2月の夢【2月1日】
ぬいぐるみが五つ並べられてる。
それらの隙間に、均等に別れるようにぬいぐるみを投げ入れようとしている。輪投げのような感覚だが、存外難しい。
これを終わらせなければ、この部屋から出られないというのに。ぬいぐるみ同士がぶつかっては、その度にやり直しになる。
そういえば、先程よりもぬいぐるみの数が増えている気がする。
本当に、部屋から出ることは出来るのだろうか。
またぬいぐるみがぶつかった。
【2月2日】
休校なのに、間違えて学校に来てしまった。
帰ろうとしたが、一番近い教室に人影が見えた。自分のように、間違えて登校した人だろうか。
廊下から教室を覗くと、四人の人間らしきものがいた。
一人は手足が真っ黒になっていて、既に何かに堕ちているようだった。もう一人はまだ正常な人間のように見える。
残りの二人は、一目見た瞬間に、もう取り返しがつかない状態にあると理解できた。
彼らは海と、海の中にいる神を信仰してるようだった。手足の真っ黒な人が、神の名前らしきものを繰り返し呼んでいるのが聞こえた。
教卓に置かれた古びた射影機が、黒板に何かを映し出している。目を凝らすと、それが海の中の様子であることに気がついた。
海の中で、小さな魚が、大きな魚に噛み殺されている。魚が口を動かす度、人間の骨を砕くような音が立て続けに響いた。教室の中の人々が歓喜の声を上げた。
異様な光景に呆然としていたせいで、気がつくのが遅れた。手足の真っ黒な人が、すぐ隣に立っていた。
口からは何かの言葉を呟いていたが、先程と違って理解の出来ない言語へと変わっていた。まるで、逆再生したかのような言葉だと思った。
教室の中では、取り返しのつかない人たちの頭部が小さくなったり大きくなったりしていた。
弾かれたように逃げ出した。走っている内に、校門の外に出た。幸いにも、追ってきてはいないようだった。
外から見た教室には、もう何の影もなかった。
【2月3日】
歯茎がぐるっとひっくり返って、歯が取れてしまった。
落ちてしまった歯を拾い集めた。それを手のひらに乗せて、病院に連れて行ってくれと両親に頼んだ。歯茎がおかしな形になってしまっているので、ほとんどの言葉が思い通りに発音出来なかった。
両親は酷く嫌そうな顔をして、歯の乗った手のひらの上に、数枚の一万円札を置いて、どこかへ行ってしまった。
さて、どこの病院へ行くべきだろうか。
上手く閉じない口でため息をついた。
【2月4日】
片付けをしていると、昔の恋人から貰った指輪が出てきた。今では、良い思い出よりも嫌な思い出ばかり思い出すようになってしまった相手である。指輪を見て、仄暗い感情がどろりと溢れてきた。
こんなもの、捨ててしまおう。窓を開けて大きく振りかぶった。ああ、もったいないな。静かに腕を下ろした。
指輪のひとつも捨てられない自分が惨めで、嗤ってしまった。
【2月5日】
駅の一室に立てこもっていた。
ドアとか天井の隙間から、真っ黒な生き物たちが入り込んでこもうとしてくる。エアガンで撃てば消し飛ぶ程度の弱さではあったが、それでも数が多いものだから厄介だ。
外は既にパンデミック状態だった。
室内には、一緒に避難してる人達が数人いた。しかし、そのほとんどが学生で、まともに戦えるのは自分しかいなかった。
彼らを無事に親元へ帰そうと決意して、引き金を引く。不思議なことに、使っていたエアガンは一度も弾切れを起こすことはなかった。
救助が来るのはいつだろう。
深呼吸をして、また化け物を撃った。
【2月6日】
放課後、妹のクラスに入り浸っていた。妹の前の席に座って、二人で話しながら一緒に絵を描く。妹はひとしきり落書きをしきったプリントを見せて、
これ、今日配られたばっかりなんだよね、と言った。帰ったら母に怒られるだろうなと苦笑した。
雑談している内に、あっという間に夕方になっていた。先生が来たけれど、気をつけて帰りなさいと言うだけで、叱られはしなかった。
ずっとこうであってほしかった。そんな気持ちがふわりと現れて、霧散した。
妹は別の友達と帰るらしい。下駄箱と妹と別れて一人で校門に向かうと、友人がこちらに手を振っていた。
ランドセルをガタガタと鳴らしながら駆け寄る。どうやら迎えに来てくれたらしい。
こんなこと、いつぶりだろう。浮き足立つ心のまま、手を繋いで歩いた。
日が落ちて、街頭が付き始めた。
いつの間にか視界が高くなって、ランドセルはリュックへと様変わりしていた。
魔法が解けたようだ。
「ありがとう」
繋いだままだった手を強く握ると、同じように握り返してくれた。
家の方角で星が瞬いていた。
【2月7日】
目の前で行ってしまった電車を見送る。
案の定遅刻だ。昼間からの補習に参加する予定だったのだが、次の電車では間に合わないだろう。
大人しく帰ろうか。
いや、遅れるなら遊んでも問題ないだろう。生憎、生まれたっての不真面目である。早々と気分を切り替えて、ショッピングモールに向かう計画を意気揚々と立てる。幸い、財布の中身には余裕がある。
制服の上から着たコートのポケットに手を突っ込んで、気もそぞろに歩き始めた。
【2月8日】
ホテルに宿泊することになった。
親に呼ばれるまで、よくある備え付けのゲームコーナーを見て回る。こういう場所には、そこいらでは遊ぶことができないような、昔のバージョンのゲームが置いてあったりするのだ。宝探しをしているような浮ついた気持ちになっていた。
片隅の方まで来て、自分がよく遊んでいる音楽ゲームの旧筐体を見つけた。噂には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。感動で言葉を失ってしまった。
【2月9日】
見知らぬ車に揺られながら、道の脇に積み上げられた雪を見つめている。
私達の住む土地は、雪とはあまり縁がない場所である。こんなに降り積もった雪を見たのはいつぶりだったろうか。
運転手のおじさんが、ゆったりとした速度で車を走らせる。これはアトラクションか、観光の為の車か、なんだったろう。一番後ろの座席で、イヤホンから流れる音楽に身を任せながら考える。
積もりに積もった雪とは対照的に、雲一つない空が綺麗だった。太陽を反射した雪が眩しく輝く様は、さぞ写真映えするだろう。
山頂に辿り着いた。ガードレールの張られていないそこからは、眼下の海と小さな島を一眸できた。
弟達が元気よく飛び出して行く。私は音楽プレーヤーを置いて、スマホを手に取った。
落ちないように気をつけてと注意して、自分は海の上の島を見下ろす。
山吹色の着物の女性達が、何かを舞っているのが見える。仙女のようだった。雪の上に足跡を残しながら、クルクルと同じ動作を繰り返している。
すぐに見飽きてしまって、戻ろうと振り返る。
崖の際に居た弟が、足を滑らせたのが目に映った。
走るより先に咄嗟に目を閉じた。弟の滑り落ちそうな位置を瞼の裏に浮かべて、目を開いた。その瞬間、私は弟の傍へと移動していた。自分がなぜこんな力を使えるのか、自分自身でも余り理解できてはいなかった。
「さっき気をつけろって言っただろうが!」
弟を抱きとめて叫んだ。落としかけたゲーム機もしっかり捕まえる。
何が起こったかは分からないけれど、弟を助けられた。それだけで十分だった。
腕の中の弟を抱きしめた。
【2月10日】
黄昏時の教室で一人、死んでしまった妹に思いを馳せていた。
どうして死んでしまったのだろうか。誰かに刺されたのだったか。それすらも思い出せない。強烈で、心臓の奥を抉るような出来事のはずなのに、死んだという事実以外分からない。
行儀悪く机の上に座って、地につかない足をぶらつかせる。
突然、ガラガラという音がした。二人の女子生徒が、小さな女の子を連れて駆け込んできたのである。三人とも息を切らして、肩で息をしている。
「どうしたの」
「あのね、聞いてほしいの!やっと全部分かったから」
何を見つけたのだろう。尋ねようとした私を遮るように彼女が言葉を放った。
「あなたが生きていないって……五年前に死んだってこと」
何を、言ってるの?
「私のお姉ちゃんがギリギリ知ってたんだよね。聞いてみたら、大当たりだった」
「この子、あなたの妹さんだよ!大きくなったでしょう」
私が知っている彼女よりも、少し背が伸びていて、大人びている。彼女が一歩踏み出した。
「本当に、いた」
「どうして……ねぇ、怪我はない?生きているの?」
「う、うん」
机から飛び降りて、勢いよく抱きしめる。そうか、生きてるのか!良かった。本当に良かった。
「そっか、安心したよ」
安心したけれど、私はまだ、死んで
目の前の情景がぐるりと変わった。
橙色に照らし出されるむき出しの柱が立ち並ぶ廃墟に立っていた。目の前には男が立っている。後ろを見れば足場が抜け落ちていた。
「わかっただろう」
後ずさるが、逃げ場は無い。
「私は……まだ、まだ生きてる。死んでなんか」
ない、と言いきろうとした瞬間だった。頭の中に、映像がなだれ込んできた。
帰る準備をして、自転車の鍵を取り出して、誰かに話しかけられて、振り向いて、それで、腹に。
包丁が突き刺さって、熱くなって、倒れたんだ。
今みたいに。
崩れ落ちる私を、包丁を持った男が見下ろしていた。
【2月11日】
近所の小規模なショッピングモールがリニューアルオープンするらしい。
ポストに投函されていたチラシを妹と二人で眺める。主軸であったスーパーマーケットが二階建てになり、そこにレンタルビデオ店や中古書店が入るようだ。
この学校区から本屋が消えて久しい。これで好きな漫画の新作をすぐに買いに行けると妹が喜んでいた。
【2月12日】
デパートの中で鬼ごっこをしていた。
最上階に誂えられた自室がスタート地点だった。無人のデパートに響く鬼のカウントダウンの声を聞きながら、少しでも見つからない場所を探す。
一回のゲーム時間は約五分半。それを超えるとタイムオーバーになる。
短い時間だが、何度も繰り返す内に疲労が溜まっていく。最初こそ逃げ切れていたものの、気付けば捕まる回数の方が多くなっていた。
仕舞いには最後まで逃げ切ることは一度も無くなっていた。
それがどうしても悔しくて、ゲームに参加するのをやめた。誰も引き止めなかった。それも不愉快で、足元にあった空き缶を蹴り飛ばした。
【2月13日】
父親に、今までの鬱憤を全部ぶちまけた。
子どもの人生をボロボロにしてどんな気持ちなんだ?
責任を取ってくれよ。
私の人生を、返してくれ。
そんな言葉を、衝動に突き動かされるままに突き刺した。
父親は驚いたような顔をしていたが、次第に苦しそうな表情になった。お前にそんな顔をする資格なんてないと苛立った。
もう一度口を開こうとした途端、父親の大きな両手が伸びてきて、私の首を絞めた。抵抗はしなかった。苦しくもなかった。
意識が遠のいた。
【2月14日】
ひとり、電車に乗っている。ぼんやりしながら数駅間、車窓を眺めていた。最寄り駅が近づいてくる頃だと、降りる準備を始めた時だった。
電車が停まった。外を見ると、全てが真っ黒な駅があった。見慣れた最寄り駅の姿とは似ても似つかない。妙な不安感に襲われる。
ぴろり、と音がした。私のスマートフォンに、緑色の通知が届いている。祖父が亡くなったという報せだった。突然の心不全だという。
電車が走り始めた。見慣れた最寄り駅が見えた。
祖父のいる病院へ駆け込んだ。祖父の手に触れた。柔らかいのに、熱を失ってしまった皮膚の感触が現実を突きつけてくる。以前、祖母が亡くなった際に一度も触れずに後悔していた。
触れることができたからだろうか。あの時のほどの後悔はない。けれど、確かな喪失感があった。
【2月15日】
泥だらけにされた靴下が、雨の降る校庭に転がっている。私の物ではない。確か、友人の物だ。
彼女はここ最近、複数人から疎まれていた。恐らく、これも嫌がらせの一巻なのだろう。彼女の才能と努力から生まれた作品は、多くの人を虜にしていた。私も魅了された一人だった。だからといって、こんなのはあんまりだ。
両手が汚れるのも厭わず、拾い上げる。悔しくなって、手にした靴下を強く握った。本人に知らせるのは気が引ける。どうするべきだろうか。
誰かに呼ばれた気がして振り向いた。
視界が飛んだ。
気がつけば自室の布団に寝転がっていた。外は薄暗い。東の空が白んでいるのが窓から見える。今まで何をしていたのかが思い出せない。
突然、扉が勢いよく開いた。飛び込んできた彼女は、友人が居なくなってしまったと告げる。
先程の、あの靴下の持ち主がいなくなったのだと。
飛び起きて、全ての部屋を調べた。もちろん、見つかることは無い。妙な胸騒ぎがする。
もう一度自室に戻ってきたとき、甲高い悲鳴を聞いた。はやる心臓を抑えて、窓際で立ち尽くす彼女の元へ歩み寄る。
窓から顔を出して、下を覗く。
血溜まりと、おかしな方向に曲がった左足が見えた。
友人だった。
【2月16日】
インターネットで自分の情報をばらまかれていた。
SNSの過去の投稿や本名、別名義での活動、果ては顔写真まで、全てを書き連ねた記事が拡散されている。
見知らぬ人々から罵詈雑言を投げつけられる。見知らぬ番号からの電話は鳴り止まない。スマートフォンの電源を切って、電話線を引き抜いた。
すると、今度はインターホンが鳴り始めた。全ての電気を消して、カーテンを閉め切って、布団に潜り込んだ。
きっかけも理由も分からないまま、遠くから聞こえる怒声に耳を塞いだ。
【2月17日】
これは夢だと気がついたのは、化け物に追いかけられている最中だった。
背後から追いかけてきている化け物は、バラバラになった人間達を無理やり繋げたかのような見た目をしている。
思いのほか足が早く、このままでは捕まってしまいそうだった。近くに見えた公園に逃げ込んで、滑り台を駆け登った。あの太さなら、細い階段を登れないと思った。
しかし、化け物の手がボコボコと膨らんで、そのコブから不格好な手が何本も生えてきた。
早く、早く起きないと。頼むから目を覚ましてくれ。
必死に祈る自分の足首を、どろどろの手が掴んだ。
その瞬間、意識が浮上した。
【2月18日】
美術の授業を受けていた。
自分の好きな曲をイメージして、絵を描くという題材だった。目の前の絵の具セットを見てため息をついた。
絵の具は嫌いだ。どう混ぜたって満足な色が作れないし、不器用なせいで絵筆だって上手く使えない。出来るのならば、こんな授業なんて放り出してしまいたい。
それでも何とか完成まで漕ぎ着ける。出来上がった絵に布を被せる。目にも入れたくない。あまりにも酷い出来栄えだった。
他のクラスメイトも、既に描き終えたようだった。お互いの絵を見合って笑ったり褒めあったりしているのが聞こえる。
その様子を見ていた教師が口を開いた。
「では、その絵に描いてあることを先生が叶えてあげます」
歓声と悲鳴で部屋が揺れた。
心臓がバクバクと大きな音を立てている。
誰からも忘れ去られて消えてしまいたいと歌う曲をモチーフにしたのが、仇になるとは思わなかった。
あの教師の言うことが本当ならば、私も消え去ってしまうのだろう。
周囲を見回せば、喜びに顔をほころばせる人達に混じって、顔を歪ませている人達がちらほらと見える。仲間がいることに対して、こんな状況ながらも安堵してしまう。
でも、消えたくない。
衝動的に走り出した。隣の準備室へ飛び込む。いつの間にか、体中に紙切れが貼り付けられていた。レッテルのように思えた。
「あと5秒!」
キャンバスの間を縫うように走る。
4。
惨めな最期なんて誰にも見られたくない。
3。
紙切れが体を覆い尽くしていく。
2。
地面に伏せて、祈る。
1。
紙の貼られてない手先が、最後に見えた色彩だった。
「時間です!」
歓声。
【2月19日】
車に乗って家に帰っていた。
自宅まであと半分といったところで、山道に打ち捨てられた一軒の家を見つけた。この家にとても惹かれると言って、運転していた母と、助手席に乗っていた祖父が車を降りようとした。
その様子が何か異様に感じた私は、無理やり二人を車に押し込んだ。二人は大袈裟だと笑いながら車を発進させた。
安堵の溜め息を漏らして、ふらりと家の方を振り返った。
人間を無理やり引き伸ばしてねじ曲げて、黒いペンキをぶちまけたような人物が笑っていた。
【2月20日】
布団にくるまって眠ろうとしていた。
突然、後ろから誰かに強く抱きしめられた。知っている人物なのだが、何か、そこに混ざり込んでいる感情が嫌で嫌で堪らなかった。はっきりと言葉にはできない不快な感情を、直接浴びせられたような感覚だった。
相手をしてはいけないと理解して、布団に潜り込んで蹲った。外から吐息が聞こえる。上手く息ができない。苦しくなって呻いていると、布団の外の気配が消えた。
それでも動悸は収まらない。胸を抑えて落ち着こうとした瞬間、誰かが布団越しにトントンと背中を擦ってくれた。
「大丈夫、俺が居る」
それだけが聞こえた。身体が次第に軽くなって、息ができるようになった。布団の外にいる誰かは、ずっとそばに居てくれるようだった。
心地よさに身を任せて、ようやく眠りについた。
【2月21日】
様々な種族の化け物が、人間を洗脳しようとしていた。
彼らは人間を駒にして戦争をしていた。駒が多ければ多いほど、戦争では有利なものである。どの種族も人間を捕まえることに躍起になっていた。
どこに逃げ隠れても、すぐにどこかの種族に捕まってしまう。逃げ場など無かった。
私が捕まったのは、化け物たちの中でも特段優秀だと言われる種族だった。
彼らは髪のような、糸のようなものを人間の頭に突き刺すだけで常識を破壊し、改変することができた。
何人もの人間が目の前で壊されるのを見ていた。壊された後の人間達は、それ以前と何の変化も無いように見えた。それが不気味だった。
半ば諦めたような気持ちで、自分の番を迎えた。頭に糸が突き刺さった。痛みも恐怖も無かった。
気付けば洗脳作業は済んでいた。
何が変化したのかは自分では理解出来なかった。
しかし、痛みも何もなしに洗脳できる技術を持つ彼らは凄い種族なのだと思った。
【2月22日】
とある有名人が特別講師として学校に訪れていた。
かく言う私も彼のファンであり、いつも配信を見ている一人だ。当日になって初めて知らされたサプライズに、内心とてもわくわくしていた。
教師の言葉を皮切りに彼が教室内に入ってきた。途端に生徒たちは色めきたった。
声こそ上げなかったが、初めて見る本物の彼の姿に心臓が悲鳴をあげていた。
彼が先生と呼ばれている。なんとか先生、なんとか先生と。一生聞かないはずだった言葉だ。
何やら講義が始まったが、先生と呼ばれる彼がなんだかおかしくて、全く集中出来なかった。
【2月23日】
スーパーで惣菜を選んでいると、レジの方で複数人の悲鳴が上がった。
何事だろうと棚に身を隠しつつ様子を伺うと、武装した男達が見えた。立てこもろうとしてるようだ。
いち早く気がつくことができた私は、近くにいた同い年くらいの子ども達に声をかけた。そして、客を避難させてもらった。
犯人達は一人しか人質を取れなかったようだ。安全な位置から説得を試みたが、投降するつもりはなさそうだった。
どうすれば、人質を無事に解放させられるだろう。
そうだ。戦況を逆転させてしまえばいいのだ。
なぜだか分からないが、私にはそれが出来ると思った。
手をかざしてありったけの力を込める。彼らの持っている武器を全て消し去ってしまえと願う。
すると、銃や爆弾はすっかり消え去ってしまった。更に、イメージで出来た縄を具現化させて、慌てる男達を拘束する。人質は無事に走って逃げてくれた。
遠くからパトカーの音が聞こえてきた。
そこでようやく、どうやってこの状態にしたのかと尋ねられたら面倒だと気がついた。
喚く男たちをダメ押しの魔法で眠らせて、警察が乗り込んでくる前にスーパーの裏口から飛び出した。
少しだけ愉快な気持ちで走り抜けた。
【2月24日】
登校中、飲み物を持ってくるのを忘れたことに気がついた。
仕方なく、近くにあった自動販売機に小銭を入れた。
お気に入りの炭酸飲料のボタンを押すのだが、なぜか見たこともない黒い液体の入ったペットボトルばかりが出てくる。何度押し直しても、出てくるのは黒い液体ばかりだった。
しまいには、ボタンを押していないのにペットボトルが出てくるようになった。断続的に響く、ペットボトルの落ちるガコンという音が酷く不気味に思えた。
しばらく立ち尽くしたまま、止まることのない自動販売機を眺めていた。
ふと、取り出し口から溢れてきたペットボトルが、靴の先にぶつかった。その途端、ハッと正気に返った。逃げるようにその場から立ち去った。
遠くで、ガコン、ガコンという音が鳴り続けていた。
【2月25日】
世界を壊してしまった。
何か、人ではないものから追われ続けていて、それを振り切ろうとした果ての出来事だった。無理やりに壁抜けをしたり、無いはずの建物を創ったり、挙句時間を戻したりして難を逃れようとしたのが悪かったのか。
気づけば、怪物も人々も建物も、全てが無くなってしまっていた。
全て、また1からやり直しになってしまった。
赤ん坊に戻ってしまった弟を抱き上げた。取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感に打ちのめされる。
小さな指が、傷だらけの私の指をぎゅっと握りしめた。
ボロボロと涙がこぼれた。
【2月26日】
「この世界は決められたシナリオの上に成り立っている。そして、シナリオ通りにいけば、地球は滅ぼされてしまう。僕らはそのシナリオを変える役割に選ばれたんだよ」
そう語るのは、隣を歩く少年だ。ごく普通の、どこにでもいるような出で立ちをした少年は、世界を救うためにと、どこかの機関から派遣されてきたらしい。
しかし、買ってやったばかりのアイスをくわえながらそんなことを言われたところで、信じる気にはなれない。そんな私の気も知らず、少年は続ける。
「もし滅ぼされても、地球はもう一度巻きもどるんだ。役割に選ばれた人間のデータ以外は、完全にリセットされてしまう」
巻き戻った後の人々は記憶がリセットされるらしい。
「だから、次からは僕と一緒に覚えててほしいんだ」
少年は平然と言った。
世界が滅びるのが初めてではなかったことを、その言葉でようやく理解した。
【2月27日】
とある街では、秘密の儀式が行われている。ネットで聞きかじった都市伝説を思い出していた。
儀式を見てしまった街の外部の人は生贄に選ばれて、目がなくなったり、体が刻まれたりする幻覚を見始める。映像で見ても同じことが起きる。だから、絶対に見てはならないのだと。
そんな眉唾物の噂を思い出したのは、まさに目の前で儀式が行われているからであった。
戦争が始まって、逃げ込んだ先が偶然にもその街だったらしい。見知らぬ男性に捕まって、錠剤を飲まされて気を失った。そして、目を覚ますと、目の前で儀式が執り行われていたのだ。
儀式を見てしまったということは、次の生贄は私なのだろう。
右目がどろりと溶け出した。
【2月28日】
生贄を選ぶらしい。
大人達が、これは名誉なことなのだと口を揃えて言っていた。何の為の生贄なのか、何が生贄を欲しているのかは誰も教えてくれなかった。
走り回って情報を集めようとしていると、不自然な人だかりが見えた。なぜ大人達が集まっているのか、その原因は遠目からでも見ることができた。
ピンク色の派手な髪をした少女に、真っ黒な煙のようなものがまとわりついている。少女は境内の中心でぐるぐると円を描くように歩いていたが、突然姿が見えなくなった。
雨が降り始めた。大人達が歓声を上げた。狂ったように笑っていた。そこからはもう、祭りのようになっていった。
誰一人として、少女を助けようとする人は居なかった。
いても立っても居られず、辺りを見回す。すると、神社の裏の祠に、不自然な十字架が置かれているのを見つけた。朽ちかけた木で作られたお粗末な物だったが、これが何かに関わっているような気がした。
十字架を手に取って、両手で押し潰した。
すると、祠の隣に先程の少女が現れた。呆然としているが、自我はしっかりとあるようだ。
大人たちに見つかる前にと、手を取って走り出した。
雨が止んだ。