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    希望の標は我が内に少女は白い木に座っていた。筒状に焼き上げられた黒い粘土に注がれた泥水を、緩やかに銀の枝でかき回している。
    いや確か、この奇妙な泥水はコーヒーとか言う名前だった。そして白い木は彼女の言葉で椅子と呼び、黒い粘土はマグカップという名前のはずだ。銀の枝は、匙、時々、スプーン。沈黙の葉を裏返しながら記憶を探る私の前で、少女は淡々と言葉を発する。

    「私ね、ヒーローになりたかったんだよ」

    コーヒーの水面が渦を巻いて揺れる。彼女の灰白のウテヘミカ、ああそうだカミ、髪が、メガネという丸い二つの水晶に、笹の葉擦れの音を帯びてかかる。
    メガネ。視力を助けるもの。ヒーロー。彼女の亜種、いや人間はそれを亜種とは呼ばない、異国のさざめきで、同胞を助けるものを意味する言葉。声が煤けた灰に揺らぎ、私の記憶も葉脈に透ける。ここに来てからも、彼女は迷い込んだ若芽のような生き物たちを、あるべき場所へ帰していた。数多の綿毛を緑野へ運ぶ、淡黄のそよ風のように。

    「人が倒れているのを見向きもしないような、笑いながら通り抜けていくような人たちが許せなかった。愕然とした。私は何度も助けたけど、助けた人の中からでさえ、自分より弱い人間を踏みにじる者がいた。普段は私の友として、朗らかに笑っているのに。自分の振る舞いによって、弱い誰かが傷つくところを見るのが、たまらなく楽しいことがあるんだって」

    彼女の声はどこまでも平坦だった。二つの水晶の向こうに、黒百合色の瞳は見えない。ただただ、茜射す彼岸花の群れが揺れている。

    「でも許せないからってその人たちが生きていちゃ駄目なわけじゃない。私だって、誰かから許されなくても生きているんだから。ミサイルで世界を爆破とか、まあ出来たら爽快だったかもしれないけど、ただそれだけだし」

    コーヒーから立ち上る湯気が、山河へ立ち渡る霧のように、メガネを曇らせる。水面に渦巻く匙は、記憶の彼方を駆る銀の櫂。言葉の白船に乗った少女は、ふと奈落の底へと声を低めた。

    「そう、人の心が壊れやすいんじゃない。いつだって壊れやすいのは、人の善性だった。あんなに万民にとって尊いものと謳いながら、惰性に蝕まれたら平気で放り出す。そして心自体は貪欲だから。善性はあっけなく崩れても、悪意とか欲望とかが、みるみるうちに心を立て直す」

    水晶に刻まれた、彼岸花の首が折れる。船の舳先は澪標(みおつくし)へとぶつかり、少女の足場は罅割れる。

    「まるで、新たな種へ進化を遂げようとするように」

    彼女は目を閉じた。声が出ない。出せない。今更人間を真似た音がこの身から出たところで、何も言葉が届けられないのはわかっていた。私はただ、彼女の冷たい頬に触手を添える。水晶の奥で、閉ざされた黒百合が小さく微笑んだ。

    「ねえ、前にあなたは話してくれたよね。種とは命の分かれ目。もとは一つのもの。数多の種それぞれの命の形が異なるのではなく、一つの命を、種がそれぞれ異なる形で持っているのだと。だからこそ、どんなに進化を重ねても。私たちが遺伝子と呼ぶものに、種が違っても重なり合うものがあるんだって」

    私は彼女の声に心を傾ける。どこか遠くで炎の爆ぜる音がした。涼やかな秋風が、私と彼女の間を吹き抜けていく。

    「あの言葉は、とても救いだったよ。わからないことが沢山あっても、一緒にいてくれて嬉しかった。だからこそ。あなたと同じものが、私のどこかにあるかもしれないと思えたのは、同じくらい嬉しかった」

    いつのまにか、コーヒーの上を漂っていた湯気は消えていた。少女は深く息を吸う。そうしてこちらを見た瞳は、夜霧に微睡む曼珠沙華ではなく、朝焼けに身を立つ黒百合だった。

    「恐竜は、あなたたちの言葉で言うディオギュロスは、最後は共食いをして絶滅した。でももしも、人間にとって最善の滅亡というものがあるなら。共食いをしないこと。同胞を踏みにじらないこと。私たちは、そういう進化をしてきた種だから。旧人類種の、私たちは。そしてもう、旧人類種で生き残っているのは、今はもう私だけ」

    ふいに彼女の顔が僅かに歪む。泥水に浸された根の傷口から血が流れ出るように。小さく、本当に小さく、肩を震わせながら一言だけ、呟く。

    「選ばれないって、惨めだなあ……」

    先ほどより近くで、硝子窓の割れる音が響く。彼女の背後で壁が軋む。だが一拍間を置いた彼女は、晴れやかに言い放った。

    「でも、惨めでも。私は生きた。幸福だとは言えなかったけれど。私の生には、確かに幸福と同じくらいの価値があった」

    傷だらけの華奢な手が、マグカップの取手を掴む。彼女は一息にコーヒーを飲み干し、静かにそれを机の上に置いた。白木の木目に響く硬質な音とは裏腹に、柔らかな彼女の声が震える触手を伝っていく。

    「旧人類種は、これでお終い。種は命に還り、命は次の進化を始める」

    彼女はこちらへと手を伸ばした。あの時の、廃棄場の萎れた花束を前に垂れ下がっていた手ではない。木漏れ日の下で共に過ごした時の、春の陽射しと同じくらいに温かだったあの手のひらを思い出す。

    「さようなら、ミオソチス。かつて人と分たれた、太古の民の生き残り。これをあなたが見ている頃には、私はもういないと思うけれど。あなたと過ごした日々は、確かに私の、一番美しいものだった」

    私は彼女を見つめた。そして、微笑む彼女が映し出された鋼鉄製の板を、苔むした机の残骸の上に置く。辺りには何もない。誰もいない。どこかで小鳥が囀り、白露の響きを乗せた秋風は、ススキの銀の穂先を穏やかに揺らしている。
    崩落した白壁から見える世界は、あまりに静かだ。何千回と目にした最期の彼女の姿と、酷く剥離している。まるで、この光景こそが繭の内の精緻な幻のように。
    ああ、そうだ。彼女、ではない。アヤメ。アヤメ。アヤメ。アヤメ。アヤメ。私が千年の眠りにつく前に出会い、時を交わし、同じ陽を浴びた人間の少女。今はもういない、人間の少女。我が命の、異なる標を辿った同胞。彼女の名は、アヤメだ。

    ミオソチス。かつてそう呼ばれた異形は、自らの体を強く抱きしめた。
    ほるん Link Message Mute
    2022/06/27 8:03:24

    希望の標は我が内に

    #人外  #オリジナル  #創作  #少女

    人外×少女です。

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