であった。部屋へ移動する途中、廊下で立ち話をしている家臣二人が十兵衛について話しているところへ出くわしたのだ。
曲がり角の向こう側では愚かな男たちが主君が近くにいることも知らずに十兵衛を悪し様に言っている。
「大人しく幕府の方の仕事をしておれば良いものを、こちらに出向いて彷徨かれては鬱陶しくて堪らぬ!織田家の者であるかのように大きな顔をしおって……とにかく目障りだ。」
「戦場にまで出張るものだから我らが手柄を立てる機会がない。幕臣であれば都に留まるべきであろうに。あれは慎みという言葉を知らぬのじゃろう。」
「全くだ。少々銃の腕が立つからといって調子に乗っておる!」
言いがかりも甚だしい主張に信長は呆れ返った。
十兵衛が織田家に出向くのは幕府との調整役としての務めがあるからだ。織田家と幕府の間を行き来して情報を共有する助けとなり、何か物事を押し進める際には双方にとって交渉の窓口になる。高い能力と人脈の広さがなければ役割を果たすのは難しく、十兵衛が最も適した人材であることは誰の目にも明らかだ。
そして、十兵衛が信長と共に戦うのも織田家と将軍が足並みを揃えていることの証。十兵衛は幕府の代表として戦っている。それさえも理解できぬとは愚の極みとしか言いようがない。
「うつけ者が家臣の中にいたとは」と信長が呆れと怒りの両方を抱いている最中にも男たちの会話は続く。
「明智が調子に乗るのは殿が贔屓なさるからだ。いくら帰蝶様の親戚だからといって領地まで与えることはなかろう!」
憤慨して話す者に同意する「その通り」という声が響いた。
「坂本には城が築かれるのだと聞いておる。家臣でもない者が城持ちとは……腹立たしいことこの上ない。殿が帰蝶様を大切にしておられることに付け入ったのではないか?」
「そうやもしれぬぞ。明智は取り入るのが得意だそうだからなぁ。気の小さい公方様にも優しい顔で近づいて気に入られるようにしたのであろう。」
「とても武士には見えぬ優男じゃからな、明智は。元僧侶の公方様にお似合いじゃ。」
そのように言って男たちは下卑た声で笑った。その声が余りにも耳障りなものだから顎を斬り落としてやりたくなる。
信長は腹の底がぐつぐつと煮え滾るような怒りが湧き出すのを感じた。十兵衛の能力も人柄も丸ごと無視して侮辱の言葉を吐き続ける者たちへの嫌悪が止まらない。今すぐに出ていって叩き斬ってやりたい。
(そうじゃ。愚か者どもを斬ろう)
そのように考えた途端に怒りが引いた。頭の中は冷静だ。信長は極めて冷静な頭で考えた結果、十兵衛を侮辱する家臣たちを斬ることに決めた。
信長が己の脇差に手を掛けた時、曲がり角の向こうから思いがけない者の声が聞こえてくる。
「私のことだけで終わっておけば良いものを、信長様についてまで言及なさるとは。ご両名の発言はご主君への侮辱になると思うが、それでよろしいのか?」
凛と響いたのは十兵衛の声だ。その厳しい声音に臆したのか、先ほどまで彼を罵っていた男たちは沈黙した。
「私のことは何とでも仰るが良い。しかしながら、信長様が私を贔屓しておられるという発言は見過ごせぬ。あの御方は実力と実績により正当に評価なさる。それは織田家の家臣の方々が最も理解しておられるはず。私の申すことは違うだろうか?」
「……いや、仰る通りだ。」
「そうであれば信長様が帰蝶様の親戚である私を贔屓しておられるなどと考えるべきではない。結果を出せば評価してくださる御方だ。偶然が重なり、私が特別に評価されているように見えただけのこと。それよりも己がどのように武功を立てるかということをお考えになった方が良い。では、失礼致す。」
こちらに向かって歩いてくる足音と共に「明智殿!」と男たちの焦った声が聞こえた。侮辱していた本人に話を聞かれていたことに焦る姿が思い浮かび、信長は思わず笑みを零す。
そして、角を曲がって現れた十兵衛がこちらを見て目を瞠った。
「信長様……!」
十兵衛の驚き混じりの声に続き、男たちの「殿⁉まさか!」という声も響いてきた。十兵衛に追い縋るように後ろを付いてきた二人の男は目を大きく見開き、その次には顔を青ざめさせる。
信長は愚か者たちを一瞥してから十兵衛に視線を投げた。
「十兵衛、付いて参れ。そなたに話がある。」
「はっ。」
十兵衛が軽く頭を下げるのを見てから信長は歩き出す。そうすると男たちが今にも息絶えそうな顔で脇に退いた。あの二人の処分については後で考えるとして、今は十兵衛と話をするのが先だ。
信長はどことなく気まずそうな十兵衛を従えて己の部屋に向かった。
*****
信長は部屋に到着すると小姓に命じて茶と菓子を持ってこさせた。この程度では詫びにもならぬが、誠意は見せなければならない。
十兵衛は自身の前に湯呑と菓子が並ぶと「お気遣い感謝致しまする」と頭を下げた。それを受けて信長は「そなたが頭を下げる必要はない」と首を横に振る。
「先ほどは我が家臣たちが無礼であった。愚か者どもに代わり謝罪致す。」
信長はそのように告げて頭を下げた。十兵衛が腹を立てている様子はないが、あれは許されることではない。
信長が頭を下げ続けていると「顔をお上げください」と十兵衛が慌てた。
「私は一向に気にしておりませぬ。信長様に謝罪していただくなど恐縮でございます。」
「そうか。わかった。」
十兵衛が望まぬならば頭を下げ続ける必要はない。そのように判断した信長は瞬時に顔を上げた。
信長が姿勢を戻したことに十兵衛は安堵したように息を吐き、小さく苦笑を浮かべる。
「私の方こそ謝罪せねばなりませぬ。ご家臣に説教めいたことを申してしまいました。」
「申して当然であろう。あやつらが愚かなのじゃ。十兵衛に対してあのような侮辱を……斬ってやろうと思うた。」
「それだけはどうか思い留まってくだされ。……あの程度のことは言われ慣れております。何とも思っておりませぬ故、信長様もお忘れください。」
それを聞き、信長は顔をしかめた。言われ慣れているということは今までにも十兵衛を侮辱する輩がいたということだ。それは見過ごせない。
「誰がそなたを侮辱した?名を申せ。」
知らず低くなる声に怒りが滲む。それを感じたのか、十兵衛は困ったように眉を下げた。
「織田家の方ではございませぬ。その……どうにも私は妬まれやすいようで。」
「どういうことじゃ?」
「幼き頃は皆より覚えが早い、飲み込みが早いということで妬まれました。斎藤家の後継ぎである高政様とは学友として親しかったため、それを面白く思わぬ者もおりました。道三様にお引き立ていただくようになってからは『明智家だから優遇されている』と陰口を叩かれたこともございます。道三様の御正室が明智家の出身ということで贔屓だと認識されていたようですな。」
「親父殿はそのような理由で贔屓をするような方ではあるまい。」
信長の見解に対して十兵衛は「左様でございます」と頷いた。
「それでも気に食わぬものは気に食わぬということでございましょう。妬まれること自体は好ましいものではありませぬが、私はそれを気にしておりませぬ。妬まれることを気にして縮こまりたくないのです。己が間違っていないのであれば誇りを持ち、堂々と胸を張りたい。そのように思うております。」
真っ直ぐな眼差しと共に放たれた言葉に感心はするものの、「その心持ちを貫くことができるのは十兵衛だけだろう」と思う。悪意に晒されようともぶれずに真っ直ぐ立ち続けることは難しい。己の根幹がしっかりしているからこそ堂々と胸を張っていられるのだ。
帰蝶によると十兵衛は周りから多くの愛情を注がれて育ったという。両親、叔父、明智家に仕える者、そして明智庄の民。十兵衛ほど周りから愛されて育った者は稀だと思うほどに彼は愛されて育った人間の匂いがする。周囲の者から溢れるほどに注がれた愛情は土台となって十兵衛の心を支えているのだろう。そのおかげで余程のことでなければ揺らがないのだ。
信長は十兵衛に向ける己の眼差しに羨望が混ざるのを自覚した。
「そなたの妬み嫉みを気にも留めぬ姿が周りの苛立ちを煽るのやもしれぬぞ。」
「さりとて気にする振りはできませぬ。私はそれほど器用ではありませぬ故。」
「それもそうじゃ。装ったところで何にもならぬ。──十兵衛はどこまでも十兵衛じゃな。」
最後の一言に十兵衛が首を傾げ、それを見た信長は小さく笑う。
嘘を吐けぬ十兵衛は自身を守るためであっても装うことはできないのだ。どれほど悪意をぶつけられようとも「些末なこと」と軽く払い、己の中に蓄積された愛情を誇りと自信に変えて真っ直ぐに立ち続ける。その姿が眩しく見える者もいれば腹立たしく思う者もいるだろう。それさえも十兵衛にとっては些末なことなのかもしれない。
考えれば考えるほどに十兵衛は気高き男だと思う。されども俗世では浮いてしまうような気がする。そのうち、世に見切りをつけて空へ昇ってしまいそうだ。
信長は時折、十兵衛の気高さを恐ろしく感じることがあった。常人にはない清廉さ、高潔さを持つ彼はこの世の者ではないように思える。不意に姿を消してしまわないかと不安になることがあった。
信長は気分を変えようと思い、自身の前に置かれた菓子を一つ手に取って口に放り込む。普段は美味しいと感じるものが今日は妙に甘ったるくて不快だ。これでは気分を変えようがない。
信長は気が晴れぬまま口の中の甘さを洗い流すように湯呑の茶を飲み、「やはり気に食わぬな」と吐き捨てた。
「十兵衛が気にせずともわしは気に食わぬ。そなたへの悪意に満ちた言葉はそなたの耳に届かぬ方が良い。対処しよう。」
穢れに塗れた言葉は気高き者から遠ざけるべきだ。そうすればこの世を疎んで去ってしまうこともない。
十兵衛は信長の発言に不安を抱いたのか、「対処とは?」と心配そうに眉を寄せた。それに対して信長は微笑みながら「案ずるな」と応じる。
「あの者たちには軽く灸を据えてやるだけじゃ。後は他の者たちによく言い聞かせる。十兵衛に関してくだらぬことを申せば容赦はせぬ、とな。」
そのように言っても十兵衛の表情は晴れなかった。憂いを顔に浮かべたまま「信長様」と呼びかけてくる。
「私を案じてくださるお気持ちは嬉しゅうございますが、織田家の家臣ではない私のためにこれ以上動くのは宜しくないかと。信長様に対して不満を抱く者が出てくる可能性がございます。先ほどの二名を叱る程度に留めていただきたく存じまする。」
言われたことに対して信長は眉根を寄せた。十兵衛が己の家臣ではないせいで彼のためにしてやれることに限りがあるというのが気に食わない。
「わしが十兵衛のために動いてはならぬのか?そなたは織田家のためにも動いてくれておる。それに報いるべきであろう。」
「そうであっても家臣であるかそうでないかの違いは大きいのです。境界線を越えてはなりませぬ。あの者たちを叱る際も私のことではなく信長様を侮辱したことについてお叱りください。お願いでございます。」
十兵衛はそのように告げると両手をついて頭を下げた。それを見つめる信長の中に不満が積もっていく。
十兵衛は将軍に仕えているのであって信長の家臣ではない。その事実が自分たちの間を明確に隔てることが歯がゆい。彼のために何かしてやりたいと思うのに、己の家臣ではないという理由によって阻まれることへの苛立ちが心の底に溜まっていく。それでも信長は食い下がりたい気持ちを堪えて「わかった」と頷いた。十兵衛の言うことであれば間違いはない。しつこくして困らせるのも嫌だった。
「十兵衛の申す通りにしよう。だが、何かあればわしに必ず知らせよ。隠すことは許さぬ。」
そのように返事をすると十兵衛が顔を上げて安堵の笑みを見せた。
「かたじけのうござりまする。信長様の意に添えず申し訳ございませぬ。」
「気にするな。もうこの話は終いにしよう。十兵衛、せっかくの茶と菓子が手付かずではないか。食べていけ。」
「はい。それでは馳走になります。」
十兵衛は軽く頭を下げてから菓子を丁寧な手つきで取り、ゆっくりと食べ始める。「これは美味でございますな」と顔をほころばせる十兵衛に笑みを返してから信長は残りの茶を口の中に流し込んだ。
「……苦いのう。」
ぽつりと呟いた一言は十兵衛には聞き取りづらかったらしく、不思議そうに「信長様?」と声をかけてきた。それに対して「独り言じゃ」と首を横に振る。
主従とは呼べない己と十兵衛の関係。それ故に存在する越えられない一線。改めて突きつけられた「十兵衛は自分のものではない」という現実。それらの全てが苦い。
しかし、主従関係であったとしても一人で堂々と立つ十兵衛には自分の手助けは必要とされないかもしれない。そのように考えると口の中の苦さが増した。
十兵衛が自分のものになって全てを蕩けるように甘く変えてくれたら良いのに、と信長は愚かなことを夢想した。
終