いのちを呼ぶ 大きな船の甲板の上を巨大な軟体生物——タコに似ているが胴体は小さく、ほぼ触手の塊のような姿である——の触腕がなぎ払った。大きな杭が宙を舞う。海中への逃走を封じるためその体に打ち付けていたものたちの最後の一本である。ずるり、と傷だらけの巨体が海へと向かうのを騎士たちが追った。
「ここで殺しきれ! 沈まれると面倒だ!」
槍が穿ち、剣が斬る。青い体液が飛び散る。巨大な海魔と戦う騎士たちのその中で一際目立つ黄金の髪。一見無謀にも見える切り込みぶりは獣のようで、その口元には攻撃的な笑みさえ浮かんでいた。
グンヒルドという名のその女騎士は海かつ魔物との戦闘であるため軽装で、常にも増して派手に立ち回っていた。無防備にも見えるその背は、仲間の騎士が的確に守っていた。
彼の名を、アルジャーノンという。アルジャーノンの手に持たれた大剣は物々しく、だが器用に取り回されては攻撃をいなし、防いでいた。物憂げな眼差しは、しかし、戦場をしっかりと見据えている。
とどめの一撃が海魔にくわえられ、巨体が大きくのたうち、暴れる。それに何人かの騎士が巻き込まれ海中へと叩き落とされ、その足掻きを最後に海魔は息絶えた。
騎士たちはすぐに船上へと引き上げられたが、グンヒルドは人数を確認して眉を寄せた。……一人足りない。
「……アルジャーノンはどうした!」
姿の見えない騎士の名を呼び、海面に身を乗り出し目を凝らす。今回の任務はある程度泳ぎの達者な人員しか来ていないし、甲板の上へ咄嗟に投げたとおぼしき剣が落ちていることから持ち物に引っ張られて沈んだとも考えにくい。グンヒルドは上着を脱ぐと手近にいた騎士から短剣を奪い取った。
「医術の心得がある人間を呼んでこい!」
そしてそう言い捨ててから短剣を口にくわえると、返事を聞くより先に海へと飛び込んだ。
……水は冷たく、肺を締め上げる。幸い水の透明度は高く、細かな泡を辿るまでもなく探しものは見付かった。
分厚い水の壁の向こうで揺れる人影は何かに足を取られているようだった。身をよじり、それを引き剥がそうとしているようだったが、人間は水中で不自由なく動けるように作られてはいない。その動作は陸上に比べて鈍かった。
その人影の——つまるところはアルジャーノンの——もとへ泳いで辿り着いたグンヒルドは相手の状況を把握すると、口にくわえていた短剣を手に持ちかえた。
アルジャーノンの足になにかが絡み付いている。……水霊である。本来温厚で臆病な水に棲む精霊の一種が、戦闘や血の影響を受け狂乱してしまったようだった。細く半透明の触腕に似た器官が彼の足をきつく締め付け、海底へと引きずり込もうとしている。
水霊を足から引き剥がすべくグンヒルドも手を貸し、二人がかりで少しずつ触腕を取り除いていく。奮闘の末ようやくアルジャーノンから離れた水霊はゆっくりと海底へ消えていった。
だが、ついに息が続かなくなったらしく、大きな泡を吐き出したあとアルジャーノンの体が弛緩する。長い髪が潮の流れにゆらめく様は一瞬、なにか神聖な絵画のように見えた。流されていきそうになるその体を捕まえ、グンヒルドは海面へ向かうべく水を蹴った。
……船上へ引き上げられてすぐにグンヒルドはアルジャーノンの状態を確認した。呼吸が止まっていることに気付いた瞬間、横たわる相手の顎を持ち上げ空気の通り道を確保し、躊躇することなくその唇を唇で覆うように口付け息を吹き込んだ。金色の髪が重たいカーテンのように顔を隠す。
死人のように青ざめたアルジャーノンの頬を濡らす海水は涙に似ている。生命の気配はかすかにしか感じられず、グンヒルドは指先が痺れるような心地になりながらも処置は止めなかった。口付けに似た所作には甘さなどなく、ただ生命を呼び戻すための切実さだけがある。
しばらく続けているとさすがにグンヒルドにも疲労が見え始め、騎士の一人がその側に屈んで声をかけた。
「グンヒルド、代われ」
「頼む」
息を荒らげながらグンヒルドがその場を退こうとした瞬間、ひゅ、と誰かが息をする音が聞こえ、次いで激しく咳き込む音がした。
グンヒルドが慌ててそちらを見ると、まだ意識は取り戻していないながらもアルジャーノンが静かに呼吸をしていた。周囲から安堵の溜め息がいくつも零れ、グンヒルドの背を他の騎士が叩く。
もう、指先の痺れは消えていた。